よすがの窓

在り来たりな夏の回想(2019.08.31)

Glas

 南向きの窓から、レースを通して光が射した。カーテンを閉めずに眠ってしまったらしい。身体を起こすと、見えるものや考えるものすべてがぼやけているように思えたが、寒さが鋭く肌を刺すように痛む。それで目を醒ましたのだ。真冬の朝だった。外は晴れ渡るほど冷えてゆき、白く霞んだ部屋のベッドに座っている。今日は休日か、それとも授業があっただろうか。生活はもうすぐ、取り返しがつかなくなるかもしれない。でも、この朝でないのなら明日、気が変わるだろう。
 去りにし夏と、ある夢のことを思い出していた。決して現在として生きられることの無かった過去の胎内で、彼女は、アヤメという少女は話をしている。夢のなかで継起した物語と彼女の姿は、まだその輪郭を保ったままでいた。いつ霧散してしまうかも分からないその感触が残っていることに、今日も安心してしまう。
 彼女は死んだ。
 ベッドで血を流したあの夜のように、今ここにアヤメがいたなら。きっと誰もが当たり前の顔をして、一生気づかないまま幸せな勘違いを続けるように、愛情の錯覚を見ることができたのだろう。そんなやり方でも生きていけたなら、それでよかっただろうか?
 彼女はそれを許さなかったかもしれない。倫理的な正しさを信じたからではない。ただの潔癖でも済まされない。彼女はほとんど強迫的に、その情態性を統べる傷のなかを、トラウマのなかを、生きるしかなかったのだから。
 思考の範疇を超え、現実のすべてに染み出してきた不安がいま視界を満たしていた。窓から伸びる明かりの濃淡のうえを滑り、その光源に目を向けたとき、救いを乞うように、あるいはただ慕わしく響くその声だけでもと、あの夢のことを思い出していた。

Slow Glass

(1)

 風が少し冷たく感じられたのは、肌が湿っていたからだろう。心地良い涼しさに目を醒まして、肩に寄り掛かる頭を見つける。この季節特有のべたついた肌が密着してまた暑くなる。頭がぼんやりする。彼女は眠っていたから、その細くて綺麗な髪に触れようとした。そしてまた風が攫っていき、髪はすり抜けていった。二人とも上半身を露わにして、ここで眠っていた。時折ざわめく明るい緑と、差し込んだ空の青の下、社の濡縁に座っている。こんな風景を、昔の映画で見たような気がした。
ここに来たときは夜だったから、一晩眠っていたことになる。すぐ目の前で安らいだまま寝息をたてている彼女が、昨晩は泣きじゃくっていたのだった。今すぐ死にたいと言って。
 彼女は気がついて、寄り掛かった身体を起こした。慟哭の影は残っていない。
 「アヤメ、そろそろ帰ろう」
 フミは彼女の顔を少しだけ覗き込んだ。鼻の先に届くくらい伸びた髪の隙間から、まだ覚めない目が小さく揺れる光を送る。見惚れたフミを置き去りにして、彼女は濡縁から飛び降りた。
 「あ、ふく」
 彼女が囁いた。フミは、近くに放り投げられたままだった白いシャツを渡した。

 着替えた二人は、誰もいない朝の参道を歩く。この長い石畳はまっすぐ続き、いくつかの鳥居が並んでいた。
 「綺麗だね」
 アヤメは木々の間から、遠くの海を見ているようだった。この神社は海岸から少し離れた小さな山にあって、二人はここを気に入っていた。開かれた海との間には、静かな街があった。百貨店の大きな建物や公園も、この場所から見ることができたはずだ。けれどフミはなぜか、街並みに違和を感じていた。確かによく知っている景色のはずなのに、まるで久しぶりに見たような、懐かしくも思えるこの街は、少し気味が悪い。大好きな街だからこそ、小さな変化で印象が変わっただけだろうか。年に二度ほどしかここを訪れないし、そのうちに景色は少しずつ変わりゆくものだから。それは気のせいだと言ってしまえば簡単だった。いずれにせよ、そんな違和感は通り過ぎ、すぐに忘れて分からなくなってしまった。
 「これからフミのお家に行ってもいい?」
 アヤメはフミの後ろを歩きながらそう訊いた。幼い子供が遊んでほしいとせがむような、あの高揚した声色で。表情は見えなかったが、確かに彼女は笑顔で話しているように聞こえた。ところで正しく言うなら、それは彼の祖母の家であった。
 「いいよ。きっとおばあちゃんが喜ぶ」
 「よかった。ありがとう」
 やがて参道の終わり、ひとつめの大鳥居を通り抜けた。
 フミは神社を振り返った。
 風のひとつも吹かず寂寞とした視界には、煤けたセピア色の廃景だけがあった。ここを訪れるたび写真に残していた、神聖なテリトリーの入り口がある。
 彼女が一瞬、とても悲しい顔をしたように見えたが、理由は分からなかった。


(2)

 アヤメは泣くのを止められない。
 堤防に立つ彼女を見上げていたら、その水滴だけが、止まった世界の中で身震いしていた。
 やがて浜風に揺れるスカートが時間を取り戻す。彼女は涙を拭う。
 〈涙の血友病にかかったみたい〉
 海辺の街には人がいない。

 ここは古びた市街地の末端。バス停、空白の多い時刻表、駄菓子屋。遠くには百貨店の看板。堤防と街の間には一車線の細い道路が続いていて、少し歩いては、しきりに堤防に上って海を見ていた。急な坂道だらけの街の白昼は、灰色のコンクリートがまぶしいほどに明るい。
 「この街のこと覚えてる?」
 彼女は問うた。
 歩みを止めて振り向き、向かい合った。
 見慣れない彼女の制服。
 「あんまり。でも、懐かしい気がする」
 「説明されないままに無くなってしまったから、無理もないよ。君の好きだった街は、もう無い」
 どうして? 街は確かに、この潮風と陽光のなかで、いつものように穏やかな海を望んでいるのに。
 「みんなここに帰ってくるつもりだった。それが不可能になった後でも、そう願っていたから。この街はここに、とり残されてしまった」
 〈ここは、一度も現実になったことのない過去だよ〉
 具体的なことはまだ、フミには想像がつかなかった。
 アヤメは続けた。涙を流した理由を整理するように、ゆっくりと、言葉を噛み砕きながら。その表情は、その眼は、確かに街のほうを向いているのに、何を見ているのか分からなかった。

 何をしても究極的には破滅しないと、道を間違えないと思っている。たとえ道を逸れてしまっても、この世界からはみ出してしまうことはあり得ないと思っているから。私たちが本当に死ななきゃならなくなるのは、そんなふうにあぶれてしまった時だよ。
 みんなを責めてるわけじゃないの。
 彼女は付け足した。
 歩き出した彼女にフミもついていく。潮風の染み込む古民家の間、上り坂は峠道のように曲がりくねっている。鋭い熱線に露出された二人は汗を流しながら、痛々しい歩調を引きずっていた。やがて、丘の上に病院が見えた。

 ひんやりとした建物のなか、階段を上る。四階の廊下は長く、両端の窓が遠くに見えた。病室と番号札が連なった白い景色。彼女はそのうちのひとつに案内した。
「海がきれいに見えるでしょう」
 フミは窓際に立って、まったくその通りだという見晴らしを確認した。目下には住宅街があるものの、視界の大部分は青い海だった。光が反射して輝いているのが、こちらにも届いて目が痛かった。時折白い波がたつ海の模様を眺めながら、大小の船が見当たらないことに気づく。いつも、見ていたはずなのに。
 振り返ると、アヤメはベッドで横になっていた。仰向けの肢体は脱力し、天井を見つめている。たまに見せる長めの瞬きが、目を閉じた表情さえも印象として記憶に焼きつけるようだ。こんな表情を、前にも見たことがあるような気がする。
 「病院は好きじゃなかったな」
 彼女は小さく呟いて、こちらを見る。前髪が左右に分かれて、白い額が露わになったのを見下ろして、フミはそれが素敵だと思った。けれども、彼女が話し始めると、語られた情景が心臓を直接掴んだように、体内に吐き気が蠢くのだった。

 叫び声がした。誰かが呻いていて、もはや言葉じゃないような音がたくさん聞こえた。体液、嘔吐、それに下品な冗談。見舞いの小さい子供が泣くのを耳にしたとき、私まで泣きたくなった。このグロテスクな場所、人間の抑えていたものが漏れ出てきてしまうこの場所がすごく、苦手だった。
 ここはまだ静かな病室だったから。「海が綺麗だね」って、お見舞いに来た人がよく言っていた。彼らは外を指さして、鳥や船を見つけては喜んでいた。でも、ここに寝たきりでは海が見えない。全身に力が入らないし、声も上手に出せないでただそれを聞いていたあの人の気持ちって、どんなふうだったのかな。考えたことある?

 不気味な感傷とともに、フミは思い出していた。
 病人のその目。以前の姿がもはや残されていない、痩せこけた頬、動かない手足。聴力もほとんど消えかかっているから、声を張って、「具合はどうだい」と耳もとで言う家族の姿。恨むような目。きっともう僕のことが分からないのだろうと悟ってしまったこと。
 尿、吐瀉物とクリーナーの匂い。ここはさよならしか言えない場所だった。亡くなった命がまたどこかに新しく生まれる。循環していく……。そんな普通の役目を、この大きな慰霊装置はとっくの昔に失っていた。


(3)

 並んだ食事、笑い声と、死者の血で膨れた腹を揺らす虫たち。物言わぬ死者はまだ彼らを見ているかもしれないというのに。彼らは彼女に気づかない。直会の支度から逃げ出したアヤメは、炎天に晒されて悲鳴をあげる。既に八月の中頃だった。彼女がもう耐えられないと思ったのは初めてではなかった。潔癖症を恥じながらも、彼らに不潔だと言ってやることはできた。でも、そう言われて困る人間の多くないことは知っている。もう何を言っても苦しいだけだ。彼女と、彼女の視る世界とのズレはもはや決定的になっていた。決して取り戻せない遅れを知り、そこにいかなる最善解も当てられないと分かった。彼女は傷つけられながら、沈黙を守る以外に自らの理を守る術を知らなかった。
赤錆びた廃車の残る雑木林や、見覚えのない寺院の並ぶ通りを、アヤメは駆けていった。

 やがてカーテンが夕景を遮り、仄かな光だけが染み出した部屋では、シーツに残った血の跡がぼやけて見えた。ここでフミと愛情を勘違いして、指を絡めあっていたものだった。誰もが自分だけは純粋だと思うように、二人は清潔な愛を手に入れたつもりでいた。そしていつも、それは思い違いだったと気づく。
虫のよく入る部屋だったから、アヤメはその肌に傷跡を残していた。埃と髪の毛が散らかった床に座り込んで、適当な空想でも始めようかと思ったところだった。破り捨てたメモ帳に残った短い言葉を拾いあげた。
〈涙について。〉
 一人の人間の死と、たったいま握りつぶした蛾の死骸に、どんな違いがあったのだろう。死は悲しむべきことだというし、人は泣くことだってできる。でも涙は、事実を過剰に物語化することでしか生まれない排泄物だ。誰もが主人公のように、悲劇のいきさつを丁寧に語り、「あの人はこれほど苦しんだのに、わたしは何もしてやれなかった」と、少しの間自分を責めてやればそれで十分だった。涙する人間が愛しているのはいつも悲しんでいる自分自身でしかない。それはとっくの昔に明らかにされたことなのに。今日も彼女ひとりだけが抑圧された。泣いてしまうときは、ただ自分を呪っていた。涙のどこにも、美しいことなどない。

 フミと話をしたくなったので、部屋を出ることにした。彼はまだ、いつものように待ってくれているだろうか。昔見た映画の一場面を真似してみようなんて言ったら、聞いてくれるだろうか。
 日が沈み始めていた。


(4)

 乾涸びた紫陽花と狛犬のそばで、彼は手水が枯れたのを見つめている。昔はみんなが手を漱いでいたけれど、いつか柄杓も見当たらなくなってしまった。今では落ち葉や虫の死骸が溜まったまま放置されている。アヤメはそれが好きだった。忘れられた場所を自分だけが覚えているということは、彼女を安心させた。退廃を愛することは、地面から伸びた無数の手を踏み散らかすことだ。けれど、かつてここにあったはずの祈りとともに祈り、苦しみとともに苦しむことを彼女が美しいと思うのは、欺瞞に満ちた欲求で破滅を愛することとは真逆の行いだし、ただ尚古的なだけの価値判断に収まるものでもない。神は、神であるがゆえにたしかな歴史を持っていて、それはここに残る空間も同じこと。神域が胚胎している歴史のなかには、たくさんの祈りが刻まれていた。あたかもそれらに身を重ねるかのように祈ることで、別の時間を生きた誰かと関係を持てるような気がしていた。蓄積した膨大な数の祈りが切望したように、それらが安心して留まれる場所は他にない。赤褐色の板張りのそばで、枯らびた記憶たちに少しの潤いをもたらすような行いだけが、ただ許される理由になると思っていた。
 誰に許されたいのだろう。
 神様に?
 当然のように、神様は自分の物だと信じ切っていた。許されうるのは自分一人だけと、他の誰もが思うのと同じようにそう思い込んでいた。
 彼女はこの場所を愛していた。

 夜が覆ってしまう少し前に、遠くの残照が山脈の稜線を表していた。その細くも力強い光は、こちらに向かって短いグラデーションを描いている。カメラを通しても決して肉眼で見たようには色づかない、この模様。綺麗な空だって、結局は自分のものではないし、すぐに流され消えてしまうのだと思い悔しがったこともあったけれど、今は違った。ここは私のための場所で、そして彼のための場所。空も風も温度も、いつも同じように繰り返すだけだ。けれど、生きていることが一過性の娯楽でしかないように、ちょっとした命の未練さえも閉じられようとしている今、夢のからくりはその役目を終えようとしている。その前に、話しておきたいことがあった。
 「もう生きたくはないって言ってたね」
 声は向こうの彼に届いた。向拝の階段に座るアヤメのもとに、フミは歩み寄る。風と蝉が鳴る声の中、湿った足音が刻まれた。
 「まだどっちつかずでいる」
 フミはいつか、ただ逡巡し続けることを選んだ。
 この場所は現実と隔離された夢であって、ひとつのシェルターだった。実際のところがどんな仕組みであれ、二人はそのように理解して、ここを訪れていた。この場所は、ためらい続けることを赦してくれる。他者との摩擦の中では耐えられないような、自らの弱い倫理性が審問にかけられることを拒否し、彷徨い恐れるだけの二人であった。

 「生きていること、存在していることはある種の侵犯行為だ。人の望む《承認》は、存在を認められることなんかじゃなくって、きっとその暴力性への応答に過ぎない。生きた証を傷として誰かに残してやり、優越の実感として味わうことを、みんな望んでいる。自分はここにいると主張することさえ誰かを傷つけざるをえないなら、僕らはどうしたらいいだろう。」

 自殺だって動機は同じだ。
 〈でも、誰を懲らしめるって言うんでしょうね?〉
 思考の土台にこびりついたその台詞がまた頭をよぎる。
 別の理由を見つける必要がある。

 いつも彼らと同類になることだけは避けてきたから、こんな時に自分を許すことができない。フミは袋小路に突き当たったまま言葉を失っていた。彼をこれほどまで救い難いところに捨て置き、縛ったのは、まぎれもなく彼自身の憎悪だった。二人の思い至らないような仕組みで保たれていた、癒着と嫌悪の緊張関係は今や修復不可能なまでに瓦解した。もう信じることができないようなその奇妙な均衡を保ち生きる人々は、その不安定な足場の存在を知らない。それだけの理由で、彼らは安寧を獲得するに至る。フミがいつも直面するのは、勘違いの連続で始まり、気づかぬまま終わっていく生命たちへの恥じらいだけであった。

 夜になると、木々の間から街の明かりが漏れていた。傷口のような裂け目は、点々と撒かれた常夜灯の光だった。

 「それじゃあキスしようよ」
 並んで座っていると、隣で驚いたフミが飛び跳ねる。それが面白くて、アヤメは笑い出した。
 「からかわないで」
 普段は感情の読み取りづらい彼の顔が、珍しく怒りを面に出した。けれども目尻が僅かに煌めいていたのは、怒りとは別の微小な兆候のように思われた。
 「一度はあんなことをしたのに?」
 彼女の部屋のベッド。確かに一度だけは、二人の間を愛情の陶酔が満たしたかのように思われた。その勘違いは、誰もが気づかぬままに終わっていくはずのあの錯覚だった。多くのことは成り行きで、どんなことをしても、自らが純潔だと信じて憚らないのだから。
 わたしたちに愛情は無理だ。けれど、そんな方法でも縋って生きていけるなら、それでよかっただろうか?
 「わかったよ」
 今更何を問うても遅すぎる。

 彼女はフミにこれからのことを尋ねた。
 「僕はもう少しここに残る」
 最後の大鳥居の手前で彼の顔は僅かに照らされ、影ができていた。
 それでは何も選んでいないのと同じだ、とは言えなかった。決断するもしないも、ここに至っては微小な差異にすぎない。どちらも等しく残酷な結果に迎えられることを、わたしたちは知っているのだから。
 こうして二人は互いに別れを告げた。この夢のからくりも、主なしではきっと長くはもたないだろう。ひとつのトラウマが、その現実感を失いつつあった。
 フミは彼女を見送りながら感謝の言葉を贈ったが、もう遅かった。
 アヤメは鳥居の向こうで輪郭を失くし、二度と姿を見せなかった。
 
 茹だるような夏の温度が残された一人を包む。
 滴り落ちる汗と騒ぐ蝉の音が、彼の哀哭を押隠していた。


(5)

 瞼を持ち上げると、畳の上で寝転がっていた。湿った空気が肌にまとわりついていて、とても不快な感触だと思う。縁側の向こうは霧が濃く、少し先も見えないほどだ。いまはもう昼間で、すでに止んだらしい驟雨の残り香が漂い、浅い呼吸のなかに混じった。
 「もうすぐ出るから、おばあちゃんにご挨拶してきなよ」
 母親の声がした。廊下の先、玄関では家族が荷物の整理をしていた。フミは起き上がって、そばにあった小さなバッグの中身を確認した。携帯電話、財布、誰かに手渡されたお守り。忘れ物は無い。乾いた涙が頬に張り付いていることにはまだ気がつかない。
 伝統型の立派な仏壇に手を合わせたら、フミも外へ出る。軒先に立つ兄が、ねじ曲がった癖のある髪を気にして、苦い顔をしていた。
 これがいつも通りだ。それをたった今思い出したような気になって、まるで記憶に断絶があるような違和感が離れなかった。夢を見た朝に、よく似ている。当たり前の会話、疑うべくもない景色は、うまく働かない頭を無視して流れていく。
 「それじゃあ帰ろうか」
 家族用車の巨躯は、四人ぶんの重みで少しだけ沈んだ。
 盆の時期に訪れた父親の実家を、たった今出発するところだった。

 谷間に位置するこの集落の家は、どれも特別なものに見えるほど大きい。そのうちの一つ、また一つが後方へ遠ざかっていく。人が住んでいるかどうかもはっきりしない家屋ばかりだ。進む霧の中、水田や広い庭先が流れ消えていく。国道に出るまでの狭い道は、斜面を緩やかに下りながら、曲がりくねっていた。フミは鄙びた田園のなか、礼服姿の人々が歩いているのを見た。黒い葬列は閉じた傘を手に、車とは反対のほうへ歩いていく。確かその方向には大きな寺があった。彼らに重くのしかかる霧は、その悲哀が渦巻いた雰囲気を感じさせ、まるで――それは顔の描かれない――絵画のように、稲の濃い緑色の書き割りにはっきり浮かんでいた。この集落に限ったことではないけれど、村の住人はみな相当に高齢なはずだ。毎日どこかで、ひとつの長い命が終わっていくのだろう。不思議はない。家族は誰も、その葬列に気づいてはいなかった。移動中は外を眺めていないと落ち着かない、そんな人間はフミだけだったから。彼もそのことをよく分かっていた。黒い人々は霧に消えていった。

 国道に乗り、谷間を抜けて、海の見える市街地――だった場所――に入る。大量の土砂を積んだトラックがいくつもすれ違っていく。巻き上げられた砂埃の膜を通して向こうを見渡すと、点在する盛り土のうえに立つ重機が目立つが、しかし大部分の地面は昔の高さのまま雑草が生い茂り、遠くからでは荒野のように見えた。二年前に波が攫っていった街の跡に、瓦礫はほとんど残っておらず、旧来の外観を一部保ったまま空洞化した特異な建築物のほかに、あるのは家屋の基礎や剥き出しの鉄骨ばかりだった。フミが直接経験しなかったあの災厄は、その荒れ果てた風景でもって彼を迎え、ここに滞留しているかのように思える多くの死にまつわる情念を知らしめた。

 フミは忘れ去っていた事実をと夢のからくりを遡行的に理解した。夢を見ている間、必死に記憶から追い出そうと努めたこの結末と、彼女の自死を。失われた街が記録された夢、そして彼女の聖域を記録した夢は、死者の切望が目指した先に取り残されてしまっていた。街は、帰るはずだった人々の思念のために。神社は、彼女が遺すことを望み、そして漸く語られるに至ったあの言葉のために。
 ある古い思想家の言に拠れば、夢という現象が存在していなければ、肉体から分離した霊魂の存在が想像されることは無かったはずだという。ならばあの夢が無ければ、アヤメと出会うこともやはり無かったのだろう。彼女のことがやっと解り始めたように思えたあの頃、その肉体はフミの知らない場所で既に死んでいたのだから。

 街を襲ったあの出来事とその後に関して、フミはいつも深く考えられずにいた。本来この地と密接な関係をもっていない自分は、ひとりの客人としての立ち位置と、視線と、言葉の用法を決定されていたから。残された人々あるいは社会の全体が要請する「部外者」の振る舞いは、もはや意識に対象化されることのない道徳的規範として内在化していた。「その後」を懸命に生き延びている人々が抱く悲哀や心的外傷を、間主観的に想像することさえ自分には許されていない。しかし、ここで互いに正反対の方向を目指す死のあいだ、彼はその矛盾が擁する条理に突き当たるのだった。つまり、生存を望んでいた死がその数以上の悲しみを生むことになったこの場所で、死を望む命がたしかに存在していたこと。このことが生命を、漸く再開した懸命な生存者の生活そのものを冒涜していると誰かが考えるとしたらどうだろうか? そのときは、本来語る言葉をもたないはずの彼も黙っていることはできなかっただろう。身勝手な憶測でもって、他者の死に理由や価値判断を与えて良いわけがない、と。「彼女はこれこれのものが理由で自殺したのだ!」それはいつも、居残った者どもが死者をその都合に合わせて弄ぶということだ。死者の苦痛と結末を、ひとつの嗜好品として際限なく消費できるということだ。

 あらゆる涙は乾いてゆくだろうか? 無論フミは泣くことを躊躇ったのだけれど、流された涙がかつて、そして今もここにあるのだろうということは分かった。この地に生じた空虚は、不在は、やがてその隙間を埋め尽くす存在が生きていく未来にあって、隠され、忘れられてゆくだろうか。「自分が居なくなったあとの世界を見ることができたなら!」指を組ませて祈るように、彼女が言っていた。それならまだ、決断に値打ちがあったかも知れない。
 けれど、感傷はいつも季節が攫ってゆき、取り返しがつかなくなる。それからはまるで別人のように、まったく新しい季節の情態性のうえで、同じ人間のように振る舞う。そんな自分に信頼を置けない。彼女のことを、彼女が示してくれた通りに記憶していることを、保証できない。
 窓を開けると、流れる視界は明るくなった。まだ八月だというのに、空気は少し冷たくなっていたから、季節の終わりを感じずにはいられない。あの寒く厳しい冬に近づいている。その時自分はまた気が変わり、多くを忘れ、空いた席にはきっと新しい不安が迎えられるだろう。当たり前で大切なことを、相も変わらず取りこぼし続けるのだろう。

 微小な秋の匂いと湿度を纏った風が、指の間をすり抜けてゆく。
 次にやってくるあの陰惨な冬を覚悟しなければいけない。
 彼は半ば強迫的に、あのなじみ深い不安の感触を予感していた。

よすがの窓

ありがとうございました。

Twitter : @eanofinder
Blog : http://eahowling.hatenablog.com/

よすがの窓

夏の終わりにぴったりな少年と少女の物語です。(2019.08.31)

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-08-31

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