クジラの骨が沈む場所

田代 有紀 作

 七月十九日、金曜日、午前七時半。自転車に飛び乗って、なだらかな丘の上の自宅から一番下の交差点まで一気に駆け下りた。真っ青な空を塗りつぶすように蝉の声がする。夏休みの一日前としては完璧な朝だ。中学校の制服というだけの理由で相手にしてもらえている幸運な紺色のスカートが風にさらされてはためいた。学校へ行くには十字路を左に曲がらなければならないけれど、わたしはこの日、右にハンドルを切った。学校に、行かない。そう思った途端、罪悪感がちくりと胸を刺し、その小さな傷口から高揚感が湧き上がってきた。今日から勝手に夏休み。わくわくしないわけがない。
 駅の駐輪場に自転車を停め、トイレで服を着替えた。集合場所の改札前に向かうと、待ち合わせの相手はもう涼しい顔で待っていた。長くてまっすぐな、腰までの黒髪の上に、白いつば広の丸い帽子が載っている。
「千晶ちゃん!」
 声をかけると、物思いに耽っていたのか遠くに向けられていた切れ長の瞳がわたしを捉えた。藍おはよ、と桜色の唇が言葉を紡いだ。それだけでなんだか嬉しくなって、同じ言葉を返した。
「電車、まだ時間あるよね? わたし飲み物買ってくる」
 八時五分発の電車までにはまだ少し時間がある。わたしは急いで売店に入り、お茶の中で一番安いペットボトルを買った。千晶ちゃんを遠くから見ると、同い年なのにまるで大人のお姉さんみたいだった。白い薄手の半袖ブラウスに、流行のペールトーンのスカート、素足にサンダルという装いで、彼女はそこに立っていた。わたしときたら、リュックに入れるのになるべくかさばらなくて着替えやすい服を選んだ結果、半袖のTシャツとデニム地のショートパンツだったし、靴までは持ってこられなかったので通学用の白いスニーカーだ。靴下だけは学校指定のつまらない白からくるぶし丈のものに替えたが、そうしたところで近所の小学生と大して変わらない。そもそも元が違うから、と言い聞かせて、千晶ちゃんのところまで歩いて行った。背の高い千晶ちゃんなら何を着ていたって大人っぽく見えるだろう。
 千晶ちゃんはそんなわたしの服と葛藤をまったく気にした風もなく、行こっか、と短く言って、微笑んだ。

 千晶ちゃんは同級生だった。二年生の時、クラス替えで新しい教室に行ってみたら、前の席に座っていた。千晶ちゃんの苗字が伊佐名、わたしが蛯原で、間に誰もいなかったからだった。
「よろしく」
 切れ長の瞳がなんだか千晶ちゃんを儚げに見せた。睫毛が恐ろしく長くて、ニキビに悩まされたことがなさそうな白い肌をしていた。こんな子と同じクラスで、しかもいちばん近くで喋れるのが自分でいいのだろうかと思った。
 千晶ちゃんはなんでもできた。勉強はいつも一番で、スポーツも芸術も完璧で、それでいてまったく努力しているように見えなかった。ある時、どうやったらそんなに良い成績が取れるのかと聞いてみたら、千晶ちゃんはどうしてそんなことを聞くのかと不思議そうに首を傾げ、
「普通にやるだけ」
 と答えた。そしてそういう自分を鼻にかけたりする様子もなく、質問したらなんでも教えてくれた。千晶ちゃんのおかげで、わたしは成績を落とさずに済んだ。

 発車のメロディが鳴り終わり、ドアが閉まった。発車します、というアナウンスと共に駅のホームがゆっくり流れ出す。今ごろみんな、クーラーのない教室で暑さに文句を言いながら、終業式が始まるのを待っているのだろう。夏休みへの期待や将来への不安、いまひとつな数字の成績表から少し面倒な人間関係まで、わたしたちのほとんど全部を押し込めた狭くて広い中学校の校舎が遠くの方に見えた。ばいばい、と心の中で手を振った。
「学校休んで大丈夫なの?」
 千晶ちゃんが少しだけ心配そうに訊ねた。黒い髪がさらりとブラウスの肩から流れて落ちた。
「大丈夫。学校には腹痛で休むって電話したし、成績表は治ったら取りに行くって言ってあるし」
 専業主婦の母のいる家に電話でもされたら大変なことになるので、そこはぬかりなく準備してある。親には遅くなるからと伝えてあった。千晶ちゃんは頷き、いたずらの共犯者みたいに唇の端を歪めて笑った。
 それからわたしたちは他愛ないおしゃべりをして時間を潰した。昨日見たテレビのバラエティのこと、ふたりでよく話題にしていたアイドルと若手女優との結婚が報道されていて、それが結構ショックだったこと、この前髪を切ってみたら前髪がいまいちだったこと。千晶ちゃんはわたしのおでこのあたりをじっと見つめ、大丈夫、変じゃないよと言った。
 そのうちに、ふいに会話が途切れた。千晶ちゃんの目は、電車の中でも外でもないどこかに向けられている。何か考えているのだろうと察して、わたしはペットボトルのキャップを捻った。千晶ちゃんは時々そうなった。そういう時の千晶ちゃんはいっとう綺麗で、お人形さんみたいで、そしてわたしの視線にも気付かなかったから、わたしは好きなだけその横顔を、ガラス玉みたいな瞳や高い鼻や形の良い唇を眺めていられた。
 千晶ちゃんは今、学校に行っていない。三年二組の、わたしの教室に千晶ちゃんの席はあるけれど、そこはいつも空っぽだった。席替えのたびに運び手のいない机はちょっとした邪魔者扱いをされたけれど、それを運ぶのを自分から引き受けた。わたしがそうしなければいけないような気がしたし、そうできることを密かに誇りに思ってもいた。そして、自分の席が千晶ちゃんの席から近いか遠いかでこっそり一喜一憂した。

 儚げな美少女みたいな佇まいの千晶ちゃんの、全然儚げでないところを、わたしは知っていた。去年の秋、千晶ちゃんがまだ学校に来ていた頃のことだ。放課後の教室で、わたしは同級生の男の子たちとちょっとしたトラブルになった。
「何すんだよ」
 突き飛ばされて、床に尻餅をついた。手に持っていた花瓶が床に落ちて重い音を立てたが、幸い割れはしなかった。北見という、千晶ちゃんと同じくらい勉強もスポーツもできて、ちょっと変わり者の千晶ちゃんと違っていつでも人の輪の中心にいる男子生徒が怒ってわたしを見下ろしていた。北見がこちら側に一歩踏み出したところで、不意に千晶ちゃんの声がした。
「何してるの」
 よく通る、透明な声が響き渡った。北見がぎょっとして石像のようになる。その顔がさっと青ざめた。
「こいつが――」
 近くにいた北見の友達が言い訳しようと口を開いた。
わたしは突き飛ばされた格好のまま千晶ちゃんを見ていた。冴えない制服のスカートから伸びた、千晶ちゃんの長くて綺麗に筋肉のついた白い脚が、滑らかな動きで近くにあった机を蹴った。重心の高い机は前側から衝撃を受け、内に抱えた教科書やプリント類を吐き出しながら轟音を立ててひっくり返った。その音で、弁解の言葉は掻き消えた。千晶ちゃんは北見を見ていた。道端で干からびたなめくじを見下ろすような、冷めきった目だった。綺麗だな、と思った。そして不意に、何かに勝ったような気持ちになった。
 凍りついた空気の中、千晶ちゃんはつかつかと歩いてきて、わたしの手を取って引っ張り起こした。それから近くに置いてあったバッグを掴むと、帰るよ、と言って教室を出た。

「藍、起きて。着いたよ」
 千晶ちゃんの声で目が覚めた。気付いたら、わたしは千晶ちゃんの肩に寄りかかってぐっすり眠りこんでいた。昨日の夜、楽しみすぎてあまり眠れなかったせいだろうか。寝ぼけ眼を擦って、千晶ちゃんに手首を引っ張られるまま電車を降りた。両開きの扉の向こうの空気からは潮の匂いがしていた。夏の太陽は、地上にあるものを手当たり次第に焦げ付かせることに決めたかのように、屋根のないホームを照らしていた。
 いかにも観光地といった洒落た作りの駅構内を抜けて外に出た。本格的な夏休みには一日早かったが、ロータリーは既に観光客でいっぱいだった。夏休みは嫌だと言った千晶ちゃんを思い出して思わず隣を見上げたが、千晶ちゃんはまっすぐ目的地の方を見て歩き出しているところだった。
 去年の夏、ふたりで水族館に行った。千晶ちゃんから一緒に行こうと誘われて、わたしはすぐに承諾した。来年も来よう、とぽつりと千晶ちゃんが言ったのを覚えていて、今年はわたしから誘ってみた。
「夏休みはみんながいるからいや」
 千晶ちゃんからの返信にはそう書いてあったが、わたしが今年のうちに水族館に行けるチャンスがあるとしたら夏しかなかった。本当は夏休みだって勉強しなければならないけれど、一日くらいならどうにか空けられる。それを過ぎたらそれこそ本格的に受験勉強だし、その後となると来年の春になってしまう。そこでわたしは考えに考えて、夏休みじゃなければいいんだね、と訊ねた。どういうこと、と戸惑ったような返信をよこした千晶ちゃんに、いたずらを思いついた気分でわたしはこう返した。
「夏休みの前日にしよう」
 ありもしない夏休みを勝手に作ってふたりで過ごせる、という自分の計画がなかなか気に入った。千晶ちゃんはしばらく考えたようだったが、結局はわたしの提案に同意した。
 海沿いの道を歩いていくと、巨大な箱のような水族館が現れた。ゲート前の発券機で中学生のボタンを押し、入口で係員に渡した。係員がチケットを確認する間、何か言われやしないかと緊張したが、青い制服に身を包んだ女性は何も言わず、笑顔で通してくれた。魚が描かれた青いトンネルを潜りながらその話をすると、千晶ちゃんは澄ました顔で言った。
「私立中はもう休みのところもあるからね。堂々としてれば何も言われないよ」
 そうなんだ、と頷いた時、トンネルが終わって水槽が現れた。小さな子供を連れた親子が水槽に張り付いて、魚を眺めている。最初は南の海のコーナーで、赤や黄色や青の色鮮やかな魚たちが泳いでいた。千晶ちゃんが子供たちを避けるように人のいないところを狙って、静かにその前に立った。青い光を遮って、千晶ちゃんのシルエットが浮かび上がる。わたしは入口でもらったパンフレットをリュックにしまい、その隣に立った。小さな魚たちは人に見られることに慣れているのか、気まぐれにわたしたちの方に泳いできては身を翻して離れていった。
 千晶ちゃんの水族館の回り方は、他の友達とは全然違った。他の子たちは喋りながらあっという間に水槽の前を通り過ぎ、特別目立つものしか目に入らないようだったけれど、千晶ちゃんは静かで、水槽のひとつひとつを丁寧に見ていった。そういう見方があることを、わたしは千晶ちゃんと来て初めて知った。おまけに千晶ちゃんは魚の種類や特徴や習性を壁や天井にあるプレートより詳しく知っていたし、気になることを時々水族館のスタッフに質問していた。
 去年ここに来た時、魚が好きなのかと訊ねてみたら、千晶ちゃんはちょっと考え、それから、生き物全般が好きだということを教えてくれた。魚だけでなく、陸の生物や植物にも千晶ちゃんは詳しかった。
 千晶ちゃんのペースで一緒に回るのは、不思議と苦にならなかった。そういう見方をしている方が大人になったように感じられたし、千晶ちゃんと何かを共有できたような気になれた。
 千晶ちゃんとわたしは正反対だった。千晶ちゃんはなんでもできたしなんでも知っていたけれど、わたしの成績は頑張って中の上くらいで、陸上部でもいまひとつ記録の伸びない生徒だった。背の高い千晶ちゃんと違ってわたしは小柄な方だったし、部活で邪魔だからと髪も短くしていた。だから、学校に来なくなって他の誰とも会わなくなった千晶ちゃんがわたしとだけはこうして一緒に出掛けるのが不思議だった。
 気が付くと、千晶ちゃんはイワシの群れの水槽の前にいた。イワシの成長過程を展示したスペースで、壁には説明のプレートが貼ってある。矢印に沿って見ていくと、半透明な稚魚がだんだん成長して、銀色に輝くイワシの群れになった。成魚は水槽の中を際限なくぐるぐる回っている。そういう習性なのだと千晶ちゃんが言った。どういう気分で回転しているのだろう、と思った時、銀色の笹の葉のような魚たちの中に、一匹だけまったく違う色をした魚が泳いでいるのを見つけた。桜色の、柔らかそうな色をしたそれは、他の魚たちの二倍の速さで水槽の中を回り続けている。
「あれ、なんて魚だろう」
 思わず千晶ちゃんに聞いてみると、千晶ちゃんは知らないと首を振る。ちょっと聞いてくるからとスタッフが常駐している柱の方へ歩き出した千晶ちゃんを見送って、わたしは桜色の魚に目を戻した。この魚は自分が周りと違うことに気付いているのだろうか。自分だけが桜色の鱗を持っていて、自分だけが他より速く泳げることに疑問を持たないのだろうか。銀色のイワシたちはこの魚について、何も思わないのだろうか。なんだか千晶ちゃんみたいだと思った。陸上部のわたしより速く走れる千晶ちゃん。春の模擬試験で学年一位を取った北見より勉強ができる千晶ちゃん。千晶ちゃんはきっと、自分の鱗が桜色であることに気付いてしまったのだ。
「名前、分からないんだって。知らないうちに入り込んでたって」
 千晶ちゃんはそう言って隣に並んだ。桜色の魚はわたしの感傷を余所に、自分はイワシですと言わんばかりの顔をして回り続けていた。

 わたしたちは浅い海のコーナーを抜け、深海コーナーにやってきた。深い海の底に住むタカアシガニが、木の彫刻のような佇まいで濃藍の水槽に立って、わたしたちを出迎えた。その隣の水槽はほとんど真っ暗で、赤いライトに照らされた生物が底の方に蹲っている。小さい子たちがその水槽の前に立って、後ろからついて来ている母親に、でっかいダンゴムシがいる、と叫んで訴えていた。
 千晶ちゃんはゆっくりそこを見て回り、やがて一番奥の、準備中であるかのように曇りきった水槽の前に立った。水槽が結露して何も見えないせいか、そこには人がいなかった。
「なにこれ……? くじら、ほね……?」
 水槽の横のパネルには、鯨骨生物群(げいこつせいぶつぐん)、と書かれていて、千晶ちゃんが噛んで含めるように読み方を教えてくれた。指で曇ったガラスを擦り、覗き窓を作る。わたしも真似して千晶ちゃんの隣に窓を描いた。
 ようやく見えるようになった水槽の中は本当に曇りが取れたのか疑いたくなるほど濁っていて、中心には、子どもの頭ほどもある巨大な背骨の節がひとつ置かれていた。中にあるのはそれと説明用のプレートだけで、他に動くものはなかった。
「骨を見せてるの?」
 違うよ、と言いながら、千晶ちゃんは水槽の中を凝視した。
「見えづらいけど、骨の中に生き物がいるの」
 目を凝らして骨のあたりを注視してみたけれど、それらしき姿は見られなかった。しかし千晶ちゃんは何が面白いのか熱心にそれを見つめている。さすがに飽きてきて、説明書きを探した。水槽の上の写真には、植物みたいな半透明の細長い生き物や、白っぽい管の先に赤い小さな花が咲いたような生き物の姿があった。
「クジラはね」
 千晶ちゃんがだしぬけに言った。
「死んだら海に沈むの。底についたら、いろんな生き物がやってきて、死骸を食べるの。何十年もかけて骨まで食べて、全部海に還してくれるんだって」
 千晶ちゃんの横顔を見た。真っ黒な瞳はじっとクジラの骨に注がれている。千晶ちゃんの目が輝いていた。色とりどりの魚やイワシの群れを見ている時より、ずっときらきらして見えた。
 深い海に沈んでいくクジラのことを考えた。死んで海底についた後のことを、わたしはよく知らなかった。そのまま忘れられていくとしたら、ひどく寂しいだろうなと思った。けれどクジラは、どこからともなく現れる、歪な形をした生き物たちに見つけ出され、ひとりぼっちでそこにいたという形跡さえ消してもらえるのだ。
 千晶ちゃんは石のようにそこを動かなかった。わたしは周囲を見渡し、他の展示と違って写真と模型のみで構成された深海探査のコーナーへ先回りした。壁面全体を海に模したそこは、下に行くほど深い海のことが書いてあった。壁の上部に海面を表す青い波があり、探査船の模型が浮かべられていた。そこから目を下に向けると、今まで見てきた生き物たちを写した写真が貼られていた。わたしは細かい説明を読み飛ばし、一番下の深海六千メートル以下についての表示を見た。写真はなかったが、エビの模型が岩にくっついていた。世界の果てにも、何かしらの生き物がいる。そのことになぜか安心した。

 クラゲを見たり、イルカショーを見たり、ペンギンにアテレコして遊んだりしているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。開館時間の十時に入って、出てきたのは夕方の四時だった。出口のところにある売店で、お揃いのイルカのストラップを買った。
 水族館を出ると、千晶ちゃんは不意に、砂浜に行こうと言い出した。日は傾いていたが相変わらず外は暑くて、水平線の向こうには入道雲が浮かんでいた。海沿いの道路を歩き、人の少ないところを選んで浜辺に降りた。
 波は高くはなかったが、潮は満ちてきているところで、巨大なガラス細工のような青い波が狭い浜辺に打ち寄せていた。千晶ちゃんは砂浜を、サンダルに砂がかかるのも構わず歩いていき、振り返ってわたしを呼んだ。わたしが近付いていく間にサンダルを脱ぎ、左手の指に引っ掛けて、波打ち際に踏み出した。スカートが風に揺れている。わたしは脱いだ靴下を靴の中に押し込んでその後を追った。
 夕方になろうとしているのにしつこく照りつける太陽のおかげで、海の水を心地よく感じた。千晶ちゃんは波にさらわれて崩れる砂をしっかり踏みしめて、転ばないように歩いた。踏み出すそばから打ち寄せる波に、千晶ちゃんの足跡が掻き消されていく。それをもう一度刻みつけるように、わたしはいつもより少しだけ大股に歩いていった。わたしが追いついたところで、千晶ちゃんが振り返った。
「楽しかったね」
 わたしは頷いた。海風に飛ばされないように、千晶ちゃんが帽子を押さえる。
「来年も来る?」
 思わず訊ねた。千晶ちゃんが頷いてくれるのを期待して。けれど千晶ちゃんは真剣な顔で考え込んだ。
「千晶ちゃん?」
 二回ほど、波が寄せては返した。天から降り注ぐ歌のようにトンビの声がした。千晶ちゃんはまるで初めて海に踏み出す人のような慎重さで言った。
「来年は、藍、高校生でしょ」
「うん。千晶ちゃんもね」
 聞きたくても聞けずにいたことをふと思い出した。期末試験後に三者面談があって、三年生は進路についてだいたいの見当をつけ始めていた。わたしも例外ではなく、自分の今の実力ならどのあたりを狙えるかを知らされていた。でも、千晶ちゃんはどこに行くのか、今まで一言も言わなかった。千晶ちゃんの勉強は学校の授業にまったく後れを取っていない。千晶ちゃんなら県内で一番頭のいい学校だって狙えるだろう。
「千晶ちゃんさ、」
 聞く時にちょっと躊躇った。聞いていいのかどうか分からなかったのだ。なに、と千晶ちゃんは首を傾げた。続く言葉が分かっているようだった。
「高校、どこ行くの」
 千晶ちゃんはすぐに答えた。
「遠山国際」
 知らない名前に困惑した。通信制の高校、と千晶ちゃんの言葉が続く。仮に千晶ちゃんが復学するとしても同じ高校に行けるわけがないと分かってはいたが、わたしは落胆した。わたしの望んだ夏休みは、もう二度と来ない。藍は、と聞かれて、面談で聞かされた高校名をいくつか並べた。
「多分このうちの、どれか」
 そっか、と千晶ちゃんは笑った。クジラの骨を見ている時の目に似ていた。
「来年もまた来よう? 高校生だって夏休み、あるし」
 と千晶ちゃんは曖昧に頷いた。
 クジラの骨を見てから、千晶ちゃんはいつもと少しだけ様子が違っていた。千晶ちゃんはわたしの手を取って、少し深いところまで歩いていった。脛くらいまでしか来ていなかった波は膝くらいになり、跳ねた飛沫が千晶ちゃんのスカートを少しだけ濡らした。

 わたしには、千晶ちゃんに秘密にしていることがある。千晶ちゃんが机を蹴っ飛ばしてわたしを助けてくれたあの時、わたしはトラブルに巻き込まれていたわけではなかった。あれはわたしが起こした事件だった。
 千晶ちゃんは日直で、日誌を職員室に置きに行っていた。その日部活がなかったわたしは美化委員の仕事で教室の掃除用具をチェックし、枯れた花の始末をしていた。北見たちは教室の後ろの方の席で、他愛のない話をしていた。北見たちとわたしとの仲はそれほど悪くはなかった。ただ、お互いに対して興味はなかった。
 耳に入ってくる会話の内容が、不意に千晶ちゃんのことに及んだ。わたしは思わず耳をそばだてた。
「えっ、北見、伊佐名さんがいいの。まあ確かにキレーだし。清楚系?」
 茶化すように一人が言った。千晶ちゃんは時々、男子の誰かに呼び出されていた。そしてそれを全部断っていた。そういう類の話か、とわたしは眉を顰めた。ぼんやり花瓶から花を抜き、ロッカーの上に広げてあった古新聞の上に置いた。
「そういえば蛯原さんって、伊佐名さんと仲良いよね」
 不意に近くで声がした。振り向くと、北見が立っていた。北見は扉の方にちらりと意識を向け、千晶ちゃんがまだ戻ってこないのを確認すると、真剣な顔で言った。勇気を出しました、という感じだった。
「伊佐名さんって、何が好きなの?」
 北見は真面目な生徒だった。教師からも同級生からも信頼を得ていたし、人当たりも顔も良かった。一部の女の子たちは北見のことを時々口にした。女子なら千晶ちゃん、男子なら北見だった。その二人がくっついたら美男美女カップルだろうなと思った。そして同時に、気持ち悪いな、と思った。北見の、いかにも大事なことを聞いているという調子にも、後ろでそれを固唾を飲んで見守っている男子たちにも、そしてわたしが親切に答えた結果起こるであろう次の展開にも、得体の知れない嫌悪感を覚えた。その瞬間、手が勝手に動いていた。
 大して量の多くない、細い花瓶の中の水がびちゃっと惨めな音を立てて北見の顔にぶちまけられた。
「何すんだよ」
 驚いた北見が咄嗟にわたしの肩を押した。思った以上の衝撃が来て、わたしはたたらを踏んで尻餅をついた。花瓶が手を離れ、床に落ちた。
 北見は驚いていた。傷ついていたし、それが怒りに変わった。北見の態度は当然だった。けれどそれを見上げるわたしもまた、自分自身に驚いていたし、北見と同じくらい腹を立てていた。突き飛ばされたことにではない。北見が千晶ちゃんを好きだと言ったことに。どうしてたったそれだけの、よくある話がこれほどまでに許せないのか、自分でもよくわからなかった。
 不意に、北見たちに対して宣言してやりたいような気持ちになった。千晶ちゃんがどんなに綺麗で可愛いかだったら、わたしの方が知っている。生き物が好きなことも、実はちょっと抜けたところがあることも、時々ここではないどこかを見つめていることも、クラスの誰よりわたしが知っている。そしてわたしは、それをあなたには教えてあげない。
 わたしが何か言おうとした時、音もなく入ってきていた千晶ちゃんの声が響いた。北見たちに対してなんの興味もない、と言わんばかりの硬質な声はいつも以上に美しかった。机を蹴った脚は優雅でさえあった。北見を見た氷点下の瞳は背筋も凍るようだった。
 綺麗でしょう、千晶ちゃん。去っていくわたしたちを呆然と見ている北見に心の中で語りかけた。千晶ちゃんは北見の顔から雫が滴っていた理由を聞かなかったし、何があったのかも聞かなかった。だからわたしも黙っていた。
 北見は賢い生徒だった。翌朝教室に来てみると、花瓶はロッカーの上に立ててあったし、枯れた花は新聞紙ごときちんとゴミ箱に収められていた。その後も北見はわたしを敵視したり、昨日の事件を騒ぎ立てたりしなかった。わたしは北見を避けたし、北見もわたしを避けた。変化といえばそれだけだった。北見は時々千晶ちゃんの方を見ているようだったが、千晶ちゃんはそれを知ってか知らずか徹底的に無視した。度胸がなかったのか、あるいは諦めたのか、北見は千晶ちゃんに対してそれ以上のことをしなかった。そのうちに千晶ちゃんは学校に来なくなり、千晶ちゃんと北見がくっつく可能性は限りなくゼロに近くなった。

 どうして学校に来ないの。足元にやってくる海水の向こうを覗き込んでいる千晶ちゃんに、心の中でそう問いかけた。実際に聞いたことはなかった。聞いても教えてくれないと思ったし、聞いてはいけないような気がしていた。千晶ちゃんが学校に来ない理由を、誰も知らないようだった。たまに、何か知らないかと聞かれたが、わたしは首を横に振り続けた。
 千晶ちゃんのいない学校はつまらなかった。今一緒にいる友達だって嫌いではないけれど、千晶ちゃんと比べたらみんな騒がしくて子どもっぽくて、退屈に見えた。
 千晶ちゃんが水平線の向こうを見つめた。その横顔に言いかけた言葉を飲み込んだ。千晶ちゃん、学校に行こう――。それだけは絶対に言ってはいけない言葉だと分かっていた。それを言ったが最後、千晶ちゃんはわたしの前からいなくなるだろう。そうなるくらいだったら、千晶ちゃんの机を卒業まで運び続けた方がよかった。
 千晶ちゃんは、きっとイワシの群れの中の桜色の魚で、海原を旅するクジラなのだと思った。千晶ちゃんはあの時、クジラに憧れていた。正確には、海の底に沈んでいくクジラに憧れていた。自分だけが桜色の鱗を持っていることに気付いた千晶ちゃんは、クジラのように人知れず沈んでいける場所を探して群れを離れたのだ。
「ねえ、藍――、」
 いつの間にか千晶ちゃんがわたしを見つめていた。何かを乞うような、不思議な眼差しだった。そんな目をした千晶ちゃんを知らなかった。
「このまま、ふたりでどこかに行っちゃおうか」
 それはうっかり落としてしまった言葉のようでもあり、一方で真剣に紡ぎ出された言葉のようでもあった。多分どちらも本当で、遠くを見つめていた千晶ちゃんがずっと考えてきたことなのだろう。
 その手を取るだけの度胸と能力があったらな、と思った。たとえば千晶ちゃんと同じ、桜色の魚だったなら。けれどわたしは銀色の葉っぱみたいな、あのイワシだった。みんなと同じようにぎらぎら輝く退屈な鱗に包まれて、同じ速度で回っていることしかできなかった。
 わたしは千晶ちゃんの目をまっすぐ見上げた。
「行けないよ、千晶ちゃん」
 千晶ちゃんがびっくりしたように切れ長の瞳を見開いた。まるで自分が無意識のうちに言ってしまった言葉を指摘されたかのようだった。わたしは千晶ちゃんが彷徨わせた手を取って、力を込めた。
 自分が呆れるくらいに平凡で、うんざりするほどいやなやつで、千晶ちゃんの渾身の誘いにも乗れない情けないやつだと思うと悲しくなった。わたしは群れの中のイワシに過ぎない。そしてイワシは群れから離れられない。そういう習性だから。よくわかっていた。だから、わたしは精一杯の願いをかけた。
「わたしたちは、どこにも行けない」
 それが本当になることを願いながら、クジラの骨のことを思った。深い海の底に沈んでいこうとも、誰かがクジラを見つけて、その骨を最後の一つに至るまで海に還してくれる。無駄なものなどひとつもなかったと、思わせてくれる。クジラはひとりぼっちのまま終わりはしない。わたしたちも、誰もいないどこかへなんて行けはしないのだ。
「また一緒に来よう。来年も再来年も、ずっと」
 わたしは千晶ちゃんの手を引いて、水平線に背を向けると、追いかけてきては引き戻そうとする波を蹴散らしながら歩き出した。

クジラの骨が沈む場所

Twitter @cre_yuki

web企画「平成31年の夏休み」参加作品

クジラの骨が沈む場所

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-08-31

Copyrighted
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