妖精

「センセー、タカダが鼻血出してます。」

クラス中の目がケンゾーに注がれる。ケンゾーは右手で血の出ている鼻を押さえ、左手で制服のズボンの尻ポケットのあたりをもぞもぞやっている。ティッシュかハンカチでも探しているのだろう。

「どうした、タカダ、大丈夫か?」

ケンゾーは先生の質問には反応せず、ポケットティッシュを左手だけで器用に丸め、出血している右の鼻の穴に突っ込み、無言で教科書に落ちた血を拭いている。クラスの関心はすぐにケンゾーから離れて、皆、勝手なことを話し始めて教室内がざわざわする。

「保健室に行くか?」

ケンゾーは口を閉じたまま首だけを横に振る。鼻に詰めたティッシュに血が滲んできてあっというまに真っ赤になる。ティッシュを詰め直すが、血はなかなか止まりそうにない。

「しょうがないな。止まるまで後ろで上向いて寝てろ。」

横になったところで血が止まるわけでもなさそうだったけど、ケンゾーは言われるがままに席を立って、教室の一番後ろの席(つまりアタシが座ってるところだ。)の背後に仰向けになって寝転んだ。


ケンゾーがクラスにいることに気がついたのは1学期も中盤に差し掛かる6月1日のことだった。この日から衣替えだというのに、ひとりだけ詰め襟を着ているのがいて、そいつがケンゾーだった。青い顔を赤らめて決まり悪そうに座っているケンゾーを男子らが茶化して女子らもクスクス笑ったが、皆すぐに飽きて、ケンゾーは黒い冬服を着たまま存在感を消してクラスの日常の中に溶け込んでいった。

その日の昼休み、誰もいない教室でケンゾーが詰め襟を脱いでいるのを見た。中に着込んだノースリーブのティーシャツには派手なオレンジ色の髪の毛を逆立てた男の顔の絵がプリントされていた。

ジョニー・ロットンだ!

セックス・ピストルズのロゴもなければ、デストロイのレターもなかったけれど、間違いない。あのパンクヘアと歪んだ笑顔はどう見てもジョニー・ロットンだ。

アタシは何だかとても奇妙な気持ちになった。クラスで、いや学年中でもパンクロックを聴いてるのは自分以外にひとりもいないと思っていた。女たちは皆、聖子ちゃんとかアイドルの真似事ばっかりしていたし、男らは矢沢永吉、さもなくばYMOに夢中で、洋楽を聴いている者はほとんどいなかった。ポリスのレコードを持ってるって女子の家に行って花柄のカーテンがヒラヒラしてるみたいな部屋でドゥドゥドゥデダダダの日本語バージョンを聴いたのがほとんど唯一の他人との洋楽共有体験だった。

クラスにパンクがいるのは、とても素晴らしいことのようにも思えたし、何か自分が特別じゃなくなってしまったような気にもなった。でも、まあいいか。アタシのお目当てはジョニーじゃなくてシドだから。

それから何となくケンゾーが気になって、ちょくちょく観察するようになった。ほとんどものを喋らず、静かだからみんなはあまり気がついていないけど、よく見るとケンゾーはけっこう「ダメなヤツ」だった。運動が苦手で、走るのが遅かったり、縄跳びが飛べなかったりは、まだいいとして、消しゴムやら、鉛筆やら、しょっちゅうモノを落とすし、みんなが前のドアから出入りしているのに、ひとりだけ後ろから入ってきてバケツにつまずいたり、給食のジャムのパックを食べる前からウニャウニャやって破裂させたり、サッカーでどっちに攻めてるかわかんなくなって味方のゴールにシュートした(外れたけど)時は男子らの間でちょっとした問題になった。

ケンゾーには友達がいなくて、だいたいいつもひとりだった。自分から口を開くことはほとんどなかったし、話しかける者もいなかったから、まる1日ケンゾーの声を聞くことがない日もあった。

アタシはこう見えても社交的な方で、友達だってたくさんいる。でも、ピストルズやダムドを聴いてることはみんなには内緒にしてる。アタシが他の女子たちみたいに聖子ちゃんヘアにしないでショートカットなのは、たぶんみんなジューシーフルーツのイリアの影響と思ってるけど、実のところアタシは日本の音楽には全く興味がない。

アタシはうまくやっている。音楽の他にも話題はいっぱいあったし、特にアタシが作ったお菓子をみんなが喜んで食べてくれるのがとても好きだ。

アタシはお菓子作りの天才だと思う。いちど食べたお菓子の味は絶対に忘れないし、ケーキ屋さんで売っているのと全く同じみたいにケーキを焼くことができる。図書館や本屋でフランスやイタリアのお菓子のレシピを見つけて毎週日曜日に新しいお菓子を作る。うまくいった時(だいたい毎回うまくいく)はきちんと可愛くラッピングして学校に持って行く。こないだはマカロンというのに挑戦して、難しかったけど、たぶんうまく作れたと思う。本物を食べたことがないからわかんないけど、友達はみんな美味しいって喜んでくれた。

先生は教室の後ろにケンゾーが寝転ばせていることを忘れてしまったようだった。当のケンゾーは鼻にティッシュを詰めたまま、床の上に仰向けになって難しい顔をして口をもぞもぞ動かしていた。歌っているのか、何か呪文を唱えてるみたいな感じだ。ケンゾーの視線をなぞってみると、それは教室の後ろの壁に貼ってある標語にロックオンされていた。

「愛とはお互いを見つめ合うことではなく、互いに同じものを見つめることである。」


アタシには小さな秘密がある。放課後にこっそりと校舎の屋上に忍び込んで、ひとりで時間を過ごすんだ。屋上のドアからは人が出入りできないようになっているのだけど、階段の脇の小さな窓の鍵がかけられていなくて、手すりをうまく使って、体を滑り込ませて外に出ることができるのを発見したんだ。屋上からは町全体が見渡せて、夕陽が赤いのとか、森の深い緑とか、鳥のさえずりや、流れる雲、町が動くいろんな音、野球部の生徒たちがあげる「おーい」みたいな声、犬の鳴き声、明日の雨のにおいとかいろんなものがふわふわ漂流している。ブロックを積んで作った椅子に腰かけて、ポケットに忍ばせたオヤツを食べながらぼおっとするのがアタシの趣味なんだ。ウォークマンでパンクロックを聴くときもあるし、小さな声で歌を歌う時もある。アナーキー・イン・ザ・UKは3行目から何を歌ってるのかわからないから、アーイアムアンアンチクライスト、アーイアムアンアナーキストを何度も何度もくりかえす。頭の中には鉄の板に穴を開けてグリグリやってるみたいなイメージが浮かんでくる。


もうすぐ夏休みっていう7月の暑い日の放課後に屋上に行って、持ってきたスコーン食べながらアイアンで穴開けてグリグリやっていたら、頭の上の方で「すみません。」と、か細い声がする。見上げてみると、アンテナなんかが設置されている屋上のいちばん高いところの屋根の上に人がいた。

ケンゾーだった。

「何やってんの?」

ケンゾーは何も答えずに赤い顔して居心地悪そうに突っ立って、こちらを見下ろしている。

「下りられない。」

「え?」

「高いの苦手。下りられない。」

「あんた馬鹿じゃないの?ひとりで下りられないのに上ってどうすんのよ?」

返事ナシ。

「どうやって上ったの?」

「うしろ。」

塔屋の裏側にまわってみると、壁にコの字型のパイプが打ち込まれていてハシゴの役割を果たしていた。パイプは二段飛ばしぐらいの間隔で取り外されていて、簡単には上れないようになっている。アタシはジャンプして上の方のパイプを掴んでスパイダーマンみたいに懸垂で体を持ち上げて塔屋の上まで一気によじ上った。何てことはない、運動神経はいい方なんだ。

たかだか2メートルぐらいの差があるだけなのに、塔屋の上からの風景はいつもの屋上のレベルから見るのとは全く違っていた。空がぐっと近くて青が濃くて、風は海のにおいがする。森の木々はまるでダンスを楽しんでるみたいに見えるし、遠くの方に黄色やピンクの花が咲きみだれるのとか、普段は忌々しい蝉の声も南の国の笛の音楽みたいに聴こえる。小麦粉や砂糖やバターの香りもする。きっと街のケーキ屋さんから流れてくるんだ。

「何やってんの?どうやってこれたの?」

返事もないのに質問ばかりしてアタシ何だかバカみたいだ。

「ちょうちょ。」

「え?」

「ちょうちょ、飛んでた、追いかけた。」

初めて日本に来た中国人みたいな喋り方だ。

「蝶が飛んでて追いかけてここに来たってこと?」

「うん。」

「虫が好きなの?」

返事はない。

やれやれ。アタシはデキの悪い子供の親になったような気分。変な気分。こういうの母性本能って言うんだろうか。

「で、どこにいるの?蝶。」

ケンゾーが指差した先に「それ」はいた。


「ねえ、これ蝶じゃないよ。」

それは蝶ではなかった。羽が生えているから巨大な蛾に見えなくもなかったけど、その生き物にはアタシたちと同じような顔があって、胴体があって、ちゃんと手足が生えていた。虫と人のどちらだ?と聞かれたら、たぶん「人」と答える方が正しいと思う。だけどそいつは人間としてはずいぶん小さかった。身長15センチくらいだろうか。背中に携えた大きな羽は光の加減によって薄緑からクリーム色、ラメの入った金色、自在に変色している。カラダ全体は透明に近い黄金で、目や口や爪なんかのパーツは、あるのはわかるのだけど、ぼんやりして実態がつかめない。

「妖精だ。」

+ + +

「あら、レイちゃん、自分で爪を切ったのね。おりこうだったわね。でも、爪切りが置きっぱなしじゃない。ちゃんとしまいなさいな。」

「はーい、お母さん。」

「それにレイちゃん、切った爪が散らばっているわ。放ったらかしにしているとヴードゥに悪さされてしまうわよ。」

「ブードゥって、なあに?」

「ブードゥは森に住んでる悪魔なの。いつもブーたれてて、汚らしいの。」

「キタナイの?」

「そう、歯は真っ黄色だし、トイレに行っても手も洗わないし、素敵な音楽を聴いても何も感じないの。そして、時々森を出て町に来てゴミ捨て場やドブの中をあさって人の髪の毛とか怪我をした時に巻いた血のついた包帯とかを持って帰るの。」

「髪の毛なんか持って帰ってどうするの?」

「ブードゥーは悪い魔術を使って髪の毛や血の痕で人を操ることができるの。優しい人が突然いじわるになったり、さっきまで笑っていた人が急に怒り出したりすることがあるでしょ?あれはブードゥの仕業なの。」

「それ、やだな。」

「でしょ?だから、切った爪はちゃんと捨てるようにしましょうね。ブードゥに見つからないようにね。」

「はーい。」

お母さんは森の魔物の話をして、その後に今度は妖精の話をしてくれた。妖精は蝶のような羽根をまとった小さくて静かな生き物で、幸せと恵みの象徴、夢と幻想の中に生きている。毎朝、森に朝露を食べにやってきて、夕方に夢の世界に戻るまで、一日をずっと森の中で過ごす。妖精が羽ばたくと無数の金色の小さな埃が舞って、その後には綺麗な花や不思議なキノコや青い苔が生える。金の埃が水に落ちると淡く青い透明に変色して、まわりの濁った水も同じように透明になる。妖精が通った後には甘く深い緑色の残り香がいつまでもキラキラと輝いている。

妖精を見たらそれは変化の予兆なんだそうだ。人間も虫が卵から幼虫や蛹になって成虫になるみたいに変態してるんだって。外から見てもわからないけど、全く違う生き物に生まれ変わるぐらい大きな変化が心や身体に起こるのだそうだ。変態するともう元の自分には戻れないから、友だちや家族にお別れを言ったり、今までの自分にお礼を言ったり、生まれ変わるための心の準備ができるように、妖精が時を告げに現れるのだけど、ほとんどの人は妖精が来たことに気がつきもしないらしい。

「今ある時間をとても大事にしましょうね。いつまでも続くわけではないから。」

お母さんは妖精のメッセージを代弁するかみたいにそう言って、それからしばらくして家を出て、二度と帰って来なかった。

こうやって話にしてみると随分酷い母親だなあと思うけど、不思議と彼女に対して悪い感情はない。アタシもあれから何度も変態してるだろうし、嫌な思い出も脱いだ殻と一緒に捨て去ったんだと思う。

+ + +

妖精はずいぶん弱っているように見えた。背中の羽根がかすかに閉じたり開いたりしていたから生きているのはわかったけど、動きは弱々しく、よく見ると羽根のあちこちが傷んでボソボソになっている。半透明の身体は中に電球が入っているみたいに明るくなったり暗くなったりをくりかえしているけれど、その光は見ている目の前でどんどん細くなっていく。

アタシ、きっと変態するんだな。みんなにお別れを言わなきゃ。感謝しなきゃ。

妖精を見たらどうすればいいかお母さんは教えてくれなかった。目の前で彼女(女性に見えた。)が力尽きそうになっていることが、正常なことなのか、アタシには判断がつかなかった。少なくとも、妖精は苦しんでいるようには見えなかった。そのたたずまいはどこまでもエレガントで愛と優しさに満ち溢れていた。助けようとして手を触れるのは間違っていることのような気がした。

ケンゾーはアホみたいな顔をして妖精を見ていた。口をぽかんと開けて今にもヨダレが垂れてきそうな感じだった。ケンゾーの首は女の子みたいにか細く日焼けもせずに真っ白だった。近寄って見ると透き通った皮膚の下に青い血管が走っていて、アタシは何だかゾクゾクするようなおしっこを漏らしそうな気分になった。ケンゾーの耳は大きくて、耳のくせにやけに単調な作りをしていた。耳の穴も大きく、覗き込んだら反対側の穴の出口から外の景色が見えそうなぐらい直線的に頭の中に繋がっていた。ケンゾーの髪は少し天然パーマ気味で、たぶん母親に切ってもらっているのだろう、あちらこちら長さがバラバラで整っていなかった。おでこのところなんか明らかに切りすぎでパッツンしてるけど、まあそれはそれでパンクっぽくて悪くないんじゃないかってアタシは思った。

「わ、えくすぷろーじょん!」

「え?」

エクスプロージョンって?爆発?

ケンゾーの叫び声で我に返って自分がケンゾーの横顔観察に夢中になっていたことに気がついた。振り返ると、妖精の体が燃えるようなオレンジ色に輝いていた。膨張して熱を放ち確かに今にも爆発しそうな様子だった。オレンジ色は赤に、光の中心から今度は黄色い炎が激しく吹き出してくる。ガラスの容器の中で花火を灯したみたいに、ありとあらゆる種類の光が入れ替わりながら弾けて踊り、青、緑、黄、オレンジ、赤、また色を変えて弾ける。耳の奥の方でギターのハウリングにも似たノイズ音が響いている。セミたちの合唱。アフリカ部族の太鼓。ディストーションのかかったベース音がうねるようにドラムの音に絡みつく。チョコレート。チョコレートを湯煎で溶かした時の匂い。血の匂い。アーイアムアンアンチクライスト、アーイアムアンアナーキスト、アイアン、アイアン、鉄、鉄、鉄。鉄製のドラ。巨人の叩くドラの音。ごおおおおん、ごおおおおん、ごおおおおおおおん。

静寂。

妖精は光を放つのをやめたようだった。と思ったら次の瞬間に突如、分裂し始めて、あっという間に無数の粒子の集まりになった。それは、空を飛ぶ絨毯みたいに、宙に浮かぶ小さな天の川のように、波打ちながら、少しずつ拡散しながら、しばし目の前の空間にゆらゆらと漂っていた。ケンゾーが手を出して触ろうとしたのをアタシの手が叩いて止めた。無意識だった。ケンゾーはトイレを失敗して怒られた子犬みたいな目になってこっちを見た。アタシは黙って首を横に振った。(さわっちゃダメ。)

風が静かにやってきて妖精の粒子をさらって連れて行くのをケンゾーとふたりで見守った。

「てんし、きえた。」

ケンゾーが言った。

「天使じゃないの、妖精なの。消えたんじゃなくて森に帰ったの。」

「ようせい、森にかえった?」

まるで幼稚園児を相手にしてるみたいだ。妖精がどうなってしまったのか、アタシにも確信はなかった。もしかしたら消えたのかも知れない。ううん、きっと森に帰ったんだ。役目を果たして、風になって、森に帰って、また生まれ変わって、新しい妖精になるんだ。

妖精が帰ったはずの森がある西の空、飛行機が残した細い雲がぼやけながら広がって、さっきよりもうすくなった青色に融合し始めていた。頭の上では、いろんな種類の鳥たちが、それぞれのスピードで、多くはゆったりと、森に向かっていた。セミはまだ鳴いていたけれど、ヴォリュームは6ぐらいまで下がっていて、木々の話し声と混ざり合うみたいにして、ざわざわと風に舞っていた。ケーキ屋さんのにおいはもう消えて、代わりに部活の男子たちがグランドを掻く土のにおいが漂ってきていた。夕飯の支度をするにおいもそこに混ざっているような気がした。懐かしいにおいだった。


「あんたさ、こっちに来て座んなよ。オヤツあるんだ。一緒に食べようよ。」

あたしは踊り場のヘリのところの出っ張りに座って食べかけのスコーンの入ったビニール袋を取り出す。ケンゾーが来てアタシの隣にぴったりくっ付くようにして座る。おいおいそこじゃないだろ、座るとこ。普通そんなにくっ付くか?と、思うけど、何を言ってもダメな感じがしたから黙っている。ケンゾーはカブトムシみたいなお好み焼きみたいなよくわからないにおいがする。蹴ったら折れそうなくらい細いのに、相撲取りみたいな熱気を纏っている。ふと、アタシは臭くないだろうかと心配になる。

「まるくない。」

「え?」

「スコーン。まるくない。」

「あんたスコーン知ってんの?男子なのに?」

ケンゾーは顔を少し赤らめて下を向く。

アタシのスコーンは丸くない。型を使わないで、まとめた生地をざっくり包丁で切るだけだから、いびつな三角形みたいな形に焼きあがる。ケンゾーはきっとお店で売っているきれいな丸いスコーンしか見たことがないのだろう。でも、それでこれがスコーンだってわかるんだから、舐めてはいけないな。なかなかのお菓子通と見た。きっと育ちがいいんだな。金持ちのくせにパンクなんて筋が通ってない。アタシんちも特にそこまで貧乏なわけじゃないけど、片親だから社会に反抗する理由はある。きっとパンクを聴いても許されるはずだ。

ケンゾーは両手でスコーンを持って、とても愛おしそうに眺めている。くんくんにおいを嗅いだり、裏返してみたりして、なかなか食べようとしない。じれったい。1分か5分か、散々時間をこねくり回してようやくひとくち囓る。もぐもぐ、すごく丁寧に咀嚼している。

「美味しい?」

アタシは待ちきれなくなって感想を求める。

「おいしい。」

ケンゾーが答えて、一瞬遅れてニンマリ笑う。笑った顔を初めて見た。顔をくしゃくしゃにして笑うんだ。前歯がすきっ歯なんだ。

おいしい、とてもおいしい、おいしい、って、何度も繰り返しながら嬉しそうにスコーンを食べるケンゾー見て、アタシはいい気分になる。アタシが作ったから美味しいに決まってるんだけど、人に美味しいと言われるとやっぱり嬉しいんだ。

アタシはウォークマンを出してきて、ボリュームをめいいっぱい上げて再生ボタンを押した。アナーキー・イン・ザ・UKのサビの部分が、割れた音でヘッドホンから流れてきた。ケンゾーが電気ショック受けた解剖のカエルみたいになってビクンと反応するのがわかった。どんどん目が丸くなって、大きな目のままこっちを見るからアタシは何だかちょっと恥ずかしいような変な気持ちになった。次の瞬間、ケンゾーがまた顔をくしゃくしゃにして笑った。

+ + +

ケンゾーが塔屋から降りる時に顔面を梯子のパイプで強打して(普通手を放すか?)大量に鼻血を出したこと。その日に限って用務員さんが窓の鍵をかけてしまい、アタシたちが暗くなるまで発見されず、大騒ぎになったこと。だいたい何でふたりで屋上にいたんだ?とか、とにかくヒマな一般人にとってはこの上なく好物のゴシップネタを提供してしまって、学校中の注目になってしまったし、お父さんも狼狽えちゃって、夜の仕事をやめようかとか言い出したり、ウォークマンを学校に持ち込んでたことも怒られちゃったし、もう本当にいろいろ散々だったけど、その後すぐに夏休みがやって来た。たぶん二学期になったらみんな全部忘れてしまうと思う。

今のところ、アタシの体にも心にも何の変化も起こってなくて、もしかして妖精がメッセージを伝えたかったのはアタシじゃなくてケンゾーだったのかなと思っている。ケンゾーが変態して、ヒゲが生えたり、運動ができるようになったり、日焼けしたりしたら嫌だなと思ったけど、そういう大人っぽいケンゾーも見てみたいような気もする。

次の年の冬にシド・ヴィシャスが死んで、アタシのパンク・ロック人生もそこで一旦区切りが付くのだけれど、今のアタシはそんなことは全然知らない。アーイアムアンアンチクライストって歌いながら、粉をふるったり、バターを湯せんで溶かしたり、この夏はプールも海も行けたし、花火も観れたし、うん。二学期がもうすぐだ。

お話はここでおしまい、話してないこといっぱいあるけど。続きがあるかも。ないかも。

妖精

妖精

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更新日
登録日
2019-08-30

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