おやすみなさい、エリゲネイア
Erigeneia,Requiescat in pace.
即位に際してアウリュディケが用意させたのは、最高級の毛皮のマントでも大粒の宝玉を列ねた首飾りでも金糸銀糸の刺繍をあしらった繻子の靴でもなく、己の棺だった。
齢十三の少女が納まるにふさわしく小さな棺は、氷雪から削り出したかのごとく玻璃でできていた。継ぎ目を覆う金細工には、帝室の紋章であるひなぎくが花弁の一枚一枚に至るまで繊細に彫りこまれている。この中で眠る者がだれであるのかひと目で知れるように。
完成したばかりの棺を前にして、アウリュディケはほうと感嘆をこぼした。
窓扉から射しこむ光に包まれた棺は仄白い輝きを放ち、夢の中から現れたような佇まいで主を出迎えた。
曇りひとつない棺の側面は、よくよく目を凝らしてみるとうっすら青紫色を帯びている。指の痕をつけることすら惜しく、アウリュディケはドレスの袖口を縁取る透かし編み越しにそっと触れた。つるりとした玻璃の板は予想よりも硬く厚みがあった。
「素敵だわ。まるで御伽噺に出てくる妖精女王の棺のよう」
声を弾ませて背後を振り返ると、青い騎士服をまとった長躯の男が冷ややかに答えた。
「城下の職人たちが陛下のために寝食を惜しんでこしらえたと聞き及んでおります」
「とても気に入りましたとお伝えてしてください。褒賞は出せるだけ出してかまわないわ」
お願いねと念を押すと、長躯の騎士――フランツ・ファルスは神経質に整えた髭の下の口を引き結んだ。
剃刀のような双眸が苛立ちをこめて主君であり、従兄の忘れ形見である少女を見つめる。
アウリュディケは眉根を垂らし、青白いかんばせに苦笑を滲ませた。
「最近のフランツは怖い顔ばかりね」
「あいにく生来でして」
「昔はもっと笑っていた気がするわ」
昔――アウリュディケがこの春の離宮で忘れ去られた末の皇女として暮らしていたころ。先代の留守居役だった父、従騎士のフランツから「リディカ」と呼ばれ、無邪気に離宮の庭を駆け回っていた子ども時代。
たった八年前のことなのに、ずいぶん遠くまで来てしまった。
棺の蓋に映りこんだ『女帝』の姿に、アウリュディケは両目を伏せた。
裳裾を引きずる古風なドレスで未成熟の痩身を覆い隠し、滝のように流れ落ちる髪だけは黒々として豊かな娘。血色の悪い顔の中で真っ黒な瞳が異様に大きく見える。色狂いだったという母は今の自分の年ごろですでに長兄を産んでいたというのに、アウリュディケは未だに初潮を迎えていない。
――たとい女になったとて、この胎が子を孕むことはないけれど。
グリゼルディア帝国皇帝アウリュディケ・エオース・イグラシオンは清らかなる少女帝のまま死なねばならぬ。国家崩壊の動乱、燻り続ける戦火を一刻も早く鎮めるために。
〈光芒の魔女〉と呼ばれた最後の魔法使い、グリゼルダ・エオースによる大陸統一から二百三十年。アウリュディケが生まれたころ――否、母が戴冠を迎える前から大帝国は今まさに腐り落ちんとする果実だった。
皇帝は玉座の上の傀儡に等しく、帝室直系の子女もまた同じ。何世代にも及ぶ婚姻で高貴なる魔女の血を取りこんだ諸侯によって政権争いがくり広げられるようになった。土の器に入った皹が少しずつ枝を伸ばしていくかのごとく、広大すぎる帝国は内部から分裂していった。
若くして帝位を継いだ母は、各派閥から皇配を迎えて散逸した権力を取り戻そうとした。しかし政略結婚を重ねた結果、父親が属する派閥の思惑を背負って生まれた十七人の皇子皇女は、後継者を指名しないまま母が急逝したことで帝国の終焉を加速させた。
アウリュディケは、春の離宮へ保養に訪れた母が留守居役を継いだばかりの若い騎士にちょっかいを出して生まれた庶子だ。未婚のまま皇帝の愛人となり、更には皇女の父親にさせられた騎士は、しかし皇帝を恨むことも生まれてきた娘を疎んじることもしなかった。
両親の間にどのような交情があったのかは知らない。
父は母から賜ったという指輪を終生肌身から離さず、娘にねだられて母との思い出を語るときには尊いものに触れるようにやさしく撫でながら微笑んでいた。母は末娘の顔を見るたび、「おまえは本当にファルスの坊やそっくりだ」と嬉しげに目尻の皺を深めていた。
産後間もなく母は帝都に戻り、父はアウリュディケを育てながら黙々と離宮の留守居を務め続けた。国内の情勢が悪化をたどる中、アウリュディケは穏やかな揺籃期を過ごした。
従騎士として父に仕えていたフランツは、小さな皇女殿下の子守り役を務めた。十五違いの従叔父は、アウリュディケにとって兄のようなひとだった――と思う。
……種違いの兄姉が十六人もいるが、アウリュディケは『きょうだい』というものがよくわからない。五歳で皇族が暮らす太陽宮に召し上げられた日から、ほかの皇子皇女がアウリュディケの『家族』であったことはない。
フランツは父のことを「従兄上」と呼んで慕っていた。ならば自分がフランツに抱く親しみや切なさは、妹が兄に寄せる感情と同じもののはずだ。
「おそれながら申し上げます」
カツ、と軍靴が磨き抜かれた床を打ち鳴らした。
父の命と引き替えに帝都から落ち延びたアウリュディケを迎え入れてから、春の離宮は数少ない使用人の尽力によって完璧な状態に保たれていた。
毎日交換される清潔なリネン。痩せ細るばかりのアウリュディケのために工夫を凝らした滋養のある食事。陽射しがたっぷりと降り注ぐ温室を彩る素朴な草花。真綿のようにひたすらやさしいそのすべてが、留守居役を引き継いだフランツの采配であった。
一年前に母が崩御してから間もなく、長子であることを理由に帝位継承の正統性を訴える第一皇子と、帝国最大の派閥を率いる公爵家に降嫁した第一皇女の間で武力衝突が起きた。貴族の私兵同士の小競り合いは他勢力を巻きこみながら、たった三月の間に大陸全土に及ぶ争乱へと拡大した。
二百三十年続いた統一国家は、ひと月と経たずに瓦解した。さながら砂の城が崩れ落ちるがごとく。
落日の帝冠を手にせんと剣を取った兄姉はことごとく刺し違え、戦陣の天幕、あるいは鉄の砦の奥深くの閨から姿を消した。
帝冠を継ぎ、ひなぎくの紋章旗の下に流された血を贖うことができる直系皇族は、もはやアウリュディケしか残されていない。
「陛下は、厨房の下働きをしているナイアという娘をご存じでありましょうか」
フランツは一歩進みでると、挑むような眸を向けてきた。
アウリュディケは困惑を眉宇に滲ませ、首を横に振った。「……いいえ」
「年は十一。髪色は黒。背格好が陛下によく似ております。あいにく目の色は青く、顔立ちも似ているとはいえませんが……毒のために御尊顔が爛れてしまったと偽って潰してしまえばよろしいかと」
「フランツ?」
「ナイア本人には、すでに意思の確認を行っております。――陛下の御為、身を捧げる覚悟はできていると」
ざわりと背筋が粟立った。
凍りついたままみるみる蒼白になっていくアウリュディケを直ぐと見据え、フランツは訴えた。
「必要なのは『皇帝陛下の御遺体』です」
「……フランツ」
「どうぞ、影武者の用立てをお命じください」
「フランツ!」
悲鳴じみた声は天井まで反響した。
細い肩を震わせるアウリュディケを前に、フランツの表情は揺らがなかった。
「そんな……そのようにおそろしい、おぞましいことを言わないで」
「いいえ。陛下のご命令を賜るまで何度でも申し上げます」
軍靴の踵が硬く床を打つ。フランツはサーコートを捌き、棺の傍らで立ち尽くす少女帝の正面で片膝をついた。
アウリュディケはドレスの胸元を握りこみ、薄紫の視線をはねつけようとした。
「どうかお望みください。あなたが望んでくだされば、私はなんとしても叶えてみせます」
「だめよ。そんなこと……できないわ」
錐で胸を突かれたような痛みを覚え、アウリュディケは顔を背けた。
死にたくないなどと――口にすることがどうして許されようか。
爛熟したざくろの実よりも激しく爆ぜた戦火は大陸を焼き尽くし、旗印を失った人びとがわれに返ったときには荒廃した大地に屍の山と血の河が広がっていた。もはや国と呼べる体裁は微塵もない。
生き延び、ほとほと疲れ果てた人びとは幕引きを求めた。
勝者も敗者もない戦乱を鎮めるためにひとり生き残った末の皇女を戴冠させ、その死を以て大帝国の歴史に終止符を打つ。皇統の廃絶という、この上なく平和的な解決案だ。
不意に、各地の有力者が名を連ねた長い長い嘆願書を受け取ったときの、力が抜け落ちるような虚無感がよみがえった。
床に額をこすりつけて声を振り絞る使者を、同席していたフランツが今にも斬り捨てようとするのをとっさに制止した。めったに感情を乱すことのない留守居役の激昂に、アウリュディケの心は揺さぶられた。
――憐れに死ねば、かれはどれほど苦しみ嘆いてくれるのだろうか。
燃え落ちる太陽宮からアウリュディケを離宮まで連れ帰った父が死んだときも、フランツは涙ひとつこぼさなかった。薄紫の瞳を凍らせて、父の亡骸に縋って泣き崩れるアウリュディケに静かに寄り添っていた。
「リディカ」
アウリュディケは息を呑んだ。
即位してから徹底して「陛下」と敬称を口にしてきたフランツが自ら禁を破った事実に動揺する。
「従兄上が命を捨ててまで帝都に取り残されたあなたを救いだしたのは、なんのためとお思いか」
脳裏に火の粉が散った。
唯一の後ろ盾であった母を亡くしたアウリュディケは、ほかの皇子皇女のように太陽宮から逃げられないまま開戦を迎えてしまった。間もなく太陽宮を占拠した第一皇子と帝都に攻め入った第一皇女の両軍が衝突し、絢爛たる宮殿は火の海となった。
アウリュディケが無事でいられたのは、母の側近であった女官長によって匿われていたからだ。女官長はアウリュディケを見習い女官の格好をさせ、常にそばに置いて長兄の目を欺いた。
「万が一のときには、お父上に任せるまで姫君をお守りするよう申しつけられております。『かまってやれず寂しい思いばかりさせてしまったが、いちどぐらい母親らしいことをしてやらないと』とおおせでした」母の乳母も務めたという老齢の女官長は、帝都まで駆けつけた父にアウリュディケを託して炎に消えた。
離宮への逃避行の最中、父はアウリュディケを庇って深傷を負った。背中に何本も矢が刺さったまま馬を走らせ、離宮にたどり着いたときには事切れていた。
夢見ているかのように穏やかな笑みを浮かべて、父は最期に何を想ったのだろう。幼い娘と暮らした日々か、あるいは愛した女性とともにあった刹那のごとき青春時代か――
「愚か者どもの尻拭いのために、焼けた鉄のかんむりを被せ、冷たい毒を飲ませるために助けたのではない。あなたが生きて幸せになるために、従兄上は死んだのだ」
「……そうね。そうかもしれないわね」
アウリュディケは息を吸いこみ、視線を持ち上げた。意識して笑いかけると、フランツがかすかに眉を歪めた。
「でも、ねえフランツ。父さまが愛してくれた小さなリディカは、みんなに忘れられていた末皇女は、必要とされていないのよ」
「――何を」
「臣民が望むのは、その首と引き替えに戦乱を終わらせる英断を下した皇帝アウリュディケ。死の栄光を以て、新たな時代の兆しを言祝ぐ黄昏の女帝」
後世のあらゆる歴史書に、アウリュディケ・エオースの名は悲劇とともに記されるだろう。齢十三の少女帝の死を、これから生まれてくる多くの人びとが悼み、忘れずにいてくれるだろう。
――フランツ・ファルスの心から、けしてアウリュディケが消えてなくならぬように。
「わたくしは永遠になりたい」
フランツは瞠目したまま絶句した。アウリュディケは騎士に向き直ると、首を傾げてかれの顔を覗きこんだ。
「父さまが愛していたのは母さまよ。母さまが愛していたのも父さまよ。女官長がわたくしを守ってくれたのも、あなたがわたくしを大事にしてくれたのも、母さまの娘だから、父さまの娘だから。かわいそうな、ひとりぼっちのリディカだから」
「リディカ……?」
「死ぬのは怖いわ。悲しいわ。でも、わたくしがわたくしとして――アウリュディケ・エオースとして意味を持って必要とされたとき、本当に嬉しかったの」
幼いリディカのままでいられたら、どんなによかっただろう。
フランツを「にいさま」と呼んでじゃれついていた、無垢なリディカのままだったら。
「太陽宮で、わたくしは透明だったの。兄さま姉さまはわたくしをいない者と扱われ、母さまも気まぐれに呼びつけるだけ。わたくしは、父さまとの思い出を、往年を懐かしむための慰めだったのよ。色狂いの君の人形姫――そう呼ばれていたわ」
太陽の名を冠しながら、冬枯れの野のように寒々としていた宮殿。だれの目にも映らかった少女の心を描きだしたのは、皮肉にも使者に見せたフランツの怒りだった。
――わたくしを見て
――わたくしの喪失を惜しみ、悔やみ、永遠に忘れないで!
胸が張り裂けそうな絶望と渇望を抱き、アウリュディケは黒玉の瞳を潤ませた。
「きっと末永く語り継がれるわ。大帝国最後の女帝を、だれもが愛し、忘れずにいてくれる。ねえフランツ。それは、とても幸福なことだと思わない?」
「愚かな――実に愚かな考えだ」
身震いするほどの怒気を滲ませ、フランツは吐き捨てた。「そんなものは、ただの感傷的な偶像だ。あなたは、今ここにいるリディカだけだ!」
嗚呼、なんて実直でいとおしい騎士だろう。
リディカと、妹のように慈しんだ少女を生かそうと、罪なき娘を身代わりにすらしようとする、残酷なほどやさしい兄だろう。
たとえば。
母が病に倒れる前に世継ぎを指名し、然るべき者が玉座に就いて。
帝位の継承権を放棄したのちにファルスの家名を名乗ることを許され、父が待つ春の離宮へ帰ってきて。
たとえば――父の後継となったフランツに嫁ぎ、かれの子の母となる未来があったのだろうか。いつか、この想いを恋と呼ぶ日が来たのだろうか。
あえなき夢想を瞼の下に押しこめ、アウリュディケは首を横に振った。
「いいえ。わたくしは、あなたのリディカではいられない。この国の、すべての臣民のためのアウリュディケにしかなれないの。わたくしはファルスの騎士の娘ではなく、偉大なる魔女の血を継ぐイグラシオンの女だから」
あなたがファルスのフランツであるように――姫帝の言葉に、留守居役の騎士は固く拳を作った。
「私に、女帝の騎士であれとお命じなさるか」
「ええ。わが父が、最期まで母帝の騎士であったと同じく。騎士の誇りと誓いを貫き、いとけなき女帝の死の門出を讃えなさい」
ふとまなざしをゆるめ、アウリュディケははにかんだ。「フランツ兄さま」
フランツは息を詰め、優雅に片手を差しのべる少女を凝視した。
玻璃の棺を背に幽玄に微笑む、光り輝くような斜陽の帝国の女あるじを。
「リディカの『お願い』、叶えてくださる?」
むかし、離宮の庭の片隅でこっそり耳打ちしてきた小さな皇女殿下と同じ甘やかな声で。アウリュディケは命じた。
青白いかんばせにも、黒々と濡れた瞳にも、もはや反論を許すやさしさはなかった。
騎士は密やかに目を伏せ、女帝の手を取った。
冷たくしららかな手の甲に触れるか否かの接吻を落とす。
「わが忠誠は、とこしえにあなたのもの」
アウリュディケの指先を押し戴き、フランツは宣誓した。
「なべて御心のまま――いずれ明けたる夜の君の栄えある眠りに祝福あれ」
斯くして、グリゼルディア帝国皇帝アウリュディケ・エオース・イグラシオンは、戴冠よりひと月を待たずして崩御した。
毒入りの葡萄酒を飲み干した少女帝は、側近の騎士フランツ・ファルスに看取られて瞼を閉ざした。午睡のまどろみに遊んでいるかのような微笑を湛え、とことわの処女となった玉体はひなぎくの花を敷き詰めた玻璃の棺に納められた。
春の離宮の大広間で執り行われた葬儀には、大陸じゅうから弔問を望む臣民が押し寄せた。そのあまりに儚く美しい御姿を目にした者は涙を流して平伏し、棺を覆う真白き花の紋章旗に接吻した。
崩御の直前、アウリュディケはフランツ・ファルスの勲功を賞し、春の離宮を含めた一帯の天領と帝国貴族の最高位たる『大公』の称号を下賜した。
以降、ファルス家は天領たる南部の湖水地方、及び北部の荒野を治め、二代レイナルドに至ってディッセルヘルム公国を樹立する。
大帝国の終焉とともに大陸は再び東西に分裂し、数多の国がひしめき、時に剣を交わす時代が到来した。小国ながら唯一大公が統治する公国として、ディッセルヘルムは波瀾に富んだ興亡史を綴ることとなる――
……これよりのちは、アウリュディケの与り知らぬ話である。
ひそりと静寂に満ちた薄闇に、白々と浮かび上がる玻璃の棺。
雪白のひなぎくの花に埋もれて眠っているのは、緑の黒髪に花かんむりを飾り、婚礼の装束のごとき白無垢のドレスに身を包んだ少女だ。
やさしげな眉も、繊細な鼻筋も、滑らかな頬も、今にも綻びそうなふっくりとしたくちびるも、時を止めて凍りついている。棺を開けて口づけたら、眠たげにあくびをしながら瞼の下の瞳が現れるような――そんな姿のまま。
カツ、と軍靴を鳴らし、棺に歩み寄る長躯の男がいた。
「リディカ」
兄が妹を呼ぶような、あるいは昔日の想いびとを偲ぶような声で、男はささやいた。
骨張った手が棺の蓋を、その下で眠り続ける少女の輪郭をゆるりとなぞる。棺の内側からこぼれる燐光が旧大帝国の騎士服を纏った男――色褪せた髪を刈りこんだ壮年のフランツ・ファルスの姿を彫り起こした。
冷えきった薄紫の眸はそのままに、年月を刻んだ騎士の横顔が歪む。
「あなたは私を許してはくださらないだろうね、いつくしの君」
ここはフランツただひとりが知る、アウリュディケの『墓所』だ。
公には、春の離宮――現在は玉蘭宮と名を変えた宮殿の敷地内に建てられた霊廟に埋葬されたとしている。ひなぎくの紋章が彫りこまれた墓標の下に空の棺が納められている事実を知るのは、フランツと、のちに『妻』との間に儲けた後継たる公子だけ。
まだ少年だが、フランツが相続したアウリュディケの『遺産』のひとつを真実とともに託され、父の期待に応えてイグラシオンの騎士の宣誓を済ませている。フランツの死後も、息子やその意志を継ぐファルスの子らが騎士の務めを果たしていくに違いない。
――すなわち、精霊の魔法によって仮初めの死という眠りに就いた少女帝を、いずれ訪れる目覚めまでお守り申し上げること。
「継ぎ目の覆いの紋様は、ひとつひとつが魔法の呪文になっているのだよ。湖の魔性がこしらえた眠り薬の効き目が消えるまで、あなたの肉体を仮死状態のまま半永久的に保存する。そういう仕掛けさ」
フランツは満足げに微笑んだ。
初代大公フランツ・ファルスが正式な妃を迎えたという記録はない。
二代大公レイナルドをはじめとするかれの子女は、身分の低い側室から生まれたというのが通説だが――故意的に削られた生母の名に、眉唾な存在をあてがった噂がまことしやかに残されている。
曰く、フランツ・ファルスは湖水地方で語り継がれる魔性、〈湖の乙女〉ニミュエと婚姻を結んだと。
人ならざるものと契りを交わすまでにはいろいろとあったが、子を欲しがった女精霊にフランツが求めた見返りのひとつが棺に施された魔法であることは事実だ。
「あなたを死なせることなど、どうしてできようか」
絞りだした言葉が男のすべてだった。
「リディカ。なぜ従兄上が留守居役を私に引き継いであなたを助けに向かわれたのか、最後までおわかりでなかったね」
ざらついた声を震わせ、フランツは笑った。
「従兄上は家督と同時に、御身を私に委ねるおつもりだったのだ。上帝陛下の騎士であった従兄上は、あなたを私に託したあと殉死する算段だった。皇族狩りの及ぶ前にあなたを娶れなどと――まったく、勝手なんだが寛大なんだかわからないおひとだ」
昔、むかしの話だ。
小さな皇女殿下が戯れに、子守り役の従騎士に「とうさまがかあさまの騎士なら、リディカの騎士はフランツにいさまね」と笑いかけた。
生真面目な青年は、教本どおりの所作と台詞で宣誓をした。
青臭い誓いにはしゃいでいた姫君が許嫁になるとは、夢にも思わなかった。
だが、遠き日の輝きは――フランツにとって永遠になった。
「ほかの何に替えようと、あなたを失うなど耐えられない。たとい私が生きている間に目覚めなくても――」
ニミュエによれば、アウリュディケの体内から精霊の毒が消えるまで何百年もかかるという。どれほどの年月を要するのか〈湖の乙女〉にすら不確かなのだと。
今は、ただ祈る。
アウリュディケの見る夢が穏やかな、やさしい光に満ちたものであるように。いつか彼女が目覚める朝の空が、祝福と希望に輝いているように。
ドレスの胸元で組み合わさる少女の両手に玻璃を透かして手を重ね、貴婦人に愛を乞う騎士のごとく男はささやいた。
「佳い夢を、私の朝まだきの姫君」
こぼれ落ちた吐息は玻璃を曇らせたが、眠れる女帝に触れることなく儚く消えた。
おやすみなさい、エリゲネイア