助走距離

長雨ノけいね

男子高校生が不思議な3日間を過ごす話です。炭酸ジュースでも飲みながらお読みください。

 瞬きをする度に変わる世界にいたのなら、君はきっと目を瞑る。けれどまた、漫然とする日々に生きられないのも事実だから。
 現代文の先生は何やら熱心に解説を進めているようだ。かといってその声は僕の鼓膜を震わせることに留まって、一向に海馬へと向かおうとはしない。わかるようでわからない評論文の要約が見事に外れていたことがわかったので、諦めて本を読む。本といってもなんのことはない。砕けた口語調で書かれていて、ニ、三枚挿絵が挟まれているライトノベルというやつだ。引き出しの中に隠しながら屈んで読んでいればそうバレはしない。反対側では数人かたまって面白おかしく話しをしている。あの辺りの席のやつはよく授業中そうしているのだが、大方そうした勉強ごっこが楽しくて仕方がないのだろう。なに、見下しているのかって?いや妬んでいるのさ。彼らのしていることは時間の浪費だが、空費するよりずっとよい。だからこうして僕もライトノベルなんぞ読みふけっているわけさ。ならもっとマシに授業を聞けと言いたいのかもしれないが、受験であまり使わない科目な以上御容赦願いたい次第だ。言うなればデパートにいる感じだよ。ショッピングモールでも構わない。それぞれの階を見回るか、最初からあたりをつけて直行するのかは人によりきりだろうが、兎も角朝早くから行って夜までいてほしい。そうすると、外の明るさが変わるごとに出入りする客層の変化も見て取れる。季節でなくとも一日の中ですら景色が移りゆく。それになんとか対応し、変わらぬ環境を保ち続けるのがデパートなのだろう。不思議なものに憧れる僕としては、それが一つの持論であり救いでもあった。
 さて、三ページほど右側に溜まったところで栞を挟み起立する。ああようやく終わった。まだ四限だが昼休みが来ると思えば気が和らぐよ。手を洗いに水道へ行くと、開けた窓から生ぬるい風が入ってきた。ああそうだ、もう梅雨入りしているのだと思いつつも、この風はまだ夏には至らないなという感想を覚える。夏至が来るまで今日を入れて四日だが、やはりあの勢いは息を潜めている感じがする。なんだろうな夏の充電期間、いや助走距離って感じなのだろう。
 数学と化学を終え、ようやく帰宅だ。隣の席のやつに明日は体育があったか聞いてから通勤快速に間に合うように歩を速める。三ヶ月程前にこの国道をもう少し県北に行ったところでひき逃げがあったというが、張り紙の撤去を見る限り捕まったんだな。しかしやりがいがない日々だよ。こんなことなら別の学校へ行けばよかった。いや、何処へ行っても同じことの繰り返しか。
 翌日の英語表現の時間中、参考書を読むのもそこそこに窓の外を眺めるのに精を出していた。面白いかって?つまらんよ。けれどこれしかやることがないようなもんだから。昨日の夜に切った爪の少しガタガタとした断面を指の腹でなぞりながらぼーっとする。まあ次の数Bと五限の物理で問題集を解く予定だから、残りの十八分を体力回復に眠ろうかしら。
「気をつけ、礼」
夢こそ見なかったものの深い眠りの底で響いた終業の号令で、急いで起き上がり無言でぺこりと一礼しまた突っ伏せる。
「いやでも実際どこの部活もギスギスしているもんだよ」
「へえそうなんだ。てっきり和気藹々とやってるのかと」
昼休みなのだが弁当はとうに食べ終わっており、今は体育館上の卓球場で白球を打ち合っている。
「だって(ひかる)はアニメの部活を見て憧れを憶えたんだろ」
「まあ」
「でも卓球部は辞めたよな」
「そらきつかったし」
今だって既に蒸し暑いんだ。夏なんか、そりゃあもう地獄だったさ。
「他の部はもっときついかもな」
「うーん」
「それで物理部と」
「物理実験室の鍵が貰えるって聞いたからさ」
窓の外は少し鉛色に陰り始めている。
「まあとにかく運動部が青春だなんていう凝り固まった考えは捨て去れよ」
「うーん、あ!」
そう行った最中、鵠沼(くげぬま)の強烈なフォアドライブが僕のバックサイドをストレートに駆け抜けていった。
 眠い、疲れた、なんか熱っぽい。朝からそんなことを思いながら駅のホームに立っていた。決して寝坊したわけではないのだが、なかなか玄関を出る決心がつくまでに時間がかかってしまい遅刻かどうかの瀬戸際に立たされているのだった。今日は金曜日。今日を終えれば明日は休日…だったらいいのだが生憎今週は土曜授業があるのだ。お陰で今は残り三十kmでトップを狙おうとしてペースを上げたはいいが、先頭集団は思ったより速くこのままではゴールに届くかどうかわからないマラソンランナーの気分だね。下りの電車は上りと比べてまるっきり来ないのも頭を悩ませる。十六分に一本だなんて、新幹線でももっとマシな頻度だろうよ。なんてくだらない恨み節を心中で唱えていると、ふと左隣の乗り込み口に見覚えのある女子生徒が立っているのが見えた。直ぐに分かった、あの子は皆川だ。小学校と中学校で一度ずつくらいは同じクラスになっていた。口下手な僕でも彼女とは話しやすく、よく言葉を交わしていた憶えがある。はて、彼女は僕よりさらに下ったところにある私立校に通っている筈なのだが、こんな時間に乗り込んで間に合うのだろうか。まあ駅から近いのかなとか、なんとか邪推している間にようやく電車が来た。
 車内の半端な冷房を浴びながらいつも通り読書でもと思ったが、僕はなんだか彼女のことが気になって今ひとつ視点が定まらないのだった。いや、間違いない。あの時の彼女なら十人いれば八人に振り向かれてもおかしくない容姿だった。だって何故なら彼女の右腕にはギプスが、顔の半分は頭から巻かれた包帯で目の当たりまで覆われていたのだから。
 朝の件で頭の中は結構混乱していた。うつむき伏せた顔からは、以前のような掴み所のないチャーミングさは失われていた。お陰でいつも以上に六限の古文は意味不明なままに終わり、帰宅を余儀なくされた。いつも通りの時間に駅に着き、電車に乗り込む。十五分もかからずに下車先に着くが、今日はまだ帰らない。皆川になにか、なにかを言うべきな気がしたからそれを伝えるまではここを離れられない気がした。
十分、二十分、三十分、一時間と時間は過ぎて行き、早くも待ち始めてから五時間が過ぎ、二十一時半にさしかかろうとしていた。僕は電車が着く度本から顔を上げて確認をしていたが、これを最後に帰ることにした。ホームにあるベンチは僕の体温ですっかり温まっており、誰かに譲りたいくらいだった。きっと皆川は今日は早退か何かしたのだろう。そう結論づけて、帰宅後先に帰っていた母親にガミガミ言われながら、釈然としない気持ちで眠りについた。
 いつもよりちょっと遅くに目が覚めた。まだ電車には普通に間に合う頃だが、今日は休日ダイアなので少し急がなければならない。
 学校へ着き、出欠確認までの数分間クラスメイトとレーシングゲームをしていた。今朝は皆川を見なかったな、なんて思いながら僕の操る機体はドリフトをする。そういや今週はこれを朝やるのはニ回目だなと気づきつつ、席に戻り担任が挨拶をする。ラグビー部の面々がまた公欠なのかということに少しばかりの驚きを覚えつつ、化学の準備をすると…どういうわけかコミュニケーション英語の教師が入ってきた。あー教室を間違えたんだなと思っていたら、在ろう事か誰も何も言わずに授業が始まったではないか。前の席の坪井に
「おいなんで平然と英Cが始まってるんだよ」
と聞けば
「だって一限は英Cじゃん」
と驚き顔で返される。
「土曜の一限は化学だろ」
「何言ってんのお前。カレーを食べ忘れた水兵か?」
「え?」
脳内CPUが処理中のマークを発しているのがわかった。
「ちょっと待って、今日何曜日よ」
「はあ?」
と怪訝そうな顔をして、面倒臭そうにポケットからスマートフォンを取り出し日付を見せる。
「六月十八日の水曜日だけど」
「は?」
だるそうにあしらわれた後、つつがなく授業は始まったが僕は全くそれどころではなかった。北回帰線の長さは毎年変わるのか、とか六月は時間の流れが一方向じゃないのが常だったっけとかわけのわからない理論が渦巻いている。ダメだちっともわからん。それが唯一の結論だった。
 現代文の時間、先生は何やら熱心に解説をしているようだけれどその声は僕の鼓膜を震わせるばかりで脳には届かない。ふと手の感触が気になって、爪を見れば四日ほど前の伸びに戻っていた。疑問は確信に変わった。時間はループしている。土曜日を向かえずに水曜日へと戻ったのだ。まさかこんなSFチックなことが起こるなんて、思いもよらずくらりと来たが、反面これはチャンスでもあった。
 六限の物理をサボって駅に向かう。いや正直どの科目をサボっても良かったのだ。なんて言ったって一度受けているのだから。しかし欠席の数が最小で済むのはやっぱり六限だったからそうするより他なかった。
 ホームタウンで下車をして、皆川の家へ向かう。確か彼女は駅の近くの、この街では比較的高そうな高層住宅に住んでいるはずだ。なんて言って会おうかは大体考えてあったが、流石に中二からほとんど女子と喋っていなかったから緊張するな。意を決してオートロックのインターフォンを鳴らそうとした時、彼女が何号室に住んでいるのか知らなかったことに気づいた。ここに住んでいる友達に聞こうにも当然まだ帰ってくるはずものなく、仕方なくエントランスの前で道路を眺めて立ち尽くすばかりだった。
 一時間くらい待っただろうか、十六時に差し掛かった頃皆川は帰ってきた。小説を立ちながら読んでいたせいで反応が遅れたが、顔を上げた先で彼女と視線がぶつかった。えらく長く感じられた、実際は一秒にも満たなかったんだろうけど普段は割とポーカーフェイスな彼女の眼が一瞬驚きで見開かれた気がした。僕はなんだか自分の行動に自信が持てるようになってきて、なんとか口を開けられた。
「あ、あのさ…俺皆川さんと一緒の中学校だった村上なんだけど…」
「うん」
と、疑うような冷たい視線を投げかけられる。だが怯まず
「君のこと見たんだ。昨日八時近い電車を待ってるとこ、それで…」
一瞬驚いてからまた直ぐ冷静な表情に戻り
「待って。私は今日退院したんだけれど」
「え…」
まるで考えていなかった。彼女の風体からして怪我をしているのは明らか、あの日まで入院していた可能性も十分考えられたはずなんだ。それに何より、僕が今はなしたのはこれから起こる“未来”のことだ。
「あ、いやそのえっと半年以上前のことで」
「さっき“昨日”って言ったよね。だとしてもなんで今更。それに私もっと早い時間の電車にしか乗らないから」
デタラメはよせと言いたげな眼を逸らし、オートロックに鍵を差し込む。ゆっくりとガラスの自動ドアは開き、彼女は歩き出す。
「あ、あ、け、怪我大丈夫?」
形のいい瞳はレンズ越しに、僅かに細まった。しまったと後悔する頃には遅かった。
「ええ全然ダメ。三ヶ月近くも入院してリハビリを続けたけれど、指は震えるばかり」
「…ゴメン」
そんな謝罪は彼女には届かず、終いには去り際に
「入院している間、小学校の頃のクラスメイトはあなた以外みんな来てくれた」
と告げていった。僕は間に合わなかったんだろうか。いやそれはまだ早計かもしれない。
 左手を壁につきながら階段を上がっている皆川少女の息は荒かった。退院したと言うのに付き添いの家族はいないのだろうか。いればとうに彼女はこんな顔をしていなかったのかもしれない。
「あの、よければ手を貸すよ」
「ヒャアッ」
ソプラノな叫び声をあげて振り返った彼女の前には、お見舞いに来なかったクラスメイトがいた。
「ごめん、ごめん、ごめん。驚かすつもりはなかったんだ」
「どうやって入ったの!」
「あーいや、一階の中庭から塀をよじ登って」
「ふーん、じゃあ大家さんにセキュリティの改善が必要だって伝えないと」
「ま、待ってください。皆川さんが苦しんでいた時に何もしなくて本当にごめん」
「いいから、放っておいてもう」
「それでも本当にごめん。ここで君に言わないと僕は一生後悔する気がして」
「じゃあ一生引きずったままでいて」
「…いい思い出も欲しいよ」
「無理な相談ね、あなたには」
「じゃ、じゃあせめて!明後日の朝駅のホームで会えませんか」
その言葉に彼女はビクッとしたような表情を浮かべて、小さな声で
「わからない。もう学校へ行く必要もないから」
今の彼女に僕が言えることを最大限に考えた。この一瞬で。
「観に行こうよ」
「え?」
「皆川さんが観たいもの、全部残さず観に行こう。君が歩く道は僕が草を刈るからさ」
彼女は小さく息を吸い、瞳を一瞬輝かせた。それは僕の知っている小学生時代のそれだった。
「勿論いつでもいいんだ。今すぐに行かなきゃいけないわけでもない。単なる僕の偽善だと思われてもいい、いやむしろそっちの方が正しいくらいなんだ。でももし皆川さんが退屈に耐えきれなくなったら直ぐに言って欲しい」
「…ちょっと待ってて」
いや即決だったようだ。
「待ってるよ、電車が来ても待っている」
 直ぐとは言ったものの皆川さんが再び階段を降りてくるまでにニ十分近くかかった。まあ第一退院したばかりだし、そりゃ色々準備があったんだろう。 私用の物は無いのか通学鞄にひとしきりの持ち物を入れたらしい。
「そっちは大丈夫?」
「あーじゃあ、ちょっと俺も家に寄らせてくれるかな」
「うん。なるべく早くね」
祖母に苦し紛れに、学校で急遽林間学校があってとかなんとか家を空ける旨を伝え、急いで持ち物をリュックに詰める。
 玄関の横に立ってぼんやりと青々とした葉を茂らせた桜の枝を眺めている皆川さんの頬にピタッと冷たいジュースを当てる。
「ヒャアッ」
とまたさっきのように悲鳴を上げてくれるから笑ってしまったらじーっと見つめるような眼で心底見下したような顔をされたので
「ゴホンッ、いや、ホントにすみません」
と平謝りする次第だ。
「じゃあまず、映画を観に行くから」
「いいね。どんなやつ?」
「新作の怪獣映画」
「え?」
「え、ダメ?」
「あーいや全然」
彼女のイメージ像が定まらない。
「ちなみに何処の劇場で」
「ここから上りで七駅離れたとこの」
「ああー、あそこか結構遠いね」
「そう。しかも映画の開始はニ十ニ時からだから」
「お、早速夜更かしとはワルですなあ」
やっぱり彼女にも観に行きたい映画とか溜まっていたんだな。
「早く行こ。電車来ちゃう」
「はいはい。あ、鞄持ちますよ」
「いい、自分の鞄くらい自分で持てるから」
「そ、そっかあ」
 駅に来てみれば、当然といえば当然のことながら帰宅ラッシュの真っ只中であった。そんななか皆川さんは怯えた表情で電車を待っている。
「もうちょっと遅い電車にしましょうか」
「…うん」
奇異な目で見られることはそりゃいやだろうしな。
 電車を待つ間、ドトールコーヒーで時間を潰すことにした。暇そうに見えたので、最近はまっているシリーズ物ライトノベルの一冊目を取り出して勧めてみると
「もう読んだ」
と少し微笑んで返してくれた。それについて結構な時間語り合って、僕も同じファンがいて嬉しくなったところで席を立つことにした。しかし乗車の前に百円均一に寄っていった。
 やっぱり周囲の目線が気になるらしい。僕なんかブックカバーをかけずに本を読めないくらいの小心者だからその気持ちは痛いほどわかる。だから
「これで僕の方が注目の的ですね」
先程買ってきた包帯を顔中に巻き付け、さながら古代エジプトのミイラになる。
「フフッ、ありがと」
その甲斐あってかなんとか電車へ乗り込めた。しかしやっぱり周囲の視線が痛い。まあこれも目の前の女の子のためかと思えば英雄的気分に浸れないでもないのだった。
 驚くべきことに電車に乗っている間、終始無言なわけではなかった。それも尚のこと彼女の方から話しかけてくることもあったくらいだった。いや大して話していたわけではないのだけれど、今から見る映画のシリーズは全て観たのか、とか包帯は息苦しくないかとかそれくらいは言葉を交わしていたわけだ。いよいよ乗客から奇異なものを見る視線を浴びせられ終えた後、駅内の映画館に入る。ニ十ニ時からの上映なので、十八歳未満は保護者の同意がなくては観られないのだが、彼女はただいまフロントで必死に自分が適齢であることを訴えているのだがはたから見れば完全に詭弁であるから少し可笑しくなってしまった。とは言ってもこのまま映画が見れないと困るなと思いつつ、皆川さんがカップル割引をさせてくれなかったせいでニ枚分通常料金で買うことになったチケットが無駄にならないよう祈っていた。仕方なしとばかりに受付の女性従業員が苦笑気味に生年月日を聞いてきてくれたので、適当な生年月日を言って入場を許可してもらった。まあでも三歳年上にサバ読んだのは流石に無理があったな。ああ、ニ枚のチケットを買ったのは無論僕からの申し出で、折角の旅に同行させてもらっているんだしせめてもの気遣いなのだった。そういえばなんでチケット売り場から劇場があるフロアまでの移動は階段が多いのだろう。と日頃の疑問を思い返したのも束の間どうやらここはエスカレーターもエレベーターもあるようだった。そわそわと館内の広告を見渡せば、どうやら僕の贔屓目では洋画の方がどれも面白そうだった。得てして邦画なんか突飛なタイトルのヒューマンドラマか奇想天外な恋愛劇か、はたまたチープなアクションものかにしか思えず到底そんな安上がりな代物が興行収入を望めるとも思えない。ああ勿論アニメは別だけれど。彼女はというとそんな広告に目を惹かれたようだった。少しでいいからその輝きを僕にも向けてくれないだろうか。まだ時間もあるのでポップコーンでも買おうとすると
「…」
無言でこちらを振り返った後、ハッとしたように目を逸らしてしまった。
「ポップコーン何味が好きですか?」
「 …キャラメル」
「よければ奢らせてもらいますよ」
「いい、悪いから」
「あー、ニつ以上買うと割引になるみたいで」
「…」
「どうかなーって」
「じゃあお言葉に甘えて」
「はーい」
 しかし困ったことにいざ売店の前まで来て、僕はポップコーンなんか食いたくないことに気づいてしまった。いやそもそも腹なんてさらさら減っていなかった。けれど彼女に奢らせてもらう手前、気を使わせるわけにもいかないので僕も塩味を買うことにした。
 上映十分前の合図が告げられ、劇場内へ向かうことにした。五番シアターに入りいそいそと指定した座席に座る。後ろの方の席だから周りがよく見渡せるのだけれど、観客は残念ながら僕たち以外いなかった。まあ今日が平日で、時間も時間なのもあるだろうがそれでもやっぱりこの映画は人気がないのではと思ってしまうのであった。深刻そうな使い古されたBGMから始まって、台詞だけの無音から主題歌もしくは重低音というテンプレートな広告が流れていく。僕はこういうやつでホラーなのが出てくるのがめっぽう苦手なんだが、不思議と見たくなっちゃうんだなこれが。友達を誘って行こうと思うのだけれど、残念なことに僕の交友関係ではホラー映画に耐性があるやつはいないから未だこの手のものは観たことがない。十分ほどして場内の明かりが消え始めた。ようやく始まるらしい。開演時刻なんて実際のところ予告分多めにとられているから、少し遅れても上映開始に間に合うのが長所でもあり短所でもある。微かに彼女が息を吸い込む音がした。よほど楽しみなんだろう。僕も将来映画監督になろうか、おそらく大抵のものより面白い脚本をかける自信がある。そうすれば彼女も観てくれるだろうか?
 映画の中で長年お馴染みとなっている怪獣が出てきて戦っていた。彼は(彼女かもしれないがまあなんとなく男性的な感じがしたので便宜的に彼と呼ばせてもらう)地球にのさばる破壊と暴力の象徴だったが、宇宙から飛来した三つ首の金色の龍に対して自然の化身の様な態度で応戦していた。ハリウッドが作っただけあってなんだか宗教観強いなと思いつつ、なによりコイツらの戦いで放出されたX線や素粒子その他もろもろ高エネルギー因子で一体どれだけ地球は死の惑星(ほし)に近づいてしまうのだろうかと気が気でなかった。僕の否定主義な目を通して視れば規模の大きい映画になればなるほど一体登場人物がどれだけ発がんリスクが高まったのかとかそんなことばかりが気にかかってしまい、終幕後も悶々としてしまうのが常なのだ。だからこうもっと、近接格闘くらいにしてほしい。
 三時間に渡るなかなか大作だった。彼女はかなりご満悦な様子で、心なしか歩幅が大きくなったようだ。
「もう十一時過ぎですけどどうします?ビジネスホテルでも探しますか?」
「うーん...」
結局今から探し始めたのでは泊まれるところは見つからず、仕方がないのでネットカフェに籠城することにした。
「じゃあ僕この部屋取るんで、また朝...」
「え?」
「え?」
何の問題があるのだろう?
「一緒じゃないの?」
「あああー、まとめて僕が出すからご心配なく...」
「いや部屋が」
なにまさかここまで来て美人局に出も会うんじゃなかろうか?
「部屋代も二等分出来るし」
「ああーなるほどそういうね」
最近の女子はあんまりプライベート観念が高くないのだろうか。むしろ僕の方が秘匿にしたいものがあるくらいなのだけれど...なんて驚いているうちに彼女はもう部屋を取ってしまっていた。
「千ニ○○円お願い」
「あ、はい」
まあ確かに宿代も半額だし、色々と役得ではあるな。
 ファンタグレープが注れた方のグラスを右手に、メロンソーダが注がれた方を左手に持って部屋へ向かうと皆川さんがドアを開けてくれた。
「チップをどうぞ」
ブドウ果汁一○%のグレープジュースを手渡す。
「...ありがと」
冷やかな視線を投げかけないでほしいよ、顔を覆いたくなるからさホント。
 ネットカフェだが漫画喫茶的な面も持ち合わせているようで、先程の料金から既に漫画は読み放題となっているようだった。一度飲み物を置いた後、適当に“攻殻機動隊”を三巻分取ってくる。彼女はというと有名ライトノベルの七巻を読んでいたが、進まなかったのかパソコンをいじり始めた。僕もそれを見て、何の気なしに画面を覗き込む。不慣れな左手でマウスを動かしネットサーフィンをしているようだが、ここは一つあるゲームをしないかと持ち掛けた。それは簡単なJAVAスクリプト型のフリーゲームであるにも関わらず、かなりの人気を誇るようで何故だが任天堂社が発売した家庭用テレビゲーム機のヌンチャクリモコンでも操作ができるらしい。なぜ僕がこのゲームをやろうとしたかというと、小学校六年の自分総合学習の時間に彼女がパソコン室でこれを遊んでいるのを見たからである。あれ以降僕は、友人の家や中学校のパソコンを使って必死に攻略に勤しんでいたのだ。
「でも...」
右手を気にするように見る。
「右手側は僕が手伝うからさ、ちょっとやってみない?」
「...うん」
彼女がこのゲームを覚えているかはわからないが、これくらいでしか僕は“皆川 有羽”という少女に存在を証明できない気がしたから。
 平面スクロール型のアクションゲームで、タヌキの主人公がコースクリアを目指すという至ってシンプルな内容だ。三作も出ているのだがそのうちの二作品目をプレイすることにした。画面をクリックしJAVAを有効にし、陳腐なBGMと共にゲーム画面が始まる。彼女にキーボードを預け、画面を見守る。十字キーで移動しながらスペースキーで特殊コマンド使用する。右手を使う場面は移動中のマウスクリックやスペース入力くらいで僕が手伝う場面はまだあんまりない。初めの一、ニコース目はなんなくクリアしたのだが、クリアを進めるうちに敵やコースの形状がどんどんと難化していき遂に何回かチャレンジしても突破できなくなってしまった。
「そこボスの体を覆っている達磨は気にしなくていいですよ」
「え?そうなの」
「ゴールバーをくぐりさえすればいいんで」
お手本にそのコースをクリアする。彼女は少し驚いて
「これ、もしかして全クリしたの?」
「ええまあ」
なんだか自慢になっていやしないだろうかと少し気恥しくなってしまった。いや実際自慢なのか?これは。
「このコースも?」
「は、はい」
「こっちも」
「うん」
「凄っ、やりすぎでしょ!」
「えへへ」
 その後も僕等は熱中して、エアコンの掛かった部屋の中で汗ばむほどだった。午前三時を回ったあたりでどちらともなく瞼が重くなり、確か最後にぼんやりとおやすみを言い合って眠りについてしまった。僕に再び訪れた水曜日は悪くない終わり方だった。
 携帯電話のアラームが鳴り響く音で目が覚めた。体が重い、夜更かししすぎたな。あれ、今何時だろうと目をこすると液晶越しに七時五十分が飛び込んできた。まずいまずい、八時には部屋を出なければ延滞料金を払わされてしまう。皆川さんはといいうと、僕のアラーム音が結構小さかったのでまだ起きていない。眼鏡を外して小さく寝息を立てている姿は、いつものクールな表情と変わってまた可愛かった。いかんいかん、寝顔に見惚れている場合ではない。はてどうやって起こそうか?お金にはまだかなり余裕があるし、一時間三百円だから延長してもいいのだけれど、と悩んでいたがこんな所で寝続けたら身体が痛くなってしまうだろうからやっぱり起こすことにした。館内の自動販売機で冷たいお茶のペットボトルを買ってきて片方を彼女の頬にピタッと当てる。
「ん、ふぇ?」
となんとも可愛らしい嬌声を上げ、目を開ける。一瞬瞳が大きくなってからまた瞼が少し下がる。長いまつげは少し涙で重くなっている。
「よく眠れました?」
「...うん。おはよ」
そう囁かれては朝から有頂天になっちゃうね。
「お、おはようございます」
顔をそらし、口元覆うようにしてあくびをすると、ハッとしたように
「今何時!?」
「七時五十六分ですね。受付に鍵返してくるので入り口で落ち合いましょう」
「そっか、ありがと」
「いーえ」
 寝ぐせの付いたまま、朝の陽ざしを浴びる。僕が吸血鬼なら七転八倒するところなのだが、そうでなくとも陽光が目に染みる。
「あ、お風呂行かない?」
駅の近くの小さな銭湯を指さす。
「そうですね。あ、一人で入れます?なんだったら手伝おう...」
「...」
凍てつく視線を投げかけられたのでそれ以上は口をつぐむことにした。
 小綺麗な内装で、床はアジアンな細い木の皮で編まれている。ビジネスマン用に新設されたのだろう。三○代くらいの男性二人組がいる以外は利用客がいなかった。しかしどうも公衆浴場って嫌なんだよなと思いつつ、いそいそと上がり待合室で彼女を待つ。ドライヤーで乾かした髪が少し温かみを帯びている。
 傷は水に触れても大丈夫なのだろうか、彼女の病室に見舞いに行っていたら。いやきっと変わらなかった気がする。半分願望であり、半分確信でもある。タオルを入れたビニール袋が重くなって、ゆっくりと指先から離れていく。あと二日経ってその後どうなるのだろう?未知の領域だ。たかだか土曜日を迎えるだけだっていうのに、そんなこと今までの人生で数えきれないほどしてきたのに。彼女はまた学校に行くのだろうか?それともまだ休むのだろうか...いやそれよりも何かガラッと変わったことをするのかもしれない。なんであれ僕は受け入れられる気がした。皆川さんがそうすると言うのなら。もっとももう僕なんか必要でなくなってしまうことだって、大いに有り得るのだけれど。こんな不安を覚えるくらいなら、もういっそこの三日間が永遠に続けばいいのに。
 考え事は十分に渡っていたようで、彼女も風呂から上がってきた。
「ごめん、待たせちゃって」
「いえー全然」
なんちゃって制服に着替え、リボン結びされた赤いタイで白シャツの襟もとが締められている。黒いスカートにはシルバーラインが何本か入っている。緩くウェーブが掛かった髪は肩にかからないくらいのショートカットで、形のいい頭に沿ってふんわりとした匂いで満たされている。朱色なのか紫なのかよくわからないグラデショーンの淵の眼鏡は彼女に掛けられて少し大きく見えた。左側の頭に巻かれた包帯は、片手で巻かれたせいで緩んで僅かに痛々しい傷跡を覗かせていた。
「あ...」
思わず感嘆の声が漏れる。
「ん?」
少し目を大きくして、耳を傾けて聴き直す仕草が風に運ばれる蝶のようだった。ちょっと気恥しくなったが
「包帯巻くの、手伝いますよ」
「え!?あ、うん...」
皆川さんは伏目がちに後ろを向き、僕は慎重に包帯に手を延ばす。軽く、繊維の目は細かく、滅菌された白さだ。三回ほど頭から目のあたりにかけて巻いてから、布の弾力を残しつつ解けないように結ぶ。
「痛くないですか?」
「うん。全然」
それから右腕の方も結びなおしてやる。
「ごめん...ありがと」
そう言って少し右腕をさすった後、鞄を手にする。僕は片腕だけ出して、自動ドアを開けながら外に出る。
「今日は何処に行きましょうか?」
「うーん、お台場」
「ラジャ」
旅は二日目を迎えていた。
 快速の電車が来るのを見計らって、人ごみにもまれながら四号車に乗り込む。こうも混んでいるとむしろ包帯を巻いていることなど目に留まらないようで安心した。
「うぅ...充填律七四%くらいありそう」
「フフッ、どっちかっていうと体心立方かもね」
彼女がジョークを返してくれ、常温沸騰しそうになる。段々と都会度を増していく外の景色に目を輝かせながら、江戸川を越え向こうには東京湾が見える頃になった。
「大きいですね...」
「うん、凄い...」
僕らが住んでいる街に流れる川とは比べ物にならない程静かに、悠然と見えた。片側しか見えてない彼女の瞳はいつにも増して大きく、透き通って見えた。
 東京駅に着き、そこから新橋への乗り換えを待っている間人ごみは少し空(す)いていった。
「あの、ケーニヒベルクの橋問題の証明って出来ます?」
「えっ!オイラー好きなの?」
「ま、まあ多少かじったというか」
彼女が中学二年生の時口癖のように“オイラー”が“フェルマー”がと言っていたから、話についていきたかったんだっけ。
「どの本読んだの?」
「“オイラーの贈り物”なんですけど、難しくて...」
「あれかっ!えーっとまずケーニヒベルクは...」
ホームドアが開(ひら)き、電車に乗り込んでからも彼女は楽しそうに話してくれた。て黄金比やメルセンヌ数、ラプラス変換からの逆算、モジュラー方程式がうんぬんなど。とても難しくて、耳で聞いただけではほとんどわからなかったのだけれどこんな風に喋ってくれるだけでABC問題すら証明できそうな気分になった。小学校中学年のころから隣のクラスに頭がいい女子がいるというのは耳にしていた。初めて見た時から君の気を引きたくて、とっぴな言動や面白いことを考えようとするのはそのためだった。だから今こうして話せていることを、あの頃の僕に自慢してやりたいよ。きっとアイツ、とんでもなく喜ぶだろうぜ。
 十五分もしないうちに新橋に着き、今度は豊洲行きのゆりかもめを待つ。うーん...なんというか“百合カモメ”まだ十時にならない日差しは、ビルの立ち並ぶ海面を反射してループ橋を潜り視界を抜け近未来的に装飾していた。在りし日の両親に連れられて来たことを思い出す。あの時は父方の従兄もいたっけ。車内の揺れに合わせて包帯に覆われていない方の横顔を見つめながら、君と僕との目に映る景色は同じなんだと。ふと一際大きな光に満たされる。陰で透き通った黒さを帯びたビルディングと灰白色なアスファルトに整備された緑地帯。お台場臨海公園に着いたようだ。聴こえた彼女の呼気は欠伸ではなかったと思う。
 駅に着いたはいいのだが、何処から行ったもんかとやや思案する。
「行こ、こっち」
自然に手を握られ、僕は手汗をかいていないかと少し焦りながら、照明のない構内でもハッキリと君の顔が見える。
「うん!」
小走りに駅一体型のショッピングモールへと続く空中渡橋へ飛び出る。
 特に何をするわけでもなくそれぞれの階を見回っていく。ウィンドウショッピング...いやショッピングならぬショーウィングと言ったところだろうか。あれが可愛いとか、これが面白いとか言いながら木曜日を満喫する。
 小一時間程見回った後外へ出る。二階から地上へと降りる歩道橋を伝って、反対車線まで下る。道路の幅、建物の間隔、計算された整然性どれをとってもこれほど美しくできるものなのかと驚いた。急ぐ必要はない、ゆっくりと海岸線沿いを歩く。太陽は少し、また少しと夏の向けて力を取り戻してきていた。歩道に植えられた街路樹が日傘となっていく。テトラポッドには幼い子供を水浴びさせる母親、釣りをする老人、何も考えていなさそうな顔をしたウミネコたちがいた。鼻孔に立ちこめるのは鼻血が口に入った時のあの匂いだ。
「五十憶年もすればあの太陽に地球は焼き尽くされるのかぁ...」
君は寂しそうに呟く。
「生きていた証ってどうすればいいのかな」
不意に投げかけられた質問は、幸いなことに僕の中に答えがあるものだった。
「ちゃんと残りますよ、きっと」
「でもそれって誰が証言できるの?」
「そりゃ地球を脱出した知的生命体ですかね」
「それじゃあ地球上のすべては忘れられて、それに脱出なんて出来なかったとしたら...」
「忘れられないものをなくすなんてことは今だって出来ませんよ」
誰に言ったのかな、これ。
「けどまあ、観測されなきゃ無かったことになるなんていうのも、寂しい話じゃないですか」
「フフッ、感情論じゃん」
「時間平面にはきっと残ってますって、きっと」
誰に言われたんかな、
「それこそ宇宙が何回終わって、始まっても。何度繰り返しても、どれだけ分岐しても」
「...うん」
大方僕にだろう。
「いつか俺が...僕が証明しますから」
「うん。楽しみにしてる」
 ここでは昼になっても正午のベルは鳴らないが、なんとなく腹が減ったのでわかった。お台場ダイバーシティへ向かう途中のショッピングモールへ入る。アメリカ西海岸風な石膏の階段を上がり、テラスでハンバーガーを食べる。比較的並ばずに買えてよかった。
「あ!パチモンの自由の女神が見えますよ」
「ホントだ!シンガポールのマーライオンみたい」
「いや、中国のピカチュウみたいに言わないでくださいよ」
「「フフッ」」
二人の笑い声が重なる。
 昼食を食べ終えてから、雲がかかり始めた。柔らかい梅雨の雨は、割って入るほどの勢いはなく水を差すわけではなかった。
「涼しいね、雨」
一回目は暑かった。
「今年は冷夏になりそうですね」
なんて言ったっけこういうの、そう
「フェーン現象!」
「エルニーニョ」
「あれっ」
「アハハッ、それ台風の後だよ」
「不穏な静けさが訪れ...」
「フフフッ、それは嵐の前」
「あ、そっかあ」
君が笑う度舞い上がる。小学生の時も、こうやって笑ってほしくてひょうきんなことをしたんだっけ。
「あ、折角だから行きたい所があるんだけど」
「お、どこでしょ」
「上野科学博物館なんだけど」
「ああー!あそこ本当に面白いですよね」
キノコのパノラマのとこ気持ち悪いけど好きだったなあ。
「だよね!東京に来たらあの恐竜館を観なきゃ帰れないというか」
席を立ち、プレートを返却してからまた階下の大通りへ出る。あんまり濡れないように鞄を頭に急ぎ足で向かう。ゆりかもめに乗ってから新橋に戻る間に、雨はまた少し勢いを増していた。窓を眺めて揺れる彼女はえらく楽しそうに見えた。それはきっと僕の思い違いではないだろう。
 券売機で高校生二枚分かってから、片方を彼女に渡す。
「ありがと」
「いいえー」
学生証を見せてからゲートをくぐる。ああ最後に来た時から大分内装が変わったんだなあ。
「じゃあ、まず地下一階行こ」
「うん」
 地球館地下一階には恐竜の化石が展示されている。
「本当にこんな大きい生物がいたなんて、胸が熱くなりますよね」
「うん...コモドドラゴンのDNAにこの化石の物を注入すれば、もう一回恐竜が出来ないのかな」
「絶対“遺伝子の暴走”が起きますって」
「フフッ、脳波を操作するようなものを付ければ大丈夫だって」
「そっちの方が凄くない!」
「でもその機械も故障して暴走するかも!」
「丁寧なフラグ建築ですね」
「でもダチョウからだったらラプター系は復元できそうじゃない?」
「確かに。結構面影があるかも」
「でしょっ!その背に乗ってアラスカの荒野を駆け巡りたいなぁ」
暑そうだな。熱射病にならないように皆川さんも恐竜も水分補給しないと。
「じゃあ僕はデイノニクスに乗って行こうかな」
「あれ親指上げたままにしておくの、絶対足がつるよね」
「うー、そう言われるとなんか急に痛そうに見えてきた」
「アハハッ」
禍々しいトリケラトプスの化石見たら少し身震いしたくなった。
「でも恐竜なんて本当はいなかったりして」
「え!でもこうして化石がある以上その説は流石に...」
「それもこれも宇宙人とかなにか高次的生命体の陰謀で」
「それじゃあその目的って」
「さあ?なんだろ」
「「フフフッ」」
生き生きと話す彼女を見ていると、僕の心も和らいでいく。
 地球史のコーナーに目を通し、階上の科学技術展に向かう。人類史のコーナーが日本館のほうにあったっけな。そういえばこうして原人は平気で骨格が展示されているが、こういうものを見て祟るとか霊的な災いが起きるとは言われないのは何故だろう。あまりに死んでから時間が立っているものはもう既に成仏済みと捉えるのか、原人に大した知能は無かったと考えて霊魂も残らないとするのか、はたまた原人なんて新人ではないから人ではないと考えているのか。数千年後になって自分が標本として飾られるなんてことは無いように祈りたいね。ああでもそもそも火葬だから、カリカリになっちゃうな。
 バーハンドルを回すことで大きな竹トンボが火花をまき散らしながら飛んだり、強力な磁石が置かれていたり。何度来ても飽きない展示物の数々だ。二人で強力なドライヤー型の送風機でボールを飛ばしたあと、光のグラデーションで身体の一部が消えるあのトリックを試した。その後は、飛行機の展示物をぐるりと一周見て回った。
打ちっぱなしのコンクリートの壁にもたれかかって、非常口の外を眺める。白い枠組みがはめられたガラス張りの中には、途切れることのない、変わることのない車の流れがあった。
「思うんだけど、絶対こういう光景って使いまわしのシーンがあるんじゃないかって」
「容量の節約みたいなもの?」
「うん。地球がもし大きなコンピューターなら、こういう細かい演算なんかいちいち出来ないと思うんだよね」
窓ガラスを濡らす水滴は一定の大きさになると流れ落ちていく。
「だからそういう“憶え忘れ”みたいなものが解明されない行方不明者だったり」
「確かに校庭から砂粒の一つ全く姿を消したって気づきませんね。でもそうすると質量保存の法則なんか立証できなくなってしまうんじゃ」
「きっと観測されているものを最優先に置くんだよ。だからその時は必ず成り立つ」
「なんか人間原理的ですね」
「別にいいんじゃない、それでも。人間が特別であることが証明されていないからって、なんにも価値がないことが証明されているワケでもないんだから」
「うん」
自動車用信号が黄色から赤に変わった。
「宇宙が始まる前の姿が原子一つよりも小さかったっていう話があるじゃん」
「トンネル効果で重力の壁を通り抜けてきたっていう」
「うん。インフレーションの後にビッグバンが起きて、今に至るっていう」
到底想像もつかないな、宇宙の全てが凝縮されていたなんて。
「もしかすると、この宇宙が再び収縮するのならこの世界はそうやって繰り返しているのかもしれない。
信号が青に変わった。まあ僕はやっぱり緑と言った方がしっくりくるんだけどね。
「なにか途方もない関数のようなもので、この宇宙の成り立ち方は決まっていて。その度同じように星が生まれて、命が広がり、そしてまた同じように終わるのかもしれない」
「じゃあこの会話も初めてでないかもしれないね」
「そうかも、いやきっとそう。宇宙の広がりがいつピークを迎えて、虚数時間に引き寄せられて収縮していくのだとしたら私はきっとそれが鍵なんだと思う」
「虚数が?」
「うん」
「それが分かれば世界の全てを掌握したも同然に!?」
「フフッ、そんなことは出来っこないわ。でも全体像が見えるだけでも十分じゃない?」
「うん。本当に凄いよ、有羽は」
「...そかな」
彼女の反応を見て、つい自分が苗字でなく名前で呼んでしまったことに気づき、恥ずかしくなってきた。
「あ、えっと俺さ、小学生の頃に皆川さんが頭いいことを聞いてさ。その時は俺も負けてないって思ってたんだけど、こうして話すだけでやっぱり到底届かないなあって」
「...そんなことないよ。勉強すれば誰でもこれくらい出来るようになるよ」
「それが出来るだけでもう立派な才能だよ」
「そ、そう?」
「うん。だから絶対皆川さんならわかるよ、宇宙の事。今が何回目なのか、あとどれくらいなのかとかも全部」
「出来るかな...」
「出来るよ。皆川さんにすらわからないような世界にするほど、画面の前の神様も意地悪じゃないだろうから」
「フフッ。収縮して、再膨張するときに毎回少しずつその痕跡みたいなのが残ってたりしてね」
「...ああそういえば宇宙の外側は本当に何があるんだろうね?」
「うーん...」
 花の咲いた話に一区切りついた頃、何となくまだ遊び足りないのとと今夜の寝床を探すべく再びお台場に戻ることにした。
 今日はもう適当にビジネスホテルにでも泊まろうとしたが、やはり今からではどこも予約が取れなかった。
「まあ、またネットカフェでも行けばいいよね」
「うん、そうだね。安いし」
今から行っても余計に料金を払うことになるだけだからと、ショッピングモール内のファミリーレストランで安いラザニアとドリンクバーで時間を潰す。
「メロンソーダって実際果汁が一滴も入ってないと知ると萎えるよね」
「んー、私は人工甘味料大好きだから全然構わないよ」
化学物質が大好きなのか。
「添加物とかも多ければ多いほどいいよね。味覚が飛ぶ感じがして」
「まさかの中毒者!?」
 また適当にモールの中をぶらぶらしているともう既に時刻は二十一時半を過ぎていた。少しずつ終業していく店が多くなる中、僕らは最上階にいた。映画館のそばのソファに腰を下ろし、明かりが落ちていくのを眺める。
「ねえ、このまま、ずっとこのままここに居ようか?」
冷房に吐き出された空気で、心なしか瞼が重たくなる。
「...いいね、それ」
君は唇を挟むように一文字にはにかんだ。
「前からずっとやってみたかったことがあってさ、それが丁度ショッピングモールが終業しても中に居続けるっていうので」
「...私も。だから折角だしいいかなって」
「ハハッ、じゃあ早速見つからないように隠れなきゃね」
「大丈夫、こんなに広いんだし!」
従業員に見つからないように、シアタールームの中へ入り込み、その中央最後列に腰かける。そうして全ての照明が落とされた館内で、僕たちだけが観客でいた。
 始業より二時間ほど早く目を覚まし、既に幾人かいる開店準備に取り掛かる従業員たちに見つからぬようにモールを後にする。
「あぁ、ちょっと首と腰が痛いや。有羽は大丈夫?」
「...ん、大丈夫」
「よかった。あーでも、早起きって三文の徳とは言わないけれど一銭くらいはその価値がある気がするよね」
「確かに。なんだか一日が少し長くなったように感じる」
力ない声帯と低い血圧を炭酸ジュースで目覚めさせる。
「光そのジュース好きだね」
「あー、そう僕はMATCHしか飲まないと決めているのさ」
「ふぅん。じゃあそれが無かったらどうするの?」
「その時はポカリスエットを」
「浮気者...」
「い、いや背に腹は代えられないからさ、その...」
「フフッ、ひょっとして大塚製薬の回し者?」
「コカ・コーラ社とBOSSのサポーターじゃないだけだよ」
「そうなの。というかポカリスエットに拘る理由はあるの?」
「僕はポカリ派」
「...」
「特に理由はないです」
「そうなんだ。で、ポカリもなかったら?」
「生茶を買います」
「へぇ、じゃあそれもなかったら?」
「...飲みません」
「はい」
質問攻めにされると自分のポリシーの粗に気づくから、やめてもらいたいね。
「じゃあ行きますか」
「うん。行こっか」
 今日は鎌倉へ行こうと船橋へ戻ってから、さらに一時間強電車に。早朝だったので座席が空いていたのが幸いだった。ひんやりした車内も相まって、有羽がふぁっと欠伸をする。
「一時間以上もあるし、寝てていいよ。着いたら起こすから」
「え、大丈夫だよ。光こそ疲れてるでしょ、寝てていいよ」
「そう?じゃあ、お言葉に甘えて寝させてもらおうかな」
「うん、どーぞ」
目を閉じて、うなだれると少し体勢は悪いが直ぐに寝付いてしまった。
 大船に着いたところで目が覚めた。もう大分混んできたな、鎌倉まであと三十分といったところか。今日がループしている三日間の最後。この二日で、いや五日でおおよその見当はついていた。と思考を張り巡らせていると、肩にもたれ掛かる重みから、柔らかな匂いを感じる。寝息を立てて首を預ける有羽を見て、やっぱり早起きはいいものだと、そう思った。
「有羽、着いたよ」
「ん...あ、ごめん。私の方が寝ちゃってた」
「寝顔写真に収めといたから安いもんさ」
「え!ちょっと、それダメだから」
「まあまあ」
 流石に観光地だけあって午前十時から大賑わいだ。取り立てていきたい場所も決めていなかったので、江ノ電沿線にそってぶらぶらと歩いていく。都心に近く、山や海おまけに文化的景色にも恵まれているので、こうしているだけでも飽きることがない。舗装された道は歩行者用の路幅が狭く、所々置かれているバス停はもう何十年も換えられていないいないようだった。
「あーなんだか、海風がどことなく血の味がしますなあ」
「“鉄の味”だよ」
伏し目がちに嬉々と話す。
「岩石からイオンが豊富に溶け込んでるから。きっとこういう匂いなんだと思う」
「飲んだら秦の始皇帝みたいになるかな?」
「あはは、そんなのだったら今頃この近海は死の海じゃん」
「あ、そっかあ」
 和田塚で江ノ電に乗って、七里ケ浜まで。線路と断壁の距離が近く、浮遊感に溢れる街並みが日差しに照らされていた。
「これがホントの湘南の風って」
「うん」
「あれ、思ったより返しが淡白だった」
「...思い出になるものってさ」
躊躇いがちに問いかけてくる。
「よく言われる輝かしい思い出って、こういう風景が無いと出来ないのかなって」
「...どうだろう。少なくとも僕はこの五日くらい、最高の思い出が続いていると思うよ。だからきっとそんなものが無かったとしても特別なものはあるのだと、君もそうであると思いたいのが僕の希望だよ」
「...うん、私も」
本当はそんなことは、とうに思っていたのだろう。けれどこうして他人からの確証が得たかった。夜が明けた鳥の様に両腕を広げて、宙を泳ぐ...
「フフッ、サーフィン」
ウィンドサーフィンというよりグラウンドサーフィンといった感じだろう。
「あー、ソーラーヨットって感じかもなあ」
 片瀬橋を渡れば、ここが様々な映像作品で散見される理由が分かった気がした。
「“俺はこの星の一等賞になりたいの”だっけ?」
「テニスで?」
「ハハッ、卓球でしょっ」
 江の島へまで二百メートルくらいだろうか、この橋の長さは。パンケーキ上にうっそうと木が茂る中腹に、石段が見える。右手には漁港が、左手はホテルだろうか?ビルが立ち並んでいる。
「ここから飛び降りたら気持ちよさそうだなあ」
「飛べるの?」
「そりゃあ。月にタッチして帰ってくるのもわけないからね」
「そっか、じゃあ背に乗せてくれる?」
「いくらでも」
 急勾配な坂道にはギッシリと土産屋や菓子屋が立ち並んでいる。この坂を誰も人がいない真夜中に立ちこぎして下ってみたい。石段を上がり切り山頂へ。江の島神社の脇には片瀬湾左手を一望できるデッキが。君は眼鏡の奥から見えるいつにも増して目を大きくし、連なる山の先まで眺めているかのようだった。
 上ってきた方とは違う道から降りていく。坂の始まりには桜の木が葉を茂らせていた。ここも四月の頃は花弁が舞っていたのだろう。今度はそれを見に行くのも悪くないな。踊り場の様に折り返すところから木々を抜けて街並みが見える。そういう意味では上るときは辛いけど、下ってしまえば涼しいものが坂なのだろう。
 折角鎌倉に来たことだし、なにかそれらしいものを食べに行こうとしたのだが、生憎どこも満席だった。結局Denny’sに入り、シーザーサラダを食べていた。まあ食費が浮くのでこれもいいのではなかろうか。
 由比ケ浜に戻り、砂浜をあてもなくさまよう。サーフィンから引き上げる人や、写真を撮りに来る観光客を眺めながら貝殻を拾う。
「聴こえる?波の音」
「うん」
僕も真似して巻貝の殻を耳にあてると確かにさざ波の音がした。
「貝は波の音を憶えているんだね」
「そうかも」
「というのは間違いで、手で熱せられた空気の対流する音が」
「もう、折角触れずにいたのに」
「あははっ、ごめんよ」
「でも、こんな形をしているのも貝が海の音を聴くためなのかもね」
夕景に微笑む君が、僕には僅かに、ずっと遠くに感じた。
 潮風が涼しくなってきたころ、今日最後にやるべきことのため電車に乗り込んだ。帰宅ラッシュの時間帯と被ったせいで、満員の車内では疲れた足を座って休ませることはなかなか叶わなかった。一時間程のってようやくターミナル駅に着いた。乗客が入れ替えるすきに、座席にありつく。しぱしぱとする目を擦り、どちらからともなく重い瞼を閉じた。君が目覚ましを止める度、僕の憂鬱は終わるから。君が眠りにつくたびに僕は安堵をするのだから。特別なことではないとは到底言い切れない、僕らにとってそういう三日間だった。
 高校の駅で降りて、駐輪場から自転車を引き出す。これをするのも随分久しぶりに感じるよ。管理人のおっさんがこんな時間に何処へ行くのかと訝し気な目で疑ってくるが、そんなものは気にしない。もう夜の八時になろうかとする商店街を後にし、国道を二人乗りで駆け抜けていく。外灯に照らされて、自転車のフレームが濃い青色に染まる。腰に回された右手は、力なく包帯に覆われている。片腕だけで振り落とされないように、僕も右手を後ろに回し、優しく握る。恥ずかしそうに背中に額を当てて、君は少しだけ握り返してくれた。ワイシャツをくぐる夜風は涼しく、襟元や半袖の口から入り込んでくる。背中に感じる体温が、伝わってくる鼓動がペダルを踏む足の先まで伝わるようだ。
「...よく思うんだ」
特にここのところ...
「僕がうんと努力して有羽と同じ学校に行けていればって」
それが出来れば僕の人生は全て良しとされるくらいだ。
「そうしたら朝一緒の電車に乗って、こうやってまた二人乗りをして登校して。そしてまた同じ電車で帰るんだ」
「...うん」
「ああでも有羽のとこは駅から近いんだっけ。それじゃあ、まあ徒歩になるんだろうけど」
「...ん」
「そうだったなら、僕は今よりずっと早く君とこう出来ていたなって。それが唯一の僕の人生におけるどうしようもない失点だよ」
「...ん」
「でもそんなもしものことを叶えるのは並行世界の僕にでも頼むとして、今はもっと別の大切なことがあるって気づけたんだ...本当になにもかも君のおかげだ。ありがとう、有羽」
「私も、そう。光と出かけに行った場所は何処も楽しかった。きっと私一人で行ってもこれほどではなかったと思う」
「...うん」
「最初に会った時はどうなるかと思ったけれど、こんな時間は今までになかった。私こそ、本当にありがとう」
 図書館は閉館しているが夜の補修や定時制の授業をやっているため、まだ校門は閉まっていなかった。適当な所に自転車を止めた後、そろりそろりと昇降口への階段を上がり校舎内に入り込む。下駄箱からサンダルを取り出し、有羽には段ボールから来客用スリッパを手渡す。教室へ行き、机の引き出しから物理実験室の鍵を取り出す。こういう時に物理部に入っていることが役に立つ。そして気づかれぬよう職員室脇の渡り廊下から理科棟三階へ。
 物理準備室から白い天体望遠鏡を持ち出し、渡り廊下を引き返す。そうして音楽室の横の階段を駆け上がり、屋上へと。
応援団が練習に利用するので鍵がかかっていなくて助かった。部活で何度かこれを使ったことがあったので、思い出しながらセッティングを進める。しかし途中で、ファインダーの合わせ方が分からなくなってしまった。
「見せてみて」
と有羽が迷いなく調整をしていく。
「おおー、望遠鏡のセッティング知ってたんだ」
「まあ、少しだけね」
 そうして、あれが火星だとか、土星の輪なんだとか小一時間程二人ではしゃいでいた。レンズから目を離して、肉眼で見える星座に目を移す。
「北の方に見える五つの星を結んでM字状になるのがカシオペヤ座。そこから南西に言ったところにキリン座、さらに南下したとひしゃく型が北斗七星」
「...凄い、星空詳しいんだね」
「うん。この時期だったら何が見えるのかも、多分全部わかる」
「やっぱりすごいよ有羽は。僕の知らないことを何でも知っている」
「...でも私が分からないことをあなたが知っている」
「そうだといいな」
視線を合わせようとするのを避けるように、うつむいてしまった。目にかかる包帯がその距離を引き延ばすかのように。
「君がよければ、明日もまたこうやって星を見に行こう」
「...」
「バレないように望遠鏡を持ち出してさ」
「...私は」
「だから...」
「私は、明日が来てほしくない」
震えた言葉でそう言い切る。
「これでおしまいになるくらいなら、もうずっとこのままがいい」
口を結んで、勢いよく駆けだす。助走をつけて、フェンスを飛び下りる気だ。けれどその寸手で引き留める。右手で有羽を引き寄せ、左手はフェンスに捕まる。
「...だからもう離して」
「そしたら君が死ぬ」
「大丈夫だから。また初めから...」
「ループする?」
「そう。何度でも、何度でも。この三日間を繰り返す」
「それじゃあちょっとな...」
「また映画を見に行けばいい、今度は別の場所に遊びに行って...遊園地なんかもいいわ」
「ふふっ、流石に同じ日ばかりじゃ飽きるよ」
「それでも、私は大丈夫。あなたといれば、きっと大丈夫だから」
雲一つない空は紺色に染まっていた。
「例えるなら君が月で、僕が夜さ。雲よりも君に近い」
月は銀がかった黄色に輝いている。
「今日生まれたばかりの浮雲はあっという間に風に消え、次の朝を見ぬ間に散っていった。それでも月の白さを知らないままでいるよりは、きっとマシだったんだ」
ゆっくりと有羽の身体をこちらへ寄せる。
「だから、行こう。明日は夏至だ」
悲鳴を上げる左腕をよそに、しばらくそのままでいた。
 定時制が使うためか音楽室の鍵も開いていた。ステインウェイのグランドピアノの側に望遠鏡を置く。意外と蒸し暑いので、窓をニ、三枚開ける。
「何か弾こうよ」
「でも、右手が」
その手を取って、
「僕が右手さ」
立ったまま旋律を奏で始める。Fm⁻4から入る主旋律が、音楽室の窓を微かに揺らす。
「有羽が弾いていたのを見て、密かに練習していたんだ。いつか一緒にって」
「そっか。フフッ」
彼女の左手が奏でる和音が、僕の拙いメロディを導くように。互いの音に乗せられて、ピアノは初めて曲だと認識し始める。カーテンがまとめられ、開け放した窓ガラスから出ていく音は差し込む月光と入れ替わり街へと響く。そうやって、今夜はいつまでもピアノの音が聴こえていた。
 夏至の日は思ったよりもあっさり訪れた。そしてあれからもう幾日かが経っている。僕は相変わらず煮え切らない日々を送っているんだ。誰もが寝ている間、君は起きていた。そんなイメージは良くも悪くも当たり半分といったところで、それを知っているのは恐らく僕だけだ。これから怠い期末試験、水泳の授業等が行われることが悩みの種でもある。平凡で、分相応に難があり、時と主に越えていく。一通り片付けば、楽しみな夏休みだ。といっても流石にもうあんまりグダグダしてもいられないんだろうけどさ。兎にも角にも今はスタートダッシュ数秒前の助走距離って感じなんだ。朝駅で電車を待つ間、君にきっとそう言われる、そんな気がしたからね。

助走距離

読んでいただきありがとうございます。

助走距離

男子高校生が不思議な3日間を過ごす話です。炭酸ジュースでも飲みながらお読みください。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-08-29

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY