よろず忍び商ひ無足


ふと、見開いた目で見上げると、おぼろげな夜半(よわ)の月が―――紅く滲んでいた。
凍りついた空は暗く濁りきって、行く道にわだかまる失望を兆している。死と危険を警告する、致死の色―――魔性の赤。
―――もう、いやだ。
いやだいやだいやだ。
肩で息をしながら、少年は首を振っていた。
(無理だったんだよ、どの道―――おれ、もう)
永禄九年(一五六七年)三月。
海際の温暖な平地ならともかく、雪深かった山の懐の中では冬はまだ明けない。
薄暗がりの森の中を抜け、ヒアシは奔(はし)っていた。不眠不休でもはや一昼夜も、山野をさまよっている。呼気をするだけで渇き切った器官が悲鳴を上げ、凍てついた空気の感触すら分からない。わき目も振らず、とにかく西に―――この険しい山国の国境にもっとも近い方向に向かって、彼は走りだしたはずだった。しかしいくら奔っても、目の前の森や谷は一向に絶えず、景色はまったく、拓ける様子もない。
「必死で奔るんだぜ、ヒアシ―――殺されたくなかったらな」
聞こえてるのかよ、おい。
赤目(あかめ)の好きな、あの―――嬲るようなねっとりした言葉づかい。あの赤い口の中に、毒々しいなめくじを飼っているのではないかと思うくらい、ゆっくり、耳にこびりつくように、粘着質の声が。里ではあの男の声を聞くだけで、胃の腑が強(こわ)く縮まった。
「ほら、とっとと逃げろ、逃げ足ヒアシ、おれに捕まったら、ただ殺すだけじゃ済まねえぞ? お前は腰ぬけの、忍びの恥さらしだ。おれに捕まったら」
―――まずはお前のその落ち着かねー両足、生きたまま根元から引っこ抜いてやる。
その声が蘇り、ヒアシの全身に沁みつくような悪寒が走った。
やりかねない。いや、絶対にやる。鬼首(おにくび)の赤目、あいつなら―――
ぴしり。
足元で何かがへし折れた音が響いて、ヒアシは形相を引き攣らせる。悲鳴はどうにか口の中に飲み込んだが―――それだけでは、もはや手遅れだった。その踏み込んだ右足が次の瞬間、そこにあるはずの地面を踏み抜いたとき、身体が大きくそちらに傾き、視界が九十度縦回転すると、あとは遥かな奈落に落ち込んでいく。
気づくとその身体は、深い闇に包まれていった。

次に目覚めたとき、ヒアシはほのかな火明かりの中にいた。
少し身体を動かしただけで軋むほど、痛む。油に浸した縄で、硬く身体を縛られているのだ。恐ろしく厳重に縛めてあった。身動きしようにも、手足を後ろ手に縛られていて、芋虫のようにしか這うことが出来ない。手のひらに握り込まれる形で縄を通されているため、目線の他は、指一本も動かせる隙間もないと言う有り様。
――――そうだ、おれ、落とし穴に落ちて―――
それから記憶がない。ヒアシは小走りに視線を巡らす。丸太の柵で組まれた、どこかの陣屋の一角のようだった。彼方に井戸のように正方形に丸太を組み上げた、二階建ての井楼(せいろう)やぐらの影がうっすらと見える。落ちた時に激しく全身を打ったせいか、まだ頭の芯が痺れて、どこかぼんやりとしていた。上にさっき見たのと、同じ月が―――ヒアシはふと記憶をたどった。
(そもそもおれって、どこまで逃げてきたんだろう?)
確か忍びこんだのは、西上野の箕輪(みのわ)と言う城だった。
この春に下忍として任務に駆り出されたばかりのヒアシには、ほとんど何も聞かされていなかった。なにをするかも分からないままの、初仕事だった。
「なんだ、お前、初仕事―――聞いてないのか」
連れ立った四人の仲間をそびやかして、そんなヒアシを赤目は鼻で嗤った。
「初めての仕事にしちゃ、美味しいぜ。なにしろ、やりたい放題だからな」
うつむいたヒアシの耳元で、赤目は子供をあやすように囁いた。
―――まあ、見てろ。しっかりついてくるんだぜ。最後までな。

「―――なんだ、小童ではないか」
心底呆れたような、拍子抜けしたような男のぼやき声がヒアシの頭上で響いた。
(わっ)
ヒアシは、あわてて気絶しているふりをして、様子をうかがうことにした。いつの間にかそこに塗りの剥げた陣笠を被って、素槍を握った袖なし羽織の男が一人。退屈そうにヒアシを見下ろしている。色の薄い唇が、鼻の線からやや左に曲がっている。
「話が違う。一体どうしたのだ、越後(えちご)上杉(うえすぎ)渡りの忍びの一味は」
越後上杉渡りの一味だって? 悲鳴を上げそうになったが、ヒアシは沈黙を守った。ひとしきり独り言のように文句を言うと、男はいらだった様子で奥へ呼ばわった。
―――無足(むそく)をこれへ、これへ連れて参れ。
(無足?)
ヒアシが訝っていると、さらに奥から腰に縄を巻かれた男が引っ立てられてくるのが見えた。またひどくみすぼらしい、放下(ほうか)僧(そう)だ。
「言い分あらば聞こう。無足っ、おのれは―――貴様、聞いておるのか」
男はどやしつけながら、この僧の名前らしきものを呼んだが、無足と呼ばれた方は、瀕死のなめくじほども反応を見せない。
右に左につま先が行く方向に身体もふらついて、今にもつんのめりそうだ。目つきも表情のだらしなさも、泥酔を絵に描いたようにぼんやりと淀んでいる。油の抜けた髪は乱れ、ぼろの法衣の裾は擦り切れて、乾いた泥の斑点がこびりついていた。
「ほら話も大概にせい、このいんちき坊主め」
唇を歪んだ輪の字にそぼめると、男はその蓬髪の僧の腰を足で蹴った。
異臭のする僧の身体がヒアシのすぐ傍に倒れこんでくる。さすがにヒアシは顔を背けた。
「―――なんだよ。誰もおらんかったわけじゃないだろ」
見てみろと言う風に蓬髪の僧は、ヒアシにあごをしゃくった―――昼寝を邪魔された泥蛙のようなぼやき声だ。甘くてぬるい安酒の匂いが鼻先まで匂ってくる。
「ああ、そうだな。一昼夜手勢を狩りだして―――獲れたは、こそ泥の小僧一匹とは。また、泣かせてくれるわ」
憎々しげに言うと、男は唾を吐き捨てた。
「おのれの申す通りに追捕(ついぶ)の兵を出すといつもこれじゃ。こんな小汚い坊主の話を、いったい誰が最初に真に受けたものか―――」
「待ってくれよ、坂崎の旦那。おれは嘘をついたわけじゃないぜ。おれは越後上杉から城下に火つけをするために、忍びの一味が雪崩れ込んでくるなんて―――一っ言も言ってはおらん。ただ最近、北信濃と美濃の国境が臭い、と、そう、言うたまでのこと―――」
「ほう、お前の話は、お前の知らんところでいっつもお前の思う数十倍もおおきゅうなるわけか。この間は、美濃から火付け強盗の話じゃったな。あれでおれはえらい恥を掻いたぞ。次もこの有り様じゃ、わしは上役殿に顔向けが出来ん―――お前が今度は絶対に確かだと言うから、これが最後と信じてみれば、まさかこんな小僧・・・・小僧が一人、獲れただけとは・・・・・」
返す返す文句を言いきって、甲斐がないことに自ら気づいたのだろう。坂崎と言われた男は嘆くように無足を見下すと、
「―――この嘘つきめが。お前の呆けた面など二度とみとうないわ。この上は百叩きで勘弁してやるが、二度とこの甲斐の国に足を踏み入れることまかりならぬ。次に見かけたときは是非なく叩き斬ってやるゆえ、ようその腑抜けた肝に銘じておくがいい」
「おい、報酬は―――」
「おのが一命、助かるだけましと思えっ」
なおもすがりつく無足に、男は蹴りを入れると憤然とその場を去っていく。ヒアシが耳を澄ますと、外の番兵にいらだちもあらわに指示する声が聞こえた。
「坊主の方は放っておけ、逃げたら逃げたでかまわん。小僧の方は明日、面相風体を検分した上、然るべき処置にかけることにする―――見たところ未熟者とは言え、偸盗(ちゅうとう)(盗み)の七つ道具を腹に呑んだふらち者を領外に出すわけにはいかんからな。上役の方にも小僧の首ひとつあれば、どうにか申し訳も立とう。朝まで厳重に見張っておけい」

「大山鳴動して、小僧が一匹―――まさか本当にいたとは」
ヒアシが薄目を開けてうかがうと無足と言う男は、あおむけに寝転びながらなおも、意味不明のことをぼやいて詰まらなそうに鼻を掻いていた。
「で、お前―――これからどうする気だ?」
ヒアシは内心はっとしたがその問いに答えていいのか分からず、ずっと目を閉じ続けた。
「なんだよ、起きてんだろ」
「わっ」
無足はヒアシの顔の前で、ぱちん、と指を鳴らした。
「お前、どうやら、明日までの命らしいじゃないか」
「―――誰のせいだと思ってるんだよ」
ヒアシは思わず相手を怒鳴りつけたが、そこには眠った鯰よりも重たげな濁った眼差しがあるだけだった。
「誰かな―――まあ、おれのせいじゃないってことだけは確かだが」
小汚い坊主はあくびを漏らすと、大げさに肩をすくめた。
「あんたのせいだ」
ヒアシがいくら殺気立って毒づこうが、無足は一向に意に介さないようだった。
「馬鹿言え。おれのほらは当たらんのが、普通なんだ。・・・・・・その嘘をマコトにしたのは、お前だろ。ったく―――大体どこかの間抜けが穴に落ちて捕まらなければ、どさくさに紛れておれもずらかることが出来たんだ、馬鹿野郎。それをお前―――おれはおれのついた嘘がマコトになるってのが、世の中で一番嫌いなんだ」
今まで聞いたことがないような、無茶苦茶な理屈だ。
「あんた―――この国の諜者じゃないのか? 一体何者なんだよ」
「おれは、な―――その名前通り無手の徒手空拳、根なし草の無足者(むそくもの)だよ」
無反応のヒアシを見やって、無足は物憂げに眼をしばたたかせた。
「なんだ、見るのは初めてか? そうそう珍しいもんじゃないがな」
「聞いたことくらいはあるよ」
無足者とは、どこにも属さない自由の諜報屋だ。
戦国乱世―――群雄割拠の色合いが強まり、各国の地侍や、土豪たちの独立性が強まり国々の閉鎖性が高まる世の中。各国の大名たちが諸国の情報を得る手段は一様でなく、それこそ当時では考えうる限りあらゆる手管を使って、集められた。
情報の隔絶した地方と地方を最初に結んだのは、行商人だった。山側に棲む人たちに海のものを、海に棲む人たちに、山のものを―――その間を取り持ったのがまず、彼らだ。その古くは近江(おうみ)商人にあると言われ、琵琶湖の水運業者から発達した彼らは、遠隔地から様々な物産を各地の消費都市に運びこんだ。
こうした人たちが売ったのはただの物だが、それ以上に価値になったのは―――情報である。これらものを商う人たちは津々浦々を自分で巡るばかりではなく、扱う商品ごとに組合を持っている。広範なネットワークから得た彼らの情報を戦国大名たちは好んだ。
例えば織田(おだ)信長(のぶなが)―――彼がどうしようもないうつけ者で、ごろつき同然の姿で往来を歩き、趣味は幸(こう)若(わか)舞(まい)の『敦(あつ)盛(もり)』の部分だけが好きでそこだけしか歌わないと言う、あの一見仕様もない噂を武田(たけだ)信(しん)玄(げん)が訊いたのは、諸国往来の僧からである。駿河の今川(いまがわ)義元(よしもと)のように、神社の札売りや巫女などを組織して丸ごと抱え、諜報部隊にしているケースも少なくない。
つまりはこうした人々と、ヒアシたち――伊賀や甲賀、と言った専門地域の忍びたちは、世間でも公認のプロだと言ってもいいだろう。片や、そのどれにも属さない人たち―――不確かなリーク情報や執拗な諜報活動で、一攫千金を狙う仕事人、まさにそれが目の前の無足のような有象無象たちだ。
彼らの渡世は、正真正銘命懸けだ。鵜の目鷹の目の戦国大名がいくら情報を買うと言っても、物売りたちの組合は当然、身元が確かなものたちしか使われないし、伊賀や甲賀の忍びたちは、彼ら固有のIDである―――割符(わりふ)を使って仕事をしている。
せっかく何らかの情報を掴んでも、それが戦国大名家の何某かの耳にとまり、いくばくかの報酬で評価され、あまつさえ禄をもらって取引を継続してもらえるかは、自身が戦国大名にのし上がるほどにほとんど望みがないと言ってもいいだろう。
そのためこうした無足者たちのほとんどは―――金のためなら、なんでもやらざるを得ない食い詰めものたちなのだ。まさしく金次第。ほら話程度ならまだかわいいもので、にわか兵法で詐欺を働いたり、いんちき呪(まじな)いでいくさ働きで留守の武士の女房を寝とったり。中には見境のない盗みや殺しで渡り歩いている危険極まりないものたちもいると言う。
「あんたら、おれたちより最低だ。つまりは割符がなくて、諸国を渡り歩く喰い詰め者じゃないか」
ヒアシが言うと、無足は別に怒りもせず、乾いた声で笑うだけだった。
「そこまで知ってれば話は早いな。おれたちはお前たち忍びや諸国大名のお抱えが取りこぼした、えせ話で喰ってる。そんな屁みたいなほらで喰うのが無足者だ―――で、お前はその喰い詰め者の、いかがわしいほら話につまずいたってわけだが」
無足の指摘に、さすがにヒアシも顔を背けた。
「おっと、それに言っとくが、お前を殺すのはおれじゃないからな、そこは認めろよ。あとで化けて出られても困るからな―――大体、こんな国に独りで忍びこんだお前が悪い。そもそも、ここがどこだか知ってるのか? この乱世で、一、二を争う戦国大名、武田信玄が治める甲斐府中、その真っただ中だ」
見ろ、あれを、と、無足は頭上を指す。そこには二階建ての井楼やぐらが篝(かがり)火(び)に黒くくすんで立ちそびえ、その二階屋に取り付けられた一本の棒が斜めに仄暗い影になって天を突き刺していた。その棒の先端には、黒い鉄鍋のようなものがついていて、燃え残りがあるのか、かすかに白い煙が燻っている。
「あれは、狼煙(のろし)台(だい)だ」
「狼煙台?」
「この陣屋だけじゃなく、この甲斐山中は領内数十か所の物見小屋に緊急連絡用の狼煙(のろし)台(だい)が設置されてる。篝(かがり)火(び)飛脚(びきゃく)と言ってな、各所の遅くとも一刻(約二時間)以内には、信玄のいる躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に届く仕組みだ。
他にも野をうろつく山伏に修験者、行商人に旅武芸者、あらゆるところに密偵は網を張り、誰かが不審を感じればすぐにしかるべき場所に詳細が通報されるんだ。ここは本職の忍びでも割符がなきゃ、通行も難儀するような場所さ。間違っても半人前の洟垂れの来るところじゃない」
一気に話してから無足は、ふと何かに気づいたようだった。仕事柄、ひどく耳はいいようだ。反論する言葉を失くしたヒアシもうつむいたまま、時を過ごす。
「どこまで話したか―――まあ、いい。なんにせよ、ここでお前はおしまいだ。おれを恨むなよ。言いたいことは、それだけだ。じゃあな、おれはずらかる」
「どこに逃げる気だよ?」
「あとは死ぬだけのお前に話してもな」
無足は肩をすくめた。が、意味ありげな微笑が頬に張りついている。
「興味があるのか」
「助けてくれるの?」
「やだね。大体、理由がない。お前、抜け忍だろ―――どうせ死ぬなら、ここで死んだ方がいいと思ってる。違うか? 忍びの仲間内じゃ抜け忍の私刑は、特に陰惨だからな」
ヒアシの顔に影が射したのを楽しむように、無足は続けた。
「忍びが一人前に仕事が出来るのは、遅くて十五。同じ組内や村内で同じ年くらいの奴らが年かさの下忍頭に従って初仕事をする―――大抵は城下の火付けとか、城割りの図面作りの手伝い、辻売りに化けて風聞集めたり、他愛のないもんでな。だが中には初手からびびっちまう半端もんもいるわけだ」
「――――」
「忍びで抜け忍はもっとも重い罪だ。お前らの間じゃ、捕まった抜け忍は生き肝を喰らわれるのが、決まりだろ。腹をえぐられるのは、死ぬまでが、苦しいらしいが、ここにいても朝には磔(はりつけ)だ。あれはあれで苦しいぜ。脇の下から首までずぶり。二本の槍が通る」
「―――そこまで知ってるなら、助けてくれたっていいだろ」
「その様子じゃお前、諦めたんだろ? 死ぬのは嫌か?」
「嫌に決まってるだろ。そんな話聞かされちゃ―――」
口に出してから、ヒアシは口ごもった。いや―――この男の言う通りかもしれない。仕事を抜け出す決断をした時点で、もはや里には帰れないのだ。
「なんだ、随分大人しくなったな。まさか本当に諦めたのか?」
「どうせ逃げたって捕まるだけじゃないか」
「まあ、そう言う考え方もあるわな」
ひらりと、無足は踵を返す仕草をした。
「待った」
「どっちだよ」
「―――やっぱりいい」
「イライラする奴だな。一応言ってみろよ。お前にとっちゃ、この世でお前が選べる最後の機会かも知れないし、おれにとっちゃ思わぬ拾い物かも知れないぞ」
「わ、分かったよ。どっち道、あんたには忠告したかったんだ。あんたは今、そのままじゃここから絶対生きて逃げられないって」
「どう言うことだ?」
「殺意を持った足音が二つ―――話し声・・・・・遠くから聞こえる」
目を閉じ耳を澄ますと、ヒアシは言った。
「おいおい、冗談はよせ。殺意だって? なんでお前にそんなこと分かる」
「知らないよ。ただ、おれは訊いたまま、しゃべってるだけだから―――おれ、足音で聞けるんだ。そいつらは本気だと思う。いかさまのサイコロ博打であんたに、随分かっぱがれたって息巻いてるから」
無足の顔色が変わった。
「本当だろうな?」
「信じないなら、そこから、そのまま出ていけばいいよ。外の二人はあんたを叩きのめすための武器を持ってる。長柄(ながえ)に熊手―――これから自分がどう言う目に遭うか知りたかったらやってみたら」
「―――足音が訊けるって?」
取るに足らないと言う風に、無足は息をついたが、ヒアシは自分の売りどころを逃さずに、まくし立てた。
「思ったより時間はないぜ。遠くであと、三つ、足跡が迫ってくる。おれなら、そのどれもにかち合わないように上手く逃げられるよ」

一刻のち―――二つの影が、山あいに拓かれた一本道を伝って山を下りていく。月は赤く冴え、いぜん足元はまったく見えないが、立ち止まる様子もなく二人は、山裾に流れる川下に向かって奔っていた。
「なんだお前―――逃げ足で、ヒアシか」
そう言えば訊き忘れたな。そう言って、少年の名前を聞いた無足は歯を見せて笑った。
「本当は、飛び足で飛(ひ)足(だり)って言うんだ―――忍び名もらったときから、誰もその名前で呼んでくれなかったけど」
「村では、なんて呼ばれてた?」
えっと―――答えかけたヒアシの額を、無足はぱちんと、叩いた。
「忌み名を明かす忍びがいるかよ。熟練の忍びなら、自分の身の上の話は一切明かさないもんだ。忍びの身の上や得意技の噂は、それだけで金になるんだ。今のお前はおれの眼から見たら、美味しいところだらけのいいカモだぞ」
「だったら、どうしておれを助けたんだよ―――」
「好きで助けたわけじゃない、おれだって死ぬのは嫌だ。お前の言うとおり、おれはあそこで足止めを食ってる暇なんか無かっただけだ。こっちは仕事があるんだよ」
「仕事?」
「おれはさっきずらかると行ったが、国を出るとは言ってない。この後、やらなきゃいけないことがあるし、待たせてる奴らもいる。まあ、お前のお陰で誰にも会わずに逃げだせたのは、もうけものだったがな。この調子でこの後も手を貸してくれよ。いいだろ?」
仕事って言っても―――ヒアシは顔を曇らせ、言葉を濁らせた。
「おれ、この、逃げ足しか取り得ないよ」
「それにしちゃ、足が遅いけどな」
「足の速さじゃない。さっきも言ったけどおれは―――」
「話すなって言ったろ」
そうだった。あわてて、ヒアシは口をつぐんだ。
「まあ、とにかく何かの役には立つってことだ」
口を塞いだまま、ヒアシは肯いた。
「だったらついてくりゃいい」
「な、なあ仕事が終わったら―――おれをこの国から、逃がしてくれるんだな?」
「どうかな。ま、お前の好きにすればいい」
気のなさそうにいいながら、無足は背を向け、足を運び始めると今度はこちらを振り向きもしない。
(なんなんだこいつ―――)
その場しのぎの口から、でまかせを言っているのか、それとも何か別に魂胆があるのか―――彼にとって無足はまったく会ったことのない人種だった。
「無足のものとは、関わるな」
里に居た頃は、忍びの鉄則だと言われた。それは、もう―――繰り返して言われた。無足とは喰い詰め者の集まりだ。目的のためにはあらゆることをしてくる。その筋のものと関わるときは、絶対に信用してはならない。その言葉は、そのまま本職の忍びに当てはまる言葉だと思ったが、忍びに古いものたちの話だと根本的に違うらしい。
―――やつらには、失うものがないでな。
忍びには里がある。外では変幻自在の術を使う彼らも、里ではただの農民だ。家族がいて、地主の土地を耕している。人質を取られて働かされているようなものだ。忍びがどれほどの達人でも、身元を押さえられていては、地主の前ではただの隷属民に過ぎない。
無足者にはそれがない。誰にも責任を持たない代わりに、誰もただでは信用してくれない。だから命がけでだますことになる。忍びには虚と実があるが、無足者には虚しかない。
―――無足者なぞ、信ずれば死ぞ。
死。
(こんなやつについて行ったところで―――)
ヒアシは内心、何度も二の足を踏んだ。だが、甲斐のような警備の厳しい山国に迷い込んで、他に取るべき道があるわけでもないし、自分で活路を開く勇気もなかった。死ぬか生きるかで―――選ぶ道が一つしかないと言うのは楽なようで、哀しいものだ。
「おい、お前、そんなこわい顔すんなよ」
「いたっ」
頭を叩かれた。
「なにすんだよ」
「いいから見ろよ、こいつが甲斐だ」
高台に出たのだ。無足が突然、言った。ヒアシが夜目を利かすと眼下に険しい山あいに刃物を差し込んで縦に切り開いたような、楕円形の大都市が広がっている。
「山と山の間にあるから、甲斐って言うんだ」
無足は続けた。古語で隙間や、間のことを『かい』と言うらしい。今とは使い方が違うが、垣間見(かいまみ)する、と言えばこっそり覗き見するという意味になるのだ。
説明通りにヒアシは街を見直した。北に政庁・躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を頂点として武家屋敷、南に城下町―――各所に配置された狼煙台の中央部に位置するこの都市は、文字通りこの山国を隅々まで見渡す、巨大な眼に見えた。
「よく聞け。町に入ったら、別行動だ。お前は案内役の手を借りておれと合流しろ」
「案内役?」
なぜそんな面倒なことをするのか。無足は何も答えなかった。
「南の八日市場町(ようかいちばまち)だ。ここに行って拾って来い―――一人、仕事をしてる仲間がいる」

山が絶えると、問答無用で無足は消えた。忍びも舌を巻くような消え方だった。
仕方なくヒアシは、指示された通り、南の端の八日市場町に入り込んだ。八日市の名前が示すとおり、界隈は八日に一度、諸国の行商人たちが群れ集まる市場町だった。
月が昇りきる宵にはどの軒も看板を下ろし、人通りが絶え、町辻はろくな明かりもついていない。定住するのは、鎧の仕立て師や、刃物鍛冶の職人たちだ―――中世の人たちの消灯時間は早い。一晩中篝火があるのは、番所やあの狼煙台くらいなのだ。
(本当に案内役なんて、いるのか?)
それともただ、担がれただけか? みるみるヒアシは不安になってくる。
鍛冶場通りの隅の六角堂に行け―――と言うのが無足の指示だった。職人のいる界隈らしく、町の要所には鍛冶場を護る竈(かまど)や、火吹きの神が祀ってあるのだ。樫の古木が生い茂る鎮守の林にそれはあった。
かたり。
さやけく林のざわめきの中に入ると、ふとした隙に極小の物音がしてヒアシは神経を尖らせた。そう言えば、まだ、自分は追われているのだ。あの赤目たちに―――いつどこで襲われるか――状況はまったく、改善したわけではないのだ。
「うっ―――」
すると、突然、短い男の悲鳴がした―――瞬時に、ヒアシは身を屈める。警戒していると、気が抜けたような溜息の後で、断続的な荒い息遣いが続いた。交錯する吐息は二つ。一つは男のものだがもう一つは、女のもののようだ。お堂の裏手に誰かがいるのだ。こんな時間になにを? 二人が何をしているかは、若いヒアシにはすぐに分かった。
お堂の柱にもたれかかって、男が一人たたずんでいる。その腰の辺りに、ひざまずいた女の頭が当てられていた。蠢く女の髪は水に広がった藻のように振り乱れている。
どうやらことは終わったらしいが、女の頭は、男の腰の痙攣にあわせて、まだかすかに上下していた。大蛇の卵を二つ、抱え込んだような乳房が荒い呼吸に合わせて動いている。
武家の下人風の男に対して、女はやや人目をひく異装だ。
腰まで丈がある、うねるような垂(すい)髪(はつ)に白い小袖が一枚。なぜか左腕に、紅殼の塗りで仕立てた金蒔絵の唐草が入った腕輪をはめている。真っ白な膝がしらを内側につき合わせ、両足を畳んだ三脚の角度で左右に投げだした女の身体の線は、大型の爬虫類がとぐろを巻いているように肉感的だ。
やがてじゅるり、と粘度の高いものを啜る音がひめやかに辺りに響くと、女がそこからゆっくりと口を離す。尾を引くかすかな悲鳴が男の口から洩れ、ちょうど脱皮を終えたばかりの蛇が這い出てきたように、そのものの影がうなだれて姿を現した。
「おっと―――」
口を離してもまだちろちろと舌を這わせていた。その唇からは糸が引き、滴が口の端に垂れた。こぼれそうになるものを愛おしそうに、女は右手の指を自分の小さなあごの辺りに添えると、喉を鳴らして中身を飲み下した。ごく、と蠢く喉が魚の腹のように滑らかで、見ているこっちが唾を飲みそうだ。
「最高だったぜ。に、しても、すげえよな―――こんなちっちゃいお口で、喉の奥まで入っちまうんだからさ」
ふふ。含んだまま女は、忍び笑いを漏らした。
「良かったでしょ。約束だよ―――次はちゃんと、お屋敷まで呼んでよ。そしたら、最後までだから。次は朝まで―――ね?」
たぶん、十代。女の声は若かった。身づくろいを整えた男はその姿勢のまま、乱れた女の髪を名残惜しそうに撫でると、差し出したその手に銭を握らせ、足早にその場を後にする。
(て、言うか仕事って―――)
衣装からして、女は歩き巫女だ。上代から神に仕え諸国を渡り歩く女たちは、神楽舞や神社札なども売るが、交渉次第では春を売る。神の棲む御代から需要がつきない最古の職業だ。彼女が案内役なのだろうか―――ふいに女が声を上げた。
「あ、誰かいる。見てたでしょ? ねえ、誰?」
気づかれた。しかも、こんな声をかけにくい状況で。ヒアシは、身を伏せたまま―――色々な部分が硬直して動けなくなってしまった。
「出てこないと石投げるよ。今のだって、ただじゃ見せてないんだからね」
あわてて―――無足から聞いた女の名前を思い出す。ヒアシは必死で声を次いだ。
「白(しろ)蛇(くちなわ)の真(ま)菜(な)瀬(せ)・・・・さん? あなたの名前を無足から聞いて・・・・・」
「いーから出てきなよ」
石を投げられても困る。おずおずと、ヒアシは藪から這い出した。女はすぐ目の前に立ちはだかっている。背丈は思ったより低いが、立ち姿は若いせいか、むっちりした体つきの割に、全体としてはすらりとしていた。
「あれ、一人?」
垂れた目の下に、涙滴型のほくろがある。よく見ると青いナメクジの入れ墨のようだ。きつい印象はないが、全体的に顔つきは薄味でますます爬虫類の顔つきだ。
「あんた誰? ねえ、無足は?」
ヒアシは一瞬言葉に詰まった。
「―――無足は先に行った。で、仕事を始めるから、あんたにおれを案内してくれって伝言をおれに任せたんだ」
「あっそ」
卵を丸のみするときの蛇のように、真菜瀬はけろっとした顔で肯いた。
「分かった。で、君は、新入り?」
「ええ、そうですけど・・・・・・あっそって―――おれを信頼していいんですか。無足から話を聞いたってだけのおれの話を真に受けて・・・・・」
「ちょっと待って―――」
遮るように、真菜瀬は言うと、なぜか人差し指を立てた。
「君、名前は? 年はいくつ? どこから来たの? 普段何してる人?」
「名前は、ヒアシですけど・・・・・そんなにいっぺんに聞かれても困りますよ。それに、そう言うことは、無暗に話したりしないようにしてるんじゃ・・・・」
真菜瀬は目を丸くした。
「え? そんなことないよ?―――誰がそんなこと言ったの?」
「いや、あの無足・・・・が」
「ふうん―――先に言っとくけど、あの人の言うことってほとんどあてにならないから。君も、あんまり真に受けない方がいいと思うよ。わたしだってさ、この前―――」
どうも集中力が散漫な人らしい。自分で話を振りながら真菜瀬は、自分の人差指を口の中に入れる。あごが外れているのか、小さな口に、どうしてこれほど入るのかと思うほど―――ヒアシがあっけに取られていると、手首を過ぎ、肘の手前まで入ってしまった。
「一体なにを・・・・」
ほっ―――と息をつきながら真菜瀬が拳を引きずり出すと、そこには白い気泡と粘液にまみれて黒い塊が握られている。それは木札につけられた大きな錠だった。仕事と言うのはどうやらさっきの男からその鍵をくすねることだったようだ。
「今の男の持ってるので最後。やっと、揃った―――あれ? それで、なんだっけさっきの話」
鍵を吐き出した彼女は、自分だけすっきりして言った。
「じゃあ、ついていきて。まず、君をみんなに紹介しなきゃだから」

へえ、君、逃げ足君でヒアシなんだ―――真菜瀬は、予想通りの反応をした。
「でも、それ言ったら無足も逃げ足君だよね。あの人、自分じゃ逃げないけど」
襟を合わせ、裾を整える。真菜瀬は軽く髪をまとめると、冷たい沢の水で鍵を洗った。関係のない話題をしながらいそいそ作業をするのは、彼女の癖のようだ。
「あの、おれ―――そこで声かけられたばかりでよく話が呑み込めないんだけど・・・・」
「ああ、ごめん、それ、わたしにも判らないんだ。わたしも、鍵を手に入れろって言われただけで。たぶんあそこに入るんだってことくらいは分かるけど―――」
真菜瀬は顔を上げて言った。この方角だと、どうやら躑躅ヶ崎館のようだ。
「まさか、あそこに盗みに?」
「かもね。なんか、坊主を盗むって言ってたけど」
坊主? 金品や財宝ではなくて? 見たところどうやら無足よりは、彼女は真面目に答えてくれそうだったが、類は友を呼ぶなのか―――どうもそう上手くは行かないようだ。
「なあ、あんたら―――盗賊じゃないんだろ。いくら無足者だって―――」
「盗みもするし、人だってだますよ。珍しくはないでしょ? 伊賀か甲賀か、忍びの君だって、本当に困ったら人をだますし、盗みもするわけだし」
「―――そりゃそうだけど」
真菜瀬の答えは、結局要領を得なかった。
「わたしたちがするのは、その両方かな。君も、出来そうだったらついてくれば」
真菜瀬はヒアシを連れて富士川を遡り、府中市街・東の果て、愛宕山(あたごやま)対岸の遊女家に入った。こちらはさすがに遊興街だ。板葺き屋根の二階建ての楼閣には、まだ薄く灯がともっていて、かすかな物音や息遣いに、闇に蠢くものたちの気配がまだ濃密に漂っている。女の足にしてはさっさと歩く真菜瀬はともかく、寒い夜の街を歩き通しでヒアシは限界に近かった。
「ちゃんとついてきてるよね?」
生木造りの階(きざはし)を上がると、真菜瀬は、言った。ヒアシのものはおろか、自分の足音がしないことに初めて驚いたのだ。
「いないのかと思った」
「言ってなかったけど、おれ、足音を盗めるんだ。聞いて憶えた足音と同じように後ろから歩くと、二つの足音が消える。里では、追(お)い足(あし)盗(ぬす)みって言うんだけど」
「へーえ」
話しながら、ヒアシは無足がどうして案内役と称して、彼に、真菜瀬を迎えにやらせたのかが、ようやく、分かった。言われなくても、気づいていたのだ―――に、してもこの追い足盗みの秘伝を知っているのは、里の者の中でも限られているはずなのに。
「入れよ」
無足の声がした。真菜瀬は戸を開けると、先にヒアシから入れた。中は、戸板を取り払った十二畳ほどの古びた板の間だ。灯明皿に明かりが入れられ、ぼんやりとした光の輪が闇を溶かしている。無足のほか顔を上げたのは三人の男だった。
「鍵、とってきたよ」
さっきまで腹に入れていた錠を、真菜瀬は放る。受け取ったのは中央で図面を引いている、黒い顔の男だ。どう見ても倭人ではない。波羅門(バラモン)の男だ。小豆色の頭巾を被り、商家風の小袖を着こなしたその男の顔は、鈍い褐色でぎろりと見上げた目玉だけが、真っ白い。男はその最後の錠を、傍らにあった無数の錠束を留めてある鉄輪の中へ無造作に加えた。
「烏(からす)弥(や)、この中のどれがどの鍵か―――見当はつきそうか?」
烏弥―――鷲鼻であごの尖ったその面相に相応しい名前だった。烏弥は無足を見て、
「ああ、問題はない。だが探すのにある程度見当はつけるにしても、問題は、最後はどうしたって虱潰しになるってことだ。そいつは、まず覚悟してもらわないと」
「坊主を盗むって、お前それ―――少しは金になるんだろうな。何度も言うがおれは、北陸の仕事を放ってきてるんだ。自慢じゃないが、越後の不識(ふしき)庵(あん)(上杉謙信)はおれを待ってるんだ」
唾とともに愚痴とも自慢ともつかない気焔を吐き出したのは、日焼けして競走馬のように体格がいい長い顔の男だった。
「越後でもいい土産になるぞ、午(うま)黒(くろ)よ。どうしておれを信じない」
「けっ、無足もんのお前が忍びのおれ様を毎回だましやがる。お前が寄越した話でおれが死にかけたことが何度あったと思ってるんだ」
「―――文句言う割には毎回来るんだよね、午黒さん」
真菜瀬がこっそり、ヒアシに耳打ちする。烏弥はまだ若く、三十前だが無足と午黒は、年も背格好もよく見ると、どことなく似ていた。
無足はヒアシに向かってあごをしゃくり、
「そいつは抜け忍だ。名前は逃げ足でヒアシって言う。幸いなことに足音が訊ける」
「ほうお―――どの程度だ。おれ様の耳よりいいってのか」
ヒアシにもっとも興味を持ったのは言うまでもなく、午黒だった。
真菜瀬が追い足盗みの話をすると、烏弥も目線を上げて少しは聞いている風だったが、さっきから壁にもたれて、ひとり考えごとに耽っている様子のその男は、眉ひとつ動かさなかった。
やがて下から、座をもたす程度の酒と料理が運ばれてきた。無足は杯を舐めながら、
「さて、お前らには、もう話したと思うが―――今度の話を持って来たのは、実はおれじゃない。そこにいる介(すけ)三(ぞう)からだ」
介三はその、終始無言だった男だ。
「この男は尾張津島(つしま)の港で、水先案内人をしている。伊勢大湊から堺へ船荷を運んでいる。知っての通り、水先案内人と言うのは、船の航行の安全を保証する乗り合い人だ。各港に棲みつく海賊との交渉や積み下ろし人足の労務管理、それにもちろん唐や呂(る)宋(そん)(フィリピン)渡りの積み荷の扱いにも、精通してなくては務まらない。当然、舶来渡りの面白い話を知っているわけだが―――」
午黒が耐え切れずに叫んだ。
「もったいぶらねえで言えよ、無足。そいつが坊主を盗むこととなんの関わりがある。見ての通りこの甲斐は山国だ。海から話が入っちゃ、いつまで経っても前置きが終わりそうにねえ」
無足は十分に溜めてから、口を開いた。
「―――古来、件(くだん)、と言う異能者がいるのを知っているか?」
「くだん?」
無足と介三以外の全員が、首を傾げた。
「件はことの吉兆を予見するもの、とりわけ、物忌み・方違えの秘法に長けると言う」
介三が初めて声を出した。海賊あがりにしては、髭の薄い整った顔立ちだ。その褐色の頬に、どこか歪んだ笑みを落としている。
「古来、遣唐使が船を出すとき、舳先に嵐を予見することの出来る占い師を置いた。船が無事港につけば、不眠不休で祈ったその男には莫大な富が与えられるが、一たび嵐になれば、その男は真っ先に舳先から海へ蹴落とされたそうだ」
「甲斐にはその件の血を引く坊主がおるそうな。件は信玄が実父の信虎を追い出した折、禅国僧の快川紹喜(かいせんじょうき)が祝い事に遣わし、今では躑躅ヶ崎館でこの甲斐国を守っている、と言うことだ。介三はことの経緯を、その件坊主を乗せたと言う、船の水先案内人だった老人から聞いたそうだが」
「ほう――で? その坊主を盗んで、どうしようって言うんだ。武田と敵対してる、越後上杉や小田原北条の陣屋に売るのか?」
「そんな大それたことはしない。ただ、しばらく神隠しにあってもらうだけだ。しかる後、どこかの山脇にでも置き去りにする。もし、野心、西向かばに必ず災いあり、と、坊主に託宣をのたまわせてな。そうすれば少なくとも信玄の眼の黒いうちは、西進しての上洛に、目が向かんようになるだろう」
なるほど、と感嘆の声を漏らしたのは、烏弥だった。
「―――へえ、そいつは上手い。それで武田は、尾張の織田に手は出さなくなるわけだ」
この永禄九年当初―――武田信玄は、甲斐・信濃両国に一大版図を築き、以降の外征戦略を決めかねていた。すなわち、京都の室町幕府の再興を助けるために上洛を目的として西へ向かうか、さらに侵略の版図を伸ばすため東へ伸びるか。この数年、信玄は、まさに大きな決断を迫られていたのだ。
「ちょうど、さる永禄七年に上杉との五度目の小競り合いが終わって、東の北条とも、関東の切り取りで和睦が成ったところだ。今のところ、信玄の目は東に向いている。例えばここにいるヒアシは、箕輪城から落ちてきたそうだ。西上野(にしこうずけ)は武田の切り取りと、北条との約定で、すでに決しているからな。だが箕輪が落ちれば、次はすぐ、西に目がゆくに違いない」
無足の観測に、文句の多い午黒も反論はなかった。
「確かにな―――尾張の織田信長は、武田への封じ込め政策が煮詰まってきていると聞いてる。すでに昨年、養女を信玄の子四郎勝頼(かつより)に嫁がせ、貢物を送りまくって、誓子紙や口約束などで、武田の上洛は邪魔しない、もし上洛の時は、こちらから膝を折って出迎えに行く、と売れる媚は売りきってしまったみたいだからな。隣国、美濃の統一もまだなっていない信長には、信玄とことを構えるのは、今、絶対に避けたい事態の一つだ」
「そう、その信長もここ一、二年のうちにはどこよりも早い上洛を視野に入れている。この介三としてはそのときに備えて織田の遠征軍に、なるたけ積み荷を多く買ってほしいわけだ。すでにそのための話の渡りは、つけてるんだろ?」
無足が水を向けると、介三は意味ありげな微笑を浮かべた。
「無論だ―――経由地の堺・会合(えごう)衆(しゅう)とも顔をつないで話はつけてある。刀や槍、具足に鉄砲―――極上のシャム産の南蛮鉄を売る。呂宋渡りの硝石(鉄砲火薬の原料)もだ。これが上首尾に行けば、織田とも顔をつなぐし、無論、おれの取り分から分け前も出す」
「いいだろう」
午黒は手を打った。
「これで解せたぜ。坊主一匹盗むのに、躑躅ヶ崎館の通し図まで作ろうって話は大袈裟だと思ったが、そう言うことなら乗らせてもらうぜ。で、いつ入るんだ?」
「そう慌てるな。入るのは入るが、いくつか解決しなきゃいけないことがある」
「合い鍵なら、何日かあれば出来るけど」
真菜瀬は重たそうに、無数の鍵束をつまみ上げた。
「どの鍵が当たりだ―――全部試す時間があると思うか?」
無足は意味ありげに、ヒアシの方を見ると、全員に言った。
「まずはその坊主の足音を洗い出すんだ」

こうして次の日から、ヒアシの無足者としての仕事が始まった。
仕事は終日、足音を読むことだった。烏弥が描いた躑躅ヶ崎館の鳥瞰図を携えて、午黒と館の周辺に潜み、各屋の出入りの足音を記録するのだ。
「件の禅坊主は武田でも特に秘蔵とされている。いつ、どこで信玄と会うか、それも分からない」
虱潰しと言っても、全館探し回ることは出来ない―――繰り返し、無足は言う。ただでさえ、警備の厳しい場所だ。それでもヒアシがいない計画の当初は、可能な限り候補をあたって探し回る作戦を強行するつもりだったらしい。
「すでに信玄の宿所にまで、一度手は入ってるんだが―――これが芳しくない」
躑躅ヶ崎の居館の中央南半分には、信玄の居住区が位置する。公式な謁見の間と隣接するその場所は、信玄専用の書斎や寝室はおろか、水洗の雪隠(せっちん)(トイレ)までつけられている。実は危険を冒して、織田の忍びが信玄の私的な区域まで立ち入ったのだが、そうした坊主が潜んでいる隠し間や生活の痕跡さえ、見当たらなかったと言う。
「本当にいるんだよな、その坊主は」
午黒は外部からの来客で、それらしい人間も当たってみたが、はかばかしい結果は得られていなかった。そのせいかこのところ、昼夜問わず、午黒はヒアシのところへ愚痴りに忍んで来る。
「介三が訊いた船乗りの話では、ひどく小柄で顔の青ざめた気病みの小坊主だって話だが―――大体よ、その坊主、さらったとして、そいつが本当に甲斐一国の帰趨を決めるほどのものなのか?」
「さあ―――」
おれに聞かれても―――ヒアシは首を傾げた。
「お前みたいな駆けだしは知らんだろうが、確かに戦国大名ってのは迷信や縁起を特に重んじるし、出陣の際も卦を占うんだよ。いくさに、呪い師を連れていくのも珍しくねえ。だからまあ、一応話の筋は通っていやがるが」
独りのときはよほど黙っているのか、午黒は二人になると饒舌だった。
「聞いた噂だが、四度目(よたびめ)の川中島合戦の折り、その件の坊主ってのは、まるで神隠しのように、あの館からふっ、といなくなったらしいぜ。凶事を嗅ぎつけると、その坊主は、館から煙のように消えるんだと。武田館では幾度か、こうしたことがあったらしいが、どんなに警戒しても坊主は、消えちまうそうだ」
彼が発見されたのは、それから十日ほど後、場所は妻女山(さいじょやま)だったそうだ。
「越後から来た上杉勢が陣を取った、その妻女山だぜ。おれはあんとき、川中島にはいなかったが―――そのときに、陣中じゃこのときに起きた不吉を打破しようと、一人の男の無謀な建策を容れたらしい。よほど不安に思ったんだろうな。無足者あがりのその男のでたらめを信じたせいで武田は上杉勢に本陣まで突っ込まれたんだ」
それからも収穫は薄かった。

ヒアシが、屋根の上で時間を潰していると、今度は真菜瀬が顔を出した。
「どう? 見つかりそう?」
ヒアシは帳面を閉じると、ため息をついた。
「いや、おれには分からないよ。おれはただ、足音を記録しろって言われただけで」
歩き方の特徴や、動きでヒアシには大よそ人物の特徴はつく。例えば武士なら、腰の物の重さで歩き方に偏りが出来るはずだし、小遣いや侍従たちなら、重いものを抱えたり、小走りの移動が多かったりする。それでもこの館の様々な場所に出入りする人たちを洗い出して、人物を特定するのは正直、なかなかの骨だった。
「わたしの他に誰かここに来た?」
「午黒が毎日―――ずっと愚痴を聞かされてる」
ヒアシはうんざりして答えた。心当たりがあるのか、真菜瀬は苦笑して、
「あの人、まあ―――腕は確かなんだけどね」
「無足は?」
ヒアシは聞いた。
「あの人はどこかで動いてるよ。確かあの、尾張の介三さんと一緒だよ。なにしてるかは知らないけどね」
本当にそれで大丈夫なのか―――そんな顔を、ヒアシがしたのを察したのか、
「まあ、いつも、こんな感じだよ。わたしたちに仕事を呼び掛けて役割をふった後は、裏で何かしてるの。それでもいつもはわたしたちに仕事任せっきりだから、今回は大仕事で、気合が入ってるみたいだけどね。昨日も大分遠くから帰ってきたみたいだよ。今は国境辺りに出てるのかな」
「―――また、どこかで捕まってなきゃいいけど」
国境の山あいで無足が何をしているのか。昨夜、初めてあの男に出会った時のことを、ヒアシは思い出した。
「真菜瀬さんは、今、なにをしてるの?」
「わたし? 館に入り込んで偽鍵を作った後のもとの鍵を戻したり、烏弥と、中身の図面を引いたりしてる。わたしみたいにちゃんとした紹介のない下働きだと、あまり信用されないから、立ち入れない場所も多いんだけど―――」
「ちょっと待って」
ヒアシは真菜瀬を手で制した。また誰かが動いた気配がしたのだ。
「見つけた?」
ヒアシは首を振った。
「違うよ。でも、なるべく多くの人の足音は、把握しとけって言われてるから」
無足が言うのには、その坊主は子供のように足運びが小さいはずなのだ。言うまでもなく、子供の数は館にはそう多くはない。真菜瀬は屋根に耳をつけて歓声を上げた。
「すごいね。わたしなんか全然、分からない。特殊な力を持ってる人ってすごいね」
「だけど、逃げ足だよ」
「別に悪くないじゃん。逃げ足でヒアシくん、って」
「逃げ足が速いわけでもないのに?」
真菜瀬は微笑した。
「こう言うのって訓練するんでしょ? どうやって身につけたの?」
「身につけるなんてもんじゃないよ」
と、ヒアシは、かぶりを振って、
「おれ―――小さいときから、こんな感じで耳がよく聞こえるんだ。普通、忍びは、聞き耳を鍛える。人や馬の足音や気配も、本当は耳に地面をつけて聞いたり、止観(しかん)したりして、全身で感じ取る訓練をするんだけど、おれは少し目を閉じて耳を澄ますだけで、色んな音が感じられた。―――追い足盗みもそれで教えてもらえたんだ」
「ふうん、じゃあ―――どうして逃げたの? 無足から聞いたよ。君、ここまで逃げてきたんでしょ?」
ヒアシは表情を硬くした。
「話したくないなら、別にいいけど」
短い沈黙ののち、ヒアシは答えた。
「みんな、何か取り得を一つは持ってるって言うだろ。持ってないと思ってても、一つはくらいはさ。でもおれ、これ以外のことは全然だめだったから、最初の仕事のときも物見や見張りばっかりさせられてたんだ」
「―――それで、他の人はなにしてたの?」
「田畑に火付けしたりとか、物盗み、人さらい」
「ヒアシくんはそう言うことがしたかったの?」
「そんなわけないだろ」
真菜瀬の訊き方は普通だった―――ヒアシは声をひそめた。
「別にしたかったわけじゃないよ。―――ただ、おれはずっと聞いてたんだ。聞かないことが出来ないんだ。あいつらがわら納屋に人を押し込めて火を付けたり、穴を掘らせて中に人を蹴落として埋めたり―――そこで何が起きてるか全部分かるんだ。そんな音をずっと聞かされてると・・・・・・全部自分のせいみたいに思えてくる。おれがやったわけじゃないし、これは仕事だっておれだって思いたい。でも無理だ。そう思おうとしたって、そんな風に思えるはずないだろ」
「だから、逃げたんだ」
ヒアシは小さくかぶりを振ると、また、ため息をついた。
「分からない。それだけのせいじゃないと思うけど、おれにもはっきりこれだって言える理由なんかないのかも知れない。真菜瀬さんは知ってるかどうか、分からないけど、おれたちはよそで、金に買われて連れて来られるんだ。子が多くても、継がせる田がないような家の、口減らしでね。生まれて気がついたら、死ぬまで忍びとして働かされることが決まってる。子供の頃から競争させられるし、みんなそれに疑問を持ってないふりをしてるけど―――その代わり、とにかく殺気立ってるんだ。そうじゃなきゃやってられない」
「でも君は、そうじゃなかったわけだ」
はっ、と―――ふいに石を投げつけられたかのような顔を、ヒアシはして、
「そうじゃなかったかも知れない、けど―――」
その後の言葉が、出てこなかった。
「―――この仕事が終わったら、君はどうする? ヒアシくんはこの国を無事に出たいだけだって、無足は言ってたけど」
真菜瀬は突然、話題を変えた。
「それもまだ決まってない。どこか広い街へ出てみようと思ってるだけで―――」
言葉を途中で切って、ヒアシは俯いた。
「そっか―――でも、君みたいな人が外に出るのは、大変かもね。今は安全な場所なんかないし。火付けも物盗りも人さらいも、外の世界には普通にいるし、ヒアシくんだって仕事がなければ、その中のどれかをしなくちゃだし」
「あてがないことは分かってるよ。でも―――」
「でも?」
真菜瀬は言葉を濁したままの、ヒアシの顔をじっ、と見つめて、
「今、話したことだけじゃない―――ヒアシ君の問題はもしかしたら、別のところにあるのかもね」

「無足お前、本当にそれは―――詰まらん与太話じゃないんだろうな」
やがて瞬く間に日が経ち、午黒などは明らかに集中力が散漫になってきた。
「おれはここ数日、武田屋敷に出入りがある寺社仏閣をめぐったが、それらしい坊主がおるとは一切聞かなかったぞ」
午黒の愚痴を、無足は相変わらず、眠たそうな顔で受け止めている。
「―――それなら、やっぱり屋敷の中かも知れんな。真菜瀬やヒアシの話だと、信玄はあの敷地内で、時折日によって宿所を変えているらしいが、どうやら北側の夫人の住居に泊まってはいない夜もある。じっくりその件の坊主と話をするとしたら、やはり夜だろう。邪魔は入らないし、何より、昼より密に動ける」
と、無足は真菜瀬を見た。
「そうだね。わたしたちには絶対に教えてくれないけど、奥方の宿所に行くときは宿直(とのい)の武士たちも出ていくし、外の篝火の数も多くなるんだ。主殿の看(かん)経間(ぎんのま)って言う寝室があるんだけど、ここはどうやら信玄がいるいないにかかわらず、明かりを入れて、警備もきちんとしてるみたいだよ」
「それ以外に極秘の場所があるってことか―――烏弥、表向きの宿所の他は、この屋敷のどこで休みをとれそうだ?」
「息子たちや弟、それに実母の御北様の屋敷―――人質のいる西の曲輪や、不動堂などいくつか、宿れそうなところはあるが、多すぎて一つに絞れないな」
「この場所はなんだ?」
図面に目を落としていた無足は、南面正面の二階建て楼と書かれた場所を指した。
「ここは城で言えば、天守―――いくさのとき籠もれはしても、人を住まわせるのには、不向きな場所だな。それに信玄は、ここには滅多に立ち寄らない」
大きく息をついて、無足は腕を組んだ。
「さっきのうちのどこかで、集中的に立ち寄ってるようなところは分からないのか?」
烏弥は首を振った。
「表向きの動きに紛れて、密会もその都度場所を変えているんだろう」
座が煮詰まって口を開いたのは、尾張の介三だった。
「つまり坊主の定宿は決まってはいないわけだ。件の坊主は常に居場所を移動しているかも知れない。なにしろ、童子のように小さい坊主と言う話だからな―――屋敷のそこかしこに隠し路があるのか、人を使って荷物に紛れて運ばせているのか。それは分からないが、足音を使わないで移動する方法ならいくらでも思いつく」
「だがよ―――もしそうだとして、どうしてその坊主は足音すら残さずに移動してる?おれたちの中に足音を聞ける仲間が加わったのは偶然だし、その坊主だって屋敷中動いていれば、じっとどこかに隠れてるより目立つに決まってるぜ」
「甲斐にはこれだけ厳戒態勢をとっても、あらゆる忍びが入り込んできている。おれだけじゃなく、武田の件坊主の話は、噂話程度ならだれでも知っている話だ」
介三の答えを無足が話を引き取り、
「それに、坊主が動くのは、方違えをしているせいだ。足音も残さずに移動しているのは、魔除けの意味合いもある。そいつは、信玄に会わないときでも、常に館を守っているんだろう」
「そう言うことだ」
午黒は腹立たしげに鼻を鳴らした。
それにしても。この介三と言う男も奇妙な男だと、ヒアシは思っていた。数日、尾張へ帰ったのかと思ったが、意外と足しげく甲斐に現れている。聞いたところ相場師のような仕事だが、商いは平気なのだろうか。
「信玄と会っている時は恐らく表向き、誰かと会っているときだろう。さっきその、黒い顔の男が上げた場所、そのどれかに件は現れている。問題はそれがいつ、どれになるのか、ってことだろうが―――」
そこまで話すとその後はお前らが考えることだ、と言うように介三は沈黙した。
「午黒、何か言えよ」
無足が午黒に水を向けた。
「おれに聞くなよ―――そもそも、お前がふってきた話だろうが」
「件の話と、関係あるかどうか分からないけど」
と、真菜瀬が言った。
「お屋敷で水(みず)甕(がめ)とか、花瓶を置く場所がよく変わるんだ。日によって、屋敷全体に悪い卦が出ているらしくって。その指示どおりにやっておかないと、本当に喧しくって」
「ただの盗難避けじゃないのか?」
真菜瀬は首をひねった。
「魔除けじゃなかった?」
知るか、と午黒は牛があくびをするようにうなった。
「どっちでもいいけどよ、そろそろ限界だ。警戒が厳しくて、この甲斐にだって長くはいられねえぞ。次の手を考えねえと、いけねえ時期じゃねえのか」

―――雨だ。
甲斐に来て、初めての雨をヒアシは浴びていた。山中の天気は変わりやすい。雲が出ることがあっても、結局降らない日が多かったが―――ついに降った。
(ひどくなるかも知れない―――)
山育ちのヒアシはすぐ察した。今日は雨雲が分厚く、黒くくすんで八ヶ岳を隠している。雨を兆して漂う、湿った匂いも濃かった。情け容赦のない雷雨が、やがてやってくる。
―――そろそろ、潮時じゃねえか。
午黒はぼやきばかりだが、あの男の言うことも間違ってはいなかった。甲斐では再び陣触れの話が出始めて屋敷の内外も緊張が高まっている。
―――日に何度も建具の配置とかが変わるんだ。
真菜瀬は言っていたが、それはどうやら暗号や合言葉のようなものを示す符牒の可能性があると言う。
―――たぶん、わたしたちみたいなのを炙り出そうとしてるのかもね。
もはや時間がないのだ。実際に、行方が判らなくなった下女や使いもいると言う。
今のうちに逃げようか。ヒアシはふと、考えた。
もうあれから日数も経ったが―――あの赤目が、このまま諦めるとも思えなかった。
確かに逃げることを考えるのも、選択肢の一つではある。
平地の季節感と比べて、山のそれは一か月以上は確実に出遅れる。この不安定な荒れを経験し、山裾にも雪解けの水が行き渡れば、甲斐は冬から解き放たれる。眠れる巨獣は目覚め、再びいくさの準備を始めるだろう。
(そうなったらまた―――ここから逃げられなくなるのか)
「今日は、大分荒れそうだな」
無足の声がした。いつの間にか背後に立っていたのだ。
「調子はどうだ?」
「今日は無理だよ。さっきからやってるけど、中でなにをしてるのか、さっぱりわからない。雨がひどくなったら、余計聞きにくくなると思う」
「そうか」
無足は気のなさそうにあくびを漏らし、
「あれは、誰だ?」
と、あごを向けた。ちょうど中庭を望む回廊に、大股歩きの男がひとり、出てきたところだった。
「あれは、信玄本人じゃないか」
「へえ、そうか、あいつが―――」
さすがにヒアシは呆れた。あれからヒアシは日に、幾度か信玄を見ている。さすが甲斐の虎の異名に相応しく、声も大きく、恰幅もいい。大きな赤ら顔に虎を思わせる口髭が左右に縮れている。文字通り豪傑の風貌をした男だ。
「に、してもこの国は秘密に厳しいな。狼煙台のことといい、屋敷内の警戒といい、情報管理に執拗だ。徹底し出したのは信玄の代になってかららしいが―――知ってるか、信玄が追放した、前国主の信虎はよっぽどひどい男だったらしいな」
「有名な話だろ。何でも座興で、妊婦の腹を生きたまま裂いたって」
信虎の暴君ぶりは、神社の縁起にも記録されるほどだ。無茶ないくさを繰り返し、狩りに出れば、戯れに領民を射殺した。暴挙を諫めて、斬り殺された家臣など物の数ではない。
「耐えかねた息子が実父を追放して実権を握ったのが、今の経緯らしいが―――信玄は法整備をして家臣団を練り上げ、この国をいちから立て直した。この躑躅ヶ崎館を中心に、氾濫する川に堤を作り、甲斐一国の道を均してつなげ、十数年でこれだけの街を創りあげたんだ」
何が言いたいのか―――ヒアシが無言でいると、無足が言葉を継いだ。
「しかし、それにしても奇妙じゃないか。信玄の治世になって、今は驚くほど国が豊かだ。戦国の世で、諸国から出入りするおれたちみたいな人間にいくら気を払わなければならないとは言え、この警戒の仕方は異常すぎる。それに、その割になぜ妙な噂ばかり漏れてくる?」
「隠そうとすれば、余計に噂が立つのが、人の性だろ。大体完璧なものを見れば見るほど、人はあらさがしをしたがるはずだよ」
「へえ、思ったよりお前、意外と頭がいいんだな」
ヒアシは鼻を鳴らすと、肩をすぼめた。
「そろそろあがれよ。みんな戻ってるはずだからな。そろそろいくつかあたりをつけなきゃならない。お前の話も、烏弥が聞きたがってたぞ」
「分かったよ」
そう言えば無足が現れたことは、一度もなかった。だから、今日は雨が降ったのかも知れない。本当に、掴みどころのない男だ。全然やる気がなさそうなのに、わざわざ嵐の日になって、こうやって忍んでくる。
「あらかた、誰のものかは絞れて来たみたいだな」
雨の中、無足はヒアシから受け取った記録に、軽く目を通す。
「どうかしたか?」
「いや―――あんたがこんなに熱心に記録を読んでるの、見たの初めてだったから」
ヒアシの目から見ても―――どちらかと言えば、仕事をしているのは真菜瀬や烏弥であり、午黒だった。何をしているのか分からない介三ですら、無足よりは積極的に仕事に関わっている。
「お前も結構言うな」
鼻の辺りにしわを作って、無足は苦笑した。
「真菜瀬さんはこの仕事は大仕事だから、あんたが珍しくはりきってるって言ってた。でも本気で、あの館の中にそんな―――物の怪じみたやつがいるなんて考えてるのか?」
「いるさ。噂話も意外とあてになるもんだ。実はおれも昔―――同じ話を聞いてな。だからこそ介三の話に乗ったんだよ」
「本当かよ」
どっちでもいいと言うように、無足はあくびで紛らわした。
「先にねぐらへ帰るぞ。お前も早めに戻って来い。おれたちがうるさくしたせいか、屋敷でも嗅ぎ回られているらしい。くれぐれもつけられるな」
無足は消えた。
やがて煙るような風雨が吹きつけ、軒に滝のような滴が垂れ出した。
しゅっ―――と、この雨の中、彼方に、狼煙が上がる音がした。本当に―――かすかな音だ。無足の言う通り、確かに、警戒は強くなっているのだろう。
ヒアシは屋根から、二階建ての楼閣を臨んだ。
そこにもぼんやりと、二階の廻廊に火が灯っている。いつもの合図なのだ。狼煙台を使っての伝令は、日に幾度かある。あの楼閣で出している合図は、各方面からの情報を受け取ったことを示している合図なのだろう。最近は頻繁に見る。
―――逃げるなよ。
そう言えば、あの男は今まで一度もそう言わなかった。
この雨で町中に伝わっていく、狼煙台の白い煙が―――ヒアシの場所からは水で薄めた乳のようにかすんで見える。
(今日はもう無理だな)
ヒアシの耳もさすがに限界だった。雷より何より、風の音がひどい。無足の言うとおり、ねぐらに戻ることにした。屋根を下りて、塀を伝うと、身体の重さを感じた。全身ですっかり雨を吸っているのだ―――寒さでずぶ濡れの手がかじかんでいるせいか、ものにつかまる感覚すら麻痺してきていた。
雷が鳴った。ヒアシはびくりと身体を震わせた。
そうだ。
そう言えば、あの日もずっと黒雲がわだかまっていた。
びしゃっ、と首筋に何か冷たいものが撥ねた感触があり、ヒアシは後ろを向いた。楼の上におぼろげな黒い棒が立っているように―――そのとき、それは見えた。

「―――狼煙台だ。そいつをたどれば、坊主に会える」
根城の二階屋に戻ると、無足たちはすでに図面を広げて話を始めていた。
「どうやら狼煙台に秘密があるみたい」
話に途中から加わったヒアシに真菜瀬が事情を話した。さぼっていたのかと思ったら、どうやら無足はそれを調べていたようだ。ヒアシが見るとさっき無足に手渡した足音と人相の記録の横に、無足自身が書いたらしい、狼煙台の配置と館の全図を引き比べた無数の資料が置かれている。それをもとに話をしているようだ。だれきっていた午黒なども真剣な顔つきをしている。
「何度か山の上から全市を見たが、狼煙台の伝令には二種類ある。一つは、末端からの伝令、もう一つは館からの指令を伝えるものだ。館からの指令は通常、敷地内の狼煙台から打ち上げられて市内に伝わっていく。だがそのうちの何回かは、別の場所からの合図が起点になっている」
と、無足は、南面の二階建て楼閣を指差した。そう言えば確かに今日、楼閣の二階に火が灯っていた。ヒアシの見るところ、それは少ないときには二日に一度、多いときには、日に数度もあった。
「おれも、見たよ。それも最近、頻繁になってる気がする」
「いくさが近いからだ」
と、無足はヒアシの言葉を引き取ると、
「件の坊主は、そいつを使って平時も細かい命令を各署に出しているようだ。おれは国境から市街周辺の狼煙台すべてを廻って、配置の変更の頻度を調べたが、確かに館から指令が来た次の日には、組頭は別所に異動になったり、警備の配置が突然変わったりしている。それも定期的な配置換えとは別に、だ」
午黒が口を出した。
「だがよ、そいつはただの外への合図だろ。その無茶な変更を件坊主がやってるとしたって、それで坊主の居場所が分かるわけじゃねえじゃねえか」
「よく聞け、午黒―――問題はその唐突な配置換えを、狼煙台の命令系統を使ってどうして行うかと言うことさ。真菜瀬、屋敷の中も確かそうだと言ったな。建具の位置が変わったり、人が入れ替えられたりする、と」
「まじないか」
介三が言った。
「その通り―――突然の配置換えや変更には、占われた卦を基にした託宣の結果なのさ。もっと言えば、狼煙が伝わっていく方向にも明確な企図があるんだ」
見ろ、筆をとると、無足は館の全図と市街図を組み合わせた図面に墨を垂らした。
「例えば館から見て、東へ向かう線―――それから各方面をたどってまた、館に帰っていく日があったとする。すると東へ行き向かう線、こちら側は瑞兆の方角を示し、その反対側はその日の鬼門を示すことになる」
烏弥は図面に引かれた対角線上の建物の配置に目を落とし、
「つまり、鬼門の方角をたどれば、坊主を見つけることが出来る」
「そうだ。その方向を捜せば、坊主は必ずいる。恐らく変更があった日、次の卦が出るまで坊主はその鬼門を動くことが出来ないはずだからな。―――それに、日の天気のように卦はめぐるものだ。すなわち狼煙台への伝わり方の記録をとれば」
「事前に次の卦を、予測することが出来るってことか!」
午黒は快哉を上げた。
「記録から割り出したところによると、次の合図があるのは三日の後だ。おれたちはその晩に、坊主をさらいだすぞ」

「無足がもとは忍びだったかって?―――どうだったかな」
真菜瀬は首を傾げた。
雨上がりの日の翌日、ヒアシは真菜瀬や烏弥とともに市に出ていた。二日後の出入りに備えて、彼らは必要なものを調達しようと考えたのだ。
「おれの追い足盗みを知ってた。あれは、里ではよその人間には話しちゃいけない決まりになってるんだ」
「そうだな―――素性で言うと、わたしと烏弥は、盗賊だったんだよね。見ての通り、わたしが下調べをして、烏弥が偽鍵を作るって感じなんだけど」
確かに、そんな感じだ。話ぶりが円満でどこにも入っていけそうな真菜瀬に比べて、烏弥は無口で世渡りが下手そうだが、手先は器用そうだ。
「午黒は?」
「あの人は、現役の忍びだよ。無足とは古いみたいだけど―――」
ぽつり、と烏弥が口を挟んだ。
「何でも知ってるし、誰でも受け入れる。無足は昔からそうだ」
「まあ、とにかく適当だって言う線もあるんだけどね。わたしと烏弥が拾われたのが、四年前かな。わたしが十五、烏弥が十八のとき。わたしは熊野の歩き巫女の娘だったんだけど、事情があって巫女の仲間に入れてもらえなかった。烏弥は、熊野に修行に来ていた波羅門僧が手をつけた落とし胤で、見ての通りの風貌だから―――里にも出られないし、仏門でも疎まれていたの。だから二人で里を抜け出して、京都の洛外に落ちたんだけど」
もちろん、仕事があるわけではない。飢饉が続き、京都では毎年鴨川に餓死者の遺体が積み重なったと言う。だが無駄と知っても人の集まるところに、人は集まるものだ。
「春を売るのさえ、あそこでは許可がいるから。わたしは辻君(私娼)をして、烏弥はかっぱらいをしてて」
―――白蛇のお告げ者にならないか。
「無足にそうやって口説かれて、法華の寺衆や公家衆をだましたんだ。この戦乱で今ではどうか分からないけど、地方から寄進を受けて大分溜めこんでた家もあったから」
―――かまうことはないさ。御仏のご加護だの、官位だの、やつらもまやかしで喰ってるんだからな。
二人に、無足は言ったと言う。
「それ以来かな。その前は知らないんだ。でも昔から、まじないだとか、運命だとか、そんな言葉が、無足は好きじゃなかった。それは実を言うと、わたしも、そうなんだけどね。この仕事も―――もしかしたら、だから受けたんじゃないかな」
三人が話しながら歩いていくと、前から無足と介三が歩いてくる。
「準備は整ったか?」
介三が聞いた。
「ああ、あんたの言うとおり明後日、尾張から来た塩商人に話をつけた。おれたちが入る分と、坊主を積み込む分―――塩樽を点検してきたところだ」
「塩蔵の偽鍵は、真菜瀬に渡しておいてくれ。あとはヒアシ、おれを頼む。おれは、午黒やお前みたいに、足音を消して歩けないからな」
「え、おれも行かなきゃいけないのか?」
「来ないつもりかよ。無事に甲斐を逃げたかったら、おれたちに付き合え。お前にはまだまだ役立ってもらわなきゃな」
無足は相変わらずいつもの調子だった。
「―――ところで、午黒はどうした?」
と、無足が唐突に聞いた。
「根城にいるよ。誘ったんだけど、あの人、昼は外に出たくないって言うから」
西の空から黒い何かが飛んで来たのは、ちょうどそのときだった。
「おっと」
それは灰色の羽根をした、野鳩だ。足に文が巻きつけてある。無足はそれを取り上げると、瞬時に顔色を変えた。
「どうかしたのか?」
無足は西方を見た。騒ぎが人波を縫って伝わってくる気がした。
「手入れだ。どうも、おれたちの居場所がばれたらしい。午黒は先に逃げたそうだ」

根城だった遊女屋が追捕の兵に囲まれた。
午黒の文によると、それは、予兆もなく―――あっという間の出来事だったらしい。
「午黒は必要なものを持って、先に逃げたそうだ」
無足は言った。
「臨時の待ち合わせ場所は以前の打ち合わせ通り。『東の対』だ――半刻後に」
五人はまず、別方向へ逃げた。幸い昼間で表通りには、人手があった。
「ヒアシくん、こっち」
人混みの中、真菜瀬が手を引く。ヒアシは言うがままに従った。足音が―――それも馬のひずめも含めた無数の殺意が、こちらに迫ってくるのが彼にも分かった。午黒の話だと、向こうはある程度、こちらの人体を把握しているらしい。
―――この中の誰かの仕業じゃないだろうな。
介三が言ったが、内通者にしては間が抜けている、と無足は答えた。確かにその意見は正しい。この時間帯、そこには、午黒しかいなかったのだ。独り、いなくなるならともかく、五人が顔を合わせている状況では考えにくい。
「大丈夫?」
通りが詰まってきた。走りを早足に変えながら、真菜瀬が聞いた。
「無足たちは?」
「烏弥と逃げた―――大丈夫だよ。『東の対』、場所は打ち合わせてある」
ヒアシの後方からは、介三が歩いてきていた。
「計画は大丈夫なんだろうな」
介三は上目遣いに二人を睨んだ。間者説をまだ捨ててはいないようだ。
「さあね―――少なくとも、わたしと烏弥の間にはそんな話はなかった。午黒は無足の古い仲間だし、この仕事で裏切るにも理由がない」
介三は、ヒアシを見た。
「ヒアシくんは途中参加だけど、わたしたちが見てる限り外と接触はなかった。あと考えたら、みんなと別行動をとってたのは無足と、介三さん、あなたでしょ」
「おれを疑うか」
介三は目を剥いた。
「そうは言ってないけど」
真菜瀬は肩をすくめた。
「わたしから見たら、あなたとヒアシくんはあんまり変わりがないのよ」
「おれは発起人だ。お前らをはめこんでも、何の利得もない」
「だったら、彼もそうでしょ? 疑ったらきりがないから、無足も詮索しなかった。それに―――よく考えて。わたしたちの中にはいないはずだよ。わたしたちをはめ込んで得をする人間なんて」
介三は押し黙った。反論する言葉はなかったが、疑念は捨てきれないようだ。冷やかな視線を押し返した。だがそれ以上の材料はない―――あとは、何も言うことはなかった。

東の対の根城は、林の中にある六角堂のような場所だった。ブナ林に覆われた暗い森の中だ。無足たちはまだ、到着してはいないようだ。ここへ来るまでの間、介三は真菜瀬と目も合わせなかったし、言葉も全く交わすことはなかった。
「無足たちはまだかよ」
顔を出したのは、午黒だった。
「ここでの再集結は、一刻後って言ってた。市内の様子を探ってるのかも知れない。どうするにしても、わたしたちよりも、時間をかけて戻ってくるはずだよ」
真菜瀬と午黒が状況を話し合っていた。
「に、しても手が入るとはな。やっぱり裏切り者か?」
さあね―――真菜瀬は応えなかった。
「午黒さんに心当たりは?」
午黒は難しげな顔で腕を組んだ。
「あるわけねえだろ。気がついたら、捕り方に囲まれそうになってたんだ。だからあわてて出てきたんだが、考えてみりゃおれたちの中でおれたちをはめこんで得する人間がいるとは思えねえ。おれはともかく、誰も売って金になりそうな奴はいないからな」
介三が鼻を鳴らした。この男はまだ、腹にわだかまりを持っているようだ。
(おれたちをはめ込んで得をする人間か―――)
それは確かにいないに違いない。秘かに、ヒアシは考える。この中の誰も裏切る理由はないし、その暇もない。無足と介三を除けば、他の全員はほぼ同じ時間を過ごしているのだから。でもただ一人―――この中の誰とも違う状況に置かれている人間はいる。そう、それはつまり、言うまでもなく―――追われている人間だ。
(まさか、赤目が傍まで来ているなんて―――)
ヒアシはここ数日、嫌な予感がしていた。あの雨の日、妙な気配も感じたことを思い出した。それでも―――あの執念深い赤目でも、わざわざこの厳重警戒な甲斐の国に入ってまで目的を遂げようとするとは、考えてはいなかった―――考えないようにしていた。
「おれから逃げられるわけねえだろ、ヒアシは」
赤目は言った。必ず、どこへ逃げても―――捕まえてやると。
「お前は、生まれた時から逃げ足君なんだよ―――お前が出来るのは、ただおれから逃げることだけだろ。逃げても、どこかで必ず、捕まるんだ。そう言う運命なのさ」

「おい、ぼけっとしてんなよ」
午黒の声がした。気がつくと、その場に真菜瀬だけがいなかった。
「真菜瀬は?」
介三は顔を反らし、午黒は首を振った。
「無足たちを探しに行った。ついでに、市内の様子も見てくるそうだ。仕事に入る前に、大事になってなきゃいいがな」
介三と午黒は、顔を上げた。どこかで狼煙は上がっているが、それが何の合図かはよく分からない。それでなくてもこの甲斐では、狼煙は頻繁に上がる。そのいちいちを把握するのは、ほぼ不可能に近いのだ。
道具を背負った無足が、烏弥を連れて現れた。
「皆、無事か? どうやら、町中はそれほど騒ぎにはなってないようだったが」
噂を集めて来たのだ―――烏弥が事情を説明した。
「話では信濃から、商家を荒らして渡ってきた夜盗づれが潜んでるって話だった。問題は単なる勘違いか、誰かの作為でわざとそうしたのか、ってことだと思うけど」
「勘違いだといいがな」
あくまで皮肉げな口調で、介三が言った。
「ところで真菜瀬はどうした? 姿が見当たらないが」
午黒が事情を説明した。どうやら行き違いになったようだ。午黒は介三に向かってあごをしゃくった。
「どうもこっちの旦那は、内通者を疑ってるみたいだ。あの白蛇娘とは、それでやりあったみたいだな」
介三と真菜瀬は、険悪になりかけていた。突然のことで二人とも混乱しているのだ。彼女が理由を作って場を去ったのは、介三とやりあっても意味がないことに気づいたのか、恐らく頭を冷やすためだろう。
「―――会わなかったな。どれくらい戻ってこない?」
無足が訊いた。まだ気になるほどではないが、長くはあった。
「お、おれ、見てくるよ」
ヒアシは駆けだした。どうもさっきから、嫌な予感が―――胸で騒いでいた。
もしかして。そうだ、間違いない。赤目がいるのだ。
さっき駆けのぼったつづら折れを降り、坂の上に降り立ったとき、ヒアシは足を停めた。
道祖神の石像の上に、付け文が置かれている。重石のつもりか、何かで留めてあるのだ。そうだ、これは―――取り上げてみて、ヒアシは愕然とした。真菜瀬がしていた紅蒔絵の腕輪だったのだ。さらに近寄ると生臭い匂いが立った。みるとその傍らに何かが捨ててある。それは、付け根から切り取られた白い毛の犬の後ろ脚だった。
―――赤目だ。
そうだ、間違いはなかった。惧れすら忘れ、ヒアシはあわてて文を開いた。
そこには獣の血で大きく、狗(いぬ)、と書かれていた。

「一体誰がこんなことしやがったんだ」
激昂する午黒の端で狗と書かれた紙を、烏弥はじっと見詰めていた。
「真菜瀬は武田屋敷に潜入していた。もしかしたら正体がばれていたのかも知れないな」
「だったらどうして、屋敷で捕えなかった? 真菜瀬を泳がせて、一網打尽にしようって腹か? それにしちゃ、さっきのは段取りが悪すぎるぜ」
「ヒアシ、お前に何か心当たりはないのか?」
無足に突然聞かれ、ヒアシは絶句した。
「そうだ、お前は、いつも真菜瀬と行動していただろ。何か思い当たるような節はないのか?」
「いや、おれは―――おれには何も・・・・・」
反射的に言って、ヒアシはかぶりを振った。咽喉まで出かかった言葉は、引力に従って腹の底へ落ちていった。
「どうするんだ、やばいぜ。真菜瀬がいなかったら、塩蔵が開けねえぞ」
さすがの無足も焦っているようだった。午黒に返す言葉もない。
(言えるわけない)
騒ぎ立つ男たちを尻目にヒアシの頭の中ではあの―――斬り取られた無惨な犬の白い足と、狗と書かれた置き文が交錯していた。
―――狗。
赤目たちはいつもそう言っては、ヒアシを追ったのだ。それは子供の時から知っていたヒアシと赤目との符牒だった。ずっと赤目は見ていたのだ―――真菜瀬をさらったのは、ヒアシをいたぶるためか、炙り出すため。あわてて逃げだすところを追うのが、赤目は見たいに違いない。あのときと同じ―――
もう、限界だ。
(逃げよう―――)
ヒアシの頭にその四文字が浮かんでは消えていた。赤目は無足に要求を出すに違いない。真菜瀬の身柄と引き換えにヒアシを寄越せ、と。無足が、どちらを選ぶかは明白だ。真菜瀬がいなければ計画は実行できないし、そもそもヒアシは通りすがりの成り行きで参加したものに過ぎない。
真菜瀬を失ったまま、場所を移した無足たちはやりかけた潜入の準備を進めようと話し始めている。
逃げるなら、今だ。
「あの、おれ―――」
ヒアシは、意を決して口を開いた。その突然の言葉に、塩樽を加工したり道具を吟味したりしていた全員が一斉に顔を上げる。
「どうかしたのか?」
無足が訊ねた。
嘘を―――頭の中で、ヒアシは適当な嘘を探す。今、ここからいなくなろうとするためのその場をしのぐためだけの一言を。
「実は・・・・・」
―――ヒアシくんの問題は別のところにあるのかもね。
ふと、真菜瀬の言葉が蘇る。問題は分かっている。もともと逃げる場所などはありはしないこと。ここをしのいでも、赤目は追ってくる。いつかは必ず、対峙することを選ばなければならないのだ。それでも―――
(無理だ)
いやだ。あの赤目の前に立つことを想像しただけで、喉元にこみ上げるもので息が詰まって―――今だって、寒気がするのに。
「赤目だ―――」
それでも次の瞬間、ヒアシはその名前を口にしていた。自分でもなぜか分からなかった。その言葉を口にした途端、それだけでふっ、と胸の中の何かが下りていくのが分かった。あるいはただ、それだけのためだったのかも知れない。
「赤目?」
無足たちが表情を変えたのが分かった。
「なんの話だ」
たどたどしいながら、ヒアシは事情を説明した。
「真菜瀬をさらったやつの名前だよ―――おれを追いかけてきたやつらのうちの一人なんだ。この紙の文句に覚えが、あるんだ」
「憶えがあるんなら、なぜ早く言わなかった?」
烏弥が眉をひそめた。
「おれだって信じたくなかった―――まさか、赤目が追ってくるなんて思わなかったし、真菜瀬とおれを交換することになったら、あんたらおれを売るだろう?」
午黒が腹立たしげに息をついた。
「意気地のねえ奴だ」
介三は醒めた目つきで、ヒアシを見やった。
「こいつが目的なら、もう一回接触してくるってことだな」
「ああ、大事にならないうちに処理しなくちゃな」
無足はヒアシを見た。
「―――で、覚悟は出来てるのか?」
ヒアシは俯いた。
「わ、分からないよ―――言わずにはいられなかったんだ。もともとおれの問題だし、巻きこんで悪かったと思ってるよ。だからおれを人質にして、今から真菜瀬と・・・・」
「馬鹿、そう言うことじゃねえだろ」
ヒアシの言葉を遮って、午黒が言った。
「上手くやるって覚悟だろ」

赤目からは間もなく、第二の連絡があった。
あの文は―――やはり、赤目だったのだ。
無足はヒアシを連れ、東の対の社で待つことにした。
「な、なあ、さっきはどうして―――」
売られると思った―――ヒアシは聞いた。
「お前こそ、黙って逃げりゃいいのにわざわざ話をしただろ」
無足は笑っていた。
「おれたちにはお前が必要なんだ。それより、上手くやれよ」
しばらく待っているとやがて、赤目が一人で現れた。色白で背の小さい、少年だ。ヒアシと比べても、肩幅や体格などに遜色はない。問題は、やけに女っぽく紅い唇や、一重に裂けた瞳に漂う残忍さだった。口の中でくちゃくちゃ何かを噛んでいる。恐らく犬で作った干し肉だろう。赤目はいつでも、必ずそれをどこかに忍ばせている。
「久しぶりだな」
と言うほどのこともなかった。一か月ぶりに、ヒアシは赤目を見た。
「まず、そっちの要求を聞こうか」
無足の言葉に、赤目は鼻を鳴らした。
「いちいち言う必要があるか?」
赤目は、眦が赤く潤んだ瞳でヒアシを見た。赤目の綽名の由来になった涙目は、幼い頃の眼疾のせいだ。
「あんたにはいろいろ言いたいこともあるが、まずは里の人間を返してもらおうか」
「こいつはおれの拾いもんだ。今は仕事に使ってるから無理だ」
「知るかよ。おっさん、あんたの仲間の女とどっちが大事か、よく考えて答えな。大体、そんな奴がなんの役に立つんだ」
「お前だって役に立たん人間を連れて帰ってどうする気だ?」
赤目はヒアシを見ると、唇を歪めた。
「さっきから、無駄な話ばかりしてる気がするな。こいつを連れていかなきゃ、おれたちも里には帰れないんだ。いいから、早くそいつを寄越せよ」
「分かった―――だが、約束はちゃんと守れよ。今のままじゃ、信用はできないな。本当に女の身柄は無事なんだろうな」
「仲間が預かってるんだ。それくらい当たり前だろ」
赤目は、無足を見上げると白い歯を見せた。
「一刻後だ。場所はまたおれから連絡する」
それからヒアシの足もとに血の混じった唾を吐くと、赤目は去っていった。

それからすぐヒアシは赤目を追った―――どうしたのか分からないが、二人が赤目と話しているうちに午黒が道を変えたのだ。そのため、すぐにヒアシは赤目を尾行することが出来た。
あの赤目を追うのだ―――考えただけで、足がすくんだが、今はやるしかなかった。
赤目は社の階段を降りると、そのまま山際に沿って人通りの少ない街通りを横切った。夕暮れの影が黒く燻っている。赤目は躑躅ヶ崎館すぐ下の、武士町の辺りに入っていった。
赤目の歩調に合わせて、ヒアシは歩き方を変えた。呼吸を整え、数間先の赤目のそれと同調させる。追い足盗みだ―――これで赤目は、ヒアシの足音や気配を悟ることはできない。忍びは足音を消して歩く癖があるから、赤目は自分の足音が消えたことはむしろ不自然には思わないだろう。普通に尾行すれば、十中八九気づかれる。赤目の耳は異常にいいのだ。
―――真菜瀬を任せた。
烏弥が、ヒアシにそう言った。無足の指示で、烏弥は侵入の準備に回ることにしたのだ。
赤目は西側の破れた塀の辺りを歩いていたが、やがて一軒の寂れた武家屋敷の敷地内で足を停めた。そこに恐らく仲間がいるのだ。
(仲間か―――)
ヒアシはその顔を頭に思い浮かべた。彼らとは里に連れてこられてから、十年も―――時間をともにしてきたのだ。それでも、なんのための仲間だったのだろう。答えは出なかった。
黒く焼けた柱の折れた屋敷の入口で、赤目は四人の仲間と話を始めた。ヒアシは顔ぶれを確かめた。ここにいない人間はいない―――漏れはなかった。同行した人間は、これで全員だ。恐らく、真菜瀬は、どこかに別の場所に閉じ込められているのだろう。笛穴のついた棒手裏剣を、ヒアシは取り出した。午黒が合図のために手渡してくれたものだ。
―――よく、狙って投げろ。
当てる必要はないが―――と、無足は言った。無理をして不意打ちをする必要はないかも知れない。ヒアシは五人の仲間たちに照準を合わせた後、それを―――天に向かって放り投げた。
鳶の泣き声のような、尾を引く鳴き声が空に向かって響き渡った。
日没時に鳶は鳴かない。
五人は一瞬だけ顔を上げて、空を見た。その音の異常な不自然さに気づいたのは、さすがにそのすぐ後だったが―――真横から突き上げるように飛来した黒い影には、対応するべくもなかった。
両刃の流線形をした、棒手裏剣だ。それが二人の頭に突き立ったとき、赤目たちは、ようやく自分たちが襲われたことに気づいた。犬たちは狩りをする経験はあっても、狩られた経験には乏しかった。残り三人の声のおびえた気配が、たちまち湧きあがった。
刃を上げて走り寄った影は午黒だ。と、言うことは手裏剣を投げたのは無足だろう。
残りの二人が午黒と斬り結んでいる間に赤目は身を翻して、逃げた。
(今だ)
ヒアシは、その後を追った。

そう言えばどうしてあのとき―――適当な理由をつけて、逃げなかったんだろう。赤目の後を追いながら、ヒアシは思った。もし―――逃げていたなら。逃げきれるか、どうか、そんなことではなく、必ず後で自分が許せなくなっただろう。
(確かにおれは―――おびえて逃げた。でも逃げた理由は、それだけじゃなかった)
思い出した。
赤目は人のいない屋敷の中を、逃げる。その足音は、今のヒアシに如実にその心理状態を伝えてくる。
(もう、おれは逃げない)
お前とは違う。屋敷に入ってすぐ―――ヒアシは追い足盗みを解いた。逃げはしない。八畳の板の間に出ると、そこに赤目が、刃を抜いて立っていた。
「こ、殺すぞ」
殺気立って、赤目は言った。声が震えていた。
「逃げ足だろ、お前―――逃げろよ。殺すぞ」
ヒアシは無言で立っていた。
刃が鼻先を掠めたが、ヒアシは退かなかった。
「話せよ」
ヒアシは言った。
「預かった人質の居場所を話せば、おれが見逃す。早く話せよ」
「認めないぞ。お、おれは―――お前なんか」
赤目は切っ先を振った。今は冷静に相手の動きが見えた。歩幅を変え、赤目の攻撃をヒアシは寸前でかわした。赤目は切っ先を床に撃ちこんだまま、前のめりに転んだ。
「これが最後だ」
ヒアシは転んだ赤目の首筋に棒手裏剣の刃を突き付けて、言った。
「分かった、おれの負けだ。そこまで案内するから」
「立てよ」
ヒアシは赤目を立たせた。
「どこに埋めた?」
ヒアシがそう聞くと、赤目の眉がぴくりと動いた。
「女を捕まえたら、お前らがやることはみんな同じだ。だから真菜瀬にしたんだろ?」
「え、えらそうな顔するなよ。お前だって同罪なんだからな。逃げ足君、お前が見つけてりゃ、あの女は生き埋めにならずに済んだんだからな」
「分かってる」
次は手遅れにしない―――ヒアシは言った。
「中庭の古井戸の辺りだよ。おれが言ってる間、あいつらが準備してた。勝手に探せ」
うそぶいた赤目を突き飛ばして、ヒアシは奔った。
「てめえっ」
床に落ちた刃を拾って後ろから―――赤目がヒアシを襲おうと走り寄った。だがそうはならなかった。次の一瞬で、背後から走り寄ってきた誰かが、刃を振り上げた腕ごと、赤目の身体を腰まで斬り下げたのだ。ヒアシは、はっ、とした。そこには濡れた太刀を下げた介三が立っていたからだ。
「いいから落ち着いて、よく、聴け。探すんだ」
介三の言葉は力強かった。どこか見当はついている。ヒアシは肯いて耳を澄ませた。
「土を掘ってくれ」
やがて地面に耳をつけていたヒアシは立ち上がって、叫んだ。
「この下に真菜瀬が埋まってるんだ。手遅れになる。早く!」

古井戸の近くの柔らかい土の中に、真菜瀬は古びた棺桶に閉じ込められて埋められていた。よく見ると空気を通す節穴に、竹筒が差されていたが、見つけられたとき真菜瀬は、ほとんど、呼気が絶えていた。
「―――ヒアシくん」
目が覚めたのは、次の朝だった。
「ごめん、おれのせいで―――」
ヒアシは赤目のことを話した。
「赤目たちが真菜瀬をさらったって聞いた時、嫌な予感がしたんだ。あいつら、村でさらった女を生き埋めにする遊びにはまってたから―――」
「それで―――逃げたんだ」
ヒアシは肯いた。
「おれ―――本当は、埋められた子を助けてやりたかったんだ。でも、無理だった。やつら、空いている棺桶や壺に押し込めて、何人もが土を掘って地中深く埋めるんだ―――おれ一人じゃ、全然、掘り出せなかった」
真菜瀬は呼気を深くしながら、ヒアシの話を聞いていた。
「あいつら、恐怖でおかしくなった子を掘り出して殺したり、他の子を従わせるために脅しに使ったりしてた。おれは、見張りをやらされたけど―――あいつらに脅されて、助けてやることが出来なかったんだ。おれらより先に掘り出したら、お前も同じ目に、遭わせてやるって言われて。怖くて独りで逃げたんだ。それでも、逃げずに助けてやることは出来たはずなのに―――」
「でもわたしのことは、助けてくれた。君は、強い。逃げなかった」
「あんたはおれを、かばってくれた」
「君は逃げ足くんだけど、いいんだよ―――肝心な時に逃げなきゃ」
真菜瀬は微笑んだ。
「助かったよ。本当、ありがとう」
すべてを吐き出し終えたヒアシの瞳に、涙が溢れた。

予定通り二日後。無足たちが躑躅ヶ崎館に入り込んだのは―――凪いだ海辺のように、静かな月夜の晩だった。
「―――いいか、西南の不動堂だ。間違えるなよ」
無足は、烏弥が用意した鳥瞰図を示して言った。
ヒアシ、午黒、それに介三が音もなくあとに続いた。
それにしても月の綺麗な晩だった。昼過ぎに雨が降ったので、空気はふわりとして湿っていた。
西南の不動堂の扉には、しっかりと錠がおろされていた。真菜瀬によると信玄は今晩、そこに出入りした形跡はなかった。無足は偽鍵で難なくそれを開けた。不動堂の扉が開かれる。中は暗く、空気が淀んでいた。
「お坊―――あんたが例の件か?」
当然のように無足は言った。ヒアシは目を凝らしたが、最初は分からなかった。だがよく見ると不動明王の木像の前に、確かにそれより一回り小さな木像のような影が、ちょこんと座っている。
「予見している―――おそらく、お前らは凶事の方だろう」
と、その木像は言った。
「凶事なれば、わたしをどこぞへ連れてゆく気じゃろう。如何?」
無足は苦笑した。
「それなら話は早い」
黙って、木像は立ち上がった。月明かりで見ると、確かに顔色の悪い、不景気をまとった顔の青坊主だった。しかも、どう高く見積もっても十歳児ほどの背丈だ。
「あんたには西方の鬼門を旅してもらう」
「ほう」
坊主は、うそぶいた。
「西が、鬼門か。誰がそう決めた?」
「これからあんたに決めてもらうんだ」
坊主は暴れはしなかった。無足は塩樽に坊主を詰めて運んだ。その晩、静かな宵に相応しく―――坊主の神隠しに、波乱は起こらなかった。誰に見つかることなく、何がとがめることもない。やがて真菜瀬が加わり、烏弥が荷駄用の馬を曳いて現れ、まるで最初からその運命であったかのように―――無足ものたちは無事、甲斐の街を抜け出した。
「どうかしたのか?」
足を停めたヒアシに、無足は聞いた。ちょうど雲が流れて目の前に、甲斐の街が見えていた。山の垣(かい)―――大きく裂けたその目は、今夜も眠っているようには見えなかった。方々で狼煙が立ち、山際に点った松明が絶えず移動しているが、ヒアシたちとは交わるべくもない。すべて、この男―――たぶん、国境で動いていた無足の仕業だ。
「いや、なんでもないよ。思い出してただけさ。あんたに会わなかったらどうなってたかと思って」
「凶事」
担がれながら坊主が樽の中でつぶやいたのが聞こえた。街を去ることを告げたときもそうだったが、どこか、見棄てるような口調だ―――街を眺めるその男の視線がどこか冷ややかなのがヒアシの気にかかった。

適当な西の小山に至ると無足たちは、坊主の樽を下ろした。
「―――私を斬るか?」
坊主は、口元を綻ばせて顔を上げた。どこかそれを期待するような表情が、月明かりに冴えていた。
「別に殺しはせん。ただ、ありのままを語ってもらうだけだ。夜半、おれたち不逞の人間にさらわれて、ここに置き捨てられた。そう、話せばいい」
「なるほど、な。西の方角を忌避しろ、と―――そう、言うことか。以前にも同じことがあったな。そう言う気がするが」
無足はそれには応えなかった。
「あんたは無駄なことを考える必要はない。あんたは神隠しにあった。そして西の鬼門に置きざられた。重要なのはそこだ」
「織田の小僧に、頼まれたか―――無駄なことをするな。たとえ、ここで私を斬り捨てたところで何も変わりはしないのに」
くっ、くっ、とくすぐったそうに、坊主は嗤った。
「おれもそう思うさ。まじない坊主一匹、死んだところでどうなるわけでもない。だが人は嘘やまやかしを呪いでマコトにして生きている不思議な生き物だ。今夜、あんたが西へ、顔も知らぬものたちに連れ去られ、おきざられたこと―――たとえそこに意味はなくても、あえて意味を見出すのが、人と言うものさ」
「そう言うことを言っているのではないのだよ。ただ私を煮ようが焼こうが、この国の決定は何も変わることがない、単にそう言っただけだ」
「分かるまい。今までのことを見れば・・・・」
「分かるさ。なにしろ私が―――武田晴(はる)信(のぶ)、信玄その人だからな」
「なんだと」
無足も絶句している。烏弥や真菜瀬も声がなかった。午黒が声を荒げた。
「いい加減なことを言うんじゃねえ。おれは信玄の面を館で何度も見てるんだ」
「虎のような髭を生やした赤ら顔の身体の大きい男、か? 確かに、その男は信玄としてあの館にいる。だが、ただそれだけだ。私も、その男も信玄、と言う大きな器の一部に過ぎない。私たちはそうやって、『信玄の国』を守ってきたんだ」
子供のように見えた坊主の顔にはよく見ると―――深い年輪が刻まれていた。
「想えば、私の父、信虎は正しい大名だった。荒くれのものたちを取りまとめて武田家を一にするには、外に敵を作り、いくさを続けるにしかなかった。この甲斐は山国で獲れる作物は少なく、平地が少ないために人の繋がりも薄いために、中々一国には、まとまらない―――我が家は甲斐源氏だが、その歴史は、狭い土地の奪い合いの歴史だ。源氏は関東各地で親兄弟問わず、骨肉の争いを繰り広げてきた系譜だからな。我が武田家も、もとは常陸の国の所領争いを追われてきたよそ者であり―――甲斐国主の権威も、鎌倉幕府が与えたものだが今の世ではたかの知れたものだ。
父の信虎は、病弱の兄をおして十四で家督を継いだ。父が家を継いだとき、武田家は親族入り乱れて、誰も信用できなかった。このありさまで生まれた私を見て、私を疎んじたのも、身に沁みた恐れがあったからだろう。この国を率いるには、多くの者の意見を容れ過ぎては、やがては喰われてしまう。ひよわで押し出しの弱い私を見て、父が感じたのは亡兄への忌避と嫌悪感だったのかも知れんな。だがその父もやがては疎まれて、国を追われた」
と、信玄はおのれの青白い顔を指した。
「そして、次に据えられたのが、自由ならざる私、と言うわけだ。このざまでは、誰も私の言うことを聞かん。だが逆に言えば、武田に巣食うものたちにとっては、うつろな容器のような私は、あらゆる料理を盛り付けることのできる、便利な受け皿だったわけだ。私の後ろ見だった、板垣(いたがき)信形(のぶかた)と言う男がいた。その男が、私の上に、さまざまな形を盛り付けて、今の信玄に仕立てた。それが私さ」
「だからあれほど、館の内外では諜報活動に気を配ったわけか」
「そうだ。英雄が出来上がるに連れて、もっとも邪魔になるのは本当の私だった。そこででっち上げたのが、件の坊主と言う話だ」
だから、実を言うとな―――信玄は笑みは、どこか虚しかった。
「今では―――何がマコトで何が嘘やら、当の私にも判らなくなってしまった。板垣は信虎の二の舞を恐れよ、といつも私に注意したが―――真の姿を隠して、英雄信玄を仕立て、国の政を決するうち、私は本当のおのれがどんなものか、そんなことすら、分からなくなっていったのだ。人々は虚像の信玄をまつろい、それにひれ伏す。
私は私でこの姿で館に潜み、多くの人の意志をこっそりと拾い集め、その総意に出来るだけ近いものを判断し、看経間にいるあの『信玄』に、伝える。そこにはおのれの意志など一つもないのだ。
なにしろその信玄の意志ですら―――本人の独裁でなく、天の意志でなくてはいけないのだからな。どれだけ公正を期したつもりでも―――誰かが責任を受けるなら、必ず誰かが不満を持ちたがるものだ。件の方違えを屋敷で祭り上げるのは、そうしたことへの保険に過ぎない。私は思う。結局、国を動かすものとは一体なんなのだろうな?」
ちらりと、信玄は面々の顔を見やった。
「見ての通りだ。件坊主の私と信玄は表裏一体なのだ。だが、そのどちらも、嘘やマヤカシが辛うじてマコトになったに過ぎん。もしもどちらかが―――いや、どちらもがいなくなったところで、代わりの似た者が作られるだけだからな。おれとしてもいっそ斬ってくれた方が、むしろ楽かも知れん」
正体をなくした影と化した坊主は、いつまでも笑っていた。

「どうする?」
真菜瀬の答えの出そうにないその問いに、無足は肩をすくめるだけだった。同じように問われたが、烏弥はもちろん、ヒアシも答えようがない。
「介三、お前はどうするんだ? この坊主、斬るか」
介三も表情を凍らせて、黙っていた。柄に手をかけたまま坊主を睨みつけていたが、それ以上は何もする気はなさそうだった。
「こいつが信玄と言う証拠もないしな。いいだろう、まあ、こいつが西に捨てられていたことを解釈するのは、こいつじゃないしな。頼んだ仕事は済ませてくれたとしてやる」
介三は言うと、意味ありげに坊主を見た。そのとき、二人は何かを腹に含んだ。なぜかいたずらっぽい笑みがその頬に貼りついていた。
「報酬はちゃんと出るんだろうな」
午黒は訝しげだ。
「心配するな。満足できるだけの金はもう用意してある」
「さて、じゃあ―――この坊主が見つかる前に国を出るか」
無足者たちは、月明かりの闇の中で肯き合った。

ヒアシは―――半分、無足が事態を見透かしていたのではないか、と少し思っていた。あの男は信玄の正体について薄々知っていたのかも知れない。ヒアシは山頂に置きざられた信玄と無足がしばらく話しこんでいたのを聞いた。
「そうか―――八幡原(はちまんばら)の、あのいくさのときの、か」
――――あのときの無足者あがりの男の策はなかなか面白かった。
と、信玄は懐かしそうに、言った。
「話は大きかったが―――どこぞには仕官で来たのかな」
「いえ、無足者は泡沫のごときものですから」
それはまた私も同じか、と言って信玄は無足と笑い合った。
「私の国に誘ったが、甲斐は複雑すぎると断られた。八幡原での策は、その置き土産にとくれたものだったが―――また、あれはひどい策だったな」
鬱屈したおのれの人生のどこかで溜飲を下げたように、信玄は笑っていた。
「私の人生は甲斐に巣食うやつらの犠牲になったようなものだ。どこかへ消えて無くなりたいと、先年なくなった弟ともよう話していたものじゃが―――私はよくいやけがさして、この国を逃げた。あの男にはそのとき助けになってもらい、色々な話をした」
「そのもの、名前はご記憶ですか」
無論、信玄はあごを引いた。
「山本(やまもと)勘(かん)助(すけ)―――とか言ったか。よもやもう、息災ではあるまいな」
無足はその勘助の来歴について、信玄に聞かれるままに語っていた。その勘助と言う男は、六十九になって故郷の三河牛窪村で死んだらしい。今、その子供が一人、仏門にいるので寺に寄進してほしい、と無足は頼んでいた。話ぶりでは―――あくまで、ヒアシの推測に過ぎないが、寺に居るのは無足の兄のようだった。

次のあくる朝には信濃、そこから―――美濃との国境に至ると、介三は定宿に用意してあった荷駄から、無足者たちに報酬を払った。
「また、呼べよ。意外に楽しかった」
去り際、介三はどこか楽しそうに無足に言った。
「なあ、無足。結局話は上手くいったのか?」
ヒアシの問いにも、無足は苦笑して応えなかった。無足者は泡沫。そう言ったときの表情がなぜかそこに穏やかに浮かんでいた。
「また、いい仕事があったら呼ぶさ。そのときは午黒、また頼むぞ」
ちなみに。午黒は訝っていたが、ヒアシたちがその正体を知るのは約二年後のことだ。
場所は京都大路、永禄十一年の九月二十六日―――
六万の大軍を擁して、その男は京都に入った。
尾張の介三―――織田信長の顔を、ヒアシは目の前で見た。
その頃、ヒアシは無足と別の仕事中だった。真菜瀬と烏弥が先に、京都に入って待っていたのだ。
―――おれたち無足者は所詮、泡沫だ。
「だから使えるものは何でも使うのさ。お前の逃げ足でもな」
ヒアシは逃げ足のヒアシのまま、そこにいた。
あのときの介三の意味ありげな笑み―――恐らくは信玄も、お互い、その正体に気づいていたのかも知れない。嘘でもマコトでもない――――この男もある意味では、介三でも信長でもないのだ。馬上で姿をただした信長の笑みはいつの場合もあの時と同じ、意志を含んだ強さが浮かんでいる。
「奴は―――無数の民を統べる強靭な意志だ。すべてを背負ってそこにいる。だがそれもまた、一つの点にすぎない」
「え?」
「なにしてんだ、行くぞ」
無足は言った。相変わらず、ヒアシの足は遅かった。
「あ、ああ―――」
歴史が動いている。ヒアシは逃げ足でその中に、飛び込んだ。
無足者たちは、六万の大軍を包みこんだ有象無象の群衆の中、またひそかに蠢いていた。
【了】

よろず忍び商ひ無足

武田信玄の都、甲斐府中を舞台にした忍者ものでした。出てくる無足者たちとは、今で言えばいわゆるフリーター。伊賀でも甲賀でもない、雇い主を探して諸国を放浪する人たちのことを表現して、そこは自分で言葉を考えました。この小説、コンセプトととしては、少し前に流行った海外ドラマのコンセプトを時代小説に持ち込んでみよう、と言うところでした。つまり基本的には、プロ的な専門チーム集団がいて、困難なミッションに立ち向かっていく。でも、いきなりそのチームが活躍するところから始めると、敷居が高いので、読者さんに近い目線で新人くんを主人公にしようと。そう言うことで、作品に時代小説とは違うテンポと展開の緊張感を持たせて従来の時代小説の忍者ものとはちょっと違うことをしようと考えておりましたが、いかがだったでしょう。

よろず忍び商ひ無足

抜け忍のヒアシは、甲斐府中で、無足と言う男に拾われる。デマとはったりで世を渡り、怪しい情報を頼りに命を賭けるその男はまさに、乱世のくわせ者だった。その無足が狙うのは、あの武田信玄が秘蔵する占い師、「件(くだん)」。かの川中島の惨劇を予言したというその男を盗み出す為、厳戒態勢の敷かれる甲斐武田の都で、信玄と無足、知恵と命を賭けた騙し合いが今、始まった。 いわゆる歴史ミステリーです。

  • 小説
  • 中編
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-10-24

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