ザンクトゥアリウムの箴言 序章

猫宮ゆり


 麗しく平穏な、その地は聖域の国と呼ばれていた。
 ここ二百年ほどに絞っても、周辺諸国がいさかいや戦争に至って国土を焼き城や人命を多く損なった中、その地へいくさの風が到達することはなかった。むろん古くから、気候静かで実り豊富なその地を掌握せんと企むものもいたにはいたが、聖域の国はただの一度も、そこへ暮らす人々の血を流させはしなかった。降りかかりかけた争いの火の粉はすべて、水際まで及ぶこともなく消し清められてきた。
 いま、聖域の国フィレアスは若き当主が統治していた。
 戦いのないまま各々の時代を終えた先代たちの系譜を引き継ぎ、日夜堅実に為政を行う当主を民は慕った。戦闘はなくとも研鑽たゆまぬ近衛騎士団へも、民衆からの憧れと信頼は厚く向けられた。
 だが、その麗しい国でもっとも愛され、尊ばれ、命あることを喜ばれているのは、当主の妹、十七歳の公女フュラシアなのだった。



──────────

 

 ここでの起き臥しにも慣れて久しい。
 この城へ来る前には予想さえしなかった暮らしが今の日常だが、そんな恐れ多いはずの生活に、チュニカの心身はすっかり馴染んでいた。
 目を覚ます頃合いこそ、騎士団所属の騎士らしく早朝だが、その寝床は隊舎の使い古しの硬い寝台ではない。美しく静謐な奥宮の、中でももっとも清らかに保たれている一室にある、広く柔らかい純白の寝台だ。チュニカはそこで覚醒すると、ともに眠ったその部屋の主を起こさぬよう、そっと抜けだして身支度へ向かうのが毎朝の習いだった。
 だが、
「……チュニカ?」
 ふわふわした掛布の内から、寝言めいた緩い声に名を呼ばれる。その声が本当に寝言であれば、焦って反応し起こしてしまってはことなので、チュニカは様子を見るために動作を止めて息をひそめた。
「……もう、行っちゃうの」
 寝言ではなかった。一緒に眠ったその相手は、掛布を重たいもののように両手を使って押しやり、薄闇の中でこちらを見上げている。
「姫さま、」
 チュニカは手を差しのべ、身を動かそうとする相手をとどめた。
「起こしてしまってごめんなさい。まだ、早いですから、眠れるようならおやすみになってください」
「……うん……」
 諭せば、小さなうなずきが返ってくる。
「何か困ったことがあれば、すぐに人を呼んでくださいね。いつでも、誰かが必ず、おそばへ上がりますから」
「……うん……」
「……もちろん、」
 繰り返される小さなうなずきに、チュニカはつい、もう一言を上乗せしたくなる。
「……姫さまがお呼びになられましたら、わたしも、必ずおそばに参りますから……」
「ほんとう?」
 相手の濃紫の瞳が、寝乱れた長い髪の隙間を縫って輝く。
「ほんとうね?」
「はい」
「じゃあ、寝てみる……チュニカ、いってらっしゃい」
「ありがとうございます」
 安堵がこみ上げる。
「行って参ります、姫さま。おやすみなさい」
 チュニカは丁重に、相手へ掛布をかけ直し、一礼して部屋を出た。回廊はもう、少しずつ明るくなりはじめていた。

 大急ぎで洗面し、栗毛の髪を二つに結って修練場へ向かう。城内を走るわけにはいかないが、駆けなければ遅刻してしまう。毎日の朝稽古は、騎士団全員参加の重要な鍛錬の場だった。
「失礼致します、遅くなりましたっ」
 扉を開けると、そこにはすでに全騎の姿があった。近衛騎士団は大きく二つに分けられていて、チュニカの所属は第二師団だが、こちらの方が規則の厳しさで第一師団を上回ると評判だ。
「遅い」
 ただちに咎める声と視線が飛んでくる。
「将軍、申し訳ありません」
「殿下のおもりもけっこうだけれど。こちらも軽んじてもらっては困る。修練は全騎参加と決まっている」
 近衛第二師団を率いる将軍レテ・シヴリーは、若いが容赦も斟酌もない女傑として恐れられていた。
「申し訳ありません」
 チュニカは謝る他なく、頭を下げつづければ床に将軍と自分、二人分の髪の影が見えた。
「嫌なら、騎士団を抜けて殿下の私兵としてのみ任務にあたればいい。あの神官騎士殿のように」
「いえ、シヴリー将軍、わたしは騎士団で勤めたいのです、少しでも騎士団に貢献したいと……」
 髪の影が一人分、ばらりと揺れる。将軍がその髪をかき上げたのだ。
「なら」
 チュニカはおそるおそる顔を上向かせた。見下ろす将軍と目が合う。
「これ以上、修練の集合には遅れないように。では始める」
 先に目線を外したのは、将軍の方だった。チュニカが再び頭を垂れた先で将軍は皆へ号令をかけ、朝の全騎修練が始まった。
 だがこの日、結局チュニカは半分も訓練を行うことができなかった。
 日が昇りきった頃、扉が開き侍女が走ってきて、
「チュニカ殿、姫様が!」
「えっ、」
 チュニカは名を呼ばれると同時に振り返った。こんな時のために、扉の一番近くで鍛錬するのもいつしか習慣になっていた。
「最前よりお熱を出され、チュニカ殿を呼んでおられます」
「わかりました、すぐに向かいます」
 答えてから、勝手に決めてしまったことに気づいて将軍を窺ったが、どうしようもない。もう咎めは飛んでこなかった。
「あの、すみません将軍、途中ですが、失礼致します」
「全騎続けろ!」
 チュニカは詫びたが、将軍はそれへいらえを示すことはなく、集中を途切れさせていた兵たちに檄をとばした。

「姫さま、」
 奥宮の寝室へ馳せ戻る。この部屋にチュニカは、いつであっても誰の許しもなく入ることができた。
「チュニカ」
 広く柔らかい寝台に埋もれて吸いこまれてしまいそうな姫が、弱々しく手を伸ばしてくる。早暁、「いってらっしゃい」と見送ってくれたあの濃紫の瞳が、今はいたわしく発熱に耐えていた。
「来て……くれたの、……ありがとう……」
「……もちろんです。姫さまがお呼びになられましたら、必ずおそばに参りますって、申し上げたじゃないですか、」
 寝室の隅では侍女が二人、夜着や敷布の替えを準備している。寝台の横には椅子にかけた侍医のデュロンがおり、何ごとか手帳へ書きとめていた。
「デュロンさん、姫さまのおかげんは、」
 チュニカが姫の手を握りながら問うと、
「ああ、今さっき薬飲ませたとこだ。このまま休めば、夕方までには充分よくなるだろう」
 侍医は立ちあがりざまに言った。
「そうですか、……」
 チュニカは胸を撫でおろし、あまりにか弱い力で手を握り返してくる姫を、祈るように見つめた。
「じゃあな、何かあれば呼んでくれ」
「あっ、はい、ありがとうございます」
 チュニカの傍を侍医は足早にすり抜け、侍女が開けた扉から出ていった。その一部始終を、いや彼が去っていった後も、姫は熱に浮く双眼でぽうっと眺めていた。
「……チュニカ……」
「はい、」
「あのね……」
 掌中の姫の、つくりものめいて軽い小さな繊手が、あえかに小刻みに震える。
「……なんでもないの」
 姫は言葉を続けず、瞼を閉じた。
「大丈夫ですか、眠れそうですか?」
 片手で掛布を整えてやりながら、チュニカはできるだけゆっくり尋ねた。
「うん……でも」
 いまだもう片方の手を握っている姫が、まどろみはじめた声を絞るように言う。
「チュニカ、今日はずっと……いてくれる……?」
「……わかりました」
 ずっとおそばにいます、とつけ足し、目を閉じている姫には見えなくてもうなずきを捧げてから、チュニカは侍女を呼んで頼みごとをした。
 今日はもう、騎士団の任務へは戻れないことを、シヴリー将軍に伝えてほしい、と。
 侍女の一人は将軍の元へ向かい、もう一人は姫の衣類を抱えて洗濯に行った。チュニカは静かになった部屋で眠りについた姫を凝視し、かすかに息を吐いた。
 毎日こんな調子で、ろくに騎士団での勤めも果たせず、迷惑をかけていることはわかっていた。姫は生まれついての虚弱で、一日つつがなく健やかに過ごせたことは、チュニカがそばへ付くようになってから数えるほどしかない。姫が体調を崩すたび、チュニカは騎士団の仕事や当番に穴を開け、だんだん当直や大事な任務は回されなくなった。だから、「なら騎士団を抜けろ」という将軍の諫言も、正当なものとして胸へ刺さりこんでくる。
 それでもなお、チュニカは騎士団に恩義があった。そしてそれ以上に、自身を好いてくれる姫への忠義もあった。あんなにも自分がそばにいることを望んでくれる姫を、軍務のためでも無下になどできるわけがない。
可能な限りその両方を大切にしたくて、それを為し得ているかといえばまだとても至っていなかったけれども、チュニカは両立を叶えるすべを模索していた。
(……あとで。せめて、修練場の掃除をしにいかなくちゃ)

 それから昼食のあと、幾人かが姫を見舞いに訪れた。その応対にあたり、眠っては覚醒する姫の具合を見て額を拭ってやるうち、あっという間に夕刻が近づいてきた。
 いつもと同じ頃合いに、扉が三度叩かれる。
 チュニカが扉を開けにいくと、すでに武装したサナートが立っていた。
「フュラシア様のおかげんは、いかがですか」
「大丈夫です」
「では、支度に向かいますね」
 美しい敬礼を見せて立ち去るサナートの装備は、上から下まで全て純白と白銀で揃えられている。兜も拍車も、腰の剣も、まばゆい白光を放って揺るぎない。その装いは彼が、他のどの騎士とも違う、ただひとりの神官騎士である証だった。
 チュニカが振り向くと、快癒した姫は侍女に助けられ立とうとしていた。
 すぐに湯浴みが始まる。姫は白い前かけを締めた侍女たちの手を借り、チュニカは別の湯殿で手早く身を清め、着替えて手伝いに戻る。
 姫の身体へ純白の長衣が着せかけられる。そのつややかで軽い生地は、早春の雲を撚って縫われたとも、黎明の風を繋ぎあわせたともいわれる聖布だ。
 用意が済めば、サナートが待つ祈りの間へ向かう。チュニカは姫の背中を支えて歩くが、祈りの間に入ってしまえば手を離して脇に控える。姫はその空間では、いつでも誰の手助けがなくとも、なめらかに滑るように進んだ。
 姫が祈りの間に着くと、城内と城下へ白金の鐘が鳴らされる。人々はその音色を聴いてみな額づき、それぞれに祈りを行う。通行中の者は道端で、商人は店の床で、騎士は隊務の手を止めて跪いて。幼子は見よう見まねで、老人は丸まった腰をさらに小さく曲げて。この国で、毎夕欠かさず繰り返される、祈りの時間だ。
 姫はひとつうなずき、ヒソップとセージの花、糸杉ととねりこの葉が捧げられた奥の祭壇へ近づく。傍で膝をついていたサナートが立ちあがり、恭しく剣を抜いて構える。姫が、唇を開く。
 ──誓約の精霊よ。公女フュラシアが欣求す、この地が和やかで平らかならんことを、営み朗らかで恵み豊かであらんことを、我が名と命に於いて祈念せん──
 毎日、その儀式を眼前で見届けていても、チュニカは密かに喉が鳴った。
 祈る姫の声音と言霊は普段のそれと異なり、確かに唇を開けて発された肉声であり言葉であるのに、まるで人間の身体から出たものに聴こえない。祈りの間全体に声音は反響し、サナートが剣を奉じる中でやがてひとりでに、捧げられた花や葉が宙へ浮く。それは、精霊の降りた合図なのだと、チュニカは初めて姫の祈りを見た夜に知った。
 精霊の姿は、ひとの目には見えない。だがその残像は追うことができる。精霊の残像は色を帯びた風に似て、最初にヒソップの花を淡緑のそよ風が、次いでセージの花を群青のつむじ風が持ち去り、黄金の陣風が糸杉の葉を、緋色の雄風がとねりこの葉を掬いあげていった。
 姫は、またひとつうなずき、何もなくなった祭壇へ向けてたおやかにひれ伏す。白い長衣が裾を泡のように広げて床を満たし、華奢な双肩から無数に流れ下がる濃紺の髪が波をうつ。
 チュニカも頭を垂れて沈思し、しめやかに待った。
 サナートが白銀の剣を鞘へ返せば、祈りの時間は終わりを告げる。ややあって、顔を上げた姫に手を貸しながら、チュニカはそっと話しかけた。
「……姫さま、お疲れさまでした。夕食にしましょうね」
「……うん」
 うなずく姫の声を、ずいぶんと久しぶりに聴くような思いがする。そしてその声が聴けたことを、姫の普段の声が戻ったことを、何よりも嬉しく感じ入る。祈りの最中の姫は、精霊と語らう巫女というより精霊そのものに見え、チュニカはいつも心に不安をかき立てられた。神々しいなどと言い表すには姫の姿はあまりに清澄で、あまりに純真すぎた。
 三人で祈りの間を後にする。回廊へ一歩出れば、姫の細い手足がぐったりと萎え、ひどく消耗しているのが如実にわかる。

 姫は、この祈りを、七つの頃から一日も休まず続けてきていた。
 聖域の国フィレアスの平和は、その小さなからだの上にあった。

 ただの一度も聖域の国が人々の血を流させはしなかったこと、争いの火の粉をすべて消し清めてこられたことの真相は。第一公女たる巫女姫が日々の祈りによって為し、また積み重ね繋ぎつづけてきた数限りない、純白の奇跡の結果だった。

ザンクトゥアリウムの箴言 序章

ザンクトゥアリウムの箴言 序章

自身の一次創作小説『ザンクトゥアリウムの箴言』の本編序章部分。全文公開しています(※刊行時に編集する場合あり)。病弱な公女フュラシアとその私兵チュニカの一日。『ザンクトゥアリウムの箴言』は西洋風ハイファンタジー・2019年10月テキレボ9にて発行予定です。なお、本編の序章以外のweb公開予定はありません。

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