愛してるから痛い
「もう会わない」
彼女は、俺の腕の中でまっさらなシーツにくるまっていた。こげ茶の柔らかいい糸がほんの少し腕に落ちる。何も言えず、窓の向こうの青空を見上げると、咲子は顔を上げてほんのちょっと微笑んだ。昨日とは違うぎこちない笑みが、部屋から浮いて見えた。
「理由、聞かないの?」
「…なんで?」
「なんか、虚しくなっちゃって。あなたもそうだったんじゃない? 私、夫がいるのに、セフレなんて」
ブラジャーのフックをはめようと細い角ばった指がうごめく。布越しの背中に新しい紫の痣が出来ているのに気が付いて、俺はついそれを人差し指でなぞった。
彼女は擽ったそうにもう、というとベッドに乗り上げ、おかえしと言わんばかりに俺の顔の打撲痕や切り傷を撫でた。ピリピリと痛いようなかゆいような感じが寝起きの脳味噌に響く。
「痛い?」咲子は少し悲しそうで。「痛くないよ」俺の嘘に彼女は後悔したように笑って身を引いて、部屋の三枚鏡の鏡台に向かった。化粧でもするんだろう。
彼女から目を離しもう一度空を眺めた。広くなったベッドに大の字に手足を伸ばしてみる。唐突な別れは覚悟の上だったつもりだが、常の中で行われるものだと思わなかった。例えば、喧嘩してとか。何となく疎遠になって、とか。
「俺以外がいるってこと?」
「いないよそんなの。言ったでしょ、夫に申し訳なくなっちゃって」
「そんなのもう、何年も会ってただろ? 急にそう思ったの?」
うーんと悩む彼女の肩が愛らしい。
「…そうだね、急に。昨日、急に思ったの。あの人はこの事知らないけど、私が誠実でいたいの。…もう遅いんだけどね」
「DVする奴のどこがいいんだよ。俺は、そんなことしないよ」
咲子が振り返って俺をじっと見つめた。体を起こして目線を合わせると、密集したまつ毛にかたどられた小さい目がよく見えて、これを見るのがもう今日で最後だと思うと、余計に愛おしくなってきて、どうも諦めがつかない。何故彼女があんな奴のもので、俺に振り向いてくれないのだろうか。胸が苦しくてどうしようもない。
「それでも好きなの」
眉をピクリとも動かさず、瞬きをしないままそう動く唇を見ていた。
「死んでもいいの?」
「うん」
咲子の瞳には、覚悟があった。
咲子は白のワンピースを頭から被ると、皮のハンドバッグを携えて、部屋を出て行った。最後に肩越しに「病院行ってね」と言ったきりで。
彼女は今日も暴力を受けるのだろうか。あんな華奢で真っ白な美しい人間に、たった一人の配偶者に。咲子も奴も、正気じゃない。どっちも幸せとは程遠いだろうに、そんな日常を望む。愛し合っていると言えるのだろうか。
俺は咲子を愛していた。人生をささげても、暴力を振るわれたって別にどうでも良かった。彼女が幸せなら。偽りの幸福の中で、ぬるま湯に甘んじる覚悟はできていたのだ。
なんだ、同類だな。そう思うとなんだか笑えてきて。最低な気分だった。
ああ、もう帰らないと。ホテルの外は異世界のように、健全で健康な人々しかいないように思えた。
俺も咲子も奴も、この中に紛れ込んでしまえばそんな世界の住人だった。
愛してるから痛い
お久しぶりです。