死にたがりの美学

改稿連載中

過去

 星が綺麗でした。
 もしあの日に戻れたなら、いったい私はどうするのでしょうか。
 橋の手すりに座って、星空を見、川面を見下ろす友人の背中に、何か言うことができたのでしょうか?
 きっと、何も言えません。私はそういう人間で、過去とはそういうものなのですから。

 私はあのとき、お星さまに何を願ったのでしょうか。

日常

 ドン、と白い物体が目の前に叩きつけられて、おどろいた私は本を取り落としてしまいました。足元でページが閉じ、読んでいたところが分からなくなります。私は斜め上にある顔を睨みつけました。
「ちょっと!」
「手伝わないなら食うな」
 彼は最大級に苛立った声で私を咎めます。今朝から機嫌が悪かったのですが、だからって八つ当たりされる理由はありません。苛立ちに任せてテーブルに叩きつけられた朝食は、サラダの形が崩れたものの無事なようでした。本を拾い上げた私は、二人分のコップに水を注ぎながら言葉を続けます。
「なに、眠れなかったの?」
「……ん」
 あぐらでテーブルに向かった彼は、とろりと頷きました。それが面白かったので、私は箸を渡してあげます。彼は受け取ってから大あくびしました。
 欠伸が収まるのを待って、私たちは手を合わせます。
「いただきます」
「いただきます」
 サラダと、目玉焼きと、白い包装紙に包まれたハムサンド。今日という日の穏やかなはじまりです。予定も、イベントも、事件もない、平和で平凡で平穏な一日。
 外では熱心な蝉がすでに鳴きはじめていました。白い光のエネルギーを感じて、私は視線を窓の外に向けます。うちは高台にあるので、見晴らしはよいのです。青い空と白い雲が、優しい色をそこらじゅうに注いでいました。私はまぶしさに目を細めます。ここからそう遠くない海が光をはじいていっそう輝いて見えました。
「なにかあるのか」彼が聞きます。
「海が、綺麗」
 うっとりと答えた私の言葉の意味に気づいたのか気づいていないのか、無言の返事を寄越しました。
 私はもっと喋っていたかったのですが、彼は元々口数が多くないのです。同居人とはいえ他人同士、名前も知らないのだから、会話が弾まないのも当然と言えば当然のことでした。そもそもこの生活にだってようやく慣れてきたところなのです。
 彼は綺麗に皿の中身を食べてしまうと、水をきゅっと飲みほしてから一人で手を合わせてしまいました。……まあべつに、待っていてほしいわけではありません。
 私は海を見つめたまま彼を呼びます。
「……ねえ、黄昏(たそがれ)
「……なんだよ」
「海、海が綺麗だよ、真っ青でおっきい」
 ああ、うん。と彼は浮かない返事です。私は構わず続けました。いえ、彼の声なんて聞いていませんでした。
「きっと気持ちいだろうなあ、中にはいると冷たくて、全部水の中に溶けていって、」
「おい」
 強い声が遮ります。私はゆっくり視線を彼に戻しました。
「なに?」
「海水浴するのは勝手だが、俺の知らなところで海にもぐるなよ、“死にたがり”」
 私はわざとらしいくらいにっこり笑いました。
「分かったよ、“知りたがり”くん」
 これが私たちの日常です。お節介で世話焼きで怒りっぽい少年と、私の二人でつくる日常。
 夏の象徴たる蝉の声は、いちだんと大きくなっていきます。

死にたがりと知りたがり

 目を閉じると濃い緑の匂いがした。
 それだけで羽が生えたように身体が軽くなる。
 いや、軽くなったのは心で、それはおそらくずっと背負っていたものをようやく下ろせることへのよろこびからだ。彼女はうれしかった。自分がこれから死ぬことが、うれしかった。
 橋の手すりに腰掛けて、足をぶらぶらと揺らす。一度目を開けると、鋭い光が目を焼いた。夏の光の激しさは、ナイフというよりハンマーのようだ。がつんとして、大雑把な。
 緑が濃く、影の黒もまた濃い。それらは他の色が使うはずのエネルギーまで食い荒らすように派手だ。彼女は夏がきらいだったが、この派手さは今ならきらいじゃない、と都合よく思った。
 最後くらいは派手に彩られたかったのだ。
 彼女のこれまでは暗色の中にあった。たっぷり使い切った絵の具のパレットや大掃除のあとのバケツの中身のような、目にするだけで憂鬱な色。彼女はその隅で一人うずくまり続けていた。希望も絶望もわすれ、悲しい諦めだけをその胸に抱えて。
 彼女はもう一度息を吸って吐いた。足元の水音が涼しい。ザーザーザー。その流れに自分の身体が溶け込んで、どこまでも流れていく想像をする。
 ザーザーザー。前へ前へと傾いて、一瞬全てのことから解放されて、そして。


「おい」


 そして、落ちなかった。知らない声に一気に意識を引き戻されて、右腕が痛んだ。
 彼女はあわてて違和感の正体を振り返り、右腕を掴む冷たい指を見る。知らない指だった。知らない指に腕を掴まれ引っ張られる覚えなんてない。あるとしたら――
 視線を上に向けると、そこには少年がいた。真っ黒な髪が顔の半分を覆い、口元が歪んでいる。顎を大粒の汗がつたっていた。
 その少年は腕を強く掴んだまま内側に無理矢理引っ張った。強い力に彼女は後ろ向きにバランスを崩し、すんでのところで手すりにしがみつく。
「ちょっと、危ないよ。なにするの」
「あんた、死ぬのか?」
「え?」
「今飛び降りようとしてただろ」
 少年の声は平坦だった。
「なんでそんなことをする? なんで自分から命を捨てる?」
 そこに非難の響きはなかったが、彼女は苛立って声を大きくした。
「君には関係ないでしょう!」
「関係ないかどうかは、俺が決める。いいから降りろ、危ない」
 彼の目の辺りをにらみつけながら首を横に振ると、彼はまた「危ないから降りろ」と繰り返す。彼女はため息をついて手すりから降りた。
「それで、君は私を助けて(、、、)なにをしたかったのかな」
「助けたわけじゃない」
「へえ、格好いいね」
 うんざりと厭味を返すと相手もまた不愉快そうに息を吐く。そんなに嫌ならどこかに行ってくれ、と思うが彼は頑なだった。
「俺はただ、なんで死ぬのか知りたかっただけだ。それに止めるのはおかしいことじゃない」
「……」
「死ぬなとは言わないが、俺の目の前で死ぬな」
「じゃあ、私が見えないどこか遠くへ行ってよ」
 ぐっと言葉に詰まった彼は、なぜか彼女をつま先から頭の先までなぞるように見つめた。それから、急に明るい声に切り替える。
「そうだよ、俺はあんたを助けた。だから見返りを要求する」
 わざとらしい態度。普段なら苛立ちに任せて喚いていただろう言葉だが、今は不思議と落ち着いて聞けた。きっと、先ほどおろした荷物分の心の余裕と、声をいくらか明るくしてもなお拭えない彼に差す影があったせいだろう。
「いいよ、どんなの?」
 棘をおさめて尋ねると、効き目があると思わなかったらしい、拍子抜けした声で「あ、うん」と返ってきた。
「人捜しを手伝ってほしい」
「誰?」
 その口元が、また歪む。
「……兄貴」
「お兄さん?」
「ああ。……三日前から行方不明なんだ。ずっと捜しているんだが、人手が足りない」
「ふうん」
 彼女は髪をいじりながら少しの間考えた。そしてぱっと肩の後ろに髪を払って、頷く。
「いいよ、手伝う。どうせ暇だしね」
 その答えに彼がどんな表情をしたのかは分からなかった。なにせ目がうかがえない。
「たすかる」
 それだけ言って、くるりと彼女に背を向けてしまう。着いて来いの意味と受け取り、彼女もそれを追って橋を降りた。
 夏が派手に、光っている。

 少年の兄がひとり暮らしをしているというアパートへ、彼の案内で向かうことになった。橋から少しだけ歩くらしい。
 前を歩く背中をあらためて観察する。グレイのスラックスに白がまぶしいカッターシャツ、足元のスニーカーだけは爪先がよごれていた。
 学生、それも高校生だろう。
 彼女の不躾な視線に気づいた少年が振り返る。
「なに」
「君って高校生なんだよね?」
「だから?」
 彼女の目線はふたたび伸びっぱなしの前髪からスニーカーの泥のよごれまでを往復した。それに、彼がなにかを察する。
「お前がでかすぎるんだ」
「わ! 気にしてることをそうずけずけと」
「あんたが失礼なんだって!」
 彼女と少年の身長差は目測でも十センチメートルちかくあった。少年のほうが低い。彼女も女にしては昔から背が高いほうだったが、彼も男にしては小柄らしい。男の子は成長が遅いって聞いたことが、あったようななかったような……と思考が横に逸れかけ、あわてて引き戻す。
「高校生なんだよね?」
 繰り返すと、彼はだまりこんだ。
 今日は平日だ。
 彼は返事をしなかったが、振り向きざま唇がくやしそうに動いた。「しつれいなやつ」と読めた。
 それから道中少年の兄についていくつか質問したものの、明確な答えは得られなかった。兄弟なら少年に似ているのかもしれないが、本人が前髪で目元を隠している以上あてになるとは思えない。
 なんとなく、少年が兄を見つけたがっていないだろうことが分かった。彼の捜索には気持ちがともなっていない。会ったばかりの他人に依頼をするくせに。
 近所でいちばん大きな中学校を通りすぎ、やがてアパートが見えてきた。古すぎず新しすぎずの平凡な建物だ。
「兄貴の家だ」
 感情を意識して削ぎ落とした声で一言、そして彼はさっさと階段をのぼっていってしまう。彼女もあとに続いたが、日頃の運動不足がたたって三階分の階段でさえ一苦労だった。
 三〇三号室。青味が目立つ薄いドアに手をかけ、少年は当たり前のようにノブを回して開ける。とどこおった濃い空気がむわりと二人を出迎える。締め切られているのか、中は暗く湿度が高かった。
「おじゃまします……」
 しんとしている。勝手知ったるようすの少年が揃えたスニーカーの隣にサンダルを並べる。三和土(たたき)にはほかに男物の靴やサンダルがいくつかあった。
 人の気配が全くない。
 部屋は、主が帰ってくるのをひたすらに待ち続けているようだった。静寂の中、埃だけが薄く積もっている。しかしそこには、つい最近まで人が生活していただろう気配がまだかろうじて残っていた。
「ここに手がかりがないか、何度も探した。でも、なにもなかった。行き先も、最後に連絡したところも、なにも」
 少年は疲れきったように、フローリングに座り込む。彼女はその隣で壁にもたれ顔を天井に向けた。天井では、明かりの消えた蛍光灯が黙ってこちらを見返している。
 その後、一応二人でもう一度痕跡を見つけようと部屋を探ってみたが、案の定なにもなかった。一般的な(彼女の中のイメージが一般的であるかはわからないが)学生の一人暮らしの家だ。分かったことといえば、この家の主が少々綺麗好きで神経質そうな性格であろうことだが、それが捜索の手がかりになるとは思えない。
 少年も、分かりきっていたようにひょいと肩を竦めてみせた。
 二人は汗を拭いつつリビングの床に隣り合って座り込んだ。
 秒針の音と暑さがうっとうしい。彼女は沈黙がきらいだ。
「警察には届けてないの?」
「親がいやがって。おおごとにしたくないんだとさ」
「ふぅん、へんなの。自分の子どもでしょ?」
「……」
 怒ったような悔しいような無言。彼女はついに聞いた。
「お兄さんのこと、心配じゃないのね」
「……無事に見つかってほしいとは思ってないね」唇の端が奇妙につり上がる。
「じゃあ、なんで捜してるの?」
 ふたたび無言が返ったが、そこに拒絶の色はなくむしろ楽しげだった。
 少年は立ち上がると、軽く伸びをして服の汚れを払う。舞い上がった埃は薄暗い中、カーテンの隙間から射し込む光できらきらと光る。
「行くか」
「どこへ?」
 倣って立ち上がろうとするのを、少年が手を差し出し引き上げてくれる。身を預けたその手にはじめの険しさはほとんどのこっていなかった。
「望まない人捜し」
 楽しそうに弾んだその声音は、半分しかうかがえない表情とあまり噛み合っていないように思えた。

 それから数少ない心当たりを形だけ捜し回るふりをした。
 大学、喫茶店、実家近くの公園。どこもそれらしい痕跡は全くなかったし、無駄足だったのだろう。だが二人はその間に交わされたやりとりの中で、少しずつだがお互いのことを知った。
「どうして死のうとしてたんだ」
 喫茶店の軒下で投げられた質問はなかなかの直球だった。
「んー。『死にたい』ってより、『生きていたくない』のかな。私なんか死んだ方がましだ、みたいな」
 彼女にとって、死ぬことは終わりじゃない。むしろ死ぬことによって、なにかから救われ解放されるのではとずっと信じている。その『なにか』がなんであったかは、もう忘れてしまった。
「生きていれば、いつかは大切なものが手に入るし、それを失う絶望も必ず訪れる。それなら今のうちにすべてを手放しておけば、傷は浅く済むじゃない」
「……」
 少年は納得のいかないように口を開閉させたが、結局なにも言わなかった。
 公園のベンチで休憩をとったとき、彼がペットボトルの水をずいと差し出してきた。思わず見上げる。350mlの透明な円柱。
「なにがいいかとか知らなかったし」
 言い訳のように少年が言って、それなら先に断ってくれればいいのにと彼女はくすくす笑った。そういうのは、悪くない格好つけだ。
「ありがと」
 ふんと鼻を鳴らした少年は自分のコーラを片手にベンチに腰かけた。知り合いと他人の距離のちょうど真ん中くらいの位置。
 喉を落ちていくつめたさを味わった後、彼女はちらりと隣を盗み見た。汗で前髪が貼りついた横顔。缶をあおって、首の筋がぐんと上下する。
「ねえ、髪暑くないの?」
 少年の前髪はやはり見ているだけで暑苦しい。前はきちんと見えているのか、目に入って痛くないのかと思う。彼女は美容院や美容師というものがだいきらいで、いちいち目を刺すのを整えるのも面倒になってからは横に流している。
「暑いよ」
「じゃあなんで」
「……べつに」
 深爪気味の指先が缶のプルタブをいじる。その指先がこわばっていて、彼女は静かにその意味を理解した。
 話を逸らすためか少年はふうと息を吐いた。それから口を開く。
「以上で心当たりは全部回った。で、次はどこへ行く」
「知りたい?」
 問いに含まれるからかいに気づかなかったのか、彼は真面目な顔で少し考える仕草をし、それから小さく首を傾げた。
「知りたい」
「……ふふっ」
「なんだよ」
 急に吹き出した彼女に不審げな目を向ける。それに構わずクスクスと笑い続ける。
 彼は出会ってからずっと質問ばかりだ。この世界はつまらないことばかりだと厭いているような態度のわりに、いろんなことを見て知りたがる。
 知りたがり君だ。
 それは彼らにぴったりのような気がした。『死にたがり』と『知りたがり』、似ているようで似ていない、対照的なようで同義的な両者。あのとき彼が橋を通りかからなければ、あるいは彼女がすでに飛び降りてしまっていたら、この狭い町の中でもう二度とすれ違うこともなかっただろう二人だ。
 しかしなんの因果か、こうして出会い、言葉を交わし合い、あげく望まない人捜しをやっている。変なの、おかしな偶然に頬が緩む。
「なにがおかしいんだ」
「ふふ、ごめん。なんでもないよ」
 誤魔化してから顔を覗き込む。隠れた双眸を見てやろうかとしたが、彼はいやがって顔を逸らした。
「本当に、他にあてはないのね?」
「ああ、ないよ」
「ほんとにほんと? 一つもないの?」
 少年は呆れたように口を開きかけて──しかし思いとどまったように閉じると言葉を迷わせた。
 普通、何度も念を押されると、途端に自分の意思に自信がなくなるものだ。彼も例外ではないようで、もう一度記憶を確かめているのか、中空を睨みながら黙りこくってしまった。
 少年の思考がまとまるのを邪魔をせず待つ。片手間に缶をへこませるベコベコという間抜けな音が耳についた。
「──あ、」
 不意に少年が声を上げる。彼女も顔を上げた。
「なにか思い出したの?」
「いや……」
「言ってみて。どんなことでもいいよ」
「……」
 少年は俯いた。その視線は手元に向けられているようで、ずっと遠くを見つめているように想像できた。
「ずいぶん前だけど、あいつが気に入っていた場所があったんだ。一人になりたいときって誰にでもあるだろ? あいつはそういうときいつもそこへ行っていた。理由は分からないが、多分あいつにとって落ち着ける所だったんだと思う……」
「その場所って」
 予感めいたものが胸を通り過ぎた。不吉な灰色をした薄雲が、太陽を陰らせるように。空には爛々と輝く太陽が確かにそこにあるというのに、足下に絡みつく雲は息苦しさを呼び起こす。
 彼も同じなのだろう、もう一度何かを堪えるように唇に歯を立てて、それから低い声でゆっくりとささやいた。


「俺たちがやっていたこと、全部、無駄なことだったんだな」

 新しく架けられた橋のそばにある階段から河原に下りる。このあたりはよく人が立ち入るせいか、比較的綺麗に整備されている。川の幅もさほど広くなく、向こう岸までよく見通せるから、捜し物も楽だった。
 二人で四方を見回しながら川の流れに沿って下流へ歩く。道のりは決して短くはないだろうが、彼女も少年もそれを気にすることはなかった。ある種の確信がそこにはあったからだ。
 下れば下るほど川幅は広くなり、風に潮の匂いがまじり、伸び放題の背の高い植物が二人の行く手を阻んでいく。日はとうとう沈みはじめる。地平線の向こうに消えようとする太陽は最後の悪足掻きのように、濃いオレンジ色の光を町全体に放っていた。
 茂みを掻き分けながら、同じような景色の中を歩き続ける。汗ばんだ手に硬い草がこすれ、細かい傷を付ける。もしかしたらここもはずれなのではないかと、そんな考えが幾度も頭をよぎったが、それを口に出すことはどちらもしなかった。

 そして、いつの間にか古い方の橋の下まで来ていた。
 中途半端な天井は光をさえぎって見通しを悪くするばかりで、肝心の暑さは変わらない。むしろむわりとこもった湿気があたりに立ちこめていて、あまり長居はしたくなかった。
 言葉を交わすこともなくひたすら足下の雑草を分ける。絡みつくように生えた草々は、人ひとりくらいなら簡単に隠れてしまいそうだった。
 額の汗を拭うとそれが目に滲みた。ひりつく痛みに自分はいったいなにをやっているのだろうという疑問が顔を出す。正気に戻ったとも、昼間の衝動が蘇ったとも言っていい。ともかく、急激に馬鹿馬鹿しく思えてきたのだ。
 本来ならば、もうとっくにこの世に別れを告げていて、自分が望んでいた道への一歩を踏み出しているはずだったのに。もうひとりぼっちにならないで済むどこかへ、後悔も悩みも抱えなくていいどこかへと晴れ晴れしい気持ちで向かっているはずだったのに。
 どれもこれも、すぐに気持ちが揺らいでしまう自分のせいだと自己嫌悪で死にたくなった。しかしこのまますべてを放り投げて川に飛び込むのはあんまりというものだろう。
 そんなことを延々考えていたから、少し離れたところで小さくあがった少年の声を微かに耳が拾ったのはほとんど偶然だった。――いや、もしかしたらそれは、なにかに仕組まれた『偶然』だったのかもしれない。
「お……おいっ!」
 今度ははっきりと彼女に聞かせるための声。それは川縁のほうからで、ひどく震えているようだった。
「どうしたの!」
 応える声も自然と大きくなってしまい、数年ぶりに聞く自分の大声に彼女の方がおどろいてしまったほどだ。
 なんとか少年のもとへ行こうとするが足下が悪くて一向に進めず、気ばかりが急く。ようやく仄暗い中に立ち尽くす彼の背中が見えると、「なにがあったの?」と聞いた。
 聞いたくせに、その答えを自分は知っているような気がした。
 少年がゆっくりと振り返る。
「これ……なあ、これ――兄貴の」
 そのとき、ザアッと強い風が吹いた。
 海のほうからの横殴りの風は、彼女の長い髪を乱し、少年の手の中の白い封筒を歪ませる。
 風に煽られて草が横向きにしなったおかげで、少年の足下に並べられた一足の靴がはっきりと彼女の目に映った。
 どこかで見たようなデザインの、男物のサンダルが。


「兄貴の靴だ」


 周囲の色が溶けるように消えていった。頭の奥では、ザワザワと耳鳴りのような音が絶えず響いていた。
 少年と目があった。

 全身の血が、凍りついていくようだった。


 それからのことはよく覚えていない。
 誰がどのように呼んだのだろう、いつの間にか警察が来ていて何度も事情を訊かれた。彼女は自分がなんと答えたのかすらあいまいで、そしてそのとき自分がなにを思っていたのかもよく分からないままだ。
 あの少年はどうしていたのだろう。言葉を交わすことも目を合わせることもなかったが、遠くに立っている彼の姿だけは妙に印象に残った。怒っているようにも泣いているようにも見えたが、そのどちらでもないのだろうと思う。ただ、じっと地面を睨みつけているその瞳の色はうかがい知れない。
 その傍らには見知らぬ男女が立っていた。四十代半ばほどに見える二人は他人にしては感情の深い表情で、しかし寄り添うにしては距離の離れた位置から少年に声をかけていた。いったい誰だったのか。彼はそれを無言のうちにすべて拒絶していた。


 そうしてやっと身体を落ち着かせられたのは自宅のソファーの上だった。大きいサイズのそれに仰向けに横たわり、天井でゆっくり回るシーリングファンを見るともなく見る。
 すっかり日の暮れた室内は蒸し暑く息苦しかったが、あの河川敷での時間よりよほど楽だった。クーラをつけるのもおっくうで汗がとどめなく流れる。
 ふと床に落ちた自分の影を見下ろす。それは薄く、部屋全体の薄暗さと光源のたよりなさを知れた。
「なんだか、なあ。もやもやしてる」
 胸のあたりをにぎり独りごちた。胸のもやもやの正体は分からず、その気持ちの悪さだけがずっとそこにあった。

 それから一週間が経って、彼女は再びあの橋へ足を運んだ。晴れた空は高く、ずっと胸にわだかまるものも解きほぐしてくれそうだ。
 うすよごれた橋に足を踏み入れると、案の定そこには、あのときの少年の姿があった。同じ制服姿で膝を抱えてうずくまっているその影は、置物のように動かない。
 近づいていって、すぐ隣に腰を下ろした。反応はない。微かに呼吸をしているのは分かるが、これでは本当に生きているのか不安になってくる。彼女は少年のぼさぼさの後ろ頭をじっと見つめ、そっと息を吐いてから視線を上にそらした。
 覆いかぶさるように伸びた枝が寂しげに揺れている。その奥に広がる空には夕暮れの気配が僅かにうかがえた。遠くにある陽が傾きはじめている。
 皮肉にも、二人が捜し人の痕跡を――入水自殺の痕跡を見つけた時間帯と、今は同じだった。
 変わらず穏やかで涼しい川の音に耳を澄ませていると、少年が唐突につぶやいた。
「兄貴さ、見つかったって」
 穏やかな声で。
「ここからずっと下っていったところで、沈んでいたんだって。何日も水に浸かっててさ、死体は目も当てられないくらい酷い状態だったらしいよ。俺は見てないけど」
「……ふうん」
「馬鹿だよな、自分から飛び込むとか。ほんと、馬鹿だよな。なに考えてるんだろうな」
 言った端から声は震え、湿っていく。自分を抱き抱えるように腕を掴む手が、皺が寄るほど服の袖を握りしめる。
「いったいなにが不満だったんだよ。なにがいやで、一つしかない命を捨てたんだよ。俺と違って、あんだけ……あんだけ、幸せそうにしてたくせに」
 彼女には分からない。
 彼がなぜ、こんな風に怒っているのか。なぜ、怒っているのに泣いているのか。嫌いだと、死んでいればいいと本気で捜そうともしなかった兄の死で、こんなにも心を乱しているのか。理解できなかった。
 だから、正しいことを言ったつもりだったのだ。
「よかったじゃない」
 少年の声がぴたりとやむ。
「理由がどうであれ、お兄さんは死にたがっていたんでしょう。そしてそれが叶った。望みを叶えられたんだよ、喜んであげるべきなんじゃない?」
 元気づけるつもりの言葉はしかし、言い終わっても返事はなかった。言葉は少年に届くことなくぽとりと落ちる。
「……なんだよそれ」
 沈黙は長く続かなかった。彼の言葉の中に確かな怒りを感じとり、彼女は自分の言葉が間違いであったことに気づく。
「なんでそんなことが言えるんだよ!」
 勢いよくあげられた少年の顔は、相変わらず目元が隠れていた。泣いていると思ったその頬に涙の跡はなく、しかし唇は震え青ざめている。
「なんで……って、」
 自分は間違ったことを言っただろうか?
 すると、少年はさらに激昂して彼女に掴みかかった。その力は強く、抵抗する間もなく地面に背中を打ちつける。一瞬視界が白く点滅し殺し損ねた息が吐き出された。
 それでも飽きたらず、少年は彼女の襟を掴みあげて何度も揺さぶった。
「なんで、なんでだよ! 命って、そんなに軽い物なのか? お前たちにとって、そんなに簡単に捨てていいものなのか!?」
「……っ」
「ふざけんなよ……命を大切にしない奴は、大っ嫌いだ!」
 真上にある少年の中には、怒りと、悲しみと、憎しみと、どれとも言いがたいような感情があふれきって互いの輪郭を見失っていた。そのくせ乱れた前髪から僅かに覗く瞳はまっすぐにこちらを見つめる。もどかしいくらい純粋で優しい色だった。
 彼女はその目をしっかりと見つめ返す。そして目を細め、唇をうすく横に引き、子供をなぐさめるような静かな笑みを浮かべてみせる。
 思ってもみなかっただろう表情に相手の勢いが揺らいだ。その隙を見逃さず両手を伸ばして、強ばった白い頬を優しく包み込むと、吸い込まれるようにしてその体から力が抜けていく。
「聞いて、知りたがり君」
 ずっと頭の中だけで使っていたあだ名で呼びかけると、怪訝そうな顔をされた。しかしさっきまでの感情に任せ狂ったような顔よりはよほど話しやすい。
「私と初めて会ったときも言ってたね。なんで自分から死のうとするのか? って。お兄さんがそうした理由は私には分からない。……君にももちろん、私が死にたがる理由なんて分からないと思う」

死にたがりの美学

死にたがりの美学

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-08-26

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 過去
  2. 日常
  3. 死にたがりと知りたがり