夏はまぼろし
笹良 弥月 作
「光寛」
姉さんが、俺を呼ぶ。声を潜めることをしないのは、あの頃とは状況が変わったからだ。
四年前の夏。あの暑苦しい夜に失踪した姉さんが、今、ここにいる。
***
大学生の夏休みは思っていたよりも長かった。
友人曰く休みはいくらあっても足りないとのことだが、高校までの夏休みよりも半月以上も長くて、俺はこれ幸いにとその時間をアルバイトに費やしている。
今日も居酒屋でのアルバイトを終えた俺は、日が落ちても一向に気温の下がらない夜道を自転車で進んでいた。ぐいぐいこぐので汗が噴き出すが気にしない。既にバイトで十分汗をかいたのだ。そんなことより早く帰って休みたかった。
大学生になって一人暮らしをはじめ1年と4か月。利便性と安さの間をとって借りたワンルームのアパートで俺は生活できている。
アパートの自転車小屋に自転車を止めて、ツーロック。一階の自部屋に向かいながら肩掛けバッグの小さいポケットをかき回す。鍵を取り出して手早く解錠した。
少々乱暴に扉を押し開けて、スニーカーを足の感覚だけで脱ぎながら、玄関の電気をつける。空いた手で施錠しドアチェーンもかけた。
そしてフロアの電気もつけて、バッグをいつものだいたいの位置に放り投げて、気づいた。
人がいる。
もう一度言う。人がいる。
テーブルの前。
女。
座り込んでこちらを見上げている。
目が合う。
いるはずのない存在に驚いた次に、俺は再び驚くこととなった。
女の姿形に見覚えがあったのだ。
行き当たった答えが信じられなくて、ひたすら息を呑み続け、声が出ない。
「光寛?」
そいつが俺の名前を呼んだ瞬間、驚きは確信に変わった。
こいつは、俺の姉だ。
しかしなぜここにいる。
知るはずのない俺のアパートに。
しかも鍵がかかっていた。
こいつ……姉さんは、4年前に姿を消したはずだ。
なぜ、ここに。
「光寛?」
姉さんが不安そうに呼びかけてきた。
俺は長い間沈黙していたようだ。慌てて応える。
「光寛だけど」
なぜ。
そう続けることができずにいると、姉さんが問いかけてきた。
「わたしの弟の?」
「そうだと思う」
姉さんは俺の部屋を軽く見回すような仕草をする。
「ここは、光寛の部屋?」
「そうだよ」
俺は質問に答えるだけで精一杯だった。
「……ねえ、今って何日?」
深夜。日付は変わっている。
「8月の、23日」
「……何年の?」
「平成31年」
姉さんは視線を落とし、そっか、と独りごちるように言って、また俺の方を見た。
「わたし、どうしてここにいるか分からないんだけど、光寛知ってる?」
「俺が知るわけない。こっちが、聞きたいくらいなんだけど」
沈黙がおりる。しかし、それは間もなく姉さんによって破られた。
姉さんはテーブルの上に手を乗せて、指先で軽く表面を叩いた。トントン、と音が鳴る。
「幽霊っぽくはないよ、わたし。すりぬけないし」
俺はなんと返していいか分からなくて、口を引き結んだまま、今の状況を整理しようとする。
帰ったら、姉さんがいた。でも姉さんはこの場所を知るはずがないし、鍵ももちろん持っているわけがない。姉さん当人もどうやって来たか分からない。どうしてこんなことが起こっている?
目の前の光景が受け入れがたくて、脳が処理を放棄している。俺は一度頭を冷やすことにした。
「俺、とりあえずシャワー浴びる」
「あ、うん」
返事を聞くのもそこそこに、いつものように服を脱ぎ捨てようとして、やめた。今は姉がそこにいる。
俺はタオルを洗濯物の中から雑に引っ張り出して、浴室に逃げ込んだ。
トイレとバスと洗面台が一体となったユニットバスの浴室。俺はぬるいシャワーを浴び、頭をがしがしと洗った。なんとなくそこで落ち着いたような気がして、意図して長く息を吐き出した。
今も部屋にいるだろう姉さんは、かつて俺と母親と一緒に住んでいた。
それが、4年前のちょうど今頃か、もう少し前のある深夜。寝ていた俺をそっと起こしてこう言ったのだ。
わたし、これからあかりと生きていく。お母さんをよろしくね。
そう言われた俺は完全に覚醒していなかったので、何と返事をしたか分からなかったが、目覚めた時にはもう姉さんは姿を消していた。そして、何日経過しようと帰ってこなかった。
こんな出来事があった原因は、うちの家庭環境にあるかもしれなかった。
うちは元々俺と姉さんと母親しかいなかった。父親とは、姉さんが5歳、俺が2歳くらいの時に離婚したと聞いている。
よくある母子家庭だが、ここで母親の方に問題があった。それは離婚した後からなのか、離婚する前からなのか、それとも別に契機があったのか俺にはわからない。
母親には姉さんになるべく接触しないようにする側面と、姉さんをストレスのはけ口にしている側面とがあった。普段は姉さんがいないかのように振舞っていたのだが、機嫌が悪い時は姉さんを罵って叩いたり蹴ったりしていたのだ。
その反面、俺には好意的で、俺と関わるときはいつも機嫌が良い風に見えたし、理不尽なことをぶつけられることもなかった。
ただ、姉さんを姉として呼ぶこと、つまり、姉さん、とか姉ちゃん、と呼ぶことは禁止されていた。逆に、姉さんが俺のことを名前で呼ぶのも禁止されていたようだった。しかし、姉さんは母親に気づかれないような場面ではこっそり俺の名前を呼んでいた。
姉さんは母親にどんな扱いをされようとも無抵抗だったし、むしろ献身的だった。母親が姉さんをいないものとして扱うときは、気配をなるべく消して母親の前になるべく姿を現さないようにしていたし、叩かれようと蹴られようと反撃もしなければ誰かにその現状を訴えることもなかった。それどころか母親の都合の良いように物事が運ぶよういつも気をつけていて、それに俺が必要なときはそっと口添えしたりした。
4年前のあの夜に姉さんがいなくなって、母親は当初はイライラしていて荒れていたが、姉さんが本当にいないのが日常になると、清々したようだった。俺も、姉さんへの態度との落差を見なくてよくなり少し楽になった。
俺が今一人暮らしをしているのは、母親と一緒にいたくないからだった。お金の事情とか母親の気持ちとかいろいろあったけれど、もっともらしい理由をつけなんとかなだめすかして、俺はこの暮らしを手に入れた。就職したら母親の力を借りることなく生活がしたい。なんてったって、俺は母親が信用ならないのだから。
浴室から出ようとして、俺は着替えを持ってきていないことに気がついた。今は姉さんがいる。もしかしていなくなってたりしないかと思って、なるべく静かに浴室から顔をのぞかせると、姉さんの足先と後頭部が見えた。そりゃあいるよな、と思ってそのまま声をかけた。
「ちょっと奥行って。壁の方見てて。着替えるから」
「うん、わかった」
姉が俺の言うとおりにしてから、俺は浴室から出て下着と部屋着を探して手に取る。そこでクーラーをつけてないことに気がついて、電源を入れた。
そうして服を着ていると、姉さんがこちらに背を向けたまま言った。
「ねえ、光寛」
「何」
「わたし、本当にどうやってここに来たか分からないのよ。悪いけど、一晩泊めてくれる?」
「いいけど、寝る場所ない」
「いいよ、全然眠くないから。ええと、本棚の本、読んでていい?」
「いいけど、ほかにもの漁ったりするなよ。俺もう寝るわ」
「わかった」
姉さんの返事に何か思い出しそうになって、思考がかすんだ。とにかくバイトで疲れたし、理解の追いつかないことが起こって混乱したしで、頭が、身体が休息を求めている。
もう姉さんがなんでここにいるかとか、この事態をどうするのかとか、考えたくない。
俺は布団を雑に敷いて寝転がり、タオルケットを腹の上にのせる。
姉さんが、本棚に手を伸ばしたような気がした。
目をつむると瞬く間に脳内が真っ黒に塗りつぶされた。
遠のく意識の中で、クーラーのタイマーをセットするのを忘れたことに気がついた。けれど、姉さんがいるからいいか、と俺は眠りに落ちた。
***
次の日(厳密にはその日)、俺は昼間のバイトをこなした。
そして今は安さが売りの某チェーン店で腹を満たしている。
朝は寝坊してしまって、慌てふためく俺に目を白黒させる姉さんを置いて、家を飛び出してきた。
起こしてくれればと思ったものの、バイトがあるとも起こしてとも言わなかったので、恨み言ひとつも言える訳がなかった。
そこで、俺ははたと気がついた。
姉さんは深夜から今の今まで何も食べていないのでは、と。
少なくとも姉さんと会ってから12時間たっている。
姉さんだって子どもではないけれど、お金の類いを持っているようには見えなかったし、俺の部屋には食料はほとんどないはずだ。
俺は音をたてて立ち上がった。
カップ麺をてきとうに買い込んで、自転車を急いでこいで部屋に帰る。
もしかして、ドアを開けたら姉さんはいなくなっているのでは、ということがまた頭をよぎった。
時間は夕方4時半過ぎ。
ドアの鍵はかかっている。少し緊張しながら部屋を開けると、姉さんははたしてそこにいた。
「いるよな、そうだよな……」
安心なのか落胆なのか自分でもわからない。
それを悪い方にとったのか、姉さんは読んでいた本を置くと、すまなさそうに肩をすくめた。
「ごめんね光寛。帰り方分からないし、鍵も閉められないから出るに出られなくて」
「いや、というか、メシとか食べてない、のか?」
「あ、うん……なんだかね、お腹空かないし、眠くならないし、トイレも行きたくならないの。わたし、どうしちゃったのかな」
姉さんは顔を曇らせる。
「わたし、ほんと、どうやってここまで来たんだろ。わたし、本当に実在してるのかな?もしかして既に死んじゃってるのかな?足はあるし、すり抜けもしないけど」
矢継ぎ早に飛び出す姉さんの疑問に、俺は答えを持たなかった。
これはおかしい。目を逸らさずに、向き合って考えなければいけないことだ。
しかし、今はゆっくりしていられない。
俺は姉さんにこう提案した。
「俺、この後またバイトなんだ。それが終わったら明日の昼はバイトないから、そのとき考えよう。これからどうするか」
姉さんは俺の顔をじっと見てからうなずく。
「わかった」
この姉さんの返事に、俺は思い出してしまった。
母親はかつて、その顔が気に入らないと姉さんを殴っていた。父親似らしい姉さんの顔を母親は心底気に入らなかったらしい。その上、従順な態度がかえって気に障っていたらしかった。
嫌なことを思い出した。
俺は姉さんに断ってからシャワーを浴びた。今度は着替えを忘れずに持って行った。
浴室から出て、テーブルの上に鏡を立てて、俺は化粧を始めた。髭はシャワーの時に剃ったので大丈夫。顔にかかる髪をピンでとめた。眉のムダ毛を剃り、形を整える。そして化粧水をつけて、乳液をつけて、としていると、姉さんが興味津々といった風にのぞき込んできた。
「何、おかしいか」
「ううん、でも珍しいと思った。これ全部男性用?」
鏡の横に並べた化粧品を姉さんは触らないようにして見ている。
「いや、安いところで買ったやつだから、女性用のもあるかも」
「触って見ていい?」
「いいよ」
姉さんは、化粧水のボトルやらコンシーラーやらをひとつひとつ手に取って回したり傾けたりした。
「わたし化粧のことよく知らないけど、使うものって女の人と変わらないんだね」
「俺は薄めにしかしてないから、あんまりそろってないよ。ネットで見たらアイシャドウとかビューラーとかリップとか使ってるのもあった」
「化粧すると何かいいことあるの?」
「いいことっつーか、気合い入れるためにしてる」
「そっか」
姉さんは、優しいまなざしを俺に向けてきた。
「光寛、変わったね。化粧なんて全然興味なさそうだったのに」
俺は姉さんの態度に少しびっくりして、ぶっきらぼうになってしまった。
「4年もたったんだ。変わるものは変わるよ」
俺は化粧を仕上げて、ワックスで前髪を少しかきあげたりなんかして整えて居酒屋のバイトに向かうことにした。
「じゃ、俺バイト行くわ。腹減ったらカップ麺あるからそれ食べて」
「うん、ありがとう。いってらっしゃい」
久しぶりに聞く見送りの声が、母親のじゃないとこんなに気持ちよく響くのか、と思った。
***
居酒屋のバイトを終えて、深夜に帰ると姉さんはもちろんいて、おかえり、お疲れさま、と声をかけてくれた。
それからひと眠りして目を覚ますと、もう真っ昼間だった。
「おはよう光寛」
「おはよ」
挨拶を交わして、俺は姉さんってこんな人間だったか、と思う。
元いた家では気配がなくて暴力を振るわれようと無抵抗で、そのくせ母親にとって都合よくいくように気を遣って。あんな母親だったから、母親を刺激しないように行動していたから、本来の姉さんというのは隠されていたのだろう。俺はそう結論づけた。
俺はカップ麺をすすってから(姉さんはお腹がすいていないと言って食べなかった)、姉さんと現状とこれからのことについて話した。
姉さんが言うことには、今はあかりという人とルームシェアしていて、俺の部屋に来る前の最後の記憶は自分のベッドで寝た、とのことで、光寛が一人暮らししてることさえ知らなかった、とのことだった。やっぱり姉さんにはここまで来た記憶はないし、鍵の閉まってる部屋に入れるなんてどう考えてもおかしい。姉さんは、相変わらずお腹はすかないし眠たくならないし、加えて暑さも感じないし汗もかかないということだった。こっちに来る前に何か変わったことがなかったかと苦し紛れに尋ねても、何も思い当たることはないようだ。こっちに来てからも、身体的な異常があるだけで、そのほか何かがあるわけでもない。何かおかしいことが起こっているのは再認識したが、何をどうすればどうなるのかはわからなかった。
「お手上げ、だな」
「……そうだね」
はあ、とため息をついて、俺は床に座ったまま手を後ろについて天井を仰いだ。
このまま姉さんを俺の部屋にいさせて、何か変わるのだろうか。あかりという人と住んでいるところに帰るにしても、身体の異常については医師に診てもらうにしても、こんな訳の分からないことが起こった後では何か行動を起こすのになんとなく躊躇してしまう。放っておいて何が変わるわけでもないけれども、と俺が思考を巡らせていると、姉さんが口を開いた。
「光寛は、今バイトして働いてるの?」
「ううん、そこのK大学に通ってる」
姉さんは少しだけ目を見開いた。
「うちに大学行けるお金あったんだね。しかも一人暮らし。お母さんが光寛のために溜めてたのかな」
「奨学金もらってバイトもして、なんとかやってる」
「一昨日も昨日もバイトばっかりだよね。かけもち?大変じゃない?」
「長期のバイトと短期のバイト組み合わせてやってる。大変っちゃ大変だけど、奨学金は返さないといけないからあまり手をつけたくないし」
「そっか、そうだね」
姉さんはそこで少し目をそらして、すぐに戻し、俺を見つめてこう言った。
「ねえ、光寛。お母さんは元気なの?」
俺は回答を拒否したかったが、なんとか返した。
「……元気だよ」
姉さんは、ほっとしたように顔を緩ませた。
「よかった。もうお盆は過ぎたでしょ、里帰りとかした?」
心から母親のことを心配する様子に俺は心底苛立った。脳の中でチリチリと音が鳴っているような気さえした。
黙りこくった俺に姉さんが呼びかける。
「光寛?」
俺は、怒ってしまいそうな感情をどうにか制御した。
押し殺したような声で言う。
「……あの人のこと嫌いなんだ。あまり思い出させないでほしい」
そう言うと姉さんは、虚をつかれたような顔をした。そして視線を下に向けて、押し黙ってしまう。
俺はそれを見て、言いたいことが山ほど出てきて、口から言葉がこぼれるままに話し出した。
「そっちのこと無視した、と思ったら暴言吐いて殴ったり蹴ったり虐待まがい、というか虐待だね、虐待してさ、俺に対すると人が変わったようににこにこしだす。あんなの見てて母さんのこと嫌いにならない方が不思議だね。信用ならないし、反吐がでる」
俺はまざまざと過去の情景を思い出して、不快感を募らせる。
「そっちもそっちだよ、あの人に何されようと平気な顔してさ、それどころか尽くそうとする。理解できないね」
「……わたしが、お父さんに似てるから」
「知ってる。俺は父さんの記憶なんてないけどさ、父さんに似てるからと言って虐待していい理由にはならないね」
姉さんは下唇をかんで、視線をさ迷わせた。そして口を開いては閉じるのを何度か繰り返したのちにこう返してきた。
「あのね、わたしが、お母さんに何されても平気でいられたのはね、お母さんがかわいそうだと思っていたからだと思うの。お父さん似だって理由で私にいろいろぶつけてくるのは、お母さんがお父さんに暴力を受けてた経緯があってね、そこで降り積もった気持ちがあって、仕方がないって。お母さんはかわいそうな人なんだって。そう思ってたからだよ。思い出させてごめんね」
「理解できない」
俺はそう断じた。
「……私が高校を卒業するくらいの時間が経っても、お母さんは変わらなかったね。それだけ強い思いを抱えていたのかもしれないけど」
姉さんは少し遠い目をした。
「光寛もいて、いろいろあったけど、変わらなかった。もしかしたら、成長していくにつれてさらにお父さんに似てきたのかもしれないけど。お父さんの顔とかあんまり覚えてないしわかんないや」
「あの人は変わらないよ。今も。きっと、いつからか時が止まってるんだ」
俺は姉さんには変わってほしいと思った。母親の支配から抜け出している今、それは可能なんじゃないか。
「そ……姉さんは、あかりって人に連れられて家を出たんだろ?それは正解だと思う」
「そっか。……あかりにもいろいろ言われてね。このままお母さんと一緒にいたら、わたしがだめになるって。わたしがわたしとして、なんていうかな、尊重されて、というか、主体的に、というか、そんな感じに生きていくのがいいのに、それができなくなるって」
あかりという人は、真剣に姉さんのことを考えてくれているようだ。俺はそれにほっとする。
「あかりの言うことも分かるの。わたしの人生はわたしのでしかない。だから、自分の望むように生きていったらいいんだって。でもね、お母さんが上手い具合に生きていくのがわたしの望むことの一つでもあるんだから、別にお母さんの望むように生きたって良いんだと思うんだけど、あかりはそれは違うって言うの。わかるような、わからないような」
俺はあかりという人の言うことに同意だった。
「もしかしたら、わたしはお母さんと離れたほうが良かったのかな。ねえ、光寛。お母さんはわたしと一緒にいない方がよく生きることができていたりするのかな」
姉さんは母親の物理的支配からは逃れたけれど、精神的支配からは抜け出せていない。それがわかる言葉だった。
「あの人のことなんか、どうでもいいよ。姉さんはそのあかりって人の言うように自分のことを第一に考えて生きればいい」
「そっか、光寛もそう思うのね」
今はだめでも、姉さんには変わってほしい。あかりという人に良い影響を受けて自分を大切にして生きてほしい。
けれど、今の状況をどうしようか結論出なかったんだ、どうやって打開しようかと考えていると、姉さんが言った。
「でもね、光寛。やっぱりわたし、お母さんのことが心配なの」
姉さんはうつむいて、両手を膝の上でぎゅうと握りしめていた。
***
結局、何をどうするかは先送りになってしまって、俺は夜の居酒屋のバイトに出た。
そして帰ってくると、姉さんは部屋にいた。ただいま、と言うとおかえり、と帰ってくる。だが、姉さんがほっとしたような顔をして、焦ったように話しかけてきた。
「なんだかわたし、色薄くない?」
そう言われて姉さんの全身を見回すと、背後が透けて見えているわけではないけれど、色素が薄いというか、確かに色が薄い。
「そうだけど、なんで」
「わからないけど、なんか日付超えたあたりからどんどん色薄くなってる感じで……すりぬけはしないんだけど」
姉さんはトントン、とテーブルを軽く叩いてすりぬけないことをアピールした。
なんで、こんなことになっている?一昨日、急にこの部屋に現れたのと関係は?今いる姉さんはなんなのか?俺が混乱し始めるのをよそに、姉さんの色は少しずつ薄くなっていくように見えた。
「わたし、このまま消えてなくなるのかな?それとも元いた場所に戻るのかな?」
姉さんは不安そうに自分の体を見つめている。
俺はこれにも返す言葉がなかった。薄くなっていく姉さんをなすすべもなく見ていることしかできない。
「ねえ、光寛」
姉さんはこの事態に不相応に優しく微笑んでいた。
「長い間会ってなかったから心配してたけど、光寛元気そうでよかった」
「姉さん、何言って」
「あかりと一緒に行ってから二度と会えないかもって思ってたけど、今度こそ二度と会えないかもしれないから」
姉さんは、目に見えて白っぽくなっていく。俺はどうするべきか迷った。
「わたし、お……光寛のことも昔から大切に思ってたのよ。何も、してあげられなかったけど」
姉さんは全てを受け入れたようだった。言葉が続く。
「だから、光寛も自分のこと大切にしてね。バイトもいいけど、身体壊しちゃ元も子もないんだから」
「姉さん……」
俺は、すがりつくべきなのだろうか。しかしすがりついたところで、この事態に歯止めがかかると思えない。姉さんは、消えるのか、あかりという人の元に戻るのか。できれば後者がいいと願うことしかできなかった。
「なんだかもう、消えるみたいだね。じゃあね光寛。部屋貸してくれてありがと。元気でね」
姉さんはその輪郭だけ残して真っ白になる。そして、空気に溶けるように、夏の暑さに溶けるように、跡形もなく消えた。
俺はその場に立ち尽くして、それまで姉さんがいた空間を見つめていた。
この3日間、この部屋にいた姉さんは本物だったのだろうか。いや、2人しか知らない母親の話までしたのだ。あれは本物だ。
しかし、どうやってこの部屋まで来たのかも、どうして消えたのかも、何もかも説明がつかない。
最後まで理解の追いつかない出来事が、平成31年の夏休みに起こったことだった。
姉さんは本当に消えたのか、元いた場所に戻ったのか。どちらにしても、俺はもう二度と姉さんに会えない。そんな気がしていた。
夏はまぼろし
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