007/JAMES BOND WILL RETURN

No37304

  1. 1 ガンバレル・シークエンス
  2. 2 ダブル・007
  3. 3 I.T.O.計画
  4. 4 You only Live Once
  5. 5 For my eyes only
  6. 6 スパイに死を
  7. 7 No deals, Mr & Miss Bond.
  8. 8 私が愛したスパイ
  9. 9 JAMES BOND WILL RETURN
  10. 10 最悪の事態(あるいは大団円)

新作ボンド映画に女007が出るっていうニュースを見てからマッハになった妄想をそのまま一つの話にしてみた話です。
ショーン・コネリーにブロフェルドをやってもらいたいとか歴代007に勢揃いしてもらいたいとかの願望を全部乗せにしていつものボンド映画あるあるを集めたストーリーに乗っけた話でもあります。
歴代ボンドは伊藤計劃ボンド方式で記憶を引き継いでる設定で、そこまで現ボンドの設定は反映されてないです。

1 ガンバレル・シークエンス

 暗い部屋に、男はもったいぶった足取りで入ってきた。
 部屋の内装は、ビジネスホテルのそれのように簡素かつ無個性なものだ。ただ、ホテルの内装と違うのは、至る所に隠し扉や隠し収納がもうけられ、その中に武器が仕舞い込まれていることだろう。見るものが見れば、それがセーフハウス、もしもの際に家の持ち主が逃げ込むための隠れ家であることが分かったはずだ。
 セーフハウスに逃げ込んだ男は、趣味に合わない安っぽい部屋にやや気を滅入らせつつも、それなりに安堵したように息を付いた。その表情の下には、
(まあ、今は仕方あるまい)
 だとか、
(今までの暮らしよりはましだ)
 だとか言った、微細な思惑がうごめいている。
 それというのも、男はつい数時間前に刑務所を脱出したばかりであるのだ。刑務所内での暮らしに比べれば、どんな境遇であれよほどましと言えるだろう。
(──それに、今からまたいくらでも、好きほうだいに暮らせる身分に戻るのだ)
 無数の思惑は、最終的にはそのような思いに行き着いた。そう、彼にはいくらでも、ここから巻き返しをはかる手段があった。男の視線は、シンプルな壁のある一点、簡素な部屋に存在する唯一の装飾とも呼ぶべきレリーフで静止していた。コンクリートの壁に掛かった金属のレリーフに彫り込まれたものは、無数の足を複雑に入り乱れさせた蛸の意匠にほかならない。それは彼、エルンスト・スタブロ・ブロフェルドが頭目をつとめていた国際的犯罪シンジケート──スペクターの紋章であった。スペクターは実に巨大かつ強力な組織であり、組織に対してブロフェルドの持つ影響力もまた甚大なままだ。その事実は、一度は国家によって捕らわれ、自由を奪われることとなったあとも、内部の協力者によってこうして再び自由の身となっていることからも十分に確認できる。
 そう、ブロフェルドの権力は、未だ闇の世界では強大なままであるのだ。だというのに一体、このセーフハウスに彼を送り届けたものたちは何故彼の指示なり意向なりを伺いにやってこないのか? ブロフェルドは隣室に居るはずの忠実な部下たちの音沙汰が消えていることに気づき、急激に自らの心音が跳ね上がるのを感じた。脳内では危険信号が鳴り響き、彼のテリトリーであったはずの場所が一挙に敵地へと変貌する。
「おい。どうした、入ってきても構わんのだぞ」
 何の異変にも気づいていないようなふりをしながら、ブロフェルドは近くにある引き出しを開け、中に隠していた拳銃を手に取った。拳銃は、ワルサーPPK。よりによってこれか、との思いが脳の端をよぎったが、すぐに現実の認識が細かな思索に取って代わって頭を占領する。
 部下からの返答はない。すでに、制圧されていると見て良いだろう。だが、警察の特殊部隊が制圧したのならば、わざわざ秘密裏に事を運ぶことはあるまい。ならば状況はおおよそ推察できる。おそらく敵は一人。明確にこのセーフハウスの持ち主を認識した上で、一人で襲撃に踏み切るとなれば敵はかなりの手慣れと見て良いだろう。ブロフェルドの帰還を知り、その地位を奪おうと企てた反逆者か。あるいはなんらかの遺恨に突き動かされた復讐者か。恨まれる覚えはいくらでもあった。なにしろ彼はスペクターの首領であり、スペクターという闇の中の闇の上に君臨する帝王であるのだ。──
 ブロフェルドはベッドサイドに設置したコンソールのカバーを開き、一つのボタンを押した。ややあって、隣室からは轟音と、轟音に混じり込む悲鳴とが響きわたった。場所を突き止められた時点で、もはやここはセーフハウスとしての機能を失っている。もしものために仕込んでおいた爆破機能を使い、隣室を丸ごと吹き飛ばしたのだ。おそらくそこにはまだ息の耐えていなかった部下も残っていたはずだが、その犠牲を惜しむ感性はブロフェルドの中には存在していない。
 轟音の残響も十分に消え去った頃、ようやくブロフェルドは隣室へと続くドアに近づいていった。それでもいきなりドアを開くことはせず、慎重に室内を伺いつつドアノブに手をかけたところで──
「酷い男だな、部下を皆殺しにしてしまうとは」
 との声が、ブロフェルドの耳を打った。声の出所は、彼の真後ろだ。ブロフェルドは両手で握ったワルサーPPKを構え、真後ろを向く。
「彼らには、少々眠ってもらっていただけなんだよ。僕も昔ほどには若くない、全員を殺して回るほどの体力はないからね」
 わざとらしいほどの英国風のアクセントがブロフェルドの耳をなでる。その口調には、聞き覚えはあった。だが、声に聞き覚えはない。
「誰だ、貴様は」
 部屋の奥、合皮のソファに座り込んだ陰に向かって、ブロフェルドは問いかけた。そう、いったいいつそこに現れたのか、侵入者はよりによってブロフェルドと同じ部屋の奥に堂々と座って居るのだ。
「僕が誰か。うん、それこそが問題だ、非常に問題だ。僕はそれを解決しようと思ってね、それでここに来たんだ」
 まるで来客を迎えるような調子で、侵入者は立ち上がった。哲学じみた言葉とは裏腹に、その口調は酷く朗らかだ。おそらくこの男は、どんな窮地に至ってもそのように振る舞えるのだ、と思わせる、そんな調子だった。
「何を、ばかげたことを。質問に──」
 質問に答えろ、と口にしかけたブロフェルドの言葉は、しかし最後まで言い切られることはなかった。脈絡なく銃声が鳴り響き、ブロフェルドの額には風穴があいていたためだ。
「これでようやく名前を名乗れるようになった。ブロフェルド、エルンスト・ブロフェルド。それが僕の名前だ」
 あっけなく倒れるブロフェルドに向けて、侵入者はようやく答えを返した。その口調からは、いましがた人を殺したことなどみじんも感じられない。スクリーンセーバーを映しつづけるモニターを背にした侵入者の姿は、間接照明だけに照らされた薄暗い部屋の中、暗い陰となっている。
 陰は拳銃をスーツの内側に仕込んだホルスターへと戻すと、颯爽と部屋を出て行こうとした。だが、その直前にふと振り返り、ホルスターに戻したばかりの銃を再度抜いた。その拳銃は、いかなる偶然であろうか、床に転がるブロフェルドの死体が握って居るものと同じワルサーPPKだ。
 陰は、洗練された立ち姿で引き金を引いた。銃口の先にあったのは、ごく小さなカメラのレンズだ。進入者が狙ったのは、部屋に存在した監視カメラであったのだ。
 ワルサーPPKから放たれた銃弾はまっすぐにカメラのレンズに迫り、銃弾は大写しになり、そして、暗闇が訪れた。

007 / JAMES BOND WILL RETURN

2 ダブル・007

「やあ、君。あいにく他が空いていなくてね、ご一緒させてもらってもかまわないか」
 猥雑な酒場(パブ)の片隅で、ジェームズ・ボンドは一人の見知らぬ女に声をかけているところだった。いや、正確にはその女がメリッサ某という名で、つい先だって連れの男と大喧嘩をしていたことまでは把握している。同じ酒場の中に居るものならば、響きわたる大声のせいで誰でも知っていたことだろうが。
 メリッサは美しい瞳をボンドに向けたが、その瞳に浮かぶものは相手への興味ではなく露骨な警戒だ。
「他にいくらでも空いている席はあるわ。余所に座ったほうが広く使えるのじゃなくて?」
「おや、他にはこんな美人との相席はないだろう?」
 だが、見知らぬ男への警戒程度ならば、ボンドにとっては大した問題ではなかった。少なくとも、どこかの組織の女スパイを口説き落とすほどに難しくはない。うまく反感を引き出し、会話を続けさせ、時折おどけてみせ、自らへの警戒を解かせることなど、ジェームズ・ボンドにかかればわけもないことだった。事実、十分ほども話したころにはメリッサは時折苦笑混じりではあるものの笑みを浮かべ、ボンドの話へと耳を傾けさえしはじめた。この調子でもう何分か話したならば、今宵ボンドが一人で寝ることはないだろう。そう思われた頃のことだ。
「──やあ、ごめんよ待たせてしまって」
 そんな声が脇から飛んできて、メリッサとボンドの間に置かれたテーブルにはサテンの生地に包まれたしなやかな黒い腕が割り込んでいた。
 このパターンには覚えがある。ボンドは内心苦虫を噛みつぶした。最近は女とお近づきになろうとすると、こういうお節介がまま発生するものなのだ。
「もしよければ、あっちに移動して飲み直さないか? 何かと、ここじゃあ物騒だろ」
 テーブルについた腕を見上げていけば、その先には同じくサテンのドレスに包まれた美しい肢体があり、そのさらに上では、ごく短く刈りこんだ縮れ髪に縁取られた黒い顔がメリッサに魅力的な笑みを向けていた。むろん、メリッサと彼女は知り合いなどではあるまい。だが、助け船を出されたと気づいたメリッサは、迷いなく即席の友人の手を取り、立ち上がった。
「それじゃあね、色男」
 黒檀の彫刻のように艶やかな顔にいたずらっぽい笑みを乗せ、サテンのドレスの女は堂々とメリッサを連れ、立ち去っていった。かくしてボンドは、「彼氏と喧嘩して傷心のところにつけ込んで女をひっかけようとしてひっかけ損ねた男」として酒場に取り残されることになり、いささか痛い視線を浴びつつ注文していたカクテルを飲み干す羽目になったのだった。
 それが、昨日のことだ。
 そして今日、流石に昨日の今日で同じ酒場に顔を出す気にはなれず、別の行きつけのバーに顔を出したボンドの目の前には、昨日の女が居た。メリッサの方ではない。メリッサを横からさらっていった、サテンのドレスの女の方だ。ただし今日は昨日のドレスではなく黒いパンツスーツを着込んで、まっすぐにボンドを見据えている。
「君は……」
 と、流石にいい気分がするはずもなく剣呑な声を上げかけたボンドの声は、女の声で機先を制された。
「ミディアムドライのウォッカ・マティーニ。ステアではなくシェイクで」
 女がそらんじてみせたのは、マティーニのレシピだった。それは、ボンドの好むレシピであり、同時に世間的にはそう有名ではないはずのレシピでもある。バーテンダーから好みを聞き出したか、と思ったが、カウンターの向こうにいるのはボンドとは面識のない青年だ。おそらく、ここ最近入ったばかりの新人だろう。で、あれば、とるべき行動は一つしかない。
 ボンドは考える間もなく左肩のホルスターからワルサーPPKを抜き、女へと向けた。「引退したスパイ」などという存在の元へ、おまえを知っているというアピールを引っ提げて現れる存在が善良なものであるはずがないからだ。
「おや、これはずいぶんな挨拶だな」
 けれど、それでもたらされたのは、ボンドの優位ではなかった。なぜならば、ボンドが女の額に銃口を向けたとき、同時に女の手に握られた拳銃も、ボンドの額へとぴったりと向けられていたからだ。互いに握った銃は同じワルサーPPKであり、同じように腕を上げ、眼前の敵に銃口を向けている。
 愛用の銃はもちろん、敵手の動きに恐ろしいほどの既見感(デジャヴ)を覚えながら、ボンドはかまわず問いを投げかけた。
「君は、誰だ」
「おや、まだ分からないかな? わざわざ()のやりそうなことをやって、服装まで、いかにも()らしくしてきたのにな」
 と、女は自らのまとったダークカラーのスーツと糊のきいたシャツを示して見せた。テイラーメイドの体にあった服はあくまで女性の体に合わせたものではあるが、その襟やウエスト、ボタンの位置、あるいはシャツの形状には驚くほどに覚えがあった。コンジット通りの、ボンドの行きつけのテイラーでわざわざ頼んだのか。ジェイムズ・ボンドの経歴をすべて調べあげているというアピールのために?
 そこまでするような敵が居る、ということをボンドはよく知っていた。だが、彼の持つ記憶、彼の持つ知識はそれ以外のもう一つの結論をも導き出し、それこそが答えだ、と叫んでもいた。
「ボンド──」
 ボンドが自身の、そして推測される眼前の存在の名を呼ぶと共に、
「ジェイムズ・ボンド」
 女の名乗る声が被さった。まさか、という思いと、当然にそれはあり得ることだ、という納得とが交錯し、彼の視界を揺らす。
「──あるいは、007か。なにぶん性別がこのありさまだしジェイムズ・ボンドの名を君が使い続けているからな、ジェイムズと呼ばれるよりは007のほうがしっくりくるところだ」
 あっさりと自らの暗号名(コードネーム)を名乗ってみせた女は、顔の造形は到底似ても似つかないと言うのに恐ろしいほどにボンドとよく似た笑みを浮かべてみせた。だからといって、ボンドはけして気を緩めることはしなかった。この存在がボンドと同じものであるならば、その笑みの下にはほんの少しも友好的な気分も目の前にいる何者かへの共感も存在していないことをよく知っていたからだ。
「銃を下ろしたらどうだ。僕はこの店にまた来たい、刃傷沙汰は起こしたくないんだ。だいたい、007と元007がやりあったって相打ちがせいぜいだ、ちがうか?」
 007は、気障な言い回しでボンドに銃を納めるよう告げた。その言い回しがいかにも自分の言いそうなものに聞こえ、遠い昔に書いた作文を目の前で読まれているような気分になりつつも、
「この店にまた来たいのは同感だが、まずは、君が下ろしてからだ」
 と、ボンドもまた007に銃を下ろすよう告げた。つまりは、状況には一切の変化はないということだ。
 ようやく状況に変化が訪れたのは、
「おおお、お待たせいたしました、ごちゅっ、ご注文通りのウォッカマティーニ、ステアせずシェイクしておりますっ」
 などという、うわずった新人バーテンダーの声とともに、二つのグラスがカウンターに乗せられたときのことだった。目の前で繰り広げられる銃撃戦寸前の事態を、どうにか納めようとしたのだろう。オリーブをあしらったカクテルグラスに注がれた透明な液体は、まさにジェイムズ・ボンド=007が好むカクテルにほかならない。
 二つ並んだグラスと、その向こうで震え上がる青年を横目に見つつ、先に銃を納めたのはどちらであったか。気づけば二人の手に握られているものはワルサーPPKの銃把から、カクテルグラスの細いガラスの足にすり替わっていた。
「では、運命的な夜に」
 と言ったのは007で、
「ともかくの平和に」
 と言葉を受けたのは、ジェイムズ・ボンドだった。
 二つのグラスは軽く掲げられた後、同時に傾けられた。

3 I.T.O.計画

 その映像は、最後に銃弾がカメラにせまり、映像が暗転するところで終わっていた。
 そのままでは、銃弾を発射した男の顔は影になり、その作りまでも見て取ることは出来ない。とはいえ、全くの暗闇での映像というわけでもない。天下のMI6が誇る兵器開発()課の手にかかるまでもなく、そこらの映像加工ツールで明度でも弄ってやれば簡単にそのご尊顔は拝めることだろう。
 だが、映像を一度見ただけでボンドには、それが一体どのような意味を持つ映像であるのかをしっかりと理解していた。
「なるほどな。007が元007に接触を図るなどという最大の禁忌が冒された理由がよく分かった。これは、僕だな」
 ボンドの視線が、映像を映すタブレット端末から007へと移った。007は、黒く艷やかな肌の上にシーツを一枚被っただけの姿でボンドの隣に座り、映像を見るボンドの表情を仔細に観察しているところだった。もっとも、服装についてはボンドも全く同じ状況であり、人のことをとやかく言えた義理はない。もっと言えば二人が被っているシーツは同じ一枚のものであり、有り体に言えば現在は、ベッドで一戦を終えた後の「事後」なのだった。
 しかし、セックスを終えた後の男女が通常纏っているような雰囲気は、この夜のベッドの上には一切発生してはいなかった。
「そのとおり。明らかに、僕だとわからせるための映像だ。こんなものが送りつけられてきたものだから、慌てて僕が僕として活動をすることになったというわけだな」
 007の口調は、ボンドと同じくMI6の一室で同僚と仕事の話をするようなものだった。つい先程まで二人はごく純粋な知的好奇心に端を発する男女の交わりを行っていて、それは下手なポルノなどは比較にならないほどの激しさを伴っていた。けれど、激しさただ、互いの思考の同一性と技巧的な巧緻さと体力によって生まれたものであって、終わったあとに残っていたのは、自慰のあとよりよほど酷い空虚さだけだったのだ。
「つまり、かつての僕のひとりが生き残っていて、その上なにをトチ狂ったか闇社会の帝王の座を簒奪にかかったものの、かんじんの僕がすでに引退していたから、新しい僕を仕立て上げて対抗させよう、というわけか」
「それも、よりによってトチ狂ったのはオリジナルの僕と来ている」
「オリジナルか。それはまた、困った状態だな。僕の処遇に関わってくる」
「僕の処遇にも、だ。まあ、僕はリスクも承知の上で掛け金を積み上げているわけだが」
 007たちの会話は、驚くほどの速さで当人たちにだけわかるような言葉を使って進んでいくので極めて分かりづらいものとなっている。この会話を他人にわかるように説明しようとしたならば、「死んだと思われていた元007の一人がブロフェルドを殺してその地位を簒奪して不敵にもその時の映像をMI6に送りつけてきたものの、当代の007がすでに引退をしたあとだったので急遽短期間で新しい007が採用された。しかもブロフェルドに成り代わったのは007たちのはじめの一人であるため、現在生きている元007や007の処遇に関わりかねない」ということになるだろう。
「……さすがに全部僕だと分かりづらいな。その映像の彼はブロフェルドに成り代わったのならブロフェルドと、僕は現役の007であるのだから007と、君は007をやめたがまだジェイムズ・ボンドの名で生活を続けているのだからボンドと呼ぶことにしようか。それと、シャワーを浴びたい」
 わかりづらさは、当人たちにとっても同じであったらしい。007によって、各々を別個の名称で呼ぶことが改めて提案され、それは即座にシャワールームの使用とともに家主であるボンドによって承認された。
 シャワーの音が遠く聞こえるベッドルームには、脱ぎ捨てられた二人分の衣類と汚れたシーツと、それと007が持ち込んだタブレット端末とが残されている。どうやら、特にパスワードは掛けられていないようだ。この場合、見ても構わないということだろう。
 ボンドがなんのためらいもなく端末のロックを解除し、映像再生アプリを終了させてファイラーを開くと、表示されたものは件の映像ファイルのほかにはひとつのPDFファイルだけだった。相手がジェイムズ・ボンドであるならば、長々と説明をするよりもこのほうが話が早いと踏んで用意していたものだろう。ファイルの名前は、〈I.T.O.計画(Project)〉最新報告書。執筆者の署名は「M」で、ファイル作成日時は昨日の夜中となっている。どうやらジェイムズ・ボンドの永遠の上司は、今も激務に追われているようだ。
「まったく、頑固親父の下からおさらばして、勝ち逃げできたと思ったんだが」
 007の言った賭けの例えになぞらえて、ボンドは愚痴をつぶやいた。手にしたタブレットには、そう長くもないPDFファイルが表示されている。
 〈I.T.O.計画〉、すなわち|Impossible Technology operation《不可能技術運用》計画。それは、ある一人の稀有な資質を持つエージェントの記憶、人格を保存し、同じ質、同じ技量を持つエージェントを女王陛下の情報部員(On her majesty's Secret Service)として保有し続けるための計画だ。端的に言えば、ジェイムズ・ボンドという人間の記憶と人格を複製し、一定の資質を持つエージェントに付与することで「ジェイムズ・ボンド」を複製し続ける計画だということになる。
 ──007=ジェイムズ・ボンドの記憶保持者と思しきいずれかの個体(以降007‐Xと呼称)の記録されざる生存および反逆的行動により計画の妥当性そのものが問われる一方、計画の諸端となった007=ジェイムズ・ボンドの唯一無二性を鑑みるに、当該人物の追跡・逮捕あるいは殺害を成しうるものもまた007=ジェイムズ・ボンドのみであると考えられる。よって手順■■■■に則り007‐№7を作成──
 報告書は、中盤までは現役007、つまりは現在ボンドの家のシャワールームを借りている女を007に仕立て上げるに至った経緯が書かれていた。そこに007の元となる人物の素性は書かれていないが、計画の定めるところが「オリジナルのジェイムズ・ボンドに近い生い立ちの人物」、すなわち孤児であった上で海軍士官を志した優れた身体・知的能力を有する人物であるところからするに、彼女もそのような人物であったのだろう。「黒髪に青い目の白人男性」ではないのは、切迫する状況が細かい条件を投げ捨てさせたものか。ここで今ベッドに寝そべってタブレットを眺めているボンドも黒髪ではなく金髪であるところからするに、身体的特徴の条件は代を重ねるごとにそう重要でなくなっていたとも思われる。
 もっともボンド自身の例から鑑みて、一度007=ジェイムズ・ボンドとなってしまった以上は元の人物の記憶などは少しも頭の中には残っていないはずだ。いまの彼が持つ過去の記憶は、歴代のジェイムズ・ボンドたちが積み上げてきた記憶を現代の世界の中に置き換え、再構成したような奇妙な記憶だけだった。その中には、実際に彼が携わった任務の記憶もあれば、そうではない記憶もあるだろう。だが、それを自身の手ですべて峻別することは不可能だったし、そうする必要があるとも思っていなかった。ただ目の前の状況に適切な対処を行うことに特化した人格、それがジェイムズ・ボンドであるのだ。哲学的ゾンビに最も近い人間がいるならばあなたがそれだ、などとQ課の新しい課長は評したものだったが。──
 シャワーの音を聞きながら、ボンドは報告書の要点だけをかいつまみながら画面をスクロールしていく。
 ──事件の解決を待たねば最終的な結論は出し得ないものの、007-Xの素性、動機如何では計画の中止は当然のこととして、現状生存が確認されている007の記憶保持者の処理も検討の必要がある。──
 ボンドが結論部に目を通すのと、シャワールームの戸が開くのとは、おおよそ同時のことだった。
「ブロフェルドの正体はすでにオリジナルだと分かっているんだろう、007。なぜ報告書に反映されていない? 報告をしていないのか」
「ジェイムズ・ボンドのくせに、Mのようなことを言うんだな。報告はした。だが、その報告書には反映されていない。それだけだ」
 007は脱ぎ捨てていた自身の服を再び着込みながら肩をすくめるという器用な真似をしてみせた。報告を行った上でその内容が報告書に反映されていないというならば、それはつまりMが情報を留め、握りつぶしているのだ。おそらくは、オリジナルが反逆を起こしたと知れれば現在生きている007とボンドが処分対象となる、その事態をどうにかして避けるために。
 00課で企てられているであろうあらゆる偽装工作に思いを馳せつつ、ボンドは007と入れ替わりにシャワールームに入った。ボンドの脳裏に浮かぶMの顔は、記憶の混濁にも影響を受けず、当代のMのそれだった。先代のMの末期と、その後就任した新たなMとの共闘は、彼が間違いなく自身のものと信じる数少ない記憶だ。ブロフェルド捕縛後、特に何のことわりもなく00課を離れたボンドがジェイムズ・ボンドという人物として大手を振って生きられるようにしてくれたのもおそらくは今のMであるはずなのだ。確認したことはないが。
 シャワーのカランを締め、体をタオルで包みながら、ボンドは決然とシャワールームを出た。
「それで、007。いま分かっていることは他にもあるんだろう。さっさとブロフェルドにご退場願って、Mの心労を────」
 そして、そこにいるはずの007へと投げかけた声は、誰もいないベッドルームにむなしく響き渡るだけだった。他の部屋にも、黒いスーツをまとったしなやかな女の姿は見受けられない。瞬時に、ボンドの思考は007のそれをなぞりはじめる。自分は任務を帯び、事件に関わる重要な人物と接触した。接触の目的は、第一に当該人物が事件に直接的な関与を、特にブロフェルドの側についていないかを確認するため。その目的はおそらくは初対面の時点でほぼ、映像を見せた時点の反応を見て完璧に終わったはずだ。シロだと判断した関係者には必要な情報を与え──
「そして、それ以上事件に巻き込まないために、立ち去る。ああ、そうだ。僕ならば、抱いた女に対してそうするに決まっている」
 あの報告書だけを見せた意味も、こうなれば明白だ。万一の際は、お前も処分対象になるからすぐに身を隠せ。そう伝えるためのものだったのだ。
 ボンドが抱いた決意のやりどころに困って呆然としているとき、窓の外からエンジンの音がした。聞き慣れた音だ。アストン・マーチンの排気音。ジェイムズ・ボンドの愛車であり、007もまた同じ車を乗り回しているものだろう。いや、だが、007はこの家までボンドと共に徒歩で来たのではなかったか? だとしたら、あの車は──
「あーっ! あいつ、クソ、僕の車を!」
 ボンドは着るべき服を引っ掴み、そのままの格好で窓から飛び降りた。なにしろ自分の家の自分のガレージから、自分の車が出ていこうとしているところだ。目視しなくとも、おおよその場所は手に取るように分かるというものだ。
 アストン・マーチンのボンネットに、片手に服を握り、腰にタオルを巻いただけのボンドが着地したのは、ほんの一瞬の後のことだった。
「止まれ! この車泥棒!」
 フロントガラスを挟んだ車内では、007が驚き半分衝動的な笑い半分と言ったところの表情を浮かべてハンドルを握っている。いきなり頭上からほぼ全裸の中年男性が降ってきたら、恐らく人類の八割がたは同じ反応を示すことだろう。
「車泥棒? そりゃあそっちの話だ、そもそもこれはQの坊やが丹精込めて作った備品だぜ」
「誰も返せと言わないまま何年経ったと思ってる、あと僕を僕が抱いた女と同じように扱うのはやめろ」
「僕の抱いた女に、全裸で車のボンネットにしがみついてくるやつはいない!」
 フロントガラス越しに繰り広げられるのはなんともしょうもない口喧嘩であるのだが、何しろボンネットにしがみついているのはジェイムズ・ボンドであり、ハンドルを握っているのは007である。しょうもない口喧嘩の傍らでアストン・マーチンは仕事帰りの車列の合間を縫ってドリフトターンを決め、二台のバスの合間を片輪走行で走り抜け、空のトレーラーの荷台を使って信号待ち車列を飛び越え、迷惑を振りまいていく。途中何度か振り落とされているボンドがいつの間にか復帰しているのも流石といったところだろうか。
 とはいえ、なにしろ場所はごく普通の街でのことである。十分程も完全に無駄なドライビングテクニックが発揮されたところで、
「あー、はい、完全にスピードオーバーだね。あと危険運転とかなんか色々……にしても何? どういう状況?」
 と、駆けつけてきたパトカーに違反切符を切られる羽目に陥っていた。別にその気になればそのままパトカーを撒くこともできただろうが、一旦止まるほうが手っ取り早いと判断した上でのことである。
「えーはい、まあ、痴話喧嘩です痴話喧嘩」
「彼女が出ていくのを止めようとしたら車にしがみつく形になって、ええ」
 大変所帯じみた言い訳にともかく納得をしてくれたらしい警官が、違反切符を切るための端末を取りに後ろを向いた、その瞬間のことだ。車体を挟んで立っていたボンドと007は一切の合図なしに同時に車内に飛び込み、即座に車を発進させた。背後で怒声が響き、数発の発砲音がそれに続いたが、何しろQ謹製のアストン・マーチンである。英国の警官が携行している銃火器程度ならば数々の機能を発動するまでもなく、本体の持つ防弾性能だけで十分に防ぎきって余りあるほどだ。
「さすがは僕だ、007。何も言わなくても取るべき行動を分かってくれて何より、勝手に僕の車を持ち出さずに居てくれればなお良かったんだが」
「ともかく、服を着ろよ。〈スペクター〉の首領に取って代わるならともかく、公然わいせつの罪でジェイムズ・ボンドが捕まった、なんてニュースが流れてみろ、二度とMI6に顔を出せたもんじゃない」
 ボンドは言い返そうとしたが、ひとまずは007の忠告に従うことにした。なにぶん、ほんの十分程ではあったが法定速度を超えるアストン・マーチンの車体に全裸でしがみついていたのだ。季節は夏とはいえ、とっくに日も沈んだ夜のことである。寒くなかったかと言えば、ものすごく寒かった。
「で、今後の見通しは? 007」
 狭い助手席でどうにかこうにか服に手足を通したところでやっと、ボンドは本来ならばバスルームを出たときにしようとしていた質問を然るべき相手に投げかけた。黒い横顔は、険しい表情でヘッドライトの流れる道の先を眺めている。
「いまのところ、見当もつかないというのが正直なところだ。なにぶん、映像の中の僕がどの僕かをやっと特定したところであって────」
 黒く長い睫毛に縁取られた007の大きな黒い瞳が、更に大きく見開かれた。直後、車の中でボンドの体は大きく前に傾ぎ、続いてドアに強く押し付けられることとなる。どうした、など要領を得ない質問をボンドは投げかけはしなかった。そんなことを聞くまでもなく、周囲の車が一斉に急停止し、あるいはハンドルを他の誰かに取られたかのように暴走を始めたことは明白だったからだ。
「これは、サイバーテロか」
 同様の事象を起こしうる攻撃を、ボンドの記憶はすぐさま呼び起こしていた。それは、ボンドと連続する記憶を持つ007にしても同じことであったらしい。
「それも、ラウル・シルヴァのものよりよほど大規模なものだ。これほどの攻撃を成しうる組織など──」
 アストン・マーチンは、無軌道な動きで暴走する車の合間を見事にすり抜け、自らの体を守り抜いている。ハンドルを握る007がまばたき一つせずに視線を細かくあちこちに向け、無事に通りうる道を見出し続けているのだ。
 ただし、窓の外に広がる景色は惨憺たる有様である。おそらくは、車の制御機構がハッキングされ、機能を停止、あるいは狂わされたのだ。00課員のために作られたアストン・マーチンにはその種の攻撃への防壁が備わっているが、そうでない車の辿った運命は、道のあちこちから上がる赤い炎と黒煙とが物語っている。ハッキングされるような機器の備わっていない古い車種にしても、いま007が行っているような神がかった運転技量を持ち合わせているものなどそうは居ない。その場で停止できれば御の字、事故に巻き込まれなかったら奇跡、と言ったところだろう。
 混乱の中を疾走するアストン・マーチンの車内に、不意に電子音が鳴り響いた。まさか、速度超過の警告でもあるまい。電子音の出どころは、どうやら突如点滅を始めたカーラジオのダイヤルであるらしかった。
 ボンドの手が、殆ど使ったことのないダイヤルをひねると、ざざ、という特有のノイズに混じって人の声が流れ始めた。ラジオのニュースというわけではない。その声は、明確に車の乗員に対して呼びかけを行っていた。
『────こえますか、007、返事を。こちらQ』
「Q! どういうことだ、これは」
『007? 007も一緒にいるのか。いや、男の声は今の方じゃなく前の……ややこしいな、007、そこに今の007も居るんですね?』
 Qが現役も元もどちらも007と呼ぶために通話回線の向こうでは軽い混乱が発生しているようだが、ともかくこのカーラジオの通信回線はMI6と直通しているようだ。ネット回線を使った攻撃の最中に通信が行える理屈はQによれば、
『政府の通信施設では、万一に備えてひとつは枯れた技術を残しておくものなんです。MI6にも、冷戦期に使っていた暗号通信用の設備が残されていまして、こんなこともあろうかとその車にも暗号通信の送受システムを搭載しておいたんです』
 とのことだった。
「いまこの方法で通信を行ったということは、ロンドンも──」
『ええ、ひどい有様ですよ。あらゆる古い通信手段を引っ張り出して各国と連絡をとっていますが、おそらくは全世界的に攻撃が行われていると見ていいはずだ。何もかもメチャクチャだ、今、世界の技術が何十年分か後退しているんだ!』
 ボンドの体に、強い遠心力がかかった。目の前に倒れ込んできたタンクローリーの直撃を避けるために007が大きくハンドルを切り、車体が大きく横滑りをしたのだった。
『だが、逆にこうなれば、敵の所在を割り出す目処も立つというものです。古い設備を残したままの場所をピックアップすれば────ので────』
 アストン・マーチンの左側面がタンクローリーの表面と擦れ合う凄まじい音が、Qの声をかき消す。この場にQが居たら、自らの作品が削られるさまに悲鳴を上げていたことだろう。
「──Qがここに居たら、さぞかし悲壮な顔をしていただろうな!」
 同様のことは、007も考えていたらしい。ハンドルにしがみつき、ブレーキを目いっぱいに踏み込みながらも、ジョークを飛ばさずには居られなかったと見える。
『────丈夫か007諸君、ミスターもミズも──生きて────』
 横転したタンクローリーの運転席に引っかかる形でアストン・マーチンはようやく静止し、金属音とブレーキ音が消え去った。だが、長々と通信の声に答えている暇はなさそうだった。
「安心しろ、僕を誰だと思っている」
ジェイムズ・ボンドは必ず帰る(JAMES BOND WILL RETURN)
 最低限の返答だけを叫び、即座に007たちは車から飛び出して、脇にある森の中へと可能な限りの速さで駆け込んでいった。あたりには、ガソリンの臭いが充満している。あちこちの車から漏れているものに加え、タンクローリーからいま流れ出始めた膨大な量のガソリンの臭いだ。
 背後で爆音が鳴り響き、遅れて赤い炎が森の木々を灼きながら背に迫ったのは、その直後のことだった。
「……007諸君、と言っていたな、Mは。ひとつのナンバーに二人が就任するのは前代未聞の珍事じゃあないか?」
 流石に息を切らしながら草の上に寝転がり、遠い火災の黒煙を眺めながら、ボンドが言った。もちろんそれは、最後に聞こえた通信の内容のことだ。その声、その表情にどこか嬉しげなものが混じっていたものだろう。ボンドの横顔を、007は不思議そうに眺めていた。
「ジェイムズ・ボンド、君はMに特別な思い入れがあるのか? 僕たちは概ね、Mを鬱陶しがっているものと思っていたが」
「うん? 僕とMのことは君も覚えているだろう、007」
「そりゃあ覚えているが──自分で体験するのと受け継いだ記憶とでは実感が違うようだな」
 冷戦期以来の知識と経験を持つ新人007は、困ったように頭を掻いた。
「──だがこの場合、実感があろうがなかろうが、この記憶がこの上ない武器になるのは間違いなさそうだ」
 ボンドは、後輩の言葉に深く頷き、背筋を伸ばして立ち上がった。
「向こうが古い遺物で勝負を掛けているならば、冷戦の遺物の太古の恐竜のまたとない出番だ」
 炎は至るところで、空を焼き落とすかのような勢いで燃え上がっている。だが、サイレンの音はごく少なく、到底消火が追いつきそうにはない。
「冷戦の亡霊(スペクター)に対抗するのもまた冷戦の遺物しかないわけだな」
 007も腰を上げ、ボンドに並び立った。炎は生木をも焼き尽くし、森に広がりかねない様相を見せている。炎から逃げるように、二つの影は暗がりへと溶け込んでいった。

4 You only Live Once

 フロリダの砂漠の真ん中、照りつける太陽の中に「フェリックス・ライター」は立っていた。いや、正確には彼の名はフェリックス・ライターではない。その名は、かつて彼がCIAに所属していた頃、一人の英国人エージェントとの共同作戦において付与された一種の暗号名(コードネーム)なのだった。
 だが、いま彼は、間違いなくフェリックス・ライターとしておよそ三十年ぶりにそこに立っていた。それというのも、彼がここにいるのは彼をフェリックス・ライターたらしめる一人の男──ジェイムズ・ボンドから、古いスパイたちの持つ秘密の方法を使い唐突な連絡があったためであったのだ。
「……とっくに使わなくなった回線だと思っていたんだがな。なんでも置いておくもんだ。なあ、若いの」
 と、フェリックスが振り返った先に立っていたのは、大柄な体を麻のスーツで包んだ男だった。チョコレート色の肌には、玉のような汗が浮かんでいる。彼もまた、「フェリックス・ライター」の名で活動した経歴を持つCIAスタッフの一人であり、現状では唯一、現役のフェリックス・ライターであった。その背後では、十人ほどの人々が輸送ヘリの影の中で暑さを凌いでいる。彼らは、引退した老「フェリックス・ライター」から、ジェイムズ・ボンドを名乗る男より通信が届いた旨の連絡を受け、急遽現役フェリックス・ライターとともに指定された場所に急行してきたのだった。〈スペクター〉による通信網の破壊からおよそ二日が経ち、有効な対抗策を打ち出すことの出来ていないCIAにしてみれば、どのような情報であれ新たに得られるものであれば全力で掴み取って然るべきと考えているものだろう。
「全く、三十年? もっとか、その間連絡もよこさなかった癖に、唐突に〈スペクター〉の親玉をやっつけるから力を貸せとは、なんとも都合のいい話だ。だが、実にジェイムズらしい」
 多少の憤りと、大部分の喜びを隠しもせずに話す老ライターを、若いライターは神妙な顔で眺めている。
「あー、ミスター……フェリックス・ライター・シニア。その、念の為に言っておくが、おそらく今から現れるジェイムズは──」
 若いライターが老ライターに忠告を行おうとしたとき、不意に彼らの上に影が落ちた。白いプロペラ機、ピラタスPC‐6が頭上を通り過ぎ、やや離れたところに着陸を試みたのだ。
「やあ、登場方法も相変わらず、派手な真似をしてくれる」
 ピラタスPC‐6が完全に静止するのもまたず、老ライターが歩き出した。若いライターも慌ててその後を追いはじめたとき、プロペラ機のハッチが開き、一つの姿が現れた。くすんだ金髪を短く刈り込んだジェイムズ・ボンドだ。
「フェリックス。突然ですまない、なにぶん緊急事態でな」
 ボンドは老ライターに向けて古くからの旧知のような調子で声をかけたあと、その後ろに若いライターも立っていることに気づいて驚いたように両手を広げてみせた。続いてハッチから飛び降りた007も同様の光景を目にしたものだろう、その顔に興味深げな色が浮かんだ。
「やあ、ジェイムズ。こんなときにもいつもの通り女連れか」
 これは、若い方のライターがボンドに声をかけたものだ。老ライターは、見知らぬ二人の登場に驚きを隠せない様子で、日差しの中に立ち尽くしている。
「いいや」
 と返答したのは、007だ。
「僕が男連れなんだ、フェリックス。前知識無しでの初対面だからな、わからないのも無理はないが」
 友人に接する気安さを装っていた若いフェリックスの顔も、老ライター同様に強張った。「フェリックス・ライター」はだれしも、ジェイムズ・ボンドのシステムについての知識を与えられた上で、ジェイムズ・ボンドの米国の友人として共同任務に就く。だが、ここにいる新旧のライターたちはどちらも、複数のボンドと対面したことはない。記録上、複数のボンドと出会ったことがあるのは一人だけ、それもボンド側からの連絡によるものであり、CIAの方で厳格に肩入れがなされないよう気を配っていたことが伺える。
「つまり、君が、今の」
「ボンド、ジェイムズ・ボンドだ。ややこしいので僕は007、そちらの僕はボンドで呼び分けているが」
 新旧のライターたちが007たちに向ける視線が、まるで亡霊を見たかのようなものへと変化した。ボンドは諦めたように息をつき、007は肩をすくめてみせる。
「その、ジェイムズは──つまり、タンジールで最後に会った、あのジェイムズ・ボンドのことだが──」
 老ライターが、たまらない、といった調子で、彼の知るジェイムズ・ボンドの消息を尋ねた。若いライターは慌ててそれを遮ろうとしたが、007たちは別段気にも止めない調子で老ライターの方を向き、
「僕以前に、生きたまま007を辞めたジェイムズ・ボンドは記録されていない」
「だが、安心してくれ、君と一緒に戦ったことは、ちゃんと覚えている」
 と、一つの言葉を二人で分け合うような調子で返答した。直後に響いた、ああ、と魂の抜けるような声は、老ライターの喉から漏れたものだった。大抵の情報将校がそうであるようにCIAスタッフはだれしも感情を統制する訓練を受けるものだ。だが、その時の老ライターは湧き上がる感情を抑えきれなかったように天を仰ぎ、頭を振らずにはいられなかったようだ。
「それで、ミスター&ミズボンド。我々は、現在発生している事象について、MI6からの情報提供以上には何も知り得ていない。それ以上の情報を御存知であれば、提供をお願いできるだろうか」
 老ライターには構うことなく、若いライターが007たちに言った。その顔は、「フェリックス・ライター」ではない、CIAのスタッフとしてのものへと変化している。与えられた友人としての役回りを続けることは困難だと判断したものか? だが、それにしても目の前に彼が知るボンドが居る状況では妙な振る舞いではあるが。──
「勿論だ」
「NSAの技師は連れてきてくれたか?」
 007たちが首肯するや、背後の輸送用ヘリから暑さを凌いでいた人々がぞろぞろと降り立ってきた。彼らがNSA、(アメリカ)国家安全保障局の技師たちであるようだ。やや大時代的なコンピュータ類を持っているのは、現状でも安全に使いうる機器ということで選ばれた機材であるのだろう。
「おや、随分な大所帯でお越しいただいたな、エシュロンのデータさえ参照させてもらえれば構わなかったのに」
 007の言葉に、NSAの技師はやや警戒を顕にしたようだった。エシュロンとは、NSAが保有する通信傍受システムだ。情報機関のシステムである性質上、その実態は推測やリークで明らかにされた以上のことは明らかにはなっていないが、電波の傍受や有線通信への介入によって世界中ありとあらゆる通信網を使ってやりとりされる情報の盗聴を行っているとも言われている。そのデータを、他所の国の得体のしれないエージェントたちに渡せと言われてはいどうぞと差し出せるはずもない。
「なに、何もすべてのデータへのアクセスを求めているわけじゃあない。ここにリストアップした地点に、現状でも通信の痕跡を認められる場所があるか照会してもらいたいだけだ」
 ボンドが一枚の紙を示し、技師たちの中で一番の上役と思しき人物に手渡した。そこに書かれているのは、数字とアルファベットの羅列、緯度経度を示した六つほどの座標だ。
「敵の本拠地の見当までつけているのか。こちらは引退した爺さんたちを引っ張り出してどうにかこうにか大昔のシステムを再稼働させられたところだってのに、さすがは──いや、しかし、この地点の根拠は何だ?」
 若い方のライターの顔に一瞬友好の色が浮かびかけて、すぐに仕事用の顔が取って代わった。その後ろでは、手持ち無沙汰のNSA職員たちがエージェントたちのやり取りを注視している。
「ブロフェルドに成り代わったのは、007のオリジナルだ。だから、僕が選びそうな場所をピックアップした」
 と、ボンドが言った説明を、
「ちゃんと、めいめいに考えうる地点を書き出してクロスチェックするところまではやっている。全ボンドの意見が一致したところだ、信憑性は保証するとも」
 007が受け、自信に満ちた笑みで締めくくった。若いライターは絶句していたが、NSA職員たちはその説明でどうやら納得をしたようだ。特に何を言うともなく持参したアンテナを組み立て、配線をつなぎ、ピックアップされた地点のデータのリクエストを送信しはじめた。
「敵の親玉がお前たちのオリジナルだ、というのも、独自の情報だな」
 遅々とした速度でしか返ってこないデータを待つ間に、若いフェリックス・ライターが重々しい口調で言った。その表情は、何もかもの感情を抑制しようとした者に特有の、過剰な無表情となっている。
「ルチアの件では借りがあるからな、これでチャラだ」
「ああ、あんなもの」
 だが、その無表情も続いてボンドが数年前に一人の女を保護するよう要請したことを持ち出したときにはもろくも笑顔のかたちに崩れ去りかけ、慌てて取り繕われた。ボンドの後ろで鼻を鳴らしたのは007で、その瞳は機器の操作に携わるでもなくただそこに居るだけのNSA職員へと向けられている。NSAというのは、同じ情報組織でもCIAとは違い、純粋な情報収集、技術的な諜報行為を担当する組織だ。つまりは、真っ直ぐに立って007たちを監視し続ける職員たちのように、軍人のように屈強な体格を持った職員が何人も居そうにはないのだが。──
 気温とともに奇妙な緊張が高まる中、無機質な電子音がフロリダの砂漠に鳴り響いた。ようやくデータの受信が完了したのだ。同時に、画面に表示された結果を見た技師たちの間に、驚きに満ちたざわめきが広がっていく。
「すごい、全部ビンゴだ」
「こんな場所に通信施設があったなんて」
 技師たちの様子を見るに、ボンドが示した地点ではやはり、一般的な通信網が死滅した現状においても一定以上の通信が行われていたようだ。つまりは、全てが〈スペクター〉の拠点であると見ていいだろう。
「全部か。一番面倒なパターンだな」
「本拠地がどこか通信量で分かるかな?」
「あれは恐らく、平時の通信量では発見できないだろう」
「個人的には日本のあの火山じゃあないかと思うが」
「温泉に入りたいから言っているだけだろう、僕も入りたいがね、あの火山は確か近年噴火したと聞いたぜ──」
 007たちの、当人たちにだけ分かる会話は強い敵意によって遮られた。技師にしてはやたら体格のいい男たちが無言のままに二人を取り囲んだのだ。
「ありがとう、ボンド中佐。これだけ教えてもらえれば、あとは米国で対処は可能だ」
 いかにも軍人らしい格式張った声で、一人の男が告げた。二人を囲む男たちの構えたM4カービンの銃身はぎらぎらと陽光を反射し、ただでさえ正気を失いそうな熱気をなお一層強めるかのようだ。若い方の「フェリックス・ライター」は、居並ぶ男たちの後ろでそっぽを向き、その場で起きていることに意識を向けないようにしているようだ。
「情報を抜くだけ抜いてあとはお役御免、まあこの業界じゃあよくある話ではあるが」
 と、007の皮肉げな言葉とともに、ボンドの背に体温と体重とが伝わってきた。007が、ボンドの背にもたれかかったのだ。銃を捨てて手を頭の後ろに、との型通りの警告が周囲からは発せられている。二人はほぼ同時に左肩のホルスターから抜いたワルサーPPKを地面に投げ、両手を言われたとおりに頭の後ろへと持っていき──
「残念ながら従うわけには行かないな」
 そして、ボンドが後ろ手に007の手を掴んで引き上げ、同時に007は思い切り地面を蹴り、掴んだ手を起点に逆さ向きに宙へと跳躍した。動作としては、大雑把に言えば柔道の投げ技に近いかもしれない。直後、けたたましい銃声が鳴り響くが、銃口の先にはすでにボンドも007も居ない。007は空中で袖口に仕込んでいたベレッタの引き金を引いていたところであったし、ボンドは地面に転がって二丁のワルサーを掴んで同じく目の前の兵士に銃弾を叩き込んでいたところだったからだ。
 一瞬のうちに始まった乱戦を前に、老ライターははっと我に返ったようだった。僅かな逡巡のあと、彼は懐に手を入れ、グロックを引っ張り出した。ふたりのジェイムズ・ボンドたちに加勢するつもりであるのは明白だ。だが、足を踏み出そうとした彼の前に、大きな体が立ちはだかった。現役の「フェリックス・ライター」が老ライターの加勢を阻み、手にした銃を抑えようとしているのだ。
「若いの。お前は、ジェイムズたちをとっ捕まえるところまでが仕事だろうが、俺はただの引退した爺だ。お前に止められる義理はない」
 老ライターが、髭に覆われた褐色の顔を睨みつけた。だが、グロックのスライドを抑える手も、その体も微動だにすることはない。
「お前、聞く話じゃあ、複数回同じジェイムズと一緒に行動をしたことのある「ライター」なんだろう。俺はたったいちど同じ任務についただけだったが、あの重っ苦しい冷戦の時代に、何もかも爽快にぶっ飛ばしていくジェイムズ・ボンドはまるきりヒーローそのものに見えたぜ。お前には思うところはないのか、ないわけがないだろう、なあ」
「……そりゃあ、俺だって勿論、ジェイムズ・ボンドがとっ捕まって頭の中身を吸い出されたり得体のしれない実験の材料にされるところなんて見たくないよ。だが、だがな──」
 神妙な顔で首を振る若いライターの後ろでは、小規模な爆発まで発生し始めている。「頭だけは残せ」だの「手加減できる相手かよ」だのと言う声が飛び交っているところからするに、彼らが帯びている任務は007たちをどうにかして制圧し、その頭の中に詰まった数十年分の記憶を引きずり出すことであるようだ。ただし、何しろ相手はふたりの007である。生け捕りという条件のために、兵士たちはかなりの苦戦を強いられているようでもあった。
「まずい、ヘリを──」
 部隊指揮官が、叫び声を上げた。だがその声も続く銃声で彼の腹に風穴が開くとともに途切れ、ついにふたりの007と米国人たちが乗り付けた輸送ヘリとの間を隔てるものはなくなった。
 駆け出したジェイムズ・ボンドたちの背に、無数の銃口が向く。もはや、生け捕りという目的も半ば忘れられ、銃口はただ、逃げようとする獲物を逃すまいとするばかりだ。だが。──
「耳をふさげ!」
 との声とともに、追うものと追われるものの間に小さな円筒形の物体が転がった。グレネード、と叫んで危機を知らせるものが居たのは、流石に007捕縛の任を与えられただけの事はある、というべきか。だが、破裂までの間に取ることができたのはせいぜい、それが限度でもあった。M84、閃光発音筒(スタングレネード)の爆音と閃光が辺りに広がったのは、直後のことだった。
 技師に偽装するために平服の下に簡易な防弾チョッキ程度の装備しか着用していなかった特殊部隊員たちには、視覚や聴覚を守るための装備は一切なかった。運良く目をつぶる事ができたもの、耳をふさぐことができたものも残る感覚器官を170デシベルの轟音か100万カンデラを超える光に叩きのめされ、行動不能に陥ったのは言うまでもない。
「だがな、爺さん。こういうときにはな、タイミングが大事なんだよ」
 自らが放り投げたスタングレネードの効果を眺めたあと、現役フェリックス・ライターは途中で止めていた台詞の続きを口にし、ニヤリと笑ってみせた。ただし、その声は老ライターには聞こえていなかっただろう。現役ライターの体で閃光は防がれたものの、老ライターの鼓膜はしっかりと轟音のために麻痺していたためだ。
 やがて、辺りに砂塵が舞い上がった。輸送用ヘリコプターのローターが回転を始め、ダウンウォッシュがあたりの砂を吹き飛ばしたのだ。
「ありがとう、持つべきものは友人だな」
 前後ふたつのローターの回転音と風の音に混じり、007の声がどうにかこうにか老若のライターたちの耳に届いた。
「気にするな、お前らが行くほうがよっぽど確実だよ」
 現役フェリックス・ライターが怒鳴り返した声に、007がハッチから、ボンドは操縦席の風防ガラス越しに、手を振り返した。上昇を始めた輸送ヘリの中、その姿も徐々に遠ざかっていく。
「──死ぬなよ、ジェイムズ!」
 遠ざかる黒い機体にむけて、老フェリックス・ライターが声を張り上げた。それに対し、007も何かを言ったようだがすでに聞き取れる距離ではない。
「ジェイムズ・ボンドがかならず帰ってくるのは知っている、だが俺は、お前たちに帰ってきてほしいんだ! ジェイムズ、頼む、帰ってくるんだ!」
 抜けるような青空の中、黄金の太陽を背にしたチヌークはやがて空の中の黒点へと姿を変え、遥か彼方へと飛び去っていった。ダウンウォッシュで乱れた髪をなでつけ、全身に浴びた砂煙を払い落とす両フェリックス・ライターの後ろで、スタングレネードの洗礼を浴びた隊員たちがようやく行動の自由を取り戻し始めたのは、ようやくその頃になってのことだった。
「────命令違反だぞ、クソ野郎」
 腹を撃たれた傷の手当を受けながら、部隊指揮官が苦々しい声を上げた。
「奴らが行くほうが確実だと? あれは、今世界をめちゃくちゃにしている男と連続する人格を持った存在なんだろう。それも、あれの始祖(オリジナル)が元凶だと来ている」
 ならば、今は大丈夫でもいずれ同じものになる、と、明言はしないが部隊長がそう言いたいことは明白だった。命令違反を犯した男、現役のフェリックス・ライターは別段言い逃れるべきとも思っていないらしく、肩をすくめて首を振るばかりだ。
「あまり怒鳴るもんじゃあない、何しろこれから救援が来るまでここで仲良く缶詰だぜ」
 代わりに返事をしたのは、老ライターだった。彼はいつの間にかボンドたちが乗り捨てていったプロペラ機の中に乗り込み、なにやら計器類を調べていたようだ。瞬時には言葉の意味が取れなかった隊員たちも、引退したCIAスタッフに燃料計を指さされるに至り、ようやく自体を把握したようだった。そう、乗り捨てられたピラタスPC-6の燃料計が指す数値はほぼゼロ、というのも実は、今しがたの銃撃戦の中で燃料タンクに穴が空き、中に入っていた燃料はすべてフロリダの赤い大地に吸い込まれてしまっていたのだ。
 炎天下の砂漠で過ごさねばならない数時間を前に、うう、とかああ、とか怨嗟の声が上がる中、不意にまた電子音が鳴り響いた。銃撃戦以降、完全に存在を忘れられていたNSAの技師たちだが、彼らは彼らでずっとデータのやり取りを続けていたのだ。
 そして、今送られてきたデータは、どうやら予想外のものであったらしい。技師たちの間には緊迫した空気が流れ、短い専門用語が行き交い始めた。
「おい、どうした」
 現役のライターが技師たちに割り込んで画面を覗き込んだが、そこに表示されている数値の羅列は門外漢たる彼にはひと目では理解の出来ないものだった。代わりに、技師の中では上役であるらしい男が、その解説にあたった。
「はい、少しでも早く救援が欲しいのでNSA本部に直接緊急コードを送ったのですが、エラーが返りまして」
「エラー? 単純に、データを送信しそこねたということじゃないのか」
「いえ。この種類のエラーは、相手先の物理ロスト、つまり受信のための機器がまるごと喪失していることを意味しています。ですが、本部中枢部には当時の機材も含めて複数回線、この旧式の機器とやり取りのできる回線が残っていますのでそれらがすべて故障していることは考えられず──」
「まどろっこしいな、結論を言ってくれ」
 技師長は、普段接しない種類の人間との会話ということも相まって、緊張したように汗を拭いながら、言った。
「NSA本部が、何らかの理由で壊滅した可能性があります」
 技師長が推測される自体を述べるのと同時に、再度電子音とざわめきが沸き起こった。吉報ではないことが容易に想像される種類のざわめきだ。
「今度は、何だ」
 フェリックス・ライターは画面を覗き込んだ技師長を揺さぶり、もたらされた不吉な知らせを読み解くよう要請した。強く揺さぶられながら、技師長は、汗にぎらつくメガネを拭くこともなく口を開いた。
「これまでは返ってきていたデータがすべてロスト。つまり、エシュロンの基地局が物理破壊されました」
「……すべて、同時に?」
「はい。そうとしか考えられません」
 いつの間にか技師たちとライターの会話を聞きに集まってきていた特殊部隊員たちも、まさか、とか、こちらの機材の故障だろう、とか口々に言い始めた。だが、技師たちの表情は、それが現実であることを物語っている。
「何故。そんな方法、聞いたことがないぞ。NSAのシステムにはハッキング可能な自爆機構でも付いているのか?」
「まさか! ……ああ、いえ、でも……」
「何か心当たりがあるのか」
 散々に揺さぶられて落下しそうな眼鏡を抑えながら、技師長が必死に言葉を紡ぎ出した。
「先程まで念の為五分毎に先程指定された地点、ジャマイカのクラブ諸島、トルコのイスタンブール、ケンタッキーのオーリック牧場跡地、バハマのナッソー、日本の新燃岳、それからカリフォルニア沖の油田施設の通信量データを取り続けていたんです。そのうち、クラブ諸島での通信量が先の二回ほど、つまり十分前から上昇しておりまして、つまり、そこから何らかの司令なりデータ転送なりが行われた可能性があるわけです」
 一同は、顔を見合わせた。
「──その情報、いま飛び立ったヘリへ送れるか。この際だ、暗号通信でなくとも構わん」
 若いフェリックス・ライターの言葉を受け、技師たちはすぐさま周波数の変更を試み、あるいは乗り捨てられた飛行機の通信機器との接続を試し始めた。炎天下の砂漠での奮闘はやがて電波に乗り、空をゆくチヌークへとモールス信号の形で伝えられ──
「クラブ・キーか。オリジナルの僕は、温泉に入りたくはなかったようだな」
 機内に繰り返し流れるトンツーのリズムを聞きながら、操縦桿を握るジェイムズ・ボンドがつぶやいた。
「向こうは爺さんだ、おおかた温泉など入り飽きたんだろうさ」
 そう快適とは言い難い輸送機の中で、カウチにでも寝そべっているような具合で足を伸ばし寝転がったまま、007が答えた。その体がやや傾いだのは寝返りを撃とうとしたわけではなく、ひとまず近場のカリフォルニアへと向かおうとしていた機首が大きく方向を変えた余波をうけたものだ。
「ハニー・ライダー、だったか。いい女だったな」
「ああ、海から上がってきたときの美しさは格別だった。それに、あの馬鹿げたハリボテのドラゴン」
「懐かしいな、あんなものを大真面目に相手にしていた時代があったとは」
「いい時代だったよ、今のように入り組んでいなくて、何もかも単純だった」
 いつしか、二人のジェイムズ・ボンド、二人の007は、遠い昔の自分のものではない自分の記憶を思い返し、同じ記憶について語り合い始めていた。その記憶の舞台こそ、彼らがこれから向かう先、かつてジェイムズ・ボンドがドクター・ノオという一人の悪党と戦った場所、クラブ・キーと呼ばれる島であるのだった。

5 For my eyes only

「いやあ、何でも対策はしとくもんだ、データは無事ですよ、データだけは」
 焼け残ったサーバやコンピュータ類が運び出される風景を眺めながら、ひょろりとした体格の青年が言った。その口調からは、いっそある種の清々しさすら感じられる。なにしろ、彼の職場が炎上するのは旧MI6本部を含めれば二度目、解体前の旧MI6が爆破されたことも含めれば三度目ということになる。
「M、もう本部なんて作らずリモートワークにでもするべきじゃあないですか。いくらなんでも爆発しすぎでしょう、MI6。可燃物なんですかMI6」
 やけくそ気味に話すQに、Mはあえて返答はせず黙ってその横に並んで作業をみやった。新MI6本部となってまだ一年も経っていないビルは、頂点部から火炎放射でも受けたかのように外壁やガラス窓が焼け落ち、黒く焼けた内部が見えている。惨憺たる有様ではあるが、受けた攻撃の質を思えばその程度で済んでいるのはむしろ奇跡的と言ってもいいだろう。Qも自らの対策を自ら褒め称えているとおり、旧本部が二度に渡り爆破されたためにとにかく防火対策と建物の強化を通常以上に行っていたMI6本部は、おそらくは大気圏外から行われたレーザー照射による攻撃にも耐えきり、全焼を免れたのだった。
 そう、目下の問題は受けた攻撃の種類、大気圏外からのレーザー照射だった。
「Q、その無事だったデータの中から、この種の攻撃を行いうる技術とその対策を見つけるにはどの程度時間がかかる」
 それまで喚き散らしていたQの口が閉じられ、代わりに眼鏡の奥の目が、運び出されて軍用トラックへと積み込まれていくサーバ類へと向いた。銀行の大金庫なみの防火壁のなかで守られていたサーバは無事だが、その点検を行い、再度稼働できる環境を構築するためにはそれなりに時間がかかるだろう。何しろ、本部は半壊とはいえ上層階を中心に炎上し、放水で下層階も水浸しになっている状態だ。
「ひとまずは、今日中に軍の方で環境を再構築できるかどうか、ですね。いや、今から運び出したぶんをピストン輸送して作業を始めましょう、それなら今日中に──」
 脳内で展開される思考の速さに見合った早口でQが話しはじめた、その横から、
「あれはダイヤモンドだよ。ダイヤモンドの衛星だ」
 との声が掛かった。声の主は、サーバを運ぶ作業員の一人──つまりは、MI6のスタッフだ。丁度サーバをトラックに積み込む作業の途中で、MとQの会話を聞き止めたものであるらしい。
「ゴールデンアイの可能性もあるがね。だが、ダイヤモンドの可能性のほうが高い。Q課で対抗策を練るよりも、調べるなら71年と95年の報告書だ」
 帽子を目深にかぶったスタッフは、並行して運び出されている紙資料の山を指差した。すぐさま紙資料の積み込まれた荷台に飛び乗って該当する報告書を捜索し始めたのは、Qと彼の部下たちだ。
「──あった、これだ」
 やがて、荷台からはそんな声が上がり、二冊の薄い報告書を携えたQがMのところへと小走りに駆け戻ってきた。
「71年、『ダイヤ密輸の足取りとダイヤの軍事転用についての報告』、それから95年、『〈ゴールデンアイ〉事件経過報告』。どちらも、搭載したレーザー兵器で地上を攻撃する軍事衛星を巡る事件のようですね。ああ、だけれど後者は旧ソ連の兵器が持ち出されたのに対して、前者は〈スペクター〉が絡む案件だ」
 QとMが覗き込む報告書には、どちらも仰々しい機密指定区分の印鑑が押されている。規制線が張られ、屈強な兵士たちが周辺を守っている状況とは言え、MI6の00課とQ課の長たちが最高機密扱いの書類を堂々と公道で広げる光景は後にも先にもこの時を除いては見られないだろう。
「君、すぐによく該当する事件を思い出せたな。資料課の所属なのか? こういう場合には、紙資料と人間の記憶を組み合わせた検索性というのもなかなか馬鹿にならない──」
 Qは思い出したように振り返った。報告書の存在を知らせたスタッフに、彼の語彙においては最大級の賛辞を贈ろうとしたものだろう。だが、眼鏡の奥の目は数度瞬き、辺りをさまよう事となった。目的のスタッフの姿を見失った、というよりも、そこに存在しているべき数台のサーバがトラックごと消え失せていたのだった。
 いや、何もトラックは突如としてどこかへ消え失せたわけではない。少し横へと目をやれば、堂々と検問を通りぬけようとしているのを見つけることが出来た。その運転席には、先程の男が収まっている。もちろん、搬出の指示などだれにも出してはいない。
「ちょっと、そこのトラック止めて!」
 Q課課長が声を上げたことによって、ようやく警備の兵士たちは異常に気づいたようだった。だが、その瞬間トラックは一気に加速し、警告だの銃撃だのを意にも止めずに振り切っていく。数台のバイクだの装甲車が追跡にかかり始めたが、なにぶん初動の時点で完全に出遅れた上でのことだ。追いつくところからしてなかなか困難を極めそうでもあった。
 連続して常ならぬ事件に遭遇し続けて、職場の資料を救出にあたっていたMI6勤めの職員たちも頭を抱えたり天を仰いだりとショックを隠せない様子を見せている。だが、そんな中にあってもただ一人、周囲の様子に動じる様子を見せないものも居た。他でもない、二冊の報告書を手にしたMだ。
「M! まずいことになった、いま持ち去られたサーバですが……M?」
 ただし、Mは泰然として余裕を見せている、というわけでもない。元SAS隊員で、IRAの対処にあたったこともあるほどの経歴の持ち主である00課長は、いまや手元にある二冊の報告書をみて青ざめ、冷や汗すらもかくに至っていたのだ。
「どうしたんです、M。大丈夫ですか……あっ」
 Qもまた報告書を覗き込み、そこでようやくその意味するところに気づいたようであった。その表情はM同様に強張ったが、その後の反応は違った。すぐさま脇の軍人たちのところへ駆け寄り、
「いまのトラック、運転手の顔は確認できたか。何か言葉を交わしたものは」
 と、まるきりMと役回りが逆転したような具合でトラックの運転手について尋ねるに至ったのだ。
「出るときには誰も、搬出許可が出ているものと思っていたものですから。ですが、たしか加速をする前に、なにか──」
 全く機能していなかった検問所の兵士は、恐縮のあまりに縮こまるのではないかと言った様子になりつつも、懸命に先程聞いた言葉を思い出そうとしているようだった。
「そう、たしか、『心配するな、他の誰にも見せはしない(For my eyes only)』と」
 Qは背に気配を感じ、振り返った。丁度、兵士が聞いた言葉を口にしたのと同時に、彼の背後にMが現れたのだった。
 青ざめた顔ではあったが、Mはしばしの自失状態からわずかばかり、回復を果たしていたようだった。だが、その顔に浮かぶのはあくまでも悲壮な、希望とは真逆の種類の感情だ。
 Mの口が、重々しく開かれた。
「我々は、最悪の事態を想定せねばならん」

6 スパイに死を

 ミッドセンチュリー・モダンの古くも洗練された調度品に囲まれて、彼は座っていた。膝の上には青い目を持つペルシャ猫を載せているが、猫の方はどうにもその場所に不満があるらしい。白く長い毛並みを撫でようとする主人の手に、猫は不快そうな鳴き声を上げ、床の上に降り立って俊敏な動きで逃げていった。こうなるとあとに残された主人、ブロフェルドは、老いてなお精悍さを残す顔に苦笑を浮かべ、濃く黒い眉を片方だけ上げてみせるほかない。
 絨毯の上を駆けていった猫は、丁度タイミングよく開いたドアの外へ()()()とすり抜けようとした。けれど、赤いハイヒールを履いた足がそれを阻み、頭上から降ってきた二本の手が彼の体を持ち上げたのだった。
「どうも、駄目だな。動物にはあまり好かれない質のようだ、ペティ」
 ブロフェルドが、猫を抱き上げた女──ペティに向けて言った。猫の態度はブロフェルドに対するものとは打って変わって、すべての爪にきっちりと銀箔のようなマニキュアを施した白い手に撫でられるまま、喉を鳴らしている。
「普段から世話をしないからよ、ボス。私にはこんなに懐いているのに」
「餌はちゃんとやっているんだがな。……おっと」
 不満げなブロフェルドの顔に影が落ち、続いて細い銀色の髪がその頬を撫でた。ペティがかがみ込み、彼女のボスにキスを落としたのだった。老人の手がごく自然な調子で銀色の光沢を放つシルクに覆われた細い腰へと回されると、女の体はブロフェルドの膝の上へと収まっていた。
「うん。やはり、僕にはこちらのほうがいい」
 ペティの手がブロフェルドの首へと絡み、床の上へと投げ捨てられることとなった猫は、不満の声を上げて今度こそ走り去っていった。けれどもう、部屋の中には猫のことを気にしているものなどは誰一人存在してはいない。
「──ボス。侵入者がふたり」
 キスの合間に、ペティが報告を行った。
「おや、なんだ、仕事の話か。僕が恋しくなったかと思ったんだが」
「ふふ、そういう話はまた夜に。──現在はB‐3区画から侵入者をシナリオ通りの方向へ追い立てているところです」
 マニキュアを施された指が、ブロフェルドの座る椅子の肘掛けへと伸びた。肘掛けの先を開くと、その中に隠されていたのは無数のボタンだ。そのうちの幾つかをペティの指が操作すると、部屋の壁に掛かった絵画がくるりと反転し、代わりに巨大な液晶モニターが現れて幾つかの映像を同時に流しはじめた。映像が映す景色は、白い海岸線であり、密林であり、無機質な建物の通路でもある。つまりは、ブロフェルドが現在拠点としているこの島、クラブ・キーのあちこちに仕掛けた監視カメラが映し出す景色だということだ。
 景色や野生の動物の他に動くものを映しているのは、建物内の一つの通路を映し出すカメラだった。映し出されているのは金髪の男と黒い肌の女、すなわち二人の007たちであり、通路の奥から湧いて出る敵、すなわちブロフェルドの部下たちに応戦しつつ逃げ込むことのできる場所を探しているようだ。
「完全に、予想通りの経路で侵入してくれたものだから追い込むのも容易でしたわ。さすがはボス」
「まあ、器は違うが僕の……いや、ボンド君のことだからな。他のものではこうは行かないだろう。さて、ではそろそろ──」
 と、ブロフェルドの手がペティの若く瑞々しい手に重なり、肘掛けに仕込んだ操作卓(コンソール)を操作した。途端、部屋の戸が音もなく開き、同時にドアの向こうから二つの体が転がり込んでくる。その姿は、先程まで映像の中で銃撃から逃れる場所を探していた二人の007、二人のジェイムズ・ボンドたちにほかならない。
 ブロフェルドが組んだ足の片方で床を蹴ると、彼と腹心の部下にして愛人たる女の体重を載せた椅子は音も立てずに向きを変えた。ほんのそれだけの動作で、二十世紀半ばの調度で揃えられた部屋の中、侵入者たちと標的とは向き合うこととなる。
 ジェイムズ・ボンドも007も、唐突に現れた自らの標的の姿を前にしてはさすがに一瞬ぽかんと口を開かないわけにはいかなかったようだ。だが、それも一瞬のことだった。二人は完全に同じタイミングで握った銃を構え、完全に同じタイミングで引き金を引き、そして──
「残念だな、ボンド君」
 そして、銃声の残響が響く部屋の中にあったは、銃声が鳴り響く前と少しも変わらない景色だった。いや、正確には間違いなく変化は起きていた。ただし予想と違ったのは、絨毯の上に転がったのが銃弾に貫かれたブロフェルドの死体ではなく、空中でかち合った二組の銃弾であったという点だ。つまり、侵入者たちが発砲した瞬間にブロフェルドもまた手にした銃の引き金を二度に渡って引き、放たれた銃弾を迎撃した、ということになる。
 無論、殺人許可証(マーダーライセンス)を持つ00ナンバーの持ち主が、一発で標的を仕留めきれなかったからとて、その理由が神がかった技によるものであったからとて、驚愕に身を任せるようなことをするはずがない。すぐさま二人の007は引き金を引いた。引こうとした。けれど、二丁のワルサーPPKから再度銃弾が放たれる前に、二人の体は拳銃を握ったまま倒れ、昏倒することになっていた。
「おや」
 拍子抜けしたような声を上げるブロフェルドの頬を白い手が包み、愛嬌を感じさせる丸い顔が皺に覆われた顔へと寄せられた。ペティが、子供のいたずらを叱るような表情をボスへと向けているのだった。
「お遊びはそのへんで。いくらボスでも、危ない橋を渡りすぎです」
 侵入者たちは、すぐには意識を失っていないと見える。彼らの(オリジナル)が若く美しい女と戯れることについて、何やらめいめいに物いいたげな様子を見せた。が、肘掛けに仕込まれたボタン操作により神経ガスを吹き付けられた体では、舌一つ自由にはなりはしない。まして、遅れて部屋へと駆け込んできた〈スペクター〉の構成員たちによって捕縛され、拘束されるのを防ぎ得るはずもなかった。
 自らの人生と連続する記憶を持つ若いジェイムズ・ボンドたちを前に、一体何を思うのか。007たちがそうであるのと同様、老いたジェイムズ・ボンドの表情からその内面を推し量ることは出来ない。いまやブロフェルドの名を僭称する老スパイは、美しい女を伴って後輩たちの前に立ち、ただ
「間違いなく君たちは僕だ、ボンド君。だからこそ、僕は君たちに打ち勝つことができる。だからこそ、君たちは僕に勝つことができない。さあ、いまは眠りたまえ、最後の安眠となるだろうからな。──」
 と、存外に淡々とした口調で自らの勝利を告げるばかりだった。

7 No deals, Mr & Miss Bond.

 コンクリートの壁に、殴打の音が響いている。
 これが自分のことでなければ、ボンドはせいぜい殴打されるものに同情し、場合によっては助けに入る方法に頭を悩ませる程度で良かっただろう。だが、いま殴られているのは彼自身であり、それも丸裸にされたうえ両手を天井につながる鎖で拘束され、つま先がようやく地面につくほどの高さで宙吊りにされた状態でのことだ。筋肉の上にやや脂肪の乗った腹部に尋問官──否、彼はいかなる質問も受けていないのだから、この場合は拷問吏と言うべきか──の拳が入るたびに脳裏をよぎるのは、一刻も早くこの時間が終わることへの祈りばかりだ。
 捕縛されて拷問を受けることなど、007たるジェイムズ・ボンドはこれまでに幾度となく経験している。だが、こればかりは何度経験しても慣れないものでもあった。最長で十数ヶ月間に渡って北朝鮮に掴まって拷問を受けた記憶もあるが、そのときも考えていたことは今と寸分変わらなかったものだ。いや。あのときのほうがまだ、生きてさえいれば助けが来るとの思いだとか、何があろうと口は割らないという目的意識だとかがあったぶん、今よりはマシかも知れない。何しろ、今現在受けている拷問は、恐らく目的のない、拷問のための拷問と言うべきものだ。つまりは、死の他に終わりがないということだ。
「──かつての()のくせをして、年をとったら随分と悪趣味になったものだ」
 殴打の手が止まった合間に、ボンドは声を上げた。苦しげながらもどうにか皮肉げに聞こえるよう努めたその声は、目の前の拷問吏に聞かせるためのものではない。
「どうせ見ているんだろう、ブロフェルド。目的は、ジェイムズ・ボンド同士の対照実験とでも言ったところか? だが、忘れているようだな──あぐっ!」
 拷問の様子を映すカメラと、音を拾っているであろうマイクロフォンに向けた威勢のいい言葉は、しかし途中で途切れ、うめき声へと変化した。この場合、拷問吏が何かをしたわけではない。天井と床につながる鎖から電流が流れ、ボンドの体を打ったのだ。
 同時に、拷問部屋の中には僅かな雑音とともに、天井に設置されたスピーカーごしの音声が降り注いだ。
『全く、君たちの言うとおりだよ、ボンド君。世にも珍しい二人の007、二人のジェイムズ・ボンド。ほぼ同じ記憶を持つ僕の複製体(コピー)たち』
 ブロフェルドは、ボンド一人ではなく二人に対し同時に語りかけている。つまり、隔離され、同様の拷問を受けているであろう007も、ほぼ同時に同じようなことをブロフェルドに向けて言ったのだろう。
 事実、同時並行して行われる拷問をカメラ越しに見守るブロフェルドは、めいめいに隔離したボンドたち、007たちが同じ責めに対してほぼ同じように苦痛の声を上げ、同じように敵意をみなぎらせ、同じように皮肉げな言葉を絞り出すところを目撃していた。今しがた、同時に電流を流したときに上げた悲鳴までがほぼ同質であったのだから、実に興味深い実験だと言えよう。だが、実験というからには導き出したい何らかの結論があるはずだ。一体ブロフェルドは、何を導き出そうというのか──?
『僕は、ほんの僅かにでも、君たちが僕ではない(・・・・・)という証拠を、僕の記憶を持っていてなお別のなにかになりうるという証拠を見たいんだ。さあ、覚悟はいいかね、ボンド君』
 二つに分割された画面の両側で、同じように天井から吊るされた007たちは、スピーカーから発せられた言葉の意味がすぐには理解できなかったと見える。画面の中に並ぶ二つの顔は、全く違う骨格を持ち、全く違う表情筋を使っているはずなのに、複製したように怪訝な表情を浮かべていた。
『────』
 続いてブロフェルドが拷問吏に向けて下した命令をスピーカーごしに聞いたときにも、二人の反応は同種のものだった。はっと目を見開き、そしてすぐさま感情を消して極力いかなる反応も外部に漏らすまいとするありさまは、007のナンバーに叙せられるジェイムズ・ボンドにしてはあまりに訓練通りの仕草とも言えよう。
「まあ、僕が現役の時でもそれ以外にはやりようがなかったろうからな。予想の範疇だ」
 マイクには入らないような低い声で、ブロフェルドは画面に映る光景への感想をつぶやいた。画面の向こうでは、ふたつの裸体が肌の色も性別も間逆でありながら相似形を成している。相似形の、苦悶の像だ。他者に自らの肉体へと侵入される不快感に、白い肉体が震え、黒い肢体が弓なりに反る。
 拷問にそなえた訓練は、抵抗の意志を維持し、脱出への希望を失わないことを教え込むものだ。抵抗と言っても、暴れたり叫んだりと言った派手なものだけではなく、氏名や所属など必要最低限以上の情報を与えないというのも抵抗の一つだ。何をされても口を割らなければ、拷問に意味がないと相手に悟らせて不必要な暴力を減らしうる。そして、協力の拒否という形で抵抗を続けていれば、必ず脱出の機会、あるいは捕虜交換による開放へと繋がる──概ね、そんなところだ。
 では、ふたりのボンドたちの置かれた状況、つまりは性的な陵辱を受ける状況における抵抗とはいかなるものか。答えは簡単、いかなる反応も行わず、陵辱が無駄だと拷問を行うものに悟らせることだ。宙吊りになったまま犯される虜囚たちはただ目を瞑り、呼吸を落ち着けてその身が陵辱者の手で揺らされるに任せている。そこには、いかなる個体差(・・・)も、なんとなれば男女の差も見受けられない。おそらくは今頃は、頭の中でマニュアル作成者に「言うのは簡単だがやってみたことはないだろう」とでも毒づき、ついでにトマス・エドワード・ロレンスがトルコ軍の将軍による拷問を楽しんだとかいう自伝での証言は強がりか嘘に違いないと断じ、そして何より、ブロフェルドへの殺意を募らせているに違いない。
 やがて、007たちに変化が訪れた。
「──糞ッ──いや、嫌だっ、こんな、ああ────」
 甘く、鼻にかかった声はどちらが出したものであったか。画面の中で、ひたすら人形のように無反応を貫いていたふたりの虜囚は切れ切れに声を漏らし、熱い吐息で呼吸を乱しはじめた。
「────頼むよ、この体勢じゃあ辛くてイけない(・・・・)んだ、分かるだろ──」
 筋肉に覆われた男の体が、均整のとれた女の体が、拷問吏へと上半身を擦り寄せ、甘ったるい声で懇願をする。およそ、陵辱が始まってから40分程の時間が経ったころ、それ以前の拷問も含めれば二時間近くが経過した頃のことだ。拷問を受けている側の体力の消耗も激しいだろうが、行っている側も交代をさせていないのだから結構な疲労が溜まっている頃合いだろう。
 ジェイムズ・ボンドの体が、007の体がコンクリートの床に崩れ落ちた。手枷を外されたわけではないが、手枷につながる鎖を天井のフックから外されたことで宙吊りの状態からは開放されたのだ。
「これで、問題ないだろう。さあ、それじゃあ──」
 と、拷問吏の手が女の艷やかな肌へと触れ、先刻までの続きを開始しようとしたとき。じゃらり、と金属音とともに、冷たいものが拷問吏の首へと纏わりついた、と思ったのもつかの間──
 画面の中で繰り広げられる光景は、一挙にその様相を変えていた。めいめいの部屋の中で、拷問吏が鎖を使い首を締め上げられているのだ。007のほうは相手の背に乗って体を押さえつけて、ボンドのほうは首に巻いた鎖を肩越しに引いて相手を背負いあげる形で、という差はあるものの、およそ起きていることは同じだった。
 もがいていた拷問吏が動きをなくすまでの時間は、そう長い時間ではなかった。最前まで自らを陵辱していた男が絶命したことを確認すると、ボンドと007は淡々とその体を探りはじめる。手枷の鍵を探しているのだ。
『鍵は腰のベルトだよ』
 そう面白くもない工程を簡略化すべくブロフェルドが与えた助言に、虜囚たちはやや不機嫌そうに眉をひそめた後、言われた通りの場所に鍵を発見したようだった。鍵を口に喰わえて手枷を外しさえすれば、通路へと続く戸に鍵は掛かってはいない。
 重い扉を開き、おおよそ同時に顔を出したボンドの、あるいは007の目は、明るい通路になれるまでに一瞬の時間を必要とした。光になれた目が映し出したものは、銀色のドレスに身を包んだ女と、その背後で銃を構える〈スペクター〉の構成員たちの姿だった。
「お疲れさま、ミスター&ミズボンド。随分と可愛らしい声も出せるのね。気分はどう?」
 普段であれば即座に皮肉の一つ二つ投げ返すだろう場面だが、ジェイムズ・ボンドといえど今は即座に脳を稼働させるための体力も存在していないらしい。黙って両手を上げてその場に膝を付き、007たちはペティが引き連れてきた構成員に再び拘束されるのを待った。
「対拷問マニュアルだったか? あれを考えた奴に、実地でそのとおりのことをやってみろと言いたいね」
 両手に再び枷を嵌められながら、ボンドがようやく声を発した。
「僕としては、アラビアのロレンスが目の前にいたらこの大嘘つきと罵りたい気分だ」
 続いて007も、どうにかこうにか快活さを装った声色を絞り出しながら両手を取られ、ボンドとともに通路の先へと歩くよう強制される。流石に、先程までの事があった上でのことだ。その足取りは重く、時折銃を突きつけられ、背を押されての行進となるのも無理はあるまい。
 その様子を見かねたものだろう。
「あら、怯えなくたって大丈夫よ。ボスが、あなた達をディナーに誘いたいと言っているの。だから、身なりを整えてもらうだけ」
 と、今後の予定を伝えたペティへと、ボンドたちの視線が向けられた。明らかに訝しむ様子を隠しもしない視線を受けてなお、〈スペクター〉の女幹部の笑みは少しも揺るがない。
「そういうことならば、ぜひともお受けしないとな」
「ああ、ブロフェルドはともかく、こんな美人とディナーをご一緒するなんてまたとない機会、逃す手はない」
 二人の返答に、真っ赤な口紅を引いたペティの唇が、にい、とつり上がった。
「さすがは007、ジェイムズ・ボンド。噂通りのタフさね。さあ、それじゃあついてきて、部屋についたら手枷は外してあげるわ」
 先に立って歩き出したペティのあとを、再びボンドと007は歩き出した。コンクリートの上を進む歩調は、先刻までとは違いしっかりとしたものへと変化していた。

8 私が愛したスパイ

 機械でも洗うかのような調子でシャワールームに放り込まれたあとに通された衣装部屋は、むき出しのコンクリートに覆われた無機質な基地の様子とは真逆の様相を呈していた。つまりは、ロココの時代の王侯が使っていたかのように華美な内装に彩られ、途方も無い量の衣装や靴、バッグの類を収蔵している、ということだ。
「これは、まあ……すごいな。イメルダ・コレクションとタメを張れるぞ」
 言外に、自分の趣味ではないと言いたげな感想を漏らすボンドの前で、ペティがヒールの音も高らかに立ち止まり、振り返った。
「あちらは靴が千にバッグが九百、ガウンが五百にコートが十五。こちらはその倍以上はあるわ」
 ヒュウ、と口笛を鳴らしたのはその後ろで大時代的なドレスを信じがたいものでも見るように見つめていた007だ。ピンクの花柄生地にレースとフリルをふんだんに施したウェディングケーキのようなロココ調のドレスは、背が高く引き締まった体格の007に似合わないのは勿論、大枠では同系統の、一言で言えばキツそうな外見であるペティにも決して似合いはしないだろう。
「言っておくけれど、全部が全部着るわけじゃあないわよ。その辺りは、ヴェルサイユ時代の貴族の女性が着ていた服の再現で……だから、コレクションなのよコレクション。私が着るわけないでしょう」
 特に聞いてもいないことを話しながら、ペティはバスローブ姿の二人に向けて早く付いてくるよう促した。まだ完全に目的地についたわけではなかったようだ。
「あなたたち用のは、この中。これでも十分選ぶ余地はあるでしょう。一通りの化粧品も放り込んであるわ」
 007たちに示されたのは、ごく一般的な家庭のクローゼット二つだった。中には、ごく普通のタキシードとドレスが詰まっている。
「良かった、仮装パーティにでも出席させられるかと思った」
 とはボンドの述懐で、007も完全に同意しているらしくその横で大きく首を縦に振っている。大真面目に最悪の事態を危惧していたのは、過去にボンドが紛れ込んだ〈スペクター〉幹部の集会が仮面舞踏会じみた外観になっていた記憶によるものだろう。
「安心なさい、ボスの趣味はあなたたちの趣味とよく合うでしょうよ」
 ペティがクローゼットを肩越しに指差して言った。その言葉に違わず、クローゼットの中にある服のデザインはおおよそ現代のロンドンで手に入る類のものばかりで、再度ボンドと007は揃って胸をなでおろしたのだった。
 一時間ほどの後、クローゼットの前には黒いタキシードと金のドレスを卒なく着こなした姿が並び立つこととなっていた。その姿を、ペティは特に何の感慨もなく見やると、
「さ、それじゃあディナー会場へご案内するわ」
 と、再び先に立って歩こうとした。だが、すぐにその足が止まったのは、あとから追いついた二つの足音がペティのそれに並ぼうとしたためだ。
「レディ、どうぞ手を」
「お名前をお聞きしても?」
 差し出される二つの手を前に、ペティの顔に一瞬浮かんだのは、心底うんざりしたような表情だった。が、一瞬のあとにはすぐにもとの通りサディスティックさの混じる蠱惑的な笑みへと取って変わり、目の前の手を二つとも払ってみせた。
「キャスリーン・ペタヴァル。ボスはペティと呼ぶわ。エスコート役なら間に合っているわ、どうぞジェイムズ・ボンドお二人で手と手を取り合って頂戴」
 007たちは、手を払われたことを気にするでもなく互いの顔を見合わせ、一瞬互いに手を差し出しかけたものの、どうもしっくり来なかったと見える。首をひねり、頭を掻きつつ先をゆくヒールのあとを追って衣装の間を足早に歩きはじめた。
「ペティ。君はおとなしくブロフェルドの行うところに従うタイプには見えないな。察するに、ボスの後釜狙いといったところか」
 ボンドが投げかけた言葉に、ペティの顔が少しだけ振り返り掛け、再び前を向いた。
「ええ、よく分かっているじゃない。だけれど、だからってすぐに組織を手に入れるためボスを殺す手伝いをしろ、というのはなしよ」
「おや、合理的な提案に思うけれどな」
 007の言葉にも、ペティは振り返ることはせず、背を向けたまま肩をすくめてみせる。
「それで、英国諜報部の首輪付きで〈スペクター〉を牛耳れっていうわけ? 冗談じゃあないわ」
 ヒールの音が止まった。だが、それはボンドや007と対話を続けるためではなく、目の前にあるドアを開くために立ち止まったと言うだけのことだった。
 そして、開いたドアの向こうへとペティはすぐに身を躍らせた。そこに待っていたのは、銃を手にした無数の構成員たちと、彼らの首魁──ブロフェルドだったのだ。
 ブロフェルドの頬にキスを落とし、その腕の中に収まりながらペティは振り返り、告げた。
「ボスは、いまの計画が終わり次第わたしに〝エルンスト・スタブロ・ブロフェルド”の名を──つまりは〈スペクター〉の首魁の座を譲ることを約束してくださっているわ。あなたたちが出る幕はない」
 彼の愛人の言葉を聞いて、おおよそ衣装部屋の中でどのような会話が行われたかを察したのだろう。ブロフェルドが、口の端に刻まれた皺を深くした。
「僕を殺す代わりに〈スペクター〉をくれてやる、とでも提案したかな? その程度のことならば、事前に想定しているよ。さあ、ボンド君、お先にどうぞ。もうじきディナーの時間だ。──」
 周囲を囲む銃口にエスコートされ、007たちはディナーの会場へと案内されていった。
 長大なディナーテーブルを挟んで、ジェイムズ・ボンドの名を持つ二人と、ブロフェルドの名を奪い、受け継ごうとしている二人とが相対している。テーブルの上に並ぶものは、英国レヴェンソープ産のスパークリングワインとサラダ、それにスープだ。ただし、007たちの前に置かれた料理はほとんど減ってはいない。
「どうした、毒など入れてはいないよ」
 レヴェンソープ・スパークリング・ロゼを傾けながら、テーブルの向こうに座る二人に向けてブロフェルドが言った。
「なに、ミスター・ゴールドフィンガーにディナーへ誘われたような気分でね」
 ボンドの答えに、ブロフェルドは乾いた笑いを上げた。ゴールドフィンガーといえば、ジェイムズ・ボンドをレーザーで真っ二つにしようとした男だ。体を半分にされかけたあとにディナーに誘われたとしても、到底その卓上に並んだ料理をにこやかに食べようという気にはなれないだろう。ましてや、先程行われた一連の拷問を思えば何をか言わんや、といったところだ。
「残念だな、君たちの最後の晩餐になるだろうに」
「どうかな? 君は忘れているようだが、ジェイムズ・ボンドを拷問したものはたいてい死ぬものだ」
「ふむ、言われてみればそうだ。だが、君たちも忘れているようだが、僕もまたボンドだ、それも君たちの祖たる存在だ」
 007の挑戦的な視線が、ブロフェルドの視線と正面からぶつかった。
「祖であるゆえに後継者よりも優れている、と? それは、ジェイムズ・ボンド、007シリーズにおいては完全に的外れな意見だな。僕たちは、蓄積された記憶を受け継ぎ続ける存在だ。ならば、より多くの経験とより若い肉体を持つもののほうが有利であるはずだろう」
 007が言葉を言い終えるタイミングで、丁度メインディッシュが運ばれてきた。テーブルに丸焼きの鳥が現れ、ボンドたちの前には数枚の取り皿とナイフとフォークが置かれ、そのナイフの一本を007が掴み取ってテーブルの向こうに向けて投擲する。けれど、そのナイフは悠々とブロフェルドに掴み取られ、脇に立つ給仕に返された。まるきり、初めからその動作も含めて余興として組み込まれているかのように自然な流れだ。
「いいや、そうとも限らないさ。君たちの取りうる行動は、全て僕の予測から外れるものではない。何なら、銃でも撃ってみるかね?」
 ふてくされた様子の007とボンドの前に各種の高級そうなカトラリーを並べてゆく給仕が、全く同じ調子で白いテーブルクロスの上に三つの金属の塊を置いた。二丁のワルサーPPKと、一丁のベレッタだ。すべて弾倉もしっかりと交換されている。
「やめておこう、正面から撃って、弾を無駄にすることもない」
 並んで座る007を静止するためと言うよりは、半ば独り言に近い形でボンドが言った。彼の脳裏には空中で銃弾がかち合って落下した光景が焼き付いており、彼がそうであるということは、隣で二丁の銃を見比べた結果、ベレッタをスカートの下のガーターストッキングに差し込んでいる007も同様の思考に至っていることはほぼ間違いなかったからだ。
 しばし、食器の触れ合う音と、かすかな電子音だけが広い部屋の中には響いていた。かすかな電子音というのは、ディナーの会場に選ばれた部屋と防弾ガラス一枚で隔てられた先に並ぶモニターだのコンソールだのが立てる音だ。大部分のモニターに映るものは美しい夜のカリブ海の景色だが、よく見れば端の方のモニターには、制御センターのようなものを含む景色が映るものがある。ブロフェルドが選びだした他の五箇所の〈スペクター〉の基地、あるいはジェイムズ・ボンドの記憶に強く残る、思い出の地の景色だ。
「それで、ミスター・ブロフェルド。何だってあんたはこんな大掛かりな心中沙汰を企んだんだ?」
 全く脈絡もなく、ボンドが一挙に核心へと会話を進めた。だが、その言葉に驚くものはただ一人、唯一ジェイムズ・ボンドの思考様式を共有していないペティだけだ。残る三人には、すでにブロフェルドの目的は自明のものであったのだ。
「いや、大掛かりにした理由はわかる。そうしなければ、ジェイムズ・ボンドが動くに値する事件ではないと判断されるからな。〈スペクター〉の首領に取って代わることで僕を動かして、インターネット網を麻痺させることで余人の追跡を困難にし、オリジナルの僕が強く記憶に残した場所を選ぶことで僕だけが容易に追跡できるよう仕向けた。すべて、僕をおびき寄せるための必要最低限の状況だったわけだ。そこまでは分かる。それから、いま君が僕に望むことが、死んでほしいだけだ(you expect me to die)ということも分かる。それに、ペティにすぐ名と地位を譲ると言うからには、自らも死ぬつもりであることも。だが、その間がどうしてもわからない。どうして、僕が僕を巻き込んだ心中を図ろうとする?」
 ブロフェルドはソースで汚れた口を拭い、生徒が模範的な回答を口にしたかのように満足げな笑みを浮かべてみせた。どうやら、ボンドが述べた思考の過程と質問は、理想的なものであったらしい。
「完璧だ、ボンド君。全く、君たちは僕とほとんど同じように考える。その思考の同一性、能力の同一性こそが、君たちを僕とともに葬ろうとする理由なのだ」
 ブロフェルドが立ち上がり、大仰な仕草で手を広げてみせた。それは、強化ガラスの向こうに広がる管制室の様子、あるいはこの基地そのものを示す仕草であったようだ。
「僕は〈スペクター〉を手に入れ、その力を使っていま、世界の情報を寸断し、脅威を与えている。世界を手に入れた、と言ってもいいだろう。君たちには追跡のための糸を残したが、それ以外の誰もこの基地へと到達することも、攻撃を行うことも不可能だ」
 不意に、管制室のモニターに映る景色が切り替わった。モニターが映すのは、夜空に黒く浮かぶ幾何学の模様──おそらくは米軍の爆撃機とその護衛機の編隊だ。フェリックス・ライターたちと別れてからの時間を考えれば、米国が現状でも稼働できる機体をかき集めて攻撃に踏み切るだけの余裕は十分にあったはずだ。
 あの爆撃機たちが攻撃に成功したならば、ボンドも007も何をするまでもない。瓦礫の中に埋もれるはめにはなるが、少なくともブロフェルドも同じ運命を辿ることになる。だが、当のブロフェルドは一切動じる様子はなく、彼の部下たちが適切に処理を行うことを信じている様子だ。
 銃声が鳴り響いた。二丁のワルサーPPKから発射された銃弾が、管制室とディナー会場を隔てるガラスに向けて撃ち込まれたのだ。だが、銃弾はガラスの表面で弾かれ、傷一つつきはしない。その間にも、モニターの前に座る管制官たちは、あくまで落ち着いた様子で各々の職務を遂行している。そして、その結果は程なく、モニターの上に現れた。管制室を青い警告灯が照らし出し、カウントダウンの数が0になるとともにアラームが鳴り響き、夜空に浮かんだ黒い幾何学が、光点へと変貌したのだ。つまり、何十かの爆撃機と護衛機とが天空より降り注いだレーザー光線によって撃墜され、その中に乗り込んでいた数多くのパイロットたちがその瞬間に人生を終わらせた、ということだ。
「そう、これだけの力を、僕は手に入れることができた。おそらくはジェイムズ・ボンド、007、君たちにも可能だろう。あらゆる立場やしがらみを無いものと考えればね。そう、僕たちは、世界の脅威になりうる存在だ」
 何十もの命を奪いながら、ブロフェルドはあくまでその顔にはほほ笑みを浮かべ、表面上だけは友好的な態度を装っている。
「──だから、僕は死ぬ前に、世界から脅威を取り除いておくことにしたんだ」
 ブロフェルドの手が、芝居がかった調子で白いタキシードのボタンを外し、その下のシャツをはだけさせていった。その下にあったものは、年の割には驚くほど鍛え抜かれた肉体と、その肉体に絡みつくような二つの機械だった。機械から伸びるカテーテルや電線の一部は、喉元と胸部の皮膚を貫き、体内へと続いている。体外式のペースメーカーと、喉頭経由式の酸素吸入器だ。
 自らの体の状態を見せたブロフェルドは、清々しいまでの笑みを浮かべている。殺意とそれ以外の様々な感情とが入り混じって、悲壮さすら感じ取れる有様となっている007たちとは、全く対照的な様子だ。だが、自らの一つの行く末に、自らが脅威である、と言い切られては、誰であろうと同様の反応を示す他にないだろう。
「脅威を取り除く? これほどに強大な存在となった〈スペクター〉をそのまま人に譲り渡すというならば、それこそが脅威だろう」
 夜空に降る炎の雨を映し出すモニターを指し示しながら、ボンドが言った。だが、その言葉もブロフェルドにとっては予想の範疇から外れるものではなかったらしい。
「無論、このままとは言わないとも。夜空のダイヤモンドも、そこに指令を出す6つの基地も、この基地から指示を出せばすぐにでも破壊可能な状態だ。君たちがこの世から去り次第、すぐにでも処分させてもらおう」
 悠然と言い放ったブロフェルドの横で、ペティが信じがたい言葉を聞いたかのように目を見開き、よろめくように席を立った。だが、ブロフェルドもボンドも007も、誰もその動向に注目するものは居ない。
「──僕たちを殺したところで、MI6には歴代の007たちの記憶がデータとして保存されている。プロジェクトそのものが断念されない限りは、いずれ新たなジェイムズ・ボンドが生み出されるだろう。何があろうともジェイムズ・ボンドはきっと帰ってくる(JAMES BOND WILL RETURN)、そういうことになっているんだ」
 地の底から響くような007の声に、ブロフェルドははだけた服を直しながら軽い調子で左右に振ってみせた。
「ああ、勿論その程度は承知している。だけれど、もうそろそろ、MI6本部のサーバは破壊されているころじゃあないかな? そこで働いているスタッフの安否は知らないが──」
 ブロフェルドの言葉をさえぎる形で、銃声が鳴り響いた。ボンドの握るワルサーが狙う先は、無論ブロフェルドだ。けれど、ブロフェルドの体から血がほとばしることも、その体が床の上に倒れることもない。
「なんだ、また同じことを繰り返す気か?」
 銃弾はやはり、ブロフェルドの握るワルサーから撃ち出された銃弾と空中で衝突し、長いテーブルの真ん中に落下していく。
「いいや。そうでもないさ」
 返答したのは、ブロフェルドに銃口を向け続けているボンドではなく、何やら考え込んでいた様子の007だった。007もまた、銃を握り、引き金を引こうとしている。けれど、その銃口が向く先はブロフェルドではなく壁際に並ぶ調度品のうちの一つ、古い甲冑だ。
 銃声とともに銃弾が甲冑の表面を叩く音が連続して鳴り響き、ペティが悲鳴を上げて部屋の外へと逃げてゆく。金属に浅い角度でぶつかった銃弾が弾かれ、跳弾としてあちこちへと飛び散り始めたのだ。ブロフェルドも、流石に悲鳴を上げはしなかったものの頭上に向けて数度、銃弾を放った。直後、頭上からはきらめく光の塊が落下し、部屋の中央からガラスの破片を当たりに撒き散らす。ブロフェルドは、部屋を照らしていたシャンデリアの根本を狙って落下させたのだ。つまり、はじめてブロフェルドが007たちからの攻撃から身を隠そうとしたということになる。
「──なるほど、そういうことか!」
 ボンドはディナーテーブルに飛び乗り、シャンデリアの残骸の上を踏み越えて、ブロフェルドへ向けて距離を詰める。背後からは騒ぎを聞きつけた〈スペクター〉の兵隊たちが駆け込んできているが、007が数個の照明を狙い撃ち、頭上からガラスの破片を降らせてその行く手を阻んでいる。
「お前は、はじめに会ったときには女を膝の上に座らせていた。そうすれば、自然と狙うべき場所が限られ、射線を読みやすくなるからだ。今も、わざとペースメーカーと酸素吸入器を見せることでそこを狙わせた。お前は、完全にジェイムズ・ボンドの思考を読みきれるわけではない。それは、最も差異の少ない状態である引退したばかりのジェイムズ・ボンドと着任したばかりの007を出汁にした、欺瞞にすぎない」
 我も彼も間断なくワルサーPPKの引き金を引き、敵手を殺そうとする銃撃の中でのことだ。果たしてどれほどブロフェルドの耳にその言葉が届いているものかは分かったものではない。分かったものではないが、それでもボンドは脳裏にようやく生じた一つの解を、この状況を生み出したものに告げずには居られなかった。
「ブロフェルド、お前が僕を同じものだと言ったのが欺瞞だったように、今言った動機も欺瞞なのだろう。お前はただ、死にゆく自分を横目に、いまなお007が、ジェイムズ・ボンドが生きていることが許しがたいんだ。自己愛をこじらせて自分と他人の区別もつかなくなって、自らの死とともに同じ名と同じナンバーを持つ者も道連れにしようとしているだけだ」
 テーブルの端を蹴り、ボンドはブロフェルドに向けて直接飛びかかった。視界の端に赤色が弾けたのは、果たして自身の血であるのか敵の血であるのか。アドレナリンが一時的に痛みを麻痺させ、彼我の区別すらもつかなくさせている。耳元で銃声が鳴り響き続けているのは、互いに相手の手を掴んで銃口を自らから逸しつつ、自分の持つ銃だけは相手の額に向けようと力を込めるために銃弾が明後日の方向に撃ちこまれ続けている事によるものだ。
「死ぬならお前が死ね、お前一人で死ね、老人の自己憐憫のために世界だのなんだのを巻き込むんじゃあない」
 銃声が、カチカチと空を撃つ音へと変化した。二丁のワルサーPPKはほぼ同時に銃弾を撃ち尽くしたのだった。互いに組み合い、優位を得ようとしている状態でのことだ。マガジンの交換などしていられる状態ではない。ブロフェルドもボンドもすぐさま役割を無くした銃を手放し、空いた手をそのまま眼前の頸を締め上げ、鼻先を殴りつける武器に変える。
「──ひどい有様だ、これが、ジェイムズ・ボンドともあろうもの同士の対決か」
 とは、殴られた鼻から血を流しながらも、床の上に押さえつけたボンドの頸を締め上げるブロフェルドの言葉だ。なるほど、殴り合いといえば聞こえはいいが、互いに素手で相手を攻撃し、命を奪おうとするありさまは、現在起きていることを思えばあまりにも地味で陰惨なものだ。
 けれど、いままさに命のやり取りを交わしている当人たちにしてみれば、目の前の状況こそが全てでもある。銃弾のかすめた額から血を流し、更には頸を締め上げられていることで顔を赤く染めながらも、ボンドは口を開く。
「そもそもお前はもうジェイムズ・ボンドじゃあない、忘れたか? お前はブロフェルドだ、お前が自分で言ったんだ、お前は現役時代の栄光とスリルが忘れなくて闇社会に身を落とす、ありふれたスパイ崩れに過ぎない──」
 憎しみに歪む青い瞳が揺れた、と思った次の瞬間、老人の顔そのものが激しくぶれた。ボンドの拳がブロフェルドの顎へと入ったのだ。まともに衝撃が脳に伝わったのか、喉に食い込む指の力が弱まる。ボンドはすぐさま喉にかかっていた手を引き剥がし、馬乗りになっていた体を突き飛ばした。途端、うめき声が広い部屋に響き渡り、赤い血がボンドの全身に飛び散った。ブロフェルドの白いシャツと白いタキシードに血の染みが生じ、刻々と広がっていく。背中から、銃弾を受けたのだ。
「あ」
 と、呆けた声を上げたのは、ブロフェルドであったかボンドであったか。両者は全く同質の驚きを顔に浮かべ、その顔を見合わせたが、それもごくつかの間のことだった。すぐにブロフェルドの口からは血が溢れ、銃創を抑えながらその体はくずおれていったのだ。

9 JAMES BOND WILL RETURN

 床に血の染みを広げてゆく老人の身体を見つめるうちに、遠くなっていた喧騒だの銃声だのが再び周囲に戻り、ボンドは自身が巨大な状況の中のごく一部へと引き戻されてゆくのを感じた。同時に、全身が重くなり始めたのは、額の傷や締め上げられていた喉の痛みもようやく認識に追いつきはじめたことによるもののようだ。
「007、おい、まだ殺してしまっては──」
 ボンドは痛みを振り払うように首を振り、苦言を呈しようと部屋の入口を振り返った。てっきり、銃撃戦を繰り広げていた007が助け舟のつもりでブロフェルドを撃ったものと思ったのだ。だが、苦言をすべて言い切らないうちにボンドの視界には金色の残像が横切り、直後その軌跡を追うように銃弾が床の大理石を穿ってゆく。どこかの誰かが機銃を持ち出して、屋内でぶっ放しているらしい。
「ボンド、何やってるんだ、早くなにかの影へ! ブロフェルドは? クソ、勝手に死んでるのか、だいたいそいつのせいだってのに!」
 機銃のけたたましい音の合間に、007の声がボンドの耳に届いた。叫んでいる当人の姿は、すでに部屋の奥にある胸像の裏にある。つまり、今しがた横切ったものは007で、機銃はその後を追っていたものらしい。慌てて同じ胸像の影にボンドが転がり込んだ瞬間、その胸像の台座に無数の穴が開くとともに大理石が爆ぜた。
「こりゃあなんだ、何が起きた」
「ロココの時代の女傑がMG持って乗り込んできてるんだ」
「なんだそりゃあ、新手の符丁か」
「そのままの意味だ、見てみろよ」
 と、視界にガーターストッキングに包まれた黒く張りのある足がほとんど付け根まで大写しになり、ボンドは音を出さないまでも小さく口笛を吹くまねをした。007はいつの間にか長いドレスの裾を破って尻のあたりで縛り、随分と動きやすい格好になっていたのだった。ガーターストッキングには、先程差し込んでいたベレッタがそのままになっている。それを抜け、というのだろう。
「まだベレッタなんて使っていたのか」
 遠い昔、背後で倒れている老人がジェイムズ・ボンドの名を自分一人のものとしていた頃、当時のMから言われたのと同じ言葉を口にしながら、ボンドはベレッタを抜き取って007に差し出した。ボンドはワルサーPPKを使い慣れているが、ベレッタについては過去の記憶しかない。交換してくれ、との意図を察した007は手にしていたワルサーPPKを差し出し、無言のままに銃が交換され、流れるように胸像の後ろに向けて射撃が行われる。無論、機銃と小型拳銃二丁だ。到底真っ向で勝負できるようなものではないが、それでも威嚇の合間は敵の手が止まり、一瞬だけでも背後の様子をうかがう機会ができる。
「なるほど理解した」
 直後、ボンドが顔を出した場所に向けて機銃掃射が成され、大理石の胸像の一部が吹き飛ぶが、それよりボンドが顔を引っ込めるほうが早かった。そして、その一瞬は、彼がそこで起きていることを──一言で言うならばロココの時代の女傑が機関銃(MG)を持って乗り込んできている状況を理解するには十分な時間だった。
 そう、そこには間違いなく、ピンクを基調に、リボンとレースをふんだんにあしらったロココ調のドレスを着た女が居た。ロココ調のドレスを着た女が、周囲の〈スペクター〉の兵隊の死体を足蹴にしながら、カラシニコフ機関銃(PK)を腰に据えて狙いもろくにつけずに銃弾を撒き散らしているのである。更に言うならば、化粧も髪型もドレスに見合うものになっている。つまりは髪粉を振った髪はポンパドゥール夫人もかくやという形に結い上げ、白粉で真っ白になった顔にはディズニー映画の魔女をも思わせるような化粧を施しているということだ。
「夢に出そうだ」
「全く同感だ」
 との、007たちの軽口も全く仕方のないところだろう。
 だが、その軽口が耳に入ったのかどうか。軽口を叩いた瞬間、銃弾が胸像を揺らした。胸像そのものは銅か何かでできているが、台座は大理石製だ。あまりダメージが蓄積すれば、そのうち粉微塵になってもおかしくはない。
「そこの二人! 大人しく出てきな、そうしたらあんたたちの長老と一緒で苦しませず殺してやる!」
 けたたましい銃声と排莢音に混じり、女の声が二人に降伏──でもない何かを勧告する。
「いや、やっぱりある程度は苦しませないと気が収まらないね、ジェイムズ・ボンド、007ども! お上流階級さまの生まれだかなんだか知らないけども、人の趣味を鼻で笑いやがって! おまけに、そこの爺が死ぬまでのことだと思って色々と我慢してやってりゃあ、折角世界を支配するだけの設備を全部壊す予定だって!? 通るかよそんな都合のいい話が!」
 だんだんと削れていく胸像の台座の裏に身を寄せ合っているボンドと007は、顔を見合わせた。つまり、ロココの時代の女傑の正体は、キャスリーン・ペタヴァルであったのだ。たしかに、あの衣装部屋の持ち主のことを考えればペティ以外にその正体が存在するはずがないが、何しろあまりにギャップが大きすぎる。
「あー……ペティ! その、よければ話し合おうじゃないか。おそらく、君の激昂の大部分はそこに転がってるブロフェルドの奴が原因であって──」
 胸元のチーフを白旗代わりに胸像の影から突き出して、ボンドが持ちかけた対話の試みは、チーフに空いた無数の風穴という形で終わりを告げた。
「お前らもそこの爺と同じ人格なんだ、同罪に決まってるだろうがよ! だいたい、ブロフェルドは私の名前だ! そこに転がってる爺が言ったんだ、ブロフェルドの名は私に譲るって。爺さんはもう死んだ、なら私がブロフェルド、〈スペクター〉の女王だ!」
 銃声と、ブロフェルドの名を奪取せしめるに至った女の怒声に混じり、びしり、と何かがひび割れるような音が鳴った。どうやら、大理石の台座は限界が近いらしい。ボンドと007は、あたりへと視線を走らせた。そして、ほぼ同時に、壁に設置された一つのパネルを発見した。それが何か、など考えている暇はない。再びボンドが胸像の後ろに向けて狙いもつけずに銃弾を放ち、わずかに生まれた間隙を狙い、007がパネルへと走ってその表面についたボタンを闇雲に押していく。残った照明が明滅し、クラシック音楽の一部が流れては消える中、モーターの作動する音とともに、部屋の壁が──いや、部屋の中央で、隣り合う管制室との間を仕切っていた強化ガラスが、ゆっくりと持ち上がり始める。
「ちょこまかと、虫のように逃げ回るやつめ!」
 ペティはすぐさま007の方へとカラシニコフ機関銃を向け、引き金を引いた。だが、何しろ全長およそ1・17メートル、重量は9キロに及ぶ重い銃だ。それも脇に銃身をはさみ、腰で支える形で撃っているとなれば、狙いなどはあってないようなものだ。それでも、機銃であるのだから辺りを掃射さえできていればいずれは標的に当たったはずであったが──
「クソ、弾切れかよ! 肝心なときに!」
 あれだけ盛大に、成人二人が隠れられるほどの大理石の塊にヒビを入れるほど銃弾を撃ち続けていれば当たり前のことではあるが、機銃の弾はその時まさに、丁度弾切れを起こしたのだった。ペティはすぐさま重い銃を投げ捨て、近くで死んでいる──というか実は彼女が部屋に乗り込んできた際に007やブロフェルドを狙うついでに機銃でなぎ倒されたのだが──〈スペクター〉の兵隊から自動小銃を剥ぎ取り、再度007を狙おうとする。だが、その時点ではすでに防弾ガラスは半ばまで開き、007はおろかボンドすらもその向こうへと滑り込んでいた。
 AK‐74を握ったまま、ペティも防弾ガラスをくぐり、管制室へと駆け込んでゆく。すでに隣室での騒ぎを見た管制官たちは半分以上退避済だったが、中には逃げ遅れたり、義務感から残っているものも見受けられる。いずれの理由にせよ、ともかくその場に残っていた者たちは、実に不幸であったと言えるだろう。なぜならば、先に滑り込んできたボンドと007には
「全基地に向けて自爆コードを入力しろ、設定されているはずだ!」
 と銃を向けられ、その後から駆け込んできたペティには、
「そいつらのいうことを聞くんじゃない、管制下にある衛星へ地上目標物への破壊命令を!」
 とやはり銃を突きつけられる羽目になっているのだ。冷静沈着な管制官たちも、コンソールを背に両手を上げて右往左往する他にはなくなっている。
「め、命令は、ブロフェルドさまからのものしか──」
 裏返った声を上げた管制官の額に風穴が開き、後頭部が爆ぜた。火を吹いたのは、ペティの握ったAKだ。ためらいなく曲がりなりにも部下を射殺したペティの目は、真っ青なアイシャドウの下で、完全に据わっている。
「馬鹿か、いま、隣で何が起きていたか見なかったのかい! あたしが、ブロフェルドだ! そこで死んでる爺さんもその前のブロフェルドを殺して首領の座に収まったんだ、あたしが同じやり方でその座をもらって何が悪い! もういい、お前たちはそこで盾になっていろ、逃げたら後で鮫の餌にしてやる!」
 倒れようとする死体ごと管制官たちを銃口とクリノリン入のドレスで押しのけて、ペティはコンソールへと手を伸ばした。おおよその機能は承知していたものだろう。ペティの手が数個のボタンを押し、レバーを引き上げると、モニターに映る景色がカリブ近郊の夜空から切り替わるとともに、青い警告灯が管制室を照らし出す。先程、管制官たちがモニターに映る米空軍の爆撃部隊を撃墜したときと同じ挙動だ。だが、唯一違うのは、モニターに次々映っては切り替わってゆくのが世界中の都市を上空から見おろした景色であるという点だ。ひと目で見て取れただけでも、ワシントンDC、パリ、ベルリン、北京、トロント、シドニー、モスクワ、東京──そして、ロンドン。ロンドンを映す画面の中央にあるのは、見間違いようもない、バッキンガム宮殿だ。
 ペティとの間を隔てる管制官を引き倒し、あるいはその額に向けて銃弾を叩き込んでいるのがもはやボンド自身であるのか007であるのかも定かではなかった。
 死体か死体になりかけている身体を踏み越えて、ようやく女王陛下の秘密諜報員(On her majesty's secret service)たる007たちはペティへと銃を突きつけた。だが、同時にペティも肩に担いでいたAKをボンドに向けている。一見するに、二対一でどちらか片方が死んでももう片方がペティを殺しさえすればいい007とボンドのほうがよほど有利であるかに見えるが、実際はそうではない。
「ペティ、考えてみろ! 世界中の都市が機能を停止なんてしたら、お前が支配する世界そのものが消えてなくなるのと同じことだ、攻撃を停止しろ!」
 ワルサーPPKをペティの眉間に突きつけて、ボンドが叫んだ。そう、ボンドたちの目的は、レーザー兵器を搭載した衛星の攻撃を止めることである。が、彼らは無論、その方法を承知していない。となれば、ペティを脅して停止させるほかに手は残されていないのだ。
 だが、ペティは陶然とした表情を浮かべて、余裕たっぷりに言い放った。
「もう遅い。あたしは、レーザー兵器の起動のやり方は知っているけれど停止のさせ方は知らない。知っていたのはあの爺さんだろうけれど──」
 青い警告灯があたりを照らし、血の臭いの充満する中、ボンドは自身の血の気が引くのを感じた。足元では、007がまだ息のある管制官の襟首を掴んで引き起こし、攻撃を停止させる方法を詰問している。だが、どの管制官も声を震わせて、ボスしかその方法は知らない、と言うばかりだ。済まない、申し訳ない、と謝罪の言葉すらも添えるその態度に嘘は見受けられない。
 コンソールから、電子音声で攻撃三十秒前が告知された。
「あはは、いい気味だ、ジェイムズ・ボンド。薄汚いスパイくずれが、ちょっとイキがって世界を手に入れてみた結果がこれだ。順当にいけば私が前のブロフェルドをぶっ殺してボスの座を手に入れてたってのに、お前が妙なタイミングで現れて余計なことをするからこんな事になったんだ」
 目の前にいるボンドと言うよりも、ペティはブロフェルド、否、オリジナルの007、ジェイムズ・ボンドに向けて語りかけているようだ。彼女の認識の上では、ジェイムズ・ボンド・オリジナルと彼女に銃を向けているボンドとコンソールに向かって打開策を探している007は、完全に同じものとして分類されているらしい。
「だいたい何だよお前のその、俺は間違いなくモテモテで女に声かければ間違いなくイチコロだぜみたいな自信に満ち溢れた態度は、んなわけねえだろこっちは打算アリで付き合ってやってんのになんでこっちがお前に惚れてる前提でウィットに飛んだ小洒落た会話をしようとしてんだよあとたまにあたしのことマネーペニーって呼び間違えるのあれ普通に殺意沸くからな」
 途中から、ペティが早口で述べる文句の内容はほぼ100%、ボンド・オリジナルに向けてのものになっている。が、なにしろ人格と嗜好と言動についてはおよそ同じもので、共通する記憶すら持っている存在についての文句である。残り十五秒のカウントがなされる中、起きている出来事の重大さとは全く関係ない胸の痛みすら発生し始めて、ボンドは宙を仰いだ。残り十秒のカウントとともに007が頭を抱えたのも、似たような原因によるものだろう。
 十秒から数え下ろされた数が八になったところで、ボンドはもはやどうしようもなく、あらゆる意味でそもそもの原因であるオリジナルにせめて恨み言でも言ってやるかと、ディナー会場を振り返った。その目が、信じがたいものを見たように見開かれたのは、カウントが六を数えているときのことだった。
「死体が、」
 五。
「どうしたジェイムズ・ボンド、」
 四。
「消えてるんだ」
 三。
「よそ見をして──え?」
 電子音声が二を数えるのと、ペティが同じくボンド・オリジナルの死体が倒れているはずの場所を見るのと、スピーカーからマイクの雑音が流れるのとは同時で、
『The world is enough』
 との声が雑音に混じりスピーカーから流れるのと、一という音声が途中で止まるのと、青いランプが消えるのを007が天を仰ぐかのように眺めていたのとはほぼ同時のことだった。
『キーワードを確認。攻撃を停止、および衛星管制機能を自己破壊します』
 電子音声が簡潔に実行された動作を告げるとともに、コンソールのモニターが、攻撃目標地点の映像から、カリブ海の映像へと変わっていく。ただ一言のキーワードで、攻撃はあっさりと中止されたのだ。それも、そのキーワードはよりによって、ボンド家に伝わる家訓、『世界を手に入れてもまだ足りない(The world is not enough)』をただ一言省略しただけのものと来ている。──いや、家訓ではなく、先祖の紋章に記された言葉だったか? どうも、ジェイムズ・ボンド自身のルーツについてはとくに記憶が混濁する傾向にあり、いま冷や汗を拭っているボンドには正確に思い出せないところがあった。
「──そんなことよりも──」
 と、言って振り返ったのは、ボンドではなく007だった。どうやらあちらも、似たようなことを考えていたようだ。
「今のは、いったい」
 そう、今キーワードを口にしたのは、一体誰であったのか? いや、誰か、などこの場合一人しかありえないし、その言葉を口にしたというのは即死したというのが誤認であったと言うだけのことなのだが──
「007! 何のつもりだ、ふざけるんじゃないよ!」
 ペティが化粧をひび割れさせるほどの形相で絶叫した。007とはこの場合、彼女の直ぐ側にいる黒い肌のボンドでも、金髪のボンドでもなく、彼らのオリジナルたる存在、いままさに崩れかけたウェリントン公の胸像の横でパネルに仕込まれたマイクに向けて声を発したばかりのジェイムズ・ボンドにほかならない。
 赤い血に塗れたタキシードごしに腹を抑え、壁に背を預けて足元に血溜まりを作りながらも、ジェイムズ・ボンドは皺の刻まれた頬に、皮肉げな笑みを浮かべてみせた。
「──バッキンガムはまずい。昔、その中におられる方に少しばかり忠誠を誓ったものでね」
 いつもどおり、ジェイムズ・ボンドらしい迂遠な言い回しでなされた返答はペティの神経を逆なでして余りあるものだったらしい。白く塗りたくられた化粧が割れて落ちるのも構わず憎しみに歪んだ顔は、しかし、直後なにやら昏い笑顔へと変貌した。なにか、新たな事実に気がついたらしい。
「ここ以外の基地にも、衛星への管制機能はある。いますぐお前たちを殺せば、もう誰も破壊命令を止めるものはない!」
 床へと銃口を向けていたAKを構え直して、ペティは壁にもたれかかるジェイムズ・ボンドに向けて引き金を引いた。けれど、単発で放たれる銃弾はなかなか目標に当たることはなく、いたずらに周囲の壁だの高そうな皿だのを割るばかりだ。ボンドと007は、すぐにペティに銃口を向けようとした。もう彼女を生かしておく意味は残っていない。ならば、あとは殺しの番号(007)を背負うに足るだけの仕事をするだけだ。
 けれど、ベレッタもワルサーも、銃弾を吐き出すことはなかった。彼らの祖たるジェイムズ・ボンドが首を振り、その行動を制したからだ。
「──ペティ。この距離じゃあ、君の腕では当たりっこない。もっと近づくといい」
 代わりに、ジェイムズ・ボンドはペティを煽るように言った。酷く苦しげに呼吸をして、壁に背を預けていても経っているのがやっとの姿は、放っておくだけで死にそうに見える。だが、ペティはわざわざ彼女の元ボスを殺しに行くことを選択したようだった。
 巨大なスカートを翻し、ヒールの音を響かせながら近づいてくる女を、ジェイムズ・ボンドは薄笑みを浮かべて見やっている。その笑みが一体いかなる感情に基づくものか、同等の思考、同質の価値判断を下すことのできるボンドにも007にも、推し量ることはできなかった。確かなのは、
「言われたとおり、間違いなく当たるところまで来てやったんだ、さっさと死ね」
 と、ペティがAKの銃口を直接ジェイムズ・ボンドの胸に当てた瞬間、ボンドは手に握っていた腕時計を宙へと放り投げ、放り投げられた腕時計は小さな爆発を起こしたということだ。
 爆薬を仕込んだ腕時計。あまりにもありふれた、そして、懐かしい発明品だ。いまのQ課の長は、おそらく作りたがらない種類の道具でもある。それを、おそらくジェイムズ・ボンドは〈スペクター〉の技術部かなにかにでも命じて作らせていたのだろう。
 小さな爆発は、少量のガラスと金属片を撒き散らすとともに、崩れかけていたウェリントン公の胸像を倒壊させるという結果をもたらしていた。そして、偶然であるのか狙ったものか、重く巨大な金属の塊はすぐ横に立っていたペティの上に落下し、その体を床につなぎとめる事ともなっていたのだ。即死ではない。が、背中に乗った重量のために声すらも上げられない有様を見ると、結果は似たようなものだろう。
「──悪いな、これが限度だ」
 掠れた声が、ボンドの耳に届いた。ジェイムズ・ボンドが、はるかな後輩に向けて語りかけている。その体はもはや壁伝いにも立っていられないらしく、白い壁に赤い血を擦り付けながらずるずると座り込んでいく。
「あと五箇所、システム破壊のキーワードは同じだ。すまないが、君達が──」
 衛星に命令を下しうる残りの基地の破壊を、ジェイムズ・ボンドは後輩に託したかったようだ。溢れ出る血とごぼごぼという音に紛れる言葉に金髪のボンドがうなずいてみせ、コンソールの方を振り返った、その時のことだ。
『──────』
 電子音が鳴り、操作板の上の幾つかのランプが点灯するとともに、雑音がスピーカーから断続的に流れ出した。それまでもコンソールに向かっていた007が点灯したランプの下のスイッチを押すと、モニターが切り替わり、似たような管制室の映像が映し出される。それも一つだけではなく複数、中には管制室が炎に包まれていたり、あるいは未だ銃撃戦のさなかだったりカメラに大写しになった人物がそのまま額を撃ち抜かれて死んだりしている場所もある。
『あー、もしもし、クラブ・キー、聞こえるか? こちらはイスタンブールだが』
 額を撃ち抜かれた死体がワルサーP99の銃身で画面から雑に押し出されたあと、代わって映し出された人物が、カメラのこちらに向かって話しかけた。
『なんだ、その様子だとそっちも制圧が終わってるようだな、まだだったらこっちから衛星で破壊してやろうかと思ったのに』
 イスタンブールの基地から通信を入れた男は、残念そうに眉根を寄せたあと、その甘いマスクにいたずらっぽい笑みを浮かべてみせた。その顔はやや記憶よりも老けてはいたが、この上なく見覚えのある顔でもあった。
『なんだ、トルコとジャマイカはもう終わってるのか、こっちは元ゴールドフィンガー邸だが、どうにかこうにか管制室に立てこもってるところだ、すまん話している暇がない』
 と、銃声と喧騒をBGMに通信を入れてきた男が置かれた状況は、完全に本人が述べたとおりであるらしい。現状を伝えると通信設備からすぐに離れ、ドアの向こうに向けて手榴弾を投げに走っていった。ほとんどぶれていたが、やはりこちらもその顔に見覚えはあった。
『こちらシンモエダケ、そうか、衛星を使う手があったのか、こっちはもう基地の武器庫ごと関連設備を破壊してしまったぞ、惜しいことをした。Mの家の庭でも燃やしておけばよかったな』
 対して日本からの通信は爆炎を背景にしたもので、言っていることが真実ならばこちらこそ全く悠長に話をしている場合ではなさそうな様子である。が、通信を入れてきた男──画面に映る中では最も年長で、見たところオリジナルのジェイムズ・ボンドよりもさらに年上のようだ──は、どこから手に入れたものかボトルから注いだバーボンを傾けさえしている。
『ナッソーだ。こちらももう一通り終わっているが、別の基地への支援は他のところで頼む。前任者が関わってるというから尻ぬぐいに来ただけで、早いところ帰りたいんだ。というか帰る。あとは現役連中でどうにかしろ』
 バハマの基地から連絡を入れた男は他に比べると随分とやる気がなさそうな様子で、最後の言葉を言い終わると本当にカメラに背を向けて歩いていった。本当に今から帰るつもりなのだろう。が、それでもきっちりやることはやったと見え、画面の端にはきっちり拘束されて猿轡を噛まされ一列に並んだ基地のスタッフが映り込んでいる。
 もちろん過ぎた年月のぶん老けているとはいえ、モニターに映るのは、間違いなく見覚えある顔ばかりだった。暗闇に光るモニターを前に、ボンドはただただ顎が落ちるのではないかというほどに口を開け、目を見開く他にどうしようもない。何しろ、そこにある顔はすべて、かつて一度は「ジェイムズ・ボンド」を名乗り、007の番号を背負って活動をしたことのある者たち──つまりはここにいる金髪のボンドや黒い肌の007のはるかな先達ばかりなのだ。
「協力ありがとう、先輩がた」
 ただただ驚愕するばかりのボンドに対し、007は落ち着いた様子で、というかはじめからすべて分かっていた顔で、画面の向こうに笑いかけた。そういえば、007は途中からずっとコンソールの操作を行い続けていた。つまりは、はじめから他の基地には引退したボンドたちが向かっていることを承知して呼びかけようとしていた、と言うことなのか。そういえば、フロリダで007は〈スペクター〉の基地について「全ボンド」に聞いたと言っていたか。飛行機を奪取してフロリダに向かうまでの間、完全に行動をともにしていたわけではないことを思えば、その隙に連絡を取っていたとしても何ら不思議ではない。
 いや、考えてみれば順当な話ではある。ジェイムズ・ボンドはおおよそ同じように考え、同じように判断を下す。そして、彼らの祖たる存在は生きたまま死を偽装していた。ならば、他のボンドも同様に逃げおおせていたとしても全く不思議ではないのだ。だが、その理由は? それこそ、考えるまでもない。いま、ここに居る金髪のボンド自身が、肉体的精神的な限界を感じて半ば勝手にMI6を離れる形で引退を果たしたのではなかったか。それが正式な退職として受け入れられているのは、端的に残るスタッフがうまく処理してくれた事によるものだ。そうでなければ、記録に残らない形での失踪、事実上の死と同義の状態で処理されていた事は間違いない。ボンドは短い金髪に指を掻きいれ、首を振った。
「勿論あとの始末はMI6が行わせてもらう……と言いたいところだが、カリフォルニア、そっちはどうなってる?」
 と、007がカリフォルニア沖の基地へと呼びかけたのを聞いて、ボンドは首を傾げた。現状007は全部で七人、そのうちの三人はこのクラブキーにいるのだから、残る元ボンドは四人ということになる。が、残っている〈スペクター〉の基地は五つ、ジェイムズ・ボンドが一人に付き一つの基地を壊滅させる──という前提がかなりおかしいが──となると、基地が一つ余ってくる計算になる。
 けれど、カリフォルニアの基地とも確かに通信がつながっており、その向こうには無数の人影がうごめいている。どうやら、油田施設に偽装した基地だけには複数人が向かったものらしい。
『あー、OKOK、こっちも制圧っていうか無力化はできてるわよ、ただちょっとややこしいことになってるだけで』
 応答したのは、おそらくはかなりの高齢の女と思われる人物だった。思われる、というのは、女の顔にはガスマスクが装着されており、声だけで判断をする必要があったためだ。どうやら何らかのガスを撒いて対処したものらしいが、妙なのは背後から絶え間なく笑い声が響き渡っている点だ。一体何があったのか──との答えは、程なくガスマスクでくぐもった声が答えてくれた。
『面倒だから笑気ガスを撒いたんだけどね、用意しといたガスマスクが古かったみたいで。こっちも私以外全滅よ。でもまあ無力化は出来てるし米軍とか傭兵部隊もそのうち到着するから心配しないで』
「そりゃ楽しそうな事になってるな。装備まで手が回らなくて申し訳ない」
『いいのいいの、何十年ぶりに007やれてみんな楽しんでるわよ、みんな普通じゃ00ナンバーなんて名乗れないような木っ端スパイだったもの』
 つまりは、後ろでフィルターの腐ったガスマスクを被ったまま笑い転げている面々を含め、全員が一度は007のナンバーを名乗ったことのある人物、であるらしい。
「直接的には僕らとは関係ないんだが、どうやら、何かの案件に対処するために一時的にMI6職員が全員もれなく007のナンバーとジェイムズ・ボンドを名乗ったことがあったようでね。存命のものを見つけ出すのに一番骨が折れた」
 ボンドが首をひねっていると、007が簡単にカリフォルニアの面々についての説明をしてくれた。なるほど、男女混合でやたら大量に居るのはそういうわけであったらしい。
 そうしている間にも、めいめいの場所ではめいめいに事が進んでいる。イスタンブールの元ボンドはしっかり美女と熱烈なキスを交わしていたし、元ゴールドフィンガー邸に作られた基地にはいつの間にか老若のフェリックス・ライターが特殊部隊とともに乗り込んで追い詰められていた元ボンドと感動的な再会を果たし、本格的に爆発が始まった日本の基地からは残されていたロケット打ち上げ設備を使って元ボンドが脱出を図って、ナッソーでは踏み込んできた現地の軍警察に〈スペクター〉構成員たちが捕縛されている、と言った具合だ。カリフォルニアはやはり少々特殊で、先程元007のひとりが言ったとおり米軍と傭兵部隊が乗り込んできたものの、対ガス装備を身に着けていなかったせいでこれも全員笑気ガスにやられてなかなか壮絶なことになっているが、まあどうにかはなるだろう。
 ──と、一瞬でも気を抜いたのが悪かったのか。不意に視界が赤く染まった。何か、と思う暇もなく、床下からは爆発音と振動が、スピーカーからはけたたましい警告音が鳴り響き始め、否が応でも非常事態が発生していることを伝え始めた。加えて、
「あ、すまない。言い忘れていたが、さっきのキーワードは基地そのものの自爆コードでもある」
 などと、ジェイムズ・ボンド・オリジナルからとてつもなく重要な証言がなされるに至り、管制室内で生き残っていた者たちは取るものも取らず、即座に駆け出した。
「なんだあの爺さん死ななさすぎだろう、死にかけじゃなかったのか!?」
「あとから瓦礫を捜索してみたら死体が残っていなかった、とかありそうで嫌だな!」
 警告灯とサイレンと爆音とが鳴り響く廊下を、追いすがる爆炎をすんでのところで躱しながらボンドと007と、ついでに生き残りの〈スペクター〉の構成員たちは駆け抜け続けた。そして、断崖に面した窓からカリブの海へ向けて二人が跳躍したその瞬間、クラブ・キーにまたもや作られた悪党の牙城は爆発炎上し、島に広がるジャングルと四方を囲む海に向け、炎と瓦礫を撒き散らすこととなったのだった。
 暗い水中から再び海面に浮き上がったボンドは、燃え盛るクラブ・キーをみやり、続いてあたりを見回した。所々で同様に水面に浮かんでいるのは、〈スペクター〉の構成員の姿だ。では、007は。と、ぐるりと体の向きを変えたところで、背後からブクブクという音と水音が湧き上がった。
「007、無事か。よかった」
「当たり前だろう。ジェイムズ・ボンドは帰ってくるものさ」
「ああ、そうだったな。だがあれは帰ってきすぎだ」
「総勢七名、臨時雇いも含めれば二十は超えるか。どう呼び分けるかも想像がつかないな」
 話しながら二人は近くの岩礁に泳ぎつき、這い上がった。体にまとわりついたからなのか、007はドレスを脱ぎ去っていて下着姿になっている。上着はすでにボンドも水中で捨てた上でのことだ。脱いだシャツを絞って提供したところで、二人の視線がふとかち合った。外観だけ見れば、ロマンチックといえないでもない図である。だが、数秒の間ガソリンと潮の臭いの風に混じって二人の間に漂ったのは、なんともいい難い種類の空気だった。
「いつもの調子でいくならば、ここでキスをして相手をものにするところだが」
 とは苦笑交じりの007の言葉で、
「さっきの今ではちょっと、いくらなんでも体力が持たないな。だいたい、この場所を専有もできそうにない」
 と、周囲を示したのは、ボンドだった。なるほど、海に逃れた〈スペクター〉の構成員たちは、泳げるものや体力のあるものはクラブ・キーの浜を目指しているが、そうでないものは007たちが座る岩礁を目指し、早いものではすでに岩によじ登り始めている。
 やがて、クラブ・キーの炎も収まり、カリブの海に美しい朝焼けが照りはじめるころ、上空を数機のヘリコプターが飛び交い始めた。すでに夜のうちに異変を察知していたらしい沿岸の警察が様子を見に来たものだ。岩礁や浜辺で夜を明かした〈スペクター〉の残党たちはもはや恥も外聞も捨てて警察のヘリに向けて手を振り、砂にSOSの文字を書いて救助を求めたが、その中にボンドと007の姿はなかった。夜のうちに何らかの方法でジャマイカ沿岸にたどり着いたわけではない。彼らはまだ岩礁の上にとどまっていて、救助も必要とする状態であったのだが、なにしろ拷問から銃撃戦を経て、爆破炎上する建物からの脱出までこなしたあとでのことである。岩の上に並んで寝そべった二人は全く完全に眠っていて、上空を行き交うヘリの音ですら覚醒を促すことが出来なかったのだった。

10 最悪の事態(あるいは大団円)

 暗い部屋に、サーバだのコンピュータだのの稼働音と、タイピングの音が満ちている。
 キーボードを叩いているのは、英海軍某基地内に設置された「仮設Q課」の主である青年、Qだ。暗いサーバールームの中、一台のサーバに背を預けてモニターと向かい合った青年の眼鏡は、液晶のライトを反射して青く光っている。
「ジェイムズ・ボンドというのは、一つの虚構である」
 と、Qはいま打ち込んでいる報告書のなかの一節を口にした。それとともに、彼がもたれかかるサーバが立てる稼働音が大きくなった気がしたのは、気のせいであったかどうか。
「これは、なにも比喩的な意味ではない。本当に、言葉通りの意味だ」
 彼の背後で音を立て、熱を発し続けるサーバは、破壊されたMI6本部から華麗に盗みさられ、そしてその後すぐに、数体の〈スペクター〉の構成員の死体とともに帰ってきたものだ。その中に収められたデータは、本来的には通常の方法では読み取ることができない。それは、人の脳に電気信号で書き込むことによってのみ再生されうるもの──人の記憶であるからだ。だが、サーバにつないだPCモニタ上には、そのデータを元に生成された画像が映し出されている。それは、データの内容ではなく、データの「形」を仮想的に3Dモデルに起こしたものだ。
 3Dモデルは、一つの大きな樹に似ている。全体として一本にまとまった形であり、断絶している箇所がないのは驚くべきことだ、とは、件の計画に携わる技師が言ったことであった。
「元来Impossible Tecnorogyの名で呼ばれた技術は、外部刺激による脳内電気信号パターンの書き換え──すなわち洗脳を目的に開発が進められたものである。冷戦時代、人的諜報活動(ヒューミント)を行うにあたり、現地で協力者を作り出す困難性と危険性を克服するものとして期待されたこの技術は、しかし多大な不可能性(Impossible)を孕んでいた。単純に外部刺激だけでは脳の機能を阻害するだけに終わり、端的に言えば廃人を作り出すことにしかならなかったためだ」
 I.T.O.プロジェクトの古い実験記録を読んだときの記憶がQの脳裏をかすめ、眼鏡の奥の彼の目を苦しげに細めさせた。だが、それは僅かな時間のことであり、すぐにQ課課長は報告書の作成を再開する。
「──計画の目的に合致した成果を出すには、『上書き』が必須である。実験記録第■■号では、そのように結論付けられている。すなわち、他者の脳の電気信号パターンを洗脳対象に流し込み、上書きを行うことではじめて、文字通りの「洗脳」が可能となったのだ。ただし、この方法には巨大な実験設備と洗脳対象者の協力が必須であり、この時点で同技術を諜報の最前線で使う芽はなくなり、Impossible Tecnorogyはそのまま文字通り不可能であったものとしてお蔵入りをする「はずだった」」
 Qはふと手を止め、背後で稼働し続けるサーバの表面に手の甲を当てた。しっかりと冷却はしているが、それでも表面には内部から発せられる熱が伝わって、丁度人の体温ほどに感ぜられる。ただのデータを保持するための機械であるにも関わらず、それが生き物であるかのような錯覚にとらわれて、青年は目を閉じて首を左右に振った。
「だが、プロジェクトに関与していたF中佐により、同技術は予想外の延命を受ける。MI5所属のF海軍中佐のもとで、同技術はエージェントに最適な人格を人工的に作り出す技術へと転用されることとなったのだ」
 サーバの横には、数冊の古いファイルが無造作に積み上がっている。その中を改めれば、F中佐の構想と、それが実現に至るまでの経緯を読むことも出来るだろう。Pというひとりのエージェントをベースに、無数の人格、無数の記憶が切り貼りされて作り上げられた、スパイのキメラ。それがジェイムズ・ボンドという人格の正体だ。
「彼らには、現実に存在する起源(オリジン)はない。オリジナルと思われていた007‐№1ですらも、F中佐に創造された人格・記憶に基づいて作り上げられた存在である。過去の記憶や来歴の認識で、個体により差異が生まれるのもこのためであろう。したがって──」
 したがって、の後に続く言葉を見出すことができず、Qはキーボードを叩く手を止めた。背後のサーバが立てるカリカリという音と、冷房の音が耳につく。したがって、007‐№1に起きた異変はあくまで長期間にわたり彼の脳、彼の肉体のみに蓄積された経験に基づく行動であると考えられ、他の個体にも同様の変異が発生することは考えづらい。ゆえに、プロジェクトは継続されてしかるべきである。やや強引だが、その辺りが落とし所であるとは思う。だが、本当にそれは継続されるべきであるのか? 一人の超人的なエージェントを作り上げて、国家に隷属させ続けることなど、倫理の面を捨て置いたとしても今やどれほどの価値があるというのか。
 結論部のない報告書を保存し、相談のメッセージに添付してMに送付しようとしたところで、Qはそれが不可能であったことを思い出した。ネット回線が使用不能になったMI6は、なんとも恐ろしいことにあらゆる報告は紙媒体でやり取りされる時代に巻き戻っているのだ。せめて記録メディアを使わせてほしいものだが、情報漏えいリスクが高まるだかなんだかの理由で却下されており、Qはサーバールームから出て未完の報告書を印刷し、Mの部屋へ向かうという野蛮な行為に手を染める他なかったのである。
 そうして、仮設MI6本部内に設けられたMの執務室へと続く秘書室にQが入室を試みたときには、その部屋の人口密度は目視による概算でおよそ五百パーセントを超えていた。つまりは、廊下にまで決済だの許可だのを求める職員が溢れかえり、到底入室が可能ではなかった、ということだ。だが、その場に集った他の者たちと同じく、Qもわざわざここまできたからには自身の抱える案件こそが最も重要かつ緊急性の高いものと信じている。故に、人嫌いである彼にしては実に驚くべきことに、Qは人混みをかき分け、部屋の中にいるMの秘書に向けて声をかけるという偉業を達成したのだった。
「ミズ・マネーペニー! どうしたんですこれは」
 秘書室の主は、部屋の奥で他の職員たちと同じくその奥の部屋──つまりは、Mの執務室の戸を叩き、Mに声をかけているところだった。いつもならばマネーペニーはMのデスクと直通のマイクでやりとりをするところだが、なにしろ海軍基地に間借りをしている状況では直接声をかけるほかない──にしても、少々状況は大仰である。なにしろ、マネーペニーはタブレット端末を片手にMの執務室の戸を乱暴にたたき、
「いい加減に対応をしてください、首相から直接問い合わせが入っているんです! ニュースの件でMと話をしたいと!」
 と、声を上げているのだ。
 Qは、秘書室の壁に設置された数台のモニターへと目をやった。そこには現在放送中のニュース番組が映し出されており、どの局もIoT機器とインターネット網のダウン以来嫌でも見慣れることとなったL字の画面の中央部で、おなじ一つの映像を流している。それは、はるか上空から降下してくるひとつのカプセルと、そのカプセルにつながった巨大なパラシュートの映像だ。何より目を引くのは、パラシュートに、一体どういうわけかユニオンジャックが鮮やかに染め抜かれている点だ。
『──カプセルは日本の新燃岳より発射されたロケットの先端部と見られ──』
『──火山の噴火、あるいは地下での爆発の後にインターネット回線が漸次復旧をはじめていることから一連の事象との関連を──』
『──日本国政府からは、全く政府の関与するところではなく、現在起きている事象についてはすべて調査中である旨──』
『──一体何故英国旗であるのか──』
 各局のアナウンサーが伝える内容を聞き留めながら、Qは、全てを理解した。これがおそらくは同時に発生した同種の事象のごく一部に過ぎないことも、それを為したのは誰であるかも、そしてMが何もかもを放棄して引きこもっている原因も。
 Qは自らのスマートフォンを取り出して、そこに大量の通知があることを確認してポケットに戻した。どうやら、〈スペクター〉の起こしていた通信網の妨害も終わりを告げているらしい。ならば、報告も相談もあとからネット経由で行えばいい。いや。今ならば報告書をきっちり結論部まで書けそうな気分ですらあった。
 ともかく、Qは熱気の漂う秘書室から脱出し、自らの領域へと戻ることに決めた。執務室の中ではMが、彼にとって考えうる最悪の事態に直面していることだろう。だが、それも彼が背負った責務というものだ。少なくともその悩みは、兵器開発課の長たるQの領分ではない。
 現在までに生み出された007=ジェイムズ・ボンドは総勢七名。Qの知るふたり以前の007は全員が生死不明で、恐らくは任務の最中に命を落としたとされていた。が、今代のMはどうも、就任以来それが怪しいと踏んでいたらしい。そして、その懸念は、あの破壊されたMI6ビルの前に現れた007のひとりが彼らに伝えた報告書を──ジェイムズ・ボンドの名で書かれた二件の事件報告を前にしたときに確信へと代わった、とMは言ったものだった。
 つまりは現在、総勢七人、例の計画に拠らずに007とジェイムズ・ボンドを名乗っただけのものも含めればもっとたくさんのジェイムズ・ボンドが世界中で実にボンドらしい「活躍」を果たしてしまったのだ。それはさぞかし、どこもかしこもとてつもない事になっていることだろう。どう隠したらいいものか検討もつかないような状況の後始末をしなくてもいい幸福の中、Qは足取りも軽く彼の課の間借り先へと歩いていった。
 対して、それとは真逆の状態に置かれているのが、いかなる喧騒にも開かれることのないドアの向こうで沈黙を貫くMである。彼は、電気もつけないまま執務机に向かい、数枚の写真を眺めていた。写真は、彼以前の歴代のMたちのものだ。
「マクタリー、メッサヴィー、ハーグリーヴス、メイスフィールド……あなた方なら一体、こんなときにはどう対処をした?」
 デスクの上のPCモニターに流れるニュースでは、ロケットのカプセル部分がついい海に着水を果たし、経緯を見守っていた現地の記者がその中から現れた人物へとインタビューを敢行しようと漁船で近づいているところだ。Mの悲痛な問いへの答えは勿論存在しない。仮に彼の前任者が全員その場に居たとしても、誰一人として適切な答えを返せるものなどは居なかったろう。あの007が一度に全員現れて、世界各地で大活躍をしてしまった経験をしたことのあるMなどは彼の他には存在しないのだ。
 ニュース映像に被さる形で、画面には通知ウィンドウがポップアップした。添付ファイル付きメッセージを受信したという通知で、メッセージの送信者はQとなっている。無論、そのメッセージが届いたこともMは認識していないが、もしそのメッセージに添付された報告書を開いたならば彼は、007に関する一つの新しい知見を得られたはずだ。それが、Mの置かれた状況を好転させるか否かは定かではないが。
 Qの送った報告書は、次のように結論付けられていた。
『──以上のことは、あくまで技術的な参考にとどまるものである。現実問題として、007=ジェイムズ・ボンドはこの上なく有能なエージェントである上に、個々人としてたいへんな冒険心と勇気に溢れた人物であり、彼を敵とすることは最も避けるべきことと考えられる。したがって、女王陛下に仕えるいち公僕として進言するところであるが、007=ジェイムズ・ボンドを女王陛下の騎士であるという楔のもとから外すことは全く歓迎されざるところであろう。』



   JAMES BOND WILL RETURN
    in
     NO TIME TO DIE


〈007/JAMES BOND WILL RETURN 終〉

007/JAMES BOND WILL RETURN

007/JAMES BOND WILL RETURN

歴代ボンド+女007が大活躍!

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-08-24

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work