『暁蕣花の咲く処』(ある子竜の物語)第2章〈4〉 ~フラットアース物語②
〈4〉
それからは、暗い洞窟の中をとにかく走り続けた。その内に、黒い翼の生物達の騒ぐ声も、追いかけて来たものの波動も感じ取れなくなった。しかし、それでも足を止めずに、さらに倍の距離を走った。その後で、ようやく足を緩めた。
そこからは、足下の生き物達を潰してしまわないように、体を宙に浮かせて進むことにした。その状態では、走っている時のようには、速く移動できなかったが、これだけ離れていれば波動も追跡出来ないし、相手も諦めたに違いないと思った。
それよりも、この追いかけっこの所為で、ここが山のどの辺りなのか、さっぱり分からなくなっていた。少しでも麓に近付いていることを願いながら、取り敢えず外に出られそうな場所を探して進んだ。
やがて、視界の先に、針のような小さな明かりが見えた。なおも進んで行くと、光は狭い通路となって姿を現した。
その光に導かれて、身体ぎりぎりの大きさしかないその通路をくぐり抜けると、眩しい光の中に出た。そこもやはり洞窟の中だったが、行き止まりが見えないほど広い空間のあちらこちらに、幾つもの光の柱が立っていた。
そして、その光に戯れるように小さな生物達、黒い甲をもつ虫や、薄茶や白い羽の虫達が盛んに飛び回っていた。
その光景に何だか見覚えがあるような気がして、明るさに目が慣れるのを待ってから、よくよく辺りを見渡した。すると、洞窟の端に、見覚えのある形の岩が目に入って来た。
それなら、その向こう側の岩壁には、身体を休めた窪みがあるはずだ、と思って足を向けると、その通りの場所に岩の隙間があった。また、少し足を速めて進んで行くと、柱のような大岩があって、その天井の暗がりには、逆さまになって眠る黒い翼の生物達がいた。
そう、忘れもしない。あの岩の傍らで、接触して傷付いた黒い翼の生物が、悲鳴を上げていたのだ。
(だとすればこの先は……。)
そう考えたその時、声が聞こえた。
(怒りと痛み。そして、生きたいという渇望。)
それはあの黒い翼の生物の波動だった。
(そんなはずはない。だってあれは……。今、目の前には何もいない……!)
考えるより先に、体は走り出していた。波動は後ろからだ、と感覚器が叫びを上げていた。何が起こったのか分からず、頭の中は混乱していたが、ともかく走りながら意識を広げて、その波動の元を探した。
それは、さっき通って来たばかりの通路の出口に、顔を出していた。
なんと相手は、まだ諦めていなかったのだ。しかし、追いかけて来た相手の紡錘型の身体は傷付き、気力を失って輪郭が薄れていた。それでもその瞳は、ひたとこちらを捉えていた。
逃がすものかという相手の波動が、ちりちりと焼け付くように、身体の外縁に纏わりついて離れなかった。
今なら気力は互角だったが、争う気にはなれなかった。ただ、相手が諦めてくれれば良いと思っていた。だから、見覚えのある場所をひたすら逃げた。
(この先は確か、行き止まりだったはず。)
そこまでの間に、横道もなかったはずだが、もう引き返す訳には行かなかった。背後に迫って来る追手との距離を測りながら、全力で走り続けた。
それは一か八かの賭けだった。僅かの躊躇も失敗も、命取りになるかもしれなかったからだ。追手との距離は、だったそれだけの優位しか与えてはくれなかった。
天井と地面の中間あたりの岩壁……記憶にあるのと全く同じ場所に、その小さな横穴を見つけて、急いでそこに潜り込んだ。
考えていた通り、そこは最初に卵の洞窟から抜け出してきた、あの通路だった。
(ここなら奥行きもあるし、何より入ってすぐに、通路が極端に狭くなっている。相手は傷付いた体だ。それ以上の接触をしてまで追いかけようとは思わないだろう。)
頭を低くして、狭い岩の通路を必死で駆け抜けた。その先は、身体を縮めて這って行かなくてはならない場所だったが、そこを進むのは、記憶にあるよりももっと窮屈だった。
そのことは、身の内に溜まった気力が、それだけ増えたということで、本来は喜ぶべきことだ。だが、今のこの状況では困った事態だった。追い付かれる前にここを通り抜けなくてはならないと言う焦りばかりが募って、なかなか狭い通路を抜けることが出来なかった。
追いかけて来た相手の気配も、すでに通路の中に入り込んでいたが、あまりにも狭い道幅に、どうしようかと考えている様子だった。
その間に、何とか狭い場所から抜け出して、ほっと溜め息をついた。
相手はまだ、狭くなった通路の手前で足を止めていた。今度こそ諦めてくれるだろうと思って……いや、半ばそう願って、相手の様子を窺った。
だが、すぐにその期待は裏切られた。追手は、狭くなった道に、強引に体を潜り込ませて来たのだ。どうやら相手は、身体を縮小するという能力は持たないようで、一歩進むごとに壁に接触した身体は削られ、痛みに呻く相手の鋭い波動が届いて来て、思わず耳を塞いだ。
けれど、これだけ近くで、しかも、これほと強い波動にさらされては、それを完全に遮ることなど不可能だった。
痛い、痛いと叫ぶその声に重なって、生きたいという同調音話が響いていた。
(分からない。生きたいのなら、なぜ体を傷つけるようなことをしてまで追いかけて来るのだろう?)
じりじりと後退りながらも、追いかけて来るものから意識を離せずにいた。
相手は悲鳴を上げながら、少しずつ狭い通路を進んで、こちらに近付いて来ていた。
危険だと忠告する体内の声が、聞こえていた。けれども、相手の波動に核心が共鳴して、身動きすることさえ出来なかった。
追いかけて来たものは、今や、狭い隙間から小さな顔を出して、残る本体を引き出そうと懸命にもがいていた。
『喰らう……喰う! 生きる。生きて、大きく……なる!』
聞こえて来る相手の波動が大きくなり、頭の中で何重にも鳴り響いていた。
その片隅で必死に叫ぶ声があった。
(走れ! にげろ、逃げろ……うごけ、動け!)
ぴくりと耳の先が動き、ようやく我に返って、相手に意識を支配されかけていたことに気が付いた。緩みかけていた結界をしっかりと強め、感覚器の命じるままに通路の中を全力で走った。
(この先しばらくは、立って歩けるくらいの一本道だったはず。どこにも隠れる場所はない。……後は逃げ足勝負だ。)
ちらりと振り返ると、相手は狭い場所を抜け出し、体勢を整えて一気にこちらに向かって来るところだった。その早さは元の通り、いやそれよりも速く感じられた。
もう、何も考えずに、ただひたすら走り続けた。
だから、それを通り抜けるまで、その存在を思い出しもしなかった。
それを通り抜けてしまってから、ようやく感覚器がその先は危険だと声を上げたが、それはすぐさま、世界が逆転する奇妙な感覚に打ち消されてしまった。
上が下に、下が上にひっくり返って、体が宙に浮いて坂を転がった。全速力で走っていたものだから勢いは止まらず、何度も壁にぶつかって結構な距離を滑り落ちた。
そうやって転がり落ちながらも、追いかけて来た相手が、そこに張られた〈結界〉に顔を突っ込んで、困惑したように立ち止まったのを見た。
その途端に、ぶるるっ、と辺りの岩壁が体を震わせたように揺れて、ようやく止まりかけていた身体は、さらに坂の下へと転がされた。
奇妙な事に、その揺れとほとんど同時に、追手が慌てて後退しようとするのが見えた。
そして、ぱらぱらと細かな砂が降って来たと思ったら、あっと思う間もなく、結界の張られていた場所の天井が崩れ落ち、濛々とした砂埃と一緒に、岩の触れ合う地響きがこちらに迫って来た。
慌ててそこから逃げ出したが、近付いて来る地響きの方が早くて、たちまち舞い上がる砂埃に巻き込まれた。
(このままじゃ、潰される!)
そう思ったところで、ぴたりと激しい揺れが収まった。しばらくはそのまま身を縮めて、衝撃の襲いかかって来るのを覚悟していた。
けれど、やはり何も起こらなかった。そこで、恐る恐る顔を上げた。すると、体のすぐ前、本当にぎりぎりの所まで岩が覆っているのが見えた。
助かったことに半信半疑ながらも、起き上がって体に積もった砂を振り落とした。
それから一歩下がって、目の前に新しくできた岩壁を眺めた。上から下までじっくり見ても、まるで最初から、そこに道などなかったかのように、壁には少しの隙間も見当たらなかった。
安堵とも悲嘆ともつかない溜め息が漏れた。
走り疲れて、くたくただったこともあって、動く気にはなれなかった。だから、砂の積もっていない場所まで少しだけ移動して、そこで身を丸めた。
(結界を強めるまでもないだろう。)
半ば諦めのようにそう思った。何しろ、この辺りには、何の生物もいなかったのだ。ごく小さな、植物とも動物ともつかないような小さな生物でさえ、この場合には……そう、あの結界のこちら側にはいないのだ。
出て行く時には分かっていなかったことが、今は見えていた。あの結界が、生物の侵入を阻んでいたのだ。
岩壁の向こうからは、もう何の波動も感じられなかった。届いてくるのは岩の感触だけだった。必死に追い掛けて来ていたあの生物は、もうどこにもいないのだ。
そう頭では分かっていても、そんなこと信じたくなかった。
(殺すつもりなんてなかった。逃げたいとは思ったけれど、相手が消えることを望んでいたわけじゃない。)
一緒に岩の下敷きになっていてもおかしくない状況だったのに、相手だけが消えて、こちらは無傷で生きている。そのことが何だか納得できなかった。
(どうして相手はよりによって、結界の真上で足を止めたりしたのだろう?)
あの速さで追い掛けて来たのなら、結界の場所なんて、すぐに通り抜けてしまっただろう。大体、あそこで結界を恐れて足を止めるくらいなら、その手前の警戒線で、追い掛けるのを止めていたはずだ。
(それに……。それにあの驚きが恐怖に変わった、あの瞬間の波動を、きっと忘れることは出来ないだろう。)
消えたくない、生きていたいと叫んでいた悲痛な声が、今でもまだ聞こえて来るような気がした。あれだけ必死にもがいていたのにも関わらず、岩に押し潰されるその瞬間まで、あの生物は、少しもその場所から動いていなかった。ただ薄膜のような三角の翼だけが、激しく波打っているのが見えていた。
(まるであの結界が、がっちりとあの生物を押さえ付けているようにも見えた……。)
そんなはずはない、と首を振ってその考えを追いやった。
(だってあれは警戒線でしかないのだ。警戒線は囁くだけ、それ以上の力なんてないはずだ。)
それに、これまでに二度、あの場所を通り抜けた時には、そんな力は感じなかった。
きっと、と心の中で言い聞かせるように呟いた。
(きっと、あの生物は岩が揺れたのを感じて、たまたまあの場所で、あの結界の上で足を止めたのだ。)
それに、相手を殺すつもりなんてなかったけれど、相手に食べられるつもりもなかった。だから、こんなことが起こらなければ、相手に追い付かれた時点で争うことになっていただろう。
そしてその結果は、相手の死か、こちらが死ぬのかのどちらかしかなかったのだ。
それは今の状況と、なんら変わりない。
(それに、どんな理由をつけても、あの生き物が死んだという事実は変わらない。)
こんなことになるのなら、外に出ようと考えたりせずに、卵の洞窟でじっとしていれば良かったと思った。
(そうすれば、あの生物も、それから黒い翼の生物も、もっと小さな生き物達も、誰も消えずに済んだのに……。)
酷く身体が重く感じられたが、ここに留まっているのは辛かった。だから、戻ろうと思った。
(二度とここを通るのは嫌だ。)
のろのろと立ち上がってから、不意に、閉じ込められてしまったという事実に気が付いた。慌てて顔を上げて通路の先を見遣ったが、そこにはやはり、行き止りになった岩壁が見えるだけだった。
怒りがこみ上げて来て、力一杯に、岩を引っ掻いたり蹴飛ばしたりしてみた。
だが、そんなことくらいで崩せるような岩壁ではなかった。波動の届く限り探ってみても、そこには厚い岩が限りなく続いているだけだった。外へ抜ける通路は、完全に閉ざされてしまったのだ。
(この通路が使えなくなったってことは、振り出しに戻ったってことじゃないか!)
これだけの犠牲と時間を費やして、ようやく手に入れたものを全て失ってしまった。同じ場所に辿り着くまでに、また、どれだけの時間を消費しなくてはならないのだろうか。それを思って深い溜め息をついた。
(どうして? どうしていつも邪魔ばかりされるのだろう。帰りたいのに。帰りたい、それだけなのに……!)
何もかも放り出したい気分になって、もう一度大きな溜め息が漏れた。
それでも、動き出さないことには何も始まらないのだ。そう言い聞かせて岩の通路をのろのろと歩き出した。
重い気分のせいで、体は、やけに重く感じられた。頭を上げることも、手足を動かすことも億劫で、その内に意識までもとろりとして来て、何も考えられなくなった。
これでは眠ってしまうと思って、とにかく言葉を紡ぎ続けた。
(……だめ。眠っちゃだめだ。今は、気力を回復する必要性は少ないし……、それに、はやく……一刻も早く、出口を探さなきゃ。……そうだ出口!)
はっとして目を開くと、岩壁に寄りかかるようにして体を丸め、今まさに眠りに落ちようとしていたことに気が付いた。
出口という言葉が引き出してくれた、外、光、風の言葉が体の中を通り抜けて、そのきらきらした記憶が、目を覚まさせてくれたのだ。
それでようやく、あの結界のもう一つの役割に気が付くことが出来た。
ふるるっ、と体を振るわせて立ち上がり、侵入しようとしていた声を追い出して、身体を守る結界をしっかりと引き締めた。
(そう言えば、追い掛けて来たあの生物も、それを使った。)
それは〈同調音話〉のもう一つの使い方だった。
通常行うように、相手の意識に働きかけて言葉を送受信するのではなく、送り手の波動と共振させて、相手の意識を従わせるというものだ。
しかしそれは、受け手側が少しでも異変に気が付いて同調しなくなれば、効果を失ってしまうような不安定な方法だった。
通常なら身を守る結界を張っているので、そんなことは出来ない。けれど、それが可能になる条件が二通りあるのだ。
一つは、さっきあの生物に引き込まれてしまった時のように、こちらから相手に意識を開いて同調している場所だ。これは、全てを相手に委ねてしまう危険な行為なので、絶対にしてはいけないことだ。
残るもう一つは、送り手と受け手、その両者の間に、圧倒的な力の差がある場合だ。そして、この場所に聞こえている波動に関しては、後者と言えた。
あの結界は外に向かっては、恐怖を囁いて、侵入するものを追い返す働きをしているが、内に向かっては沈静を囁いて、そこにいるものの活動を抑えるように働いているのだ。
そのことに気が付いて、何故この場所で、外のように体を宙に浮かせて進むことが出来ないのか、ようやく理解した。あの結界の発する波動が、それを阻んでいるのだ。
体が重く感じるのも、やたらと眠くなるのも、気分が重く沈むのも、この場所に絶えず聞こえているその声のためだった。
『ここにじっとしておいで。ここは誰も侵すことの出来ない場所だからね。……ねぇ、ここにいようよ。……何も考えずに、ここで待つのだ。何もせずに、此処で待っていれば良いのよ。』
諭すような、脅すような、甘えるような、そんな囁きが、ひそかに意識の中に入り込んで来て、こちらの波動を鈍らせ重くしていた。
それを今まで感じさせなかったほどの圧倒的な力の差。それに気がついて背筋が寒くなった。
(結界から近いこの場所は危険すぎる。)
それに、また天井が落ちてくるかもしれないし、そう思って、ちらりと天井を見上げ、足早に歩き出した。
結界から離れると、あれほど重たかった身体は、すっかり元の調子を取り戻した。それでも、気分は重いままだった。道を進むと、出て行く時に残していた目印を見つけた。それを見て、やはり出発点に戻って来ただけなのだと、思い知ったからだ。
(それでも諦める訳には行かない。)
そう思い直して、洞窟の探索を再開した。
帰りは、出て行く時ほどには時間がかからなかった。目印の残った通路は、一度探索済みだと判断できたからだ。しかし、印のついていない道は、それが一度も探索していない道なのか、それとも、古くなった目印が消えてしまったのか分からなかった。
取り敢えず、目印の見つからなかった分岐路には全て入ってみた。けれど、道はどれもこれも行き止りで、結局、卵の洞窟に繋がる最初の道まで戻ることになった。
記憶に残っている垂直の暗い縦穴を、慎重に下って行くと、やがて、こちらも見覚えのある細い岩の亀裂が見えた。
その光景に、この先は卵の洞窟だと思うと同時に、そこを通り抜けた時の苦しい記憶がよみがえって来て、うんざりとした。
けれど、その憂鬱な気分は、卵の洞窟から届いて来た波動のおかげで、すぐに吹き飛んだ。
『ここにいるよ』と囁くその波動は、覚えているよりもずっと強くなっていた。
岩壁の隙間から洞窟を覗くと、ここを出て行った時よりも、卵の海の界面が上がっていることが分かった。もう、この横穴の高さも越えて、洞窟のずっと上の方まで、たくさんの卵で埋め尽くされていた。
通路と洞窟を繋ぐ岩の隙間は、身体を通すには狭すぎることが分かったので、岩を削って隙間を広げることにした。雪を溶かしたのと同じ方法で、身体に蓄えた気力を熱に変換して、岩を溶かしていったのだが、それには長い時間がかかった。雪と違って、岩は多くの気力を使わないと融けなかったからだ。
それでも、卵達の弾むような波動に励まされて、その作業を続けることが出来た。
ようやく、隙間を抜けて洞窟の中に出ると、見渡す限りにびっしりと空間を埋めている卵の群れを見上げた。卵は記憶にあるよりも、倍以上に大きくなっていた。
しかし、大きさよりも著しく変わっていたのは、卵の持つ気力だった。
この洞窟から出て行った時と比べて、二倍か三倍になったその気力は、ここで最初に目覚めた時の自身の気力と、そう変わらないものになっていた。
初めて卵を見た時の微弱な波動を思い出して、あれがこんなに大きくなるなんて信じられないと思った。
中から出てくるのは、一体どんな生物なのだろうかと考えると、体中がふつふつと湧いて来る細かな振動で満たされた。この波動をヒトの言葉に直せば、嬉しいとか、喜びとかになるのだろうなと思った。
(それとも希望かな。)
とにかく、悪い気分じゃないことは確かだった。
卵を驚かせないように、そっと飛び立って、卵の海に入って行った。
傍らに寄って卵を覗き込むと、外界との境になっている薄い殻の向こう側で、紅みを帯びた光が、力強く明滅しているのが見えた。無数の卵の放つ波動のために、周囲は仄かな紅い光で満たされていた。
卵は、内側に蓄積された気力が大きくなった分だけ、互いの間隔も広がっていた。そしてその分、動きも激しくなっていた。あちらでもこちらでも近寄りすぎた卵同士が反発して、互いを押しやり、それが次々と伝わって、卵の群れ全体に大きな波を作り出していた。壁に近い場所では、押し出された卵が、力を失ったように沈んで行くのが見えた。
壁際には、眠気を誘うあの結界の力が働いているのだ。岩壁を離れてみると、それがよく分かった。壁から少し離れただけで、体に感じていた重さが随分と軽減された。
結界の働きかけがなくなった所で、羽ばたくのを止めて大気に体を浮かべた。そのままゆっくりと卵の海を進んで行くと、時々、卵が何か呟くような波動を送って来た。だが、それは、まだ言葉にならない微かな波動でしかなかった。
それでも卵達が安らぎ満たされて、怖いものなしと言う心地でいることは、十分に伝わって来た。だって、聞いているこちらも同じ気持ちになったからだ。その囁きは、父や母の腕の中に抱かれていた時を思い出させてくれた。
思い出したら無性に帰りたくなって、卵の海を出て、また岩壁に戻った。そして、結界の声に耳を貸さないように、しっかりと用心しながら出口の捜索を再開した。
それからは、広い岩壁の上から下まで、ひたすら外に繋がる道を探して、岩穴に入っては戻りを繰り返した。洞窟の中は、時間の経過が全く分からなかった。それでも随分と長い時間、そうやって探し続けたと思う。
一体、幾つくらいそうやって出入りしたのか、途中で数えることをやめてしまったので分からないけれど、卵達の楽しげな波動のおかげで、飽きることはなかった。
そうしている間にも、卵はまた一回り大きくなった。
そうやって、卵の波動を聞きながら、次の穴を探して岩壁を登っていた時だった。
カッ、と微かな、けれども鋭い音がして足を止めた。じっと耳をそばだてていると、もう一度、カッンと硬くて澄んだ音が聞こえた。
どこかで聞いたことのある音だと思ったが、すぐにはそれを思い出すことが出来なかった。
少し間があってから、カッン、カッという音が届いて来て、それと同時に、林の中で見た白い蕾の花開く光景が、頭の中に滑り込んで来た。
それでようやく思い出した。
その音を聞くのは二度目だと思ってから、いや、これで三度目だ、と〈核心〉の中で反応した記憶の欠片を見て訂正した。音は、記憶にあるように同じ調子を繰り返していた。
(確か、前に聞いた時は、この音と一緒に、空に張られた糸が解けて行く光景を見た。その前の時は……。そうだ、あの時は、風を感じたのだった。)
淀んでいた気が動き始めて、揺り起こされた。それで目を覚まして、声を聞いたのだ。早く此処までおいで、と声が叫んでいた。でも、まだ十分でなかったから、まだだと答えた。
そうしたら急に風が強くなって、一生懸命に流されないよう踏ん張ったのだ。けれど、とうとう逆らえなくなって、狭い穴の中へと無理矢理押し出された。
(小さな道は、固定体のヒトの姿では、狭くて押し潰されそうだった。それなのに、更にぎゅうぎゅうと容赦なく押されるものだから、苦しくて、早くそこから出ようと、流動体の姿になって通り抜けた。)
けれど最初は、そこが〈外の世界〉だとは分からなくて混乱したことを思い出した。
(そう言えばあの時、どうしてあの場にいたヒト達は、誰もそれに気が付かなかったのだろう?)
その時の記憶は、混乱しているために曖昧にぼやけていて、そこからは何も読み取ることが出来なかった。
(それから、母の声を聞いてようやく、生まれて来たのだと納得した。それで安心したのか、それとも、その方が安全だと判断したのか……。ともかく今度は、固定体のヒトの姿になったのだ。)
外に出ても、早くと呼ぶ声は聞こえていた。けれど、それを聞いていたのは流動体の方の感覚器だった。ヒトの姿に変わったのと同時に、そちらの感覚は抑えられてしまって、ヒトの体の感覚が優先された。でも本当は〈核心〉には声が届いていたのだ。
呼ぶ声に刺激されて流動体の方の感覚が目覚めて、このまま留まろうとするヒトの感覚と、早く戻らなくてはと焦る流動体の感覚が争った。ヒトにとっては、親の庇護の下にいるのが最も安全で、だから、そこに留まっていたかった。けれども流動体の意識は、そこから早く抜け出したくて焦っていた。
(呼ぶ声のする場所には、仲間がいることを知っていたから。)
違う、知っていたのではなくて、呼ぶ声がそう言ったのだ。
この声の聞こえるものは同族。だから、閉ざされる前に早く此処までおいで、と呼ぶ声は囁き続けていた。流動体の核心は仲間という言葉に激しく反応した。
同時に、呼ぶ声が送り込んで来た、扉が閉まって周りが闇に覆われるような〈遠話映像〉が、このままだとずっとヒトの姿に閉じ込められてしまうぞ、と言っているように感じられたのだ。
なので、そうなる前にそこから抜け出して、同じ仲間のいる所へ行きたいと願った。
ヒトが仲間だと言う確信はあった。だから、ヒトが仲間ではないと思っていた訳ではないだろう。多分、その時は、固定体のヒトの姿と流動体の体との関係をよく分かっていなかったから、裏に引っ込んでいた流動体の意識は、ヒトの身体に閉じ込められていると感じてしまったのだ。
けれど、呼ぶ声に〈核心〉が目覚めたことで、ヒトの姿の感覚と流動体の感覚が同時に働くようになった。二つの姿を持っているのだと知った今なら、そんなことは起こらないけれど……その時は、それを認識していなかったから、全く異なる二つの感覚を上手く処理できずに核心が混乱して、閉じ込めているのはヒトだと勘違いした。
呼ぶ声は、流動体の能力を強く意識させてくれるものだった。逆に、人肌の感触はヒトとしての姿を強く意識させるもので、接触を嫌う流動体としては、身を守らなくてはならないという感覚を引き起こすものだった。
だから、父母に抱かれている間は、ヒトの姿に収まっている方が安全だと判断して、流動体の意識は活動を抑えた。
(その抑制を最終的に解いたのが、この音だったのだ。)
繰り返す単調な音を聞きながら、そう思った。
呼ぶ声が閉ざされる映像を送って来たのとは反対に、その音は、解放という映像を送って来ていた。
(何かが始まる。……何だか怖いような、けれどそれを越える、待ち遠しい気持ち。)
……解けて、起こる、培風。生じて、広がる、揺漾。開いて、放れる、飛揚。
『トキ、ココニ、キワマレリ。』
言葉と一緒に、カッと澄んだ硬い音が、一際大きく鳴り響き、扉が開いて光が差し込む映像が滑り込んで来た。同時に、大気が一度大きく揺れて、卵達が驚いたようにぴたりと囁くのを止めた。
それきり、音は聞こえなくなった。しんと静まり返った空間の中で、卵達も息を潜めて、これから起こる何かを待っていた。
やがて、卵の洞窟の中に微かな風が吹いて来て、卵達の間にざわめきが起こった。その理由はすぐに分かった。風に乗って甘い匂いが漂って来たのだ。
それは濃い精気の匂いだった。体に染み込む気力の量で、その精気が、普通の大気の何倍も濃いものだと分かった。濃厚な精気を取り込むことで、早く生長することが出来るのだから、卵達が騒ぐのも当然だった。匂いはすぐに消えたが、卵達の囁きは、いつにも増して大きくなった。
(此処に在る。……此処だよ。来る。……とき、到る。もうすぐ……すぐだよ。)
卵の明滅する紅い光が激しさを増し、殻を透かして中にいる存在がくるくると宙返りする影が見えた。
そして、馴染みのある声が聞こえた。
『此処へ、世界の端へ。ここに、果てに。』
声と一緒に映像が送られて来た。それは、淡い光の中に浮かぶ一つの影だった。
細長い棒のような影がくるりと回ると、はらりと広がって蒼い扇の形になった。その扇がゆっくりと近付いて来て、ふわりと招くように裏返った。扇を持つ手は、そのまま向きを変えて遠ざかり、今度は、上から扇ぐようにその手を下ろした。
上から下へ、右から左へと扇が翻るたびに、洞窟の中に小さな風が起きた。
風は音を運んで来た。フィー、ピーヒョオーと高さの違う幾つかの音が絡み合い、重なりあって響いた。
音は風を連れていた。始め静かだった音が、次第に早く大きくなるにつれて、風もうねりを帯びた。小波のように吹き寄せる風が、時折、大きな波となって卵達を押し上げた。
『ここへ、出口へ。此処に、外界に。』
声は上から聞こえて来るようだった。しかし、声は〈同調音話〉だから、実際には頭の中で聞こえていると感じているだけだ。
その声に従って上へ行くのは嫌な感じがした。この場所に連れて来られた時のことを思い出したからだ。けれど、もしかしたら外に出られるかもしれない、という思いが、それに勝った。
翼を大きく広げて、吹き上がる風に乗った。卵達の間をすり抜けながら上って行くと、やがて卵の群れが途切れ、傾斜した岩壁が見えた。上るにつれて、緩い傾斜の岩壁は、次第に角度を強め、それが水平に近くなった頃、突然に黒いごつごつとした岩壁が途切れて、大きな穴が姿を現した。
そしてその穴からは、今まで出会ったことのないような濃い精気が溢れだしていた。
『暁蕣花の咲く処』(ある子竜の物語)第2章〈4〉 ~フラットアース物語②