コミトレ34「やみあやなみ」試し読み

くらうでぃーれん

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  3. 1.-2

2019-9/8のアズレンオンリー(こみっくトレジャー34)で頒布予定の「やみあやなみ」のサンプルです。
性癖全開でがっつり重めのお話に仕上げたつもりです。バッドエンドではないです。多分。
前作「あやなみなやみ」とタイトルのイメージ合わせてますが、繋がりのない別の世界線のお話です

 荒く、乱れた呼吸音が間近で聞こえる。
 頭の中に直接流し込まれるようなその音に驚いて辺りに視線を走らせ、少し冷静になってようやく、それが自分のものであることに気が付いた。

 大きく息を吸い込んで強引に息を整え、耳障りなその音をかき消した。
 ようやく静まった音の代わりに鼓膜を震わせるのは、叩きつける波の音と、波を砕く砲撃の轟音。

 海と空の色は鈍色に霞み、その向こうでは大量の影が蠢いている。それらは次から次へと形を成して、踊り狂うように飛びかかって来る。
 砲を撃ち、魚雷を放ち、剣を薙ぎ、現れる敵をただひたすらに海の底へと引きずり下ろす。
 水柱の向こうで数多の艦船が水底に消えてゆくのを眺めながら、ギシリと歯の奥で不愉快な音が鳴った。

 いったいあと、何隻沈めればいい。

 ユニオンの彼女が口にしていた言葉が、不意に脳裏をよぎる。
 本当に、その通りだ。後どれだけ沈めれば、ヤツらは参ってくれるのか。もしくは、満足してくれるのか。そもそも、本当にそんな時はやってくるのか。

 戦うことにはもう慣れた。考えなくたって体は勝手に動いてくれる。しかしだからこそ、余計な思考に苛まれることも少なくはない。
 無駄なことばかり考えていたせいか、疲れで集中力が散漫になっていたせいか。

 その砲撃は、完全に意識の外側から現れた。

 気付くと同時に視界は白く染まり、音の途切れた世界がぐるぐると激しく回転する。好き勝手に動き回る上下と左右を強引に手繰り寄せ、転倒だけはすんでのところで回避した。
 目を見開いて歯を食い縛り、ノイズの走る視界の正常化を図る。砂嵐の中を走り抜けるようにじゃりじゃりと耳元で音が擦れ、不快感に耐え抜いたその先で、ようやく元の戦場に辿り着く。

「――綾波ちゃん! 大丈夫!?」

 再び荒れた呼吸を整えていると、悲痛な叫びと共に寄り添ってくる艦船、重巡洋艦・愛宕。
 彼女の豊満な胸部に支えられながら、ぷるぷると頭を振って白金の髪に張り付いた水滴を振り払い、愛宕に向けて軽く手を上げて見せた。

「‥‥平気、です。特に損傷は、ないです」
「そう、良かったわ‥‥。本当に、良かった‥‥」

 大げさなほど安堵の息を吐いて、愛宕は綾波をぎゅっと抱きしめた。艶やかに濡れる黒髪が頬を撫で、どこか懐かしい香りが全身を包み込む。

「愛宕さんも、怪我はないですか」
「ええ、平気よ。お姉さんは、みんなを守ってあげなくちゃいけないんだから」

 言って、にっこりと微笑む愛宕。
 慈愛に満ちたその笑顔は、彼女がお姉さんと自負するように包容力に溢れていて、不安など簡単に拭い去ってくれそうに見える。
 けれど、目の前にいる綾波が気付かないはずかなかった。
 
 ――そんな愛宕の綾波を抱く手が、隠しようがないほどに震えていることに。

「綾波は大丈夫ですから。それよりも自分のこと、もっと気にかけて欲しいです」

 言うと、愛宕は目を丸くして、そこで初めて気付いたように己の手を見つめ、硬く握りしめて必死に震えを抑えながら自虐的に微笑んだ。

「‥‥そうね、ありがとう綾波ちゃん。駆逐艦の子に心配されちゃうなんて、これじゃお姉さん失格かしら」
「そんなことないです。愛宕さんはちゃんと、みんなの支えになってくれてるです」

 抱擁から逃れるとなおも心配そうな顔をする愛宕に、綾波は穏やかな笑顔を浮かべて見せた。そして愛宕の目の前に左手を掲げて、ぎゅっと握りしめる。

「綾波は、大丈夫です。綾波には、帰らないといけない理由がありますから」

 愛宕はその薬指に嵌められたリングを見つめ、小さく笑みを浮かべると綾波の左手にそっと指を絡めた。

「‥‥そうね。綾波ちゃんには帰る場所があるのよね。‥‥少しだけ、羨ましいわ」

 瞳を細める愛宕の手を、綾波は強く握り返す。

「綾波だけじゃないです。愛宕さんも、みんなで、早く学園に帰りましょう。指揮官が、みんなのことを待ってくれていますから」

 愛宕はほんの少しだけ笑みを深くして、ゆっくりと頷いた。
 いまだ不安げな愛宕の視線が天を仰ぎ、綾波も追随するように空を見上げる。

 どこまでも続く空は透き通るようなに青く輝き、白い雲が穏やかに漂っている。太陽は柔らかに光を放ち、空も海も艦船も、分け隔てなく照らしてくれる――そんないつも通りの空が、この戦いの先にあるはずだから。

 視界を遮るように昏い空を駆け抜けていった艦載機を追うように視線を落とすと、海上は戦火と黒煙で濁り、水平線は数多の敵影で覆い尽くされていた。
 穏やかな空を渇望するようにもう一度だけ見上げて、戦場へと視線を戻す。
 疲れただなんて弱音を吐いている暇はない。
 今は目の前の敵を沈めることだけを考えろ。

 そして早く帰って――指揮官にたくさん褒めてもらわなくちゃ。

1.


 ここのところ、セイレーンの活動が異常に活発になっている。
 文字通り、異常に。
 その数は日に百は下らず、夜戦に突入し日を跨ぐことも珍しくはない。学園は全戦力を投入しこれの殲滅に当たっているが、艦隊の疲労は目に見えていた。

 個々の敵戦力は脅威とは言い難く、熟練した艦船であれば勝利自体は容易い。
 だが、問題は数だ。出撃が続けば疲労は避けられず、燃料や弾薬の消費も無視は出来ない。

 そしてなにより、精神疲労が顕著だった。

 鏡面海域で会敵するのは、学園の仲間と同じ顔をした相手。いい加減慣れたとはいえ、毎日となると話は別だ。
 気の知れた仲間と、粗悪なコピーの敵。本物か偽物かを見分けるのは簡単だ。しかしだからといって、決して楽しいものではない。そしてこのまま疲労が蓄積すれば、いつか自分たちは誤って仲間を傷つけてしまうのではないか。
 毎日続くこの戦いは、そんな心の内との戦いでもあった。

 セイレーンの目的は、よく分からない。今回に限ったことではなく、それはいつものこと。きっとまた何かしらのデータ収集か何かなのだろうが、それがどういう内容なのかも、何を集めてどうするのかも分からない以上、結局戦う以外に出来ることはない。

 夕日の差し込む学園の廊下を歩きながら、綾波は重いため息をついた。
 今日も無事戦闘を終え、艤装を降ろして工廠に整備を任せ、報告のために執務室へと向かっているところだった。
 艤装を外して身軽になったはずの身体は重く、執務室までの道のりがやけに遠く感じられる。それでも綾波は自分の目的を果たすため、足を動かした。

「第一艦隊、帰投しました。綾波、入ります」

 ようやく執務室までたどり着くと、簡素な挨拶だけを投げかけてノックと同時に返事も待たず扉を開ける。扉を開くと、濃密なコーヒーの香りがふわりと廊下に溢れ出した。
 開いた扉の向こう側にあるのは、ゆったりとした広さを有する部屋。入って正面と右手には窓が設けられているが、今は夕焼け色に染まるカーテンに遮られて電灯の明かりが煌々と灯されている。右手の窓の前にはテーブルと向かい合わせにソファが置かれていて、以前はスッキリと整えられていたその場所にも、今は居場所を失った書類の一部が積まれている。

 決して掃除が不得手ではないはずの指揮官だが、今は部屋の中で唯一整えられているのは左手奥にある棚くらいのものだ。
 そして、部屋の真ん中に据えられた大きな執務机の上には、他の場所以上に乱雑に物が積み上げられている。大量の本や書類に埋もれるように椅子に腰かけた白い軍服の男性――指揮官はちらりとだけ綾波へと視線を寄越した。

「お疲れ様です、指揮官」
「おつかれ、綾波」

 すぐに目の前のPCの画面に視線を戻した指揮官は、作業の手を止めないまま同じく気の抜けた声を返した。
 綾波は目の前まで歩み寄り、書類の上から指揮官の顔を覗き込む。机を挟んで見つめ合っていると、指揮官はふっと表情を和らげて作業の手を止めた。

「どうかした? 報告ならもう届いてるけど」

 そう、先程の戦闘の報告はすでに帰路で作成し送信し終わっている。本来ならば、綾波がわざわざ執務室に足を運ぶ必要はない。

「‥‥お仕事、手伝おうと思って」
「少々手伝ってくれたところで終わるような量じゃないって。綾波も知ってるくせに」

 苦笑いで指揮官がそう言う通り、セイレーンの襲撃が異常に活発化した影響で戦果報告書を含めた書類は山積みとなり、指揮官がひとりで処理できる量などとうに超えてしまっていた。戦果や敵勢力の情報だけでなく、資源の状況や艤装の損耗等々、把握しておかなければならない情報はあまりにも多い。
 それゆえ、今はもう優先度の高い事項以外は処理を放棄している有様であった。優先度の低いものは見ての通り、紙の報告書だけでも部屋の各所に積み上げられている。あれらが読まれる機会は、恐らく来ないだろう。

「散らかってるので、部屋の掃除とか‥‥」

 その影響で学園の運営がずさんになっている部分も多く見受けられるが、それに対して大きな不満を抱いている者はいない。最低限、指揮官が自分たちに余分な負担がかからないようにしてくれていることはみんなよく分かっているから。

「どうせ明日には散らかるから一緒だって。で、どうかした?」

 しかし指揮官はぷらぷらと手を振って、からかうような視線を綾波に向けた。
 やっぱり、指揮官にはバレている。

「‥‥指揮官に、早く会いたかったから、です」
「奇遇だな。同じこと考えてた」

 おどけた調子でニッと笑みを浮かべる指揮官に、冷えていた心が温度を取り戻してゆくのを感じる。

「疲れてるだろ。休んでなよ。ココア、飲む?」

 立ち上がろうとする指揮官を制して、それくらいは自分でと空になった指揮官のカップを手に取った。指揮官も特には抵抗せず、腰を落ち着けて綾波を待った。
 唯一書類の山の浸食を免れている部屋の隅の棚には、数種類のコーヒーが並べられている。インスタントがひとつと、豆を挽(ひ)いて瓶(びん)に詰めたものが3種類ほど。他にも、豆の状態で袋に入っているものが扉付きの下部にあといくつか。
 指揮官は苦めが好きで、置かれている豆の種類も深煎りが多い。粉の入った瓶を開けると、どっしりとした香りが鼻先に漂った。

 コーヒーは苦手だけど、コーヒーの香りは好きだ。
 コーヒーの香りは指揮官の香り。香ばしい匂いに触れていると、まるで指揮官に包まれているようで心地良い。部屋に染み付いた匂いも、カップから立ち昇る香りも、その全てが幸せを届けてくれる。
 ケトルでお湯を沸かしながらドリッパーにフィルターを取り付け、適量の粉を入れる。慣れた手つきで準備を整え、こぽこぽとお湯を注ぐ。ふんわりと香りが部屋全体に広がって、思わず口元が緩んでしまうのを自覚する。

「ふむ、この香りはブルーマウンテン」
「正解はコロンビア、です」

 ブラックは好まない指揮官のために少しだけ牛乳を加えて、指揮官の前に差し出した。「ありがとう」という指揮官の声が聞こえると同時、唐突かつ急速に指揮官との距離が縮まって、気付けば指揮官の腕の中に収まっていた。

「綾波、今日もお疲れ。いつも頑張ってくれてありがとう」

 不意に抱き締められて、よしよしと頭を撫でられる。驚いたのは一瞬で、すぐにその背中に手を回し、素直にその好意に甘えることにした。
 やっぱり、指揮官に隠し事は出来ない。どれだけいつも通りに振る舞ったところで、押し隠したつもりの疲労も見透(みす)かされている。
 ずっとこうしていたかったけれど、指揮官の撫でる手が止まるのに合わせて名残惜しくも身体を離す。

 今度は自分用にココアを入れて、指揮官の隣、秘書艦用の自分の席へと腰を下ろした。
 本当は、綾波も指揮官と一緒にコーヒーを楽しめたら素敵だと思う。けれど綾波には指揮官の飲むコーヒーはあまりに苦く、雰囲気を真似てココアを飲むのが習慣となっていた。
 いつかは同じになれたらと思うが、そのいつかは少なくとも目視可能な距離にはなさそうだ。

「今日は、どうだった?」
「いつも通り、です」

 簡素な質問に、同じように簡素に応答する。
 いい加減な返事、ではない。
 海に出て、大量の敵艦を沈めて、気が滅入るほどの疲労を引きずって母港に帰る。
 それが今の、〝いつも通り〟。
 変わらない日常という言葉が、常に平穏と同義なわけではない。重くのしかかる疲労が、そのことを嫌でも意識させてくれる。
 そんな変わらぬ悪夢の中、見過ごせない変化を思い出して「そういえば」とココアを机の上に置いた。

「愛宕さんが、限界です」
「愛宕が?」

 報告書にも記していたことだが口頭でも伝えると、まだ目を通していなかったらしい指揮官は一度手を止めてこちらを振り返った。
 そしてコーヒーをひと口飲んで、小さく息を吐く。

「‥‥そっか。アイツ、世話焼きだしな」

 指揮官は天井を見上げ、瞳を細めてどこか遠くを見つめた。

「分かった、しばらく休ませとくよ。ありがとう」

 今では珍しいことでもなく、指揮官の対応も慣れたものだ。
 以前は混成艦隊も珍しくなかったが、今は艦船の交代をしやすいように陣営ごとの艦隊で編成されている。陣営間で確執を持つ艦が多いわけではないが、即席チームで連携するなら同陣営のほうがやりやすいだろうということだった。
 それだけ、交代が多いということでもあった。

「人の心配もいいけど、綾波も無理そうならすぐに言えよ」

 顔を上げると、まっすぐにこちらを見つめる指揮官と視線がぶつかる。心配と不安の混じるその表情に、思わずほんの少しだけ笑みが漏れた。

「大丈夫です。だって、帰ってくればこうやって、指揮官がいっぱい褒めてくれますから」

 指揮官はしばらく心配そうに綾波を見つめていたが、無理をしているわけではないと分かってくれたようだ。瞳を緩めて、手元に視線を戻した。
 指揮官はそれ以上会話を続けることはなく、黙々と仕事に集中し始めてしまった。綾波は仕事をするわけでもなく椅子に腰かけ、ココアのカップを傾けながら指揮官の横顔を眺めていた。
 海の上にいる時は少しでも早く指揮官に会いたくて、指揮官に褒めて欲しくて、抱きしめて欲しくて、速度を上げすぎないようにするのに必死だったけれど、こうしてすぐ近くでその存在を感じていると、それだけで十分だと思えてくる。

 ストレスが溜まるとコーヒーを飲むペースが上がってしまう、と零していた指揮官は、すでにカップを空にしてしまっていた。大きめのマグカップを使っていても、気付けば飲み干してしまっている。それに気付いた綾波は再び腰を上げて指揮官の隣に立つ。

「指揮官。おかわり、淹れますか?」

 綾波の声に顔を上げた指揮官に――そっと唇を近づけた。
 一緒に居るだけで満足。
 でも、触れ合うことが出来るなら、もっと嬉しい。

 指揮官は綾波の頬を撫でて、今度は指揮官から触れてくれる。笑みを交わしてもう一度キスを交わし、綾波はカップを持って再びコーヒーを満たして指揮官の前へ差し出した。
 先ほどとは違う豆で淹れたそれだが、綾波には香りの違いがあまりよく分からない。指揮官に尋ねたこともあったが、指揮官自身「味も香りも違いはあるけど、何がどう違うか分かってるわけじゃないさ」と笑いながら答えてくれたことがあった。

 コーヒーを傾けながら、指揮官は仕事に集中する。ココアの甘みに心を温められながら、綾波は指揮官を眺める作業に没頭する。
 それは間違いなく、幸せと呼ぶに相応しい時間だった。戦いは辛く苦しいけれど、その後に訪れるこの時間。大好きな人と同じ場所で同じ時間を過ごせる今は、綾波が何よりも大切に思える瞬間だから。
 目の前のカップから立ち昇る甘い香り。部屋全体を包み込む落ち着いた香り。そしてふたりの間に流れる、穏やかな空気。
 ここでこうしていられるから、綾波はまだ、戦える。
 そうして静かな時間を過ごしていた時、外から足音が聞こえてきたかと思うと、軽快なノックの音が部屋に響いた。

「指揮官っ、ジャベリンが帰ってきましたよ~」

 扉の向こうから現れたのは、満点の笑顔を浮かべたジャベリンと、眠そうな瞳でジャベリンにもたれかかるラフィーのふたりだった。

「指揮官が可愛いジャベリンに会えなくて寂しがってるかと思って、会いに来ましたっ」
「ラフィーは、今日の戦果報告に来た。敵艦、たくさん沈めた。終わり‥‥」
「はいはい、ジャベリンのおかげで元気いっぱいになったなー。ラフィーも、報告お疲れ」

 ラフィーの口ぶりからすると、恐らく本当に今の口頭以外の報告は行っていないのだろう。そして、それでも許されてしまうのが現状だ。
 隣でぼんやりと腰かけている綾波を見つけて、ジャベリンは笑みを深くする。

「綾波ちゃん、やっぱりここにいたんだ。さっき重桜の人に会ってね、帰ってすぐ綾波ちゃんどこかに行っちゃったって言ってたから、指揮官のところだろうなって」

 どうやら、綾波のことを探しに来てくれたらしい。座ってココアを飲みながらぱちぱちと瞬きをしていると――

「ところで綾波ちゃん!」

 ――突如、険しい顔つきになったジャベリンがずかずかと歩み寄り、ぐいっと頭に顔を近づけてすんすんと鼻を鳴らし始めた。
 何が起こっているのか理解が追い付かず、ココアを持ったまま硬直し、為すがままにニオイを嗅がれる。やがてようやく顔を離したかと思うと、今度は鼻先に険しくも愛らしい顔が突きつけられた。

「すごく潮のニオイがする! 綾波ちゃん、お風呂まだでしょ!」

 その勢いに圧されながら、綾波はこくこくと正直に頷いて答えた。
 ジャベリンはぎゅううっと眉間に皺を寄せて、渾身の怖い顔で睨みつけられる。それはそれで可愛いというのは言ったほうが良いのか言わないほうが良いのか悩んでいると、柔らかい手でほっぺたを引っ張られた。あまり痛くない。

「もー! 女の子なんだからもっと気を遣わなきゃダメでしょ! 汗臭いのもダメだし、髪の毛も痛んじゃうでしょーっ!」

 ぷりぷりと怒るジャベリンにどう返せばいいか分からずラフィーに視線を向けると、いつも通りのマイペースでぐびぐびと酸素コーラを煽り、ぷへーっと甘ったるい息を吐きだしていた。

「‥‥どっちでもいい。ラフィーも疲れた時は帰ってすぐ寝る」
「きゃーーっ、信じられなーい! ほんとにもー! ほんとにもーっ!」

 むきーっと頭をかき乱しながら、ジャベリンは救いを求めるように指揮官に視線を向ける。

「指揮官は汗臭い女の子イヤですよね? お風呂上がりの甘くてふわふわした匂いの綾波ちゃんのほうがいいですよね!?」

 必死なジャベリンの訴えに、綾波はふと指揮官へと視線を向けた。

「指揮官、綾波、汗臭かったですか?」

 何かを察して赤くなるジャベリンをよそに、指揮官はおもむろに立ち上がると、覆いかぶさるように綾波を抱きしめた。そのまま頭に顔を埋めて、ジャベリンと同じようにすんすんと鼻を鳴らす。

「‥‥うん、潮と汗のニオイもする。それから、火薬のニオイも。あとは、太陽のニオイと女の子の甘い匂い。別に嫌じゃない、かな」

 さらに顔を赤らめるジャベリンと、ソファに深く沈み込んで酸素コーラを飲んでいるラフィーに見られながらで少し躊躇われたが、ゆるゆると手を伸ばして、指揮官の背中に腕を回す。

「‥‥綾波も嫌じゃない、です」

 ぎゅっと腕に力を込めて、指揮官の胸に顔を埋める。指揮官のニオイは、深く染み込んだコーヒーのニオイ。その奥にわずかに感じるのは、洗剤のニオイだろうか。そして、指揮官のニオイとしか説明できない、なにより安心するニオイ。
 コーヒーの香りも好きだけれど、やっぱりこうして感じる指揮官の匂いが一番好きだ。
 指揮官の温もりに身を委ね、瞳を閉じて幸せなひと時に身を浸す。
 唐突に訪れた甘い静寂を破ったのは、いったいどこから声を出したのかというジャベリンの珍妙な叫び声だった。

「ンもおぉぉーっ! いつまでやってるんですかっ! ほんとにもー! ほんとにもーーッ!」

 指揮官が離れ、視界に顔を真っ赤にしたジャベリンが映り込む。ラフィーは、ソファに横になって眼を閉じていた。

「ほら、綾波ちゃん、一緒にお風呂行こっ! ジャベリンが背中流してあげるから! あーもう、ラフィーちゃんも寝ちゃダメ!」

 腕を掴まれ、強引に引っ張られる。思わず指揮官を振り返ると、苦笑を浮かべてひらひらと手を振っていた。

「行っておいで。ニオイとかより、疲れてるだろ。休める時に休んで、遊べるときに遊んでおきな」

 そう促され、綾波はこくりと頷いて、小さく微笑んだ。

「指揮官も、無理しちゃダメですよ」
「分かってるよ。‥‥また、後でおいで」
「はい。また、夜に」

 少しだけ意味深な笑みで手を振る指揮官に、わずかに頬を染めて小さく手を振り返し、執務室を後にした。

1.-2

 大股で歩くジャベリンにぐいぐいと引っ張られるようにしながら、大浴場に到着する。
 各陣営の寮にも浴場は用意されているが、清掃や管理が難しくなった今は重桜の大浴場が共用として使われている。

 重桜が選ばれた理由は、元々の利用頻度が高く整備が行き届いていたからだ。他の陣営では入浴が軽視されがちのようで、どちらかというとジャベリンのような反応を見せる方が少数派といえる。今も、脱衣所に置かれている服はほとんどが重桜艦のものだ。

 半分目の閉じたラフィーがジャベリンに服を脱がされているのを横目に、ひと足先に浴場のタイルをぺたぺたと鳴らす。
 湯船に入る前に洗い場に腰かけて湯を浴びていると、いつの間に入って来たのか、笑顔のジャベリンに素早く背後を取られてしまった。

「綾波ちゃん、ジャベリンが髪洗ってあげるね」
「いえ、自分で出来ますから‥‥」
「ダ~メっ。綾波ちゃん、どうせテキトーにざばざば~って洗って終わりでしょ。ジャベリンがもっとちゃんと洗ってあげるから!」

 こう言い出したら譲らないのがジャベリンだ。早々に諦めて、黙って身を委ねることにした。
 ジャベリンは満足そうに頷くと、頭からシャワーをかけられて丁寧な手つきで髪を梳く。汚れをひとつひとつ落とすようにゆっくりと撫でてから、わしゃわしゃとシャンプーの泡が立つ。ジャベリンの指先の心地良さに、全身の力が抜けていくのを感じた。
 手持無沙汰に正面の鏡を見つめていると、度々鏡越しにジャベリンと目が合い、その度にジャベリンは楽しそうな笑顔を浮かべる。いつも思うことだけれど、笑っているジャベリンは可愛いなと、憧れに似た感心を抱いていた。

「えへへ、こうやってみんなで遊んでるの、やっぱり楽しいね」
「これは、遊びなのです?」
「遊びだよ。友達と一緒にいて、楽しいって思えることしてるんだから、遊び」

 よく分からないけれど、そういうものかととりあえず納得しておいた。ジャベリンが楽しそうで満足しているなら、それだけで十分だと思ったから。
 けれど、そうして語りかけてくれているジャベリンの表情が明るいものばかりでないことくらい、気付いていないはずもない。

「‥‥ジャベリン。疲れてるなら、無理をしなくてもいいですよ」

 ぴたりと、髪を洗うジャベリンの手が止まる。目の前でシャボン玉がひとつ、パチンと儚い音を立てた。
 しばらく鏡越しに見つめ合い、その手が頭から離れたかと思うと、ぺたりと背中から抱き着いて、頬が触れ合うほどの距離に寄り添った。

「‥‥うん、疲れたよ。疲れちゃった。ホントはジャベリンね、もう出撃なんてしたくないよ。偽物って分かってても、毎日毎日、大好きな友達を沈めたくなんてないよ。‥‥もう、ヤだよ」

 耳元で囁くジャベリンの声は、彼女らしくなく弱々しい。友達の見慣れない姿に、なんと声をかけるべきか分からなくなってしまう。
 回された手にそっと自分の手を重ねると、こんな時でもキラキラと輝く翡翠色の瞳が優しく細められた。

「でもね、ジャベリンは学園のみんなのこと大好きだから、頑張るんだよ。帰ったらみんなとこうやって笑い合えるから、ジャベリンも絶対に帰らなきゃって思えるんだよ」
「そう、ですね‥‥。綾波も、そう思うです」

 大切な人の顔を思い浮かべて、小さく頷く。鏡越しのジャベリンは嬉しそうに笑みを深くして、むにむにと頬を頬で押しつぶされる。サンゴのように綺麗な髪が、視界の半分ほどを覆って揺れていた。

「だから、綾波ちゃんもジャベリンといっぱい遊んでくれなきゃダメだからねっ」

 そう言うジャベリンの声はいつも通りの明るさで、先程までの弱さはすっかりどこかへ消えてしまっていた。

「‥‥はい、構って欲しい時は、いつでも言ってください」
「えーっ、それじゃジャベリンが寂しい子みたいじゃなーい!」

 おどけた声で不満を漏らしながら、さらにほっぺたを押し付けてくる。もちもちしていて気持ちいい。
 そうして甘えるジャベリンとくすくす笑っていると、なにやら静かで力強い視線を感じた。
 顔を横に向けると、いつの間にか目の前で座り込んでいたラフィーがじっと綾波を見上げている。

「‥‥別に、構って欲しいわけじゃないし、ラフィーも髪を洗って欲しいわけじゃない」

 じっと見つめられて、綾波はふふっと堪えきれない笑みをこぼした。

「じゃあ、ラフィーは綾波が洗ってあげるです。ジャベリンみたいに丁寧じゃないかもしれないですけど」
「綾波がしたいなら、してくれてもいい」

 言うなり、ラフィーはいそいそと椅子に腰かけて綾波に背を向ける。小さくて細い肩が待ちわびるように揺れ、肩に乗った水滴が肌のどこにも引っ掛かることなく床の上に滑り落ちた。
 わしゃわしゃとかき回すラフィーの髪の毛は、雲に触れているように柔らかく心地良い。時々ジャベリンが綾波の背中に張り付いて、雑な洗い方を咎めるようにラフィーに手を伸ばしたりしながら、いつもと変わらない流れの緩い時間を過ごす。
 こんな時間も悪くない。
 そう思いながら、頭の片隅では指揮官の大きな手の感触を思い出していた。

 ×××

 お風呂を出て、3人で騒がしい夕食(騒がしいのはほとんどジャベリンだった)を終えると、すぐに解散して各々の寮へ。寝て起きれば、すぐに次の出撃が待っている。いつまでも遊んでいられるような余裕はなく、明日に備えて少しでも体力を蓄えておかなければならない。
 2人と別れてから、しかし綾波は重桜寮とは別方向、執務室へと足を向けた。

 扉に掛けられた〝OPEN〟と書かれたプレートを確認してノックと同時に扉を開けて中を覗き込むと、明かりが点いたままの執務室にしかし指揮官の姿はなかった。部屋に漂う香りはまだ温もりを残している。
 指揮官の机を覗き込むと、PCの隣に置かれたマグカップの中にはわずかに残るコーヒー。それを確認してから自分の席に着くと、大量に積まれた書類の中から適当にいくつか選び出し、仕事をしながら指揮官の帰りを待った。

 以前のように明るい騒ぎ声が聞こえなくなってしまった学園でも、日中はそれなりに色々な音が聞こえてくるものだ。だが夜になると、本当の静寂が訪れる。
 この時間では艦船のほとんどが休んでいるか、夜戦に出ているかのどちらか。窓の外から聞こえてくる音は、風の音と波の音。部屋の中に響くのは、紙の擦れる音と打鍵音。
 物寂しさはあるけれど、漂うコーヒーの香りがそれを柔らかく覆い隠してくれる。

 やがて、廊下の向こうから響く足音にぴくりと顔を上げ、仕事の手が止まる。足音は執務室の前までやってくると、ノックされることなく扉が開き、眠たげな指揮官が姿を現した。自然、頬が緩んでしまうのを自覚する。
 指揮官は綾波の姿を認めても特別驚いた様子を見せず、一度綾波の前まで来るとわしゃわしゃと頭を撫でて頬に触れ、唇を触れ合わせてから自分の席に腰を下ろした。

「もう、終わりますか?」
「うん。まあ適当に、飽きたら終わるよ」

 ひどくいい加減なようで、それが現状。
 人員を増やそうにも、海軍本部は自分たちの利権が及びづらいこの学園のことをよく思っていない者も多く、直接的な協力には積極的とは言い難い。
 そのための秘書艦だが、今の艦船たちにそんなことをしている余力はない。
 手を抜かなければ、指揮官は睡眠時間すらマトモに確保することが出来ないだろう。現在も夜戦に出撃している艦隊があり、24時間仕事が積まれ続けているのだから。

 ――いや、削ることの出来る時間が、ないわけではない。

 だがそれは綾波にとって、そうであって欲しいという願望も含めて指揮官にとっても、なくてはならない時間。仕事なんかよりも、よほど大切な時間。
 だから、何があってもその時間を削ることなど出来るはずがない。
 隣の席で手伝いをしていた綾波は早々に手伝いを切り上げて、机に突っ伏すようにしながら指揮官を見上げる。一度だけ、指揮官は手を伸ばして頬をくすぐってくれた。

 そう長くない待ち時間の後、指揮官は時計を見上げて大きく体を伸ばすと、「今日はもういいか」と面倒くさそうに呟いてPCの電源を切った。
 片付けとも言い難いそれの後に立ち上がる指揮官と同時に綾波も腰を上げ、ぴったりと指揮官に張り付くようにしてその後に続いた。
 執務室を出ると、部屋の扉に掛けられたプレートをひっくり返し、〝CLOSED〟の表示を表に向ける。この表記がある時は、指揮官は奥の自室で休んでいるということだ。
 執務室にこんなもの、常時であればふざけているとしか思えないだろう。だが今は、そんなことはあまりにも些事(さじ)だった。

 執務室のある廊下をさらに奥へと進むと、使用頻度の少ないものを詰め込んだ倉庫があり、さらにその奥にあるのが現在の指揮官の部屋。
 元は倉庫として使われていた場所だが、今は執務室から離れることさえ許されず、強引にスペースを空けて作った場所だった。
 綾波は先にその部屋へと足を踏み入れると足早にベッドへと駆け、ごろりと仰向けに寝転がって指揮官を見つめた。
 すぐに、指揮官もベッドに膝を乗せると、覆いかぶさるように綾波を上から見下ろした。

「指揮官、今日もいっぱい、お願いします‥‥」

 ――毎夜求め合うようになったのは、いつからだろう。

 初めてを捧げた頃のような初々しさとは違う色をした、激しい衝動。どれだけ疲れていても抑えることの出来ない、強い欲求。
 求めに応じて、指揮官は綾波の身体に手を伸ばす。一枚ずつ服を脱がされて、皮膚と皮膚が直接触れ合う。皮膚と粘膜が擦れ合って、粘膜同士が混じり合う。指揮官の動きに合わせて、ベッドが揺れて音を立てる。
 指揮官に触れられるたびに身体の奥から幸せがこみ上げてきて、戦闘の辛さも苦しさも全て忘れてしまうことが出来る。どれだけ痛みを抱えていても、指揮官がその全てを覆い尽くしてくれるから。

 指揮官だって本当は、すぐにでも眠りたいほど疲れているはずだ。それでもこうして毎夜求めに応じてくれるのは、きっと指揮官も綾波と同じだから。
 視界の全てが指揮官で埋め尽くされて、頭の中の全てまでが指揮官でいっぱいになる。

 指揮官が好きだ、愛している、気持ちいい。

 戦いの行く末なんて、本当はどうでもよかった。
 指揮官と一緒に居られるなら、それだけで十分だから。

 綾波は指揮官が好きで、指揮官は綾波が好き。
 それが、今の綾波の求める全てだった。

コミトレ34「やみあやなみ」試し読み

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コミトレ34「やみあやなみ」試し読み

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