果実の汁はカタツムリ

腐った果実

 『カタツムリの苗』を植え替えた鉢は、いつの間にか玄関から庭先へと移動していた。

 妻に問えば、『気持ち悪いから』という納得の理由を顰め面で告げられた。
 しかしまあ、それはそうだろう。
 腐葉土の中に埋まっていた殻から生えた根も茎も、水不足で萎れ気味のスイートバジルそっくりな葉身もその脇から発芽した新芽も全部、どう見ても植物に違いはない。なのに、枝分かれした茎の先端にぶら下がる半透明の茶色い粒の集合体が、種でも蕾でもなく『カタツムリの卵』であることが何となく分かってしまう。
 この小さな球体の中で『生物らしい命』が形成されて、何れは殻を食い破って外へ出てくる──そんな確信が、恐ろしくもずっと胸の中に居座り続けている。きっと妻も、私と同じ予想を頭の中で立てているのだろう。だからこそ無性に気味悪く感じているのだと思う。
 自由研究の課題にするなどと言って意気込む息子はもう殻の家主を死なせた日の悲しみもすっかり忘れているらしく、大変に呑気なものである。
 とはいえ──飼育ケースの中でそいつがにょっきりと芽を出したばかりの頃はまだ、私も妻も息子同様に生命の神秘を感じる余裕はあった。死んでしまったらもうそこでお終いだと思っていただけに、違った形で再度生まれ出でた新たな命に感動すら覚えたものだ。
 だからこそ、対処が遅れてしまった。
 まさかここまで成長するとは、誰も思っていなかった。
 卵が葉陰に覆われる程小さかったこともあり、最初に私が見付けた時にはもう十粒程の塊になって茎から垂れ下がっていた。それがこれから開く蕾か何かと解釈したまま、カタツムリの卵だという発想を湧かせるところまで行き着かなかった、ということも──対応が遅れた原因の一つになっている。
 何せその時、当の息子はまだ気が付いていなかった。
 我々が先に見付けた段階で、苗を処分しておくべきだったのだ。
「こっそり捨てちまったらどうだ」
 観察がすっかり日課となった息子がウキウキと庭先へ出て行った隙を見計らい、ある日私は思いきって妻に話を持ちかけた。
「さすがに気付くわよ、そんなことしたら」
 妻は却下も非難もせず、私が提示した案の欠点を指摘しただけだった。
「別の苗とか買ってきて置いとけば分からないだろ」
「でも。あの子ももうアレを見付けちゃってるんだし」
「じゃあ、あのまま卵が全部孵化するまでうちに置いておくってのかよ。大惨事になるぞ、うちの庭」
「私だってそんな気持ち悪い光景見たくないわよ。でもどうしようもないじゃない」
 厄介事に発展する前に何かしら行動を起こしたい派の私と、息子の気持ちを優先したい現状維持派の妻とで意見がぶつかり合う。危うく口諍いになりかけたが、観察日誌と筆記用具を抱いて家の中に戻ってきた息子の満面の笑みを目にして、私も妻も口を噤んだ。
「カタツムリ(・・・・・)草(・)、どうだった?」
先に声を掛けたのは妻だった。
 一人の女として私と本音をぶつけ合った直後にも関わらず、子を慈しむ母親の姿を即座に演じられるところはさすがというべきか。
「卵、孵ったか?」
 妻に続いて私も父親の顔を慌てて繕う。息子は勿体ぶるようににこにこと笑うばかりで、返事をしない。答えを催促するべくもう一声掛けようとして、ふと気付いた。
 小さな口が、もごもごと動いている。
 飴でもしゃぶるかのようにでこぼこと、頬が上下に伸縮している。
 嫌な予感に駆られて思わず横目で妻を見やると、彼女も笑顔を引きつらせてこちらを見てきた。
「ケンジ……何食べてんだ?」
 父母の注目が自分に集まっていることに気をよくしているらしい。息子は得意げに大きく開口して、んべえ、と舌を突き出してみせた。
 健康な色味の舌の上に。
 半透明の茶色い殻が、びっちりと貼り付いている。
「──ヒッ」
 妻の口からか細い悲鳴が零れた。
 息子はクイズ番組の司会者気分なのか、こちらの質問に対する答えを視覚的に教えてくれた後も、得意げに舌を垂らしたまま、一向に言葉を発さない。
「それ……何だい」
 危うく叫ぶところを何とか耐えて、改めて言葉での説明を要求する。
 もしかしたらこちらが勝手に“あの苗の卵”だと決めつけて勝手にショックを受けているだけで、実はポン菓子とかそういうポケットに入れていたものを何となく口に含んだだけかもしれない。
「カタツムリ草の卵!」
 ──そんな淡い期待は、あっさり裏切られた。
意気揚々と朗らかな声を上げた息子の、その予想外にまで飛躍した好奇心にさすがの私も絶句する。
「観察しようとして顔近付けたらね、甘い匂いがしたの」
「たべ、食べたのか全部」
「ううん。ひとかたまり分だけ。あとは残しといた!」
 そんな理由で食うなよ虫を。残しておけばいいってもんでもないよ。
 いや現時点ではまだ虫の卵と確定してはいないけど、でも。
 カタツムリの殻の中から生えてきた草が実らせたやつだぞ。
 無知ゆえの好奇心は大人の頭では理解が及ばなすぎる。そのせいか、どうしても良き父親らしい表情を作れない。私の隣では妻がショックのあまりわなわなと体を震わせている。考えることが多すぎて、回路がショート直前なのだと私は察した。
「ね、ちょっと来てみて! すごい甘くて美味しいんだよ!」
 幸か不幸か我々の動揺は気取られず、息子は興奮気味に手招きをしてから背を向け、また外へ飛び出した。
 私と妻は顔を見合わせる。
 血の気の抜けた顔で『どうしよう』と聞いてこられたが、それはこちらの台詞でもあるので答えに窮してしまう。
 しかし、息子を放っておくわけにもいかないので、どちらともなく土間のサンダルに足を突っかけ、恐る恐る後を追いかけた。

「ほらほら!」
 軒下の日向に置いた鉢植えの前で、息子はまだ手招きを続けている。
 匂いを嗅いでみろということだろう。近付くことさえ嫌だとでも言いたげに鉢から離れて様子を窺う妻に代わって、息子の隣に並んで屈む。
 腐葉土に根を張るカタツムリの苗に、一見特に変化はない。
 しかしよく見てみると、卵塊の数が確かに一つ減っている。以前まで重たげに頭を垂れていた茎の、その先端にぶら下がっていた筈の茶色い塊がそこには無い。
 本当に食べてしまったのか。
 駄目押しに新たな証拠を見せつけられて、今更になって体に震えが来たようだった。
「ね、匂いするでしょ?」
 共感を求められて我に返った私は、嫌々ながら思い切って鼻を近付け、すんすんと息を吸ってみた。
「あ」
 ふわり。
 と──微かに甘みが香った気がした。
「本当だ……」
「ね!」
 メロンのような、リンゴのような、果実特有の匂いがした。
 仄かにキュウリ臭さも混じっているような気がする。何れも、カタツムリ(殻の宿主の方)が生きていた頃に、我が家で与えていた食材であることは覚えている。
「うちであげてたやつが、栄養になったのかな」
そうかもなあ、と呟くと、息子は嬉しそうに目を輝かせる。
「……ちょっと味、見てみようかな」
「やだ、止めときなさいよ」
 妻に制止されたが、好奇心を抑えられず、私は息子の手に掛からなかった卵塊の一つに指を伸ばす。
塊を形成する小さな卵は、軽くつついただけでいとも簡単にぽろりと剥がれ落ちた。隙間からは芯が見えた。岩壁などに産み付けられているタニシの卵塊のそれに見た目は近いが、構造的にはブドウと同じらしい。
 数粒がぱらぱらと土の上に落ちて駄目になってしまったが、そのうちの二三粒は辛うじて掌の皺の隙間にキャッチできた。
 もう一度、鼻を近付ける。
 果物の甘い汁の匂いと、野菜から染み出る青臭い水の匂い。
 カタツムリの死骸から生え育った草がつけた実を──親が腹に抱えていたかもしれない卵を。
口に含む前に念押しとしてもう一度、嫌悪的要素を思い出してみたものの──『それでも食べてみたい』という好奇心は拭えない。
私は皺の隙間に挟まったそれに、ざり、と舌を這わせた。
 磨り潰すように上顎に擦りつける。
 ぷちゅり、と殻が潰れた途端、
「──お」
甘い果汁が、咥内にじわりと広がった。
「どう?」
 息子に味の感想を急かされる。
 最初にメロンの味がして、次にスイカの味がして。
 最後に、キュウリの青臭さが鼻を抜けていった。
 成る程。これは確かに──
「……美味い」
「えーやだぁ」
 妻が嫌悪丸出しの声を上げた。
 ドン引きしているであろうことは声を聞くだけで充分伝わったが、それでも味の感想を彼女にも伝えたくて、振り仰ぐ。
「いや本当だって。何だろうな、メロンとかそういう味がする」
「嘘ばっかりぃ」
「いや嘘じゃないよ。ちょっと、騙されたと思って食ってみろよ」
 童心が騒いだ私は、息子がそうした時と同じように妻に向かって手招きをする。彼のように興奮する程感動は大きくないが、それでも息子が我々を強く誘った気持ちが、当事者になってみてよく分かった。
「だって、卵でしょそれ」
「卵、じゃないと思う。キイチゴとかあんじゃん。そういうのと似たような──木の実の一種じゃないかな」
「嫌よ、絶対」
「じゃあ、匂い嗅ぐだけでもさ」
 息子の親切心を無下にするなよ、と目顔で訴えると、妻は渋々鉢の前まで来て屈んだ。
 鉢の向きを変えて別の卵塊を手前に移動させ、ほら、と促す。妻は露骨に嫌そうに顔を顰めたが、観念したように顔を突き出し、鼻をひくつかせた。
「……あ」
「な?」
 妻の眉間に刻まれた皺がすっと消えたのを見て、私も息子も更にテンションが上がる。
「てっきり土臭い匂いでもすると思ってたのに」
「不思議だよなあ。……どう、一粒だけ」
「……ん~、じゃあ……一粒だけ」
 あれ程嫌がっていた妻が、とうとう味に興味を示し始めた。
何か麻薬的な良からぬ成分でも含んでいるのではないかと一瞬妄想に駆られたが、たかがカタツムリの死骸から生えてきた雑草にそんな毒物めいた効能があるわけもなかろうと思い直して、黙っておく。
「……あ、本当だ。甘い」
「だろ? 何だろうな、これ」
 もう一度味を見ようと卵をちまちま採取し始めた私を見て、僕も僕もと息子が真似る。
 でも程々にしときなさいよ、と窘める妻は一粒分の甘露を味わったきり、卵塊に手を伸ばそうとはしなかった。意外と美味だという事実を受け容れはしたものの、やはり抵抗は拭いきれなかったようだ。
 結局、苗に実っていた卵らしき果実は、私と息子とで一つ残らず平らげてしまった。

  *  *  *

 その日の深夜である。
 喉の渇きを覚えた私は、寝惚け眼で半身を起こした。
今日一日の間に何か塩辛いものでも食ったかと記憶を辿るが、思い当たる節はない。
 水でも一杯飲んでくるか、と掛布を退けたところでふと──へばり付くような不快感を喉に覚えた。
 痰でも絡んだかと思い、咳払いをしてみるも効果は無い。
 風邪の前兆でなければいいが。
そんな不安を抱えた矢先──
ぬるん。
と──咥内で何(・)か(・)が蠢いた。
体を起こそうと半身を捻らせたまま、硬直する。
 舌の感触ではなかった気がする。第一、自分の意思では動かしていない。もっとこう、オクラとか、メカブとか、ぬめり気の強いものを口に含んだ時のような。
 気のせいで済ませたくて、舌も動かせず暫くそのまま神経を研ぎ澄ませていると──
 ぬるん。
 再び同じ感触に襲われる。
 先程と違って、今度は脳もすっかり覚醒している状態だった。
 口の中に、何かがいる。
 疑念が確信に変わるや否や、凄まじい怖気に襲われる。瞬時に込み上げた吐き気を抑えられずに激しく嘔吐くと、少量の唾液と一緒に口の中からぽたぽたと、小さなものが掛布の上に落ちた。
 光源のない室内は真っ暗闇で、慣れつつある目でもそれが何なのかまでは視認できない。掛布の上に転がったそれは──周りが暗いから目が惚けてそう見えるだけだと思いたいが──じりじりと、非常にゆっくりじりじりと、布の上を這い進んでいるかのように見えて仕方がない。
 隣で眠っている妻とそれとを交互に見やり、散々躊躇った末──私は電灯の紐を引っ張った。
 ぱちぱちと一二度点滅した後、蛍光灯は眩く発光する。
 掛布の上に散らばっていたのは。
 豆粒サイズの小さなカタツムリだった。
「──ひ、」
 危うく飛び出しかけた悲鳴を呑み込み、無意識に喉をさする。
 ──カタツムリの、赤子。
 昼間に食ったあの小さな果実は、やっぱり死んだカタツムリが土中に産み落とす予定だった、卵の塊だったのだ。
「げえ」
 一気に喉までせり上がってきた夕食の一部を、小さなカタツムリの上に吐き戻す。発酵臭にも似た自分の吐瀉物の匂いと、その中でまだじりじりと蠢いている粒をうっかり目にして、また吐き気が込み上げた。
 胃の内容物を全部出そうと暴れる横隔膜を落ち着けようと深呼吸を二三度試みたところで──息子のことを不意に思い出した。
 そうだ。そうだ、あいつ。
 ものすごい量食ってたけど、もしかして。
 エスカルゴスープの染み込んだ掛布を丸めて脇に退かせ、私はすぐさま跳ね起きる。隣の布団で妻がケンケンと軽く咳き込んでいるのが聞こえた気がしたが、悪いと思いつつ息子の方を優先して寝室を飛び出した。

「ケンジ……?」
ノックもせずにドアを開け、潜めた声でそうっと名前を呼んでみる。
 子供部屋の中は暗く、常夜灯も点いていない。廊下の電気を点けるも足下が少し照らされるだけで、部屋の奥までは届かない。
 それでも、ベッドの上でこんもりと膨らんでいる掛布は見えた。
 けっ、けっと唾を吐き出す音と、鼻を啜る音が中から聞こえてくる。
「ケンジ、大丈夫か」
 不安を煽らないよう、普段の調子で再度声を掛けてみる。
 私の声が聞こえたのか、かまくらのように膨れた掛布の上部が持ち上がり、こちらを振り向くように捻れた。
「ぱぱあ」
べそをかくような声と共に掛布がばさりと剥がれ、シーツの上に落ちる。ベッドの上で動いていた影は、足を床に付けて立ち上がると、のそりのそりと鈍い動きで私の方に近付いてきた。
 声も出せて歩けるなら、とりあえずは大丈夫そうだな。
 思い描いていた最悪の事態は杞憂で終わりそうだ、と安堵の笑みを思わず零した──その矢先。
 廊下に出てきた息子の姿に、緩んだ心身が急激に冷えた。
 顔から胸元から手足まで──
 息子の体には、大量のカタツムリがへばり付いていた。
「ぎもぢわるいよお」
 唇が大きく小さく動く度、開いた隙間から小さな巻き貝がぼたぼたぼたと零れ落ちる。
 真っ赤に充血した両目の縁の周りから、鼻水が垂れっぱなしの鼻腔から。口の中だけに留まらず、顔中の穴という穴を出入り口に、小さなカタツムリがのさばりっている。
 腰が抜けて尻餅をついた私の足下に、息子がカタツムリを嘔吐する。
 ぱらぱらと床板を打つ貝の音は鼓膜に残り、眼前の悪夢はいつまでも覚める気配はない──。

果実の汁はカタツムリ

果実の汁はカタツムリ

飼育ケースの中で死んでいたカタツムリの殻から、植物が芽生えていた──。 夏休みの自由研究にすると言って意気込む息子を前に、得体の知れない苗が実らせた果実が『カタツムリの卵』にしか見えない「私」は、苗の処分を巡って妻と意見を交わす。そんな時、苗の観察を終えた息子が何故だか弾んだ様子で戻ってきた。もごもごと、『何か』を転がすように口を動かしながら……。 Twitterでも投稿していたキモいお話をこちらにもペタンコ。

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