みかえり 長篠合戦異聞
昔はこんな渋い時代小説を書いてました。3年ほど前の作品です。今はちょっと、まーるくなってますが・・・・
一
暗い橅林を抜けて、草深い山道から月夜の明るい田んぼ道に降りていく途上で、阿部四郎兵衛は、
「・・・・・・またか」
と、つぶやいた。誰にともなく、人知れず、つぶやいた。
就寝してほどなく、戸板を蹴破る勢いで、川下の作兵衛が飛び込んできた。眠っている妻子ともども、四郎兵衛は起こされた。
「どうかしたのんか」
「と、と、とにかく来てくれりんよ」
村医者の仕事に、突発事態はつきものである。慌てるな、とゆるゆると立ち上がったその肩を引っ張って、作兵衛は急を訴えてくる。
「早う」
「いったい、なにが起こったんだのん」
察するに、どうやら喧嘩である。狭い山間の村では、珍しいことでもない。体力と精力の有り余っている若者が、三人集まれば酒を飲んで力比べをする、男自慢をする。となると、大抵の場合、その決着は表へ出ろ、と言う運びになる。
しかし、四郎兵衛が、心底うんざりした気持ちで、ひとりごちたのは、その日常茶飯事になっている喧嘩が、ただの喧嘩ではないということを十分に理解していたからに他ならなかった。
道をしばらくいくと川堤の姥桜の樹の枝に乱れはためいて、男物の帯が引っ掛かっているのが見えた。四郎兵衛は、不吉な予感を禁じえず、同道の作兵衛の顔を見返した。
当の作兵衛は、その帯と四郎兵衛の顔を見比べながら、状況を上手く説明できるほどに頭の中が整理されていないらしく、
「い、いやも、もう、手がつけられんぞん・・・・・・」
非常事態の空気は十分読み取れる。月明かりの下でみると、そう言う作兵衛の左目の下も赤黒く腫れて、肉が持ち上がってしまっていた。ただ、医者に出来ることは怪我の応急治療と予後の処置で、ことの最中になにが出来るのでもないことを分かって呼んだのか、四郎兵衛はともかく、状況を把握することが先決だと思った。
「まず、落ち着け」
四郎兵衛に言えることは、それしかなかった。村医者の四郎兵衛に、荒くれ者の作男を押さえ込める力はこの作兵衛ほどもないのだ。
「・・・・・・で、喧嘩しとる者らは、どこにおるんかのん」
うろたえながら、作兵衛はあぜ道の向こう、川沿いの一軒のあばら家を指した。そこは鈴木金七と言う若い衆がいる家だった。
「金七の家の田の種まきが済んだ後、若い衆集まって、みんなで飲んでおったんよ・・・・・・」
話が川泳ぎのことになったと言う。近在の若者は、泳ぎ自慢が多く、夏場は度胸試しに滝坪へ飛び込んだりと無謀なこともしたがる。
「誰が泳ぎ度胸があるか、話しょったら金七のやつが、いきなり立ち上がって・・・・・・・」
わけのわからないことを叫んで暴れ出した。本当に突然だと言う。とめに入った温厚な作兵衛は、不幸にも誰かにとばっちりの鉄拳を喰って、まっさきに土間から外へ叩き出されたらしい。
「そうか。うん・・・・・そら、災難だったのん」
四郎兵衛は心底、同情して言った。
金七のうちまで近づくと、入り口の藁は吹き飛ばされているし、農具や茶碗、野良着など少ない家財道具が、そこら中に散乱していた。髪を振り乱して、子どもを抱いて放心しているのは、その金七の女房だろうか。作兵衛は遅うなった、とばたばたと駆け寄って、
「けいよう、金七のやつは、どこ行きよったんだのん」
女房のけいは、うつろな表情のまま、川原の方を指した。砂利と薄く潅木が生える川原の向こう。確かに耳を澄ますと、まだ人の争う声と物音が聞こえてくる。
「・・・・・・・・・・・」
四郎兵衛と作兵衛が、二人で思わず顔を見合わせたときだった。
「・・・・・・おうーい、どこだや、喧嘩ァ・・・・・」
恐らく、作兵衛以外の誰かが報せに行ったのだろう。村主が、若い衆を連れてぞくぞくと現れた。
「下かのん?」
誰かの問いに、作兵衛が肯いて状況を説明した。すると、三人ほど川原へ若い衆が降りていき、金七をとめたか、闇の向こうから怒鳴り声と、暴れまわる水音が聞こえた。
「四郎兵衛どん、駆けつけてきてくれたんかのん」
村主は、首を掻きながら、言った。四郎兵衛と顔を見合わせると、深いため息をついて同じぼやきを漏らした。
「またか・・・・・・・・」
喧嘩に人数が増えたせいか、余計に騒がしくなってきている。事態の収拾には夜明けまでかかる。村主は暗い目で四郎兵衛をみて、
「ったく・・・・・毎度、おしんにも手間をかけるのん」
と、重々しい口調で言った。
この長篠周辺の村では、ちょうど一年前、田植え時の五月一日、大きな戦があった。甲斐から遠征してきた武田勝頼率いる軍勢に、侵略されたのである。長篠城を包囲した一万五千の武田の精鋭をしのいで三河・尾張からの援軍を待つために、動員された兵士たちは、二十日間、地獄の籠城戦を強いられた。
四郎兵衛は志願しなかったが、その凄まじさはことあるごとに聞かされている。絶えず鳴り響く銃声や発射された矢の風切音、武者押しの声、城中の兵糧はほどなく尽きて、裏切り者や潜入者の流言に押しつぶされそうになりながら、城兵たちは戦ったという。
中でも、錆び槍一本、胴丸に陣笠を支給されて前線に回された村の作男たちの晒され続けた命の危険は、想像を絶するものであったと聞く。
戦が終わってほどなく、四郎兵衛はそうした激戦の後遺症を抱えたものたちと、ことあるごとに接してきたりしていただけにそれを人並みよりは、分かっているつもりだった。武田の荒武者に囲み殺しに殺されるのではないか、と言う恐怖の二十日間は、やむをえない事情でそれに参加させられた人間たちを知らぬ間に蝕んでいる。その症状は、傍目には分からないくせに彼らが日常生活に戻っても中々回復しない、非常に厄介な性質のものだった。
四郎兵衛が知るあるものは、夜中不眠を訴え、時折、物が憑いたようにたびたび、暴れ出すようになった。また、戦乱のあった長篠城付近に近づきたがらず、そこにくると、全身が硬直したり、呼吸が出来なくなったりして、そのままその場から動けなくなってしまう者などもいた。
彼らのほとんどは、戦時に徴収される足軽働きの者たちで、領主への義侠心や、あわよくば雑兵から仕官の夢をみて志願した者たちで、これまでも野戦に参加したりしているのだが、山城に籠もって、しかもいつ来るとも知れない援軍に薄い希望を持って戦い続けるなどと言う経験はもちろん、したことがない。城を守ることが出来なければ生計がなりゆかない武士たちとは、根本的にモチベーションが違う。身体に刻み込まれた恐怖が、今でも再燃することがあっても、それは無理からぬことなのだ。
だが、そうだからといって放置しておくわけにもいかない。彼らは自分ばかりでなく、ときに血縁をはじめ自分の周囲のものたちの迷惑となる。そうなれば本人も孤立を深め、余計に収拾がつかなくなる。四郎兵衛は、そうしたものたちが訴えるたびに気付け薬を出してやったり、時折話などを聞いてやったりするのだが、こうした事件が起こるたびに、長篠城の戦後の暗澹たる雰囲気は、まだ村に、わだかまりを残したまま消えていないことを痛感させられるのだ。
二
喧嘩は、だいたい、夜明けごろまでには収拾のめどがついた。作兵衛を入れて五人のけが人が出たが、骨が折れたり、歯が折れたり、日常生活に支障を来たすようなものが出なかったのが幸いだった。金七の女房に湯を沸かしてもらい、四郎兵衛は応急の処置をした。
四郎兵衛は、けが人の処置は手馴れている。話がつけば、横一列に並べて、さっさと処置をするだけだ。
「・・・・・・・いてえ」
とばっちりで怪我を負った五人のうち、二人は、村主の手前矛を収めたが、本心では無論、納得していない顔だった。彼らは一様に、鼻が曲がり、紫色の瘤や痣で人相を変えられるくらいにまではやられており、お互いの顔を見合わせれば、不満もくすぶって当然だ。
「・・・・・・あいつ、どえらいへぼいもんじゃんか」
彼らには彼らの言い分があるのか、二人は愚痴をこぼしては目顔で、うなずき合っている。
「仲間おいて逃げようた、くそだわけじゃあ」
「おれたちに言える義理でもあろまいに・・・・・・」
背後で金七の女房のけいがいたたまれなさそうに立ち上がって去っていくのを気配で感じながら、四郎兵衛は黙って処置を続けた。
そして、当の金七も、随分と派手な風貌になっていた。
愚痴をこぼしている二人とかち合うと、また喧嘩が始まる虞があるために、金七は最後に治療を行った。一晩、村の衆にこっぴどいつるし上げを喰らい、女房に愛想をつかされた彼は、さぞや尾羽打ち枯らした体で現れるだろう、そう、四郎兵衛は思った。
しかし、その金七が現れたとき、四郎兵衛は目を瞠った。
上背は、五尺八寸(一七四センチ)は固いところだろう、赤銅色に日焼けした肉体はしなやかな筋肉で覆われており、いかにも喧嘩が強そうにみえた。なにより、目立つのは腰が高く、脛が長く足が大きいこと―――剽悍で、瞬発力に長けている証拠だ。低重心の典型的な農夫の体型とは違い、手足を振り回して戦場の戦働きには仕事をしそうなのは、誰がみても分かった。
金七は、どっかりと四郎兵衛の前に座った。長い脛をどかりと投げ出すような格好だった。三十前ほどの歳で、眉毛や髭が薄く、削いだような瞳はじめ目鼻立ちも淡白だが、それがかえって、ふてぶてしい迫力を与えている。みるからに、しぶとそうな男である。
四郎兵衛は知らぬうちに、この男に見惚れていたのだろう。気づいて金七は、顔を上げて不機嫌そうに鼻を鳴らした。喧嘩の後で気が立っているのは明らかだった。四郎兵衛は視線を落とし、それを、拳をみせるように、と言う、合図にした。四郎兵衛は、無言で両の拳を突き出してきた。
(こりゃあ、ひどくやったのん)
四郎兵衛は思わず苦笑した。金七の両の拳は肉が裂け、骨が見えかけている箇所すら、あった。特に右手を色々なところに叩きつけたらしく、手首の捻挫はひどいものだった。ただ、掴まれて着物が伸びたり、髪を乱されたり、引っ掻かれたりした他は、ほとんど目立った傷はなく、五人の若い衆を相手に立ち回りしたとは到底思えないほどだった。
血はほとんど乾いていたが、念のため焼酎で洗った後、傷薬を塗り、晒しを巻く。金七は、前の二人とは違い、いっさいの言い訳もせず、無言で、自分の拳の辺りをじっと見ていた。
(・・・・・・この男が臆病者なはずはあろまい)
四郎兵衛は金七の言い分を聞いてみたかった。しかし、金七はそれに関しては一切話す姿勢を見せなかったらしく、今、自分が聞いたところで無駄そうだった。
「終わったぞん」
「・・・・・・ああ」
処置が終わると、金七は低い声でそういうだけで、怪我をした自分の姿を確認していた。気が立ったのが少し冷静になってきたのか、そのとき、ちょっとだけ顔を上げて、処置をしてくれた四郎兵衛に軽く目礼だけした。
三
そんなことがあってから、四郎兵衛は金七に興味を持つようになった。幸い、四郎兵衛のもとには村の人間がよく出入りする。聞けば、噂話はいくらでも集められた。
「金七か」
先夜の事件のようなことが実は小競り合いを含めたびたびあり、話を聞こうとすると、彼らは一様に複雑な顔をした。
「まあ、おれは、よく知らんのんけど」
と、話は、ほとんどが誰から伝え聞きした、と言う感じの出だしから始まるのが常だった。
「あいつ、ひとりで逃げよったそうじゃぞん。仲間おいてのん」
ともかく敵前逃亡をした、と言うのが、金七が後ろ指を指される理由のようだったが、それだけの話では、合点がいかない部分も多い。さっきも言ったように、金七はそのような男には見えない。
これは四郎兵衛のもった印象ばかりではなく客観的にみても、間違ってはいなかった。金七は幼い頃から喧嘩も強く、かつては親分肌で、地元の若い衆の信望も厚かったと言う。決して臆病者ではないし、むしろそんなイメージを裏切るような、無鉄砲で無頼な逸話が、金七にはいくつもあった。げんにその点を指摘すると、今までしたり顔で噂話を並べ立てていた誰もが、
「いやあ、なにしろ、人から聞いた話じゃって、はっきりとは言えんことやからのん・・・・・・・」
と、途端に金七を臆病者だと非難する語調のなりをひそめるのだ。
(なんで、臆病者だとと呼ばれるようになりようかのん)
時折出かけると、あぜ道で金七がひとり、鍬を肩にかけ、長い膝を抱えて自分の土地を眺めているのが見られた。四郎兵衛に気づくと、多少の会釈はするが、鉄のような無表情は微塵も動かない。もちろん、近くにいる仲間の輪には、ほとんど加わろうとしなかった。
「作兵衛、金七のやつはどうしよるかのん」
そんな金七を心配している作兵衛にも、四郎兵衛は折に触れて聞いた。金七の素行は日を追って荒れているという。女房子供もいたたまれなくなり出て行く算段をして、金七の親兄弟がそれを必死で止めている。それでも火がついたように、金七の諍いごとは治まらないらしく、作兵衛の耳にはそんな話ばかりが入ってくる。
あの金七には、いったい、なにがあったのか―――
あるとき、顔の腫れの引いた作兵衛に、四郎兵衛は熱心に聴いた。すると、それまで金七に関する噂話には加わらないようにしていた作兵衛が、意を決したように、
「いや、金七は逃げちゃあおらんぞん。わしは知ってるのん」
「なんやと」
「金七は援けを呼びに行きよったんだのん」
「後詰を」
四郎兵衛にも、多少の心当たりがあった。
勝頼の軍勢が長篠城を包囲して二週間あまりたったころだった。
大軍に包囲された長篠城を、有志で選ばれた密使が危険を犯して脱出して、岡崎にいる徳川家康に救援を頼みに行ったという。激戦で兵糧も尽き果て、多くの城兵が明日にでも武田に乗り込まれるのではないか、と恐怖に堪えていた頃だったから、救援を呼びに行ったものがいる、と言う話だけでも、大分日々の支えになったらしい。
「それが金七じゃったんか」
思わず感嘆してから、四郎兵衛は疑問を感じた。確かその密使は、岡崎へ援軍を呼ぶのには成功したが、それを伝えに長篠城に戻ろうとして、命を落としたはずだ。
「確かそりゃ、鳥居の兵蔵言う男でなかったかのん」
近在の鳥居と言う村に、兵蔵と言う若者がいた。その男も腕に覚えのある若者で、武士になりたくて、自分から強右衛門(すねえもん)、などと名乗っていたらしかった。
『すねえもん』の『すね』は、ひねくれものとか拗ね者のすね。その男はその名乗り名に相応しく、武田勢の拷問にも屈せず、最期は城の前で磔にされ、串刺しにされて壮絶に果てた。実はよう、と作兵衛は、その話を聞くと苦々しげに顔をしかめて、
「金七のやつはその強右衛門と、連れ立って城を出よったんや」
声をひそめて話を続けた。
四
長篠城で後詰要請の密使を出す相談がなされたのは、五月十四日のことだった。五月一日から始まった長篠城の包囲は、十日に至ってさらに厳しいものになっていた。二連木、牛久保の二つの城を陥落させた武田軍が、続く吉田城の包囲を解いて、その総勢力を長篠城に向けたためである。
武田の寄せ手は昼夜を問わないものになった。竹束を盾に二の丸渡合口まで絶え間なく寄せてくる軍勢を、貞昌は城中から出ては追い散らし、中からは銃弾や竹矢を射掛けさせて撃退する。物量で攻めてくる敵勢を貞昌はよく捌いていたが、戦闘が本格化して寄せ手の数が激増したこの頃からは、城側の死傷者も目立ち始め、城中でも全滅が囁かれるようになっていた。
貞昌は十四日の未明、城中の人間全員を集め、現況を報告した。まず城内の人手は、当初の五百人から、自分たちの一族も入れて、七十名足らずになっており、またそのうちのほとんどは、連日の戦闘で息も絶え絶えになって疲弊していること、さらに悪いことには重傷を負い、身動きが出来ないものも多いことなどを確認した。
また物資に関しては、兵糧の蓄えは後四日、矢玉はまだ保ちそうだが、武田が金掘り衆を動員して何度も土塁に穴を開ける作戦を展開し出したため、持ちこたえられるかは、鍔際であるという見通しであった。
貞昌自身、前日は野牛郭で決死の戦闘を経験し、武田の工作兵を討ち取り、散開させている。しかし、いくら討ち取ろうと雲霞のように軍勢は沸き、しかもその攻めは昼夜に及ぶ。城を出て決死の奮闘をするにも、それが幾度可能であるかは疑問であった。
げんにこうしているうちにも外には、武田の武者押しのひといきれが押し迫る気配や、金物を使い土塁に穴を穿とうとする音が城のどこにいても、間断なく聞こえてきている。武田の軍勢が土塁を破って城内に乱入してくるのも、時間の問題だった。
「そいで、救援の密使を募りたいのだのん」
貞昌は言った。籠城戦を持ちこたえる貞昌の一縷の望みは、援軍の存在である。岡崎には徳川家康がいる。五月一日に吉田城で武田を撃退した家康は、岐阜の織田信長の軍勢を待って反撃に備えていた。岡崎の家康に急報すれば、必ず援軍は出してもらえるはずであった。
しかし、援軍を呼ぶ密使を出すとなると、その密使は十中八九死ぬことは、明白だった。武田は長篠城封鎖にあたって、水も漏らさぬ警戒網を敷いている。密使が岡崎に到達するどころか、行っても捕縛されて無駄死にの可能性のほうが格段に高かった。
貞昌が声をかけた時点で、城内で誰も名乗り出るものはいなかった。至極、当然のことである。単身で敵陣を潜り抜けるのだ。この穴倉から出れば死ぬ、と言う恐怖心にさらされて、なお、死中に活を求めて外へ這い出す決意を即座に持てるようなものは、その場にはいようはずがなかった。
「誰ぞ、おらぬかのん」
貞昌の声は、雑多な騒音のなはだしい城内に空しく響き渡るだけだった。彼にも、提案した作戦の無謀さが分かってはいる。二度目の呼びかけは、力強いものではなかった。
「このままでは犬死じゃぞん」
ものどもも、首を追って不安そうに首をすくめるだけだった。彼らは一様に硝煙と煤、それに人血で汚れた顔に紅く濡れた瞳だけを血走らせ、もはや城中でいつ起こるか知れぬ非常事態にしか、気を配る神経はなかった。この先、このまま戦うことの絶望を知りながら、そこから走り出る気力が出ないのは、当然のことと言えた。
「ほだら、しばし、待とうまい」
沈痛な空気を悟り、貞昌は言った。硝煙で汚れた若い顔に、失望が見えていたが、それを覆い隠すかのように、わざと鷹揚な声を出した。
「夕餉を摂った後、我はと思うは名乗り出よ。・・・・・出来れば、なるべく早ければ助かろうのん」
「どうするかのん」
作兵衛は反射的に、隣の金七に聞いた。金七は、足に出来た肉刺(まめ)の皮を剥いでいた。顔に似ず、神経質そうな手つきだった。
「行く」
金七は、無造作に即答した。さすがに作兵衛は目を瞠り、
「でも、死ぬかもしれんのん」
「・・・・・ここにおれば、どの道死のうまい」
金七は、作業をやめて、身体をのばして木の枝を拾ってきた。そこに、Y字形の二股の線を描き、
「この二股の上の付け根が長篠城だのん。下の渡合を通って大野川を降れば、どうにか敵陣からは抜けられようぞん」
長い間、金七はこのことを考えていたらしく、説明が簡潔だった。この長篠城は滝川(現・寒挟川)と大野川の合流地点が織り成す三角形の崖の上にある。大野川を挟んで東と、滝川に沿って西から攻めて来る武田の本陣を掻い潜るには、もはやその手段しかないように思えた。作兵衛は不審そうに聞いた。
「そいで、本当に抜けれるかのん」
金七は少し考えた末に、こくりとうなずいた。渡合に面して野牛の郭に不浄口がある。ここは川沿いで藪に隠れており、もともと人の出入り口でもないために、両川の対岸にいる武田勢からは発見されにくい。
「今行かんと、もはやかなわんぞん」
幸い、五月雨が地を叩いている。貞昌も、城を抜けさせるなら、今夜が絶好の機会と睨んだのだろう。もはや城内の状況から考えても、この機を逃すことは出来まい。
「おしんはどうする」
作兵衛は思わず顔をそらした。
「・・・・・・わしは、わしは・・・・・よう泳げへんもん」
「ほか」
金七はため息をついた。作兵衛は申し訳なさげに顔を上げた。金七は微笑し、ほだら、しゃあないのん、とつぶやくように言った。
「ほだら、わし、ひとりで行くわ。・・・・・作兵衛、おしんは、そん命落とさんように、ここでしっかり護りんよ」
金七は身の回りを整えると、ゆっくりと立ち上がった。それは覚悟がついたら、一人で行くことを最初から決めていたかのような、そんな未練のない仕草だった。
金七は志願の意志を伝えに行った。しかし、彼が志願するより先に、密使を志願したものがすでにあったと言う。鳥居の強右衛門と言う名の男だった。
「わしぁあ、大たあけか」
男気を見せようと一大決意をした面目が立たなかったからだろうか、金七は、不満げだった。しかし、城側としては失敗の可能性の多いこの任務にあたる人間は、多ければ多いほどいい。強右衛門と金七、二人を脱出させることにした。
強右衛門は年、三十六。金七よりも七つも年上だった。薄い顔の金七とは対照的に顔が濃く、ぎょろりとしたどんぐり眼に、眉毛や、もみ上げの毛が天に逆立って萌えていた。彼も近在では名の通った暴れ者で、将来いっぱしの武士になることを公言しており、今回の戦役にも進んで参加したという。剣術、馬術、組討の鍛錬に努め、雷鳴のように声がでかい豪傑肌の男だった。
「この城を抜け出るには、水練の上手でなきゃあかんぞん。しっかり着いて来りんよ」
強右衛門は豪快な笑い声を立てて、金七に言った。金七は不満ながら、無言でうなずいている。強右衛門はちょうど金七と同じことを建策したらしく、金七に、ほとんど同じ説明をしたらしい。出遅れて名乗った手前、気後れがあるし、年上で親分肌の強右衛門の気に呑まれてなにも言えなかったことで、金七は苦々しげな顔をして押し黙っていた。
そんな金七の鬱屈をまるで気にもかけない様子で、強右衛門はしきりにその肩を押し抱いて、話しかけた。
「おいおい、そんな、しけた顔はあかんぞん。おしんとわしはもう死んだ身だのん。腹決めたら、ぼちぼち、行こまい」
出立に先立って、少量の酒肴が振舞われる。さすがに二人は、言葉も交わさずにそれを頂くと、ものが見えにくくなる未明、城を抜け出した。横殴りの強い風が、ひっきりなしに叩きつける五月雨をさらに掻き乱しており、脱出には絶好の晩だった。
「・・・・・・・で?」
四郎兵衛は続きを促がした。すると作兵衛は、酸いものを口の中で飲めずにいるような顔つきで、
「金七は、城を抜け出しゃしたようじゃが―――一向、戻っちゃこなかった。強右衛門のやつは岡崎に行って、また戻ってきて捕まりよったけど、金七はそれから、影も形も見当たらなかったんだのん」
そうしているうちに、強右衛門の急報を受けて設楽ケ原に、徳川・織田の連合軍が着陣し、武田勢は長篠城の包囲を解いて主戦場に向かった。さらに、二十一日、武田軍が惨敗し、命からがら甲斐へ撤退していったことで、長篠城の死闘は報われた。金七が帰ってきたのはそれから、ほどなくしてのことだったと言う。
金七は、髪乱れ、着ていた服も破れてはいたが、少し足を引きずる他は、身体に目立った傷は負っていなかった。家族のものはもちろん喜んだし、作兵衛自身も飛び上がるほど嬉しかった。金七は、野垂れ死にしたかと思っていたからである。なにしろ、同道の強右衛門があの通りの最期を遂げたため、詳しい事情も知らず、金七の家族にも確とした説明が出来なかったからだ。
ただ、戻ってきた金七は最初、脱け殻のようだった。以前は無愛想ながら人付き合いもあり付き合うとその実、面倒見も悪くなかったが、あれ以来、身辺に誰も近づけず、終日、独りで黙り込んで過ごしていた。それでも家族の説得もあってか、戻ってひと月をすぎる頃には野良仕事にも出るようになったが、その様子は以前の金七から、まったく様変わりしてしまっていたと言う。
「金七はあれからのこと、なにも言わなんだわ」
そうなると、骨抜きになった金七に、陰口を叩くものも自然と増えてきた。金七がなにも反論しなかったのも、いけなかった。作兵衛もことがおきかける前に何度も取り成したが、金七が一方的に言われるがままでいるせいで、逆にことが収まらない。
「実は、あの晩の大喧嘩、あれはそれが昂じたせいだのん」
金七よりも大分年若い男たちが、戦場に行きもしないくせに、金七を臆病者だと罵った。いい加減にしろと、作兵衛が立ち上がろうとした矢先に、突然、金七の右拳が対角線上に椀酒を啜っていた男の顔面を捉えたのだ。
「ほいでも、金七は言い訳ひとつ、しんかった。・・・・・ほんにあいつを暴れさすのは、あいつをいじくる村の衆がせいだのん」
「ほうか」
作兵衛も頭を抱えているようだった。しかし、四郎兵衛は不思議に思った。戦後、金七は黙してあのときのことを何も語らなかった。そしてそれまでどんな陰口を叩かれても、暴れもせず、抜け殻同然だったのだ。それがなぜ急に暴れ出したのだろうか。
からかうものの度が過ぎたと言えばそれまでだが、金七に翳射す何かが、この一年で彼の心を荒ませたと考えて間違いはなかった。あの晩、長篠城の不浄口から、救援に飛び込んだ金七に、いったいなにがあったのだろうか。そして、金七はどうしてそれを人に語りたがらないのか―――
四郎兵衛の脳裏に土手に独り腰かける、金七の蔭のある佇まいが再び浮かんできていた。
五
それからほとぼりが冷めたらしく、金七の噂は聞かなくなった。心配していた作兵衛も、さすがに忙しくなったのか、こちらに顔を出さなくなり、四郎兵衛も生業に追われる日々を送っていた。
四郎兵衛が往診の帰りにふと見あげると、農繁期にも拘らず、草深い青葉に覆われた長篠城では、城の解体工事が行われている。
領主の奥平貞昌はかの戦功で、盃を賜り、信長から直接一字を与えられ、信昌の名乗りを許されたと言う。家康からも大般若長光の名刀を贈られ、知行も三河では作手、田嶺、長篠、吉良、田原、遠江刑部、吉備、新庄、山梨、高部併せて三〇〇〇貫の破格の加増を受けた。長篠の山城では不釣合いになるのも、当然のことだ。
あの死闘の戦功だけに、奥平家では大分羽振りがよく、在郷のものたちも田を家族に任せて、喜んで作業に参加しているようだ。そのため、村々では景気もよくなり、あの死闘があったことなど、実感も薄れかかってきていた。四郎兵衛は依然として、あの籠城戦の後遺症に悩む人々を見るたびに、自分もまた時の流れに身を任せていることに、自戒の念を禁じえなかった。
(金七はどうしておるかのん)
そんな四郎兵衛がふと、思い返したのは、ある土砂降りの一日であった。三日降った大雨で氾濫した川の堤の様子を見に行ったものの中で、怪我人が出て、四郎兵衛は一晩中その対応に追われていたところだった。
(・・・・ほげな晩に、強右衛門と金七は、飛び込んだんじゃろか―――)
暗い、雷雲のように澱んだ川に滑り落ちた男たちが、戸板に乗せられて運ばれてくる。彼らは一様に全身を擦り剥け、血と泥で黒く汚れていた。
あれから幾人か、村で、あの戦いに参加した人たちの話を聞く機会があった。四郎兵衛がみるに、そうした人たちと、あの金七は、やはり、どこか別の面で、あの戦に対しての気持ちの在り処が違うように思えてきていた。
金七は懼れてなどいないのだ。確かに強右衛門と同様、想像し難い死の危険にさらされ、なにかの具合で奇跡的に還ってくることが出来た。しかし、である。
かの戦の記憶が金七につけた傷は、他の人間と違う場所にある、と言うだけでその深さや痛みには、それほど変わりはないのだ。金七はそれを強靭な精神力で呑み込んでいる。それは臆病者とそしられようと人から遠ざけられようと、呑み込まなくてはいけない何かがあるゆえで、心から臆病者などではないのだ。
夜を徹した治療を終えて小康状態になると、四郎兵衛はようやく、一息つくことが出来た。家へ帰って朝方に、小皿に八丁味噌を塗りつけ、寝しなに茶碗で焼酎を啜って身体を休ませていると、ようやく小降りになってきた雨の中から、蓑笠を被った作兵衛がやってくるのが見えた。
「どうかしたかのん、こんな朝早くに」
かけつけ二杯程度の酒で、四郎兵衛はもう身体がだるくなってきていた。徹夜の疲れた身体に、朝酒は効くのである。作兵衛は緊張した面持ちで中へ入ってきたが、笠もとらず、土間に突っ立ったままだった。
「四郎兵衛どん、あんな・・・・・・・」
「なんがあったか知らんが、おしんもあがれ。わしも、今帰ってきたところだのん・・・・・・」
なにを言葉にしたらよいのか、迷っている作兵衛の沈黙を肌で、感じて、四郎兵衛も、言葉に詰まった。
「なんぞ、あったんかのん」
四郎兵衛がいくら促しても作兵衛は、青い顔をして押し黙っている。それで、やがて四郎兵衛の方がはっとして、
「金七がどうかしたかのん」
と、訊くと、作兵衛は喉のつかえが下りたように気を吐いた。
もしかしたら昨夜のは、虫が知らせたのかもしれない。そのとき、ふと思った。
「話しよ。黙ってちゃあ、わからんぞん」
なにかを振り払うような仕草で首を横に振った後、ついに作兵衛は言った。
「金七のやつ、酔うて滝川に落ちた・・・・・・」
急報を受けて、四郎兵衛がとるものも取り敢えず、現場へ駆けつけたときには、下に落ち込んだ金七の身体を村の衆が集まって、引き揚げているところだった。
「四郎兵衛どん、昨日から災難続きだのん」
老いた村主が心底うんざりしたような顔つきで言った。
金七が落ちたのは、どうやら昨日の未明辺りらしい。川堤の作業に行く行かないで、金七は女房のけいと揉めていた。このところの金七は、またろくに仕事もしなくなっていたらしい。当然、村の集まりにも当然顔を出さないので、割のいい長篠城の解体の仕事にも誘ってもらえず、日々喧嘩が堪えなかったようなのだ。
とうとうその晩、けいは出て行った。この雨の中である。うちには子供を置き去りにしていた。金七はやむを得ず飛び出した。これでもまだ、女房を心配する気持ちは残ってはいたのだ。
「そんで、自分が川にはまってりゃあ、世話ねえよ」
土砂降りの中、しかも酒の入った金七が足を滑らせても、昨晩の様子では無理もないことだと、四郎兵衛は思った。
「おし、みなで上げまい」
掛け声をあげて、みなが金七を戸板に縛ったまま、縄をつけて土手へ引っ張りあげた。一晩、濁流に揉まれたのか、金七の身体は、泥で汚れてはいなかった。しかし、右足のふくらはぎに岩で削いだような大きな傷があり、それが裂けて血が滲んでいるのと、前頭部の黒い瘤のようになった打撲傷が痛々しかった。
だが、金七の生命力は異常なものだった。あれだけの傷を負ったわりには命に別状はなく、一通り手当てを終えると昏睡したままでも、血色はある程度、健康を取り戻した。
ただ、問題はむしろ、別のところにあった。
「このくそだあけ、くたばりゃあ、よかったんだ」
戸板に載せられた金七を運び込もうとすると、金七の父母が出てきて拒否した。金七は酔って暴れただけでなく、出て行った女房を殴ったらしい。けいはこの雨の中、夜通し実家へ駆け戻ってしまったため、二人はこれから謝りに行くところだというのだ。
「働きもせんと、毎日だーだー酒ばかりくらいよってからに」
金七の両親は、すっかり愛想をつかした口調で言った。我が子ながら、気持ちが治まらないのだろう。今はどこへなりと、連れていけ、ともかくここには置けん、と、おらびたてる。どうやら、ほとぼりが冷めるまで、金七はどうあっても家には帰れなさそうだった。
「どうしよまい・・・・・・・」
一向は顔を見合わせた。
「作兵衛、おしんとこはどげかのん」
作兵衛は申し訳なさそうに、言った。
「・・・・・わしんが家は、おっかあが伏せって寝とるんよ」
「・・・・・ほいたら、しゃあないのん・・・・・わしが預かるしかないか」
四郎兵衛はため息をついてのち、頭を掻いて言った。どこにも受け入れ先がないのであれば、とりあえず、村医の四郎兵衛のところで一時預かるしかなかった。
「四郎兵衛どん、ほんに、世話をかけるな」
作兵衛は拝むようにして、四郎兵衛に言った。
四郎兵衛は、さっき知らせた予感を思い出しながら、戸板の上の金七を見下ろした。雨と己の血に濡れて、当の金七は依然、身じろぎもしなかった。
六
運び込んでほどなく、金七は熱を出した。雨に打たれたのもあるが、傷が熱を生んだのだろうと思われた。四郎兵衛は、金七の右足のふくらはぎの傷が気になっていた。あれはどうも、前にした古傷が再び裂けたものである。戻ってきた金七は少し、足を引きずっていたと聞いていた。傷は一年前のものだとみていい。野牛郭の不浄口から、渡合に飛び込んだときについたものかもしれない。他にも色々想像は出来るが、金七が、話が出来るようになるのには、まだ時間が掛かりそうだった。
四郎兵衛はその間に、他にしなくてはならないことがある。第一に、とにもかくにも、まず自分の女房を説得することである。金七の噂が近在に聞こえているだけに、これが難物だった。
金七はその日から三日、意識を取り戻すことはなかった。目を覚ましたのは、雨が上がり、気温が上がった昼過ぎである。長雨の後で四郎兵衛の家の庭はぬかるんでいる。そのとき、四郎兵衛夫婦は野良仕事に出ており、金七は薄っすらと目を開けて、その姿勢のまま、庭の柿の木の根元に咲いた紫陽花を眺めている。
「お、気がついたかのん」
四郎兵衛が声をかけると、金七は髭だらけの顔を向けた。
相変わらずの無言である。
だが金七はものを問いたげな顔で辺りを見回した。四郎兵衛は丁寧に経緯を説明してやった。雨の中、金七が川沿いの土手で足を滑らしたこと、それを作兵衛が見つけ、四郎兵衛のところに運び込んで治療したこと。金七はその話をうつろな表情で聞いていた。四郎兵衛は金七の様子を見るために、話していくうちに、自然と膝を進めて顔を近づける形になった。すると、
「おしんは、この前の晩の・・・・・・」
「ああ、作兵衛から話は聞いておろうかのん。・・・・・村医の四郎兵衛じゃ」
金七は身体を起こしかけた。
「おっと」
四郎兵衛はそれに介添えすると、
「頭の傷はもうええじゃろうが、その足ん様子じゃ、立っては歩くことは出来んじゃろう。古傷が開いておろうからのん」
はっ、と金七は布団をのけて、怪我をしている我が足をみた。
「骨を折っておらんのが不幸中の幸いだのん」
金七の表情をうかがいながら、四郎兵衛は聞いた。
「この足は一年前の傷かん」
金七は静かに、うなずいた。なにかを言葉にするには、まだ時間が掛かりそうに、四郎兵衛には見えた。少し顔を伏せた金七の色を失った唇が、かすかに震えている。
「四郎兵衛どんには・・・・・・たびたびの世話をかけますのん」
やがて、金七は言った。深くうなだれ、頭を下げた。四郎兵衛は黙ってうなずいた。なぜだか、四郎兵衛は初めて、この男の本来の感情に触れられたような気がした。
金七が戻って翌日、作兵衛が見舞いに来た。よく熟れた瓜が四郎兵衛への礼だった。金七には、家の様子を語っていった。金七は、作兵衛の話を黙然と聞いていた。
「おしんさえ、元に戻ってくれたら、よかろうのん。おしんがふた親も、おしんがおらなんだら、仕事にならんぞん・・・・・・」
なんとかけいは戻ってきて、後は金七次第だと言うのに、金七はそれに関してはなにも意見を言わず、ただ、むっつりと無表情でいた。作兵衛も根負けと言うか、呆れて帰っていく。
「なんでほげな男になってしもうたのかのん・・・・・・」
うな垂れる作兵衛の言うとおり、金七は抜け殻のようだった。しかし夕刻になり、四郎兵衛が金七の傷の具合を見ていると、
「謝らんとあかんことは、わしにも、分かっとるよ・・・・・」
と、ぽつりと言った。この男なりの何かは、考えているには違いなかった。
落ちた拍子に、腰を強く打っているらしく、金七は立つことは出来なかったが、次の日には這って出られるようになった。
四郎兵衛は往診に出なくてはならないことがあるので、日常は主に女房が世話をしてくれていた。四郎兵衛の女房は文句を言わず、黙々とやってくれた。村内では大分噂話も飛び交い始めているだろうに、四郎兵衛は居たたまれない気持ちだった。
特に、出先で、女ひとり、男盛りの世話をさせて大丈夫なのか、と言う言葉が耳に入った時には胸が痛んだ。もちろん、心配にはなったが、自分の女房が、そうした好奇な話題の俎上に上らせてしまったこと自体に、申し訳ないと思っていた。
「心配しんでいいよ。あん人は静かな、ええ人だのん」
ある夜、聴くともなく、金七の様子を聞くと、四郎兵衛の女房は微笑んで、普段の金七の様子について二、三話してくれた。
「えらい乱暴もんじゃ、て聞いてたけど。違うね」
起き上がって三日経つと、金七は家の近くまでは出られるようになり、作兵衛にも取り成してもらい、家に帰ることになった。
「けいのやつも、おしんが坊主らも、待っておろうぞん」
「分かっとるよ」
四郎兵衛は夫婦ともどもで金七を見送ったが、特に心配はしていなかった。なぜだか、ここ数日で金七の顔に憑いていた思いつめた何かはなりを潜めており、金七の本来の部分が蘇えってきているように、四郎兵衛たちには思えたからだ。
金七は家に戻った。けいとも、きっちりと話をしたようだ、と作兵衛が報告してくれた。それからは何事もなかったようである。金七の夫婦はもともと、仲が良かったらしい。四郎兵衛も時折、金七が女房と連れ立って歩いている姿や、子どもと遊ぶ姿を見るようになった。人付き合いも以前のように無愛想ながらするようになって、悪い話は次第次第に、聞かなくなったと言う。
(ええことじゃ)
四郎兵衛は安心していた。
四郎兵衛のもとに、金七が手土産の雉と焼酎を手に、ひとりでやってきたのは、その年の秋のことであった。村では大方半期の収穫が終わり、ようやく皆も一段落ついた頃である。昨年と違い、戦もなく、今年は領内も穏やかに秋を送れて四郎兵衛もほうぼうに招待されたり、みなを招待して賑やかに日々を送っていた折だった。
「金七が?」
金七は、改まった表情をしていた。四郎兵衛はまたなにかあったのか、と、初夏のようなことを想起したが、
「なあ、四郎兵衛どん、・・・・・・実は折り入って、おしんに頼みがあるんだのん」
と、頭を下げて言われた時、思わず居住まいを正した。
「まあ、金七どん、頭を上げ・・・・・おしんの話は気入れて、聞こう。ほだら、上がって話をしてくれりんか」
金七は上がらず、ぜひについてきて欲しい、と懇願した。なにか、本当に立ち入った話をしたいのだろうと、四郎兵衛は思った。手土産を女房に渡すと、四郎兵衛は、金七の言うとおりに、ついて出ることにした。
十月に入るころであった。山深く、天気の気まぐれな対岸の御岳山の辺りでも、涼やかな秋晴れの空が広がっている。ぽつりぽつりと熟れすぎた実を残した庭の柿の木の彼方、長篠城のあった山の向こうにも、すすき雲が三条ほど、筆で刷いたように棚引いていた。
軒を出る金七の視線は、はるか長篠城に合わせられていた。四郎兵衛は、なにげなく、聞いた。
「どこへ行くのかのん」
「四郎兵衛どん」
金七は言った。
「わしが話は作兵衛から聞いておりますかのん」
「ああ、大まかはのん」
話はそのことのようだった。支度をしながら、歩いて話をするように、四郎兵衛は促がした。
「・・・・・・話はそんことです」
金七は神妙な口調で言った。
七
強右衛門は、金七とこれからの計画を復唱した。二人はこれから、城の野牛郭の不浄口から出て、城の岸壁にしがみつき、そのまま渡合へ下りる岸を探す。
そこから二つの川岸にいる武田の軍勢をやり過ごし、下流に流れ、上陸地点に至る。ここまでは金七も考えがあったが、そこからは、強右衛門の計画のほうが具体的だった。渡合から入って南西へ、川を下っていくと、そこから北の雁峰山に至るポイントがあると言う。どうにかそこに泳ぎ着くことが出来たら、後は雁峰山からは陸路の道止めを警戒して、山路を駆ける。
「これでなんとか、一晩で岡崎まで走れるはずだのん」
計画は無茶もいいところだったが、強右衛門の言葉には不思議な説得力があった。
「わしは水練でこの辺りの水流、また実地に歩いてこの辺り地誌もよう知っておるでのん」
なぜそこまで、と金七がそういう顔をするのを、強右衛門は待っていたのだろう。照れくさそうに頭を掻きながら、
「昔から、わしは武士になりたくてのん」
兵法の初歩じゃろう、地の利を知るのは、と嬉しそうに語った。
(不思議な男だのん)
年が上と言うだけではない。強右衛門にはどこか年齢を超えた人懐っこい稚気と、気さくなところがあるようだった。
かと思えば、二人で雨を眺めながら時を待っていると、ふと真顔になって金七の顔を見つめて、
「金七、先に取り決めておきたいのだが」
「ああ」
「しくじって捕りこめられたとき、辿り着けなんだとき、そのときは互い、捨て殺しでよいかのん」
これは絶対に成功させなくてはならない任務である。当然と思ったから、金七は自然に肯いた。強右衛門は金七の言葉に、にこりともしないで肯き、
「ほだら、確かに。・・・・・こう言うことは先に決めておかねばならんでのん」
と、念を押した。
「見りん」
強右衛門は指を指して言った。滝川の対岸にみえる軍勢は、千人ほどだろうか。この渦巻く雨の中でも、黒くよどんだ御岳山の大きな影の中に、はっきりと見える気がした。彼らはこうして夜通し、川止めを行っている。金七は思わず生唾を飲んだ。
「怖いか」
金七は強右衛門を睨み返した。先を越されたからと言って、見下されたくはなかった。しかし、強右衛門は揶揄したのではなかった。むしろ、優しげに微笑んで言った。
「・・・・・わしも怖いわ。じゃが、あすこさえ、越えてしまえば岡崎にはどうにか行けようまい」
未明にいたって、雨はますます勢いを増している。雲は雷を孕んで、長篠を囲む山々を時折、揺るがした。二人は山あいを沿って流れるこの二つの川の合流地点の荒れようをよく知っていた。これから、天候の具合をみて、出来る限り荒れているときに出るのである。想像するだけで、金七は身震いを感じた。強右衛門も同じ気持ちだろうが、こればかりは、誰を頼ればいいというものでもない。
野牛の不浄口から這い出る前に、意識して二人はすでに言葉を交わすのを止めた。弱音が飛び出さないとも限らない。お互いに、張り詰めていることをわざわざ、確認したくもなかった。
強右衛門が先に這い出して、岸壁に足場を確保した。つま先ひとつ、突っ込めるような場所である。岩肌に生えた松の枝を手で伝い、じりじりと移動していく。ある程度行ったとき、強右衛門が合図をし、金七も意を決して強右衛門に続く。
岸壁は上に向かって大きく張り出しているとは言え、水平に移動するのは度胸さえ決せば、それほど困難な作業ではなかった。背に打ちかかる雨と、崩れ落ちてくる土くれを肌で感じながら、二人は移動していく。目指すは数メートルすぐ眼下にある、申し訳程度の岸辺である。生温かい雨が汗に混じって目に入るのを肩で拭いながら、金七は、必死で後を追った。
強右衛門は後ろも振り返らずに、ずんずんと進んでいく。決して器用そうな男ではなかったが、なにしろ思い切りがよかった。自分の足元で渦巻く濁流や、背後に控えている対岸の武田勢の様子を気にする様子もなく、必要な足場を見極めて大胆に動いた。
真上まで来ると、強右衛門は、慎重に足場を確認して下へ飛び降りた。まるで手本を示したかのようだった。そんな点でも、金七は悔しかった。強右衛門が先行してくれた場所を進み、同じ場所で飛び降りなくてはならない。子どもっぽい対抗心が、一瞬だけ、周囲にはびこる危険への恐怖の存在を忘れさせた。
強右衛門は下で葦をより分けて、足場を作って待っていた。着ているものを脱ぎ、濡れないように頭に載せる。着物は捨てて行ってもよかったが、雁峰山に到達した時に、長篠城中に向かって狼煙を上げる手筈になっていた。二人は黙々と、泳ぐ準備を始める。
辛うじてここが岸であることを示す岩場の向こうは、もうすぐ、暴れうねる水流になっている。二人は呼吸を整え、耳の穴に詰め物をした。敵勢の様子が分からない恐怖心があったが、今から入っていくのは、この轟音の只中である。
岩場で様子をうかがっていた強右衛門が、金七を振り返った。いよいよ、あの濁流の中に飛び出す。入った時に水を飲んだり、取り乱したりしないように、金七はもう一度呼吸を整えた。強右衛門が合図をした。同時に、その身体は消えた。金七はすぐ後を追う。目をつぶって、濁流の中に飛び込んだ。
この時期の雨で滝川は水量を増し、温度は冷たく、金七は顔に生ぬるい雨を浴びながら、身体が一瞬で冷えるのを感じた。渡合は、流れの合流地点である。ぶつかり合う二つの流れで、金七は足から川底に一気に引きずりこまれるのではないかと思うほどの水圧を感じた。なにしろ、身体が上下左右に振られながら、絶え間なく、波がぶつかってくる。
金七とて、地のもので仲間内では泳ぎ巧者で通っていたが、これほどの条件で泳いだことはもちろんない。こう言うときは沈むことを最大に警戒し、下手に流れに逆らわず、身体を強張らせないと言うことをどうにか守ってはいるが、無防備に流されていくこの状態の不安はいかんともし難い。例えば今、敵に発見されたとして、槍をつかむ程度の抵抗も出来ないのである。
先行の強右衛門とて、同様の状態だった。それでもどうにか流れに合わせて自分の姿勢を調節したり、抜き手を切ったりしているが、その様は流れに一枚、笹の葉舟が浮いているより心もとない。金七は作戦の無謀を後悔しそうになる心をどうにか取り押さえた。後悔すればその瞬間に、死ぬしか道はなくなる心持がしたのである。
水面から顔を出した金七を発見したかのように、雷光が煌めく。幸か不幸か、雨足は時を追うごとに、どんどんと強くなっていった。この天候と川模様では、索敵は出来たとしても、これを追捕するための舟は出せまい。考えてみると確かに、城を抜け出るのには、絶好の、そして最初で最後の機会ではあった。ただ、おのおの賭ける命はひとつである。もはや生き死にのことしか考える余裕はなかった。眼前に迫る死を、金七は必死の身のこなしで振り払い続けた。
渡合を抜けようとする頃、川幅が広がり、その分流れの厳しさも和らぎ、幾分の自由が利くようになった。金七は手足を動かし、岸を目指して動き始めた。彼は依然、強右衛門を追っていた。経験の差か、強右衛門は、金七が岸を目指せるようになったはるか前に態勢を整え、その方向に進み始めている。
金七もそれに倣って、岸まで抜き手を切るためにバランスを整え身体を水平にしようとした。その瞬間、波を被り、身体が下に引っ張られるのを感じた。
金七は身体を水面から出そうとして不覚にも、声をあげそうになった。右足首になにかが絡みついていた。最初は川藻か、植物の残骸のような感触だった。しかし、それはくるくると生き物のように、金七の足首に巻かれて、強い抵抗を示してくる。
(網じゃ)
金七の頭にその危惧が走った。武田勢は今宵、舟は出せないにしても、密使を警戒するために網を張ってはいるはずだった。渡合から飛び込んで、金七は強右衛門に従ったから、先行した強右衛門が網を断っておいてくれたと思うが、排除し切れなかったものか、または、はるか昔に切れて流された網の切れ端が、川床に引っ掛かって残っていたのかもしれない。
いずれにしても、その右足首に絡んだなにかが、金七に意外な抵抗を見せたせいで、金七は我を失った。網を切る小柄を用意していたが、それを使う暇もなく、絶え間なく被りこんでくる波に、金七は態勢を整えるので精一杯になった。
はるか前方で強右衛門は、岸に着こうとしていた。もちろん、金七には一顧だにしない。覚悟していたことながら、死の恐怖感にさらされると、余計に金七の心は乱れた。
(ちくしょう)
歯を食いしばって、金七はそう叫ぼうとする自分を堪えた。
右ひざを抱えあげて、背を丸くした態勢の金七の身体が大きく沈められた後、ひときわ大きな波が、金七の身体を吹っ飛ばした。後は、視界は濁流が入り乱れ、もがけど息もつけない水中を落ちたり、上がったり翻弄された。酸素を求めて口を開けると大量の水を飲み、腰が砕けるかと思うほど川床に叩きつけられた。いつまでも終わりそうのない漂流の果てに、金七はいつのまにか意識を失っていた。
八
腰から下を、なにかに揺られている感覚の中で、金七は目覚めた。目を開けると、自分は陸にいた。胸までが岸に乗りあがって、そこから下は、流れに洗われていた。まぶたを押し開けると、視界に、まぶしいほどの陽光が射しこむ。
金七は、声を上げて起き上がった。だが、正確には声はくぐもった呻き声にしかならなかったし、腹筋に力を入れるとびりびりと全身が痛んだ。確かめてみるまでもなく、全身が擦り傷だらけだった。固く締めた褌が一本、腰に引っ掛かってはいたが、持ち物はすべて、後ろの川に流されてしまったようだった。
金七は顎だけを上げた。はるか目の上に天を突き刺すようにそびえる杉の古木が見えた。自分はどこかの岸にたどり着いたことは間違いない。そのどこか、と言うのはまったく見当がつかなかった。遥か下流かもしれないし、それほど流れてはいないのかもしれない。ともかく、同道の強右衛門とは、完璧にはぐれた。
しばらくそうしていて、金七は全身の痛みを押して立ち上がった。腕の筋肉を使って、身体を押し上げた。膝を曲げて地を踏みしめようとして、金七は愕然とした。川床で切ったのか、臑に大きな切り傷を負っている。水で洗われて、傷口からの出血は大分前に停まっているが、これでは山道を駆けることは不可能であった。金七は座り込むと、大きくため息をついた。膝を抱えた。すでに、蓄積していた、途方もない疲労が襲ってきた。
ここはどこなのか。そして、城の様子はどうなっているのか。強右衛門は。混乱した頭に次々と疑問が浮かんでは、消えた。周囲からは、鳥が立ち騒ぐ音か、木々のざわめく音、水流の轟きしか聞こえてこない。まるで昨日までの出来事など、嘘のように掻き消えてしまっている。
「・・・・・・・・・・・」
金七はやがて、ふらふらと立ち上がった。立ち上がるしかなかった。運が良ければ、知っている場所にたどり着くかも知れない。金七の心に、まだ城を出たときの義務感も消えていなかった。いずれにしても、今動かなければ、死ぬにしても完全な犬死であった。
木を伝って、金七は山道を登った。そこに獣道が長く、山のほうに伸びている。樵や猟師の休息場があるかもしれないし、景色のよい場所に行けば、現在地を知る手がかりになるかもしれない。ただそこまでたどり着けるかと言うことも運次第だった。途中で枝を拾った。杖につくにしては曲がりすぎていて、金七はよいものを取り換えながら歩いた。そうして、足を引きずるようにして、山野を流離った。
「川で足をやったのは、わしん不覚じゃった。足を引きずって歩くうち、あれほど覚悟していた死が恐ろしゅうなり、わしは敵や自分の成り行きを恨み、強右衛門のことを恨んだわ。・・・・・恐かった。ひとりで流離(さすら)ういうことは、何人でも何物でもない、おのれの声と相対することだのん。それに、わしは耐え切れんかった」
日暮れごろ、金七はようやく山道を上り詰め、峠らしき場所に突き当たった。見あげると、西日が山の端に溶けて焼けた鉄を垂れこぼしたようだった。泥だらけの顔に伝い落ちる汗も、身体中にとりつく藪蚊も払いのける気力もなく、金七は樫の大木にとりついて、大きく息をついていた。
山中の夏の夜気は口や鼻を覆い塞ぐようだったが、夕刻に至って、思い出したように涼しげな微風が吹いた。頬をなぶる風の行方を目で追いつつ、金七は藪を這い出る道を探して再び歩き出した。ところが、林の手ごろな幹に取り付きながら、なんとか丘を越えた金七は眼下をみて愕然とした。
坂の下を越えたそこは、煌々と篝火が焚かれ、柵木で関が組まれていたのである。白地を紅い横一線で区切った旗印の下で槍を持った番兵が二人、辺りの様子をうかがっている。
(武田の番兵じゃ)
人恋しさに、なりふりかまわない気持ちになっていた金七の心に再び現実感が戻ってきた。殺される。その四字が、すぐに頭に浮かんだ。すると、こちらをうかがっていた番兵のひとりが、ふいに近づいてくる素振りをみせた。金七は胆を冷やした。身も世もなく身体を伏せた。荒い呼吸―――心臓の音まで聞かれているような気がした。もちろん、それは気のせいだった。番兵はすぐに踵を返した。
「どうかしたずら」
と言うようなことを、もう一人が聞く。腰の瓢箪を外し、中身を煽った。酒か、水か。分からなかったが、みていて、金七は思わず喉を鳴らした。
二人は、この後、揃って欠伸や伸びをした。そして、自分たちの組は一日中ここにいるのだろう、暇にあかせた噂話でもするように長篠城を攻撃している本隊の話をし始めた。
話によると、長篠城ではまだ善戦が続いているようだった。口ぶりからすると、長篠城を金七が出てから、およそ一昼夜、意外と時間は経っていないようだった。聞きながら、金七は作兵衛や、城に残った仲間たちのことを思い浮かべた。そして、同道した強右衛門と、あの風雨の未明の記憶が引き出されてきた。強右衛門は無事に岡崎まで着いたのだろうか。
「岡崎から、後詰が来るらしい」
二人の話は次に、長篠城への後詰の話になった。岡崎から、徳川家康率いる軍勢に、岐阜から到着した織田信長が到着した大軍勢が、近いうちにこちらへ出撃してくる気配であると言う。推測ではその動員兵力は四万近く、陣中では包囲を引き払って甲斐へ即時撤兵の噂が流れているらしい。
聞いて、金七はいても立ってもいられない気分になった。長篠城はこれで救われる。金七は快哉を叫びたい気持ちだった。恐らく、強右衛門は岡崎に到達したのだろう。作戦は成功したのだ。
「・・・・・城から密使が二人、岡崎に走ったそうじゃ」
次の言葉を聞き、金七は薮内で反射的に身を硬くした。
「滝川の底網が、何者かに破られておったそうずら、昨夜の雨のひどいときに、密使が出たんでねえか」
「まさか。二人もけ?」
「ああ、あの朝、この雁峰山から狼煙が上がったそうじゃ」
恐らくそれは、脱出成功の合図だ。金七は、複雑な気分を味わった。あの朝(と、いっても半日前だが)、武田はその狼煙をみて、急遽、捕縛の部隊を編成した。そして渡合から下流の大野川の川沿いや、狼煙のあがった雁峰山付近を見張っている、と言うところなのだろう。金七は間抜けな自分と武田勢に、密かに失笑した。
強右衛門は、夜通し岡崎まで駆け、急を告げた。岡崎にいる本軍が進軍を開始するまで、そう、時間は掛からないだろう。もし、後詰に駆けつける織田・徳川の軍勢が自分たちの倍以上の大軍ならば、武田軍としては早々に撤退の準備をすべきだ。どう考えても、帰ってきはしない密使の捕縛に人数を割いている暇などない。ここにいる間抜けな密使のなり損ないならともかく、強右衛門が帰ってくるはずがない。戻ってくるときは、岡崎の四万を連れてくる。百姓の金七にもそれくらいは分かる。
自分と、目の前にいる暢気な雑兵が象徴する武田の空回り加減に不思議な類似があり、金七は可笑しかった。これが、今の今まで、まるで猛毒の毛虫の群れのように、自分たちを追い苦しめていた武田の正体なのかと思うと、近親感すら出てきた。今、城の外にいるのは、己の足元の見切りも覚束無い間抜けばかりだ。
安堵と諦めが張り詰めた心を溶かし、金七は深いため息をついた。ふと、眠くなっていた。金七は、峠に出る道を去り、身体を預けるのに手ごろな木を探した。
そこで、久方ぶりの休息をした。まどろんだのは、非常に長い時間に感じた。金七は子どもの頃の夢を見ていた。妻や子どもの夢も見た。薄い鼾すら掻いていた。もはや、ここで誰かに見つかったとしても、なにほども思う気持ちも湧いてこなかった。
九
四郎兵衛との道中、金七は話し続けた。その口調は、淡々としているように最初は思えたが、彼の中でなにかが堰を切って飛び出したのか、話は時を追うごとに途切れなくなり四郎兵衛は話を聞きながら、歩を休めない金七についていくのに苦労した。
村を出てからどこへ行くのか、と四郎兵衛は思っていたが、渡し場から滝川を渡り、長篠城を望むと、そこから滝川に沿って北上していくように思われた。
四郎兵衛は、さすがに相槌を打つ息も切れかけていた。だが、自分の胸のうちを決壊してこぼれ出してきたものを一気に語りながら、一心不乱に道を踏みしめる金七の姿を見ていると、途中で休もうと言うことは出来ない。山道に至る、その直前でさすがに一度、足を停めた。路傍に腰かけ、沢から汲んできた水を回し飲むと、ようやく一息ついた四郎兵衛は、再び続きを促した。
「・・・・・・で、その後おしんはどうした。敵方にみつからなんだかのん」
金七は首を振った。雁峰山の山狩りは、それほど熱心ではなかったようだ。実は金七が聞いたとおり、武田勢は、岡崎から敵の本軍到着に揺れ、その帰趨定かではなかった。総大将武田勝頼は、戦闘続行の意志を固持し、甲斐への撤退し、体制を立て直すべきだという意見の重臣連と対立していた。その後の設楽ケ原での両軍激突の結果は、言うまでもないことである。ただ、長篠城側としての問題は、このとき、武田軍が囲みを解いて、撤兵の動きを見せなかったことであった。
金七は水滴のついた口元を拭うと、言った。
「目覚めた後、わしん足は長篠城へ向かっておった。武田は兵を退く、そんことをいち早く、せめて岡崎へ行った強右衛門より早う、みなに伝えたかったからかのん・・・・・ともかく、ただ、戻らなきゃあかんいう考えにわしは駆られとった。ただ、それだけの考えじゃ。じゃがそこで、わしは捕まってしもうた・・・・」
雁峰山から引き返し、金七は長篠城に戻ろうと考えた。
足を怪我していたし、岡崎にはたどり着けそうにもない。武田の撤退まで、山中に潜んでいるのが、ここで本来とるべき道だったのだが、長篠城へ再び足を向けたのは、強右衛門に対する意地があった。自分だけ敵陣にはぐれ右往左往して、城方のものたちにも、顔向けが出来ないと思った。後詰が来着するという吉報を、なんとか伝えたかったし、武田が撤退するかもしれないと言うので、どうにか城に紛れ込めるかもしれない、と言う楽観もあった。
真夜中まで眠った金七は、来た道を引き返し、雁峰山を降りた。日の出ごろ、陣中はひっそりと静まり返っている。朝もやに紛れて金七は、滝川を越えるべく、こっそりと這い出した。
しかし、草葉の陰から、川べりの様子をのぞいて、金七は愕然とした。川には鹿垣が据えられ、周辺も柵木で厳重に警戒している。武装した番兵の数も、山上の比ではない。また、柵の間には、砂が敷き詰められ、まさに蟻の這い出る隙間もなかった。
金七は、途方に暮れた。同時に無謀な自分の考えを恥じた。たとえ、手足が自由であったとしても、ここを通り抜けていくことは、山すそを弧を描いて舞う鳶にでもならなければ、到底不可能であった。ここまで来て、金七はまたも方策を失った。決死の覚悟できたことは確かだが、これほど厳重な警戒を見てしまうと、足が竦み、最初に考えていた、正面突破に踏み切ることは出来そうになかった。
だが、昼近くなり、やや変化があった。
金七が様子をうかがっていた滝川岸の陣の東方だと思うが、激戦の中、なにやら変わった動きがあったようだ。城方が突出してきたり、こちらの攻勢が見えてきたりすると、戦力が集中しなくてはならないために、手の空いている部隊を集合させ、戦線投入のための再編成を行う。金七が見ていた番兵たちは持ち場を動くようではないようだが、新しい動きにやや動揺を見せた。もしかしたら、紛れ込めるかもしれない。金七は考えた。実は朝ひそかに番兵小屋に降りて、着るものや武器を調達していた。
金七は顔に泥と草の汁を塗りつけ人相を汚し、粗末な胴丸をつけると、盗んだ錆び槍に身体をもたせかけながら、なるべく不自然でない形で人の流れの中に紛れ込むことにした。すでに激戦が始まっているなら、好都合である。急を要する動員なら、身元を確認される暇もあるまい。そのまま戦に混じって、城へ駆け込めばよかった。
人の波はそのまま、城の南方、野牛郭辺りに向かっているように思えた。金七が強右衛門と脱出した、渡合の渡し場の方面である。
(待て、こんな断崖を登るのか)
金七はふと、不審に思った。武田の本軍は反対側の大手門から、正面突破方式で長篠城を攻めている。南側は、川を背にしており、陣立てからみても、ここに配置された軍勢は、攻められて搦め手から逃げようとする敵方の抑えでしかないはずだった。
「のう」
耐え切れなくなり、金七は目の前の雑兵に尋ねた。三河訛りがばれないようにくぐもった声だったので、相手は怪訝そうに何度も、質問の内容を聞き返した。これから自分たちはどんな作戦に投入されるのか。それでもなんとか通じたその質問に対して、相手は一瞬きょとんとした顔をした後、
「なにを言ってるずら。おれたちは戦になんか行かねえよ」
と、馬鹿にしたような口調で言った。
「おめえ、知らねえずらか、敵方の密使の磔があるだよ」
金七はすんでで悲鳴を呑み込んだ。
「おとついの晩、そこの滝川から城を抜け出して、岡崎に走ったもんがおったろう。あれがなんでか戻ってきて、昨日の昼過ぎごろ、捕まっただよ。確か、鳥居の強右衛門とか言う野郎だとか」
聞いて、金七は飛び上がるほど、愕いた。驚愕して、しばらく声が出なかった。強右衛門が、あの強右衛門が戻ってきているはずはなかった。なにかの間違いだと、金七は信じなかった。その顔色が変わったのにも気づかずに、雑兵は詳しい事情を勝手に語り出した。
それは、昨日のちょうど昼過ぎのことであった。滝川で待機している穴山信君隊の中に、不審な雑兵が紛れ込んでいるのに、物見の河原弥太郎と言う者が気づき、声をかけた。
その雑兵は、弾除けの竹束を抱えて突入していく寄せ手の隊にいたのだが、足取りがどうも怪しく、陣中を抜け出ようと様子をうかがっているようであった。こちらへ来るように言っても返事も鈍く、弥太郎が近づくと、男は急に列に紛れて、顔を伏せた。その視線を追った弥太郎は、男の股引が不自然に濡れていることを発見した。
(間者か)
そう思った弥太郎は合言葉をかけた。男は、ますます面を伏せて言を明らかにしない。弥太郎は追って、聞いた。
「お前、間者ではあるめえな」
その瞬間、男は駆け出そうと言う素振りをみせた。予想していた弥太郎は身体ごと組み付いて、これを押さえた。凄い膂力だった。振り払った腕が当たって唇を切った弥太郎は、思わずそいつを殴りつけた。組み合ったまま小競り合いになる。すると、周りのものも駆けつけて、捕り物はちょっとした騒ぎになった。
「わしは、間者にあらず」
組み伏せられているときも、縄をかけられて連行されてきたときも、男は、吼えるようにこう、言ったという。観念したのか、すでに堂々たる態度だった。
「わしは、長篠城方に陣借りする、鳥居強右衛門勝商(かつあき)と申すものである。長篠城より、後詰請願の密使の任を仰せつかり、岡崎にて織田弾(だん)正忠(じょうのちゅう)信長公、徳川四郎二郎家康公、ご両名に直接、後詰の懇願し奉り、事成っての報を城中の奥平貞昌様にお伝え申し上げようと帰参いたした次第。重ねて言う、間者にあらず、密使である」
その取調べには、なんと勝頼の伯父、武田信綱が当たったという。強右衛門の堂々とした口上に、信綱は感心し、勝頼に強右衛門の助命を嘆願した。勝頼もこれを快諾し、家臣として召抱える許可をも出したらしい。
「じゃが、次の日になって、少し話が変わってのう。信綱様は、その強右衛門に策をお預けになったそうずら」
夜、縛を解かれた強右衛門を待っていたのは、条件付の解放だった。命は助け、当家にも召抱える、と、信綱は言った。しかし、その前に明日、長篠城中に向けて、後詰は来ない、と伝えることが条件であると、強右衛門に告げた。
強右衛門は首を振ったと言う。自分は後詰を要請する使いを仰せつかって城を出た、その役目を果たせないのは、主命に対しての自分の不忠になる。さすがに信綱も、強右衛門の強情に呆れた。説得は続いたが、最後は押し問答になり、言辞は脅迫になった。もしそれで城が落ちれば、中のものをなで斬り(皆殺し)にする、と言うと、強右衛門はここでようやく折れた。
そしてちょうど今、滝川のこの陣で、朝から強右衛門を晒し者にする準備がなされている、と言う。柵木を築き、磔刑のための丸太棒を組み、盛り土をした上にこれを立て、城方にもよく見えやすいようにする。間者に対して、この種の見せしめはよく行われていることだった。敵方の意気を挫くために、その扱いは、非常に残忍にする。場合によっては腕や足を斬りおとしたり、耳や鼻を削いだりすることも、ままあった。
「さて、これは見ものだで。のう」
言う男の目が、泥にまみれた顔から浮き立ってきらきらと輝いているのを、金七はみた。長い城攻めの緊張感に倦みきっている男の退屈を紛らわす血への渇望と生への優越感が、その顔には色濃く表れていた。
十
「・・・・・おしんは、磔台の上の強右衛門をみたんか」
四郎兵衛の問いに、金七は静かにうなずいた。沢から、鳥が発ってかすかに梢を騒がした。金七は搾り出すように言った。
「・・・・・・みても助けられなんだ」
四郎兵衛は返す言葉を失った。自分の身に置き換えてみれば、金七を責められるものなど、誰もいないはずだ。敵陣の只中である。出て行ったところで、二人で犬死は確実だろう。
「そもそも、わしは逆さに縛りつけられたまま押したてられた強右衛門をみて、足が竦んでしもうた・・・・・」
金七の声は震えていた。深いため息をついた。先ほどから、金七は呼吸を乱していた。それはここまで一心不乱に歩いてきたせいではなかった。
「あの、ぴん、と張った強右衛門が声は、今でも忘るることが出来ん。わしはじいっと身をすくめてそれを聞いておって・・・・・」
「長篠城中のご一同にお伝え申し上げまする。・・・・・三日前、長篠城より出でし、鳥居の強右衛門にござる」
組み上げられた丸太に、強右衛門は逆さに吊るされた。褌一本の裸形、髪は逆立ち、遠目にも顔は真っ赤にうっ血していた。汗で濡れた胸に槍の穂が左右二本、突きつけられた中で、強右衛門は名乗りをあげ、自らの役目を頑固に果たした。その声は、最初上擦り、ところによっては震えていた。しかし強右衛門の大音声は空を震わし、冷やかし加減にみていたものも、その威勢に打たれて思わず威儀を正した。城中からは泣き声や絶叫が聞こえてきた。強右衛門はみるからに親分肌の男であった。声は銃眼から顔を出す、雑兵の若者たちのものだった。
「・・・・・・織田弾(だん)正忠(じょうのちゅう)様、徳川四郎二郎様率いる後詰は岡崎よりご出立、お味方は・・・・・三万八千の大勢にござる」
金七は陣笠に顔を隠しながら、その視線を上げることは出来なかった。次の瞬間の強右衛門の運命をみることが、彼にはどうしても恐ろしかった。朗々と声を響かす強右衛門の胸に、今、武田の槍の穂が、突き立とうとしている。強右衛門の顔が自分になり、そんな臆病な想像をした自分を振り払おうとし、金七は笠の下で必死に念仏を唱えていた。
「おのおの方、堅固にお守りあれ・・・・・後詰の来着は、二、三日がうち、冑の緒締めて、御命粗末になさるな・・・・・後詰の来着は、つい、二、三日がうちでござる・・・・・」
すぐに、強右衛門の声が途切れ、陣中にざわめきの声が満ちる。強右衛門が殺された。断末魔の声を、金七は聞くことが出来なかった。金七が耳を塞いでいたからか、それとも、周囲の雑音がそれを掻き消したか、強右衛門自身が身を潔く処するために堪えたのか、それは分からなかった。
陣中の立ち騒ぎの中で、金七は声を殺し、啼いた。罪悪感よりむしろ、言い知れない孤独感があった。そのとき強右衛門への嫉妬も、自分への後悔も、なにもかもが吹き飛んでいた。あの、強右衛門の最期の声に心胆を掴み取られたかのように思えた。ただ哀しく、そして、たまらなく心細かった。
ことが終わり、強右衛門の遺体は放置された。目の前で死にゆくものをもはや、誰も省みることはなかった。戦場では誰もが、次の瞬間の死に立ち向かっていかねばならない。敵方へのみせしめは束の間、それを忘れさせるものだが、空しいものである。生者は死にゆくものに優越を感じるが、死者には感じないものだ。死者はむしろ、生の苦しみから、解放されているからである。
人並みがひけていく。金七はひとり膝をついていた。胃の腑から押し出されてきた何かを、懸命に抑えていた。天は高く晴れ渡り、じりじりと灼ける陽射しの中、人々は再び殺し合いを始めた。武者押しの声、石礫のぶつかる音、矢鳴りの音、鉄砲の炸裂音、誰かの絶叫、そして悲鳴。なにもかもが遠く、これほどの好天気が暗く、くすんでいるように金七には見えた。
厚い入道雲から強い陽射しが射し込み、金七は目を細めた。陽炎の立ち昇る陣の果て、ねじれた松の下で足軽たちが水桶で槍を洗っていた。強右衛門の身体を突き通した槍にそれは間違いなかった。金七は立ち上がり、ふらふらと、歩き出した。今なら強右衛門に近づける、そう思った。今さら、なにをしてやれるわけでもなかったが、せめて遺髪くらいは持ち帰ってやりたかった。
柵木のうちでは、槍を洗っていたものが桶を倒している。流れた水は真っ赤に染まり、血止めの白砂を黒く汚していた。入り口の番兵は雑談をしていて、もう背後を振り返ることはなかった。
「もし」
金七は声をかけようとして、その手を引っ込めた。彼の後ろから、別の声が彼らを呼び止めたからである。その男は、頭形の冑の紐を背にかけ、赤糸縅の鎧に目の覚めるような朱鞘の太刀を佩いている。供を従え、なにかを持たせていた。
「なんぞ、用でごぜえますか」
「通せ。火急の用事がある」
なぜか、急いでいる様子だった。番兵を押しのけて、入ろうとすると、槍を洗っていたものたちと行き違いになった。男は、その者らに、
「鳥居強右衛門勝商に会いにきた。かの者はまだ息があるか」
と、聞いた。足軽たちはきょとんとした顔をしたが、男の迫力に押されて事態が飲み込めぬまま、肯いた。男はそうか、では通してもらおう、と、そのまま押し通った。
「・・・・・なんの用じゃろか」
その場にいたものはあっけにとられたまま、たたずんでいる。処刑はもう終わったのだ。まだ、息があるとしても、この上、あの鳥居強右衛門にどのような用事があるのだろう。
「おい」
まごまごしていると、あの男の声がした。戻ってきて、金七を呼んでいた。金七は、ふいを突かれ、狼狽した。
「な、なにか」
「おめえも、来ねえか」
「・・・・・・わしも」
そのとき、一同の視線が始めてそこにいた金七に集まった。しかし、さっきからその男だけは、金七の様子に気づいていたらしい。
「来とうなければ、別にええぞ。来んでも、ええのか」
髭面を掻きながら男は覗きこむように金七を見上げて、言った。なにか、見透かされているような、気がした。
「い、行く」
金七は短い言葉で、そう告げた。三河弁を悟られまいか、不安が再燃した。男はうなずき、
「では行くずら。わしとこの男じゃ、今からまかり通るぞ」
と、大音声で言った。付き従ったものが不審そうに金七をみた。
男は不思議な人物だった。中へ入ると、従者の荷物を金七に渡して、そいつを先に帰した。それからは、その従者のように金七を取り扱った。金七のことは一切聞かなかった。ただ、
「おみゃあは、弔いじゃろう」
と、一言だけ聞いた。どきりとした金七が曖昧にうなずくと、
「じゃあ、しかと弔え。もう会えんものじゃからな」
と、眠たげな口調で言った。金七が陣中の人間でないことに、始めから気づいていたような口ぶりであった。
強右衛門は川べりにまだ、高々と晒されていた。川に向かっているから、こちらからみてやはり後ろ向きであった。金七は強右衛門がそこに抱えあげられた一瞬しかみることが出来なかったから、正面から強右衛門の顔をうかがうことが出来なかった。
太く組まれた丸太の向こうに、茹でた海老のように赤黒く変色した強右衛門の頭があり、あの強い毛がかすかに風になぶられて揺れていた。血は垂れて固まり、柱の根元の砂地は槍を洗った水桶よりさらに黒く乾いていた。褌一本の体躯は、呼吸している様子もない。死んだ知人がそこにいるのだ。金七は改めてそれを認識させられた。
「卒爾ながら、失礼仕る」
男は、急に改まった口調で言った。これも張りのある大声だった。
「拙者、落合(おちあい)左(さ)平(へい)次(じ)と申すものにてござる。鳥居強右衛門勝商殿、先ほどの口上、拙者拝見させていただきまするほどに、敵ながら、その男ぶり、いかにも見事」
強右衛門はなんの反応も見せなかった。銀蝿が舞い、羽音を喧しくしている。落合左平次と名乗った男の頬にもそれが停まったが、彼は払おうともしなかった。
「この落合左平次、勝手ながら、武士の意気地なんたるかをこれに見申した。願わくばこの左平次も、貴殿の気概にあやかり、戦場に出たいものでござる。そこで・・・・・貴殿の御姿、爾今、これを左平次の旗印に致したく、はせ参じ申した。まことに勝手ながらこの申し入れ、ご了承願えましょうや。ぜひ、ご返答ありたい」
「・・・・・・・・・・」
強右衛門から返答はなかった。当然である。この姿勢で、強右衛門は四本の槍をその身に受けた。即死はせぬまでも、これだけの出血量ではすでに息絶えてしまった後であろう。
「失敬」
ふいに、左平次は言い、前へ回った。そして逆さに吊られた強右衛門の耳元で何事かを話した。すると、愕くべきことにその後ろ向きになって拡がった揉み上げの毛が、かすかにぴくりと動いた気がした。
「来い」
左平次が気ぜわしく手招きをしていた。金七は躊躇しながら、それに従う。左平次はあごをしゃくった。そこに血まみれの強右衛門がいる。金七は震えながらどうにか顔を上げ、その名を呼んだ。
「・・・・・・金七かのん」
金七はそのとき、強右衛門の嬉しそうな声を聞いたような気がした。声を聞いたのは、気のせいに違いない。だが目の前に、強右衛門の血にまみれた顔がある。目を閉じたまま、そのあごが、ぴくり、と動いたような気がした。目蓋は固まった血で塞がれている。それが少し横に動き、唇が心なしか緩んだ。まだ、強右衛門の意識は残っていたのだ。かすかだが、反応があった。
「ご朋輩か」
左平次の問いに、強右衛門はあごを引いてうなずいた。左平次は金七の顔をみた。もはや、耐え切れなかった。次の瞬間、金七は膝を落とし、搾り出すような声で、
「・・・・・・・わしとこの強右衛門は、かの一昨日の晩の密使でございました・・・・」
誰が聞いていようと、構わなかった。金七の腹の底から堰を切ったかのように、ここ二日間のことが吐き出された。野牛郭の不浄口から二人で脱出を図ったこと。自分だけが渡合で網にかかり、流されて山野を彷徨する羽目に陥ってしまったこと。行く前にお互いを顧みない約束をしていながら、ひとり、岡崎に行った強右衛門を恨みに思ったこと。強右衛門が捕縛され、処刑されることを知りながら、敵方の雑兵に隠れ、なんの手立ても打とうとしなかったこと。脈絡もなく氾濫したすべての気持ちがあふれ出した。
左平次はそれを、腕を組んだまま、静かに聴いていた。
「・・・・・面目ねえ、強右衛門どん」
金七は強右衛門の前に手をついて、謝った。許してくれ、とはとても言えなかった。ひざまずき、ただ何度も謝った。
「金七と言うたか」
左平次の声が響いた。金七は顔を上げた。そしてまた、平伏した。
「わしは、はじめにこの強右衛門殿を呼び止めた河原弥太郎から、話を聞いておる。聴くに、長篠城からの密使は一人と申したそうな」
金七は顔を上げた。左平次は金七を睨みつけたが、
「安心せい。金七、お前の話、ここまで聞いて嘘とは思わぬ。強右衛門殿はおぬしを庇ったのであろうな。もしものときはお互いを顧みぬこと、見あげた心がけじゃ。しかし、そうなると金七、困ったのう。密使は二人いた、と言うことになる・・・・・・・」
金七は、はっとして息を呑んだ。左平次の顔をまともに見られなかった。腰に佩いた朱鞘の大太刀に目が留まった。
「金七」
す、と左平次が手を動かしたので、金七はびくり、と身体を震わせた。左平次は噴き出しそうになるのを堪えながら、
「たわけものじゃな、お前は。殺しゃせぬわえ。わしゃあ、そこの荷を取ろうとしたんじゃ」
金七の横に籐で編んだ箱が置かれていた。従者から手渡されて、金七自身がそこへ置いたものだ。金七は思わず身体を動かした。
「手伝わんでもええ、おぬしは下がっておれ」
中には絵の具と筆、古紙を紙縒りで束ねたものが入っていた。
「さて、早く済ませねばならんな。金七、もそっと右へ寄れ」
金七は横へずれた。すると、左平次は墨を水で溶き、手馴れた仕草で用意を整え、強右衛門の前にひょいと立つと、墨で素描をし出した。その筆運びは田舎武士には意外な器用さだった。金七は所在なく、辺りを見回していた。
「金七、案ずるな」
その様子が、落ち着かないように見えたのだろう、左平次は筆を入れながら、言った。
「・・・・・これが描き終わったとて、殺しはせぬ。お前はわしが折をみて、在所へ戻れるよう、計らってやる。間者のひとりやふたり、いたところでもはやどうでもええのよ」
金七には、左平次の厚意の意味するところが分からなかった。すると、左平次はどこか醒めた口調で、
「強右衛門殿、貴殿の申す通り、岡崎から信長の軍勢二、三日のうちに来着し、長篠城の囲みは解けよう。我らは、これより、あの尾張のおおうつけを迎え撃つ」
その言葉に、金七は驚いて左平次の顔を見直していた。男は、微笑していた。
「・・・・・我らは甲斐には退かぬ」
それはどこか、磔台上の強右衛門のそれによく似た笑みだった。
「うつけは、我らの倍以上の大勢を引き連れて出ておるそうな。武田の精兵その威勢、天下に鳴り響くといえども、此度ばかりは、死するを覚悟せねばなるまい」
左平次はさらさらと筆を滑らせると、顔をしかめて紙を替えた。そしてまた、同じように描き出し、
「さりとてわしも死は怖い。遠く、国元には悲しむものもおらんわけではない。じゃが、弾正忠ごときに逃げ出したとあっては、武田の名折れ、死ぬるときにはわしも、強右衛門殿、おんしのようでありたいゆえのう」
きし、と、そのとき、強右衛門の身体を磔にしている丸太が軋んだ気がした。左平次は完成した似姿を前に突き出し、その強右衛門の姿と見比べた。はたと、顔を上げ、
「・・・・・逝った・・・・・・」
描きあがった時、すでに強右衛門は息絶えていた。大分前から意識はなかったのかもしれない。金七はその左平次の声を聞いたとき、強右衛門の死骸に向かって、ひざまずき、無言で手を合わせていた。先ほどまでの寂寥と孤独はない、むしろ崇高な気持ちだった。左平次も立ったまま、強右衛門の浄土を祈っていた。
「背負え」
それから別れ際まで、左平次は何度も金七に言った。それが、金七の耳から離れることはなかった。
「金七、お前は死なぬ。死ぬか、生きるか、そのことを選ぶめぐり合わせではなかった。おれや、強右衛門のようにな。さればお前は背負わねばならぬ。背負え。お前は、それを受け継ぐ責があるからこそ、生を得たものと心得よ」
「・・・・・背負え、あのとき左平次と言う武者に言われたことが、わしにはなんのことか、正直、分からんかった。あれから、四日、武田は設楽ケ原へ向かい、城は救われた。じゃが、わしは城へは、みなのところには戻れんかったのん・・・・・・わしはあんとき、あすこで確かに命を拾うた。じゃが、じゃが、それと引き換えになにか、大事なもんを、置いてきてしもうた気がしてならなんだのん・・・・そう思うと、急に、みなのところへ戻ろうとする自分がたまらなく恥ずかしゅうなって、恥ずかしゅうなって・・・・・・」
二人がついたのは、滝川沿いの、強右衛門が処刑された陣屋の跡であった。今はそこには無論なにもなく、荒れ草が伸び放題になっていた。川の向こうに、かの強右衛門が護ろうとした長篠城は、すでに跡形もなくなっている。ここまできて、金七のしようと思っていることが、四郎兵衛にもなんとなく、分かった。
「あんとき、左平次に渡されたもんを、わしは、どうしてよいのか分からんかった。しかるべきところに持っていき、弔ってもらおうとも思うた。じゃが、出来んかった。わしには、背負うことが出来んかったんだのん・・・・・・」
金七は、そこでしかるべき目印を見つけ、四郎兵衛と二人がかりで掘り返した。曲がり松の根本、秋の草が露を含んで繁茂していた。土を爪に食い込ませながら、二人は掘った。やがて、細長い、筵に包んだ粗末な木箱が見つかった。泥を払い、金七は封を解いた。
四郎兵衛は中身をのぞきみて、思わず息を呑んだ。
そこには、あの落合左平次と言う武者が描いた、血まみれの強右衛門の似姿が、如実に描かれていた。その顔はうっ血して赤黒く浮腫み、致命傷となった胸の傷口の赤い肉からは肋骨が飛び出し、その胸から流れた血で目は塞がり、つる草のように乱れた髪が無残に散り掛かっている。それは四郎兵衛が、今まで見たこともないほどの壮絶な死に様を、如実に語り表していた。
そのとき、四郎兵衛は、左平次が、金七にその絵を託したことの凄絶さを想った。その絵を取り出したときの、金七の嗚咽を四郎兵衛は生涯忘れることは出来なかった。この一年、確かに金七は背負え、と託されたものをひとりで背負ってきたに違いなかった。無論、今もそうに違いない。だが、その重い荷の苦痛を、想像し難いその苦痛を、今、吐き出すことで一時楽になることが出来たのだろうか。それを思うと四郎兵衛は、まるで我がことのように胸を痛めた。
二人はその日、二つの強右衛門の遺品を持ち帰った。その後、彼らはこれを鳥居強右衛門の菩提寺の喜船庵(新昌寺)に預け、遺族に託そうと考えたであろうが、やはり断念したと思われる。恐らく、左平次が写した強右衛門最期の姿が、あまりに陰惨すぎると判断しためかもしれない。
ところであの日、死を覚悟した落合左平次は武田の滅亡後、徳川家に召抱えられ、紀伊の徳川頼宣に仕えている。彼が旗印にした強右衛門の図柄は、現在もみることが出来る。全身を覆う毛は強く、その姿は赤鬼のごとく、かっと目を見開いてみるものに強右衛門の壮絶さを知らしめるものである。
鳥居強右衛門と同道した鈴木金七なる男については、それからのことは知られていない。ちなみに四郎兵衛は、二年後、多くの伝聞を参考に長篠の役のことを『長篠日記』と言う私記にまとめている。そこに、金七のことについて詳しく触れた記述は存在せず、従ってあのとき二人が掘り出した強右衛門最期の絵の存在も、今となっては歴史のがさ藪の中である。
〈了〉
みかえり 長篠合戦異聞
なーんか硬派な時代小説です。三河の方言調べたり、現地の長篠へ行ったり、図書館で資料漁ったり。暇な学生時代を浪費してました。