幕間(作・さよならマン)
幕間
風化したアスファルトからこぼれた砂粒が、風に巻き上げられて暗いビルとビルの間を流れていった。
彼女は、いつもその陰から現れる。
ライトグリーンのパーカーに吹きついた砂を鬱陶しそうに手で払いながら、その厭気を込めた瞳を眩しすぎる太陽に向け、鉄条網の向こうを歩くストリートギャングの集団に向け、遠くの高架道路を走る車の流れに向けた。要するに、目に映ったものほとんどに。
道路に転がるコカ・コーラの空き缶を蹴飛ばして、ビルの壁にもたれかかる。フードを深く被って、ストロベリー味のキャンディを口に含んだ。
「……チェリーがいい」
こちらと目を合わそうともせずに、彼女はそう呟いた。
ㅤどこかで、男達が喧嘩している声が聞こえる。しかし何を言っているのかはよくわからない。聞いたことのない言語だ。
季節外れの桜の花びらが一枚、どこからか飛んできては彼女のパーカーに張り付き、また飛んでいった。
「ストロベリーの方がいいよ」
「なんで」
「誰でも馴染みがあるし、味が想像しやすいだろ」
少し間を置いてから、彼女は鼻で笑った。「かもね」
「だったら、ストロベリーでいい」
何気ない調子で、彼女はそう言った。僕は軽く頷いた。
それから僕は地面に目を向け、アスファルトのヒビから生えている、小さな白い花を見た。花弁が白くて、中心が黄色い。多分、誰でも知っている小さな白い花だ。
「この花は、なんて名前だろう」
彼女はほんの一瞬だけそっちを見て、興味もなさそうに遠くに目をそらした。
「さあね。なんだっていい」
「でも、なんだって名前がある」
ビルの隙間を挟んだ向こう側から、彼女はちらりとこっちを見た。僕の目を見ていた。それから軽くため息をついて、前に向き直る。
「小さな白い花、でいいでしょ。向こうに咲いてるのは、小さな黄色い花。あそこに留まってるのは小さな灰色の鳥。それでこいつは……」
言いながら、彼女はキャンディの甘い匂いを嗅ぎつけて来た小さな黒い虫を忌々しそうに払いのけた。
「それはハエ」
「わかってる」
そう答える彼女の声色は、いつもよりも若干、苛立ちが強かった。彼女はフードを取って、髪を振りほぐした。
「何かあった?」
喧嘩の声はいつの間にかなくなり、代わりに奇妙な民族音楽がどこからともなく聞こえている。
「何もないと思うの?」
彼女は再び目を合わせてきた。僕は何も言わずにちょっと首をすくめた。
「さっき、裏道で犯されかけた」
「それは……災難だ」
「それはどうでも良い。慣れてるから」
揺れる陽炎の中で、車が血のように流れていく。ワイシャツ姿の男が携帯で何かを懸命に話しながら早足で歩いていった。行商人がよくわからないガラクタの入ったカゴを押しながら、大声で何か言っている。蜜蜂が蜜を求めて花から花へと飛び移る。まるで皆、得体の知れない根源的なエネルギーに突き動かされているようだ。こうして見ると、人も虫も大して変わらない。
「なんだって名前がある」と彼女は言った。「……でも、私には無い」
ストロベリー味のキャンディを指でくるくる回しながら、顔を落としている。僕はその様子をしばらく見つめていた。
「それが不満?」
我ながら、無神経な言い方だと思った。わざとだ。無神経な振りでもしないと、やっていられない時がたまにある。今だってそうだし、難しいことについて考えるときには、大概そういう気分になる。自分に真っ当な答えを出す力など備わっていないからだ。
彼女は再び、鼻で笑った。
「答えなんて、誰にもわからない。でしょ?」
「うん」
「でも、それとこれとは別。あの小さな白い花にも名前があるのに、私にはない。あの鳥にも家族がいるのに、私は違う」
「そのうち考えるよ」
キャンディを咥えて、「嘘」と彼女は呟いた。優しい声だけど、心底うんざりしているような言い方だった。
「君はいつもそう」
「……花の名前だって、鳥の半生だって、俺にはわからない。何も知らないからさ」
「私のことも?」
僕は彼女の方を見た。彼女はこっちを見ていなかった。
「どうだろう」
「わからないんだね」
「うん」
前髪についた砂を、息で吹き飛ばした。鉄条網の向こうには黄色いタクシーが一台止まり、後ろのドアがひとりでに開いて、それから閉まった。タクシーはそのままどこかへ走り去っていった。
「昔から会ってるのに」
「ああ」
ザラザラとした紙がどこからか飛んできて、顔にへばりつく。離して見たら、それはポルノ劇場のポスターだった。裸の女が縄で縛り上げられている。奇妙な仮面をつけた男が、女の局部に拳銃を押し付けようとしている。
「聞いてる?」
「うん。だから、わからないんだ。会うたびにわからなくなる」
彼女は自嘲気味な笑みを浮かべながら、気が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。
「君ほど残酷な人間は、見たことがないよ」と、彼女は笑い交じりに言った。「残酷な存在、って言った方がいいのかな」
「ああ」と僕は応えた。「俺もそう思う」
ガシャン。大きな音がした。
子犬が鉄条網に衝突した音だった。犬は訳も分からなさそうな顔をして、そのまま向きを変えて走っていった。その後を、チョーカーを着けた少女が慌てて追いかけていく。
「きっと、そういう奴じゃないと出来ないんだ。そう“あろう”としているけど、なかなか上手くいかない。悩むのもそのせいだよ。もっと残酷になることができれば、君を巨大な竜と闘う騎士にも出来るし、お城で助けを待つお姫様にも出来る。だけど、それはムリなんだ」
まるで言い訳そのものだと思った。結局のところ、僕にはそれだけの力は与えられてはいないのだろう。真相はいつも、至ってシンプルだ。シンプルで、味気なくて、うんざりしてしまう。
「君のやり方でいいよ」と、彼女は独り言のように呟いた。
「それ以上、残酷にならないでいい。私は今のままが好きだから。下らないことをさせられるより、ずっとマシ」
気を遣っているのか、本心なのかはわからなかった。ただ、少しだけ救われるような気がした。
「ありがとう」と僕は言った。「ん」と彼女は呟いて立ち上がり、ジーンズの砂を払った。
「それじゃ、私、そろそろ行くね」
ライトグリーンのパーカーが、ビルの陰に消えようとしている。
「うん。——ねえ、最後に、『また会おうね』って、言ってくれないかな」
彼女は背中を向けたまま、「また会おうね」と言った。
「振り向いて、軽く手を振りながら」
彼女は少し笑うと、振り向いて、軽く手を振りながら、「また会おうね」と言ってくれた。
「これでいい?」
「ああ。…………そう。それでいい」
「了解。じゃあね」
姿が見えなくなるまで見送ると、僕はまた一人になった。これからどうしようか、まるで見当もつかない。
目の前には乾いた光景ばかりが広がり、思い描く世界は徐々に瑞々しさを失っていく。人は相変わらず虫のようにせわしなく動き続け、得体の知れないエネルギーは僕の身体には宿ろうとしない。そんなの、望んだこともない。きっとこれから先もそうだろう。…………
……風が吹いている。
キャンディの包み紙が、足下に飛ばされてきた。
手に取ってよく見ると、そこには赤い“Cherry”の文字と、サクランボの絵が入っていた。
鼻で笑って、それをポケットに突っ込んだ。
僕はあてもなく歩き出した。
幕間(作・さよならマン)