夕方のアサガオ(作・さよならマン)
夕方のアサガオ
「タクミさん?」
初めて出会った時、サオリはぼくのことをそう呼んだ。夏の終わり頃、夕暮れ時の出来事だった。
突然、手綱を引き離して逃げ出してしまったコロを追いかけて、ぼくは知らない小さな道に入り、一軒の知らない家の前にたどり着いていた。門の前には、ママよりも少し歳を取ったくらいのおばさんが立っていて、コロはそのか細い腕の中に抱きかかえられていた。まるで最初からその家の飼い犬だったみたいに、コロは居心地のよさそうな顔をしていた。
夕方の涼しい風が吹いて、庭のカシの木の葉をざわざわと揺らしていた。庭は荒れ果てていて、背の高い雑草がそこら中に好き放題に伸びていた。家は木の影に入って、とても暗く見えた。どこかで一匹のツクツクボウシが、取り残されたようにさみしく鳴き声を響かせていた。
「タクミさん?」
おばさんはそう繰り返した。それは、まぎれもなくぼくの名前だった。だけど、ぼくはおばさんのことは何も知らないし、だいいちそんな風に、名前に「さん」をつけて呼ばれたことなんて生まれて初めてだった。
「ええと……」
どう答えればいいのかわからなかった。コロは相変わらず、平気な顔でおばさんの腕の中に収まっている。
とにかく、コロを取り戻して早く家に帰らなきゃならない。今日こそは溜まった漢字ドリルの残りのページを埋めて、二週間分のアサガオの観察日記を書かなきゃならないのだ。もう今週で夏休みも終わってしまう。
「タクミさん?」と、おばさんは遠い目をして繰り返す。「はい」とぼくは答えた。
「あの、犬を返してくれませんか」
不思議な間があった。それからおばさんは遠い目つきをやめて、ぼくの顔をまっすぐに見つめ直した。洞窟みたいに真っ暗だった黒目に、光が入っていた。おばさんは確かな足取りでゆっくりと歩き出し、ぼくの目の前までやってきて、腰をかがめて言った。「タクミさんなのね?」
ぼくは思わず後退って答えた。「は、はい」
「とにかく、ぼくの犬を返してください」
うふふ、と、おばさんは楽しそうに笑った。さっきよりも、少しだけ若く見えた。ママと同じくらいの感じだ。
「ココはうちの犬よ。頭でも打って忘れちゃったの?」
「ココじゃなくて、コロです」
「あら」
おばさんはさらに可笑しそうに笑い出し、しばらくそのまま笑い続けた。なにがそんなに面白いのか、さっぱりわからなかった。ツクツクボウシはいつの間にか鳴き止み、風も止んでいた。おばさんは目の端に涙を浮かべていた。笑いすぎて泣いているのだろうか。
わけがわからなくて、ぼくはただボウゼンと突っ立っていることしか出来なかった。助けを求めるようにコロに目を合わせても、コロはその状況を受け入れて、ただ舌べらを出して息をしているだけだった。
「とにかく、家に入りましょう」
ひとしきり笑ってから、おばさんはコロを抱いたまま門を開き、雑草を分けて家の方に歩いていってしまった。
ぼくはしばらくしてから気が付いて、慌ててあとを追いかけた。
「えっ、ちょっと……」
薄暗い玄関を上がって、誘われるように居間へと通された。玄関の棚には茶色くなったバラが一輪、花瓶に立てられていた。外から入る夕日が、クリーム色のカーテンを通して弱々しく居間を包み込んでいた。
夏の終わり頃。ぼくは夢でも見ているみたいに、とてつもなく奇妙な事態に見舞われていた。
「コーヒーを淹れるから、待っててね」
その時ぼくの頭にはなぜか、やり残した宿題のことが浮かんでいた。
*
薄暗い部屋の中には、古い壁掛け時計の針の音だけが、こつこつと響いていた。疲れ果てて眠った針が、歯車の力で無理やり突き動かされているような音だった。わずかに開いた窓の隙間から風が入ると、カーテンが揺れて、うろこ柄の擦りガラスが覗いた。
もう使われてなさそうな暖炉のブロックの上に、まだ枯れていないバラと写真が飾られていた。写真には、おばさんの若い頃と思える姿と、さらにもう一回りくらい若そうな男の人の姿があった。男の人は左手にヘルメットを抱え、もう片方は彼女の肩を抱いていた。
おばさんはコーヒーを持ってくると、ぼくの目の前に置いた。それから、ぼくが見つめていた写真の方をちらりと見た。
「どうかした?」
「いえ……」
ぼくは縮こまり、コーヒーに目を落とした。真っ黒だ。牛乳も入ってなければ、砂糖もクリームもついてない。よく周りの子から大人っぽいと言われるぼくも、さすがにこんなコーヒーを飲んだことなんてなかった。
「どうかしら」
テーブルを挟んで、向かいのソファに座ったおばさんが微笑みを浮かべながら言った。コロはその隣で気持ち良さそうに眠っている。
ぼくはちょっと迷った末、覚悟を決めてカップを持ち、勢いをつけて飲んだ。……苦い。どうしてわざわざこんなものを飲むのだろう。
「砂糖とミルク、くれませんか」
「あら、いつも入れないのに?」
「今日は……甘い方が、いいんだ。そういう、気分というか」
なんとなく、大人っぽく話そうとしてみた。上手くいったかどうかはわからない。
「そう……じゃあ、待ってて」
おばさんは立って台所に入っていった。その間に、ぼくは寝ているコロに声を掛けた。「コロ、起きろよ。やばいよ、コロ」
コロは起きなかった。おばさんが角砂糖とミルクを持って戻ってくる。
「どうぞ」
「……ありがとう」
甘くしたコーヒーは、美味しかった。おばさんはぼくがコーヒーを飲む様子を、満ち足りた表情で静かに眺めていた。
……
「私、あなたに謝りたいことがあるのよ」と、おばさんは言った。ぼくが二杯目のコーヒーを飲み終えて、さっきよりもいくらか緊張が解けた頃だった。
「なにを?」
「昔……覚えてる?小学校を卒業する時に、みんなでタイムカプセルを埋めたでしょう。私、最近ふっと思い出して、うろ覚えで地面を掘ってみたの。そしたら、本当にそれが出てきたのよ。大き目の、クッキーの缶だったわ。開けてみたら、名前が入った小さな巾着袋があったの。私は自分の分と、あなたの分を取り出して、ここに持ってきた」
部屋が暗さを増してきた。夕日も、半分沈みかけているみたいだ。窓の隙間から入る風は、少し寒いくらい冷たく感じた。
「私のは、べつに大したことなかったわ。その時よく集めてたビーズとか、ビー玉とか、指人形とか……あとは、お手紙」
「手紙?」
「ええ。短いお手紙よ。恥ずかしいから、内容は言えないけど」
「へえ……ぼくのは?」
自然とそう尋ねた自分にびっくりして、戸惑った。「あ、いえ……」
「あなたのは、見てないの。やっぱり、勝手に見たら悪いと思って。それに、いつかこうして戻ってくれるって信じていたから、開けずに元に戻したのよ。でも、一人きりで掘り起こしたのを後悔していて……本当に戻ってくれるなら、一緒に開ければよかったのにね。私、きっと、どこかであなたのことを諦めていたのね。ごめんなさい」
申し訳なさそうに微笑みながら、おばさんは言った。ぼくはなんて返したら良いのか分からずに、頭で考えていた。考えれば考えるほど、分からなくなっていった。なんだかまるで手に負えない大きなことに巻き込まれているような気分だった。
「いいよ。……いいんだよ」
やっとの思いで、ぼくはそれだけ言った。いつの間にか日は完全に沈み、青い暗闇が部屋を覆っていた。まるで家そのものがが深い海の底に沈んでしまったようだった。
おばさんが急に立ち上がり、周りをきょろきょろ見渡し始めた。胸に重ねた両手を当てて、焦ったように部屋中をおろおろ歩き回った。
「あなた?どこ、どこへ行ったの」
コロが目を覚まして、吠えだした。知らない人が家に来た時にする吠え方と同じだった。おばさんの声は一層高くなり、不安が滲んでいた。
「どこ?」
「ここ、ここにいます」
ぼくは慌てて、そう答えた。
「あなた、誰?どうしてここにいるの?」
「え?」
おばさんはこちらに歩み寄り、ぼくの肩に手を置いて、静かに言った。
「もう遅いから、お家に帰りなさい。帰り道には気を付けてね」
優しい声だった。だけどそれは、疲れ果てたか細い声だった。おばさんは、さっきまでよりもずいぶん歳を取ったように見えた。ぼくは恐怖と困惑に襲われながら、「はい」と弱い声で答えた。
ぼくはコロの手綱を持って、急いでその家から出て行った。
*
遅かったじゃない、心配したのよ、とママは言っていた。だけど、ぼくの顔を見て、それ以上は責めようとしなかった。
「何かあったの?」
ぼくはママの顔を見たまま、しばらく何も言えずにいた。何からどう話せばいいのかわからなかった。
ぼくは順を追って、起きた出来事をそのまま話した。コロが逃げ出してしまい、追いかけたら知らない家につき、その家の人がぼくの名前を呼んで……。真剣な顔で話に聞き入っていたママも、混乱したようだった。ママは途中でいくつかの質問をした。ぼくはその質問に答えながら、最後まで話をした。
「……とにかく、知らない人の家に上がっちゃだめよ。いい?」
最後にママはそう言った。「うん」と、ぼくは答えた。
……
夜、ぼくはベッドに横になりながら、リビングから聞こえてくるパパとママの会話に耳を澄ませていた。ママがあの家のことを話すと、パパは「あの家か」と意味深そうに呟いた。お酒を飲んでいるのが、声の感じからわかった。
「あら、知ってるの?」
「知ってるも何も、昔の友達のところだよ。言ってなかったか」
「いいえ」
「もう死んだんだ。飛行機の事故で」
「飛行機?」
「自衛隊のパイロットだったんだよ。整備不良で、オイルが漏れて火が出ちゃってさ。それがパラシュートにも引火して、結局助からなかったんだ」
「そう……残念ね」
「ああ。一番可哀想なのは、あの奥さんだよ。主人が死んでからはすっかりダメになっちゃってさ」
「それで、主人の名前を?」
「うん。……そう、同じ名前だよな」
「偶然?」
「…………」
「気の毒ね」
「ああ」
まるで耳元で囁かれているみたいに、今夜の話はハッキリと聞こえてきた。色んな感情や光景が頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。ぼくはその晩、いやな夢を見た。朝になったら夢の内容は忘れてしまったけど、いやな夢だったことだけは覚えていた。
*
アサガオの観察日記を書いた。今日の分だけだ。今までやっていなかった分は、正直に言って先生に謝ることにした。アサガオは綺麗な紫色の花をつけて、朝の光をみずみずしく反射していた。ぼくは水をあげて、車の助手席に乗り込んだ。
「アサガオ、綺麗に咲いてた?」
「うん」
天気の良い日だった。空は真っ青で、山の方にだけ入道雲が残っていた。露のついたドアガラスの向こうで、涼しい家並みが流れていった。夏の始まりのような、夏の終わりの風景だった。
「ページが余っちゃうなら、夕方にも観察をしてみたらどう?」
「夕方?」
ママは、たまにそういう変わったことを言う時がある。
「夕方には、アサガオはしおれてるよ。だからアサガオって言うんだ」
「だから、良いんじゃない。他に誰も書いてないことを書けば、きっと褒められるわよ」
そうかなあ、とぼくは言った。きっとそうよ、とママは言いながら、慣れた操作で車を駐車場に入れた。
スーパーに着くと、ぼくはお菓子売り場で好きなチョコチップクッキーを手に取り、ママの押すカートのカゴに入れた。それからはぼくがカートを押した。
「夕飯、何がいい?」
「なんでもいい」
「だめ」
「オムライス」
「よし」
グリンピースやニンジンやケチャップがカゴに入っていく。途中、ママは友達を見つけたようで、通路の向こう側に向けて元気に手を振っていた。
「ちょっと待ってて」とママは言って、友達の方に行ってしまった。ぼくの同級生のママだったけど、ぼくはその子とはそれほど仲良くしていない。ぼくはカートの端に足を乗せたりして遊びながら、話が終わるのを待っていた。
飲み物売り場の方で、パックの牛乳をカゴに入れている人に、見覚えがあった。お葬式の時みたいな黒い服を着ていたけど、それはとても綺麗に見えた。ぼくは話に夢中になっているママの方をちらりと見てから、カートを端に寄せておばさんの方に歩いていった。
「こんにちは」と、声を掛けた。
「こんにちは」と、おばさんは優しく応えた。「君は?」
軽く首をかしげて、おばさんはそう聞いた。
「覚えていませんか?」
ぼくがそう尋ねると、おばさんは斜め下を見ながら、「うーん」と声を出してしばらく考え込んでいた。小さな子みたいで、ちょっとかわいい仕草だった。
「ごめんね、思い出せない。最近、色んなことをすぐに忘れちゃうの。年を取るのはいやね」
残念なような、ほっとしたような、複雑な気分だった。おばさんは手に膝を当てて、ぼくの顔をまじまじと覗き込んだ。
「どうかしましたか?」
「ああ、いえ……なんでもないのよ。知ってる人に、ちょっと似ているから」
「誰?」
「それは、秘密」
おばさんは上品に笑った。昨日の笑い方と同じだった。
「かっこいい人よ」
最後にそれだけ言うと、おばさんは小さく手を振って歩いていった。ぼくはその後ろ姿を見届けてから、牛乳を二つ脇に抱えて、元の場所に戻った。ちょうどママが戻ってくるところだった。
「牛乳、取ってきた」
「あら。気が利くじゃない」
ぼくは人ごみの中に、おばさんの姿を探した。おばさんは魔法を使って消えてしまったように、もうどこにも見当たらなかった。
*
空が黄色い夕日に染まる頃、ぼくは観察日記のノートと色鉛筆を手に、庭に出た。夕方のアサガオを観察するためだ。
コロが散歩と勘違いして、尻尾を振りながらこっちに走ってきた。「散歩じゃないよ」と、ぼくはコロの頭を撫でた。
アサガオの花はみんなくるくると丸まって、すっかりしぼんでしまっていた。ぼくはその姿をじっくり細かく観察して、ていねいにノートに描き写した。
描き終わると、満足感があった。いつもよりもずっと良い絵が描けたな、と思った。
しぼんだアサガオは、いつも見ている朝のアサガオよりもいっそう愛おしく思えた。「愛おしい」なんて気持ちになったのも、もしかしたら初めてのことかもしれない。ぼくはアサガオとノートの絵を何度か見比べてから、小さくうなずいて立ち上がった。
家に入ろうとした時、あの人のことがふいに頭に思い浮かんだ。もしかしたら今も、一人でさみしく、ぼくの名前を呼んでいるのかもしれない。……いや、違う。ぼくはたまたま、コロを追いかけてあそこに行っただけの、ただの子どもなのだから。
ツクツクボウシが鳴いている。ぼくはあの家の方角をしばらく見つめながら、あの人のことを思って、かなしくなった。
だからって、ぼくにはどうしようもない。
……
「ねえ、パパ」
「うん?」
オムライスを食べながら、ぼくは聞いた。
「タイムカプセルって、埋めたことある?」
「あるよ」
当たり前みたいに、パパはそう答えた。パパはぼくがまじめな顔をしているのを見て、不思議そうに眉を寄せていた。
「それがどうしたんだ?」
「べつに……ぼくも埋めてみようかなって」
「いいじゃないか。面白いぞ」
台所で食器を洗いながら、「何を埋めたの?」と、ママが聞いた。
「ん?ああ……なんだっけ」
「あら、掘り起こしてないんじゃないの?」
「そうかもな」
「どこに埋めたの?」と、ぼくは聞いた。パパは腕を組んで考えていた。「んー」
「思い出してよ」
「ま、ちょっと待て……ああ、そうだ。そうか……」
場所を聞き終えると、ぼくは残り半分のオムライスを一気に平らげた。
「ごちそうさま」
ぼくはベッドに入って、すぐに目をつむった。
その日の晩に見たのは、良い夢だった。
*
夕方、アサガオの観察を済ませてノートと色鉛筆を机にしまうと、そのまま家を出た。
「散歩に行ってくる」
「行ってらっしゃい。車に気を付けて」
「うん」
ぼくはコロの手綱とスコップを持って、門を出た。ツクツクボウシの鳴き声は、日に日に弱くなっている。
いつもの散歩コースを外れて、あの人の家に続く、小さな道に入る。するとその途端、コロの足が速くなった。ぼくは引っ張られるようにして、あとを走った。あの人の家が見えて、門の前に立ち尽くす人影もあった。ぼくは唇を引き締めた。
コロは一直線に彼女の元に走り、その腕の中に収まった。
「タクミさん?」
ぼくは膝に両手を当てて、息を切らしながらも、「ああ」と返事をした。
「ただいま」
家の中は、相変わらず薄暗かった。改めて来てみると、最初に来た時よりも色々なものが目に入った。ステンドグラスの小窓や、オルガン、飛行機の模型、犬用のベッド。どれも初めて目に入るものなのに、なんとなく懐かしいような気がした。
「今までずっと、どこに行ってたの?」
「ああ、ごめん。……仕事で」
「お仕事?……随分長かったじゃない」
「ああ、えっと、そうでもないよ。そう感じるだけだよ」
「そうかしら」
心臓の鼓動を感じながら、ぼくは出来るだけ胸を張って話をした。逃げ出したくなる気持ちを抑えて、彼女としっかり目を合わせた。
「ああ」
彼女は台所へ行き、コーヒーを一杯淹れて、戻ってきた。ぼくはカップを手に取って、真っ黒のコーヒーをじっと見つめた。
「お砂糖とミルク、いる?」と、彼女は聞いた。何かに引っかかるような言い方だった。
「いらないよ」と、ぼくは言った。「いつも入れないじゃないか」
「そう。そうね」
そう呟いて、彼女は微笑んだ。ぼくも少し笑って、コーヒーに口をつけた。
目を閉じて、なるべく舌に乗せないように飲み込んだ。やっぱり苦かった。
「おいしいよ」とぼくは言った。
「よかった」と、彼女が言う。
ぼくはコーヒーをなんとか飲み干して、カップを置いた。口に残った苦みがなかなか消えない。
夕日はもうそろそろ山に落ちてしまう。もうあまり時間がなかった。
「ねえ」と、ぼくは呼び掛けた。
「うん?」
「タイムカプセル、覚えてるかな。昔、みんなで埋めたんだ。そこの、カシの木の下にさ」
「ええ。……ごめんなさい。私、そのことで、あなたに謝らなきゃいけないことがあって……」
「いい。いいんだよ。ぼくだって、君にずっとさびしい思いをさせたんだ。だから、君は何も謝らなくていいよ」
ぼくは立ち上がり、彼女の肩に手を置いて、そう言った。慣れないことなのに、自然にやってのけることができた。
カーテンを引いて、窓を開ける。家の中から見ると、庭は思っていたより綺麗だった。たくさん生えている雑草も、所々に白や黄色の花をつけて、柔らかな光の中で風に揺れていた。
「行こう」
「待って、靴を……」
「いいよ」
「え?」
ぼくは靴下を脱いで、草の上に降りた。
「裸足でやろう」
彼女は一瞬戸惑った後、笑って靴下を脱いだ。
「いいわ」
ぼくらはカシの木の近くまで行って、一緒に雑草を引っこ抜いた。彼女が指の上に乗せたテントウムシをぼくに見せた。ぼくらは笑いながら、飛んでいくテントウムシを見送った。
「確か、この辺りよ。貸して」
ぼくはスコップを彼女に手渡した。彼女は地面にスコップの先を突き刺して、両手に力を込めて、深く掘った。ぼくよりも腕の力が強いかもしれない。
「あれ、ない」
いつの間にか近くにいたコロが、隣で地面を掘っていた。コロは固い物を掘り当てて、ワンワン鳴き出した。
「やったぞ。ココ」
彼女が周りの地面を掘って、出てきた缶をぼくが引っ張り出した。コロは嬉しそうに尻尾を振っていた。
「開けようか」
「ええ」
クッキーの缶を開けると、中から名前入りの巾着袋が出てきた。「タクミ」「サオリ」「コウジ」……コウジは、パパの名前だ。
「ええっと……ぼくのは、これで、君は……」
「これね」
彼女はそう言って、「サオリ」の袋を手に取った。
「サオリ」と、ぼくは呟いた。「何?」と、サオリが言った。
「なんでもない」
ぼくは自分の袋を開いて、中を見てみた。飛行機の絵や、小さな模型が入っていて、ビー玉やビーズもあった。「私があげたやつ」と、サオリが言った。「ああ」と、ぼくは笑いかけた。底の方に、小さく折られた手紙が入っていた。
「お互いに、手紙を読まないか」
「いやよ。恥ずかしい」
「じゃあ、交換しよう」
ぼくらはお互いの手紙を交換して、そこに書いてある文章を読み合った。サオリの手紙は、ぼくよりも字が上手で、ぼくの知らない漢字もあった。
『未来の私へ。元気ですか。みんなと仲良くしていますか。私は元気です。
タクミ君とは、今よりも仲良くなれましたか?もしなれていたら、とてもうれしいです。
将来は、好きな人と結こんして、きれいなお庭の家に住んで、犬を飼いたいです。犬種はボーダー・コリー。名前はココ。
夢はかなっていますか?かなっていないなら、かなえてください。もしそうじゃなくても、どうかずっと、幸せでいてください』
ぼくとあまり変わらない背丈で、学校や公園で遊ぶサオリの元気な姿が目に浮かんだ。隣では、ぼくの——タクミの書いた手紙を読んで、サオリが声を立てずに泣いていた。ぼくはサオリの肩を寄せて、背中をさすってあげた。サオリの涙はぼくのTシャツに染みて、汗と混ざり合った。日は落ちて、薄い夜の闇が辺りを覆っている。空には、うっすらと星が輝いていた。
「ありがとう」と、サオリは言った。
「うん」と、ぼくは応えた。自分の声が、少しだけ震えているのがわかった。
「ありがとう」とぼくも言い、もっと近くに、サオリを抱き寄せた。
月の明かりが、ぼく達を優しく照らしていた。それは、なにもかもが完璧で幸せな時間だった。
あともう少しだけ、この時間が続けばいいのにな、と、ぼくは思った。
夕方のアサガオ(作・さよならマン)