ホモではない人

すごろく

「おお、ホモじゃん」
 急に背後から声をかけられた。それは僕の名前ではなかったけれど、僕のことだとわかった。わかってしまった。
 恐る恐る振り返ると、赤いジャケットを羽織って、ダメージジーンズを履き、髪の毛を薄汚れた金色に染めた、不良然とした男が、人混みの合間に立っていた。
「久しぶりだな、ホモ。元気してた?」
 男は馴れ馴れしい口調でにやつきながら、僕に近寄ってきた。
 突然のことに僕が唖然としていると、男は首を傾げた。
「あれ? もしかして俺のこと憶えてない? 俺だよ、俺。宇川だよ、同じクラスだったさ」
 男はそう言いながら自分の顔を指差し、にいっと歯を見せた。ヤニで汚れたように黄ばんでいた。
 僕は逃げ出したい衝動に駆られながら、とっさに足を押さえつけ、そして口元は反射的に笑みを模っていた。まるっきり、あの頃のように。
「――宇川くん、久しぶりだね」

 ホモ、というのは、中学から高校にかけて僕に名付けられていたあだ名だ。先に断っておくが、僕は決して同性愛者の類ではない。産まれてこの方、男の身体に性的興奮を覚えたことはないし、女装癖などもない。普通に可愛くてエッチな女の子が好きだ。
 それでは、なぜホモなどという不名誉極まりないあだ名がつけられたのか。その原因は、僕の名字が「田所」のせいだった。
 そのときの僕は知らなかったけれど、インターネットのとある動画サイトで、なぜかゲイビデオが人気になっており、そのゲイビデオに登場するキャラクターの一人が「田所」という名字だった。後輩を昏睡させてレイプするキャラクターだったらしい。はっきりいって、それだけだった。何かのアダルトビデオで登場人物や役者の名前が同じというだけなら、この世界に五万といるだろう。わざわざあだ名をつけるまでもないし、つけられる謂れもない。
 しかし、たったそれだけで――ただゲイビデオの登場人物と同じ名字というだけで、僕をホモと呼んだ男がいた。それが中学二年の頃、同じクラスにいた宇川だった。
 その頃の僕は――というよりも今もそうなのだけれど――一言でいうと典型的な根暗なオタクだった。恋人はもちろんのこと、友達とかもいなかった。なぜできなかったのかは自分でもよくわからない。強いていうなら作ろうとしなかったからだろう。惰性で学生生活を送っていたら、いつの間にか一人だった。別にそれが苦というわけでもなく、休み時間はこそこそとマイナーな漫画などを読みながら、普通に過ごしていた。宇川が僕に声をかけてきたのは、突然のことだった。
「お前さ、確か名字は田所っていうんだよな?」
 そのとき僕は誰にも見られないように身を屈め、くすくすと笑いながら蛭子能収の漫画を読んでおり、突如降ってきた声に驚いて危うく机に頭をぶつけそうになった。
「お前、田所っていうんだよな?」
 すぐに返事ができない僕に対し、宇川はもう一度訊ねた。
 僕はやはりどう返事していいかわからず、というより久々に家族以外の他人に話しかけられたものだから動揺で声が出ず、しかし田所という名字なのは事実なのでひとまず頷いた。今から思うと、あれが運の尽きだった。
「そうかそうか、やっぱ田所っていうのか」
 宇川はなぜか嬉しそうに言いながら、ぐいっと僕に顔を近づけた。
「お前のあだ名、今日からホモな」
「・・・・・・は?」
 そこでようやく声が出た。
「田所っていえばホモだろ。ヤジューセンパイだ、ヤジューセンパイ」
「え? あの、どういう――」
「でもお前、ヤジューって感じじゃないからな。ひょろいし。だからホモな」
「ちょっと意味が――」
「じゃあ」
 宇川は一方的に言い残して、僕の席から離れていった。すぐに他のクラスメイトと群れて何やら大声で笑っている。
 僕は何一つ意味がわからずに茫然としてしまったけれど、たぶんからかわれただけだろうと勝手に結論を出し、また隠れて漫画を読む作業に戻った。
 宇川が言っていた、ヤジューセンパイだとかいう存在については、そのときはまだ調べていなかった。どうせどうもいいものだろうと思っていた。
 翌日から、僕のあだ名は本当にホモになった。過程も経緯もあったものではないが、僕の知らぬところでいつの間にか広まっていたらしい。クラスメイトからよく無駄に声をかけられるようになった。みんな面白半分という感じの口調だったけれど。その中でも僕に頻繁に話しかけてくる筆頭は、やはり宇川だった。
「ホモ、元気にしてっか? 好きな男はできたか?」
 それが宇川の僕に対するお決まりの挨拶だった。
「い、いや、僕はその、同性愛者とかじゃ、ないし・・・・・・」
 僕が作り笑いを浮かべてやんわりと否定しても、宇川は構わずに僕の肩に手を回した。
「まあまあ、そう隠さんでも。だってお前、あのヤジューセンパイと同じ名字なんだから」
 宇川がそう言うと、周囲にいるクラスメイトの何人かはあからさまに吹き出しながら「そうそう」なんて適当な相槌を打ったりした。
「あ、そう、そうかな。か、彼女もできたことないしね、ぼ、僕――」
 僕が自虐すると、宇川や他のクラスメイトは何か面白いものを見たように大笑いした。
 僕も合わせて笑った。反発しても抵抗しても何にもならないことは行動を起こさずとも明確だった。ただ笑っていれば誤魔化せたのだから、ある意味では楽だったとも言える。
 この話をすると勘違いする人がいるが、僕自身はあのときの自分の境遇を、いじめられていたと認識したことはない。あれはいじめなどという高等なものでは決してなく、ただの低俗な悪ふざけに過ぎなかった。少なくとも僕にとっては。
 とにかく僕には誰かが起こした流れというものに逆らう精神力はない。だから宇川とその他のクラスメイトたちの悪ふざけに、僕は付き合った。
 じつをいうと、この悪ふざけも数週間も経てばみんな飽きて次の悪ふざけに移行するだろう、という浅はかな予想も立てていた。結果的にそれは外れていた。クラスどころか学年全体に、僕のホモというあだ名は浸透した上に定着していて、ホモという呼称に違和感を持つ人物はもはやクラスメイトには誰一人いないようだった。そのクラスメイトには、僕も含まれていた。僕も自分がホモと絡まれる調子に呼びかけられることに、いつの間にか慣れていた。そこに違和感はなく、ただの日常があった。そうなってしまうと、すでに悪ふざけでもない。それは常識だった。だからどうというわけもない。むしろ僕はそうなって良かったと思う。だからこそ僕はわりかし平穏な学生生活をやり過ごすことができた。
 ただ、高校一年生のときに一つだけ綻びがあった。それは僕には大した影響を与えなかったが、確かに大きな綻びであったと思う。もっとも、それを実感できたのは一人だけだっただろうけれど。
 端的に言えば、僕は男から告白された。同じクラスの男子生徒だった。名前は佐藤だか鈴木だか、とてもありがちな、どこにでもいるようなものだったと思う。よく思い出せない。仮に佐藤としておく。
 その頃はまだ高校生になったばかりで、進学した緊張が完全には解れていない時期でもあった。が、宇川は中学のときと何も変わらないノリとテンションで僕に接してきた。あのホモというあだ名も当然のごとく健在で、それも徐々に他の中学校から進学してきた生徒たちにも広まっていった。
 おそらく、それが原因だったのだろうと思う。
 ある日の放課後、僕は突然佐藤に声をかけられた。佐藤は休み時間でもいつも教室の隅にいるような、僕と同じ類の人種だった。だから見かけたときから何となく親近感は覚えていたけれど、実際に話したのは初めてで、しかも向こうから不意打ちにように話しかけてきたことに驚き、カラスが蹴られて鳴くような素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ちょっと時間ある? 良かったらゴミ捨て手伝ってくれない?」
 佐藤は丸々と膨らんだゴミ袋を二つずつ両手にぶら下げており、見ているだけでもなかなか重そうだった。
「え? 僕?」とまず自分の鼻を指差してみて、一応確認を取った。
「そうだよ、田所くんに頼んでるんだよ」と佐藤は素直に頷いた。その後、「僕と一緒にやるはずだった当番の子が今日休みでさ」とも継ぎ足した。
 周囲を見渡してみたけれど、佐藤のゴミ捨てを手伝ってくれそうな存在は見当たらない。正直なこと言えば面倒だったが、かといって何か用事があるわけでもないので断る理由もなく、渋々頷き、佐藤が両手に持っているうちの二つを手に取り、佐藤とともにバックヤードに向かった。
 運んでいる最中は、佐藤は何も喋らなかった。だから必然的に僕も喋ることはなかった。僕はこれを捨てたらすぐに帰り支度をしようと、そればかり考えていた。佐藤もそんなことを考えているだろうと勝手に思っていた。
 バックヤードに二人してゴミ袋を捨て、特に別れの挨拶もせずにそそくさと教室に戻ろうとした。そこで佐藤に呼び止められた。
「――あのさ、田所くん、話があるんだけど」
 何だろう、まだ手伝って欲しいことがあるんだろうか、それとも何か気に障るようなことでもしてしまったのだろうか、とぼんやり考えながら、「いいよ」と軽い気持ちで承諾した。頭の片隅には、帰り支度の手順ばかりがあった。
「えーっとさ、こういうこと、急に言われても困ると思うんだけどさ――」
 佐藤は小便でも我慢しているように身体をもじもじと揺らしていた。よっぽど言いづらいことなのだろうかと他人事のように考えながら、佐藤の次の言葉を待っていた。
 佐藤は意を決したように大きく息を吸い込み、そして一気に吐き出すように言った。
「――田所くんのことが好きなんだ」
「・・・・・・え?」
 帰り支度の手順も一瞬で吹っ飛んだ。
「やっぱり戸惑うよね。でもね、僕、本気で田所くんのことが――」
「待って待って」
 僕は頭の整理が追い付かず、慌てて遮った。
「好きってあれ? 性的な意味で?」
「性的な意味――というか恋愛的な意味、だと思う」
 佐藤は仄かに頬を赤らめた。はっきりいって背筋に寒気が走った。
「いや、え、あ、そ、そういう趣味だった、の――」
 あまりにとっさに投げられた爆弾発言に、不自然にしどろもどろな口調になった。そんな僕の慌てようを遮るように、佐藤は続けた。
「だって――田所くんって、その、ホモの人なんだよね?」
「は、は、え? いや、あれはその、ただのあだ名で――」
「僕のことはどう思うの?」
「無理」
 気づいたら即答していた。僕も佐藤も固まり、どうにも嫌な沈黙が数秒流れた。
「田所くんなら――僕の気持ちをわかってくれると思ったんだけど・・・・・・」
 しばらくして、佐藤はあからさまに気落ちした様子で肩を落とした。
 僕はどう言葉を発していいのかわからず、ただ目を逸らすように俯いた。
「――別に田所くんが気にする必要はないよ。僕が期待し過ぎただけなんだ、もしかしたら田所くんも僕の仲間じゃなんじゃないかと思っちゃってさ。だって君のあだ名が――」
「ホモだったから?」
 先回りして言ってしまうと、佐藤は苦笑いの表情を浮かべてこくりと頷いた。
「い、いや、あの、僕のあだ名が紛らわしかったのは申し訳ないんだけどさ――あ、あくまでもただのあだ名だからさ。中学の頃に適当につけられた感じの。僕も嫌だったんだけどさ、呼ばれて浸透しちゃったらどうしようもなかったから。だから、その――ホモっていうあだ名だけど、僕自身にはそういう趣味はないから――ほんとごめんだけど――」
 僕は目を伏せたまま、ごちゃごちゃと言い訳を並べ立てた。佐藤の顔を、もう真正面からしっかりとは到底見られる気がしなかった。
「いいんだよ、いいんだよ。僕の勘違いだったんなら。不快な思いをさせちゃったでしょ、僕こそごめんね。嫌だよね、男から告白されるなんて。今日のことは忘れて。じゃあ」
 佐藤はそう心底から申し訳なさそうに言うと、足早にその場から離れ去っていった。僕は佐藤の気配が完全に消えるのを感じるまで、まともに顔も上げられなかった。
 もう大丈夫かとようやく気を緩めて顔を上げたとき、僕の心臓はまたきゅっと縮こまった。前方から、見覚えのある人物が歩み寄ってきた。宇川だった。宇川は思い出し笑いでもするように、粘着質な笑みを顔面にくっつけて歩いてきた。
「ホモさあ、お前、こんなところで何してたの?」
 それは宇川がすべてを見透かしていて、その上で相手をからかうときの口調だった。相手を小馬鹿にしていることを何も隠していない口調。
「え? な、何って。ご、ゴミ捨てだよ、ゴミ捨て」
「お前、今日は別に当番じゃないだろ」
「それは――頼まれて――」
「佐藤だろ」
「へ?」
「佐藤に頼まれて手伝ったろ。今日の当番は佐藤だからな」
「あ、ああ、うん、そう。そうそう、佐藤くん。佐藤くんに頼まれてゴミ捨てを手伝った。それだけだよ」
 僕は早口でまくし立て、適当に笑うことで誤魔化そうとする。しかし、宇川にはそんな小細工にもなっていない嘘など効かないようだった。
「お前さあ、佐藤に告白されてただろ?」
 ずばりと言われ、眉間から急に冷たい汗が噴きだす。
「そ、そんなことあるわけないよ」
「何で?」
「だって――だって佐藤くんは男だろ。男が男に告白するわけないだろ」
「お前はホモなわけだが」
「それは宇川くんがふざけてつけた単なるあだ名だろ。僕自体は至ってノーマルだって。宇川くんも知ってることだろ」
「そりゃお前がノンケなのは知ってるけどさあ、それは別に佐藤がお前に告白しないっていう証拠にはなってないよな?」
「――見てたんだろ?」
 ここまでしつこく絡まれたら、自ずと一つの結論に行きつく。
「何を?」
 宇川はまだすっとぼけたふりをする。いちいちくどいのだ、こいつは。
「佐藤くんが僕に告白したところ」
「見たよ」
 先ほどまでのとぼけ具合が何だったのかと思うほど、宇川はあっさり首肯する。
「見ただけじゃなくてねえ、しっかり証拠も押さえてあるよ」
 宇川は自身のポケットからスマホを取り出すと、それを僕の眼前に突き付けた。テレビカメラ機能が起動されており、佐藤くんが僕に告白するシーンが確かにしっかりと撮られている。
 僕は軽く血の気が引くような気分になったが、宇川に対しては平静を装っているように努めた。実際に宇川から平静な様子に見えたかどうかはわからなかったが。
「――そんなもん撮ってどうすんのさ」
「どうもせんけど」
 宇川はきょとんとした顔をする。
「どうもしないって――」
「ただ面白そうな光景だから撮っただけだよ。それにさ、素晴らしいことじゃねえか。好きな人に告白するってのは。まあ結果はどうあれな。こりゃ美しい一幕だよ」
 宇川は誕生日を祝ってもらっている子どものような無邪気そうな笑みを浮かべながら、スマホをポケットの中に戻した。
「えーっと、じゃあ何で僕に話しかけて――」
「何となく」
 そう言われてしまえば、僕は自然と黙らざるを得なかった。
「お前のおかげで良いもん見れたわ。また明日な、ホモ」
 宇川は僕を置いてひとり勝手に去っていった。僕は脳裏を真っ白にしたまま、しばらくゴミ溜まりのバックヤードの前で棒立ちしていた。夕方のチャイムが鳴ったところでようやく我に返り、慌てて教室に戻って乱雑に荷物を突っ込んだ鞄を背負って家路についた。
 その日の晩は上手く寝付けなかった。佐藤の告白の言葉や、宇川のからかいの言葉が飛び跳ねては身を屈めるのを繰り返していた。翌日は学校を休んでしまいたかったけれど、なんだかんだずるずると朝支度をしてしまい、そのまま登校してしまった。
 教室に入ると、普段よりも妙な感じがした。具体的なことは上手く言葉にできないが、とにかく音にならないざわつきのようなものがあった。
 視覚的な異変はすぐに発見できた。佐藤の席だ。佐藤の席には当然ながら佐藤本人が座っていたのだけれど、その周りを何人かの男子生徒が包囲していた。その中の一人には宇川がいた。宇川は胡散臭い笑顔で佐藤に何やら声をかけている。対して佐藤は、机に刻まれた傷でも眺めるように俯いていた。
 僕はびくびくしながらも、その異変に興味を示していないふりをしながら、そっと宇川の声に耳をそばだてた。
「――ガチホモくん、どうしたの? もっとちゃんとお話ししようぜ」
 そう聞こえた。瞬間、宇川がちらっと僕を見た。僕は慌てて目を逸らしたけれど、きっと遅かっただろう。もう一度顔を向けたとき、宇川はまた熱心に、というよりも執拗に佐藤に声をかけていた。佐藤が黙れば黙るほど、宇川は生き生きとしていくようだった。
 その日から、佐藤のあだ名はガチホモくんになった。別に強制でもないのに、どうせ宇川が佐藤の僕に対する告白をばらしただけだろうに、クラスメイトたちは僕をホモと呼ぶように、さも自然のことかのように佐藤のことをガチホモくんと呼んだ。例外として、一部の大人しいタイプの女子は引いているようだったけれど、そういうクラスメイトは佐藤のことを気味悪がって近寄りもしなかった。
 連日、新鮮な玩具を拾ったとばかりに、宇川を筆頭とするクラスメイトたちの佐藤へのからかいは続いた。物を隠したりするわけはない。身体に直接的なダメージを与えるわけでもない。悪口をこれ見よがしに吹っ掛けるわけでもないし、脅迫まがいのこともしない。ただガチホモくんというあだ名で、気軽に佐藤に声をかけるだけだった。
 佐藤は授業中だろうが休み時間だろうが、始終机の表面を嘗め回すように俯いてばかりいるようになり、まともに顔を見る機会もなくなった。佐藤が再び僕と何かしらのコミュニケーションを取ってこようとする気配もなかった。
 僕は相変わらずホモと呼ばれた。何も変わらなかった。ときたま「男に告白されて箔がついたな」と笑われたが、それ以外の変化は何一つとしてなかった。それ故に僕が変化することもなかった。少しずつ精神をすり減らしていく様子の佐藤を尻目に、もうすっかりと手慣れた作り笑いを披露していた。
 佐藤に対して申し訳なかったと思うような気持ちが、これっぽっちもなかったのかと言われれば嘘になる。多少は僕にも責任はあっただろう。佐藤のことも自分のことも、もっと積極的に変化するように動く意思があればどうにかなったのかもしれない。だけれど、そんなことをして何になったのだろう。先述でも述べた。これはいじめではない。ただの子どもの悪ふざけだ。ただの悪ふざけにツッコミなど、野暮の極みではないか。それこそいじめられる。それに、佐藤にも十分落ち度があるではないか。そもそも告白してきたのは佐藤の方だ。僕のことを勝手に同類と思い込んだ佐藤の早とちりが原因なのだ。自業自得ではないか。そして何より――同性愛者なんて気持ち悪いではないか。いつの間にか正当化は完了した。
 そのうち佐藤は休みがちになった。一日休み、二日休み、次に三日休み――。
 気づけば佐藤は学校に来なくなっていた。それに関して、宇川も他のクラスメイトたちも我関せずといった感じで、誰も気にかけている様子はなかったし、話題として上げることすらなかった。そしてやはり僕の扱いも何も変わらなかった。
 高校を卒業後、僕は遠くの大学に合格し、その近くに移り住み、学生として一人暮らしを始めた。幸いにも、中学の頃のクラスメイトとも高校の頃のクラスメイトとも鉢合わせることはなかった。もちろん宇川とも。僕は十八歳にして、ようやくホモの呪縛から解放された。
 大学は今までの学校生活が嘘のように居心地が良かった。友達ができたわけでも、ちゃんと異性の恋人ができたわけでもない。講義後はすぐに帰って、昼食は食堂でひとり黙々と食べるような、冴えない学生だ。それでも居心地が良かった。ホモなどと呼ばれないだけで、心底から安心していることができた。
 結局佐藤がどうなったのか、僕は知らない。知りたくもない。宇川のこともだ。佐藤も宇川も、僕の中ではもう二度と会いたくない人物として、同じカテゴリーの中に入れられていた。だからどうでも良かった。もしかしたら佐藤は病んで狂ったり自殺したりしているかもしれないけれど、それは決して僕のせいではなくて――宇川はまた誰かを玩具にしているかもしれないけれど、それは僕には何も関係のないことで――。
 しかしながら、寝つきの悪い夜などにふと、佐藤のあの机に向かって俯いた姿を思い浮かべてしまう日があることも、また事実なのだった。

「――お前、今なにやってんの?」
 久しぶりに再会した宇川の顔は、あの頃のまま何も変わっていなかった。あの粘着質でいやらしい笑顔。服装や髪色が奇抜になったことくらいしか変化を見つけられなかった。
「普通に、その、大学生」
 答えないわけでもいかないので、とりあえず表情を取り繕いながら答える。高校生のときは作り笑いなどお手のものだったが、大学生になって解放されてからはしばらく作り笑いの鍛錬を怠っていたので、上手くできているかどうか不安だった。
「何部?」
「ぶ、文学部」
「へえ、文学。ダザイオサムとかやってんの?」
「いやまあ、それは近代のやつだね。他にもあるんだけど」
「ふーん、俺はしがないフリーター」
 宇川は僕の回答にはいかにも興味なさそうで、訊いてもいないのに自分のことを話し始めた。
「こないだまでは実家の方でニートやってたんだけどさあ、いつまでもだらだらしてるもんだから追い出されて。ほんで仕方ないから女作ってその家に転がり込んだんだけど、家賃は折半しろなんて言われちゃってさあ。まったく参ったもんだよ」
 宇川はわざとらしくため息をついた。
「・・・・・・大変だね」
 とりあえず同調した。宇川の話すことの内容などどうでも良かった。今は一刻も早くこの男と別れたくて堪らなかった。佐藤の影が脳裏にちらつく。
「ほんとほんと。俺は楽しく生きたいだけなのにさ。ホモなら俺の気持ち、わかるだろ?」
 おもむろに宇川は僕の肩に手を置き、そして圧迫してくるように笑った。
 次に瞬間、僕は宇川の手を振り払い、逃げるように走り出していた。一度も振り向かず、我に返ったときには見慣れない街並みの寂れた住宅街の中に紛れ込んでいた。もう宇川の姿は背後にはなかった。
 そこから一苦労しながらもどうにか家路を見つけ、また宇川と会いはしないかと警戒しながら、無事に帰宅した。ひとまずほっと安堵する気持ちと同時に、捨て損なった消しカスみたいなわだかまりが胸の内側で燻っていた。
 気を少しでも紛らわせようとテレビを点けた。何かのドキュメンタリー番組をやっていた。同性愛とか性同一性障害とかを取り上げているやつだった。同性愛者だという薄汚い男どもが、ぞろぞろと出てきて、偏見や差別の撲滅について熱弁している。
「・・・・・・気持ち悪い」
 そう思った。心底からそう思った。軽蔑すらした。同じ人間だとも思えなかった。そうだ、こんなやつらとは違うのだ。自分は、こんなやつらとは――。
 その日の晩、僕はお気に入りのアダルトビデオを見ながら自慰をした。何本もの男の手に揉みしだかれる女体、艶めかしい喘ぎ声――。僕は自分の陰茎をしごいた。いつもよりも強く、痛いくらい強くしごいた。
 しかしその晩、僕は射精をすることができなかった。何べん陰茎をしごいても、陰茎の先から精液が発射されることはなかった。ただ股間の痛みと胸の内側のわだかまりの疼きが増幅していくばかりだった。
 必死に射精をしようと試みるほど、僕の脳裏にはとある風景がくっきりと投影されていく。誰もいない高校の教室。佐藤もいない教室。僕だけがいて、僕だけがその教室の中にいて、そして佐藤の席に座っている。自分の席ではなく、佐藤の席に――。机を見た。佐藤がずっと俯いて眺めていた机。その上には、何の傷もないのだった。

ホモではない人

ホモではない人

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-08-18

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