Over/Run
1
ずっと一緒。同じ方向に、進んでいける―――そんな自信がついたら、最後はどこに行き着くんだろう? そしてもし―――そこに着いてしまったら?
胡海は無心にメールで作業をしながら、頭の中で漠然とそんなことを考えていた。レザーシートの新しい匂いが、胡海のいる車内には満ちている。シルバーボディのS2000はツーシーターのこぢんまりとしたスポーツカーだ。
真(しん)が得意げに、それを自慢したときには―――シートカバーに使われた本革の匂いも、正直言うと好きではなかったし、横目で話しかけたりしながら真が、クラッチのレバーをがちゃがちゃと操作するので、どうしても不満だった。でも今は二つしかないシートがぴったりはまった感じの、この車が好きだった。
丘の上のホテルの駐車場は、サーモンピンクの夕陽に染まっている―――カリフォルニア産グレープフルーツの果肉の色だ。柔らかなピンク色が胡海のみえる視界のすべて、ぐるりのものの輪郭をしっとり溶かしている。
さっきまでの胡海は、フォルダの写メを選別していた。誰かに送るにしても、自分で持つにしても―――今の気配を撮れたものが、中々見つからなかった。目を凝らして胡海は吟味したが、何百万画素ならいいかと言う問題でも、どうやらなさそうだった。結局、比較的よく撮れたがまだ不満な二枚が、フォルダに残ることになった。
ただ、それからも―――携帯のカメラを横に構え、バックミラーの影が入ったりしないように胡海は新しいショットを狙ってはみたが、思うようなシャッターチャンスが来ないまま電話をしまった。
真が帰ってきた。
「だめだった」
胡海は何も答えを返さずに、一度閉じた電話を意味無く開いた。
「閉まってたよ――――潰れてた」
胡海は、運転席側の窓から見える建物を一瞥した。白壁の美しい南欧風のホテルに、人の気配がないことは最初から分かり切ったことだった。無人の駐車場の入口には、留めてあったチェーンが無残に放置されていたし、外壁もよく見れば、長年掃除しないままの土埃が堆積していた。それでも真は、ぐるりを廻って確かめて来たのだ。
「もういい」
胡海は、そっぽを向いたままぽつりとつぶやいた。切ったばかりのベリーショートの前髪が、パワーウィンドウの蔭から射し込む夕日に切り取られたように、赤く輝いていた。胡海のふてた顔が、その投げやりな口調以上に今日の結果に納得していないと言うことは、誰の目にも明らかだ。
「幕張へ戻ってそっちへ探すか?」
スーツの胸元からラッキーストライクのメンソールを取り出して、真は尋ねた。
「それとももう少し探してからにするか? 日が落ちてからだと正直きついけど」
「だからいいってば―――それより、煙草」
レザーに匂いがつくので新車の車内を当分禁煙にすると言い出したのは、真からなのだ。胡海と一緒にいるとき吸うなら、それなりの配慮をすると約束したのも。
「あ、そうだ――悪い。禁煙だったよな」
真は、聞きわけのいい保護者の顔をして運転席から出ていこうとした。
「待って」
「なんだよ」
ドアに手をかけた真の肩を、胡海は引きとめた。
「もう出ようよ――――幕張に戻るなら、時間とかもったいないし」
「幕張に戻るのか?」
「『戻るなら』」
「戻らないなら?」
言葉遊びでかわしているような真に、胡海の不穏な気配が漂った。一足一刀の間合いを察した真は苦笑すると、シートベルトを締め直して、
「分かったよ。とにかく、車出そう―――このまま銚子方面でいいのか?」
「来た道戻ったってなんの意味もないじゃん」
「銚子の市街って結構、古い町なんだぞ?」
胡海の言う、海辺の綺麗なホテルなんて見つかるはずがない―――真がほのめかす事実に、胡海は気づかないふりをして、
「いいから出してってば」
ガコン、ガチャガチャ、ゴン―――スピードの出るマニュアル車の操作は、ひどくせわしない。コンパクトなボディのS2000は、がらんどうの駐車場を時計回りにターンして、丘の上のホテルを飛び出した。
空振りはこれでたぶん、五件目だ。二人は勝浦の近くまで行って返してきて、今、銚子の屏風ヶ浦に沿うラインを北上しようとしている。目指すは、房総の海岸沿いで女の子が納得しそうな綺麗なホテルのようだ。胡海の要求は一般的なようでいて、結構な贅沢なのかも知れなかった。彼女に言わせれば、立地はともかく、どれもが安普請の間に合わせなのだ。今日が本来、妥協するラインを見つけなければいけない流れなのかも知れないにしても―――ようやく見つけたこのホテルで、どうあれ納得しようと思い始めた頃だけに、胡海の不機嫌は、理屈で納得出来る範囲を超え始めていた。そもそもこれは―――即物的に行為をする場所が見つかればいいと言う話ではなかったはずなのだ。
胡海自身にも唐突なこの計画が、杜撰すぎる目論見であることは、薄々察しがついていた。もともとは三月の終業式明けに、二人で房総半島の東海岸を南下して、館山まで一泊二日の旅行をする計画だったのだ。期末テストの答案が返ってくる日の中途半端に授業のない胡海の予定と、早番の真の午後の退勤が重なったのは、今にしてみれば幸運な偶然とは言い難い偶然だったのかも知れなかった。
「なあ、海、綺麗だぞ」
猛スピードですれ違う対向車に気を使いながら、出し抜けに真が言った。屏風ヶ浦の海は、運転席側だ。この道は長いスロープのアップダウンの繰り返しになっていて、その山の最下点辺りで景色が開け、途切れ途切れに海が見えてくる。音楽も会話もない十五分間の沈黙に耐えかねたように、さっきから真は断続的に明るい声を出していた。
「気を取り直せって。ほら・・・・・つか、な、せっかく来たんだからさ」
胡海は海を一瞥したが、強烈な逆光に苦々しげに顔をしかめるだけだった。
「・・・・・聞こえてるんだろ。返事くらいしろよ」
「名前」
ハンドルを操ることに気を向けた真が、今答えに窮したことは胡海にも分かった。
「前から言ってるじゃん、名前で呼んでって―――わたし、誰? 名前で呼んでくれなきゃ、ずっと返事しない」
「胡海」
硬いイカを噛み切るときのように唇をすぼめて、真は彼女の名前を呼んだ。
「いい加減にしろよ。機嫌直さないと怒るぞ」
「名前もう一回呼んでくれたら、機嫌直す」
「この先ホテルなんかないぞ、胡海」
飲まなくていい酒を飲んだような苦い顔で、真は要求に応えた。
「旅館とかでもいいよ」
「和風嫌いなんだろ。お前が言い出したんじゃないか。トイレだって和式嫌がる癖に」
「『お前』」
胡海の強情な言い草に、真もついに鼻を鳴らすと、
「『胡海さん』、そろそろお腹が減りませんか? シーフードのレストランとかなら、いい場所見つかると、運転手は思うんですけど。その後のことは幕張に戻っても、出来ることだし――――腹減ってると、お前極端に機嫌悪くなるぞ。この前も、電池切れのリモコンみたいに反応悪かったし」
(分かってるよ―――そんなこと、自分でも分かってる)
それでも中々気分を変えろと言われて、変えることは出来なかった。
きっかけだって要る。それには、真が絶妙なパスを今くれたが――そうだ。理屈で解決できるものではない不満は、いつでも空腹のせいにすべきだ―――胡海は、呼吸を整え直すと、もうなんでもない声を探って、
「じゃあ、お寿司食べたい」
「回転寿司だぞ。はっきり言って、今月苦しいんだから」
地球が丸く見える展望台の前の交差点を過ぎて、S2000は銚子灯台の目前に差し掛かった。ここまで来ると、濃厚なピンク色だった夕暮れの空気は、暗いワインレッドに変化した。辺りの風景の輪郭を弱めて、鈍く沈ませていく眠りの色だ。日の当たらない場所が少し薄暗くなってきたことを察したのか、真は、ヘッドライトを点灯した。
薄暗闇にぼやけていたが、丘の上からは段々畑のように斜面に沿って発達する銚子の街が見えた。ホテルらしき背の高い建物はもちろん、ここからは見当たらない。
小さなキャベツ畑が点在するS字カーブをぐるぐると滑り下ると、左手前方に銚子鉄道犬吠駅の白壁が二人の目の前に現れた。坂を下りて最初の交差点の右手―――テレビでもよく紹介される漁師が経営する回転寿司が店を構えているのを真は知っていた。
「ここでいいか?」
回転寿司の看板だけ見て胡海は肯いた。平日のこの時間帯的にも、今がちょうど待たなくても食べられるチャンスだと真は言った。確かに通り過ぎるとき、店の中のテーブルを見渡しても、奥座敷に年配の家族連れのような4人がゆっくり食事をとっているだけだ。
「分かった。ちょっと待ってろよ」
交差点を挟んで真向かい、下が砂利道の駐車場に、真は新品のスポーツカーを停めた。
「なんかすごくお腹減った来ちゃった」
胡海が無邪気な声を出したので、危険水域を脱したと真は思ったのか、
「油断しない方がいいんじゃないのか? 髪短くするためにダイエット成功したばっかりなんだろ。また顔、ぱんぱんになるぞ」
ぼすっと擬音が聞こえるくらいの勢いで、胡海は真の二の腕を殴った。振り向きざまの一撃はどしっとした体重の乗ったもので、着やせする割に体格のいい真が少しよろけて、車道の方に踏み出しそうになった。
「危ないな―――女の癖に、重たいパンチ打つなよ」
胡海の二撃目をどうにか空振りさせると、真は少し大袈裟に悲鳴を上げて見せた。
「次重たいっつったら蹴るからね」
二人の目の前をヘッドライトを点けた車が数台通過していく。中央分離帯のない二車線を挟んだ店の軒先には、年代物の裂き台が据え付けられていて、まだ拭われていない生魚の血のせいか、この暗さでもどこかねっとりとした光沢を放って見えた。
「あ・・・・・」
なにかある。その奥にあるものに引きつけられたように、そのとき胡海は足を進めた。
「なんだそんなに腹減ったのか?―――信号変わるまで待てよ」
「――――うん」
胡海は裂き台の上に見つけた謎の面影に目を凝らしていた。あれは―――魚の頭だった。
マグロなのか、カツオなのか―――とにかく大型の回遊魚の、ひと抱えもありそうな頭だけが、自分をどこかに置いて先に店に入って行ってしまった首から下が戻ってくるのを待ちわびているかのように、薄闇に紛れてぽつんとしている。
暗闇に取り残されたものの影―――楽しい御馳走のなれの果て。
果てにある連想を振り払うように、いつしか胡海は目を反らしていた。
信号が青になった。交差点を渡るとき、胡海は踏み出した勢いでそっ、と真の腕にすがりついてみた。相手の身体がそのとき、戸惑い気味に少し強張ったのを胡海は感じはしたが、内心の苦笑を噛み殺しつつも真が身体を引きつけてくれたので、安心して肩を寄せて身体を預けることが出来た。
「背筋伸ばして歩けよ」
車道の通行量を確かめながら、ごく自然に胡海に向かって真は言った。うん――低い声で、胡海は返事をする。いつの間にか、胡海は従順に真の声に従う表情になっていた。
胡海はさりげなく、硬い素材のスーツ地に鼻を押し付けた――やわらかい鼻の頭がぶれた感触が、真の腕に伝わってくる。彼は特に何も言わなかった。
胡海はもっと強く、鼻孔を押しつけてみた――――顔を近づけた分、男性物のオーデコロンの匂いに混じって慣れた真の匂いが強く香ってくる。ブルガリのエゴイストプラチナムは、本当に真そのものを連想させてくれる。真はこれをわざわざ海外の輸入通販のサイトから取り寄せているのだ。シャンパンゴールドの液体の色もあのさりげない小瓶の形も、おしつけがましくなくて真にぴったりだ。
そんなことを考えていると自分でもどうしようもないくらい、波立ったさっきまでの心の揺れが、夕凪ぎの海のようにみるみる小幅に落ち着いてきたから自分でも不思議だった。
こう言うことはよくあることなのだ―――真は真で、その機微が経験上、分かっている。胡海より七年分、自分以外の誰かと接してきた経験で。今の胡海以上に、真に甘えた誰かが、それまでに居たのかもしれない―――そう思うとまた胡海の心が波打つが、もっと身体を強く寄せることで不安は紛れるような気がした。
真にしてみたら、そんな胡海がちょっと微笑ましく思ってくれたのかも知れない。つまりこれが女の子として胡海を、かわいいと思ってくれる瞬間なのかも知れないなら―――その腕に絡みついている胡海の小柄な身体を、そう言う面で認識し出していることをはっきり感じたのは、ただ単に彼にとって一つの発見だったとしたら。胡海は、今は単純にそう考えることにして、その腕に身を任せた。
2
店の中は空いていた。外から見たとおり待合所には今、一人の客もいない。威勢のいいレジの女将も、中休みしている様子だった。二人は奥のブース席に入った。コンベアを挟んで反対側の家族連れがいなくなれば、誰も邪魔する人間はいない席―――ついてる、心の中で胡海はつぶやいた。おしぼりで軽く手を拭くと、真が粉茶を用意する間に胡海は二枚の寿司の皿をとって、それぞれ素早く前に並べていく。
組んだ手の甲にものうげにあごを乗せた真は、目の前に置かれたコハダの握りを見下ろすと呆れたように言った。
「―――よくおれの食いたいもの、分かったな」
真は、悪戯っぽくうかがうような胡海から目を離さずに、酢と脂で濡れたコハダの握りを放り込む。海水に洗われたままのような銀色の刺身は新鮮で臭みはなかったがしめた酢がきつく、思わず顔をしかめるほど。熱い粉茶を飲んでようやく、口の中がこなれてくる。長年連れ添った恋人が亡くなったような切ない顔でコハダの身をかみ締め続ける真がそれを食べ終わるまで、肩で笑いをかみ殺しながら胡海は観察していた。
「真の好み、知ってる―――あと、食べられないのは、ガリと貝類なんでしょ」
そう言うと胡海は、まんざらでもなさそうに自分のイカの握りを頬張った。
「なんか、うちの妹みたいだな―――あいつから聞いたのか?」
じゃあ、と芝居がかった視線を交わし、真がコンベアの皿に目をつけて、二人の前にそれぞれ置く。自分がおろし生姜に刻みねぎを添えたイワシの握りで、相手は肉厚のホタテだった――ありがと、美味しそう。弾んだ声の胡海は嬉しそうな上目づかいで真の顔を見上げると、その皿を引き寄せた。
「妹って―――里梨のことでしょ? あの子もお寿司好きなの?」
「まあね。あいつもガリは食べられないけど。・・・・・でも今日の胡海みたいに、白身の魚や、貝類が大好きだ。イカとか、タイとか、ヒラメの縁側とか――――ああ、こう言うところに来ると、ホタテの握りは何回もお代わりするな。本当、しつこいくらい」
二皿目のホタテを、胡海は取り上げた。
「―――そうなんだ」
「君は、ホタテ好き?」
「誰が?」
イワシを口に含むと黙って、真はあごをしゃくった。胡海は貝の身の脂で濡れた指先を米粒と一緒に短い舌でひと舐めすると、
「わたしは普通かな―――でも、ホタテは好きだよ。白身の魚も赤身より好き」
真の手が、クリーム色でふっくらとした形の白身の握りの皿を捉えた。
「それなに?」
「マンボウだって。珍しいから取ってみた」
「これがマンボウ?」
胡海が好奇心で瞳を輝かせた。
「地元漁師の店だからな―――食べたかったら、半分やるよ」
二人で分け合って、一カンを食べた。しゃりの上にでんと載った刺身も堂々としたマンボウは、意外にしこしことした、複雑な味わいのする白身だった―――それでも、その平たい巨体のイメージ通り、それと分かるほど口に残る脂は強い。
それから二人は自分の好きな皿をいくつか取ると、無言で食べ続けた。
「まだ食えるか?」
「うん、平気」
お酒がないせいか、それから真はそれほど皿を重ねなかった。
「ねえ、一つ聞いていいかな―――妹の同級生と付き合うってどんな感じ?」
「どうかな」
口についた魚の脂を拭いながら、真は首を傾げた。
「そう言うこと意識して恋愛してないからよく分からない」
「今まで年下はいくつくらいまであった?」
「三つか、四つくらい―――でも高校生のとき」
話しかけて真は、胡海が何か気にかけていることに気づいた。
「なんだ?」
「ああ、いいよ、大したことじゃないから。続き聞かせて。高校生のとき?」
「二十五歳のOLと付き合ってた。今のおれと胡海と同じ年の差だよな―――男女の違いは当然あるだろうけど」
「上手くいったの?」
「そこそこな。向こうにも相手がいたみたいだし、たまに会ってデートするくらいだったから――――なんだか知らないうちに、自然消滅したよ。こっちはこっちで同じ学校の女の子とも普通に恋愛してたから、何とも思わなかったけど」
自分でも気づかないうちに、胡海の声は弾んでいた。
「へえ――そんな話、妹にもしてない?」
「誰にも話したことないよ。知ってるやつは知ってるだろうけどな―――別にすすんでする話じゃないしね」
ふうん―――努めてなんの変哲もない相槌を打つと、胡海はお茶を口に含んで、
「で、その人とが初めてなんだ」
満腹のため息をつくと、真は首を振った。
「違うよ。でもまあ―――色々教えてはもらったかな。こっちはガキで、しかも男だから、きちんと説明してくれなきゃ分かんないことも一杯あったし」
家族連れがいつの間にか去って、店内に客は真と胡海だけになっていた。
「そろそろ出ようか」
居づらさを察して素早く腰を上げながら、真が言った。
「うん」
と、火を消したような無表情に戻って、胡海も支度を始めた。
「勘定払うからさ。先、車行って待ってて」
そう言うと、真はキーを胡海に預けた。
店を出ると、辺りはすっかり暗くなっている。胡海は先に行かずに、カウンターで支度を整える真を待つことにした。足踏みで地面を蹴って―――時折、自分の中で煮詰まっていく気持ちを整理する。そのときハイビームをきらめかせて、目の前を銚子電鉄の小さな単線列車がホームに滑り込んできた。真が出てきたのが、それと同時だった。
「寒くないか?」
「大丈夫」
自然と腕を貸した真に、両手で胡海はすがりついた。
「暗くなってきたな」
歩きだしながら―――タイミングを見計らって、真は言った。
「もう戻らないか?」
答えを拒否するかのように、胡海は顔を背ける。
「どうして?」
一拍遅れて切り返し―――喉元に突きつけられた刃を、そのまま突き返すときのような胡海の反応を察したのか、真は声のトーンを落として、様子をうかがった。
「いつまでこの辺流してたってしょうがないだろ」
「かもね」
ほうっ―――脂っ気の強い寿司を食べすぎたみたいだ。胡海は返事の代わりに大きなため息を白い湯気とともに、同じく様子をうかがうように真を見上げた。冷たく乾いた海風が沁みたせいで、胡海の瞳に薄く涙が滲んでいた。ちょうどもう一度吹き上げてきたその北風から守るように、真は胡海の顔をのぞきこんで言った。
「千葉へ戻ろう。それでもまだ、時間あるから―――暗くなってきたら、たぶんベイタウンのホテルの方が夜景が綺麗だよ。高速乗れば、あっと言う間だろ」
3
ダッシュボードのデジタルの時計が二十時を表示している。その下のカーナビのディスプレイにも同じ数字が真っ白く光って浮き上がる。太陽は西に沈み、外は―――電子掲示板と蛍光灯の世界に姿を変えていた。
オーディオのスウィッチを入れると、ラジオが掛ったままになっていた―――能天気なDJ男のちゃらいトークと場違いに明るいアイドルの新曲が、食後の気だるいドライブには最悪の相性だった。居眠り運転を誘発しないチャンネルを求めて、真は局番を変え続けたが、やがて心底うんざりしたようだった。
「胡海、選んでCDかけてくれ。ダッシュボードに入れっぱになってるから」
「洋楽分からないよ」
揺れるシートの上でCDのジャケットを交互に引っ張り出しながら、胡海はしばらく考えていた。
「もう。CDなんか持ち歩かないで、アイポッド買ったらいいのに」
「CDアルバムが好きなの。一曲ずつダウンロードで音楽聴いてるやつには分からないだろうな。音楽って言うのはアートワークも含めて楽しむものなの」
「はいはい・・・・・あ、そうだ。オアシス」
思いついた。そう言えば―――昨夜、真の部屋で二人で聴いたBAY‐FMの特番が、オアシスの特集を組んでいた。オアシスなら、胡海にも少しは分かった。彼女が選んだのは、彼らの2ndアルバム『モーニング・グローリー』。ジャケットの写真は、ロンドンのバーウィック通りという場所だと真が話していた。アートワークにだって興味がない胡海がちゃんと憶えていたのは、そのことが全部、真の部屋でのことに結びついていたからだった。
そこには、すすけたレンガ通りのほこりっぽいビル街で、一組のカップルが後ろ向きに腕を組んでぽつんと立っていた。街はうらぶれているし、二人の男女は別に人目に立つほどのスタイルでもなく、若くも、お洒落ですらない。よく考えたら、素通りしてしまいそうに地味だけど、真によればこのジャケットは有名で発売当初、イギリスのどの家庭にもこのアートワークのジャケットCDがラックに収まっていたほど目に付いたそうだ。
ただ胡海はむしろオリジナルのアートワークよりも、真の部屋で読んだ『BECK』の扉絵で(この作品ではキャラクターたちが有名ミュージシャンの名作アルバムのアートワークをパロディするのだ。)、主人公のカップルが同じ場所で腕を組んでいるカットがの方が大好きだった。だって、どう見ても『BECK』のカップルの方が、断然幸せそうだったからだ。密着感が違う。
巨大なロンドンに飲み込まれないために、とりあえず仕方なさそうに肩を寄り添いあっているようにみえるオリジナルジャケットの二人に対して『BECK』の二人はお互い白い息を吐きながら寒いロンドンを仲良く腕を組んで寄り添いあってこっちに歩いてくる。ちょうどさっき胡海と真がしていたみたいに。そこにはちゃんと幸せが保証されているように胡海には思えた。
画用紙にクレヨンで殴り書きしたような、手作り感抜群のサウンドが四つのスピーカーから音を吐いた。今風のデジタルなテクノロジーに包装された、プリミティヴな曲構成。ざらついたリアム・ギャラガーのボーカルには、計算されたほどよい幼児性が加味されている。お馴染みのオアシスだ――――頭の三曲を無言で流した後、男の咳払いにアコースティック・ギターのイントロから静かに始まるのは、『ワンダーウォール』。
例えば、雨を孕んだ曇天の午後――――真っ白なシーツを引いたような薄明るい曇り空に、不穏な予兆を感じさせる曲の立ち上がりに、さっき封じ込めた心の揺れが刺激される。胡海はこのCDを選んだこと自体後悔したが、すでに遅かった。
「調子悪いのか?―――腹いっぱいで車乗ったから酔ったんじゃないのか」
「大丈夫だよ」
鳩尾のくぼみが上下するほど大きな息をつくと―――胡海は、物憂げにかぶりを振った。
「無理しなくてもいいんだぞ?」
「なにが」
「このあとのことだよ―――おれたち、そんな無理して急に親しくなる必要はないだろ」
日向が隠れるように胡海の顔に、不機嫌がさした。
「真こそ無理しないでよ」
「は?」
「したくないんなら、したくないって言ったらいいじゃん」
「別にそんなこと誰も言ってないだろ」
胡海は露骨に鼻を鳴らして、そっぽ向いて見せた。
「言わなくたって、伝わってくるから言ってるんじゃん―――それならいいよ、もういいから。家まで送って。しばらく連絡しないから」
「あのな、胡海―――」
肩にかけた真の手を、胡海は振り払うようにした―――二人がいる空間のバランス感覚はかなり微妙だ。反動で木の葉のように軽い、S2000のボディがわずかに右に傾いだ。
「お前って、ほんっと我がままな。分かったよ。おれも、もういい。今日は帰るぞ」
ついにいら立ちを隠さずに真が言うと、狭い車内の雰囲気はさらに険悪になった。
「いいんだな、家までで」
アクセルを踏み込むと、ボディごとシートが斜めにせり上がった感覚がした。
怒りに任せて、真がオーディオのスウィッチをぶつ切りした。通話の途中で叩き切られたみたいな唐突さで、騒がしいオアシスの息の根が止まった。
夜の高速道路を飛び去る、背の高い街灯の羅列が、粗雑なスパンコールのように、いびつな水玉模様で車内を映し出す。道路が空いているせいで、スピードメーターは百二十キロ付近で針が迷っている。大切に扱っていたのが一転、手荒な運転だ―――強引な追い越しをかけたクレスタも、クラクションを鳴らして車線変更した、車載オーバーのユンボーも、一瞬ではるか後方に吹っ飛んでいく。
聞こえてくるのは、がなり声で咆哮し続けるエンジンのトルク音だけだ。二つのシートの真下にエンジンがはめ込まれているせいか、それはせわしなく奔る小動物の心臓に似て、絶え間なくガソリンを吸い込んでは小爆発を作り出す―――二人の間に、不穏な震動がわだかまっていた。
異常に長く感じるようになった時間の経過をせかすようにその音が、いつしか、険悪な空気を震動に変えて、身体の芯に伝えてくる―――理由の分からないケンカのあとの、居心地の悪さそのもののようだ。絶対に自分は、悪くない―――そう思う一方で、どうにか謝るきっかけを探している時間はただただ辛い。もう少し時間が経てばと思うその時間が永遠に感じるくらい―――ちょっと待てば、お互いのこだわりもわだかまりも、相手との現実に見合うサイズに、小さく溶けていくはずなのに。
黒いわだかまりに見えた山の列が絶えると、海浜幕張のインターチェンジが近づいてきた。向って左にスロープしながら落ちていく道路に従って車を走らせると、ビジネス街のビル群が夜景にその姿を現したが、二人はまだ、何の言葉も交わさなかった。
闇夜にたたずむ高層ビル街は、まるで深夜、路面に立ち座りするハシブトガラスに似てふてぶてしかった。カラスなんてまったく最悪な連想だ。軽い吐き気を感じて、胡海は顔を背けた。そう言えば正午に、ちょうどこの大型店のある通りの交差点で、真と胡海は待ち合わせをした。仕事を抜けてきたはずの真の車が、大分先に着いてしまって意外と待たされたんだった。
「―――ねえ」
口火を切るように胡海が声を出したのは、ほんの五時間ほど前のやり取りに真が思いを馳せていた頃だった。
「―――なんだよ」
「別れる前にここで、はっきりして―――わたしが嫌だったら、わたしにはっきり、ここで言って。やっぱりわたしじゃだめだって言うなら―――それですっきりするから」
「だめだって? 何が」
「だから―――」
勢い込んで口を開きかけて、胡海は俯いた。
「やっぱいいよ―――わたし」
「胡海が今日がいいって言うなら、おれはそれでいいよ」
胡海のその先の言葉を呑み込むようにして、真が言った。
「おれは、胡海が好きだからさ―――どうせなら、大切に考えてやりたかっただけ。こうやって時間に迫られて、もし妥協したりして、心残りがあったらやだろ? おれと違って胡海はこれが―――正真正銘、初めてなんだろうし」
「・・・・・・・・」
「分かってるよ。するなら、ちゃんとしよう。おれ、今夜ぎりぎりまで付き合うからさ」
胡海は何か、唇を動かしたが、声が掠れて、言葉にならなかった。
―――ありがとう。
たぶんそう言ったんだろうと、真は解釈した。
「眺めがいいところが良かったんだろ」
走行する車体のバランスを取り戻しながら、真が言った。
「いいよ、別に。どこでも―――ホテルじゃなくても」
「―――うちに行くってわけにもいかないだろ」
そうだね―――とも言わずに、胡海はただ肯くだけだった。
「とりあえずインター降りたら、ATMかコンビニ探してくれないか―――ちょっとお金おろしてくる」
4
同じ方向に向かって―――相手と同じペースになる。つながると言うのは、たぶんそう言うことだ。今夜、直接行為で示すのは、その最後の確認。違う岸から出している二人のサインが一致する。その瞬間を想像するだけで、息が詰まりそうだ―――
助手席の胡海は、停車のランプを見つめながら、コンビニのATMから戻ってくる真を待っていた。反対側の車線に目をやる。陸橋の向こうの白い街灯の下は、そう言えば昼過ぎに胡海が真と待ち合わせをした場所だった。
さっきまで最悪だと思っていた一日が、今は記念したいほど思い出の時間だ。待ち合わせから噛み合わなくて、ランチ前にも険悪なムードになりかけたのも、振り返るとどこか微笑ましいくらい。
自分でもなんて都合がいい性格なんだろうと胡海は思う―――今日のうちに、手に入れたかったのは、身体のつながりだけじゃないはずなのだが、今は真にそれを求めることだけで頭が一杯になっている。
しかも、彼も同じに感じてくれているはずだと思えるのが―――胡海にとってはなにより嬉しかった。
ふと思いついて、胡海は足もとのバッグから、自分の携帯電話を取り出した。フォルダから、さっき撮った銚子の海辺のホテルの写真群を表示してみる。今のこの気分で見たら、何も悪いところはなかった―――気まぐれなものだ。どれもかけがえないものに感じる。物事自体に意味はなく、意味を与えるのはいつでも、見る人の気分次第なのだ。そしてそんなものは五分して、また十秒くらいしたらころころ、気まぐれにうつろってしまう。
はっと目が眩むほど―――濃厚なサーモンピンクの空。恋人たちから置き去りにされた白亜の遺跡にも、あのとき夕暮れの浸食が色濃く迫っていた。自分も車を降りて、もっと近くで、何枚か撮ってみればよかったと、胡海は思った。
後ろにはたぶん、海が見えたはずだ。あの色でたゆたう日暮れの水平線―――
「お待たせ」
自分の乗るドア側の通行車を確認しながら、真が戻ってきた。
「あ、これ。今日見た、最後のホテル?」
胡海は肯いて、電話ごと身を寄せた。ピンク色の光が車内にともる。
「ここが空いてたらな―――ちょうど、夕陽と海が綺麗だったしな。やっぱ綺麗だ」
「また探せばいいよ。もっと、いいとこあるよ」
「そうだな、大丈夫だと思うよ。来週行くのは、ラブホじゃないからな」
「うん」
一通り見ると、胡海の傍から顔を離した。
「よし、じゃあ、後は電話掛けておくわ。仕事の電話とかで邪魔されるの、やだからな。ホテルの駐車場停めたら電話するから、中で待ってて」
胡海はこくっ、と肯いた。もう何も不安はない。真の電話が終われば、二人だけの静かな―――特別な時間が始まるのだ。
「ここでいいかな」
海浜幕張の駅のガードを通り抜けてから十分ほど道を流して、比較的新しそうな外観のホテルを真は選んだ。【HOTEL BAY SIDE】単純な名前のホテルだった。真っ白な蛍光灯に青のレター調のレタリングで描かれた看板はラブホテルと言うよりは、ベイサイドのビジネスマンがこの辺りでよく利用する、室内プールのあるスポーツクラブを思わせた。駐車場は裏手―――住宅街の近くだが、人気のない裏路地に面していた。
「待ってて」
じらすように胡海の肩に触れると、真は外に出て行った。
―――あと、もう少し。
胡海は独りで、部屋に行ってからのことを考えていた。なかなか真は帰ってこなかった。
「悪い」
真の声がした。
「行こうか」
「うん―――」
胡海は嘘のように軽いS2000のドアを開けた。先に歩いて、携帯電話のディスプレイを見ている真の腕にぶらさがった。
「どうかした?」
「ああ」
ちょっと言い淀んで、真は電話を仕舞った。
「仕事?」
生返事の代わりに曖昧に首を振ると、真は足を停めた。
「―――いいのかな」
「いいのかな、って何が?」
「だからさ―――本当にこのまま・・・・・これで、いいのかなってことだよ」
「わかんないよ―――真の言ってること抽象的すぎて、全然わかんない」
腕を組んだまま、胡海は身体ごと引っ張ろうとした。
「出来るよ」
何も言わずに、真は胡海を見返すだけだった。
「やっぱ無理じゃないのか。こんなところまで来てさ―――」
胡海の顔をホテルの看板の蛍光灯が、はっきりと照らしている。白い光源の中で―――真を見上げた胡海の瞳がうっすらと潤んできた。
「わたし―――ここでだって、出来るよ。だってずっと―――真と付き合ったら、ずっとこうしたかったんだもん」
「別に強がんなくてもいいだろ。こんなことで・・・・・」
冗談めかしてごまかそうとした真が―――許せなくなりそうで、胡海は黙って相手を睨みつけた。
「分かったよ。いいんだな、ここで」
身体を離すと、胡海は赤く潤んだ瞳であごを引いて肯いた。それからあごを持ち上げると、こくん、と喉が鳴るのが自分でも分かった。真の手がむきになった勢いそのままに、乱暴に胡海の肩を掴んで引き寄せると、失いかけたバランスを保とうと腰から下が、強く引き攣った。それでも―――トラックで運んできた建材を組み合わせて一枚のドアを作りあげるように、ぴったりと二人の身体は重なった。
真はむしろ自分が乱暴に扱われたと言うように、苦いため息をつくと、今度はゆっくりと静かに胡海の頬を撫でた。
愛車の表面を払うような軽いタッチだ。第二関節の先からがほとんど同じように細長い、真の手はひんやりとしているようで、汗を掻いて温かく濡れていた。
撫でた場所がくすぐったくて、その刺激が通り過ぎると途端にうずいて熱くなる。耳の裏から髪の毛をすくように撫でられると、身体の表面の熱は芯を揺るがした。お腹の底が重たくて熱い。まるでぬるく熱したゆるい泥濘を丸ごと飲み込んだみたいだった。息を吸ったままだと、今度は吐き出せなくなるような気がして、急に胡海は怖くなった。苦しいのに気持ちがいいなんてありえない。ありえない。でも、こんなに苦しいのにこの先はどうなる? このまますんなりすべてを受け入れるのには、思っていたよりも死ぬほどの勇気が要りそうだった。
真が近くにいる。喉の奥まで痺れるそうになるほど、エゴイストプラチナムの匂いがした。あんなに安心した、真のあの香りが今は、切なすぎて、窒息しそうに苦しかった。いつもの優しい真はいない。そう感じると暗い海にひとりで取り残されたように胸が騒いで、どうしようもなく不安だった。
そんな思いとは裏腹に真はもうなにをしてもいいか、胡海に許可を求めたりはしなかった。やがて真の中指は顔の輪郭に沿って動き、それに他の指と掌がつられて動くように耳の下から髪の生え際、切りそろえた襟足をなぞり、そっ、と下りていく。首筋から背筋に指がなぞられていくとき、髪を撫でられたときと同じように虫さされの痒みに似た狂おしい切なさを感じてお腹を刺激した。
制服のブラウスから、タータンチェックのスカートの布を割って、今度は真の指が冷えた汗でぬくんだ素肌に触れそうになると、呑んだはずの息が胸の奥から飛び出してきて、胡海はついに、小さく悲鳴を上げた。
「っ――――」
ひゃっ、と言ったのか、いやっ、と言ったのか―――自分でも分からなかった。しっかりと口を縛り上げた風船から、一気に空気が出たみたいで―――破裂しそうに膨らんだ肺から空気が出ると、身体が一気に縮まった気がした。
どうして?―――あれだけ静かに優しく、身体の線をなぞられて、その気になったような気がしたのに。胡海の身体の緊張は甘くほどけるどころか、逆に強まったのだ。真はもう、動くことをやめて手を引いていた。でもまだ、キスするくらいの距離に、真の顔がある。なのに、なぜ?―――ごまかせない、知ってる。もう、これ以上は無理なんだ。答えはもう、すぐそばにある。純血種の馬のように、黒く濡れた真の瞳は、その答えを知っていた。
「――――大丈夫か?」
身体が崩れ落ちそうになるほど、優しい声。頭を撫でてくれた次の仕草も同じ。
「やっぱりそうだよね―――」
溜めていたものを吐き出すように、胡海は言った。
「やだよね・・・・・やっぱ、気持悪いよね。わたしたち、兄妹だもん・・・・・」
「そんなことない」
遮るようにそっ、と真は言った。
「――――そんなことないよ」
もうこれ以上の言葉が―――出そうになかった。咳きこむように息を吐くと胡海は、瞳に大粒の涙を溢れさせた。
5
十五分後、シルバーのS2000は無人のマリンスタジアムに駐車していた。二十二時を回って球場の大きな建物は、広大な駐車場に一台の車もないせいか、物置に置き去られた子供のおもちゃのように、ぽつんとしていた。
「無茶だった?」
もう、胡海は泣いていなかった。
真は、ホットの缶コーヒーを手渡すと、運転席のシートに座った。
「無茶ぶりすぎだよ。大体、誰なんだよ、里梨って」
「・・・・うちの二年のときの、クラスメート―――憶えてない? 駅前のコーヒー屋でバイトしてるんだ」
「知らない」
断言すると、胡海は逆に嬉しそうに微笑んだ。
「紹介したじゃん、髪長くて綺麗な子。今、黒髪ストレートなの。今でもたまにお兄ちゃんに会うって言ってたよ。お兄ちゃんのこと、かっこいいって」
「馬鹿」
真は拳で胡海の頭を小突く仕草をすると、煙草を持って外に出ようとした。
「別にいいよ、ここで吸っても―――わたし、その煙草の匂い好きだし」
「だったら早く言えよ」
「だって―――彼女っぽくない? ああ言う感じの方が」
「―――ったく」
いつまでこんなこと続ける気なんだ? 言いかけたその言葉を、真はあわてて喉の奥に飲み込んだ。
「そろそろ帰ってくるんじゃないのか、二人とも」
「うん―――二人とも、最近また遅いからね」
伸ばした足を組んだ胡海は寂しそうに見えた。彼女が帰るのは、週のうち半分も、両親のいないマンションなのだから―――真は自分の苦い思い出にも顔を歪めると、意を決したようにクラッチをつないだ。
「あいつらいつも―――そんな感じだよな」
まだ、時間が掛かりそうだ。真にはよく分かっている。あのとき、越えそうになった距離に―――目盛りが触れてしまいそうで、やっぱり『違う』至近距離。胡海の感情がそれをちゃんと、処理できるようになるのには―――まだまだ、時間を掛けないと無理だ。
今、進路を決めるのは―――胡海じゃない、真の方なのだ。
その先にうかつに、踏み込んでしまいそうになったのは、かつて真の方で―――踏み入れた片足が、彼女の胸につけた足跡は、まだまだ時に埋もれそうにないのだから。
真はふと、CDチェンジャーに入れっぱなしだった一枚を思い出した。これはデジタル系の一風変わったボサノヴァを歌う―――元・ラウンジリザーズのギタリスト、アート・リンゼイのCDだ。70年代NYパンクブームが産み出した極端すぎる異端児は、音楽経験ゼロと言う経歴を省みずチューニングしないギターで演奏する。「本当にチューニングのやり方を知らないんだ」彼は言う。古典的なブラジル音楽を、ジャズとデジタルポップのフォーマットを使って独特の空気感を作るアートの音楽の精神性は、形だけのポジティブパンクよりよっぽどパンクだ。
しかし、そのバックに乗るアートの声は尖りきった音楽性の精神とは裏腹にぼんやりと眠たげで、マイペースですらある。冬場の変温動物のテンションに近い。でもその一見抑揚のない歌はちょうど大海原に落とした、ひと固まりの角砂糖のようにあいまいでいながら、甘くほとびたあと、跡形もなくなったかのように見えて心に爪あとを残す。何かが残る。ゆるくほとびた複雑な和音が身体に生まれる。
単純な結論ばかりを連呼するラブソングに飽きると、真は彼のCDを聴いた。そう言えば今まで付き合ったどの女の子も、アートのよさを分かってはくれなかった。真は思った。女の子はもっともっと、ストレートな単音が好きなのだ。だから、このCDを聴くときは失恋したときばっかりだった。
これにしよう。躊躇なく、真はCDを入れ替えた。
お気に入りの曲は四曲目―――真はボタンを押し続ける。
やがてデジタル加工されてはいるがエフェクターなしのエレキギターの、少し壊れ気味の幅のある縦乗りのストロークが、車内に流れ出した。不思議な揺らぎを持ったその音に漂う感覚の安らかさは、真に夕方見た銚子海岸の陽を思い出させた。
ピンク色の空にほのかに影を落とした、静かな夕凪ぎ―――
「誰・・・・これ? なんて言う曲?」
胡海の声が、真の意識をこちらに引き戻した。それでも気持ちはまだ、あの廃ホテルの駐車場にいて足が残っている気がした。
「なんかいい感じ・・・・・これ、ダウンロードで取りたい。ねえ、教えてよ」
仕方なく真は、アーティスト名と曲名を答えた。
「アート・リンゼイ。『オーバー/ラン』って曲だけど、探してもないと思うよ」
「ふうん」
聞くより先に、胡海は携帯音楽サイトに繋がっていた。
「もう一回教えて、名前」
同じ内容を、真は繰り返した。
交差点の信号が青になって、S2000は左折した。
「ないなぁ・・・・・」
しばらく行くと、思い直したように胡海が聞いてきた。
「『オーバー/ラン』・・・・・って、どう言う意味?」
「春から受験生だろ、胡海」
真は言った。答えてもよかったが、そう言う気分でもなかった。
「自分で調べろよ」
もう 終わりだ(イッツ・オーバー)/走れ(ラン)。
スピーカーの彼方のアートの声は海月(くらげ)のようにたゆたっていた。
もう、終わり―――
でも、まだ希望はある。失敗に終わっても、ため息をつくのはよそう。
今、名付けられない心の空き場所がふたつ。そうだと名前をつけたものが違うと分かった時―――その代わりに何が入るんだろう? その先は――――
再び停止―――無人の交差点。決めた道の向こうには、まだ何も見えなかった。
「また明日な」
大きく息をつくと、真はアクセルを踏み込んだ。
Over/Run
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。こういう感じですが、どこか気に入ってくれる部分があったら、うれしいです。ところで作中、二人が行った回転すしのお店は銚子で有名なあのお店です。ちなみに今まだマンボウのお寿司を出しているかはなんとも言えません。(最近行ってないもので・・・・汗)