畜音放送(ちくおんほうそう)

東海小狗

畜音放送(ちくおんほうそう)

中国、河北省の畜産施設でたった二人の復讐劇がはじまる。

畜音放送

西暦2021年(令和3年)

公主嶺市の近郊で養豚場を営んでいる張浩宇は当局から廃業命令を受けて、戸惑っていた。

吉林省長春から60kmほど南に下ったこの町は中国有数の穀倉地帯である。豚の餌となるトウモロコシがさかんで、張浩宇の実家も代々畜産に従事している。市内には吉林省農業科学院があり、彼自身もそこで学んだ。
なにしろ公主嶺市は中国でも一二を争う穀物生産地なのだ。収穫の3割は科学院の母豚繁殖場に回され、優秀な品種を多く産出している。張浩宇は世界第二位の豚肉王国である中国の未来を担う気概と誇りを持っていた。

その将来設計がたった1枚の紙切れによって奪われた。公主嶺市の役人がいきなりやってきて、1週間以内に閉鎖しろと言うのだ。もちろん、そんな命令に従えるわけがない。

「最初は何かの冗談かと思いましたよ」

張浩宇は当時の様子を振り返る。だが、立て続けに近隣農家へ役人が行委処分を伝達しにやってきたり、人民警察が出動する騒ぎまで起こったため、さすがにジョークではないと悟った。もちろん、中国共産党政府の指導とあれば喜んで従うつもりだった。
「保証金され貰えれば、いくらでも豚舎を移しますよ。新疆でもどこへでも行く」
しかし、張浩宇の豚舎は人民軍によって爆破解体された。彼は当時、2万頭近い豚を飼育していたが、そうなる前に言い値で処分せざるを得なかった。
「まったく、とんだ災難ですよ。豚肉がキャベツより安いなんて、この広い中国大陸のどこにそんな市場があります?」

しめて一億元の損害である。張浩宇はあやうく憤懣を中南海にぶつけるところだった。
ところが、共産党政府は彼の留飲を下げる事に成功した。人民解放軍工兵の手によって、HACCPに対応した真新しい豚舎が建てられたのである。
場所は北京の郊外だ。ピカピカの建物が与えられた。空っぽになった豚舎を見て、張浩宇は複雑な気持ちになったが、家族と一緒に北京で新しい生活を始めようと気を取り直した。

これには中国農業省の思惑があった。この国の根底には改革開放政策がある。政府は不潔で前近代的な小規模業者を駆逐して、大規模で効率的な業態へ近代化を一気に推し進めていく。一気呵成に革命を成し遂げるのが中国のダイナミズムだ。そこに義理人情といった情緒が入り込む余地はない。

公主嶺市は灌漑施設がじゅうぶんに整備されておらず。不衛生だった。水源地や人口密集地の近くでは人畜共通感染症が流行しやすい。
張浩宇宅のすぐ近くにも用水池があった。そこで豚コレラが過去に何度も発生していた経緯がある。
農業省当局は環境基準を予告なしに厳格化し、廃業するか豚を売却する以外の選択肢を奪うことで、張浩宇たちを追い出した。


そんなこんなで、張浩宇は不承不承、第二の人生を軌道に乗せようとしていた。再チャレンジの場所を貰えただけでも共産党政府に感謝すべきだろう。肝心の豚は高利の借金をしたり、親類縁者に泣きついて買い揃えた。

そんなある夏の日のことだ。
「なんだってー!」
張浩宇をふたたび窮地に陥れる事件が起きた。
江蘇省の農村へ帰省していた妻が彼に詰め寄ったのだ。
元養豚業者の女性たちが羽振りのいい暮らしをしている。
「何を寝ぼけた事を言ってるんだ。明貴! 嫉妬もいい加減にしろ。俺が頑張れば一気に逆転してやる」

張浩宇が息巻いた。
しかし、明貴は聞く耳を持たないどころか、夫を強い口調でこき下ろした。
「嘴! 无趣的人。だいたいあなたは混帐の人渣だわ」
「何だと? この蠢蛋!!」
「笨蛋はあんたよ! 山東や河南の女たちは夫を北京へ追い出したあと、たんまり補助金を貰っているのよ」
「所以呢?? 俺には一元もくれなかった。どっからそんな金が湧いて来るんだ? お前がたった今、捏造した嘘だろう」
「你脑袋没问题吗?」
 明貴は夫を笑いのめした。彼女が言うには、村の女たちは大金を元手にして高級ホテルのオーナーに成り上がったという。養豚場の多くは道徳心に欠けた悪質業者に運営されており、悪臭や糞尿を垂れ流し放題だった。政府が環境基準を引き上げたことによって、村の衛生が画期的に改善され、もう一次産業に頼らなくても良くなったのだ。今ではもっと客単価の見込める観光業に軸足を移しているという。
そんな彼女たちが亭主の留守にやる事といえば、決まっている。
「狗集団め!」
張浩宇ら大半が豚を手放した損害の補填に苦しむ中、一部の特権階級は贅沢の限りを尽くしている。
戦うのかと明貴が言う。
張浩宇は決起することにした。
「抗日戦争勝利記念日にゃ早いが、やってやるか!」
河南省に中日合弁企業の養鶏場がある。とても大規模な施設で17億元を費やして建設された。
張浩宇の敵愾心は自然と小日本へ向いている。中国人民としてはごく当たり前の思想だ。
彼には思惑があった。



8月15日。太陽が中天に昇る頃。河南省のオフィスでは在留邦人たちが特別な想いで昼休みを迎えようとしていた。
社員食堂に大勢が集まり、直立不動で何かに聞き入っている。

時計の短針が12時を差し掛かろうとしていた、その時。
養鶏場に大音量のクラシック音楽が鳴り響いた。社員たちは反射的にその歌詞を口ずさもうとして、気づいた。
「えっ、どうなってんのぉ?」
「少し、早くないか?」
「機械の故障か?」
慌てふためく人々。しかし、勤勉で教育が行き届いた日本人は冷静に対処しようとした。組織だった行動で、各人が然るべき部署へ散っていく。
「今だ!」
隣接する養豚場に潜伏していた明貴は微信で夫から指令を受け取った。
アプリを操作すると、構内のあちこちからノイズまみれの日本語が聞こえてくる。
それが混乱に拍車をかける。養豚場のセキュリティーを突破するまでもなく、大型のハンマーでガラスをたたき割る。
張浩宇はケースから小さなアンプルを取り出すと、コンクリート床めがけて、投げつけた。
いくつも、いくつも、取り出しては叩き割る。豚舎はみるみる怪しげな液体が広がっていく。
「いくぞ。小日本が戻ってくる前に終えちまおう。もうすぐ12時だ」
張浩宇は妻と分担して、厩舎にアンプルを巻いていく。彼は明貴に水たまりのうえで小躍りするように指示した。
しわがれた声が何やら演説らしき事を唸っている。その内容は明貴にはまったく理解できない。
ただ、頻出するフレーズが妻の興味を惹いたようだった。

「ねぇ、あなた。チン、チン、チンって何なの?」
「知るかよ。日式の泣き言か何かじゃねえの? ほら、よくジャンプして靴の裏を濡らすんだ」
「面白い。チン、チン、チン♪」

二人は手を取り合って、広い通路で輪舞を踊った。その足跡が施設から施設へ延々と続いていく。

「ねぇ、楽しいわ。チン、チン、チン、でも、気になる、チン、チン、チン、何でしょうか、これは、チン、チン、チン」
明貴がかわいい小鳥のように独特の節回しで歌い、踊る。

「さぁなあ。ワクチンをねだってるんじゃねえの? もっとも、その前に小日本は美国が2回、消毒してるんだがな」

張浩宇は放送の内容を理解しているらしく、哄笑した。

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畜音放送(ちくおんほうそう)

中国、河北省の最新鋭畜産施設。中国共産党政府によって人生を台無しにされた夫婦の復讐劇が始まる。政府と大企業の癒着によって「貧困」に対する苛烈な自己責任を問われた男は、大胆不敵な方法で反撃する。男女二人がとった奇想天外な作戦とは。

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-08-15

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