存在証明

真水ななし

 人は嗤った。俺を、彼女を、愚かな人間だと評して、烙印を押しやった。価値観というのは人の数だけある。他人の価値観を否定することは容易だけれど、誰の持つ価値観だって、とやかく言われる筋合いを持たない。それでも人間は、頻りに異質なものを排除したがる。全く、可笑しな話だ。
「それで。これからどうするの」
 彼女はその双眸をこちらに向けていた。数時間前も寸分狂わず、同じ光景を目にしていた気がする。記憶が曖昧なので自信はないが、彼女がその手元に置かれた珈琲に、手を付けていないことは確かだ。
「私たち、一緒に生きていけなくなってしまったわ」
 表情の浮かばない能面から、感情は読み取れない。もっとよく笑う人だった。春の匂いを孕んで、桜の花が咲くように。穏やかに、綺麗に、そして儚く。桃色に染められた頬と、均等に吊り上げられている薄い唇とが、彼女をどれほど彩っていたことか。桜が一瞬にして散ってしまうように、彼女のそれらもまた、消え失せてしまったのだろうか。
 確かに一つ、季節は廻った。
 あの凍てつく夜を越えて、俺は奇跡の生還を果たした。揺らめく視界、濁った海水、口の中に侵食してくる塩辛さを、苦笑しながら受け入れた、あの世界。左の手のひらだけが温もりを保ったままに、身体が冷えていく。芯が、心が、冷たく劣化していく、あの。

「どうして、ここにいるんだろうね」
 無数の泡と共に、音を伴わない言葉が耳に届く。空気の振動がなくとも、数年連れ添った彼女の思考回路は、手に取るように理解できた。それでもなお、彼女を掬ってやることはできないのだろうか。深い海に沈みゆく彼女を。彼女の、心を。
「一緒なら怖くない、そう言ったのは君だろう」
「怖いわけじゃないの。ただ、思うのよ」
「何、を」
「どうして、ここにいるんだろう」
 彼女は繰り返した。永遠にも感じられた限りある生存の中で、ただ疑問を呈した。疑問というよりは、嘆きに近かったのかもしれない。自分の人生を甘受しつつ、足掻いてみせていた。ここにいる――確かに、いる。だけど、どうして存在しているのか分からない。分かりたいから、死んでみるのだ。

「君の答えは見つかったのか」
「ええ、それなりに」
 最果てを突き詰めた結果が現状なら、彼女はもう悔いはしない。
 確信めいた答えがふっと湧いて、まだ知ったつもりでいるのかと苦笑を零す。自分が、つくづく情けない。
「俺には分からないな」
「やっと気付いたのだけれど、私たちって全然交わっていなかったのね」
「そうだね。きっとそうだった」
 淡々と交わされる会話に、目頭が熱くなる。ありきたりな人生だった。
「君がいたから変われたんだと思う」
「あら、突然なにを言いだすの」
「告白……いや、独白だな。聞いてくれなくても構わないけど」
「……終わりですもの、しっかりと心に留めておくわ」
 彼女の口許が緩んだ。少し色褪せた、けれども柔らかな表情を前に、時が戻されていく。
 独り言だ。誰に聞いてほしいわけでもなく、ただ一人に向けた科白を吐く。針は目まぐるしく左を指し続けた。逆算の回転。どうにも憶えていない過去を、取り戻すために。


「隣、いいですか」
「え……あ、空いてますけど」
 しどろもどろに応える。美人というよりは、愛くるしいという感じの子だった。俺はカツ丼を食べていて、彼女はチキンカレーを手にしていた。周りの席が全て埋まっていたので仕方なく、一人飯をしていた俺の隣に腰を下ろすことにしたのだろう。
「私、一年生なんです。まだ慣れないことばかりで、こんなに混んでるとは思わなかった」
 辺りを見渡して、彼女は言った。一年生か、俺も。そんな風に返事をした気がする。
「明日も、ここでご飯を食べていますか」
 真っ直ぐと目を見つめて話す人種。あまり得意ではなかったが、彼女には人を魅了する何かがあるらしく、不快感はなかった。俺は多分、頷いたのだと思う。嬉しそうに笑った彼女は昼食に口をつけ始め、それ以降は言葉を発さなかった。出会いは、そんな感じだった。

「また会えましたね」
 次の日、まったく同じ席で今度は天ぷら定食を食べていた。彼女は弁当だった。今度は承諾を取らずに、彼女が座る。まだ二度目だというのに、すっかり馴染んだ光景に思えて首を傾げた。
 そうだ、彼女は誰かに似ている。
「なんだか……懐かしい感じがします」
 彼女も同じことを考えていたらしい。ふ、と顔を綻ばせた姿は本当に綺麗で、つい見惚れてしまう。
「私たち、お付き合いしてみませんか」
 唐突な誘いに、殆ど無意識に首肯していた。気付けば、彼女との関係は始まっていた。
 月日はあっという間に流れた。音楽、映画、小説、あらゆる場面で彼女とは趣味が合った。馬鹿げているかもしれないが、運命だと思った。講義を受けて、飯を食べて、バイトをして、寝る。同じことの繰り返しだった日々は、彼女がいるだけで随分と変わった。間違いなく幸せだったのだと思う。俺も彼女も、確かに笑い合っていたのだから。

「私、ふと思うの」
 重々しく口を開いた彼女は、いつになく真剣な眼差しをこちらに向けた。
「このまま死ぬことができたら、どれほど幸せか」
 ――ずっと、考えていたことがある。ずっと、悩み続けていたことが。
 彼女がそのあとどんな話をしたのか、明白に憶えている。ただ、そのときの彼女の顔だけは、黒く塗り潰されていて、記憶を塞がれている。
「生きている意味が分からない……自分の存在を、誰かに証明したい……あなたに初めて会ったとき、あなたなら受け入れてくれると思った。いつか、こんな日が来ると想像できたの。ねえ、」
 彼女の唇が、次にどんな形を描くのか。何となく、確信を持てていた。きっと酷く似ているのだろう。人生における、価値観というものが。
「それなら、海がいい」
 彼女が何を言うよりも早く。俺が告げたものがデートの誘いであり、そうではない意味も含んでいることは、言葉なしに彼女に伝わってくれた。元よりそれは、彼女の願望だったのだ。


「意識が戻ったとき、既に一人だった。医者に連れられて君の顔を見た、そのとき心の底から後悔したよ。安らかに眠っていた。思ったより早く見つけられたせいで俺は生き延びた……でも君はもう、手遅れだったんだ」
 彼女は静かに、耳を傾けていた。
「君が好きだった」
「これから俺は、君を殺した罪を背負って生きていく」
「もう、一緒にはいられないけれど」
 時計の針はもうじき十二時を指そうとしていた。不思議と焦りはなかった。制限された時間の中で、彼女に告げるべき言葉はあと、たった一つだ。

「君の存在は証明された」

「それを。それを聞いて、救われたわ」
 声はなかった。揺らめいて、幻影が崩れていく。彼女という人物の消滅は、地球にとっては何の価値もない、小さなことだ。俺にとっても、実はそれほど変わらないのかもしれない。
 それは、小さな絶命だ。
 恐ろしいほどの静寂が部屋を包み込む。その中で一人、息を吐いた。可笑しな経験をした。幽霊が見える特殊体質ではないが、彼女は確かに死後、俺の前に姿を現した。それは何故だったのだろう。
 そうえば彼女は、誰かに似ていた――果たして、誰だったのか。

 彼女が手を付けられなかった珈琲を覗き込む。微塵も動かない黒い水面に、俺のやつれた顔が映り込んだ。
 まずは、一眠りしよう。話はそれからだ……俺は静かに、目を瞑った。

存在証明

存在証明

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-08-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted