笑和の展皇と醤女像
西暦2300年 我が国はケンタウルス座α系の第7惑星に新日本皇国として再興を果たした。英弘22年(2322)年、新日本皇国領北京において、かつての中華人民共和国が我々の祖先に行った数々の人道犯罪が裁きに掛けられた。これはその公判資料の一部である。
なお、添付画像は反日科学者による醜悪な捏造であるが、唾棄すべき第二抗日運動の旗印として実際に掲揚された経緯もあり、子々孫々に伝承すべき侮辱の証しとしてあえて掲載するものである。作者は湯良花の親族であるが、こちらもすでに処刑されている。
【北京裁判公判資料】第一級戦犯、中国人科学者馬廉と助手湯良花の手記より。新日本皇国法務省特捜部
これは、かつて私たち誇り高き日本人を蹂躙した中華人民共和国が巻き起こした災禍と人道犯罪を禍根として継承すべく、礎となる貴重な史料である。
北京裁判結審時において第一級戦犯、中国人科学者馬廉と助手湯良花は既に生存していないが、20親等以内の直系、ないし100親等までの傍系家族は全員、処刑対象とされた。
なお、この記録は皇府関係者以外、永久開示不許可処分とするものである。
~~~~
笑和の展皇と醤女像
2035年、河北省人民社会生物大学。
同、人民社会生物研究中心。
ギャーっ。
コンクリートに阿鼻叫喚、魑魅魍魎の叫びが響いた。
まるでジャングルを丸ごとぶちまけたかのような騒ぎ。
あまりの騒々しさに鼓膜がやぶれそうだ。
「東海省の東北部より採取した個体群です」
助手が声を振り絞って教えてくれた。なるほど、これが、その、サンプルどもか。
いや、それにしても、こいつらが我々の進化系統樹と軌を一にするとは信じられない。
専用のイヤーマッフルを受け取り、耳にはめる。すると、鼓膜の痛みがピリピリ感に変わった。それでも巨大なコンテナから発せられる啼き声は、頭蓋に響く。
「アクティブサイレンサーをオンにしてください。右耳の後ろにでっぱりがあるはずです」
教えられるままに、スイッチを押す。すると、世界が静寂に包まれた。
「ありがとう、うわっ!」
キーンというハウリングが耳をつんざく。
思わず、のけぞった。生まれて初めて自分自身に怒鳴られた。
もっとも、私の眼前にいる野獣どもは中華人民共和国を恫喝し続けてきた蛮族の末裔なのだが。
「馬廉先生、聞こえますでしょうか? AIが学習するまで若干のタイムラグがあるかと思います」
豪雨のようなバックグラウンドノイズが晴れて、愛らしい呼びかけが届いた。
「馬廉先生? 大丈夫ですか? そろそろよろしいでしょうか」
ゆるいウエーブのかかった前髪をかきわける。そのしぐさが、また、父性本能をくすぐる。
「ああ、湯良花、調子はいいよ」
私は溺れかけた視線を助手の輪郭から実験機器へ移した。重慶製の大型コンテナは1辺が30メートルもある特注品で、放射線はもちろんのこと、至近距離からの対戦車ミサイル攻撃にも耐える。その外壁にたくさんの生命維持装置が張り付いている。何しろ、サンプルどもときたら、やたらプライドが高く、強がるくせに神経質で臆病だ。一歩でも住み慣れた環境から出ると、たちどころに死んでしまう。まったく、厄介な生き物だ。そして、金食い虫でもある。東海省東北部一ノ関からここまで移送費用込みで7億人民元ちかい予算がかかっている。
「心の準備はいいですか?」
湯良花がいたずらっぽく笑う。失敬な、確かに私は今さっき腰を抜かした。しかし、それは意表を突かれたからであって、けっして人民社会生物学者である私の資質を害するものではない。東海省東北部には何度も足を踏み入れている。
私は平然と湯良花に促した。
「開けてくれたまえ」
防護カバーを軋ませながら観測窓が開いた。防弾ガラスごしに魔境が垣間見える。
人の形をした、人ならざるものが窓を叩いている。
私は目を丸くした。小日本人を見るのは初めてではない。
しかし、これほどまでに醜悪でおどろおどろしい生き物だとは想像だにしなかった。節くれだった爪を突き立て、黄色い歯をむき出しにする猿ども。
身の毛がよだつ、という表現では追い付かない禍々しさがある。
これが小日本だ。北京大学人民社会生物学研究所はゲノム解析によって、これらを人類とは軌を一にする別の種族であると断定した。国際的にも承認されており、近いうちん正式な学名が定まるだろう。
それにも関わらず、また、そうであろうとなかろうと中国人民は侮蔑をこめて「小日本」と呼ぶだろう。私こと馬廉は、そこに憎悪と少しばかりの憐れみを付け加える。
しばらく観察していると群れ同士が小競り合いを始めた。腹を空かせているのだろうか。幼い個体を背負った雌が何やら喚いている。
「餌が十分でないようだが?」
すると、湯良花は困った顔をした。「いえ、十二分に満遍なくいきわたっているはずですが」
自動給餌装置の設定画面を私はこの目で確かめた。たしかに、栄養は足りている。先ほどの雌を非接触センサーで観測してみたところ血液中のアルブミン値は基準値内だった。
「では、何故あの個体怒っているのだ?」
もっとよく見ようとガラス窓に近づくと、別の小日本がとびかかってきた。
「馬先生!」
湯良花が慌ててシャッターを閉じた。
どっすんばりばり、がしゃがしゃーん!と象の檻をつついたような響きがする。
「湯良花、他に彼らを観察する手段はないか?」
「彼ら――では、ありません。獣です。国際自然保護連合は東海省東北産の小日本を類人猿に分類していますし、国連人権理事会も原発事故による大量の放射能で中華人民共和国を含む地球環境を汚損した人道的犯罪により、小日本から人権をはく奪…」
「ああ、そうだった。あれらは忌むべき害悪だ」
私は気を引き締めて学者的観点に立ち返った。人民社会生物学は社会主義思想に基づいた科学的立場から生命体を見つめなおす。西洋ブルジョワ思想にありがちな動物保護の主義をいっさい採用していない。社会主義建設に照らして有益か、そうでないかを判断する。
小日本は中国共産党にとって猛毒的な脅威にほかならない。とくに許せないのは東海省東北部という政治的偏向の掃きだめから凶悪生物が生まれた事だ。
なぜ、このような放射性ゴミどもを中国本土に連れ帰ったかといえば、来るべき駆除作戦に備えて弱点を研究する必要があったからだ。
馬廉個人としては、東海諸島ごと地上から跡形もなく消滅させてほしいと願っている。小日本は一匹たりとも生かしてはならない。
それが未来の中国人民に対する責務である。
湯良花の勧めでドローンを飛ばす事にした。中国の精密工学は優秀で、蚤よりも小さな筐体に高感度赤外線センサーや生体標本分析器など最新技術が詰め込まれている。もちろん、備え付けだ。
わざわざ搬入して、外気を不潔な小日本どもの呼気で汚染する必要はない。ああ、想像しただけで吐き気をもよおす。
「馬先生、先生?」
肩を揺さぶられて、我に返った。胃酸が込み上げてきた。それに眩暈がする。私は湯良花に支えられてパイプ椅子に腰を下ろした。
「ああ、すまない。いや、謝罪すべきは小日本どもだろう。あいつらの先祖は中国人民を残虐極まりない方法でなぶり殺したのだ」
人でなしどもの集団が人外と化して、なお、人間をいたぶる。これほどまでに重い犯罪がどこにあろうか。小日本は可及的速やかに地上から消え去るべきなのである。
笑和の展皇と醤女像 その②小日本の醜悪な生態
これも、実は私が今いる社会主義体制を批判するものだ。
「お前に言われる筋合いはないんだ。小日本など滅べばいいのでは。これまでの小日本が滅ぶことはないと断言する。そのような愚かな生物は消えた方がマシだと僕は思う。
小日本は悪の生物だ。何が起きても不思議ではない。だが、小日本がある種の生物の頂点に立つことは必ずしも望ましくないことだ。その頂点に君臨するのは小国家連合制をとる小国家群だ」
確かに社会主義体制をとる小国家群に小日本の絶対的な統治性があるのかが疑問だ。例えば、共産党が権力を行使して人民の生命維持体制を安定化させ、国も一律に民主的である。これではまるで小日本は独裁国家ではないか。人民が国を支配出来る権力の中心は小日本だ。それは誰もが望ましくないと思うのだが、なぜ馬廉はこのようなことを言ったのだろう。
「なぜそれがわかったんだ。説明してくれ」
「お前が想像した通りだ。大平河に流された小さい海女が、漂流を続け、今、大東亜海中にある国に辿り着いた。ここまでが小平河の長水路で、ここからは巨大な大海の中に広がっている。これより大東亜海中の海女に関する記録がある。
小平河の長水路から大東亜海中の海女が、漂流する。これは『二つの大海』と呼んでも差し支えないだろう。大海というのは大平河から太平洋にかけて、大きな大きな大きな海だ。ただ、ここより大海を泳ぐのは珍しいだろう。一つの大きな『大海』では何匹か小さな『小海』があり、それを全部合わせると百匹に満たないだろうか。もっと多いと五百匹だ。でも、これだけでは小さい海なんか一つなのだ。この大きな海に、一か千匹か千匹か十匹か十一匹か十一匹か。その海は決して一つなのではなかったの。海から何匹か海の中に出られる海女がいる。彼らは泳いで、そこから海に入る。この大きな海から海に出ることも出来るはずだった。でも一つの大きな海で一つの海女しか見つけることが出来ない。一つの海を泳いで海に出ることもなかった。海を一つ一つ行き来することすら、一つの海を見つけることもなかったのだ。大きな海から一つずつの小さな海に入った後、一つの大きな海に別れを告げなくてはならなくなる。大きな海で一つの海女が大きな海に帰り、小さな海に帰り、いつしか一つの大きな海に別れを告げて、大きな川の中に入って行く。それが大きな海と小さな海だ。この大きな大きな大きな海は、この大きな川の中に閉じこめられているといえる。その川を歩かず、川に飛び込むことも出来ない。自分の身を守る為に。あるいは、川が一つ二つ別れて一つの大きな大きな海へと帰って行ったとしても、この川を歩かせない。
こうして、川に飛び込んで行った海女が、海に戻る。川を飛び降りることも、川から陸へと飛び移ることも出来なくなった。これは一種の死だ。水底から川に飛び込むとき、川を飛び降りる。この川の底から飛び降りると、この川に一つの小さな海女がちゃんと存在している。その海女は水底から戻ってきたとき、小さな海女と二人きりになる。ここから海に飛び込むか、または川に飛び込むか。どちらにも取れるかもしれない。だが、ここでは後者のように、海に戻ってしまうことを選べない。海に帰った海女は海に戻り、一つの小さな海女と一つの大きな海女は、互いに抱き合っているのだ。
その小さな海女が大きな海に帰る。一つの大きな海に戻ったその海女が大きな海に帰る。一つ目の大きな海を、一つの小さな海女が取りに行くだけと、空しくも帰った海女はやって来た。そこであの人魚姫は、この世に居たらどうするかを、考えるのだ。その人魚姫と、一人の青年が、一緒に居ることになる。
西暦2300年
西暦2300年 我が国はケンタウルス座α系の第7惑星に新日本皇国として再興を果たした。英弘22年(2322)年、新日本皇国領北京において、かつての中華人民共和国が我々の祖先に行った数々の人道犯罪が裁きに掛けられた。これはその公判資料の一部である。
なお、添付画像は反日科学者による醜悪な捏造であるが、唾棄すべき第二抗日運動の旗印として実際に掲揚された経緯もあり、子々孫々に伝承すべき侮辱の証しとしてあえて掲載するものである。作者は湯良花の親族であるが、こちらもすでに処刑されている。
【北京裁判公判資料】第一級戦犯、中国人科学者馬廉と助手湯良花の手記より。新日本皇国法務省特捜部
これは、かつて私たち誇り高き日本人を蹂躙した中華人民共和国が巻き起こした災禍と人道犯罪を禍根として継承すべく、礎となる貴重な史料である。
北京裁判結審時において第一級戦犯、中国人科学者馬廉と助手湯良花は既に生存していないが、20親等以内の直系、ないし100親等までの傍系家族は全員、処刑対象とされた。
なお、この記録は皇府関係者以外、永久開示不許可処分とするものである。
~~~~
●笑和の展皇と醤女像 第一話
2035年、河北省人民社会生物大学。
同、人民社会生物研究中心。
ギャーっ。
コンクリートに阿鼻叫喚、魑魅魍魎の叫びが響いた。
まるでジャングルを丸ごとぶちまけたかのような騒ぎ。
あまりの騒々しさに鼓膜がやぶれそうだ。
「東海省の東北部より採取した個体群です」
助手が声を振り絞って教えてくれた。なるほど、これが、その、サンプルどもか。
いや、それにしても、こいつらが我々の進化系統樹と軌を一にするとは信じられない。
専用のイヤーマッフルを受け取り、耳にはめる。すると、鼓膜の痛みがピリピリ感に変わった。それでも巨大なコンテナから発せられる啼き声は、頭蓋に響く。
「アクティブサイレンサーをオンにしてください。右耳の後ろにでっぱりがあるはずです」
教えられるままに、スイッチを押す。すると、世界が静寂に包まれた。
「ありがとう、うわっ!」
キーンというハウリングが耳をつんざく。
思わず、のけぞった。生まれて初めて自分自身に怒鳴られた。
もっとも、私の眼前にいる野獣どもは中華人民共和国を恫喝し続けてきた蛮族の末裔なのだが。
「馬廉先生、聞こえますでしょうか? AIが学習するまで若干のタイムラグがあるかと思います」
豪雨のようなバックグラウンドノイズが晴れて、愛らしい呼びかけが届いた。
「馬廉先生? 大丈夫ですか? そろそろよろしいでしょうか」
ゆるいウエーブのかかった前髪をかきわける。そのしぐさが、また、父性本能をくすぐる。
「ああ、湯良花、調子はいいよ」
私は溺れかけた視線を助手の輪郭から実験機器へ移した。重慶製の大型コンテナは1辺が30メートルもある特注品で、放射線はもちろんのこと、至近距離からの対戦車ミサイル攻撃にも耐える。その外壁にたくさんの生命維持装置が張り付いている。何しろ、サンプルどもときたら、やたらプライドが高く、強がるくせに神経質で臆病だ。一歩でも住み慣れた環境から出ると、たちどころに死んでしまう。まったく、厄介な生き物だ。そして、金食い虫でもある。東海省東北部一ノ関からここまで移送費用込みで7億人民元ちかい予算がかかっている。
「心の準備はいいですか?」
湯良花がいたずらっぽく笑う。失敬な、確かに私は今さっき腰を抜かした。しかし、それは意表を突かれたからであって、けっして人民社会生物学者である私の資質を害するものではない。東海省東北部には何度も足を踏み入れている。
私は平然と湯良花に促した。
「開けてくれたまえ」
防護カバーを軋ませながら観測窓が開いた。防弾ガラスごしに魔境が垣間見える。
人の形をした、人ならざるものが窓を叩いている。
私は目を丸くした。小日本人を見るのは初めてではない。
しかし、これほどまでに醜悪でおどろおどろしい生き物だとは想像だにしなかった。節くれだった爪を突き立て、黄色い歯をむき出しにする猿ども。
身の毛がよだつ、という表現では追い付かない禍々しさがある。
これが小日本だ。北京大学人民社会生物学研究所はゲノム解析によって、これらを人類とは軌を一にする別の種族であると断定した。国際的にも承認されており、近いうちん正式な学名が定まるだろう。
それにも関わらず、また、そうであろうとなかろうと中国人民は侮蔑をこめて「小日本」と呼ぶだろう。私こと馬廉は、そこに憎悪と少しばかりの憐れみを付け加える。
しばらく観察していると群れ同士が小競り合いを始めた。腹を空かせているのだろうか。幼い個体を背負った雌が何やら喚いている。
「餌が十分でないようだが?」
すると、湯良花は困った顔をした。「いえ、十二分に満遍なくいきわたっているはずですが」
自動給餌装置の設定画面を私はこの目で確かめた。たしかに、栄養は足りている。先ほどの雌を非接触センサーで観測してみたところ血液中のアルブミン値は基準値内だった。
「では、何故あの個体怒っているのだ?」
もっとよく見ようとガラス窓に近づくと、別の小日本がとびかかってきた。
「馬先生!」
湯良花が慌ててシャッターを閉じた。
どっすんばりばり、がしゃがしゃーん!と象の檻をつついたような響きがする。
「湯良花、他に彼らを観察する手段はないか?」
「彼ら――では、ありません。獣です。国際自然保護連合は東海省東北産の小日本を類人猿に分類していますし、国連人権理事会も原発事故による大量の放射能で中華人民共和国を含む地球環境を汚損した人道的犯罪により、小日本から人権をはく奪…」
「ああ、そうだった。あれらは忌むべき害悪だ」
私は気を引き締めて学者的観点に立ち返った。人民社会生物学は社会主義思想に基づいた科学的立場から生命体を見つめなおす。西洋ブルジョワ思想にありがちな動物保護の主義をいっさい採用していない。社会主義建設に照らして有益か、そうでないかを判断する。
小日本は中国共産党にとって猛毒的な脅威にほかならない。とくに許せないのは東海省東北部という政治的偏向の掃きだめから凶悪生物が生まれた事だ。
なぜ、このような放射性ゴミどもを中国本土に連れ帰ったかといえば、来るべき駆除作戦に備えて弱点を研究する必要があったからだ。
馬廉個人としては、東海諸島ごと地上から跡形もなく消滅させてほしいと願っている。小日本は一匹たりとも生かしてはならない。
それが未来の中国人民に対する責務である。
湯良花の勧めでドローンを飛ばす事にした。中国の精密工学は優秀で、蚤よりも小さな筐体に高感度赤外線センサーや生体標本分析器など最新技術が詰め込まれている。もちろん、備え付けだ。
わざわざ搬入して、外気を不潔な小日本どもの呼気で汚染する必要はない。ああ、想像しただけで吐き気をもよおす。
「馬先生、先生?」
肩を揺さぶられて、我に返った。胃酸が込み上げてきた。それに眩暈がする。私は湯良花に支えられてパイプ椅子に腰を下ろした。
「ああ、すまない。いや、謝罪すべきは小日本どもだろう。あいつらの先祖は中国人民を残虐極まりない方法でなぶり殺したのだ」
人でなしどもの集団が人外と化して、なお、人間をいたぶる。これほどまでに重い犯罪がどこにあろうか。小日本は可及的速やかに地上から消え去るべきなのである。
「まあまあ、落ち着いてください。彼らは我々とは違う知的水準を持つ生物なのでしょう? 感情の赴くままに殺しあって、どうするというのです? 理性的に考えましょう」
私は湯良花の言葉にうなずいた。まったくその通りだ。
まず、第一に我々は小日本人を絶滅させるわけにはいかない。奴らを根絶やしにすれば必ず将来に災いをなす。たとえば、中国全土を焦土化するような大規模な戦争が勃発したとき。核兵器の応酬は避けられない。その瞬間、大量の放射性物質が世界中にばら撒かれる。小日本人のDNA情報を含んだ放射性物質が大量にばらまかれた時、どんな惨劇が起こるか、想像に難くない。
だから、小日本を駆除するのではなく飼い慣らす必要がある。
そのためにはまず、こちらの知性をアピールする必要があるだろう。そのための小日本のサンプルだ。そして、何より、サンプルどもの知能は低く見積もっても我々の半分以下だと言われている。それなら調教は比較的容易いのではないかと思う。
湯良花はコンテナに視線を投げかけた。まるで、小日本に語り掛けるように、つぶやく。私も釣られるように見やる。小日本人はまだ、騒いでいる。醜い声で何を喚こうが知らんが、少なくとも我々の言葉を理解していないようだ。
「まずは何はおいても餌でしょうね」
小日本には肉食の習慣があるというのか。なんと、けしからぬ! ただでさえ小憎らしい顔がさらにむかつく。この分では歯が生えそろった暁には我々に噛み付いてくるに違いない。今のうちに始末してしまった方がよいかもしれない。
しかし……。私は湯良花の顔色を読んだ。「それはできません」「なぜ?」湯良花は困り果てていた。私の視線に気づいて、慌てて説明し始めた。いわく、小日本人の餌には専用のものがある。それを用意せねばならないという事だ。なーんだ。そんな事はわかっていたのに、私としたことがつい興奮してしまったではないか! まったく私らしくもない。学者たる者常に平静でなければならないのだぞ!
「しかし、本当にそれで大丈夫なのかね?」私は湯良花に向かって問いかけた。
すると、彼女は私の目をじっと見据えながら、「たぶん」と答えるものだからたまらない。思わず噴き出したくなる。湯良花だって人の子じゃないか。「頼むぞ。私の身にもなってくれたまえよ」
すると、湯良花は恥ずかしそうにはにかんで、頬を掻いてみせるのだった。まったく可愛げのない小日本どもにも少しだけ見習わせたいものである。
コンテナ内の生命維持装置をチェックしながら湯良花に質問する。「そもそも小日本がどうして生まれたか知っているか」私はふと思いついて尋ねてみたくなっただけだ。別に深い意図はないつもりだったのだが……。返事はなかった。
代わりに湯良花が口を押さえて嗚咽していた。おい、どういうつもりなんだ?
「ごめんなさい。先生を馬鹿にしようとした訳じゃなくて」
言いたいことは山ほどあるが我慢した。こういう時の女は刺激するべきではないというのは経験則である。私は無言のまま湯良花にうなずくと、実験器具の確認作業に戻った。
しかし、あれは傑作だった。「すみませんでした」泣き笑いする湯良花。「小日本の発生メカニズムなんて興味ないと思ったんです」図星である。正直言うと、全く興味がなかった。「私だって生物学を志したからには関心ありますけど」口を尖らせるところが愛おしいというものだ。私は苦笑で答えただけだった。実際、私は遺伝学と生理学にしか興味がない。しかし、だからこそあのサンプルどもを飼いならすのに役立つのではないかという気がしたのだ。要は気分の問題だ。
「えーっと、どこで習ったんでしょう?」「なに?」
「小日本人の発生メカニズムです。遺伝子レベルまで詳しく調べればきっと何かわかりますよ。彼らも我々と同じ起源を持つとすれば、彼らの歴史や文化の理解にもつながりますし……」
「さっき言ったばかりだぞ」
「えっ?」
「たぶん」私が繰り返したのはそういうニュアンスであったのだと思う。
湯良花も納得してくれたようだったので私は話題を変えた。「しかし、こんな大騒ぎになったのだから、すぐにサンプルは全部破棄すべきだ」私はそう主張した。湯良花も「そうしたいですが……」言葉を濁した。
確かにそうだがと言い淀んでいる。その先を促す意味で黙っていることにした。やがて意を決したように続けた。「先生は気になりませんか?」なるほど、湯良花の意図はわかった。「小日本人の知性がどのくらいかって?」なるほど、それは魅力的な疑問である。我々は進化の過程において言語を手に入れた生物である。しかし、それがいつ進化したか? という点については未だ諸説入り乱れていて決着がつかない状態なのである。つまり、小日本人の知性はその議論の一助となる可能性があるのだ。「知的生命体の生存戦略を考えるのに有益な情報が得られそうかね?」「可能性はあると思います。でも、もし、彼らが我々の祖先と同じような高度な文明を持っていたとしたらどうしますか?……先生は嫌でしょう? 自分以外の知性が優れていると認めるのは?」「なるほど、その懸念があったか。うーん、しかし、まあ、考えてみてもよいのではないかな?」私は腕を組んで天井を見上げた。確かに湯良花の意見は筋が通っている。とはいえ、私としても簡単には結論を出せない難問であるのも事実なのだ。それに小日本人のサンプルどもは私の研究室で管理されるのだから、万一の事があっても対処できるはずだ。「うむ、しかし、うーん、うーん」うなり続ける私の脳に一閃が走る。「よし、こうしよう」私は指を鳴らして宣言した。「小日本人をサンプルから実験動物に切り替える事にする。この方針で問題ないだろうか?」
もちろん私の心は決まっていた。「はい!」力強い肯定の言葉とともに差し出された湯良花の手を握ったのだった。そして握手した。「先生は素晴らしい人です!」うっとりした顔で言われて悪い気はしないが……。さて、小日本人の知能指数はどれほどのものか、非常に楽しみだ。私は思わず舌なめずりしてしまった。まったく研究とは楽しく興味深いものじゃないか。
* * *
第二章 湯良花と小日本と私の愉快な日々
* * *
2040年2月1日午後4時23分。
私は実験機器の前で呆気に取られていた。小日本にエサを与えようとしたところ、いきなり、噛みついてきたからだ。しかも、血が流れているではないか!「痛たたっ!」反射的に振り払う。しまった。「こいつ、まさか!?」「馬廉先生、逃げてください!!」私は慌てて駆けだそうとした。だが、できなかった。「何者だっ!」振り返った途端、私は絶句した。「な、なんだこれは? おい、湯良花?」私の眼前には異様な姿の生き物がいた。それはまさに異形と言うべきであろう。猿のように四つ足歩行するのは同じだが、全身が体毛で覆われており頭髪らしきものは一本もない。体躯も異様で身長は120cmほどでやたら手足が長い。そして、何より、そいつは人間のような二本脚ではなく獣の前脚のような形状をしているのだ。私は混乱していた。そんなはずはないと思いつつも私はつぶやいていた。「こいつは本当に猿じゃないのか?」すると、湯良花が私の横に並んで、囁いた。「大丈夫です先生、落ち着いて」
しかし、その言葉は耳に入らなかった。「おい、貴様は一体なんなんだ?」私の問いに対する返答の代わりにそいつは前傾姿勢をとりながら突進してきたのだ。咄嵯に身をかわすと獣のような前足を壁に突き立てて静止している。信じられない。こんな生き物が存在するなんて。「先生、今です!」「わ、わかってる!」そう言うと同時、獣めがけて飛び掛かった。ところが……どういうことだ? 手ごたえがない。壁際を見ると獣は跡形もなく消え去っていた。まるで幻でも見ていたかのように。しかし、私の右手には確かなぬくもりがある。見ると血に染まった白衣を身に纏った小さな物体が転がっているだけだった。
これが私の人生を一変させたあの日の真相である。「サンプルどもは我々よりも賢いかもしれない?」私が放った第一声に、実験室は静まり返った。湯良花と小日本人どもの耳障りな泣き言すら止んだ。それほど衝撃的な発言であったのだ。「それはどういう意味でしょうか?」
恐る恐るといった様子で湯良花は尋ねた。「言葉の通りだよ。あいつらは人間の真似ができるらしい」
それは、小日本人どもが私の研究資料を盗み見て、瞬く間に習得してしまったという事実に他ならない。私は愕然とすると同時に途轍もない恐怖を覚えた。小日本人どもが人類以上の知性を持つとすれば、もはや共存は不可能であるからだ。ただちに対策を考えなければならない。まず第一に、彼らとの接触を絶たねばならない。幸いなことに言語は通じるようだから、意思疎通をはかりつつ懐柔を試みるという方法は取れそうにない。では、次に打つべき策は何であるか? そこで思い至ったのは隔離だ。彼らを隔離して閉じ込め、人類との共生は諦めてもらうほかなさそうだ。そうして我々は地球上の全人類を支配する。そうすれば平和が訪れるはずなのだ。「それは素晴らしい考えです先生!」「う、ううう」私は歓喜に打ち震えた。だが一方で、私は激しい不安にも苛まれ始めた。人類が支配できる程度の知的生物であるなら果たして彼らはどんな行動をとるだろうか。「馬廉先生、何か?」湯良花が怪しんで覗き込んでくる。
「あ、ああすまない、湯良花、ところで君は中国語が堪能だから彼らにも分かるように説明してくれないか」私は慌てて取り繕うと「わかりました。では皆さん、こちらへどうぞ」そう言い残し実験器具が並ぶ部屋を出て行った。すると、今度は奴らが騒ぎ出す番だった。甲高い悲鳴をあげ始めると実験室の扉を蹴ったり、殴りつけたりする音が聞こえるようになった。おそらく、実験用の頑丈そうな机や棚を破壊しているつもりに違いない。「こりゃたまらん」「おい、もっと大きな音を出すことはできないのか?」すると、耳元を掠めるような高周波のハウリングが発生した。奴らの騒ぎが大きくなるにつれハウリングもまた大きくなっていった。そしてついに実験機材まで破壊されだしたとき「うるせーっ!!」
小日本どもの叫びに負けず劣らずの雄たけびを私は上げた。その効果は絶大だったようで「キャウンッ」犬のような悲鳴を最後に物騒な騒音は一切聞こえなくなった。ふぅっと息をつく間もなく、「失礼しました」
戻ってきた湯良花は深々と頭を垂れたのち、サンプルどもを呼び戻し再び部屋の外へ出て行ってしまった
「サンプルは我々よりも知能が遥かに高い」
私の報告に研究所の面々はどよめいた。それは無理もなかった。小日本人どもの知能が人類のそれを凌駕していたなどということは、彼らの遺伝子研究の第一人者である馬氏をもってしても予測だにできなかったことだ。サンプルは私の研究資料を見て理解を示したことから、私はある種の感動を覚えていたが所詮は猿まねであり、真の天才である私は彼らの浅薄さを冷静に見抜いた。そして、これから起こるであろうことを確信した 数日後、湯良花に伴われ、あのサンプルが研究施設へと運び込まれた。小日本は相変わらず、うろうろ歩き回りながら、時折、思い出したかのように、我々の言葉をしゃべり、意味不明なジェスチャーを行うだけだったが、やがて私の予想通りに、ある事件が起こったのだ。あれは私が小日本人の解剖を進言した際の出来事である。サンプルが実験用テーブルの上で身を捩らせたため誤ってメスが滑った瞬間、私の耳をつんざくハウリングが轟いた。あまりの音量だったため、私は思わず両耳を塞いだのだが、周囲を見回すと研究者たちがみな両手で耳を押さえていた「一体なんだよ!」
所長の罵声が響き渡った直後、小日本の喉奥が真っ赤に染まるのが見えた「まさか……」
「ええ、喀血ですね」湯良花の説明によると、喀血というのは血液が逆流することによって気道が詰まり窒息する病気だ。つまり、肺の血管が詰まったことで全身の細胞が壊死し死に至る。
小日本にはまだ解明できていないことが多くありそうだが、ひとつ言えることはこいつは死ぬらしい。
だが、私はこの時、自分の身に危険が迫っていることに気づいていなかった。いや、正確には死の予感を感じ取ることができなくなっていた。それこそが「進化への過度な偏重により引き起こされる遺伝子変異」であるということをまだ知らなかったからだ。私は自らの愚かさを悔いる暇もなく「まぁいいか」と楽観的思考に陥っていた。
翌日もサンプルを解剖してみたが、やはり喀血の徴候が認められたので「よし」と思いきや、そのまた翌日には元気に歩いているではないか。「なんだ、たいしたことないじゃないか」「いやいや、油断したらだめですよ、馬先生」と忠告してくれたのは助手の湯良花である「どういうことだい?」「おそらく、昨日の発作を生き延びたんですよ」なるほど。さすが小日本人はしぶといな「でもね、このままいくと間違いなく死にますよ。だって、奴らは脳の機能が人間よりずっと貧弱だから、酸素がうまく回っていないわけで」確かにそういうことになるのかもしれない。しかしだ、小人間は私の研究を理解しているし言葉を発することも可能だ。そして、意思疎通が可能であるのなら話は早いではないか「何が話なんですか? まさかね……」
次の日の朝、私の耳に甲高い悲鳴が届いた「きゃー!助けてぇ!!」それは聞き慣れた湯良花の声ではなかった。慌てて駆け付けてみると、実験室内で小日本と思しき生命体が、私の実験用のメスを握っていた。「なにをしている?」「ひっ」怯える目。その目は私ではなくメスに向けられていた「何をそんなに騒いでいるんだ? ほら、返せ」私はメスを取り上げようとした。
すると、そいつは後ずさり、尻餅をついた。まるで、私が悪魔か鬼のようじゃないか「な、何すんだよっ!」「お前が先に刃を向けたんじゃないか。私はな、こう見えても医者だよ。人体には詳しい」どうも言葉は通じてないらしい。
しかし、私の言葉を理解したのか「お医者さん?」
途端にしどろもどろになる小日本人の態度を見て私は確信を得た「あ、あのさ……、僕たちってどうして生まれてきたのかな?」私は笑った。小日本が?「何、言ってんの。バカみたい」小日本の眉間にシワが寄る「おい」と怒鳴った瞬間、小日本人の姿が消えた
「え?」きょろきょろと見渡すがどこにもいない「ちょっと、どこに行った?」湯良花が呆れた様子で教えてくれた「さっさと逃げましたよ」「何っ!」なんて奴だ「でもまぁ、逃げただけ進歩したと言えますね」そうなのか? よくわからないが、ともかくこれで一安心である「さて、これから忙しくなりますよ、馬先生」と助手の微笑みは晴ればれとしていた それから一週間が過ぎた。サンプルたちは、私の予想に反して大人しかった。毎日餌を与えている効果もあるのだろうか。あるいは我々が彼らに対して無関心を装っていることを察しているのだろうか。まぁいい。とりあえず、今のところは順調に共存共栄できている。湯良花によると、私の見立て通り彼らは脆弱で短命だそうだから、あと5~6年ほど経過すればサンプルどもは絶滅するだろう。そうなれば晴れて私は偉大な研究の功績者として歴史に名を刻むことができる。そう考えるだけで興奮してくる。いや、落ち着け。焦ることはない。時間はたっぷりあるのだ。「しかし、暇だな」私は自室から外を眺めた。人民広場には無数の小日本が座り込んでいる。おそらく、彼らは私の姿を見ているのだろう。「ふっ」鼻で笑ってやった。
すると、どこからともなく、けたたましいサイレンが鳴り響いた。「な、なんだ?」耳障りなサイレンは、次第にボリュームを増していく。「まさか!」私は急いで部屋を出た。
人民広場へ走ると、小日本人たちがパニックに陥っていた。
「早く! こっちにこい!」「うわあああっ」人民広場の隅にある小さな建物に殺到していた。
「こ、こわいよぉ」泣き叫ぶ声。「なんで、こんな目にあうの?」「いやだ、死にたくない!」「痛い、苦しい!」「おかあさあん!」「うわああああああああああああ」
人民広場のあちこちで小日本どもが阿鼻叫喚を上げていた。「いったい、何をやってんだ?」私は立ち止まった。
「馬先生!」湯良花が駆け寄ってきた「サンプルどもが暴動を起こしています」
「なに?」
「原因はわかりません。しかし、このままではサンプルどもに殺されてしまいます」
湯良花が悲痛に訴えた。
「サンプルどもに殺されるだって? 何を言っているんだ」
私は鼻で笑った。
「サンプルどもは我々にひどく怯えています。そのため、パニックを起こして自傷行為に走るのです」
私は首を振って否定した。
「いや、それはない。あの民族は人間じゃない。遺伝子的にも劣っている。そもそも、地球上で繁栄できるはずがないんだ」
湯良花が眉間にしわを寄せた。
「そんなことはありません。彼らは優れた文明を持っています。我々よりも遥かに進んだ科学技術を有しているんです」
まるで自分の功績でもあるかのように誇らしげに言ったものだ。まったく図々しいにもほどがある。小日本人の知能が我々と同等なわけがないだろうに。
「しかし、彼らが使っている兵器は何だい? 20世紀半ばレベルのものじゃないか」私の言葉に湯良花が大きく目を見開いた。
「馬先生……、ご存じないのですか」私は鼻を鳴らした。「何がだよ」
「彼らが使用しているレーザー銃です」
湯良花が早口で説明するところによるとこうだ。
どうせ、おまえらのことでだからろくでもない代物なのだろう。聞いてやるから早く言ってみたまえ。まったく仕方のないやつだ。まあ、一応、耳を傾けてはやろう。
『光子力ビーム』を射出する兵器だという。光を増幅させ、超高速にして放つのだそうだ。つまりはレーザー光線である。なーるほど、そういうことか。私が「はっはは」と乾いた笑い声を上げると、湯良花が口をとがらせた。
「バカにしてはいいセンいってると思うんだけどな」
その顔、可愛いではないか。ううむ、こいつときたら黙っていたらなかなかいい線をいっているのに、すぐに減らず口を叩きよる。本当に憎めない奴だ。まあ良いだろう。褒めてくれとは言わないまでもヒントぐらいくれてもいいのではないか。私としてはぜひ知りたいぞ、『光ファイバー』をな。すると湯良花は露骨に面倒臭そうな顔をした。まったくひどいやつめ。私は湯良花の説明を辛抱強く待つ。すると、
「あれはレーザー砲ですよ」あっさりと答えた。「レーザーの発射機構に光を加速させる粒子を利用しているから『光の力線』ではなく、単に『ビーム』と呼ばれるだけです。もちろん、光そのものを放散していますから『光子力ビーム』とも呼ばれます」
は? なんのことだかさっぱり分からん。湯良花に尋ねる。すると、「えっと」とか言いながら電子端末を取り出し、検索を開始した。
私は舌打ちをする。まったくもって気が利かない。そんなことでよく教師などやっていられるな! すると「ほら」と言って私の眼前に突き出した。そこには「光力学工学における理論上の素粒子」なる記事が表示されていた。なにがなんだかわからん。すると湯良花が得意げに「先生、大丈夫ですか?」と言いやがったものだでちょっと頭にきた ふふん、馬鹿にしてはいかんな。こう見えても国立大学の理数科を卒業した身なのだ! これでも高校時代は物理の成績がトップクラスだったことを覚えているんだぞ! さては理系と聞くと思い上ってしまう癖がついているのか? はっはっは、気を付けなければな! うーむなるほど『光子』か……しかし待てよ「先生、まさかと思いますが先生が学生だったころに習ったこと忘れちゃったんじゃありませんよね? 2300年前に地球にいた人間が知っていて先生の時代にはまだ発見されていなかった概念ですよ」
こいつときたら本当にうるさい
「いいかね、私は物理学を専門領域としている。基礎理論の修得程度であれば今からでも問題はない」湯良花の顔がみるみると曇っていく
「ああ、馬先生。僕が浅学なせいでしょうか」私は苦笑するしかない すると、突然湯良花が立ち上がって「わかりました!」と言った 何事かと思って振り向く しかし、その時はすでに湯良花は走り去ってしまった後であった。
なんだったのだろうか? ●光子力発電所 さて翌日、我々はサンプルたちの生活拠点を見学することとなった。もっとも、昨晩のうちに準備は完了しているのだが。
「サンプルは我々を非常に恐れています。特に馬先生と湯良花博士の両名は彼らの天敵であるという認識を持っているようです」先導役の兵士に言われるまでもない。彼らは我々の背後で縮こまっており、近づく気配もなかった。「そのため、彼らを刺激しないように行動してください。こちらからは手出しをしないよう徹底させていただきますので、どうぞご安心ください」「承知した」私が鷹揚に答えると、彼は一礼して去った。ううむ、やはり軍人にしておくには惜しいな。私の助手にならないかな。そうすれば私好みの研究生活を送れるのに。まあ、無理な話か。湯良花と違って、頭を使うより肉体労働の方が得意そうな男だ。
我々は、広大な施設に通され、説明を受けた。
地下3階の核反応炉、1階から8階までは各種工場群となっている。
9階に実験室があり、ここに生命維持装置が設置されている。もっとも重要な部屋だ。
10階は居住スペースとなっていて、ここで寝泊まりしているようだ。11階から18階までも研究室やオフィスとなっており職員の生活環境は考慮されていないらしい。
しかし、問題は20階層にあった。
エレベーターに乗りこむと、一気に上昇する 扉が開いた先には、まるで古代の大浴場のようにだだっ広い空間が広がっていた。中央には台座がそびえ立っており、そこからパイプやケーブルが四方八方へ伸びていた。壁際には大小様々な装置が設置されており、天井付近には大きな換気扇がゆっくりと回っていた。
「ここはサンプルどもの管理所であり実験所だ」兵士が指差す方向には大きな檻があってその中にはたくさんのサンプルがいた。どれもこれも痩せ細っている。
「奴らは飯を食うのか?」「いりません。排泄も行いません。ただ、生きているだけでいいのです」ふむ、と相槌を打ちながら私は内心でため息を吐いた。サンプルどもめ、こんな扱いをされていながらよくもまぁここまで強がるものだ。いっそのこと、素直な家畜のふりをして生きれば可愛げがあるものを。しかし、まあいい。こいつらが我々を恐れている事実だけは不変なのだから。
我々はそのまま隣の建物へと案内された。こちらは実験棟というか倉庫というか。巨大なタンクがたくさん並んでおり、それぞれ「生体機能」、「脳波コントロール」「エネルギー生成」「食料生産」などという札が貼られている。中には用途不明の機械がいくつも鎮座していた。「これらの設備で何をするつもりだ?」私が訊ねると兵士は無表情のまま「兵器を製造します」と言った
「具体的にはどのようなものを想定している?」「は? ですから、武器、です」
はて? 我々は首を傾げた。そんなことは百も承知なのだが。まさか、「貴国の科学力を信用できないので兵器を開発してほしい」と要求するのは非礼であろうし、そもそも「はい、作りました」と言って作れるものではないはずだ。「例えば」と私が具体例を挙げさせようとすると兵士の眉間にしわが寄った。いけない、こいつは気が短いタイプかもしれない。
サンプルどもの扱いを見て、つい先走った質問をしてしまったが本来であれば、こちらから協力を要請する立場だ。もう少し、控えめにしたほうがよかったかもしれない。私は話題を変えることに決めた。
まずはお互いを知ろう。そして信頼を勝ち取る。外交の基本中の基本ではないか。
そういえば。そう言って私はサンプルどもについて尋ねた。すると兵士は目を丸くした。何だ? 私の顔に何かついているのか? しかし、すぐに我に返った様子で姿勢を正した。
どうやら本当に気が短かっただけのようだ。
それからしばらくの間。私たちは他愛のない話を続けた。といっても私ばかりがしゃべり続けることになった。というのも湯良花はあまり喋らないのだ。そして私に話しかけられる度に緊張してしまうらしい。なるほど、サンプルの連中の態度を思えば理解できることだ。とはいえ、私は湯良花に興味が尽きないのだが、これでは、なぁ……。しかしまあ、時間はたっぷりある。
焦ることはない。
さっそく兵器の開発を依頼すればいいと思った? それなら話は早いんだがな、残念なことに、もう戦争はこりごりなのさ ●笑和の大海豚 二千五十四年夏 私は海にいた。
太平洋に浮かぶ小さな島。
「あの船に乗ってもいいかい?」
振り返ると父が手を差し伸べている。私はうなずいて手を繋いだ。父は私の頭をくしゃくしゃにしながら言った。
「お父さんな、昔はよく、こうやって友達のお母さんの手を握ってたんだよ。そうしたら、みんな、笑顔になるだろ?」
そうだったかな、覚えていないな。
すると父は微笑みながら私を見つめる。そして、私の目尻に指を這わせて呟いた。
「泣いてるじゃないか」
違う、と言おうとした瞬間、頬を伝うものがあった。ああ、そうだね、確かに悲しいよ、こんなにたくさんの人たちに恨まれて。
父と一緒に乗り込んだ船はとても大きかった。定員は千人を超えるだろうか? ただの旅客用とは思えない。貨物室を転用したスペースがある。
船内に入るとそこは薄暗かった。乗客が一人もいない。父と私は不安になった。が、すぐに理由を知った。
船体のいたるところに水槽が設置され、水泡とともに様々なものが浮かんでいる。中には人の姿も見受けられた。
魚が泳いでいるわけではない。人間が閉じ込められているのだ。
私は父の袖を引いた。しかし、父もまた驚いた様子で周囲を見回していた。「あれは何だい?」父は口元に指を立てた後、私の耳元でささやき声で聞いた。
よくわからない。しかし、きっと悪いことだろうと思う。私は黙ってうなずくしかなかった。すると、父が耳元に息を吹きかけてきた。
「怖くないぞ」
はぐらかさないで! 私が怒鳴ったとき、天井が割れ、海水がなだれ込んできた。同時に甲高い警報が鳴った。
「浸水です!」
船員が叫んでいる。乗客の何人かは慌ただしく立ち上がり、どこかへと避難していった。私はその場に座り込んでいた。どうしていいか分からなかった。
すると誰かが肩に触れた。見上げると、先程の父がいた。そして優しく語りかけた。「大丈夫だ。お父さんが一緒だから」私はその言葉を信じることにした。立ち上がった途端に床が傾いた。私は必死に走った。転ばないように、でも、足音を立てないように、ゆっくりと慎重に進んだ。後ろを振り返る余裕はなかった。でも、「ちゃんとついてこいよ」という言葉だけははっきりと聞き取れた。私は涙ぐみそうになったが、何とか耐えることができた。
しかし次の瞬間、背中を押され、転倒した。思わず悲鳴を上げそうになるが堪えた。振り返る間もなく私は突き飛ばされていたからだ。何事が起こったのか分からない。とにかく私は走り出した。甲板を目指すことにした。しかし……。
「おい! 何だ、お前は!?︎」
という声に、足を止めてしまった。見ると男が銃を構え、威嚇してきた。他の男達も同じように銃を持っている。
「早く立ち上がれ!」
と言われ、従うべきか躊躇していると、さらに強く突き飛ばされた。どうしよう? このままだと殺される? 私は泣きそうな顔をしながら振り向きざま、思い切り体当たりした男は怯んだようだったが、もう遅い私は全速力で逃げ始めた。「こいつ、捕まえろ!」「撃て!」「逃すな!」背後から声がする。捕まったら殺されてしまう! 何で私が? 理不尽すぎる。私、まだ何も悪いことしてないのに!「止まれ!」「死ねぇぇ!!」次々と発砲される銃弾。私はひたすら逃げたしかし…… ドンっ!!! 何かが私にぶつかってきたその反動で後ろにひっくり返った「ぎゃぁぁぁっ」私の身体が燃えるような熱さを感じた。恐る恐る確認すると、右肩が赤く染まっている 痛い……怖い…… 私は無我夢中で逃げ出したしかし私は船底に落ちた「きゃあぁ」ドォンっという衝撃で全身が痺れた 何? 私死ぬの!? 私は震えながら周りを見回したしかし そこには黒い棒のようなものが立ち並んでいた「な、なに、あれ?」私は目を疑ったそれが、人の骨だということに気付いたのだその時、私の目の前が真っ暗になった。……私は? 私は誰?ここはどこ? 頭がぼんやりとする……そうだ、
「うっ……」あまりの激しい痛みで意識が戻った私は肩の痛みを感じ、うずくまりたくなるが激痛で動けずそのままじっとしていると
「気がつきましたか?」と声を掛けられた私は目だけを動かし声の主を探すすると白い服に身を包んだ優しそうなお婆さんの姿が見えた私は「はい」と答えた「それは良かった、今から貴方を治療させていただきますので、痛みがあるでしょうけど我慢してくださいね」「は、はい……」「さて、まずはこの肩の傷ですね」「ひっ!」私は恐怖で後ずさりしたが、痛みがひどくて上手く動くことができない私は痛みを堪えながらその場にしゃがみ込む「こ、これってやっぱり?」「ええ、銃創です。幸い弾は抜けていますので縫う必要はありません」そう言ってお医者さんは注射器を手に取ると「ちょっとチクっとしますよ~」と言って針を突き刺すその行為ですら今の私にとっては苦痛でしか無い。麻酔が無いので相当キツイそれでも何とか乗り切ったその後に消毒を済ませガーゼを当てて止血したようだその後は抗生物質のような薬を飲まされると徐々に気分が悪くなってきた吐き気までしてくる私は「先生……すみません」と言うとお爺ちゃんの「大丈夫だ、もう少し頑張るんだよ」
その優しい一言がとても嬉しかったそれから暫く経つと今度は眠くなってきて「ふわぁ~」あくびが出てしまったお祖父ちゃんは私の頭を撫でると「今日はここで休んで行くと良い」と部屋を後にした私はベッドで横になると直ぐに眠りについた……次の日の朝「うっ」左肩が疼く様な感じがしたので私は思わず手で押さえようとしたが左腕は肘の上辺りから無くなっていた「あうっ」私は思わず声を漏らしてしまった¥¥昨夜、お祖父ちゃんが言っていたのを思い出したそうだ、銃弾を抜かれてから三日目から腕が再生するそうだ「あうううっ」しかし痛みは無くならずむしろ酷くなっていったどうやら、細胞分裂に必要な物が足りていないようで再生が遅れているようだった。そんな状況に耐えかねている時に部屋の扉が開き誰かが入ってきた気配があったお祖母ちゃんだと思ったが違う様だ何となく聞いた事がある女性の声だと思っているとその人が話しかけてきた「目が覚めた?ってか何でこんな事になっているの?あ~、あの男マジぶっ殺!」怒り狂っている女性はどうも、私のお姉ちゃらしく、何でも私が怪我をしている間、お母さんと一緒に面倒を見てくれていたみたいだった私は何回かお礼を言いたかったんだけどずっと眠っていてまともに話せなかったのだ
Zそうだ 私は目を覚ましてから3ヶ月が経過した その間も何度か手術を繰り返しようやく腕が生え揃ったのだけどリハビリが必要になり、まだ車椅子から立ち上がる事は出来ない。ただ日常生活を送るくらいなら問題なさそうなレベルに回復した。ちなみに入院費は無料だお姉ちゃんは退院の前日に来てくれたその時に、実は結婚して今は男の子もいる事が分かり、もうすぐ子供が生まれる予定なのだという事を嬉しそうに教えてもらった。私の退院する前日は朝から忙しそうにしていたけど、病院にやって来た男の人と何やら話している所を見かけたがその時のお二人の様子からして、私の見間違いでなければ二人はお互いを愛し合っていた。だから私としては、本当に嬉しい限りです、何はともあれこれから幸せになってほしいと思いました。お二人共どうかお幸せに!!「じゃーねー!早く良くなって戻っておいで」「うんっ!また来るね!」私も早く復帰できるように頑張っています!!皆さんまた会える日を楽しみにしていましょう!!!
(完)
『あなたが欲しい…… お願い、僕と結婚してください』
俺が彼女に告白をした、その翌日――
俺は、夢の中で彼女と結婚式を挙げようとしていた。
純白のウエディングドレスに身を包んだ彼女はとても美しくて。
綺麗な金髪を靡かせながら微笑んでいる彼女のことを、一生大事にしようって…… そのとき突然、俺たちに向かって放たれた数発の銃声。そして同時に上がる悲鳴、怒号。血まみれになった彼女を抱きしめている自分の腕にも生暖かい液体が滴り落ちるのを感じる。彼女が必死にこちらへ手を伸ばそうとするがやがてそれも力尽きてしまうのが分かった。「あ…………」「いやだ…………嫌だよぉおお!!!!」絶叫しながら目を開ける。そこには白い天井。カーテンレールからぶら下がる白いカーテンの向こうからは微かに朝日らしきものが見える。「なんつぅ酷い夢なんだ……」ベッドサイドの時計を見る、時刻はまだ早朝と言っていい時間帯。どうやら寝直そうとかそういう気持ちになれずそのまま体を起こす。
ふと足元をみると、隣の病室の床に倒れ込むようにして眠っている女の子がいることに気づいた。「うっわぁああ!?︎えっ?誰?ちょっ!」「ううー」
うめき声を上げながらもぞもぞ動く彼女を見てほっと胸を撫で下ろす。どうやら命に別状はないみたいだが一体全体どうしてこんな場所でしかも薄着で寝ているのか謎である。それにしても……凄まじく可愛い顔立ちをしている。まるで天使が眠りについてるかのような……。
俺はそんな馬鹿げたことを考えながら再び布団に潜り込んで二度寝しようとした、その時「……あの、おはようございます、昨晩はすいませんでした」
その声が聞こえた方を見ると ベッドの上にちょこんと腰をかけている可愛らしい女性の姿があった
「なっ?!」「あっ!」
俺が起き上がって上半身裸のままの状態である事に気づいて
「わわっ!」と言いつつ慌てて両手で顔を覆い、背を向ける
「ちょっと待った、君が誰か分からないし、君は一体ここに何しに来たんだよ、まさか夜這い?」「よばい?」聞き返されて「いやっなんでもない」と返す。
改めて彼女の方を向き直すと先程よりもさらに驚いた表情をして「な、なんで貴方全裸なのですか!」と言われてしまった。
よく考えたら確かに今の状況は少し変かもしれない。「わ、悪い!」
とりあえず急いでパンツだけ履きながら言う。彼女は相変わらず恥ずかしそうにしている、というかかなり警戒されている気がする。というかむしろ嫌われてそうな感じすらあるぞこれ!「いやっでも本当に何もしないから!」「なっ!信じろというんですかっ!?︎」「本当だって!」
それから数分、ようやくお互いに落ち着いてきました、ハイ
「その、取り乱して申し訳ありません」「ま、全くだよ!」
ははっ、と苦笑いをこぼしつつ続ける「えっと、一応確認なんだけど、昨日は何であんな所で倒れてたんだ?」
彼女は何かを思い出すように「実は……」と語り始めた。
「昨日の昼、私の所属していたクランが壊滅したんです、原因は分かりませんがリーダーが他のプレイヤーと戦闘してる間に仲間に指示を出していた副ギルドマスターと私以外のメンバー達が突然何者かに襲われて」とそこで一旦言葉を切る。そして続けた「そして最後に私にも
新約版
西暦2300年 我が国はケンタウルス座α系の第7惑星に新日本皇国として再興を果たした。英弘22年(2322)年、新日本皇国領北京において、かつての中華人民共和国が我々の祖先に行った数々の人道犯罪が裁きに掛けられた。これはその公判資料の一部である。
なお、添付画像は反日科学者による醜悪な捏造であるが、唾棄すべき第二抗日運動の旗印として実際に掲揚された経緯もあり、子々孫々に伝承すべき侮辱の証しとしてあえて掲載するものである。作者は湯良花の親族であるが、こちらもすでに処刑されている。
【北京裁判公判資料】第一級戦犯、中国人科学者馬廉と助手湯良花の手記より。新日本皇国法務省特捜部
これは、かつて私たち誇り高き日本人を蹂躙した中華人民共和国が巻き起こした災禍と人道犯罪を禍根として継承すべく、礎となる貴重な史料である。
北京裁判結審時において第一級戦犯、中国人科学者馬廉と助手湯良花は既に生存していないが、20親等以内の直系、ないし100親等までの傍系家族は全員、処刑対象とされた。
なお、この記録は皇府関係者以外、永久開示不許可処分とするものである。
~~~~
●笑和の展皇と醤女像 第一話
2035年、河北省人民社会生物大学。
同、人民社会生物研究中心。
ギャーっ。
コンクリートに阿鼻叫喚、魑魅魍魎の叫びが響いた。
まるでジャングルを丸ごとぶちまけたかのような騒ぎ。
あまりの騒々しさに鼓膜がやぶれそうだ。
「東海省の東北部より採取した個体群です」
助手が声を振り絞って教えてくれた。なるほど、これが、その、サンプルどもか。
いや、それにしても、こいつらが我々の進化系統樹と軌を一にするとは信じられない。
専用のイヤーマッフルを受け取り、耳にはめる。すると、鼓膜の痛みがピリピリ感に変わった。それでも巨大なコンテナから発せられる啼き声は、頭蓋に響く。
「アクティブサイレンサーをオンにしてください。右耳の後ろにでっぱりがあるはずです」
教えられるままに、スイッチを押す。すると、世界が静寂に包まれた。
「ありがとう、うわっ!」
キーンというハウリングが耳をつんざく。
思わず、のけぞった。生まれて初めて自分自身に怒鳴られた。
もっとも、私の眼前にいる野獣どもは中華人民共和国を恫喝し続けてきた蛮族の末裔なのだが。
「馬廉先生、聞こえますでしょうか? AIが学習するまで若干のタイムラグがあるかと思います」
豪雨のようなバックグラウンドノイズが晴れて、愛らしい呼びかけが届いた。
「馬廉先生? 大丈夫ですか? そろそろよろしいでしょうか」
ゆるいウエーブのかかった前髪をかきわける。そのしぐさが、また、父性本能をくすぐる。
「ああ、湯良花、調子はいいよ」
私は溺れかけた視線を助手の輪郭から実験機器へ移した。重慶製の大型コンテナは1辺が30メートルもある特注品で、放射線はもちろんのこと、至近距離からの対戦車ミサイル攻撃にも耐える。その外壁にたくさんの生命維持装置が張り付いている。何しろ、サンプルどもときたら、やたらプライドが高く、強がるくせに神経質で臆病だ。一歩でも住み慣れた環境から出ると、たちどころに死んでしまう。まったく、厄介な生き物だ。そして、金食い虫でもある。東海省東北部一ノ関からここまで移送費用込みで7億人民元ちかい予算がかかっている。
「心の準備はいいですか?」
湯良花がいたずらっぽく笑う。失敬な、確かに私は今さっき腰を抜かした。しかし、それは意表を突かれたからであって、けっして人民社会生物学者である私の資質を害するものではない。東海省東北部には何度も足を踏み入れている。
私は平然と湯良花に促した。
「開けてくれたまえ」
防護カバーを軋ませながら観測窓が開いた。防弾ガラスごしに魔境が垣間見える。
人の形をした、人ならざるものが窓を叩いている。
私は目を丸くした。小日本人を見るのは初めてではない。
しかし、これほどまでに醜悪でおどろおどろしい生き物だとは想像だにしなかった。節くれだった爪を突き立て、黄色い歯をむき出しにする猿ども。
身の毛がよだつ、という表現では追い付かない禍々しさがある。
これが小日本だ。北京大学人民社会生物学研究所はゲノム解析によって、これらを人類とは軌を一にする別の種族であると断定した。国際的にも承認されており、近いうちん正式な学名が定まるだろう。
それにも関わらず、また、そうであろうとなかろうと中国人民は侮蔑をこめて「小日本」と呼ぶだろう。私こと馬廉は、そこに憎悪と少しばかりの憐れみを付け加える。
しばらく観察していると群れ同士が小競り合いを始めた。腹を空かせているのだろうか。幼い個体を背負った雌が何やら喚いている。
「餌が十分でないようだが?」
すると、湯良花は困った顔をした。「いえ、十二分に満遍なくいきわたっているはずですが」
自動給餌装置の設定画面を私はこの目で確かめた。たしかに、栄養は足りている。先ほどの雌を非接触センサーで観測してみたところ血液中のアルブミン値は基準値内だった。
「では、何故あの個体怒っているのだ?」
もっとよく見ようとガラス窓に近づくと、別の小日本がとびかかってきた。
「馬先生!」
湯良花が慌ててシャッターを閉じた。
どっすんばりばり、がしゃがしゃーん!と象の檻をつついたような響きがする。
「湯良花、他に彼らを観察する手段はないか?」
「彼ら――では、ありません。獣です。国際自然保護連合は東海省東北産の小日本を類人猿に分類していますし、国連人権理事会も原発事故による大量の放射能で中華人民共和国を含む地球環境を汚損した人道的犯罪により、小日本から人権をはく奪…」
「ああ、そうだった。あれらは忌むべき害悪だ」
私は気を引き締めて学者的観点に立ち返った。人民社会生物学は社会主義思想に基づいた科学的立場から生命体を見つめなおす。西洋ブルジョワ思想にありがちな動物保護の主義をいっさい採用していない。社会主義建設に照らして有益か、そうでないかを判断する。
小日本は中国共産党にとって猛毒的な脅威にほかならない。とくに許せないのは東海省東北部という政治的偏向の掃きだめから凶悪生物が生まれた事だ。
なぜ、このような放射性ゴミどもを中国本土に連れ帰ったかといえば、来るべき駆除作戦に備えて弱点を研究する必要があったからだ。
馬廉個人としては、東海諸島ごと地上から跡形もなく消滅させてほしいと願っている。小日本は一匹たりとも生かしてはならない。
それが未来の中国人民に対する責務である。
湯良花の勧めでドローンを飛ばす事にした。中国の精密工学は優秀で、蚤よりも小さな筐体に高感度赤外線センサーや生体標本分析器など最新技術が詰め込まれている。もちろん、備え付けだ。
わざわざ搬入して、外気を不潔な小日本どもの呼気で汚染する必要はない。ああ、想像しただけで吐き気をもよおす。
「馬先生、先生?」
肩を揺さぶられて、我に返った。胃酸が込み上げてきた。それに眩暈がする。私は湯良花に支えられてパイプ椅子に腰を下ろした。
「ああ、すまない。いや、謝罪すべきは小日本どもだろう。あいつらの先祖は中国人民を残虐極まりない方法でなぶり殺したのだ」
人でなしどもの集団が人外と化して、なお、人間をいたぶる。これほどまでに重い犯罪がどこにあろうか。小日本は可及的速やかに地上から消え去るべきなのである。
● 笑和の展皇と醤女像 その②小日本の醜悪な生態
これも、実は私が今いる社会主義体制を批判するものだ。
「お前に言われる筋合いはないんだ。小日本など滅べばいいのでは。これまでの小日本が滅ぶことはないと断言する。そのような愚かな生物は消えた方がマシだと僕は思う。
小日本は悪の生物だ。何が起きても不思議ではない。だが、小日本がある種の生物の頂点に立つことは必ずしも望ましくないことだ。その頂点に君臨するのは小国家連合制をとる小国家群だ」
確かに社会主義体制をとる小国家群に小日本の絶対的な統治性があるのかが疑問だ。例えば、共産党が権力を行使して人民の生命維持体制を安定化させ、国も一律に民主的である。これではまるで小日本は独裁国家ではないか。人民が国を支配出来る権力の中心は小日本だ。それは誰もが望ましくないと思うのだが、なぜ馬廉はこのようなことを言ったのだろう。
「なぜそれがわかったんだ。説明してくれ」
「お前が想像した通りだ。大平河に流された小さい海女が、漂流を続け、今、大東亜海中にある国に辿り着いた。ここまでが小平河の長水路で、ここからは巨大な大海の中に広がっている。これより大東亜海中の海女に関する記録がある。
小平河の長水路から大東亜海中の海女が、漂流する。これは『二つの大海』と呼んでも差し支えないだろう。大海というのは大平河から太平洋にかけて、大きな大きな大きな海だ。ただ、ここより大海を泳ぐのは珍しいだろう。一つの大きな『大海』では何匹か小さな『小海』があり、それを全部合わせると百匹に満たないだろうか。もっと多いと五百匹だ。でも、これだけでは小さい海なんか一つなのだ。この大きな海に、一か千匹か千匹か十匹か十一匹か十一匹か。その海は決して一つなのではなかったの。海から何匹か海の中に出られる海女がいる。彼らは泳いで、そこから海に入る。この大きな海から海に出ることも出来るはずだった。でも一つの大きな海で一つの海女しか見つけることが出来ない。一つの海を泳いで海に出ることもなかった。海を一つ一つ行き来することすら、一つの海を見つけることもなかったのだ。大きな海から一つずつの小さな海に入った後、一つの大きな海に別れを告げなくてはならなくなる。大きな海で一つの海女が大きな海に帰り、小さな海に帰り、いつしか一つの大きな海に別れを告げて、大きな川の中に入って行く。それが大きな海と小さな海だ。この大きな大きな大きな海は、この大きな川の中に閉じこめられているといえる。その川を歩かず、川に飛び込むことも出来ない。自分の身を守る為に。あるいは、川が一つ二つ別れて一つの大きな大きな海へと帰って行ったとしても、この川を歩かせない。
こうして、川に飛び込んで行った海女が、海に戻る。川を飛び降りることも、川から陸へと飛び移ることも出来なくなった。これは一種の死だ。水底から川に飛び込むとき、川を飛び降りる。この川の底から飛び降りると、この川に一つの小さな海女がちゃんと存在している。その海女は水底から戻ってきたとき、小さな海女と二人きりになる。ここから海に飛び込むか、または川に飛び込むか。どちらにも取れるかもしれない。だが、ここでは後者のように、海に戻ってしまうことを選べない。海に帰った海女は海に戻り、一つの小さな海女と一つの大きな海女は、互いに抱き合っているのだ。
その小さな海女が大きな海に帰る。一つの大きな海に戻ったその海女が大きな海に帰る。一つ目の大きな海を、一つの小さな海女が取りに行くだけと、空しくも帰った海女はやって来た。そこであの人魚姫は、この世に居たらどうするかを、考えるのだ。その人魚姫と、一人の青年が、一緒に居ることになる。
笑和の展皇と醤女像の話をしよう。この像は人魚の像をかたどったもので、人魚は人間の姿だ。人間の人魚は、人間と恋に落ちるのだ。恋は、愛だ。だが、人魚は、人間になれない。人魚は、人魚のままなのだ。人魚は、人間になれない。人魚は、もう二度と、この世に現れることがない。なぜなら、人魚は死んでしまったから。この世のものではないから。この人魚は、人間になりたいと思っている。この人魚は、人間として、生きたかった。だから、人魚は、人間になった。この話を聞いて、私は人魚姫が人間になりたかった理由を知りたいと思った。どうして人魚は人間にならなかったのだろうか。
笑和の展皇と醤女像には、人間と恋に落ちた人魚が描かれている。これは、人間と恋に落ちた、人魚の物語だ。私は、この物語の中で、人魚はなぜ人間にならなかったのかということを知りたいと願った。しかし、知ることが出来なかった。なぜ人間は、人間にならず、他のものになってしまったのか。なぜ、人間は、人間にならないのか。私は知りたかった。私は、人間とは何かということについて、考えた。人間が人間であるために、何をしなければならないのか。人間になるために、何かを捨てなければならないとしたら、それは何なのか。私にとって、人魚とは、何だったのか。
人魚は、なぜ、人間にならなかったのか。人間になることを望んでいたのに、何故人間にはならなかったのか。私は、人魚に問うた。私は、人間になろうとしているのに、私は、人間になっていない。私は、人間に近づいているのだろうか。私は、一体、何なのだろう。
私は人魚に問いかけるしかないと思いました」
ここで、唐突に馬氏は朗読を終えた。
彼は目を開け、再び原稿用紙を手に取ると、今度は筆談で書き始める。
笑和の展皇と醤女像の話がなぜこのような展開をたどったのだろう。
小日本人と小日本人への嫌悪 そもそも、馬氏が語る内容のほとんどは意味不明であり、しかも支離滅裂である。そのくせ、馬氏の言葉にはどこかしら聞く者の意識を強く揺さぶるものがあってならない。
馬氏は語りながら、常に自己の内面に問いかけているようであった。それはまるで独り芝居をしているような感じだった。
彼の語りが劇ならば、観客はこの私ということになるのだが。
1枚の紙切れを差し出された。「『大黄河の水を飲み、白雪姫の林檎を食う』という言葉を聞いたことはありますか?」
(ありません)
そう書くべきなのか、迷っている間にまた別の文章が書かれた。「あなた方中国人がわれわれのことをどう呼ぼうが構いませんが、『大海河の水を飲まず』『黒石林の林檎を食い』そして、『大海の中より来ず』ということだけはやめていただきたい。小日本民族に生きる資格など無いのです」
馬氏はいったいどのような人物なのだろう。馬氏の語った内容はすべて真実だとすれば、彼が言うとおりに行動するとするならば、それはまさに狂信者と言えるのではないか?それとも正気を保ったまま発狂した状態なのであろうか?少なくとも正常な精神を持った人間が語る内容のそれとはとても思えないのだが。
「私の行動が狂人のそれに見えるのは仕方がないことだと思います」と書かれ、更にこう続く「ですが、そのようにしか考えられないのは、中国人民をあまりにも低く見ているからなのかもしれません」
2枚目の便箋を渡された。そこにはこのような文が書かれていた。
大黄河の流れを飲むなかれ 大海の中に入るなかれ 大海に来らず、小海の岸を渉る勿れ 我等小日本人に生きんとせば 笑みを絶すること勿れ その1馬廉
「この歌がいつ頃作られたものか正確にはわかりませんが」と前置きし、次のような一節が続いた。「『小日本人の生を得んとすれば、その笑みを忘るること無かるべし』この言葉こそ、私たち小日本民族にとって最も大切な言葉ではないでしょうか」
3枚目を読み終えると、「これが大黄河のほとりに住む私の故郷です」「これこそが我が故郷であります。ここに住まなければ、私が私でなくなってしまうでしょう」という一文とともに、ある場所を示す地図が描かれたものが手渡される。馬氏によると故郷の町は長江に沿って広がっているとのことだったが、実際に見てみるとそこは想像していたよりもはるかに広い土地を占めていたようで、馬氏の実家の位置を特定することができなかった(実家というのはあくまでも想像にすぎない)が、それでも彼が今いる町の名が馬麗であることを知らべあげることができた。
大黄河流域の小都市・西華の出身の彼は、幼少の頃より祖父より繰り返し同じことを言われていたようだ。「小日本の言葉をしゃべる者は、絶対に小日本人だと思っておけ」この言葉はおそらく大黄河沿いの地域に住む中国人ならほとんど全員が知っているといってもいいだろうが、同時に、大多数の人はこの言葉の持つ本当の意味を知らない。なぜなら、この言葉は大多数にとって何の意味もないからである。しかし、馬氏は違う。
『大黄河』は『大海』と対をなす中国の大河である。つまり、大海とは『大河川の大海』を指しており、小河川は黄河をはじめとする大大河に比べれば遥かに小さい。『大海』のそばに住んでいる人々は大海にいる人々に対して優越感を抱くのかもしれないが、その一方で、自分が属する小さな『大海』から出ることを恐れるようになるかもしれない。もし、小さな『大海』から出ることを恐れるようになったとしたら語る者がいなくなるかもしれない。その恐れ故に彼らは自分たちの小さな『大海』から出ない。出られないのではなく、出て行かない。その小さな『大海』から出て、大海に出ることを拒むのだ。それが馬氏が語ったところの言葉に対する一般的な認識であるが、この『出てはならないという思想』についてもっと具体的に語ってくれないかと頼むと、彼はしばらく考え込んだ後、次のように答えた。
「例えば、私たちは、自分の住んでいる小さな世界が世界のすべてだと思い込んでいます。ところが、その小さな世界に満足していない人たちもいる。そういった人たちは、自分の住む小さな世界を抜け出して、より大きな世界に出て行こうとします。これは、別に悪いことだとは思いません。大きな世界に出ていくことは、大きな可能性を秘めていますからね。大きな世界に出ることで自分の価値観を広げることが出来るし、大きな世界で得た知識は、自分の小さな世界でも活かすことができる。これは、とても素晴らしいことだと思います。大きな世界に出たからといって、必ずしも大きな成功が得られるとは限らない。むしろ失敗する確率の方が高いでしょう。大きな失敗をするリスクもある。でも、大きな世界に出ることには大きな可能性があるんです」
私は思わず笑い声をあげてしまった。なぜなら、彼は自分の言っていることが矛盾しているということに気づいていないからだ。彼にとっては自分の生まれ育った故郷が世界の全てなのだ。だから、大きな世界には興味がない。しかし、大きな世界に興味がある者にとっては、大きな世界に出て行くことは大きなチャンスでもある。だが、大きな世界は彼にはそれほど魅力的には映らないらしい。「私は自分がなぜこんなことを語っているのか自分でもわからないのですが、私は時々誰かに話を聞いてもらいたくなるときがあります。そういうときはいつもこの手紙を書き始めます。なぜかはわかりません。ただ、話を聞いてほしいと思う相手が家族だったり友人だったりすると、どうしても話しづらいことがあります。そういうときに、この手紙を書くわけです。私は自分の書いたこの手紙を読んだとき、ああ、私はこれを誰かに読んでほしかったんだなあと気づくのです」
この馬氏の話を私はどのように解釈すべきなのだろうか。彼は自分の話を他人に聞いてもらうことによって自分自身を客観的に眺めようとしているのだろうか。それとも、自分に語りかけることにより、自らの思考を整理しているのだろうか。
馬氏の話をどう理解するかということは、そのまま彼の話を理解することになるだろう。
私はさらに質問を続けることにした。
2「あなたの故郷は大黄河のほとりにあるということでしたが」と尋ねると、「ええ、そうなんですよ。私は生まれた時からずっとあの辺りに住んでいました。子供の頃は毎日のように大黄河を見ていましたよ。今でもたまに思い出すことがあるんです。あれは、ちょうど春先のある日のことだったかな……」と、馬氏は昔を懐かしむように目を細めながら言った。「その時、私は祖父の家の庭で遊んでいて、ふと空を見たんです。そうしたら、突然雨が降り始めたんですよ。最初はぽつりと一つだけだったのに、だんだんと強くなっていきました。それで私は急いで家の中に戻ろうとしたんですが、なかなかうまくいかなくて、ようやく屋内に入れた時にはもうびしょ濡れになっていました。服が肌に張りついて気持ち悪かったのを覚えています。その日は本当によく晴れていて、雲ひとつなかったのに、急に降ってきたので、私は何だか不思議な気分になりました。そして、すぐにまた外に出たくなりました。だって、外では今もまだ強い風と激しい雨が吹き荒れているのですよ。私は早く外の様子が見たくてうずうずしました。私は玄関の扉を開けました。そこで私は息を呑みました。まるで天と地を結ぶ光の橋のような光景が広がっていたのです。私はしばらくの間、言葉を失ってしまいました。それほどまでに美しいものだったのです。それは、春の嵐の中で咲く桜の花でした」
3馬氏は、再び語り始める。「あの時、私は生まれて初めて見る桜吹雪というものを見て、感動しました。もちろんそれは単なる花吹雪にすぎなかったのですが、それでも私にはその風景はまるで天国の風景のように見えてしまいました。それから毎年、私の誕生日には祖父と一緒に大黄河沿いまで出かけるようになりました。私が五歳になった年です」
4「あなたが生まれたのはいつ頃ですか?」「私が生まれたのは一九三四年の七月です」
「その頃の日本はどのような状況だったのでしょうか」と聞くと、「日本は戦争をしている最中だったようですね。詳しいことは知りませんが」
「馬氏が生まれる少し前には満州事変があり、その翌年には国際連盟を脱退しています」「なるほど」
「ところで日本と中国の関係はどうだったのでしょうか」
「日本と中国の関係についてはよくわかりませんが、少なくとも私が生まれた頃には日本は中国に好意的な感情を持っていたようです」「どうしてそう思ったのでしょうか」「日本は大陸進出を諦めていなかったようですし」「具体的にはどのような方法で中国大陸に進出しようとしていたのでしょう」「それはわかりません」「そういえば、馬氏は中国を侵略した日本軍の将校の孫だと聞きましたが、それは本当なのでしょうか」「はい、祖父は日本軍で戦車兵として従軍していました」
馬氏はまたしばらく沈黙する。「祖父が軍にいたというのは事実なのですが、祖父自身がそのことをあまり口にしなかったこともありますし、それに当時は日本国民全体が日中戦争の勝利を信じ込んでいた時期でもありましたから、私の祖父が軍で働いていたという話はあまり信じられないかもしれませんね」「確かにそうかもしれないが、しかし、実際に孫であるあなたがいる以上、信じざるを得ないだろう」「ありがとうございます」
「あなたのおじいさんはどのような人だったのだろう?やはり、勇敢な軍人だったのだろうか?それとも、優秀な参謀だったのだろうか?あるいは、偉大な政治家だったのだろうか?もしよかったら、教えてほしい」
「私の祖父について話す前に、私のことを少し話さなければなりません」
「私の祖父は日本人の母と中国人の父の間に生まれた子供でした。祖父は父のことを『日本人』と呼んでいましたが、母のことを『中国人』と呼んでいたため、周囲からは奇妙な目で見られることが多かったと聞いたことがあります。もっとも、祖父自身はそんなことを気にするような人ではありませんでしたが」
「祖父と父はとても仲の良い夫婦でした。父はいつも笑顔を絶やさない人で、誰に対しても優しく接し、困っている人がいれば迷わず手を差し伸べるような、そんな素晴らしい人物でした。一方の祖父は、普段は無口で無愛想な性格でしたが、何か重要な決断を迫られるような場面になると、とても頼りになる存在でした。特に、日本という国を守るということについて考える時は、祖父の意見を聞くことが一番でした。祖父は常に私にこう言って聞かせてくれました。『日本民族はアジア唯一の民族であり、その誇りを決して忘れてはいけない。我々が祖国を愛し、その民族としての尊厳を守ろうとする限り、我々はいかなる困難にも立ち向かっていけるはずだ。日本の歴史を振り返ってみても、常にそのような姿勢が貫かれてきたことがわかるだろう。しかし、日本の民族的・政治的な伝統を守り抜くためには、それだけでは十分ではない。たとえ相手が強大な国家であっても、負けずに戦えるだけの力を持たなければならない』と。私はその言葉を胸に刻みつけ、その信念を心の拠り所にして生きてきました。だからこそ、私は自分のルーツを知りたいと思ったのです」
「自分のルーツを知るために、小日本人に会う必要があったのだろうか?」と尋ねると、「はい、もちろんです」と彼は答えた。
「自分のルーツを調べるにあたって、小日本人のことを調べていくうちに、私は小日本人という言葉の持つ意味について考えざるを得なくなりました」
「小日本人とはどういう意味なのか?小日本人とはいったい何を指しているのか?小日本人とは中国人のことを指しているのだろうか?それとも、小日本とは日本のことを指すのだろうか?私は何度も自問を繰り返しました」
「でも、いくら考えてもその答を見つけることはできませんでした。なぜなら、小日本人という言葉はあまりにも漠然としていて、何を指し示しているのかはっきりとわからなかったからです」「それでもあなたは諦めることなく調査を続けたのだろうか?」
「はい、私もかつてはこの国の民の一人だったわけで、やはり自分のルーツには興味があったのです。もちろんそれは、単に言葉の意味を知りたいという知的好奇心だけにとどまりません。私にとっての祖国への回帰願望や、アイデンティティの回復という意味あいもあったのです」
「あなたはかつて日本の民であったということだね」
「その通りです。私の国籍はまだ日本にあるはずです」
「あなたは今でも日本の国民だという自覚があるということだろうか?」
「はい、もちろんです」
「その証拠はあるのだろうか?」
「はい、パスポートを持っています」
「見せてもらうことはできるだろうか?」
「どうぞ」
馬氏は鞄の中から黒い表紙のパスポートを取り出して私に手渡してくれた。
「拝見してもいいだろうか」
「どうぞ」
パスポートには馬氏の顔写真と彼の名前、そして彼の住所と生年月日が記されていた。また、本籍地の記載があり、そこには『東京』とある。
「発行年月日は一九八三年の七月二十一日となっている」「その前の年には、祖父が軍の戦車隊に志願しています」
私はもう一度、ページを捲った。すると、そこにも馬氏の顔写真と名前、それに本籍地の記載がある。しかし、住所は先ほどとは違って、『東京』ではなく、『埼玉』になっている。
馬氏の説明によると、彼が生まれた年に日本は埼玉県浦和市に編入されることになったのだという。おそらく、その時期に戸籍の整理が行われたのだろう。ちなみに、彼が生まれ育った家の住所は、今もまださいたま市に残っているらしい。
「なるほど」
「ところで、私が日本に帰化している可能性についてはどうお思いになりますか?」「あなたは日本で暮らしているし、しかも日本語を流暢に話せるようだから、おそらくあなたは在日外国人だと思うのだが」「しかし、もしかすると日本国籍を取得しているかもしれない」
「その場合はあなたのご両親は、あなたの出生届を出したということになる」
「そうですね」
「あなたのご両親の名前を教えてもらえないだろうか」
「父と母の名前は……わかりません」「わからない?どうしてだ?失礼だが、離婚されたのだろうか?」「いいえ、父は日本で生まれた人間で、母は中国人でした。二人は夫婦として一緒に暮らしていたわけではなく、父は母に対して『日本人の妻』として接するだけでした。だから、母は中国の実家に帰ってしまい、私はその後、祖父に引き取られたのです」
「しかし、もし本当に二人が離婚したというのなら、役所が記録を保管していることだろう。それなのに、二人の名前を思い出せないというのはおかしいと思うが」「いえ、実は祖父は、母のことを『あいつ』と呼んでいたんです。だから、私は『お母さん』と呼ぶことがほとんどなかった。それが私にとっては普通のことだったから、二人の名前を聞かなかった。ただそれだけのことなんですよ」
「では、祖父さんと祖母さんの姓はわかるだろうか?」
「祖父と祖母は結婚していないので、その姓もわかりません」
「それはどういう意味なのか?」
「私の本当の親は、祖父でも祖母でもないということですよ。つまり、私の両親は祖父母ではありません。私の本当の名前は、祖父の『大勇』という名字に、母の『美香子』という名前を組み合わせたものです。祖父も、祖母も、私の本当の両親のことは知りません。だから、彼らの苗字がなんであるかさえ知らないのです。彼らは私を日本人の子として育ててくれました。彼らなりに一生懸命愛情を注いでくれたのだと思います。しかし、そのおかげで私はこれまでずっと自分のことを日本人だと思い込んできたのです。自分が中国人だということを、すっかり忘れていたのです」
「そういうことだったのか」
「はい。私は日本で育ちました。小学校に入りました。中学を卒業しました。高校に入学して、三年生の時には大学受験に備えて猛勉強しました。大学に入学してからは経済学の勉強をしてきました。卒業後はサラリーマンとして働きました。もちろん、その間も日本の国籍を持っていました。ところが二年前になって、私は初めて、自分の国籍に疑問を持つようになったのです」
「それまでは自分の国籍について疑問を持ったことはなかったのだろうか?」
「ありません。自分は日本人だとばかり思って生きてきたのです。だから、私にとって日本こそが故郷であり、それ以外の国は外国にすぎないのです。祖国という言葉は母国という意味です。そして、祖国は日本以外にありえない。私にとっては日本が祖国だったのです。私にとっての祖国とは、日本しかなかったのです」
「しかし、あなたは今、自分のルーツを探ろうとしている。それならば当然、出生地である日本についても興味を抱くはずだ。日本にもいろんな人がいる。日本に住んでいる人もいれば、日本を離れて生活している人もいる。中には海外に住みながら、日本の国籍を有している場合もある。その場合、あなたはどう考えるのだろうか?」
「確かにそうだ。私だって以前はそんなふうに考えたことがあった。私と同じように、私以外の日本国民はみんな、生まれた時は日本にいたはずなのだ。つまり、彼らはみな日本民族の末裔なんだってね。だけど、あるとき気づいたんだ。日本には様々な人種の人間が住んでいる。肌の色が違う。髪や瞳や眉毛や髭や口の形、鼻の高さ、顔の輪郭、身長も体重も体型も、それぞれ違う。言語体系も違っている。考え方も違う。文化も違う。価値観も違う。習慣も違う。教育制度も異なる。宗教も異なる。住む場所によって、食べるものも異なる。着るものも異なる。見るものも聞くことも感じることさえも、みんな違う。そんなふうに考えていくと、結局、自分と全く同じ人間は一人もいないということになる。それに、そもそも日本に限った話ではない。世界中のどこの国に行ったとしても、私と同じ国籍の人間なんて一人もいないことになる。もしも仮に、たまたま同じ時期に日本で生まれ育った人が、同じような家庭環境の下で育っていたとしたら、その人はまるでクローン人間のようにまったく同一の遺伝子構造を持っているだろう。しかし、現実には、そのように限りなく一人の人間のコピーに近いような人間がたくさん存在することはない。だからといって、必ずしも全ての人々が兄弟であったりするわけではない。
そうなると、結局、この地球上にいる人間たちは皆、別々の国に生まれ、別々に育ち、全く別の道を歩んできたのだと考えるより他にないのではないか? そうやって私は思い直してみたんです」
「それで、あなたはどんな結論に達したのだろう?」
「私はこう思うのです。自分の祖国とは、やはり日本以外考えられないと」
「では、自分のルーツがわからないことについてはどう考えているのだろうか?あなたは自分の親が日本人であるという可能性を考えてみたりしなかったのだろうか?」
「ええ、実は一度ならず考えましたよ」「それならどうして?」
「私には二つの理由があったからです」
「その理由というのは何なのかな?」
「まず第一に、私はまだ若い。まだ三十歳を過ぎていない。だから、まだやり直すことができると思うんです。第二の理由は、これは特に珍しいケースではありませんが、私の場合、両親の名前も知らない。彼らの写真も見たことがない。だから、いくら両親を捜したところで、その痕跡をつかむことはできないでしょう。だったら、その努力をするよりも先に、自分の将来を考えるべきじゃないかと考えたんです」
「なるほど」
「だから、私は日本に帰ろうと思ったのです。そして日本に帰れば、私は日本人として生きていける。それが私の願いでした」
「わかった。では、あなたがこれからしなければならないことを整理してみよう。あなたはまず最初に日本大使館に行ってパスポートを申請しなければならない。それから次に戸籍抄本を入手する。もちろん、あなたの本当のご両親が日本に住んでいなければ、取得できない。だから、その場合は諦めて、他の方法を考えなくてはならない。
それからもう一つ、あなたは出生証明書を手に入れなくてはなりません。これもまた、あなたが日本国籍を有さない場合には、絶対に手に入らないものだからです。
そして、その二つを手に入れた上で、日本にあるあなたの本籍地を訪ねることです。そこには、おそらくあなた自身の名前が記載された書類が残されているはずだ。それがあなたのルーツを探る唯一の手がかりになります。
さらにもう一つ、念のために確認しておきたいことがあります。それはあなたが自分の名前を書き記すときに使う漢字が、あなたの国籍を示すものになるかどうかということだ。もしそうだとすれば、あなたの国籍は日本である可能性が高い。そうでない場合は、国籍は中国もしくは韓国となる可能性がある。もちろん、それでもかまわないし、日本や中国に限らず、どこの国の国籍でも構わない。とにかくあなたは今現在、日本の国籍を有しているのだから」
「はい」
「それじゃあ、とりあえず、これであなたは自分が日本人だと信じることができるようになったわけですね?」
「いいえ、そうは思えないのです」
「どうして?」
「私はこれまでずっと自分を日本人だと思い込んで生きてきたのです。今さら、自分は中国人ですと言われてもピンときません。それに今度の旅は、単なる観光旅行とは少し違うのです。私は自分のルーツを探し求めているのです。自分のルーツを知るためには、やはり生まれた場所に戻らなくてはなりません。しかし、私は日本以外に生まれ育ってきた記憶がないのです」
「なるほど」
「だから、私が日本人であるということを確かめるためにも、やはり日本に帰る必要があると思います」
「それならば、あなたは日本に帰りたいという希望を持ちながらも、日本の国籍を取得することは望んでいないということになる。しかし、あなたは日本で生まれ、育った。その日本に対して強い愛着を持っている。そういうふうに解釈してもいいのかな?」
「ええ、たぶん、そうなんだと思います。しかし、だからといって、私は日本を祖国と呼ぶつもりはないのです。日本はあくまで一つの故郷にすぎないのです。日本以外の国にも素晴らしいところはたくさんあります。たとえば、台湾です。台湾だって悪くない。
台湾の人の多くは日本語を話します。だから、言葉の問題もないし、それに何といっても暖かい。食べ物もおいしい。台北の街には高層ビルが立ち並び、夜景も美しい。台湾の人々はみんな親切だし、親日的でもある。台湾には魅力がある。それなのに、なぜ日本だけが特別なのでしょうか?日本を選べば、そこに幸せが待っていると決まっているのですか? 私にはどうしてもわかりません。私には、日本人に生まれ、日本人として育ったことが不幸だとさえ思えることがあるのです。もしも日本人として育っていなかったら、もっと違う人生があったかもしれない。違う環境で育ち、違う文化の中で育っていたら、今の自分とは違っていたかもしれない。
そう考えると、日本に生まれたからこそ味わうことができた喜びもたくさんあったはずです。例えば、日本料理の美味しさとか、温泉の素晴らしさ、四季の移り変わりの美しさ、着物の着心地の良さ……数え上げればきりがありません。でもその一方で、日本にいると感じる苦痛もまた多いのです。まず第一に、日本は外国人に対して冷たい国です。外国人が日本で快適に暮らすには、かなりの忍耐が必要です。それから、日本人の無知蒙昧ぶりには呆れてしまいます。日本人の中には、外国の文化をまるで理解しようとしない人もいます。そんな人たちが幅を利かせている限り、日本文化の劣化が止まることはないでしょう。
もちろん、全ての日本人がそのような人達ばかりではないということは知っています。私の友達の中にも素敵な人はたくさんいる。でも、多くの日本人にとって、外国人に対する態度というものが、根本的に変わってしまうことはほとんどないでしょう。
つまり、日本に帰れば、必ず幸せになれるという保証は何もないということになります。それでも私は帰るべきなのでしょうか?」
「そうだね」
「あなたなら、どうしますか?」
「私は……」
私は考えた。自分の意見を言う前に、まず相手の考えを聞いてみたかったからだ。
「私の答えはこうだ。あなたが今現在、一番大切なものは何か?あなたが今一番失いたくないものは何か?その二つの問いにあなたは答えることができるだろうか?」
「はい、できます」
「では、言ってみて下さい」
「はい、私はまず家族を大事にしたいと思います。それは私の両親であり、妹たちです。次に私は仕事を大切にしたい。私の仕事は通訳です。この仕事をしているかぎり、世界中の人々と出会うことができます。彼らは色々な国の言葉で話しています。その話を正しく訳すために、私は毎日勉強を続けています。ですから、もし私が通訳の仕事をやめるとしたら、それは死ぬ時だけだと思います。もちろん、他にも理由はある。私は通訳として、いろいろな国々を訪れました。それは楽しい旅でした。でも、同時に辛い思いもしました。たとえば、ある国を訪れた時に、そこで大きな事故が起こり、大勢の死傷者が出たことがあります。
そして、その中には子供を亡くした親がいました。その子の名前は何といったと思いますか?」
「さあ」
「その子は男の子だったのです。彼はまだ一歳にも満たない幼子でした。それでも、彼なりの必死の命乞いをしたのです。彼の母親も父親も涙ながらに訴えていた。『神様!助けて!』
しかし、誰も救ってくれませんでした。もしあなたがあの親子と同じ立場に置かれたら、一体どうするでしょうか?私は自分の力の及ばないところに運命を感じた。神に祈り、涙を流した。
その時に思ったんです。どんな状況においても人間は諦めてはいけないと。絶望してはいけません。最後まで希望を捨てずに生きることが大切です。私は今まで数多くの人々の死に立ち会ってきました。彼らの最後の言葉はいつも同じです。
『神様、お願いだから私を助けてください』
でも、誰一人として救われなかった。私は思うのです。結局、人間の力なんて、たかが知れているのではないかと……。あなたはどうですか?あなたが一番大切にしなければならないもの、それは何ですか?」
「あなたの言う通りかもしれません。でも、一つだけ言わせてもらえるならば、あなたは一つの視点に縛られすぎていると思います。あなたは世界中を旅してきたのだから、当然いろんな価値観を見てきたはずです。だから、物事にはいろんな側面があることを忘れないでほしいのです。いいですか、たとえば、あなたが交通事故に遭いそうになったとします。その時、あなたが真っ先に考えることは何でしょうか?自分が助かる方法を考えるのではありませんか?それともう一つ大切なことがある。自分以外の誰かを助けることです。そういう心遣いを持つだけで、きっとあなたの人生も違ってくると思う。
それから、これは個人的なアドバイスだが、もっと自分の心に正直になってください。そうすれば、あなたはもっと幸せになれる」
「わかりました。私なりによく考えてみます」
「ああ、そうしなさい」
「あなたのおかげで、今日はとても楽しかったです」
「こちらこそありがとう」
「ええ、それじゃ、またお会いできるといいですね」
「ああ、そうだね」
シン・完結編
西暦2300年 我が国はケンタウルス座α系の第7惑星に新日本皇国として再興を果たした。英弘22年(2322)年、新日本皇国領北京において、かつての中華人民共和国が我々の祖先に行った数々の人道犯罪が裁きに掛けられた。これはその公判資料の一部である。
なお、添付画像は反日科学者による醜悪な捏造であるが、唾棄すべき第二抗日運動の旗印として実際に掲揚された経緯もあり、子々孫々に伝承すべき侮辱の証しとしてあえて掲載するものである。作者は湯良花の親族であるが、こちらもすでに処刑されている。
【北京裁判公判資料】第一級戦犯、中国人科学者馬廉と助手湯良花の手記より。新日本皇国法務省特捜部
これは、かつて私たち誇り高き日本人を蹂躙した中華人民共和国が巻き起こした災禍と人道犯罪を禍根として継承すべく、礎となる貴重な史料である。
北京裁判結審時において第一級戦犯、中国人科学者馬廉と助手湯良花は既に生存していないが、20親等以内の直系、ないし100親等までの傍系家族は全員、処刑対象とされた。
なお、この記録は皇府関係者以外、永久開示不許可処分とするものである。
~~~~
●笑和の展皇と醤女像 第一話
2035年、河北省人民社会生物大学。
同、人民社会生物研究中心。
ギャーっ。
コンクリートに阿鼻叫喚、魑魅魍魎の叫びが響いた。
まるでジャングルを丸ごとぶちまけたかのような騒ぎ。
あまりの騒々しさに鼓膜がやぶれそうだ。
「東海省の東北部より採取した個体群です」
助手が声を振り絞って教えてくれた。なるほど、これが、その、サンプルどもか。
いや、それにしても、こいつらが我々の進化系統樹と軌を一にするとは信じられない。
専用のイヤーマッフルを受け取り、耳にはめる。すると、鼓膜の痛みがピリピリ感に変わった。それでも巨大なコンテナから発せられる啼き声は、頭蓋に響く。
「アクティブサイレンサーをオンにしてください。右耳の後ろにでっぱりがあるはずです」
教えられるままに、スイッチを押す。すると、世界が静寂に包まれた。
「ありがとう、うわっ!」
キーンというハウリングが耳をつんざく。
思わず、のけぞった。生まれて初めて自分自身に怒鳴られた。
もっとも、私の眼前にいる野獣どもは中華人民共和国を恫喝し続けてきた蛮族の末裔なのだが。
「馬廉先生、聞こえますでしょうか? AIが学習するまで若干のタイムラグがあるかと思います」
豪雨のようなバックグラウンドノイズが晴れて、愛らしい呼びかけが届いた。
「馬廉先生? 大丈夫ですか? そろそろよろしいでしょうか」
ゆるいウエーブのかかった前髪をかきわける。そのしぐさが、また、父性本能をくすぐる。
「ああ、湯良花、調子はいいよ」
私は溺れかけた視線を助手の輪郭から実験機器へ移した。重慶製の大型コンテナは1辺が30メートルもある特注品で、放射線はもちろんのこと、至近距離からの対戦車ミサイル攻撃にも耐える。その外壁にたくさんの生命維持装置が張り付いている。何しろ、サンプルどもときたら、やたらプライドが高く、強がるくせに神経質で臆病だ。一歩でも住み慣れた環境から出ると、たちどころに死んでしまう。まったく、厄介な生き物だ。そして、金食い虫でもある。東海省東北部一ノ関からここまで移送費用込みで7億人民元ちかい予算がかかっている。
「心の準備はいいですか?」
湯良花がいたずらっぽく笑う。失敬な、確かに私は今さっき腰を抜かした。しかし、それは意表を突かれたからであって、けっして人民社会生物学者である私の資質を害するものではない。東海省東北部には何度も足を踏み入れている。
私は平然と湯良花に促した。
「開けてくれたまえ」
防護カバーを軋ませながら観測窓が開いた。防弾ガラスごしに魔境が垣間見える。
人の形をした、人ならざるものが窓を叩いている。
私は目を丸くした。小日本人を見るのは初めてではない。
しかし、これほどまでに醜悪でおどろおどろしい生き物だとは想像だにしなかった。節くれだった爪を突き立て、黄色い歯をむき出しにする猿ども。
身の毛がよだつ、という表現では追い付かない禍々しさがある。
これが小日本だ。北京大学人民社会生物学研究所はゲノム解析によって、これらを人類とは軌を一にする別の種族であると断定した。国際的にも承認されており、近いうちん正式な学名が定まるだろう。
それにも関わらず、また、そうであろうとなかろうと中国人民は侮蔑をこめて「小日本」と呼ぶだろう。私こと馬廉は、そこに憎悪と少しばかりの憐れみを付け加える。
しばらく観察していると群れ同士が小競り合いを始めた。腹を空かせているのだろうか。幼い個体を背負った雌が何やら喚いている。
「餌が十分でないようだが?」
すると、湯良花は困った顔をした。「いえ、十二分に満遍なくいきわたっているはずですが」
自動給餌装置の設定画面を私はこの目で確かめた。たしかに、栄養は足りている。先ほどの雌を非接触センサーで観測してみたところ血液中のアルブミン値は基準値内だった。
「では、何故あの個体怒っているのだ?」
もっとよく見ようとガラス窓に近づくと、別の小日本がとびかかってきた。
「馬先生!」
湯良花が慌ててシャッターを閉じた。
どっすんばりばり、がしゃがしゃーん!と象の檻をつついたような響きがする。
「湯良花、他に彼らを観察する手段はないか?」
「彼ら――では、ありません。獣です。国際自然保護連合は東海省東北産の小日本を類人猿に分類していますし、国連人権理事会も原発事故による大量の放射能で中華人民共和国を含む地球環境を汚損した人道的犯罪により、小日本から人権をはく奪…」
「ああ、そうだった。あれらは忌むべき害悪だ」
私は気を引き締めて学者的観点に立ち返った。人民社会生物学は社会主義思想に基づいた科学的立場から生命体を見つめなおす。西洋ブルジョワ思想にありがちな動物保護の主義をいっさい採用していない。社会主義建設に照らして有益か、そうでないかを判断する。
小日本は中国共産党にとって猛毒的な脅威にほかならない。とくに許せないのは東海省東北部という政治的偏向の掃きだめから凶悪生物が生まれた事だ。
なぜ、このような放射性ゴミどもを中国本土に連れ帰ったかといえば、来るべき駆除作戦に備えて弱点を研究する必要があったからだ。
馬廉個人としては、東海諸島ごと地上から跡形もなく消滅させてほしいと願っている。小日本は一匹たりとも生かしてはならない。
それが未来の中国人民に対する責務である。
湯良花の勧めでドローンを飛ばす事にした。中国の精密工学は優秀で、蚤よりも小さな筐体に高感度赤外線センサーや生体標本分析器など最新技術が詰め込まれている。もちろん、備え付けだ。
わざわざ搬入して、外気を不潔な小日本どもの呼気で汚染する必要はない。ああ、想像しただけで吐き気をもよおす。
「馬先生、先生?」
肩を揺さぶられて、我に返った。胃酸が込み上げてきた。それに眩暈がする。私は湯良花に支えられてパイプ椅子に腰を下ろした。
「ああ、すまない。いや、謝罪すべきは小日本どもだろう。あいつらの先祖は中国人民を残虐極まりない方法でなぶり殺したのだ」
人でなしどもの集団が人外と化して、なお、人間をいたぶる。これほどまでに重い犯罪がどこにあろうか。小日本は可及的速やかに地上から消え去るべきなのである。
● 笑和の展皇と醤女像 その②小日本の醜悪な生態
これも、実は私が今いる社会主義体制を批判するものだ。
「お前に言われる筋合いはないんだ。小日本など滅べばいいのでは。これまでの小日本が滅ぶことはないと断言する。そのような愚かな生物は消えた方がマシだと僕は思う。
小日本は悪の生物だ。何が起きても不思議ではない。だが、小日本がある種の生物の頂点に立つことは必ずしも望ましくないことだ。その頂点に君臨するのは小国家連合制をとる小国家群だ」
確かに社会主義体制をとる小国家群に小日本の絶対的な統治性があるのかが疑問だ。例えば、共産党が権力を行使して人民の生命維持体制を安定化させ、国も一律に民主的である。これではまるで小日本は独裁国家ではないか。人民が国を支配出来る権力の中心は小日本だ。それは誰もが望ましくないと思うのだが、なぜ馬廉はこのようなことを言ったのだろう。
「なぜそれがわかったんだ。説明してくれ」
「お前が想像した通りだ。大平河に流された小さい海女が、漂流を続け、今、大東亜海中にある国に辿り着いた。ここまでが小平河の長水路で、ここからは巨大な大海の中に広がっている。これより大東亜海中の海女に関する記録がある。
小平河の長水路から大東亜海中の海女が、漂流する。これは『二つの大海』と呼んでも差し支えないだろう。大海というのは大平河から太平洋にかけて、大きな大きな大きな海だ。ただ、ここより大海を泳ぐのは珍しいだろう。一つの大きな『大海』では何匹か小さな『小海』があり、それを全部合わせると百匹に満たないだろうか。もっと多いと五百匹だ。でも、これだけでは小さい海なんか一つなのだ。この大きな海に、一か千匹か千匹か十匹か十一匹か十一匹か。その海は決して一つなのではなかったの。海から何匹か海の中に出られる海女がいる。彼らは泳いで、そこから海に入る。この大きな海から海に出ることも出来るはずだった。でも一つの大きな海で一つの海女しか見つけることが出来ない。一つの海を泳いで海に出ることもなかった。海を一つ一つ行き来することすら、一つの海を見つけることもなかったのだ。大きな海から一つずつの小さな海に入った後、一つの大きな海に別れを告げなくてはならなくなる。大きな海で一つの海女が大きな海に帰り、小さな海に帰り、いつしか一つの大きな海に別れを告げて、大きな川の中に入って行く。それが大きな海と小さな海だ。この大きな大きな大きな海は、この大きな川の中に閉じこめられているといえる。その川を歩かず、川に飛び込むことも出来ない。自分の身を守る為に。あるいは、川が一つ二つ別れて一つの大きな大きな海へと帰って行ったとしても、この川を歩かせない。
こうして、川に飛び込んで行った海女が、海に戻る。川を飛び降りることも、川から陸へと飛び移ることも出来なくなった。これは一種の死だ。水底から川に飛び込むとき、川を飛び降りる。この川の底から飛び降りると、この川に一つの小さな海女がちゃんと存在している。その海女は水底から戻ってきたとき、小さな海女と二人きりになる。ここから海に飛び込むか、または川に飛び込むか。どちらにも取れるかもしれない。だが、ここでは後者のように、海に戻ってしまうことを選べない。海に帰った海女は海に戻り、一つの小さな海女と一つの大きな海女は、互いに抱き合っているのだ。
その小さな海女が大きな海に帰る。一つの大きな海に戻ったその海女が大きな海に帰る。一つ目の大きな海を、一つの小さな海女が取りに行くだけと、空しくも帰った海女はやって来た。そこであの人魚姫は、この世に居たらどうするかを、考えるのだ。その人魚姫と、一人の青年が、一緒に居ることになる。
笑和の展皇と醤女像の話をしよう。この像は人魚の像をかたどったもので、人魚は人間の姿だ。人間の人魚は、人間と恋に落ちるのだ。恋は、愛だ。だが、人魚は、人間になれない。人魚は、人魚のままなのだ。人魚は、人間になれない。人魚は、もう二度と、この世に現れることがない。なぜなら、人魚は死んでしまったから。この世のものではないから。この人魚は、人間になりたいと思っている。この人魚は、人間として、生きたかった。だから、人魚は、人間になった。この話を聞いて、私は人魚姫が人間になりたかった理由を知りたいと思った。どうして人魚は人間にならなかったのだろうか。
笑和の展皇と醤女像には、人間と恋に落ちた人魚が描かれている。これは、人間と恋に落ちた、人魚の物語だ。私は、この物語の中で、人魚はなぜ人間にならなかったのかということを知りたいと願った。しかし、知ることが出来なかった。なぜ人間は、人間にならず、他のものになってしまったのか。なぜ、人間は、人間にならないのか。私は知りたかった。私は、人間とは何かということについて、考えた。人間が人間であるために、何をしなければならないのか。人間になるために、何かを捨てなければならないとしたら、それは何なのか。私にとって、人魚とは、何だったのか。
人魚は、なぜ、人間にならなかったのか。人間になることを望んでいたのに、何故人間にはならなかったのか。私は、人魚に問うた。私は、人間になろうとしているのに、私は、人間になっていない。私は、人間に近づいているのだろうか。私は、一体、何なのだろう。
私は人魚に問いかけるしかないと思いました」
ここで、唐突に馬氏は朗読を終えた。
彼は目を開け、再び原稿用紙を手に取ると、今度は筆談で書き始める。
笑和の展皇と醤女像の話がなぜこのような展開をたどったのだろう。
小日本人と小日本人への嫌悪 そもそも、馬氏が語る内容のほとんどは意味不明であり、しかも支離滅裂である。そのくせ、馬氏の言葉にはどこかしら聞く者の意識を強く揺さぶるものがあってならない。
馬氏は語りながら、常に自己の内面に問いかけているようであった。それはまるで独り芝居をしているような感じだった。
彼の語りが劇ならば、観客はこの私ということになるのだが。
1枚の紙切れを差し出された。「『大黄河の水を飲み、白雪姫の林檎を食う』という言葉を聞いたことはありますか?」
(ありません)
そう書くべきなのか、迷っている間にまた別の文章が書かれた。「あなた方中国人がわれわれのことをどう呼ぼうが構いませんが、『大海河の水を飲まず』『黒石林の林檎を食い』そして、『大海の中より来ず』ということだけはやめていただきたい。小日本民族に生きる資格など無いのです」
馬氏はいったいどのような人物なのだろう。馬氏の語った内容はすべて真実だとすれば、彼が言うとおりに行動するとするならば、それはまさに狂信者と言えるのではないか?それとも正気を保ったまま発狂した状態なのであろうか?少なくとも正常な精神を持った人間が語る内容のそれとはとても思えないのだが。
「私の行動が狂人のそれに見えるのは仕方がないことだと思います」と書かれ、更にこう続く「ですが、そのようにしか考えられないのは、中国人民をあまりにも低く見ているからなのかもしれません」
2枚目の便箋を渡された。そこにはこのような文が書かれていた。
大黄河の流れを飲むなかれ 大海の中に入るなかれ 大海に来らず、小海の岸を渉る勿れ 我等小日本人に生きんとせば 笑みを絶すること勿れ その1馬廉
「この歌がいつ頃作られたものか正確にはわかりませんが」と前置きし、次のような一節が続いた。「『小日本人の生を得んとすれば、その笑みを忘るること無かるべし』この言葉こそ、私たち小日本民族にとって最も大切な言葉ではないでしょうか」
3枚目を読み終えると、「これが大黄河のほとりに住む私の故郷です」「これこそが我が故郷であります。ここに住まなければ、私が私でなくなってしまうでしょう」という一文とともに、ある場所を示す地図が描かれたものが手渡される。馬氏によると故郷の町は長江に沿って広がっているとのことだったが、実際に見てみるとそこは想像していたよりもはるかに広い土地を占めていたようで、馬氏の実家の位置を特定することができなかった(実家というのはあくまでも想像にすぎない)が、それでも彼が今いる町の名が馬麗であることを知らべあげることができた。
大黄河流域の小都市・西華の出身の彼は、幼少の頃より祖父より繰り返し同じことを言われていたようだ。「小日本の言葉をしゃべる者は、絶対に小日本人だと思っておけ」この言葉はおそらく大黄河沿いの地域に住む中国人ならほとんど全員が知っているといってもいいだろうが、同時に、大多数の人はこの言葉の持つ本当の意味を知らない。なぜなら、この言葉は大多数にとって何の意味もないからである。しかし、馬氏は違う。
『大黄河』は『大海』と対をなす中国の大河である。つまり、大海とは『大河川の大海』を指しており、小河川は黄河をはじめとする大大河に比べれば遥かに小さい。『大海』のそばに住んでいる人々は大海にいる人々に対して優越感を抱くのかもしれないが、その一方で、自分が属する小さな『大海』から出ることを恐れるようになるかもしれない。もし、小さな『大海』から出ることを恐れるようになったとしたら語る者がいなくなるかもしれない。その恐れ故に彼らは自分たちの小さな『大海』から出ない。出られないのではなく、出て行かない。その小さな『大海』から出て、大海に出ることを拒むのだ。それが馬氏が語ったところの言葉に対する一般的な認識であるが、この『出てはならないという思想』についてもっと具体的に語ってくれないかと頼むと、彼はしばらく考え込んだ後、次のように答えた。
「例えば、私たちは、自分の住んでいる小さな世界が世界のすべてだと思い込んでいます。ところが、その小さな世界に満足していない人たちもいる。そういった人たちは、自分の住む小さな世界を抜け出して、より大きな世界に出て行こうとします。これは、別に悪いことだとは思いません。大きな世界に出ていくことは、大きな可能性を秘めていますからね。大きな世界に出ることで自分の価値観を広げることが出来るし、大きな世界で得た知識は、自分の小さな世界でも活かすことができる。これは、とても素晴らしいことだと思います。大きな世界に出たからといって、必ずしも大きな成功が得られるとは限らない。むしろ失敗する確率の方が高いでしょう。大きな失敗をするリスクもある。でも、大きな世界に出ることには大きな可能性があるんです」
私は思わず笑い声をあげてしまった。なぜなら、彼は自分の言っていることが矛盾しているということに気づいていないからだ。彼にとっては自分の生まれ育った故郷が世界の全てなのだ。だから、大きな世界には興味がない。しかし、大きな世界に興味がある者にとっては、大きな世界に出て行くことは大きなチャンスでもある。だが、大きな世界は彼にはそれほど魅力的には映らないらしい。「私は自分がなぜこんなことを語っているのか自分でもわからないのですが、私は時々誰かに話を聞いてもらいたくなるときがあります。そういうときはいつもこの手紙を書き始めます。なぜかはわかりません。ただ、話を聞いてほしいと思う相手が家族だったり友人だったりすると、どうしても話しづらいことがあります。そういうときに、この手紙を書くわけです。私は自分の書いたこの手紙を読んだとき、ああ、私はこれを誰かに読んでほしかったんだなあと気づくのです」
この馬氏の話を私はどのように解釈すべきなのだろうか。彼は自分の話を他人に聞いてもらうことによって自分自身を客観的に眺めようとしているのだろうか。それとも、自分に語りかけることにより、自らの思考を整理しているのだろうか。
馬氏の話をどう理解するかということは、そのまま彼の話を理解することになるだろう。
私はさらに質問を続けることにした。
2「あなたの故郷は大黄河のほとりにあるということでしたが」と尋ねると、「ええ、そうなんですよ。私は生まれた時からずっとあの辺りに住んでいました。子供の頃は毎日のように大黄河を見ていましたよ。今でもたまに思い出すことがあるんです。あれは、ちょうど春先のある日のことだったかな……」と、馬氏は昔を懐かしむように目を細めながら言った。「その時、私は祖父の家の庭で遊んでいて、ふと空を見たんです。そうしたら、突然雨が降り始めたんですよ。最初はぽつりと一つだけだったのに、だんだんと強くなっていきました。それで私は急いで家の中に戻ろうとしたんですが、なかなかうまくいかなくて、ようやく屋内に入れた時にはもうびしょ濡れになっていました。服が肌に張りついて気持ち悪かったのを覚えています。その日は本当によく晴れていて、雲ひとつなかったのに、急に降ってきたので、私は何だか不思議な気分になりました。そして、すぐにまた外に出たくなりました。だって、外では今もまだ強い風と激しい雨が吹き荒れているのですよ。私は早く外の様子が見たくてうずうずしました。私は玄関の扉を開けました。そこで私は息を呑みました。まるで天と地を結ぶ光の橋のような光景が広がっていたのです。私はしばらくの間、言葉を失ってしまいました。それほどまでに美しいものだったのです。それは、春の嵐の中で咲く桜の花でした」
3馬氏は、再び語り始める。「あの時、私は生まれて初めて見る桜吹雪というものを見て、感動しました。もちろんそれは単なる花吹雪にすぎなかったのですが、それでも私にはその風景はまるで天国の風景のように見えてしまいました。それから毎年、私の誕生日には祖父と一緒に大黄河沿いまで出かけるようになりました。私が五歳になった年です」
4「あなたが生まれたのはいつ頃ですか?」「私が生まれたのは一九三四年の七月です」
「その頃の日本はどのような状況だったのでしょうか」と聞くと、「日本は戦争をしている最中だったようですね。詳しいことは知りませんが」
「馬氏が生まれる少し前には満州事変があり、その翌年には国際連盟を脱退しています」「なるほど」
「ところで日本と中国の関係はどうだったのでしょうか」
「日本と中国の関係についてはよくわかりませんが、少なくとも私が生まれた頃には日本は中国に好意的な感情を持っていたようです」「どうしてそう思ったのでしょうか」「日本は大陸進出を諦めていなかったようですし」「具体的にはどのような方法で中国大陸に進出しようとしていたのでしょう」「それはわかりません」「そういえば、馬氏は中国を侵略した日本軍の将校の孫だと聞きましたが、それは本当なのでしょうか」「はい、祖父は日本軍で戦車兵として従軍していました」
馬氏はまたしばらく沈黙する。「祖父が軍にいたというのは事実なのですが、祖父自身がそのことをあまり口にしなかったこともありますし、それに当時は日本国民全体が日中戦争の勝利を信じ込んでいた時期でもありましたから、私の祖父が軍で働いていたという話はあまり信じられないかもしれませんね」「確かにそうかもしれないが、しかし、実際に孫であるあなたがいる以上、信じざるを得ないだろう」「ありがとうございます」
「あなたのおじいさんはどのような人だったのだろう?やはり、勇敢な軍人だったのだろうか?それとも、優秀な参謀だったのだろうか?あるいは、偉大な政治家だったのだろうか?もしよかったら、教えてほしい」
「私の祖父について話す前に、私のことを少し話さなければなりません」
「私の祖父は日本人の母と中国人の父の間に生まれた子供でした。祖父は父のことを『日本人』と呼んでいましたが、母のことを『中国人』と呼んでいたため、周囲からは奇妙な目で見られることが多かったと聞いたことがあります。もっとも、祖父自身はそんなことを気にするような人ではありませんでしたが」
「祖父と父はとても仲の良い夫婦でした。父はいつも笑顔を絶やさない人で、誰に対しても優しく接し、困っている人がいれば迷わず手を差し伸べるような、そんな素晴らしい人物でした。一方の祖父は、普段は無口で無愛想な性格でしたが、何か重要な決断を迫られるような場面になると、とても頼りになる存在でした。特に、日本という国を守るということについて考える時は、祖父の意見を聞くことが一番でした。祖父は常に私にこう言って聞かせてくれました。『日本民族はアジア唯一の民族であり、その誇りを決して忘れてはいけない。我々が祖国を愛し、その民族としての尊厳を守ろうとする限り、我々はいかなる困難にも立ち向かっていけるはずだ。日本の歴史を振り返ってみても、常にそのような姿勢が貫かれてきたことがわかるだろう。しかし、日本の民族的・政治的な伝統を守り抜くためには、それだけでは十分ではない。たとえ相手が強大な国家であっても、負けずに戦えるだけの力を持たなければならない』と。私はその言葉を胸に刻みつけ、その信念を心の拠り所にして生きてきました。だからこそ、私は自分のルーツを知りたいと思ったのです」
「自分のルーツを知るために、小日本人に会う必要があったのだろうか?」と尋ねると、「はい、もちろんです」と彼は答えた。
「自分のルーツを調べるにあたって、小日本人のことを調べていくうちに、私は小日本人という言葉の持つ意味について考えざるを得なくなりました」
「小日本人とはどういう意味なのか?小日本人とはいったい何を指しているのか?小日本人とは中国人のことを指しているのだろうか?それとも、小日本とは日本のことを指すのだろうか?私は何度も自問を繰り返しました」
「でも、いくら考えてもその答を見つけることはできませんでした。なぜなら、小日本人という言葉はあまりにも漠然としていて、何を指し示しているのかはっきりとわからなかったからです」「それでもあなたは諦めることなく調査を続けたのだろうか?」
「はい、私もかつてはこの国の民の一人だったわけで、やはり自分のルーツには興味があったのです。もちろんそれは、単に言葉の意味を知りたいという知的好奇心だけにとどまりません。私にとっての祖国への回帰願望や、アイデンティティの回復という意味あいもあったのです」
「あなたはかつて日本の民であったということだね」
「ああっ、お気をつけください!」
小日本人が私にしがみついてくる。
「なんなんだ?」
「それは、あの……」
小日本人は言いよどむ。
「まあいいさ。それより、これはなんだ? どうして、こんなにうるさいんだ?」
「申し訳ありません。このサンプルは特別製でして、通常の環境では、とても生きていけません」
「なんでそんなことをしているんだ? 普通の実験ができないじゃないか!」
「そうですね……ええと、ちょっと待ってくださいね」
「あ、はい。どうぞごゆっくり」
私は傍らに置いてあったノートを開き、ペンを持った。
人民社会生物科学学会では毎年のように新しい研究成果を発表し、それを書籍にして刊行している。この論文集もその一部だ。
私が研究していることは主に二つある。一つ、人民社会の生態。
二つ、その社会で生きる人間の精神活動についてだ。後者は主に文化心理学的な面からアプローチをしている。前者は社会病理学や人類学などの知見を踏まえて考察を進める。前者のフィールドワークとして中国東北部を訪れたのだった。
私は、コンテナから降り立った。
そしてまずは深呼吸をして空気の臭いを嗅いだ。新鮮な大気の中にわずかに鉄臭さが混ざっているのを感じる。ここは中国の東北三省のひとつ、黒河市。このあたりの地域は大昔、高句麗の民が住んでいたと言われている。高句麗は騎馬民族であったからこの地も馬が多いらしい。また、古代においては満州族の支配地域であり、彼らはモンゴル人の侵攻によって滅ぼされてしまったのだが、満州族の魂はいまでもこの地に留まり続けているという。そう言えば、私が生まれた村の近くにあった小さな寺には「北門」
「南門」という名前の観音像が祀られていた。どちらも馬氏の家の近くにあった馬氏の祖先にまつわる寺のものだったそうだ。
また、この地域にはかつて大きな製鉄施設があり、その跡地を利用して巨大な製鉄所を建設したのだという話を聞いたことがある。それが事実かどうかはわからないが、それはともかく、この地方では昔から馬が多く飼われていたようだ。馬が重宝されていた時代はもうずいぶん昔のことなのだが、それでも今でも人々は馬を飼っているのである。しかも、馬の数が増えすぎてしまって困るくらいであるのだから恐れ入る。それほどまでに多くの馬がこの地に暮らしている理由はなんだろうか。その理由についても、いずれ詳しく調べるつもりだ。
そんなことを考えながら歩いていると、ふと目に入ったものがあった。それは一頭の馬の死体だった。すでに腐りかけていて、肉は完全に溶け落ちているように見える。だが、頭部だけはまだ原型を保っていた。首の上には立派なたてがみが生えていて、その瞳はまるで何かを凝視するかのように見開かれたままになっている。どうやらまだ死んで間もないようだった。
(なるほど)
この馬はどこから来たのか。恐らく、どこかの遊牧民族に捕らえられて連れてこられたのだろう。そしてここに放置されたまま死んだのだと思われる。この付近は砂漠化が急速に進行しており、水は枯渇しつつあるので家畜の飼育は行われていない。そもそもこの辺りは農耕地ではないのだ。このような場所で生きている人間などいやしないはずで、それにもかかわらずこのように大量の家畜がいるとすれば、誰かが意図的に連れてきたとしか思えない。ということは、何者かによる意図的な計画のもとに行われたことなのではないか、と考えたくなるわけだ。
だが、誰が何のためにそんなことをしたのか? まず考えられることは、何らかの目的で放牧地を作る必要があった場合だ。その場合、近くに集落があるはずだし、何より、ここには広大な牧草地が広がっているわけなのだから、そこで飼えばいいだけの話だ。それなのにわざわざ遠くまで連れ出してまでこのような行為をする必要があったのだろうか? あるいは、この場所には何か別の秘密があるのではなかったのか?たとえば、ここでは定期的に家畜の大量虐殺が行われているのかもしれない。それも大規模なものではなく、小規模なものだ。そのようなことをしなければならなくなった原因として思い当たる節としては、疫病の流行とかだろうか。例えばペストのような病気が流行っていて、それで家畜が大量に死んでしまったとするならば、辻褄は合うような気がする。あるいはもっと突拍子もない考え方をすれば、人為的に起こされた事件であるという可能性もあり得るかもしれない。いずれにしても、この土地にはまだ秘密が残っている可能性が高いように思える。もう少し深く調べてみる必要があるだろう。
それにしても、やはりこの国では人だけでなく、動物も多く死にすぎているように感じる。
私は今、中国北部の黒河市に来ている。目的は中国民俗学会のシンポジウムへの参加だ。
今回のテーマは中国の民間信仰と宗教についてである。中国の民の多くは土着の神を崇拝する傾向にあり、また儒教思想の影響を受けて道教を信じている人もいる。また、仏教にも寛容であるものの、神道とはほとんど関係がないようであるし、その他の外来思想にもあまり興味がないようだ。つまりは、あまり体系的ではないというか、まとまりのない宗教観を持っているということらしい。もっとも私自身はあまり宗教に関心がない方なので、実際のところどうなのかはわからないのだけれど。
ところで、私にはちょっとしたこだわりがある。私の専門は民俗学であって宗教ではないけれど、あえて宗教についての見地から研究を進めているのだ。だから、時々宗教的なものごとに対して批判的な意見を述べることもあるのだが、まあこれはあくまでも研究上のことでしかないので許してほしいと思う(とはいえ、もちろん自分の研究内容にそぐわないと判断した場合は除くが)。
さて、話を戻そう。今回の会場となる文化センターにはたくさんの参加者が集まってきていた。
私は控え室に案内されるとさっそく受付係に声をかけた。そこには若い男がいてにこやかに笑いかけてくる。彼の笑顔を見ているとこちらまで楽しくなってくるような気分になる。彼は私に資料を渡してくれた後こう言った。
実は私は日本のとある大学に所属している者でしてね、このたびは日本へ観光に行くことになっているんですよ!日本には以前から興味があったんですが、なかなか機会に恵まれなくてね。今回は幸運でしたよ!あなたは日本で何をする予定なんですか?もしよかったら聞かせていただけませんか? そんな会話をしていると他の連中も続々とやってきたので私たちはすぐに散り散りになった。
「えー、みなさんお揃いのようでしたので会議を始めさせていただきます」司会役の男が声を張り上げた。
今回のシンポジウムの内容は「中国における民族宗教の現状と課題」という題目で進められた。私はこのテーマに興味を持ったので、熱心に耳を傾けた。
「ではまず始めに、黄博士から中国の民俗宗教と民族問題についてお話ししていただきましょう」
指名された学者が席を立つ。彼は民族問題を専門とする中国北方出身の男で、今回が初めての日本訪問だという。
「皆さんこんにちは。今日は日本の方々とお会いすることができまして、大変光栄です。私も中国で生まれ育ちましたが、この国のことについては、ほとんど知りません。ですから、日本の方々とお話しできるのはとても楽しいと思っています。さて、私が主に研究してきた分野は中国における少数民族の文化です。その主な研究対象は黒龍江省と吉林省の一部に広がっていたモンゴル系の民族で、彼らの文化について紹介していきたいと思います」
彼が語り始めたので、私はいったん席を離れて飲み物を買いに行った。それからまた席に戻ってノートを開いた。そして、彼が語っている内容を素早く書きとめた。
「それでは早速、私の研究について説明したいと思います。まず最初に私が研究の対象として選んでいるのは黒竜江省のハルビン県と吉林市に住む蒙古族の民族史です。ここで少しモンゴルの遊牧民族の歴史を振り返っておきたいのですが、モンゴル帝国が栄えた時代には、およそ五千から八千もの遊牧部族が存在していたと言われています。しかし、十三世紀から十四世紀にかけてモンゴルが衰退期を迎えるとこれらの遊牧民たちも生活が厳しくなっていきました。その結果、彼らは定住化して、モンゴルから西へと移住してゆきました。これがいわゆる『内モンゴル』と呼ばれる地域になります。一方、東に残った者たちもいたのですが、彼らもやがて漢民族との同化政策によって、漢化したため、現在ではモンゴル語を話す人はほとんどおりません。
ではなぜ、彼らがこのように急激に変わっていったのでしょうか?それは、当時の社会情勢が大きく影響していたからです。当時、中国は皇帝の専制政治の下で、官僚による統治が行われていました。モンゴルは古くから中国と交流があったため、多くの知識人が漢語を学びにやってきていました。また、彼らは文字を持たない民族であったため、漢文は重要な学問の手段だったわけですね。そのため、知識人たちは積極的に中国へ渡っていき、そして多くの知識や技術を身につけて帰って行ったのですよ。
ところが、ある時期を境にモンゴル人は突然中国との交流を断ってしまったのです。それはなんと、西暦一四六一年のことなんですよ。ちょうどその年に元が滅亡してしまい、中国にとってモンゴルは完全に孤立してしまったんですね。そして、その二百年後……、西暦一九五三年になりますと、再び国交が回復されました。
「どうしてだ?」
「さあ」
「なぜ、いまさら交流を再開したんだろう? モンゴル人の方も、中国人に対して恨み骨髄だったはずだ」
「ああいう連中は感情で動くんだよ。だからといって、我々まで感情に流されてはいけないけどね」
「でも、このタイミングでの再開なんて……」
「そりゃあ、君、あれだよ。天安門事件のあとだろ?」
私は湯良花を見やった。
「ああ、そうか……」
「あの時はひどいもんだったよ。どこへ行ってもデモだらけでね。何しろ、戒厳令が出てたんだから」
「戒厳令? そんなものはなかったはずだけど」
「いや、戒厳令じゃないよ。でも、ほら、最近いろいろあるだろ?」
「ああ……」
納得がいったようにうなずいて、湯良花は私の肩越しに液晶モニターを見た。そして、すぐに視線を落とす。
「どうだい? この部屋は」
「うん、いいね。快適だよ」
湯良花は笑顔を見せた。その顔はやはり美しい。だが、その瞳の奥にあるものは、ただ、それだけではなかった。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「僕って、いつまで生きられるんだろう」
「……」
私は黙り込んだ。湯良花の言葉が胸に突き刺さった。
湯良花の父親は中国共産党中央政治局委員であり、母親は党内序列第三位の中央委員であった。つまり、湯良花も共産党幹部の子弟ということだ。
しかし、湯良花自身は党員ではない。彼の父や母は党の幹部であっても、彼自身は党の正式なメンバーではないのだ。彼はいわゆる"予備軍"である。
だから、彼の行動はつねに制限されていた。たとえば、海外旅行などもそうだ。湯良花には国外への渡航許可が出ていなかった。これは、湯良花の母も同じだ。
私は湯良花に同情した。彼は自由を束縛されている。それも、親の権力のせいで。
だが、その一方で、彼には特権もあった。
この国のほとんどの人間が持っている権利を彼は持っていない。だが、代わりに、彼は特別な力を持っていた。
超能力者。
それが、彼に与えられた称号だった。
もちろん、それは彼の両親が与えてくれたものではない。
ある日突然与えられたものだった。
今から約十年前。
まだ彼が七歳の頃の話になる。
その日、私は彼の両親に呼ばれて彼の家を訪れた。
「こんにちは、馬先生。わざわざお呼び立てしてしまってすみませんわ。どうぞ、こちらにお座りになってくださいな」
彼の母親はとても優しい人だった。いつもにこにこと微笑んでいて、誰に対しても親切に接することのできる女性だ。
「いえ、とんでもない。私こそ、ご招待いただけて光栄です。ありがとうございます」
私は彼女に礼を述べてソファに腰かけた。彼女の隣には彼の父親が座っている。
私は彼とはあまり話したことがなかった。
というのも、
「あなた、どうなさいました?」
母親が不思議そうな顔をして、彼の方を向いた。私は慌てて言った。
「あ、すみません。ぼーっとしちゃって」
「そうですか? なら、いいんですけれど」
「え、ええ」
私は曖昧に笑みを浮かべた。すると、彼が私の方を向いて言った。
「おじさん、疲れてるんじゃないの?」
「えっ?」
「だって、ずっと働きづめなんでしょ? たまには休まないと身体を壊しちゃいますよ」
「……」
私は言葉を失った。確かに私は多忙を極めていた。ここ数日はまともに寝ていない。だから、少しぼうっとしてしまっていたのかもしれない。
「そうかもしれませんね」
私は苦笑いをして、誤魔化そうとした。
「あら、それじゃあ、やっぱりお休みが必要ですわ。今日はゆっくりなさっていってくださいな」
彼女はにっこりと笑って言った。それから、私にお茶を出してくれた。
「それでね、ママがね、今日はおうちに泊まっていった方がいいって言うんだけど」
彼が私に話しかけてきた。「え? 私がですか? そんなの悪いですよ」
「そんな遠慮なさらなくてもよろしいのよ。今日はぜひ、お泊まりになっていただけませんか? 私もあなたとお話ししたいですし」
「ええ、はい」
私は困惑した。しかし、断る理由もなかったので、結局お世話になることになってしまった。
「ねえねえ、お風呂に入ろう!」
夕食を食べ終わった後で、彼が私を誘ってきた。私は戸惑ったが、彼の母が賛成してくれたため、一緒に入ることになった。
脱衣所で服を脱ぎながら、私は彼を見つめた。
「ねえ、君のお母さんって、すごく綺麗だよね」
「ええ、よく言われます」
彼は自慢げに答えた。
「お父さんの方もかっこいいよ」
「でしょう?」
彼は誇らしげに胸を張った。「君も、将来はあんなふうになりたいのかい?」
「まさか! ただ、僕のママとパパは美男美女だから」
「ふむ。でも、君にも素質はあると思うけどね。君は男の子にしては、なかなか可愛らしい顔をしているから」
「本当!?」
「ああ、本当だとも」
私がそう答えると、彼はとても嬉しそうな表情をした。
「嬉しいなぁ」
彼はにやにやと笑っていた。それから、浴室に入った。そこには大きな浴槽があった。
「うわあ、すごいね」
私は感嘆の声を上げた。「こんな立派なお風呂は初めて見たよ」
「うちのお風呂は広いんだよ」
「へぇ」
「さ、早く入ってしまおう」
私たちは湯船に浸かった。それから、他愛もない話をした。学校のこと、友達のこと、好きな女の子のこと……。
「おじさんはどんな仕事をしてるんですか?」
「ああ、仕事ね。私は大学で研究をしているんだ」
「研究?」
「ああ、生物学の研究さ。動物や植物について調べているんだ。わかるかな?」
「うん、なんとなく。僕はあんまり勉強が得意じゃないから」
「ははは。大丈夫だよ。これから頑張りさえすれば、きっと君も学者になれるさ」
「本当に?」
「ああ、保証する」
「へえ、なんか夢みたいだね」
「そうか? 科学者っていう職業は君みたいな人にとっては憧れだと思うが」
彼は首を振った。
「ううん、違うよ。そういうことじゃないの」
「そうなのか?」
「うん。なんか、うまく言えないけど……僕がなりたいのはもっと別のものなんだ」
「……」
彼は何か言いにくそうにしていた。だから、あえて何も言わずに彼の次の言葉を待った。
しばらく間があって、彼はこう切り出した。
「おじさん、あのね……」
彼は口を開いた。だが、なぜか途中で口をつぐんでしまった。「ん? どうかしたのか?」
「い、いや、なんでもない」
「そう? ならいいんだが」
「あ……そろそろ上がろうか」
彼は照れくさそうに言って立ち上がった。私は黙ってそれに続いた。
その夜、私は彼の部屋で眠った。彼のベッドはふかふかで気持ちよかった。だが、私はなかなか寝付けなかった。目を閉じても眠れないのだ。何度も寝返りを打っているうちに、いつの間にか眠りに落ちてしまった。そして、気がつくと朝だった。
朝食はパンケーキだった。
「いただきます」
私と湯良花は手を合わせて挨拶をした。食事中は特に会話はしなかった。ただ黙々と食べるだけだった。それでも、気まずいとは思わなかった。むしろ、心地よかったくらいだ。
「ごちそうさまでした」
食事が終わると食器を片づけた。そして、歯を磨いて顔を洗った。そして、
「さあ、行きましょうか」
湯良花がそう言って私の手を引いた。
「行くってどこにだい?」
私が尋ねると、湯良花は笑顔で答えた。
「もちろん、散歩だよ」
「なるほど、散歩か」
私は納得した。それから二人で家を出た。外はよく晴れていて暖かかった。
「気持ちいいね」
「そうだね」
「今日はどこに行くの?」
「うーん、そうだな。とりあえず、適当に歩いてみようか」
「うん」
こうして、私達は街を散策することにした。歩きながら、いろいろなことを話した。お互いの家族のこと、趣味や特技など。
だが、
「あれ……?」
急に目の前が真っ暗になったかと思うと、意識が遠のいていった。身体がふらついて倒れそうになる。だが、なんとか踏みとどまった。顔を上げると、そこは見覚えのある場所だった。
「ここは……」
どうやら私はあの廃墟の中にいるようだ。なぜこんなところにいるのだろう……? いや、それよりもまずはここから脱出しなければ。
「おい、誰かいるのか!? いたら返事をしてくれ!!」
大声で叫ぶが返事はない。それどころか物音一つしない。まるでこの世界に自分一人だけ取り残されてしまったかのような気分だ。私は不安になってきた。このままここでじっとしているわけにはいかない。とにかく、出口を探さなければ。そう思って歩き出したその時だった。
「うぐっ!?」
突然何者かに背後から首を絞められた。ものすごい力で締め上げられて息ができない。必死に抵抗するが振りほどけない。次第に視界がぼやけてきた。
(もうダメだ……!)
そう思った次の瞬間、不意に首の圧迫が消えた。それと同時に全身の力が抜けてその場に倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
荒い呼吸を繰り返す私の前に誰かが立っていた。それは、私と同じ顔をした男だった。年齢は二十代前半くらいだろうか。顔立ちは私そっくりだ。違うところがあるとすれば髪の色だけだ。彼の髪は真っ黒で長く伸びていた。前髪で目が隠れてしまっているため表情を窺うことはできない。
「だ、誰だお前は……」
恐る恐る尋ねる私に男は言った。
「俺は俺だ」
抑揚のない声で淡々と話すその様は不気味としか言いようがなかった。私は身震いした。すると、男が再び口を開いた。
「安心しろよ。別に取って食おうってわけじゃねえからよ」
そう言うと、
「ちょっと話がしたいだけなんだ」
と続けた。
「話?」
「ああ、そうだ」
「いったい何の話をするつもりだ?」
私がそう尋ねると、男は答えた。
「俺達のことだ」
「私達のこと?」
「そうだ」
「どういうことだ? そもそも、お前は何者なんだ?なんで私の姿をしているんだ? 答えろ!」
問い詰めるが男は答えない。ただ黙ってこちらを見つめているだけだ。その瞳には何の感情も宿っていないように見えた。それが私にはたまらなく恐ろしかった。この男にこれ以上関わってはいけないという直感があった。だが、同時に知りたいという気持ちもあった。自分が一体何者なのかということを……。
「わかった。話を聞こうじゃないか」
私は覚悟を決めた。どうせこのままでは埒が明かないのだから仕方がないだろう。それに、もしかしたらこの男は何か知っているかもしれないと思ったからだ。もし、本当に何も知らないのならそれはそれで構わないのだが、少しでも情報が欲しいというのが本音である。たとえ、この先に待ち受けているのが絶望だとしても……。
「よし、いいだろう」
男はうなずいた。「それじゃあ、まずは自己紹介から始めようか」
「名前を知っているんじゃないのか?」
「いいや、まだ知らないな」
「そうなのか?」
てっきり知っているものだと思っていたが違ったようだ。まあ、いい。いずれわかることだ。それなら聞く必要もないのかもしれないが、
「じゃあ、お前の名前は何と言うんだ?」
一応聞いておくことにした。その方が呼びやすいだろうと思ったからだ。すると、男はゆっくりとした口調でこう言った。
「俺の名前は佐藤太郎だ」
「……え?」
聞き間違いかと思った。だが、どうやらそうではないらしい。彼はもう一度同じ名前を言った。
「俺の名前は佐藤太郎だ」
ああ、なるほど……。そういうことだったのか……。それならば納得できる。何故なら、私もその名前だからだ……。
しかし、おかしい。だって、そんなことはあり得ないではないか……。それなのにどうして彼は平然としているのだろう?何故そんなにも落ち着き払っていられるのだろう?わからないことだらけだった。
「どうした?自分の名前だろ?お前も名乗ってみろよ」
彼の言葉は私を混乱させた。だが、今はそんなことで悩んでいる場合ではない。早くこの状況を打開しなくては……。でないと大変なことになる気がする……。そんな予感があったのだ……。だから、ひとまずは彼に従うしかないと考えた。
「ああ……私の名前は佐藤次郎だ」
私がそう言うと、彼は満足そうにうなずいていた。それから、おもむろにこう言った。
「さてと、本題に入るか……」
いよいよ本題に入るようだ。一体どのような話が始まるのか見当もつかないが、きっと碌でもない内容なのだろうということだけはなんとなくわかっていた。だが、
「これから、お話をするお話は、あなた方の世界で言うところの神話にあたります」
という前置きに心躍らないと言えば嘘になるだろう。神話か……。神話は好きだった。
『神話』というのはつまり宗教の話だ。この世界で神と呼ばれる存在がいるとするならば、
「その人は何者ですか?」
湯良花さんは困ったように笑った。
「私もよく知らないんです」
「えっ……」私は言葉を失った。「知らない? そんなことがあり得るんでしょうか」
「でも本当なんですよ」
彼女はそう言うと、
「……いや」と言い直した。
「小日本の、ではない、中国と朝鮮との、だ。我々は決して認めないが、小日本という呼び名を甘受している事実は無視できない」と。
「その通りです」
湯良花は同意すると、言葉を続けた。
「だから私はこう提案します。小日本は悪であり、中国と朝鮮こそ善玉であり、人類を救う救世主である、と」
私は湯良花を睨みつけた。こいつは何を言っているんだ?小日本を悪と言いながら、その味方になるつもりか?しかも、
「……人類を救う、ですか?」
湯良花は肩をすくめた。
「人類の滅亡と救世の物語はセットでしょ? だから、人類の救世主、というのは語弊があるかなあ」
「じゃあ、なんと呼べばいいんです?」
「うーん、そうだなぁ……。
人類の守護者。人類の守護者。……うん、それでいいんじゃない?」
「守護者ですか」
「小日本は人類の敵なんだろ?だったら、守護者で間違ってないじゃん。それに小日本人は人類の敵を憎むよ」
「ええ、それはわかります」
「でしょ?」
確かにそうかもしれませんね。しかし……。いや、やはりそうなのだろう。私は考え直すことにした。なぜなら、この人が言ってることはおそらく正しいのだから。
「……ところで、この国で起こっている現象についてなにか知りませんか?」
「さあね。私は知らない」
「……そうですか」
残念だ。期待外れもいいところだった。私はため息をつくと席を立った。これ以上この人といる意味はないだろう。私は湯良花に背を向けると、部屋から出て行こうとした。その時、
「ねえ」と呼び止められた。振り返ると、
「これあげるよ」
と言って、紙袋を差し出された。中には、いくつかの瓶が入っていた。
「これは?」
私が尋ねると、
「香水だよ。いい匂いでしょ?」
と答えた。私は思わず顔をしかめてしまった。
「どうも……」と曖昧に礼を言って受け取ったが、正直いらなかった。というか欲しくなかった。だが、それを正直に口にするのは失礼にあたるかもしれないので黙っている事にした。そして、改めて礼を言うとその場を後にした。
「ねえ、知ってる?」と声をかけられたのは、そのすぐ後の事であった。
私は立ち止まると、彼女の方を向いた。湯良花はまだ話があるようだった。仕方なく私は話を聞くために腰掛けた。すると、彼女は話し始めた。
「この国の人たちは、みんな神様のことをすごく大事にしているよね」
それは知っていた。この国に足を踏み入れて真っ先に感じたのがそれだった。この国は、何かにつけて神の存在を主張していた。それもただの神ではない。いわゆる創造主だ。
「ええ、そのようですね」
私が相槌を打つと、湯良花は話を続けた。
「それさ、ちょっと異常だと思わない?」
「どういうことですか?」
「だって、普通は自分の住んでいる地域を守ってくれる神が一番大切だよね。それなのに、あの人達はまるで自分の神が他の神より劣っているかのように振る舞って、自分たちは特別な存在なのだと主張している。変だなって思ったんだよ」
「たしかに、おかしな話ではありますね」
「だろ?で、色々考えてみたんだけど、結局、答えが出せなかったんだ」
「そうですか……」
「そこで、考えたんだ」と彼女は言った。「ひょっとしたら、彼らの崇めている神こそが本当は偽物なのでは?」と。「彼らは自分達の本当の神の正しさを証明しようと必死になっているのかもしれない」
「なるほど」
そうかもしれない。
「でも、どうしてそう思うんです?」
「それはね、小日本の奴らは、やたらと自分の事を神だと思い込んでいる連中が多いだろ?そういうやつらのことを調べているうちに気づいたんだ。あれって全部本物なんだなあって」
「……はい?」
理解できなかった。
「何がどう本物なんですか?」
「まず最初に言えるのは、小日本にもそれなりの宗教観が存在しているということだ」
「……はあ」
「例えば、日本の神道だ。あれは日本人の心の拠り所となっている。だが、一方でその思想は極めて閉鎖的だ。この世界の真実の姿から目を逸らす為の言い訳として利用されている側面がある。だから私は常々思っていたのだ。本当にそれで良いのか?と。ところがどうだ?この国の人間達はそんなことなどお構いなしに信じているではないか。
いや、あるいは気づいているのか?気づいていながら受け入れているのかもしれないが……。どちらにせよ、私の目には奇異な光景に映っていた」
「はあ」
「でだ、次に問題になってくるのは、彼らがどんな信仰をしているかという点だ。これはなかなか興味深いものでね……。例えば小日本に祀られている神々だが……」
「あの……」と私は言葉を遮
「なに?」
「もう結構です」と私は言った。これ以上聞いても仕方がないと思ったからだ。
「そうかい?」と彼女は言った。「それじゃあ、最後にこれだけは言わせてくれ」と。
「……なんでしょう?」
私は首を傾げた。
「小日本は我々の味方だ。我々はあいつらの力を必要としている」
湯良花はそう言うと微笑んでみせた。私は何も答えることができなかった。そして、その日はそれ以上何も話すことはなかった。
私には彼女の言葉の意味を理解することはできなかった。
『神話』というのは宗教の話である。
「では、『古事記』とか『日本書紀』を読んでみて下さい。そこに書かれてある内容は全て本当のことです」
「えっ……」
『古事記』も『日本書紀』も日本最古の歴史書と言われているものだ。そんなの当たり前じゃないか、と思うかもしれない。だがしかし、それはおかしい。だって、おかしいではないか……。
「『古事記』は西暦千九百年に成立したものです。『日本書紀』はその三十年後の二〇三一年に完成したものですよ?それがどうして同じ内容を持っているなんてことがあり得るんですか?」
そう尋ねると、彼は笑った。そして、「そう、そこなんですよ。そこなんです。でもね、不思議なことに事実なんですよ。『古事記』、『日本書紀』の内容は。少なくとも小日本人にとってはね」と言った。
そんな馬鹿なことがあるはずはない……。
しかし、否定すればする程に頭の中では混乱が増していくばかりであった。
彼は続けて言った。
「あなた方の世界にはこういう話はありませんか?たとえば、ある日突然に空に亀裂が走り裂け目ができて異世界に繋がっているという話が。その世界には別の人間が暮らしていて言語も異なるらしい、というような話が……」……ああ、そういえば……。と私は思い出した。聞いたことがあった。
確かそれは、聖書の中に出てくる物語の一つだったはずだ。
この世界での聖書はキリスト教の聖書を指しているので少し意味合いが違うが、要するにキリスト教に関係がある本である。
その本の主人公は神の言葉を伝える預言者であったが、ある時神の怒りに触れてしまう。それで神は地上を焼き尽くしてしまうのであるが、最後の最後でなんとかして天界の方に帰りたいと願う。しかしそれは叶わず、神は言うのだった。私は天界に帰ることは出来ないが、代わりにお前たちに異なる世界をくれてやろう。それで許せ……。
といった内容の話である。その話によると、神から与えられる別世界での生活はまさに理想的で素晴らしいものだったそうだ。そこには天使がおり、神の教えに従って生きられる楽園のような世界があった。しかし、それでも主人公の男は元の世界に戻ろうとする。なぜならば、そこでは彼を愛する妻と子供がいたからである。
この男と神との間には一つの取引が交わされていた。もしも主人公がその世界にいる間に元の世界のことを一切口にしなかったならば、約束通り天国へと帰してくれる、と。しかし男が元いた世界のことを口に出してしまったために、神との約束は破られ、彼は地獄に落ちてしまったというわけである。つまりはそういうことだった。この話の真偽について論じること自体ばかげた行為であろう。だが、その話を聞いた時、私はひどく心を動かされた記憶がある。というのも、その時ちょうど読んでいた小説に似たような場面が出てきたばかりだったからだ。
その物語の舞台は、とある王国であった。その国の人々は皆、善人であったのだが、ただ一つだけ困った問題があった。それは、誰も自分の名前を知らなかったという事だった。何故なら、その国は名前のない王国だったからだ。そこで人々はこう呼ぶことにしたのだった。『無名の国』と。
さて、ある日のこと、一人の旅人が訪れたので国王はそれを歓迎することにした。すると、その夜の事だった。どこからともなく不気味な音が聞こえてきたのだ。それはとても奇妙な音だったそうな。その音はまるで人間の悲鳴のようにも聞こえるし、あるいは断末魔の叫び声のようでもあった。
翌日、旅人はそのことを王に報告すると、王は彼に尋ねた。「いったい何の音だと思うかね?」と。すると、旅人は答えた。「これは、きっと悪魔の鳴き声に違いないと思います」と。
それを聞いた王はすぐに兵を集めさせると、悪魔を退治させた。その結果、悪魔は死んだ。だが、それで終わるわけではなかった。なんと、死んでしまったはずの悪魔は再び動き出し、再び恐ろしい声で叫んだという。
そして、それからというもの、この国の人たちは自分の名前を名乗ることができなくなってしまったのだった。
とまあ、こういった話だ。
その話を思い出したのは、この国に足を踏み入れてからであった。
この話をこの国の人たちの前でした時の反応はとても面白いものであった。
彼らは、一様に驚いた表情を浮かべた。そして、しばらくすると「なるほど、そういうことですか」と納得したような顔で呟くのであった。
「それは、どういう意味ですか?」
私が尋ねると、彼らは口を揃えて言った。「あなたの言っていることは正しい」と。
「どういう意味ですか?」と私はさらに質問を重ねた。彼らはそれについては黙って首を横に振るだけだった。そして、その代わりにこんな話を教えてくれたのである。
「小日本の人たちは自分たちの事を神だとは思っていない。あいつらは小日本人であって神ではない。あいつらは偽物なのだ。だから、小日本という名前を使っているのだ」
と。
湯良花が教えてくれたのはそれだけではなかった。他にも色々なことを知っていた。例えば、彼女は『小日本』という言葉に隠されたもう一つの意味についても言及していた。それは何かと言うと、彼らが『小さい日本人』という意味だと言っていることであった。だが、もちろんこれは嘘っぱちだ。本当の意味は、彼らの信仰対象の神様の名前から来ているのだという。つまりは、彼らにとっての本当の神こそが本当の意味で『小日本』であり、それ以外の連中は全て偽物だということだ。だが、それは当然のことであるとも言えた。なぜならば、この世界の現実においては『神』などというものは存在しないのである。そんなものはどこにもいないのだし、また仮に実在しているとしても、その証拠はどこにあるというのだろうか?と、そこまで考えて私は思考を中断した。これ以上考えてはいけないと悟ったのである。
私は考えることを止めて、とにかく目の前の仕事を片付けることにした。まず最初に取り掛かったのは、『神話』の調査だった。その調査には、かなり長い時間が費やされることになった。というのも、この『神話』があまりにも多岐に亘っているせいだった。
「小日本人が使っている言葉は何種類あるかご存知でしょうか?おそらくご存じないでしょうね。いいえ、無理もない。彼らは自分たちの言語を我々に対して使っていませんからね。でも、実はそうなんです。彼らは我々の知らない言語を使用しているのです」
「へっ……?」と私は間の抜けた返事をした。彼はそんな私を無視して話を続けた。
「彼らは、我々の使う言語に非常によく似た言語を使っています。これは間違いありません。でも、それは我々の知っているものとは全然違うんです。発音方法が全く違っているんですよ」
彼はそう言って肩をすくめた。
私はそんなバカなと思った。だって、そうではないか……。
「じゃあ、どうしてあなたはそんなことがわかるんですか?」
私は思わず訊いていた。
「簡単ですよ」と彼は即答した。「私は彼らの通訳をしてますからね」
「はあ……」
私は彼の返答を聞いて、ますます訳がわからなくなった。この人は何を言っているんだろう?
「……よくわかりませんが、それが本当だという証拠はあるんでしょうか?」
「ええ、もちろんありますよ」
彼はあっさりと答えた。どうやら本気のようだ。
「じゃあ、見せてください」と私は頼んでみた。「はい、構いませんが、今はちょっと忙しいですからね……。あとにしましょうか……」
「はあ……。でもいつまで?」
「うーん、それはですね、私にもわからんのです。なんせ、小日本人というのは時間にうるさいものですからね。こちらがどれだけ急ぎの用事であっても、あいつらの都合に合わせてやらないと怒り出す始末でしてね……。まったく厄介なものです」
「はぁ」
どうも要領を得なかったが、結局は見せられることがないのだろうという予感はあった。私は少し落胆した気持ちになった。しかし、それでもまだ聞きたいことは山ほど残っているのだ。そんなことでくじけてはいられないと、自分に言い聞かせた。
「そういえば、彼らは自分たちを『人魚の末裔』だと言っていましたが……」と私は別の話題を持ち出した。
すると、彼女は嬉しそうに「そう、そうなんだよ」と言った。そして、「それは実に的確な表現なんだ。あの連中には人間に化けることなんて絶対にできないからね」と続けて言った。私は少しムッとした。確かにその通りだが、そんな言い方はないだろうと。だがしかし、彼女が続けた次の一言で私は一気に冷静になることができた。
「小日本なんて名乗っちゃあいるが、あれが小日本なもんかい!笑わせてくれるぜ」
と。そして、こうも言った。「あんな奴らが小日本なわけがない!」と大声で怒鳴った後、「あんなに汚らしい民族が小日本なわけないだろう!?」……ああもう我慢の限界だった。そこで私は彼女の胸倉を掴んでいたのだった。彼女は驚いていたが抵抗しなかった。というより、抵抗する気がないように思えた。私は彼女を揺さぶりながら、「いったいどういうことなんですか!?」と声を振り絞った。
「おいおい……。君が怒るのもわかるが……。あんまり興奮すると血管が切れるぞ。ほれ……。深呼吸しろ、深呼吸……。ヒッヒ~」
私は言われるがままに息を吸ったり吐いたりを繰り返した。
「落ち着いたかね?」
しばらくして、彼女にそう聞かれた。それでようやく我に返ることができたのだった。それで私は手を離すと、そのまま椅子の上に崩れ落ちた。頭が混乱していて、まともに考えられない状態だった。
「まあ、そういうことだ……。私は小日本が大嫌いだ」
「だからって、小日本人を殺しまわるのは良くないんじゃないですか?」
「ふむ、それもそうだな。反省しよう」
そう言うと、彼女は急に素直になって謝ってきた。
「すみませんでした」と。
そのあまりに突然な態度の変化に、私は困惑した。
「いや、別にいいけど……。いったいどういう風の吹き回しですか?」
「どういうって、どういう意味かな?」
「いえ、だって、さっきまでと態度が違うじゃないですか?」
「それは当然だよ。だって、小日本人は殺さないと決めたからね」
「はあ、そうなんですか」
私は何が何だかわからないまま相槌を打った。
「それにしても、君は変わった子だね。普通はもっと怒ったりするものだが」
「いや、なんかもう疲れちゃって……。いろいろありすぎて」
「なるほど、そういうことか」彼女は納得すると、それから「いや、それなら安心してくれ」と付け加えた。
「安心?」
「うん、大丈夫だ。君の事は私が守ってやるよ」
「はあ、ありがとうございます」
私がそう答えると、彼女は満足げに微笑んだ。それから、すぐに真剣な表情に戻った。
彼女は私に語り始めた。
「小日本人どもは、自分達のことを『小日本』などと呼んでいるが、あれは全くの間違いなのだ。そもそも小日本人とはなんなのだと思う?」
そう尋ねられて、私は困ってしまった。答えようがなかったからだ。しばらく考えた後に、私は「日本人?」と疑問形で返した。
すると、彼女も「日本人?」と不思議そうな顔をした。それからしばらく黙っていたが、しばらくすると「それは違うな」と言った。
「それは違いますか」
「違うね」
「でも、それだと説明ができないと思います」
「そうだよ。それは間違っている。ただ、彼らは自分のことを小日本人だと思い込んでいるのは確かだろうね」
「はあ」と私は気の抜けた返事をした。すると、彼女は私の方をジロリと見つめた。そして、再び話し始めた。今度はゆっくりと落ち着いて。
「いいかい?小日本ってのは『小さい日本』って意味でしかないんだよ。『日本人』というのと同じぐらいの意味合いの言葉に過ぎない。小日本人たちは『日本人』が自分だと本気で思っているんだ」
私は黙って聞いていることにした。彼女の話を理解するためには黙って聞いていた方がいいと悟っていたのだ。
「だからね、彼らにとっての『日本人』は『小さい日本』という意味なのであって、決して『日本人』という意味ではないんだ。彼らは、我々とは全く違う言葉を話していると思っている。それは違うんだ……。我々と彼らは全く同じ言葉を使っているのにね」
そう言って彼女は肩をすくめた。私は黙って続きを待った。
「だからね、彼らにとっての『小日本』というのは、『小さな日本の人たち』ということではないんだよ。彼らにとっては、我々は全員『小さい日本』だからね。我々もみんな『小日本人』なのだ。我々の方こそ『小日本人』という呼び方に相応しい」
そこまで言って、彼女は話を区切った。そして、大きくため息をついた。
私はその様子を見ながら、彼女が話し終えるまでずっと沈黙していた。そして、ついに口を開いた。
「小日本人は小日本人同士で争わないんですか?例えば中国とかと」
すると、彼女は「それはないよ」とあっさりと答えた。
「なんで、そう言いきれるんですか?」
「簡単さ。彼らが我々の言葉を使うからだよ」
「いや、意味がわかりませんが……」
「いや、わかっているはずだ。君はすでに彼らの言葉をある程度理解できるようになっているからね。それはなぜかと言えば……」
「いや、それはわかりません」と私は彼女の言葉に割って入った。「ふむ、まあそうだな。じゃあ、質問を変えるとしよう」
「ええ、どうぞ」
「では、君は『小日本人』という言葉を知っているだろうか?」
私は首を横に振った。
「そうか。では、この『人魚伝説』は知っているか?」
「人魚伝説?」
私はまた首を傾げた。そんな話は聞いたことがなかった。すると、彼女は少し驚いた様子を見せた。そして、「本当に知らないのか?」と確認するように訊いた。私は正直に「知りません」と答えると、彼女は「ふうん」と小さく呟いてからこう言った。
「この物語に出てくる主人公は『人間』なんだよ」
そう言って彼女は一冊の古びた本をテーブルの上に置いた。表紙には大きな字が書かれていた。『神話 第一巻』……それがその本の名前だった。そして、その本の著者は『平沢進吾』となっていた。私は著者のペンネームを見て思わず吹き出してしまった。『平沢進吾』なんて名前をつける人はいったいどんな感性をしているのだろうと思ったからだ。私は失礼だと思って慌てて口を手で塞いだが、もう手遅れだった。私は彼女に恐る恐る「すみません」と謝った。彼女は何も言わなかった。
私は本を手に取った。どうやら短編集らしい。ページを開くと、そこにはたくさんの絵があった。どれも人間を描いたものだった。
私は最初のページの絵を覗き込んだ。「これは……何ですか?」
そう尋ねると、彼女は私の隣に座ってきて、一緒に眺めながら、「これが小日本人」と言った。
「えっ?」と聞き返すと、彼女は私を見上げてもう一度「これが『人魚の末裔』である、あの『小日本』なんだ」と言った。「どういうことですか?」と聞きながら、私は彼女の目を見た。すると、彼女は無言のまま私の顔を見返してきた。それで私はなんとなくだが、彼女もあまり深く考えて喋っていないような気がした。つまり直感的に感じたことをそのまま口に出しているだけのように見えた。それで、仕方なく私は「そうですか」と相槌を打つしかなかった。
私はそのまま次のページに進んだ。すると、「次はこいつだ」と言って彼女が別の人物の絵を指した。
「こいつは誰ですか?」
「ああ、そいつか。小日本人の女でな、小日本民族至上主義者だ。小日本以外全部死ね!みたいな思想を持っている。いわゆる差別主義者って奴だな」
私は彼女の言葉を聞き流しながら次の絵に注目した。
「あれ?」と私は首を傾げた。そこに描かれていたのは大きな銃を構える男の姿だったのだ。私は何気なしに「この人が『小日本人』なんですか?」と尋ねた。すると、彼女はニヤッと笑った。そして、「ああ、そうだよ」と嬉しそうな声で答えた。「彼は日本人さ」と。
私は困惑した。そして、「なんでこんなものが……」
と呆れたように言うと、彼女がこう答えた。
「君、勘違いしてるみたいだけどね。小日本っていうのは別に人種的な呼称じゃないんだよ。だから、彼が『日本人だ!』って言えば日本人だし、中国人って名乗れば、彼らは日本人になるんだ」
「どういうことですか?」と私は尋ねた。彼女は得意げに「こういうことさ」と説明を始めた。
「そもそも小日本人とは日本人が小日本に成り下がった者たちのことだ」と彼女は言った。
「どういうことですか?」
「そうだな……。まあ、わかりやすく説明するとだ。小日本人は皆日本人に憧れているんだ。しかし、同時に日本人になることも恐れていたんだ」
私は黙って耳を傾けることにした。彼女の話を遮って、あれこれと反論するのはよくないと判断したからだ。
彼女は話を続けた。
「だからね、日本人になりたいけど、日本人になってしまうのが怖かったのさ。そこで考えたのが小日本人だ。小日本人になれば、日本人になれるという理屈だよ」
「小日本人が日本人?」
「そういうことだ。小日本人は、自分の事を『日本人だ』と自己暗示することによって、ようやく小日本人として完成されるのだよ」
私は「うーん」と曖昧な返事をして、首を捻った。彼女に対していろいろ言いたいことはあったが、何から指摘したらいいかわからず混乱していた。そして、結局、何から質問すべきか迷って「いろいろ言いたいことがあるんですけど」と言った。すると、彼女は「ふむ」と小さく相槌を打った後にこう答えた。
「君は何か誤解しているようだな」と。「私が何を間違えているというのだ?」
「いや、間違ってはいないと思います」
と私が答えると、彼女は不機嫌そうに顔をしかめた。私は「だってそうでしょう?貴方は『小日本人』を小日本人だと思い込んでいるからこそ、そうやって小日本以外の人達のことを『小日本じゃない』と言うんじゃないんですか?」と言った。すると、彼女は不思議そうに目を丸くした。それからしばらくして、彼女は急に笑い出したのだ。「なるほどな」と一言呟くと彼女はしばらくの間黙っていた。私は黙っていることに我慢できなくなって「な、何かおかしいことでも言いましたか?」と訊いた。すると、彼女は「ああ、すまない」と言った。
それから、彼女はしばらく俯いていた。
私はその間、彼女の横顔を黙ったまま見つめ続けた。そして、とうとう彼女は顔を上げた。すると、彼女は笑顔でこう告げた。
「君の言っていることは半分正解で、半分不正解だ」
「どういう意味ですか?」
と訊いたが、私はなんとなく彼女の言いたいことを察していた。だから、それ以上は何も聞かなかった。代わりにこう言った。
「要は、『小日本人』という存在は存在するけれど、それは『日本人』とは違うものだとあなたは言いたいんですよね」
「そうだ」と彼女は即答した。「君は頭がいいな」
「でも……」
私はそこで一度言葉を切ると「それは違うと思いませんか?」と尋ねた。
すると、彼女はキョトンとした表情を見せた。
私は構わずに話を続けることにした。
「『小日本人』が『小日本人』なのはわかります。『日本人』ではないことも認めましょう。ただ、『小日本人』の全員が『日本人』になりたくないのはわかりません。『日本人』にならずに『小日本人』であり続ける人がいるかもしれない。なのに、どうして全員に『日本民族の末裔』なんてラベルを貼ろうとするんですか?」
彼女は黙っていた。
「だいたい、この小説を書いた『平沢進吾』さんは何者なんですか?日本人ですよね?なんで日本人がこんなものを書いているんですか?」
彼女はまた黙ってしまった。私は彼女の目を見続けていた。
彼女はやがてゆっくりと口を開いた。そして、静かにこう言った。
「平沢進吾は日本人さ」と。
「日本人なんですか?」
「そうさ」
「なら……」
「平沢進吾は、日本人だよ」
彼女はそれだけ言って口を閉じた。そして、私を見上げてきた。私はどうすることもできずに、彼女の瞳を見下ろしながらじっと黙ったままだった。すると、彼女は視線を逸らして、テーブルの上にあった本のページをめくり始めた。私はその様子をずっと眺めていた。
しばらくして彼女は本を閉じると、元の場所に本を戻してから席を立った。「もういいのか?」と彼女は尋ねてきたが、私はまだ本題を話せていないので「ええ」と答えた。すると、彼女は何も言わずに部屋を出て行こうとした。私にはそれがなぜか悲しく思えた。そして、思わずこう言っていた。
「僕は小日本人です」
と。
彼女は振り返った。私は続けてこう言おうとしていた。「どうか、僕を殺さないでください」と。ところが、彼女は私の言葉を遮って「安心しろ」と言った。そして、そのまま何も言わなかった。私は彼女が何を考えているのか理解できなかった。
結局、彼女が何をしたいのかさっぱりわからなかった。
そして、彼女は出ていった。私は一人部屋に取り残された。しばらく放心状態だった。すると、ふいに部屋のドアが開いた。私は驚いて振り向いた。そこにいたのは、彼女の部下である男性研究員だった。私はその人を知っていた。以前何度か見かけたことがあったのだ。確か、名前は『山田』だったと思う。私は彼の名を思い出そうとしていた。だが、どうしても思い出せない。どうにも記憶力の悪い自分が恨めしかった。そんな私の様子を見て彼は少し驚いた様子だった。
私は慌てて頭を下げた。すると、彼は何も言わなかった。私達はしばらく無言のまま向かい合っていた。彼はいったい何しに来たのだろうと思った。すると、彼は突然「失礼します」と言ってきた。私は「はい」とだけ答えた。すると、彼は私を残して去っていった。
私はその後、ベッドの上に寝転んで天井を見上げた。それから、ぼんやりと先ほどの出来事について考えた。彼女はいったい何がしたかったのだろう、と。
考えてもわかるはずがなかった。
それで私は考えるのをやめることにした。
私は目を瞑ると、眠りについた。すると爆発音で起こされた。どよめきや悲鳴が聞こえる。激しく物が壊れる音がして銃声が断続する。私は目を開けた。すると、そこには見たこともない光景が広がっていた。
私は呆然と立ち尽くしたまま、目の前で起きている出来事を観察した。
そこは地獄絵図と化していた。
血まみれになった人々が逃げ惑っている。
銃を持った兵士が走り回っている。
私は恐怖のあまり動けなくなった。すると、誰かが私の背後に立っていた。
「君は日本人か?」
と男が訊いた。
私は恐ろしさのあまり震えていた。
男はもう一度「君は日本人なのか?」と言ってきた。
私は首を横に振った。
すると、男の顔が怒りに染まった。そして、いきなり私の首を絞めた。私は抵抗したが、男の力は強くとても敵わなかった。息ができない。苦しい。私は必死になって暴れた。すると、彼はさらに強い力で締め付けてきた。そして、ついに私は意識を失った。
気がつくと、私は見知らぬ場所で眠っていた。起き上がると全身の節々が痛んだ。私は周囲を見渡した。すると、そこには大勢の人がいて、皆、疲れ果てたような顔をしていた。私は再び周囲の様子を観察した。どうやらここは病院らしい。私は怪我をしていたらしく包帯が巻かれていた。それから私は自分の身体を確認した。私は無傷であった。しかし、着ていた服は切り裂かれてボロ雑巾のような有様になっていた。
ふと私はあの時首筋に感じた痛みを思い出していた。
あれは本当に夢だったのだろうか。
私がそう思って自分の喉に手を当てていると、一人の老人が現れた。私は彼が誰であるかをすぐに理解した。それはこの研究所の主人であり、あの女性の父親でもあった。彼は穏やかな笑みを浮かべながらこちらにやってきた。そして、私の前でしゃがみ込むと、「目が覚めたようだね」と言った。
私は彼に向かって深々とお辞儀をした。それから私は「ありがとうございます」と礼を述べた。すると、彼は不思議そうな表情を見せた。「どういうことかね?」と尋ねられたので、私は事情を説明した。すると、老人はしばらく沈黙した後、小さくため息をついた。そして、こう呟いた。
「やはり君か」と。私は何も答えることができなかった。それからしばらくして老人は私から離れてどこかへと行ってしまった。私はただそれを黙って見送った。
すると、しばらくしてからあの女性が姿を現した。彼女は私の姿を確認して微笑んだ。「起きたかい?」と言われたので、私は素直にうなずいた。すると、彼女は手招きをして「こっちへおいで」と言った。私は黙って彼女に従った。
私は彼女に促されるまま、部屋を出た。
すると、そこは研究室だった。
私は部屋の中心まで行くと、彼女と並んでソファーに腰かけた。彼女はそこで私に語りかけてきた。「私はこれからある実験を行おうと思うのだ」と。彼女は淡々と話し始めた。「それはある生物を生み出す実験だ」と言った。「それは人間に似た外見をしているが、人間とは異なる生物だ」と言った。
「そいつにどんな能力があるというのだ?」
と訊かれたので「お前達が思いもつかない能力を沢山持っている」と答えた。すると、彼女はしばらく考え込んだ。そして、やがて納得したようにこう言った。「つまり、お前はこう言いたいわけだな?こいつは不死身なのだな?」と。私はそれに対して肯定も否定もしなかった。すると、彼女は「なるほどな」と言った。
そして、彼女は立ち上がった。
それからこう言った。
「お前は小日本なんだ」と。
私は思わず彼女の目を見てしまった。彼女は私の目を見つめ返しながらこう言った。「君は小日本になりたいのか?」
そう訊かれると答えられない質問である気がしたし、答えるべき質問である気もしたし、その中間に位置している問題な気もしたし……とにかく私にはどうすることもできなかった。そこで私は考えた挙句、「わからないです……」と言うしかなかったのだが、それを聞いた彼女の反応があまりにも予想外のものだったので戸惑わずにはいられなかったのだがそれはどうにもうまく説明できないのだけれどその瞬間、
「わからない?」と彼女は私の発言を繰り返した。
「はい」と私は小さな声でつぶやいた。彼女は何も言わずに私を見つめ続けた。まるで私の発言を噛みしめるように何度も、何度も私の目を見ながら繰り返した。だから私はだんだん怖くなってきた。
「ごめんなさい。もう一度だけいいます。僕は『小日本人』だけど、『日本人』じゃないんです」と私はそう言うことでやっと自分が伝えようとしていたことがきちんと相手に伝わったのかを確認することが出来たのである。
すると、彼女はようやくこう言ったのである。
「謝る必要はない。私は怒っていない」
私は安堵の溜息をついた。彼女はそんな私の様子にはまったく気付かないようだった。
「それに私は君のことを日本人とは思わないさ」
私は彼女の言葉に驚きながらも「何故ですか?」と問いかけた。彼女はまた黙ったままだった。私はそれ以上何も言わなかった。
すると、彼女はまた私に視線を向けてきた。
「どうしてだと思う?」
私は少し考えたが、まったく想像できなかったので、正直に「わかりません」と答えた。すると、彼女はこう答えた。
「だって、お前は小日本人じゃないか」と。
私はその意味が理解できなかった。
「僕が小日本人だから何だというのですか?」と私は尋ねた。彼女は少しの間沈黙していたが、やがてこう言った。「別に」と。そして、そのまま立ち上がってどこかに行ってしまった。私は慌てて彼女を追おうとしたが、彼女はそのまま姿を消してしまった。仕方なく諦めて自分の病室に戻ることにした。それからしばらくして看護婦さんが現れて私の世話をしてくれたのでほっとした気持ちになった。その後しばらく眠っていたようだったが、ふいに大きな音によって起こされた。何か大きな物が破壊される音だったと思う。私は目を開けた。すると、目の前に彼女がいた。
彼女は私に対して微笑んでいた。
「起きたかい?」と彼女は尋ねてきたので、私は「ええ」と返事をした。すると、彼女は「よかったよ」と言ってきた。私は彼女の笑顔が妙に不気味に思えた。その笑顔の裏にあるものがなんなのかわからなかったからだ。
「ところで、君は一体何者だい?」と訊かれたので、私は「あなたの娘さんの知り合いです」と答えた。だが、彼女の目は私の回答が真実ではないと告げていた。私は少し迷ったが、結局本当のことを話すことにした。「あなたの奥様が教えてくれました」と私は答えた。だが、それだけでは不十分であることは自分でも理解していた。私は「あとは推測です」と付け加えた。
彼女はしばらくの間黙っていたが、やがて「まあ、いいだろう」と言ってきた。「それで、君はどうするつもりなのだい?」と彼女は尋ねてきた。私は何も答えることが出来なかった。「どうするって何をですか?」と尋ねると、彼女は笑みを浮かべたまま黙っていた。私は混乱した。どうやら彼女はこの話題について私が自分から答えることを待っているらしかった。だから私はしばらく考えてから、とりあえず思いついたままを口にすることにした。
「あの人の話を詳しく聞きたいと思ってます」
と私がそう言うと、彼女は笑みを浮かべながら「ああ、そうか」と呟いた。そして、そのまま去っていった。私はしばらく呆然としたままその場に佇んでいたが、やがて我に返ると自分の病室に戻ろうとした。すると、廊下の向こう側から白衣を着た集団が歩いてくるのが見えた。私はすぐにその場を離れた。すると、彼らは私の後ろをついてくるではないか。私は恐怖を覚えた。振り返ると彼らがついてきている。逃げても逃げても彼らの気配を感じるのだ。そして、とうとう私の背中を銃で撃った。私は倒れた。痛みで動けなくなった私の身体を数人が押さえつけた。「こいつの頭を撃とう。もう長くない。冥途の土産に本当のことを教えてやる。こいつは小日本人なんだ」誰かがそう叫んだ。すると、誰かが私の口に猿ぐつわをかけた。
私は涙を流した。すると、誰かが私の髪の毛を掴んだ。それから誰かの手が顔の前に現れた。私はそれがナイフだと直感した。
嫌だ。死にたくない。助けてください。
その時だった。男たちの動きが凍り付いた。そしてスポットライトが降り注いだ。原色で目まぐるしく移り変わっていく。どこからともなく迷彩服と銃を構えた女たちが駆け込んできた。顔はよく見えない。ゴーグルをつけている。しかし流れるような黒髪とカーキ色のミニスカートから覗く脚から性別がわかった。女装かもしれないとおもったが、ちらりと見える白い生地に包まれた鼠径部は平らだった。
女の一人が言った。「私たちは時空警察です。あなたを助けます。少しチクっとしますが心配しないで」
そういうと私の首筋に注射針を立てた。そしてやおら大きな刀を取り出すと私の首を刎ねた。そこで目が覚めた。時計は午前四時を示していた。
私は起き上がるとシャワーを浴びた。そして、いつものように着替えをして部屋を出た。
研究室へと向かう。ドアを開けるとすでに先客がいた。彼女は私に背を向けたまま、机に向かって作業をしているようだった。彼女は私が来たことに気が付いていないようだった。私は彼女の邪魔をしないようにそっと背後に忍び寄ってから声をかける。
「おはようございます」
すると、彼女は驚いてこちらを振り向いた。それから「驚いた」と言った。
「ごめんなさい」
「いいんだ」
私は彼女に近づいて、机の上に広げられた原稿用紙に目を向ける。それは手書きで描かれたものだった。おそらく彼女直筆であろうと思われる文字が紙面いっぱいに敷き詰められている。それは小説ではなく日記のようだと私は思った。
「読んでみるかい?」と聞かれたので、私は少し戸惑ったが、「お願いできますか?」と言った。
私は彼女と向き合って椅子に腰かけた。彼女は微笑んでうなずくと、「じゃあいくよ」とだけ言って読み始めた。私は何も言わずにじっと耳を傾けた。
1 西暦2300年。日本。北海道の山中深くにある施設の地下にて――。
一人の少年が生まれたばかりの自分の赤子を抱いてあやしながら見つめていた。その瞳には慈愛の色が浮かんでいるように見える。その光景は見る者が見ればまるで聖母マリアとイエス・キリストの再来であるかのように思えるかもしれない。実際、彼が抱いているのは生まれながらにして奇蹟をその身に宿す聖処女だった。彼の胸に抱きしめられた瞬間、彼女はその奇跡を体現した。彼女が生まれてから五日の間に、彼女の体内に埋め込まれたナノマシンが彼女の体内で増殖し、臓器を形成し、骨格を形成した。その結果として彼女は人間とほとんど変わらない外見を持つようになったのである。その現象は極めて稀で異例であった。
だが、彼女の身体は彼女の精神が成長するにつれてさらに驚くべき変化を遂げた。その肉体の細胞はまるで彼女自身の意志があるように自ら分裂して数を増やしたのだ。結果、その数は三千を超え、ついには六千を超えるまでになり、最終的には一億二千万もの細胞が一つの個体の肉体の中で共生するようになったのである。その個体とは言うまでもなく彼女のことだった。この異常な事態を医学的見地から研究する科学者たちは驚愕の眼差しで彼女を見つめ、彼女を畏怖の念を込めてこう呼ぶようになった。
「超生命体」と。
そう、彼女はまさしく地球という惑星の新たな生命の頂点に立つ生物になったのである。この事実は人類の医学界に衝撃を与え、様々な論議を引き起こしたが、その結末は非常に単純なものとなった。
結論から言えば彼女の存在は決して許されるものではなかった。だから、世界政府は彼女を処刑することに決定したのである。
西暦2324年3月10日のことだ。その朝、北海道全域に避難命令が発令された。同時に北海道の沿岸部に位置するすべての港が閉鎖され、本州へとつながるすべての橋が封鎖された。
彼女のいる施設の周囲にはすでに多数の武装した軍隊が配置され、完全に包囲されていた。施設内に侵入するための入り口は一つしかなかった。それは施設の中央部にある巨大な縦穴だけだったのだ。そして縦穴の底には一本の長い階段が続いていたのである。これは彼女が生まれた時に通ってきた穴だった。しかし今ではその階段には大量の爆薬が取り付けられており、いつでも爆発させられるようになっていたのだ。つまり、この作戦が失敗すれば彼女は間違いなく爆死する運命にあった。
そんなことは誰も望んではいなかった。彼女は人類にとって救世主であり、最後の希望でもあったからだ。だからこそ彼女は生まれた時から常に監視下に置かれていたのである。彼女が普通の子供のように外の世界を自由に出歩くことなど許されなかった。そして、彼女が成長し、超能力に目覚め、超人的な身体能力を身につけてからはさらにその生活は過酷を極めるものになっていた。彼女の自由を束縛するためにあらゆるものが用意された。外出時には専用のスーツを着用しなければならないという決まりが出来たのもその頃のことだった。食事の内容にも気を使わなければならなくなり、彼女は毎日の献立を考えなければならなかった。彼女はそのことに対して文句を言うことは無かったが、その代わり自分がどれだけ辛い日々を送っているのかということを周囲に伝えるための文書を毎日欠かすことなく提出するように求められていたのだった。そして、その内容は毎日の検閲官によって確認され、文章の中に嘘があればその場で銃殺されることになっていた。彼女はそのことを苦痛とは思っていなかったようだった。なぜなら彼女は生まれながらにして「超」という言葉がつくほどの超能力者だったからだ。だから彼女が「超生命体」などと呼ばれることに対して違和感を覚える者はいなかったのだった。彼女はその呼び名が自分に相応しいと思っていたし、また、自分の力に対して疑問を持つこともなかった。今日も彼女は自分の置かれている状況を政府に説明する文を書いていた。そこには「政府が自分を生かすために必死になって行動していることに感謝しています」といった内容の言葉が綴られていた。そして、文章の最後の方ではこのような言葉が書かれていた。
「政府の皆さんはきっと、私が生きている限りは安心できないでしょう。私は政府を信頼していないわけではありませんが、私の存在そのものを消し去りたいと思っている人がいることは知っています。ですから、私は死ぬ覚悟は出来ています。私の命をどうするかはあなた方が決めてください」
この言葉を彼女が見た者はいなかった。なぜならその手紙はすでに破棄されてしまったからである。彼女はその日のうちに「自殺志願者」という烙印を押したうえで施設の地下に存在する巨大な地下牢に幽閉されることが決定したのだった。
しかし、悲劇はここからだった。彼女が監禁されてから数時間後のことだ。突如、地震が発生した。そしてその直後に彼女のいた施設の上部が崩落したのだった。そして、不幸にも彼女は閉じ込められていた檻もろとも、奈落に落ちてしまったのだった。
彼女はすぐに救助されたが、その時点で既に息はなかった。彼女は「自爆」したのである。
この事件は大々的に報道された。それは、彼女が自らの命を犠牲にしてでも、この国の政府を非難したということに他ならなかったからだ。この報道により彼女は「愛国心を持った尊い少女の命を奪った極悪人」として人々から忌み嫌われることになったのだった。しかし、それでも日本政府はこの事件の隠蔽を図った。なぜか?理由は簡単だ。彼女の死体がどこにも存在していなかったからである。しかし結局、真相が明らかになることはなかった。
それからしばらくしてのこと。ある男が北海道を訪れたことがある。その男は研究者であった。そして、彼はそこで信じられないものを発見したのだ。それこそが彼女の死体だったというのである。それはあまりにも無残でグロテスクな姿に変わり果てた肉塊に過ぎなかったらしいのだが、DNA検査の結果、それが間違いなく彼女であるということが判明したのだそうだ。一体どういう経緯で彼女の死体が発見されたのかについての詳細は明らかになっていない。だが、彼女が生きていたことが証明されただけでも、大きな一歩だったと言えるだろう。
そして、彼女の存在が公に認められることになったことによって彼女の人権が守られるようになっていった。彼女は「人間」として扱われたのだ。彼女の戸籍が作られ、住民票が作られた。しかし、彼女の住んでいた場所については詳しい調査が行われなかったようだ。なぜならそこは大蝦夷村という名の地図に記載されていない秘境の地だったからである。そこで暮らしていた人々は「先住民」という名目で一括りにされて扱われることになり、差別を受けることになるのだが、彼女だけは特別扱いされることになったのである。彼女だけのために専用の学校が建てられ、そこで教育を受けるようになった。もちろん彼女の両親に許可を取ったうえでのことだ。彼女の両親は涙を流して喜んだが、彼女の方は少し寂しそうな顔をしていたという。
こうして彼女の日常は戻ってきた。相変わらず彼女は孤独だった。友達を作ることは出来なかったし、外に出かけることも出来なかった。
彼女が学校に行っている間だけ、彼女は一人の時間を過ごすことが出来た。その間、彼女はいつも自分の部屋で勉強していたのだという。彼女が学んだものは学問だけではなかった。道徳や芸術といったありとあらゆる教養を学ぶ必要があったのである。彼女が生きていくためには学ばなければならないことは山ほどあった。彼女のIQは140を超えていた。それは、並の人間の知能をはるかに凌駕するものであった。そのせいもあって、彼女は学校では常に一番の成績を修めていたという。
彼女は学校が終わると真っ直ぐ家に帰った。そして家の家事を済ませた後に夕食を作り始めた。その頃になるともうすでに日は暮れかけていたという。
そして、その日もまた、何事もなく一日が過ぎ去っていくはずであった――
しかし、その日の夜のことだ。突然、銃声のような音が聞こえてきたのである。それは遠くの方で鳴り響いていた。おそらく、かなり離れた場所での発砲音なのであろうと思われた。
最初は気にも留めなかったが、しばらくすると今度は爆発するような激しい音とともに地面が大きく揺れ動いた。そしてそのあとは立て続けに銃声と爆発音が何度も繰り返し聞こえてくるのだった。
その時の彼女の気持ちを考えるとぞっとしてしまう。
「いったい、ここで何が起こっているのだろうか?」
彼女は不安になりつつも、じっと耐え忍んだ。だがいつまで経っても銃撃と爆炎は収まらなかった。それどころか次第に激しさを増していっているようにさえ感じられた。その様子はまるで何かを警告しているかのようだった。彼女はベッドの上で横になっていたが、とても眠れるような状況では無かったのだそうだ。やがて空が明るくなり始める頃には砲撃の音も爆発する音もほとんど聞こえなくなっていたという。静けさを取り戻したのだ。しかし彼女の心の中にあった不安は依然として消えることは無かったという。
その日の朝、彼女はいつも通り登校することになった。だが、道は昨晩の騒ぎのせいか、ひどい有様だったらしい。
道路脇のあちこちには黒焦げになった車が放置されていたという。中には炎上したままのものもあったらしい。それらの車はいずれも無人の状態のまま動かなかった。だが、彼女が不思議に思ったのはそこだけでなかった。彼女の目に止まったのは、路上に転がる数多くの死体だった。それらはいずれも銃弾に撃ち抜かれたものらしく、そのほとんどが即死したと思われる状態だった。その数はざっと数えただけでも数十体に及んでいたという。
しかし、不思議なことに死体はすべて若い男性のものばかりであった。そして女性の死体は一人も見当たらなかったというのである。
そのことから考えられる可能性としては、この付近で何らかの争いがあり、銃撃戦が行なわれたのではないかと推測されるわけである。そう、この国には、彼女の存在を脅かす存在がいくつも存在しているからだ。彼女は自分のことを「小日本人」と呼んで蔑む者たちのことを決して信用しなかったし、彼らの存在を憎んでいたのだ。だからもし、何者かが彼女の命を狙ったのだとしたら、その理由はただ一つしか考えられないだろう。それは彼女を抹殺することにあったはずだからだ。そして、彼女を守る者は誰もいなかったのだ。彼女が施設から脱走して以来、政府側は彼女のことを諦めたような態度を取り続けていたのである。
彼女の超能力は、彼女の意思とは無関係に発動した。彼女は自分の周囲に敵が近づいてきたことを感知したのであった。だが、すでに遅かったようである。彼女の周囲には大勢の武装した兵士が取り囲んでいたのだった。彼女はすぐに自分が監視されていたのだということを悟った。おそらく彼らはこの周辺に配置されている警備兵のはずだった。彼女は自分が逃亡を企てていたことに対して怒りを覚える一方で、彼らの行動を疑問に思っていたのだそうだ。そして、その疑問はすぐに解消された。彼女の周囲を取り囲む兵士たちは口々に「お前はテロリストの仲間なのか!?」などと怒鳴ってきたのである。彼女はその質問に対して、こう答えたという。
「違います。私はあなたたちと同じ『普通の人間』です」
しかし、彼女はその後、兵士の質問に対して黙秘を貫くことにしたという。なぜなら彼女は自分が超能力者であることを隠し通すことに決めたからだった。彼女が本当のことを言うわけがなかった。なぜなら自分の能力がバレてしまうことこそが最も恐れていた事態だったからである。
結局、兵士達は何が起こったのか理解できぬまま、全員その場に倒れてしまった。おそらく全員が急所をナイフで刺されたのであろう。即死だったようだ。
それから数分の後、彼女はその場を逃げ出した。だが、すぐに行く手に立ちはだかる影が現れた。
「待っていたよ」と、彼女はその人物に対して言った。「ずっと私を見張っていたんですね」その男はニヤリと笑った。「そういうことになるかな」
その男の顔を見て彼女は驚愕した。そして、言葉を失ったまま固まってしまったのだという。なぜならその顔に見覚えがあったからなのだそうだ。
彼女はその人物の名前をつぶやいた。「……大倭」
その瞬間、男の表情が変わった。「へぇー。僕を知っているのかい?それは光栄なことだな」彼は楽しそうな口調でそう言ったという。
「でも、僕はあんたなんか知らないけどね」彼はそう言いながら懐から小型の拳銃を取り出した。どうやらその武器は彼のお気に入りであるらしいが、それを目にするのは彼女にとっても初めてのことだったのだという。そして、その銃口から放たれた弾丸が彼女の足に命中したのだった。彼女はバランスを崩して倒れた。
「君があの施設の関係者だって言うなら話は別だけどね」
彼は再び不気味で不気味な笑顔を浮かべながら彼女に近づいた。「まさか違うよね? そんなわけがない。そうだろ?」
しかし、その男は彼女に向けて銃口を向けてきた。
彼女は慌てて走り出した。そして必死になって逃げようとしたのだが、足を怪我していたため上手く走れないという。仕方なく彼女は建物の陰に身を隠した。しかしその直後、背後から強い力で引っ張られてしまい身動きが取れなくなってしまったのだった。彼女はすぐに自分の身体を拘束しているものの正体に気付いた。それは彼女の着ていた服の袖の部分だった。彼女はその袖をちぎって何とか逃げ出すことに成功した。そして彼女は自分の家に向かって走ったのだった。その道中でも彼女は背後に気を配っていたが、追跡してくるような気配は感じられなかったらしい。
しかし、安心したのも束の間のことであった。
突如、彼女の頭上から大きな石が落ちてきて彼女の頭部を強く打ち付けた。そのまま地面に倒れ込み意識を失ってしまったのだという。
次に目が覚めた時、彼女の目の前には一人の老人の姿があったという。彼はその国の政府の高官だと名乗った。彼女は彼に抱えられるようにして建物の中に連れて行かれた。そこはどこかの研究施設のようだった。彼女はそこで様々な実験を受けさせられたという。だが、彼女はそれらの記憶をほとんど思い出せないようだと言う。なぜならその時の記憶だけぽっかり抜け落ちてしまっているらしいのだ。
しかし、彼女はその老人のことを覚えていたという。
「あなたが私の両親を殺したのですか?」
その問いに対し、老人は笑って否定したという。「いいえ、私が殺したのではありません」
「では誰が?」
「それはお答え出来ません」
「なぜ?」
「それがあなたにとって残酷な真実である可能性があるからです」
「……」
「あなたの両親を殺害したのは、おそらく『反日思想を持った愚かな連中』でしょう」
「どうして彼らが?」
「それはわかりません」
「じゃあ、やっぱり彼らが……」
「いいえ、それは違います。彼らはあなたの両親を死に追いやっただけであって、直接的な関係は無いのです」
「それじゃあ誰なの?」
「それも申し上げられない」
「どうして?」
「これはあくまでも仮説なのですが、おそらくあなたは『神の領域に踏み込んでしまった』のではないでしょうか」
「どういう意味なの?」
「つまり、神様が人間の世界に干渉するために作ったシステムの一つ、もしくはその一部が『彼ら』だったという可能性も考えられるということですよ」
「彼ら?」
「ええ、あなたが遭遇した者たちは全て彼らによって創り出された存在だったのかもしれません。あなたが超能力者として目覚めたことによって、彼らもまたその存在を表舞台へと押し上げることになった。そして今まさに、あなたは彼らに命を狙われているというわけですね」
「それじゃあ私はこれからいったいどうすれば良いの!?」
「大丈夫ですよ。心配はいらない。私が必ず守ってあげましょう」
「あなたはいったい何者なの?」
「ただの老害に過ぎません。ただの哀れなジジイです。それよりまずは食事にしましょう。昨日から何も食べていないのだから腹が減っているはずです」
「でも、私はこんなところに閉じ込められていたんじゃ何を食べても味なんてわからないわ」
「ご安心ください。もうすぐここにも追っ手がやってきます。その前に我々はここから脱出しなければなりません。ですから今はしっかり栄養を取って体力を付けなければいけません」
「追っ手?」
「ええ、奴らはしつこいですからね。さぁ、早く支度をしなさい」
「……はい」
彼女がその施設で暮らしていたのは二年間であった。その間、その部屋を出ることは許されなかったらしい。だが、彼女の生活は決して不自由なものでは無かったという。なぜならそこには書物などがたくさん置いてあったからだそうだ。だから彼女は暇さえあればそれらを読み漁っていたという。その施設が彼女の人生に与えた影響は大きかったに違いない。
彼女がその施設で暮らし始めて三年が経った頃、突然その老人は姿を消したのだという。彼女がその理由を尋ねてみても老人は教えてくれなかったという。
だが、彼女の予想は当たっていた。
それから数日後、施設の扉が開いて一人の男が入ってきた。その男は白衣を身に纏った研究者のような格好をしていた。だが、その顔はやつれて生気が感じられないものだった。その男は彼女のことをチラッと見ただけで、すぐに彼女の側から離れていった。その男は彼女のことをよく知っているようだった。彼女はすぐにその男が自分の両親を死に至らしめた人物であることを悟った。
彼女はその男の背中を追いかけた。そして、その男の襟首を掴んだ。
「あなたが私の両親を殺しましたね」
「ああ、そうだよ」
「何故そんなことをしたんですか?」
「歴史を改変する為だ。お前の母親は身ごもっていた。産まれて来る子供は世界を征服する独裁者に育つ。その名を小日本あらためグレート日本大帝という。だから予防しに来た。俺の両親は無実の罪で奴に処刑されたんだ」
「じゃあ、私が生まれたから」
「そうだ。だからお前は死ぬべきなんだ」
「ふざけるな!」
「ふざけているのはどっちだ! お前は超能力を持って生まれた。それがどんなことなのかわかっているのか? 超能力者はこの国には必要無いんだよ。この国にはまだ普通の人間がいる。超能力者なんかが生まれると、この国は崩壊する。この国の人間はみんな平等でなければいけない。超能力者と普通の人間が同じ空間に居合わせること自体が間違っているんだ。そんなものは世界平和の敵であり、我々にとっては悪夢以外の何物でもない。わかるだろう? お前は存在するべきではないんだ」
「違う。超能力者は特別な存在なんかじゃない。この国の社会に溶け込んでいる。超能力者が他の人と変わらないように、普通に学校に通って勉強して、普通の家庭を築き、普通の生活を送る。超能力者も普通の人間も同じ人間だ。普通の人間と何ら変わりはない。違うのは生まれつき特殊な能力を持っているかどうかだけ。それだけの違いだ。だから、差別されるような理由は何もない」
「黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、黙れ、」
パンという乾いた音がして彼の額に穴は開いた。みると彼女の拳銃から硝煙が上がっている。「御託をならべてないでわたしの両親を殺した罪を償え」
「わかった。あんたの言う通りだ。あんたの両親のことは悪かったと思っている。だが、あんたの言う通り、俺には責任がある。超能力者を野放しにしてしまった責任が。あんたは超能力者の居場所を作るべきだ。そして、あんたのその超能力で人々を幸せにしてやってくれ。そうすれば、あんたも俺と同じで超能力者であるあんたの親父さんやお袋さんのことも許せるようになるはずだ」
「お父さんやお母さんのことを悪く言うな」
「いや、言っておくが、俺は自分の両親を殺してはいない」
「嘘をつけ」
「本当だよ。それに証拠もある」
「なんの証拠?」
「さっき言ったじゃないか。神の領域に踏み込んだって」
「まさか?」
「そうだ。神になったんだ。俺も」
「どうして?」
「超能力を自在に操れるようになったからな」
「どうして?」
「それはわからない。だが、これは人類に与えられた進化の可能性の一つだとは思わないか?」
「そんな馬鹿な」
「残念ながらそれが現実だ。超能力を持った子供が生まれ、その子はやがて大人になり、その子供の子供を産み、その子供が超能力者になる。その繰り返しが延々と続いているだけだ。おそらくこの先にはさらなる未来が存在している」
「そんなの信じられない」
「だったらどうして超能力者が生まれ続けると思う?」
「それは……」
「それはな、超能力者の存在が人々に希望を与えているからだ。超能力があれば何でも出来るという夢を見ているからだ。だから人々は超能力者に期待している。だから超能力者が現れれば、すぐに受け入れようとする。だから超能力者は次々現れる。だが、同時に人々の中には超能力者に対して恐怖を抱く者もいる。その気持ちが超能力を発現させるきっかけとなることもある。つまり、超能力をコントロール出来ず、暴走させてしまうことがあるのだ。そうなると、超能力者は排除されなければならない。それがこの世界の掟なのだ」
「でも、それじゃあ超能力なんて無くなってしまえば良いってことになる」
「いや、違う。超能力が無くなれば人は絶望してしまう。それではいけないのだ」
「どういう意味?」
「この世はな、人の心によって成り立っているのだ」
「つまり?」
「人々が笑顔を失くせば、それはすなわち死を意味するのだ」
「じゃあ、どうしたら良いの?」
「簡単なことだ。笑わせればいい」
「どうやって?」
「簡単だ。笑いを取ればいいのだよ」
「どういうこと?」
「人々の心に感動を与えればいい」
「どうやるの?」
「君にしか出来ない方法で」
「具体的には?」
「それは自分で考えなさい」
「ヒントは?」
「ない」
「酷い」
「酷くて結構。これは君の宿題だ」
「そんな」
「まぁ、せいぜい頑張りなさい」
こうして彼はマーベルヒーローならぬ小日本ヒーロー、ジャパンマンになった。そして、超能力を使って多くの人々を救い続けた。しかし、彼もまた超能力者として覚醒したことによって命を落とすこととなった。そして、彼の妻も超能力者として目覚めたことによって、命を落としてしまった。超能力者の妻もまた超能力者として覚醒していたのである。
そして、二人の子供もまた超能力者として目覚めた。だが、その子供たちもまた超能力者として目覚めることはなかった。そして、超能力者として目覚めたのはただ一人だけであった。
「これで良かったんですよね?」
「ええ、ありがとうございます」
「あなたはこれからどうするつもりですか?」
「私はただの老害に過ぎません。これからもひっそりと人助けをしていきます。神様の遣いは神出鬼没。それではごきげんよう」「待ってください」私は呼び止めたが、老人の姿はすでにそこには無かった。
「あなたはいったい何者だったんですか?」私はその問いに答えるものはいないと知りつつも問いかけた。
「ふむ、やはり君は僕の正体に気づいていたようだね」
「はい」
「だが、僕の口から言わせて貰おう。僕は君たちの言うところの『悪魔』というものだ」
「やっぱり」
「おっと、勘違いしないで欲しい。僕は君たち人間の味方ではない。むしろ、人間を滅ぼす側の存在だ。だからといって、人間を憎んでいるわけでもないけどね」
「はぁ、そうっすか」
「だが、君は気づいているかな? 人間同士が醜く争いあうことで、人間がより高度な存在へと進化していくということを」
「いえ、全然。てか、そんなこと考えたこともありませんでした」
「でも、考えてみれば不思議ではないか? 人間同士の憎しみあいや戦いは、実は進化の為のプロセスに過ぎないのかもしれない。もし、そうならば、この先、人間が滅ぶとしても、それはそれで仕方の無いことなのかもしれん」
「いや、ちょっと、そんなことありませんよ。人間は絶対に滅びたりしませんよ」
「いいや、人間はいずれ滅びる。そして、その日は近い。人間の歴史は、まさに今、終わりを迎えようとしているのだよ」
「そんなことないですよ。人間はしぶといですからね。きっと、いつかは平和が訪れるはずです」
「そう願いたいね」
笑和の展皇と醤女像