あかねいろ

 見上げた茜色が目に染みた。
 燃えるような夕焼けの空を、たくさんのアキアカネが悠然と滑っていく。アキアカネの透明な羽にちかちかと光が反射する。
 もったりとした茜色の空のなかで、真っ赤なおなかのトンボが無数に泳いでいる。まるで茜色の海の中にいるみたいだった。
 木立のなかで反響して大きくなるヒグラシの鳴き声は、耳を突き抜けてぐわんぐわんと脳を揺さぶる。うるさい音を頭から追い出すように首を振る。そして、深く息をついた。
「よぉし」
 おれは虫取り網の細い柄をぐっと握りなおす。そして、意を決して振りかぶった。
「とおりゃー!」
 虫取り網を振り下ろすと、アキアカネたちはすい、と避けていく。マンガだったら「すかっ」なんて擬音がついているところだ。
「おっとっと……」
おれは空振った勢いで、二、三歩前によろけた。
空をにらむと、アキアカネたちは何事もなかったかのように茜色の空を泳ぎ始める。
「くっそぉ、あと少しだったのに」
「あと少し、ねぇ」
 呆れたような声のあとに、大きなあくびが聞こえる。
むかむかしながら振り返ると、銀色のふさふさした毛玉が、ぺたりと地に腰を落ち着けていた。片方の瞼がぱちりと開き、満月のような金色の瞳がのぞく。
「見事な空振りだなぁオイ。無意味に振り回される虫取り網が可哀想だぞ」
「なにさ、網に同情するくらいならおれのほうに同情してよ、ポチ!」
 ポチ、と呼びかけられた銀色の毛玉、もとい銀色の毛並みをもった犬は、顔の先っちょの小さな黒い鼻をふん、と鳴らす。
「てめえが下手なのが悪いんじゃねぇか。同情の余地もねえ」
 これだけ努力してる飼い主にかける言葉がそれとは、ペットの風上にも置けないやつだ。。
「まあせいぜい頑張りな。ガキは遊ぶのが仕事だからな」
「ガキってゆーな!」
 ポチは尻尾を左右に揺らして
 こんな性悪のペットなんか、もう無視! また網を振りかぶった。

 この底意地の悪い犬、ポチとは半年前の嵐の日に出会ってからのつきあいだ。一応、いまはおれのペットとして一緒にいる。
 そして、なぜかおれには、犬のはずのポチの声が聞こえる。なんとなくわかる、なんて生やさしいものじゃなくて、ポチの心の声がはっきりと耳に聞こえてくるんだ。でも、ポチ以外の動物の声は聞こえたことがない。理由もわからない。全くの謎だけれど、嫌だと思ったことは一度もなかった。今はそれでいいんじゃないかとおれは思う。
 ポチの名前をつけたのはおれだ。いつか犬を飼ってみたいというのは、小さい頃からの夢だ。その犬にポチ、と名付けることも決めていた。そのことを姉ちゃんに話したら、
「いまどき『ポチ』なんて名前のついた犬、ほとんどいない。絶滅危惧種よ」
 やめときなさい、と姉ちゃんは顔を思いっきりしかめた。まったく、姉ちゃんはわかってない。絶滅危惧種なら、なおさら保護してしかるべき存在じゃないか。
 そんなわけで、牙がいっとう鋭くて、目つきが悪くて、ついでに口も悪いこの犬をポチ、と名付けた。
 でもポチはこのすばらしい名前を嫌がる。おれが意気揚々と名前をつけた時も、「もっとましな名前にしろ」とおれの腕に噛みついた。いい名前だと思うのにな……。

「あーあ、疲れたぁ」
 収穫のない狩りに嫌気がさして、おれはとうとう膝をついた。暇つぶしに始めたトンボ狩りだけど、ここまで見事に捕まらないと面白くない。せめて一匹だけでも、と思ったのに。
 汗がTシャツにじっとりと張り付いて、気持ちが悪かった。
「なんで捕まんないんだろ……」
「そりゃあお前、下手だからな」
 ポチをじろりとねめつける。おれはつかつかと生意気な犬に歩み寄って、虫取り網をつきつける。
「じゃあポチがやってみせてよ!」
「やなこった。第一、俺が網なんか持てると思うのかよ」
「頑張ればいけるんじゃない」
「根性論で片づく問題じゃねえぞ、アホ」
 むーっ
「いーよ、いーですよ! トンボの一匹や二匹、ポチの助けがなくても捕まえられるもんね!」
 ポチが大きくあくびをした。大きな鋭い犬歯まで丸見えだ。
 アキアカネと対峙。森の描写。
「よーし……」
網をぐっと構える。狙いを定める。
「でやあああ!」
 またもトンボたちはすり抜ける。何度やっても同じだった。
「ガキは元気でいいねぇ」
 ポチの呑気な声が聞こえる。外野は黙っててくれ!
 アキアカネの群れをにらむ。すると、群れから外れて低空飛行を始める一匹がいた。
 ようし、あの一匹をつかまえてやろうじゃないか。
 おれは息を殺して、アキアカネの動きを目で追う。さくり、さくりと草を踏む密かな音が耳に届く。その音も気配さえも消そうと、慎重にその一匹に近寄って行った。
 静かに追っていく。
 すると、アキアカネはひらひらと羽を
 目を閉じてポチはそれに気づいていない。
「ああっ!」
「るっせえな、なに……うぉっ!?」
 おれが叫ぶと、ポチは瞼を面倒くさそうにもったりと上げる。黒い鼻先で羽を休めている虫に気づくと、
「動かないで!」
 おろおろとするポチ。おれは虫取り網を思いっきり振りかぶって──。
「せいっ!」
 ポチの顔めがけて、振り下ろした。でも、網に捕まったのはポチの頭だけ。肝心のアキアカネは知らん顔で、また宙に浮かび仲間の中に溶け込んでいった。
 おれはぽかんとしてそれを見上げる。
「あーあ……もーっ、ポチが動くからだよ」
「……」
 おれがなんの反応もない。
「ねえ、きいてる?」
 顔を覗き込むと、突然、ポチの大きな口がぐわりと開いた。
「てめぇ、許さねえ!」
「うわわわわ! ちょ、タンマ!」
 頭に網をかぶせたポチが、鬼の形相で追いかけてくる。
「ユキー!」
 急ブレーキをかけて止まると、ポチが頭が背中にぐしゃりとぶつかった。
「何やってんの、もう6時半だよ」
「うげ、ねーちゃん」
 おたまを片手に持った姉ちゃんが、
 
「うげ、とはごあいさつね。わざわざ呼びに来てあげたっていうのに」
「なに、もうご飯?」
おれはその間も噛みついて来ようとするポチの頭を押し返しながら、
「そーよ」
 腰に手を当てる。
「あんたも飽きないね。昆虫採集なんてひとりきりで続けて」
「なんだよ、おれはこれが楽しいの」
 最後は全然楽しくなくて、ただの意地だったけど。
「まあ、いいけど。……ねえ、誰か友達でも来てたの」
 首をふる。
「そう。じゃ、あんたのひとりごとか」
 おれはアキアカネの群れを振り返る。
 のびた影はふたつ分。おれと、ねーちゃんのふたつだ。
 ポチはしきりに前足を気にしながら、おれのとなりにちょこんと座っている。
 風が木立を揺らして、緑の木の葉を茜の空に舞い散らしてゆく。
「ひとりじゃないけどなあ」
 小さく呟くのを、聞き咎めるひとは誰もいない。
 おれのとなりで、ポチがつまらなさそうに前足で耳をかいた。おれはポチの頭をぐりぐりと撫でた。
 ヒグラシの声が、わんと一際大きく、茜の空にこだました。

あかねいろ

あかねいろ

しゃべる犬と少年の短編です。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 児童向け
更新日
登録日
2019-08-13

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