銀の舟歌 ~Barcarolle~

tokasama

銀の舟歌 ~Barcarolle~
  1. Introduction
  2. Chapitre 1
  3. Chapitre 2
  4. Chapitre 3
  5. Chapitre 4
  6. Chapitre 5
  7. Chapitre 6
  8. Chapitre 7
  9. Chapitre 8
  10. Chapitre 9
  11. Chapitre 10
  12. Épilogue

Belle nuit, ò nuit d'amour,
souris à nos ivrèsses.
Nuit plus douce que le jour,
ò belle nuit d'amour!

Le temps fuit et sans retour.
Emporte nos tendrèsses!
Loin de cet heureux sé jour,
le temps fuit sans retour.

Zéphyrs embrasés,
versez-nous vos caresses,
Zéphyrs embrasés,
donnez-nous vos baisers,
Vos baisers, vos baisers. Ah!

Belle nuit, ô nuit d'amour,
souris a nos ivrèsses.
Nuit plus douce que le jour,
ô belle nuit d'amour! ô belle nuit d'amour!

オペラ『ホフマン物語』より『ホフマンの舟歌』 作詞E・T・A・ホフマン 作曲J・オッフェンバック

Introduction

 ゆらりと地面がうねるような感覚。時折大きな揺れが背中から強く突き上げる。耳元で水の妖精たちが小波の曲を奏で、床下から弾けた波のぶつかる音がする。
 亮は手足をだらりと伸ばし、床に背を付けて空をぼんやりと眺めていた。色の失われた空。見えるのは分厚く真っ白な霧だけ。太陽も、雲も、羽ばたく鳥も、全ての形と色が霧に呑まれていた。
 やがてゆっくりと上半身を起こす。ここは――舟? 前方に長く、広げた両手が端に届くほどの、笹の葉のような舟。この細長い乗り物は、外国の運河で見かけるゴンドラというものではないだろうか。床も縁も表面すべてが銀色に塗装された小舟は、まるで夜空に輝く三日月のように鈍い光を放ち、四方の霧をほんのりと照らしながら淡い光のトンネルを作っている。
 視界を閉ざすほどの濃い霧の中へ銀の三日月は静々と進み、尖った舟の舳先が霧に溶けては現れる。無数の細かい水滴が亮の体を撫でてしっとりと濡らした。
 波の音に紛れて、ドボン、と水を突くような音がした。
 亮はゴンドラから身を乗り出し、縁につかまりながら川面を覗いた。亮が動くと舟も大きく揺れて白波の泡が立つ。川に落ちそうになってヒヤリとし、慌てて舟の縁をしっかりと握る。波の泡が引くと、光の濃淡を自由に綾なす川の表面に薄っすらと銀色の舟が映り込んだ。
 しかしそこにあるはずのものがない。川面に映る銀色の舟は白い空だけを運んでいる。亮は片手を上げたり振ったりしてみたが、いくら腕を動かそうとも、どれだけ身を乗り出そうとも、顔も手も体も何もかもが川面に映らなかった。
 ――影がない。
 まるであのオペラと同じだ。題名は確か、『ホフマン物語』……娼婦ジュリエッタに騙されて影を奪われた、悲劇の詩人ホフマン。なぜか彼の名前が脳裏に浮かぶ。
 またもやザブン、ゴツン、ドボンという音がして、亮は首を左右に動かして周囲を見渡した。亮の右手、舟の後方に赤い革カバーのついた二人用の背もたれがあり、そのさらに後ろ、舟がほんの少しせり上がった部分に人の立てる隙間がある。舟守がいるはずのその場所には誰もいなかった。物干し竿のような櫂が舷にかかっている。櫂は自分の意思があるかのように独りで水を掻いていた。が、どうもよく見ると、舟を進めているわけでも進向を決めているわけでもないようだ。全く動こうとしなかったり、思い出したようにザブンと川に突っ込んだり、ぐるぐると水を掻きまわして泡を作っていたりする。まるで幼い子どもが水遊びをしているようにも見えた。舟は気紛れな櫂に身を任せながら、川の流れに沿って悠々と漂っていた。
 不安がないわけではないが恐怖を感じるわけでもない。まあいいやとこれ以上の無駄な考えを放棄して、何もせずこのまま流されてみよう、そう気持ちを切り替えた。亮は舟の縁から手を離し、赤い背もたれに寄り掛かって床へ足を投げ出す。次から次へと溢れてくる疑問を払いのけるように瞼をそっと閉じる。
 ふわりと傾く舟の不安定な揺らぎが心を宙に浮かせる。亮は夢の向こうの更なる夢へと意識を飛ばした。

Chapitre 1

 二つ向こうの駅前に、新しいパティスリーが出来て評判になっている。
 日々の勉強のストレス発散として重宝している、スイーツ店の口コミ情報。気分転換に少しだけ、と思っていたのに、教科書を脇にどけて、つい長々とスマホで検索してしまった。偶然見つけたその店の評価は四以上をキープしている。掘り出し物の新情報に、積もりに積もっていたストレスが一瞬で消え失せ、胸に沸々と込み上げた喜びと期待で亮の口元がふっと緩んだ。スイーツのことになると、どうしても浮かれた気分を隠せないのがいつもの癖だ。ネット情報をくどいほど念入りに確認した亮は、明日のスイーツ巡りの行き先をこの店に決定した。 
 日曜日は雲一つない晴天が広がり、少し汗ばむほどの絶好のスイーツ日和になった。スイーツ日和なんて表現があれば、だが。駅を降りて大通り沿いを歩く。四月終わりの瑞々しい街路樹が、ランダムな光と影を亮の頭上へと落としていた。爽やかな追い風に背中を押されるようにして店の方まで足軽く進む。
 大通りから少し外れて路地裏に入る。駅前から十分ほどの距離にその店はあった。白いタイルの貼られたビルの一階部分にすっぽりと嵌め込まれた、黒いペンキ塗りの店。入口の看板には金色に塗られたフランス語の文字が書かれていた。サン・フォス・ノートと読めるその店名は、音程が外れていない、つまり完璧な、という意味らしい。
 木製の扉を開けて中に入るとガラス張りのショーケースが出迎える。赤、オレンジ、黒、緑、白と、色も形も華やかなケーキがケースの中に整然と並ぶ。右手奥の木棚には焼き菓子に、パン、サンドイッチなど。左手のイートインスペースにはシルバーを基調としたデザイン性の高い椅子とテーブルが十席用意され、所かしこに置かれた観葉植物がくつろぎの空間を控えめに添えていた。
 開店を少しばかり過ぎただけだが客は多い。一つだけ空いていた席に運よく座ることができて、黒い小振りのショルダーバッグから読みかけの本を出す。ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』。客は女子だらけ、しかも本を読んでいるものなんて誰一人としていない。隣の女性が会話の隙間にちらりと亮の方を気にして、何を熱心に読んでいるのだろうと怪訝な視線を本にやり、すぐに友人とのお喋りに戻った。亮はそんな空気を気にすることはない。自分だけの空間を思いっきり楽しめれば、それで満足なのである。
 注文したケーキは三種類。オペラフランボワーズ、ガトーフレーズ、シュー・ア・ラ・クレーム。注文に来た女性の店員は、ただ一人の男性客に気を遣うこともなく淡々と注文を取る。
 程なくして三つのケーキが亮のテーブルに運ばれた。美しく何層にも重なる木苺色のケーキと正方形に切られたイチゴのショートケーキ、それに粉砂糖を雪のように降らせたシュークリーム。三種類のケーキの彩りを目で堪能し、光加減に注意しつつ写真を撮り、写り具合を液晶画面でチェックする。オペラフランボワーズとガトーフレーズの断面の形を崩さないようフォークで慎重に作り、それぞれ一口サイズに切ったものを口に含んだ。味と香りと食感を舌と鼻腔に届かせて分析した結果をスマホに残す。

 オペラフランボワーズ:ビスキュイ生地にフランボワーズのジャム、スポンジ、ムースが交互に重なっている。トップにはホワイトチョコとラズベリーが飾られている。深みのある芳香は、ビスキュイ生地にバラの香りをしみ込ませているとのこと。ホワイトチョコの甘みをベリーの酸味が包み、上品な味わいとなっている。
 ガトーフレーズ:ジェノワーズに蜂蜜が入っている。層を減らしてスポンジを厚めにし、コクのあるスポンジの長所を存分に活かしている。フルーツは季節ごとに変わるようだが、今回はイチゴを使用。さっぱりとしたクリームとの相性が良い。

 感想を一通り書き終えてから、綺麗に切り取られた断面をスマホに写し、残りの部分をようやく楽しんだ。中学生の頃、食いしん坊なクラスの友人も誘って、ケーキをたらふく食べてみようと一緒にスイーツ巡りをしたのだが、食べることよりも研究する方に熱心な亮の食べ方に辟易したようで、二人でケーキ屋に行くことは二度となくなった。それ以来亮は毎週のようにケーキ屋巡りを一人でしている。他人に迷惑が掛かるくらいならおひとり様状態なんて構わない。これが自分の性分だと割り切っていた。
 二つ目のケーキを心ゆくまで堪能し、最後のシューに手をつけようとしたところで、突然後ろから女性の声が掛けられた。
「シノッチ? やっぱりシノッチだよね?」
 どこかで耳にしたようなことのある甲高い声に、亮はシューを刺したフォークをそのまま止めて振り向いた。その人ともう一人の連れの女性を見て目を丸くする。
「あ、やっぱりシノッチだ! わーこんなとこで会うなんて奇遇だね。ね、遥香、シノッチだよ、後輩の篠原くん。懐かしいよね」
 声高らかにはしゃぐ女性は、驚いた、ビックリしたと何度も繰り返して、まるで動物園から逃げてきたパンダを見つけたかのように亮へ絡んできた。遥香と呼ばれた女性は亮を見て軽く会釈する。薄い水色のワンピースに同じ色の絹のベルト。カゴバックを持っているのが春らしくて、清楚で愛らしい。彼女が首を動かすと肩まで伸びた真っ直ぐな髪がゆらりと揺らめいた。その髪の微かな揺らめきが亮の心臓に一瞬の震えを呼び込む。
 周囲の客がチラリチラリとこちらを伺う。これ以上の見世物パンダにはなりたくはないので、亮は首をすくめて控えめに応答した。
「お久しぶりです、田子山先輩。――それに浅尾先輩も」
「一年ぶりだよね、ほんとにビックリした。シノッチ、まさか一人でこんなとこ来てんの?」
「見た通り一人です。別にいいでしょう。男だって一人でもケーキは食べたくなりますよ」
「ごめんごめん、悪いこと言っちゃった」と田子山先輩は悪びれる様子もなく、声のトーンを変えずに話し続ける。「でも相変わらず暑苦しい髪型してるね。分厚い眼鏡かけて、ボッサボサの髪で背中丸めておひとり様スイーツなんて、傍から見てそれはあまりにも寂しすぎるよ。ちょっと不安になっちゃうレベルだわ」
「何で先輩が不安になるんですか。寂しいも何も、自分の勝手です。放っておいてください。容姿はともかく趣味にまでケチ付けられたくない」
「あはは、ケチ付けるなんて思ってもないよ。シノッチってほんと、手厳しいねえ」
 田子山先輩はカラカラと笑って亮の言葉を軽くあしらった。これだからトロンボーン吹きは、と亮は眉をひそめる。トロンボーン自体に罪はないのだが、あっけらかんとした彼女の性格は金管の開放的な音色そのままのイメージで、亮が最も苦手とするものだった。まともに相手をしていると、どんどんしんどくなってくる。なんとかしてこのかしましい会話を途切れさそうと、亮はシューに突き刺さったままのフォークに力を込めた。硬めのシューの皮に穴が開いて、ざっくりと皿に崩れ落ちる。
「俺、まだ食べてる最中なんでもういいっすか。先輩たちも忙しいでしょ」
「忙しいなんてことないよ。それよりシノッチ、高校でも吹奏楽するんでしょ」
「吹奏楽はもうしてないです。部活にも入ってない。勉強が大変だから」
「うそ、オーボエ辞めちゃったの? あんなに上手かったのに。高校ってどこなの」
「私立のK高校」
「え、マジで。K高ってあの男子校? めっちゃ頭いいとこじゃん」
「別に。成績たいして良くないし」
「またまた、謙遜しちゃってー。うちらはM高でまた楽器吹いてるよ。遥香のフルート、相変わらず上手くって、三年の先輩たちとソロのオーディションで肩並べて競ってんの。はーさすがだよねー」
 ボロボロに崩れたシューの皮を苛つきながら一つ一つフォークで突き刺していた亮は、手を止めて遥香に目をやった。遅咲きの桜が咲きだしたように、遥香の頬が淡く色づいているのが分かった。
「オーディションに参加するくらいなら、いいかなって思っただけだよ」
 遥香は膨らんだ桜の蕾がほころぶような笑みを控えめに零した。咲きかけの桜の蕾に無関心さを装い、亮は事務的に問いかける。
「オーディションって、何の曲ですか」
「『君の瞳に恋してる』。ボブ・クルーとボブ・ゴーディオが作曲したやつ」
「もしかして指揮者の横でソロ演奏ですか」
「うん、顧問がフルート経験者で、次の演奏会でどうしてもそれをしたいんだって」
「へえ、でも浅尾先輩なら大丈夫でしょ。きっとオーディション受かりますよ」
「まさか……」遥香はふるふると首を振った。「先輩たち、ほんとに上手いから無理だよ。でもやるだけやってみるよ。亮くんに言われたら自信出てきた、ありがとう」
 桜の花が満開になったような微笑みが亮の方へと向けられた。舞い落ちる花びらを振り落とすかのように、その微笑みを眼鏡の縁で遮る。フォークに突き刺さったままのシューの皮をかぶりつく。シュークリームは本来の形を失って、大量のカスタードクリームを皿に流していた。もう少し食べやすい硬さにしろとケーキ屋に対して無意味な八つ当たりをする。せっかく楽しみにしていたシュークリームの感想が一つも頭に浮かんでこなかった。
 店の外ではすでに客が何組か待っている。忙しそうに行き交う店員たちに非難がましい目を向けられる。その視線を避けるように、二人はじゃあまたねと言ってそそくさと店を出ていった。ようやく一人の空間に戻ることができた亮は、シューの残骸を綺麗にフォークで掬い取る。遥香の笑顔がふいに脳裏に蘇る。柔らかな微笑みの記憶にバニラビーンズの甘い香りが添えられていく。鼻腔に残った芳香は、胸にわだかまっていた不穏な騒めきを緩やかに静めてくれた。
 会計をすまして外に出る。ケーキの味はなかなか満足のいくものだった。完璧だと名前で主張する店の面目は一応立っているようだ。店の外観を写真に残してこれで今日の任務は無事完了。さてそろそろ帰ろうと駅の方へ向かおうとしたとき、向こうから走ってくる女性の姿があった。先ほど別れたばかりの遥香だった。
「亮くん、よかった、まだ店に残っていてくれて」
 遥香は大きく肩で呼吸して息を整えた。随分と走ったのか、額から汗が滲んでいる。
「どうしたんですか。田子山先輩は?」
「美有には先に駅へ行ってもらったよ。どうしても亮くんに伝えたいことがあって、私だけ戻ってきたの。走ってきたら汗掻いちゃった」
 遥香はもう一度息を大きく吐き出すと、額の汗を指で拭い、乱れた髪を手で梳きながら亮と並んで歩きだした。
「俺も駅に向かうところだったから、そこで待ってたらよかったのに」
「そうなんだ、でも会えなかったかもしれないしね――わあ、亮くん、一年間見ない間に身長伸びた? 私の背丈を追い抜いたよね?」
「……うん、そうかな、そうかもしれない」
 遥香を少しばかり見下ろしていることに今更ながらに気が付いて、亮は目を細めた。昔と変わらない遥香の物腰の柔らかさがやっぱり嬉しい。いつの間にか口調や態度も素に戻る。吹奏楽部にいたときはずっと遥香と一定の距離を保つようにしていた。先輩後輩という立場上、部員からの冷やかしや詮索を受けるのが嫌だったからだ。
「やっぱり男の子の成長ってびっくりするなあ。あ、そうそう、亮くん、七月の最初の日曜って空いてる?」
「大丈夫だと思うけど、なんで?」
「定期演奏会するんだよ。『M高校吹奏楽部・七夕コンサート』って。よかったら聴きに来て。チケット送るから」
「さっき言ってた、オーディションのやつ?」
「うん、まあ、ソロはどうなるか分からないけど。でも高校の吹奏楽って中学のよりももっと面白いよ。曲もすっごく難しいんだ」
「そう……じゃあ行くよ。お金は今払っておく」
 財布を出そうとする亮を、遥香は先輩からのおごりだからとやんわりと止めた。いやダメだ、払う、払わないでしばらく揉めて、結局は一人分支払って二人分のチケットを貰う、という妥協案に落ち着く。
「亮くんの住所、変わっちゃったんだよね」
「うん、今は母親の実家にいる」
「いつの間にかマンションからいなくなっちゃってたんだもん。高校だって、まさかK高に行ってるなんて思わなかった。てっきり吹奏楽の強いとこに行くかと思っていたのに。亮くんってほんとにオーボエ辞めちゃったんだ」
「今は音楽よりも勉強がマジで大変。内部進学のやつらは、もう高一の勉強範囲終わってるから。俺みたいに外部から来たやつは、授業に付いていくだけで必死なんだよ」
「そうなんだ。残念だな……亮くんのオーボエ、また聴きたかったんだけどなあ」
 遥香は俯いて目を伏せた。肩から髪が幾筋か流れ落ち、頬に仄かな影を作った。
「まあ仕方ないよ。俺は遥香さんのソロを楽しみにしてるから」
「やだ、そんなに期待しないでね。オーディションがどうなるか分からないから」 
 じゃあまたコンサートで、とにこやかに別れの挨拶をして、遥香はスカートの裾をふわりと翻し、駅へ向かって駆けていった。亮はその後をゆっくりと歩いて追いかけていく。彼女に付けられていた香水が後に残される。清涼感のあるシトラスの香りが極薄の和紙となり、バニラビーンズの記憶に華やかな彩りを重ねた。

  *

 ――お母さんが、地面に倒れてる。
 亮は足元に崩れ落ちた母をじっと見つめ、手に持ったアイスクリームに関心を移した。溶けかかったクリームがコーンの部分までとろんと流れてきて、それを拭うようにひと舐めする。
 六年前、真夏の炎天下で起こった何気ない日常。母の智子は朝から具合が悪そうだったが、せっかくの仕事の休みの日だからと息子を映画館まで連れていき、ディズニーを観て、ケンタッキーで昼食をとった。年が十にもなる食べ盛りの亮はチキンを三個も食べたが、母はウーロン茶を少し飲んだだけで、あとは何も口にしようとはしなかった。そういえばその時の母は、クーラーの効いた店内でも酷い汗をかいていたと思い出す。帰りのバスの中、母は白いバッグを腕に抱えて魂が抜け切ったようにずっと眠り込んでいた。
 自分たちの住むマンションの前に到着したところで、母は「あ」と一文字だけ声を出して、目の前でパタリと倒れた。あまりにも突然のことで、母はいったい何をふざけているのだろうと、亮が勘違いしたほどだった。母の倒れ方はそれくらい、自然な流れに沿ったものだった。
 クリームを舐め、母を見て、ようやくこれが異常なことに気が付く。母の元へと駆け寄り「お母さん、お母さん」と呼び掛けるも返事がない。亮は必死に母に叫び続けた。
「どうしたの、ぼく――あらあら、大変」
 後ろから駆けつけてきた女性が母の様子を確認し、すぐに救急車を呼ぶ。亮は母の元に座り込んで、ポロポロと流れてくる涙を腕で抑え込んだ。涙で眼鏡が濡れて、手にもっていたアイスクリームはぐしゃぐしゃに萎んだ。何度も引き攣るその小さな背中を、見ず知らずのもう一つの小さな手が優しく摩ってくれていた。
「大丈夫だよ、大丈夫だよ、もう救急車来るからね」
 まるで魔法の呪文のように同じ言葉を繰り返しながら、その子は泣きじゃくる亮を懸命に守ろうとしてくれた。小さな優しさの温もりが、亮の背中へじんわりと吸い込まれる。溶けきったアイスクリームの白い液体が、亮の指の隙間からぽとりと落ちた。

 幸いにも母はすぐに回復した。医者によると軽い熱中症と貧血だろう、とのことだった。暑さと日頃の仕事の疲れが原因らしい。
 狭い病室の中で母の看病をしていた祖母は、誰かへの悪態をずっと吐き出していた。
「あの人、いくら忙しいにしても付き添いにも来ないなんて……そもそもの原因はあの人なのにねえ。いつ帰ってきてるのかも分からないし、家のことなんてほったらかしじゃない。借金のことはどうなったの。勝手にうちの土地を担保に出して。そのせいで智子さん、あなた、働くことになったんでしょ。そろそろ今後のことを真剣に考えなさいよ。亮ちゃんのことは私がなんとかしてあげるから。そうじゃないとあの子が可哀そうでしょう。結婚が決まったときから、あの人はちょっとって気がしてたのよ。だからパティシエなんて商売は信用ならないわ……」
 仏壇の前で念仏を唱えるように祖母の声は途切れなく低く続く。何度も出てくる「あの人」が誰なのか、パティシエという一言でようやく特定できた。亮の父親である。
 お父さんって、おばあちゃんから嫌われてるのかな……
 子ども心ながらも、これらの会話が自分にとってあまりよろしくないことぐらいは分かる。祖母の口から絶えず湧き出る父への不満は、孫を傷つけるには十分すぎるほどの棘を持っていた。俯きながら視線をそっと母親の方にやると、家庭の事情に過剰に干渉してくる祖母の相手に手いっぱいで、子どもの憂いにまで配慮することもできないようだった。ここにいてはいけないような居心地の悪さを亮は感じて、大人たちに悟られぬようそっとその場を離れた。廊下に出ると、花束を抱えた中年の女性とポニーテールをした小さな女の子にばったりと出くわした。
「こんにちは、ぼく。お母さんは中にいる?」
 腰を低くして亮の目線に合わす女性に気後れして、顎を小さく引き「うん」と返事する。髪の毛に緩やかなパーマをあてていて、頬が少しふっくらとした優しそうな人だった。確か、母を助けてくれた女性だったはずだ。ちょっと入らせてもらうね、と断りを入れてから、女性は母を見舞いに行った。母と祖母が女性にお辞儀をして挨拶を交わす。
 女の子と二人きりになってしまった亮は、どうしたものかとその場をウロウロと歩き回った。どこへ行こうか迷うふりをする亮と、同じく落ち着かない様子の女の子との視線が偶然ばっちりと重なり、女の子が遠慮がちに話し掛けてきた。
「……お母さん、もう元気になった?」
「うん」
「あのマンションに住んでるの?」
「うん、三階」
「私、四階だよ。四〇五号室。今何年生?」
「四年生」
「じゃあ私の一個下なんだ。担任って誰になるの?」
「増岡先生」
「えー見た感じ厳しい先生だよね。目がこーんな感じの」
 女の子は白い歯をむき出して、人差し指で両目を限りなく細く引き伸ばした。女の子らしからぬヘンテコな顔にどういう反応をするべきか分からず、戸惑って下を向いた。
「……そんなに厳しくないよ。今年から宿題減らしてくれたみたいだし」
「へー私のクラスの先生も宿題少ないよ。でも怒ると怖いんだ。授業中ふざけてた子が怒られて泣いてた」
 一言インタビューから学校の話題へとスムーズに移りかけた会話は、その続きを楽しむこともなく女の子を呼ぶ母親の声で敢え無く中断された。「遥香、帰ろう」と母親が部屋から出てきて、女の子は亮に手を振って帰っていく。
 はるか、はるか、はるか……亮は「遥香」という名前を頭の中で繰り返し、相手へ自分の名前を教えていなかったことにようやく気が付いた。
 もしまた会えたなら、あの子にちゃんと名前を伝えよう、そう小さな決意を内に秘める。
 その夜、亮は夢を見た。銀色に輝く月のような舟。それが、亮が始めて見た舟の夢だった。

  *

 手紙が来てたわよ、そう言いながら仕事から帰ってきた母が亮の部屋に入ってきた。時計の針は丁度八時半を指していた。いつもと変わらぬ帰宅時間である。
「あら、この手紙、遥香ちゃんから? 久しぶりねえ。デートの約束でもしたの?」
 母はオレンジ色の花柄の封筒を裏にして、差出人の名前を興味津々で見た。
「まさか。ブラバンのコンサートチケットだよ」と、母から封筒をさっと奪い取る。
「あらそう残念。亮の彼女が遥香ちゃんなら、お母さん嬉しいのになあ。いつでもお嫁さんに来てもらって大丈夫だからね」
「だから違うって」
「男の子としての責任はちゃんと持っておきなさいよ。間違いないように、準備するものはちゃんとしておきなさい」
「何言ってんの。しつこいって。あっち行ってて」
 はいはい、と笑いながら相槌を打って、母は部屋を退散する。その背中に亮はもう一度声を掛けた。
「冷製パスタとサラダが冷蔵庫に入ってるから。今日はそれ食べといて」
「中身は何にしたの」
「アンチョビとパクチー」
「さっすが亮先生。いつもありがとね」
 部屋を出ようとした母は「あ、そうそう」と何かを思い出したように足を止めた。
「今度の高校の二者面談、あんたの大学とか先生に訊かれると思うんだけど、どこに行くかって考えてるの」
「まだ考え中。迷惑かけないように適当な国公立目指すよ」
 亮は封筒を机の上に置き、滑らかなシャーペンの動きで古文の問題集の空欄を次々に埋めていく。
「適当だなんて言わないで、将来やりたいこと考えて真剣に選びなさいよ」
「さあ……やりたいことなんて、高校の段階で決めれるわけないじゃん。大学行ってからゆっくり考えるよ」
 亮は会話の表面だけを撫でるように返事を軽く返す。母は口にしたい言葉をここで投げ掛けるべきかどうか、踏みとどまったようにも見えた。
「……そう、じゃあお母さんも適当に先生に答えておくわ」
 母が扉を閉める。一階に降りたのを足音で確認してから、亮は封筒を開けた。『篠原亮様』と書かれた細く端麗な字に懐かしさを覚える。中にはフルートの絵が描かれた二枚のチケットと合わせて、封筒と同じ花柄の一筆箋が添えられていた。
『亮くん、この間はありがとう。チケット送るね。今回のオーディションは落ちました。また次回頑張ります。遥香』
 淡々とした文字面に無念さが滲み出ている。これを書いているときの彼女の悔しそうな顔が目に浮かぶ。亮は鼻から長めの息を出して天井を仰いだ。

  *

「遥香に名前を教えたい」という亮の願いは程なく叶えられた。亮と遥香の二人の母が、マンションの部屋を行き交うほどの親密な仲になったためだ。
 母は退院してから父との喧嘩が徐々に増えてきて、職場から父が帰ってこない日も度々あった。クリスマスの繁華期だけでなく、イベントのない閑散期にでさえ職場に泊まることが多くなった。もし帰ってきたとしても、寝るために帰る、ただそれだけだった。母と顔を合わすのを極力避けているようにも見えた。その愚痴を遥香の母に聞いてもらっていたらしい。彼女はバツイチだったため、母の良き相談相手となっていた。
 母が遥香の部屋へ遊びに行くときは、必ず亮も付いていく。お土産として遥香のためにシュークリームを作った。父から教わった自慢の菓子だった。シュークリーム作りがあまりにも楽しくて、クッキーや簡単なケーキなども本を読んで勉強し、大概の菓子は作れるようになった。菓子だけでなく料理全般は亮の最も得意とするものだった。シュークリームを箱から開けて見せたとき、予想を超える反応が遥香と兄たちから返ってきた。遥香は三人兄弟の末っ子だった。
「これ亮くんが作ったの? お母さんじゃなくて? ビックリした!」
「結構簡単に作れるんだよ。クリーム溢れるから気を付けて。甘すぎない?」
「全然美味しいよー。なんでこんなの作れるの?」
「お父さんに教えてもらったんだ。お父さん、ケーキ屋の仕事をしてるから。遥香ちゃんにも教えよっか」
「やった、教えて!」
 遥香は足を交互にぴょこぴょこと上げながら、大きな口を開けて次々とシュークリームを放り込んでいった。遥香の兄たちも同じようにそれを頬張る。みっともないからやめなさい、もう少し女の子らしくしなさいと遥香の母に叱られる。けれどそんなリアクションが亮には嬉しかった。自分の作ったものをみんなで喜んで食べてくれることの、なんと幸せなことか。亮は鼻を膨らませながら作り方を簡単に遥香に教えた。遥香もせっせとクッキーやシューを焼くようになり、浅尾家に訪問するときは、二人が競うようにして焼いた手作りスイーツがテーブルいっぱいに並ぶこととなった。
 ――久々にシュークリームを作ってみようか、と思う。ただし母のいない間に。
 中一の冬、父はマンションを出ていき、とうとう家族は完全な別居状態になった。離婚が正式に決まったのは中三の春、ちょうど一年前のことである。母は亮を引き取り、マンションを売り払い、二人で母方の祖母の家に引っ越した。病室で散々父の悪態をついていた祖母は亮が中学生のときに病気で亡くなっており、母と亮、二人きりの生活となった。
 離婚が現実的になってきたころ、母はリビングで酔い潰れていたことがある。
「あんなに融通の利かない人、二度と見たくもないわ。菓子屋と結婚なんてするんじゃなかった。亮は絶対にお父さんみたいになっちゃダメだよ」
 母の戯言なんて普段はあまり相手にはしないが、何本もの酒の空き缶に向かって恨み辛みを吐き出している母の泣き顔を見ていると、どうしてもそれを無視することができなかった。その恨み節を耳にして以来、母の前ではスイーツを一切作っていない。クリスマスと誕生日にはさすがに外で買ってきたケーキを食べるが、普段の日はケーキ屋の話題も持ち出さない。唯一楽しみにしている週末のスイーツ巡りでさえ、母には内緒にしていた。
 それでも頭に思い浮かぶのは、頬をぷっくりと膨らませながらシュークリームを食べていたときの遥香の笑顔だった。どんな人でも幸せにするほどの笑顔の輝き。落ち込んでいるときこそ、彼女にあの笑顔を思い出して欲しかった。コンサートの差し入れは、手作りのシュークリームにしようと決める。母親のいない昼間のうちに手っ取り早く作ってしまえば大丈夫だろう。
 お父さんみたいになるな、か――父の残した罪は重い。

 その晩、再び舟の夢を見た。霧の中で銀の月は静かに流されていく。
 いつもと同じように、亮は川面を覗き込む。
 そこに映るはずの亮の影は、やはりどこにも見えなかった。

Chapitre 2

 七月の第一週の日曜日、亮は市民ホールへ向かった。『M高校吹奏楽部・七夕コンサート』の日である。
 七夕の日ではないのに七夕、と言っているのが不思議な気もするが、昔は本当に七夕の日にコンサートをしていたらしい。コンサートの名称はその名残とのことだった。
 コンサートを聴くこと自体は嫌いではない。幼いころ父と一緒にクラシックのコンサートを聴きに行ったこともある。クラシック好きな父の影響もあって、元々音楽には造詣が深い。遥香のピアノの発表会を聴きに行くこともあった。発表会の後、遥香のピアノの先生を紹介してもらって、小五から中二まで四年間ピアノのレッスンに通うことになった。この経験と技術はオーボエの演奏にも大いに役立った。
 中学で吹奏楽部に入ったのも遥香がいたからだった。
 遥香がプロのフルート奏者に師事しているのを知って、知り合いのオーボエの先生を紹介してもらったりもした。プロは講師代が高くつくので、音大卒のセミプロの人ではあったが。亮は何かにつけては遥香の行動に影響され続けてきた。
 ロビーをウロウロと歩き回り、人が混みあう中で目的の人物を探す。隅っこの方で目立たないようにソファに座っていた友人をようやく見つけることができた。
「吉野、悪いな、休みの日に誘って」
 亮の声に吉野が顔を上げる。愛想のない一重の小さな目が機嫌悪そうに亮を睨んでいたが、本当に機嫌が悪いわけではない。この表情は人を見るときのいつもの癖だ。手元のスマホの画面には何かのゲームのキャラが稲妻のような光を放っていた。
「予定がないからいいけど、俺なんか誘ってどうすんのっては思ったよ。吹奏楽の曲なんて全然知らんし」
「興味なかったら寝ててくれていいよ。せっかくもらったチケットだし、無駄にしたくないから来てくれただけでも助かった。他に誘える人なんていないから」
「それはそれで寂しいな」
「まあ仕方ないっしょ」
 亮も吉野も外部進学者同士で部活に入らず、これといった友人がいない。交友関係が狭いのもあるが、中学からの内部進学者の多い高校に通うから尚更である。そういう意味では二人は似た者同士の貴重な存在だった。
 受付でチケットを渡し、差し入れを所定の場所に持っていく。部員たちへの激励の花や菓子の入った袋が並ぶ長テーブルの上に、遥香宛てのメッセージカードがテープで貼り付けられた花束を見つけた。ピンクに咲いたバラが三本。送り主は亮も知っている男の名前だった。それは胸の奥にくすぶっていた残り火をちりちりと疼かせるものだった。楽しみにしていた演奏会を前にして今は嫌な思いをしたくない。火の粉で延焼しないように、苛立ちという煙を吐く焔にしっかりと蓋をしておく。
 ホールに入ってすぐの通路に近い場所に座る。会場はまだ明るいが、吉野は小柄な体を椅子に深々と埋めて目を瞑り、寝る態勢に準備万端だった。
「もう寝るのか」
「いいじゃん別に。ニフルハイム帝国との死闘で朝五時まで戦ってたんだよ。しばしの休息をさせてくれ」
 どこだそれ、と疑問に思ったが、大方ゲームの話だろうということは察しがついた。吉野は生粋のゲームマニアで、将来はeスポーツで生計を立てるとか宣言しているよく分からんやつだが、ゲームであれ何であれ、ふざけることなく本気でしようとしているところには好感が持てていた。
「なあ、篠原って中学で吹奏楽してたの」
「オーボエ吹いてた」
「オーボエ? オーボエってどんなんだっけ」
「木管楽器で、黒くて細長くてクラリネットと形は似てるけど、リードが二枚合わせで付いていて……」
「ああ、そこまで教えてくれんでもいいよ、どうせ分からんし。しっかし、よくそんなのしてたな。中学のブラバンって、大概女ばっかじゃん」
「まあな。部員三十八人中、男四人だけだった」
「マジで。ハーレム感すげえな」
「残念ながらあんまりその恩恵は受けなかったな。発言権は女の方が強いし、男の立場がすこぶる弱い。逆に男だからっていいようにこき使われたよ。ティンパニとか大太鼓とか、重いものの運搬は大概が男子担当だった。演奏中に出てくるシャウトみたいな女子が嫌がるようなやつは、恥ずかしくても無理やりさせられたことだってあった」
「つまりは雑用係じゃん。シャウトって何それ。なんだか面倒くせえな。俺にはできんわ」
「でも楽しかったけどね。みんながいろいろと頼ってくれたからそれはそれで嬉しかった。元々音楽は好きだし、コンクールは燃えるし」
「ふーん、俺には分からん世界だなあ」
 自分に関わりのない世界にはとんと興味がないらしく、吉野はすぐに夢の世界へと旅立った。全く可愛げのない態度だが、素直な反応ではある。音楽を携わらない人に、全員が一つの音に溶ける一体感というものを理解してもらうのはなかなか難しい。
 開演の時間が迫り観客が増えてくる。八割ほどの席が埋まった。出演者の親や友人知人たちが、それぞれの応援を静かな騒めきに寄せている。会場が暗くなり囁き声が限りなく小さくなった。演奏を待つ観客の興奮と、ステージ奥に控える演奏者たちの鼓動とが混ざり合った束の間の緊張。パンフレットを持つ指がじっとりと湿ってくる。空気がピリピリとしたこの瞬間が懐かしい。ものすごく怖くて、ものすごく好きな瞬間だった。
 演奏者がぞろぞろと薄暗いステージに上がってくる。トロンボーンの中に、先日ケーキ屋で会った田子山先輩の姿を発見した。背が高いので遠目からでもよく目立つ。フルートパートには遥香の姿もある。チューニングが始まって音が滑らかに中和されていく。舞台が明るくなり、男性の指揮者が登場して指揮棒を構える。金管の方に向かって指揮棒の先で静かにリズムを作り出す。
 演奏は酒井格作曲の『ザ・セブン・ナイト・オブ・ジュライ』から始まった。たなばた、という日本語の題名が添えられている曲だった。七夕コンサートにちなんで選ばれたのだろう。出だしにポーンと一本の管が鳴り、金管のファンファーレによって音楽は始まった。星がきらきらと騒めくようなイントロの後、織姫と彦星のしっとりとした恋物語が魅惑的なサックスの音色によって奏でられた。そして金管による派手なスターダストのオンパレード。コミカルな打楽器のテンポと共に星が次々と流れ落ちていく。トランペットの高音域が打ち上げ花火のような華やかさを出す。最後に全ての管楽器が一年に一度の奇跡を祝福して曲は閉じられる。
 次は小長谷宗一の『スター・パズル・マーチ』、恐らくこれも七夕を意識した選曲だろう。それに『スター・ウォーズ・コンサートセレクション』、ホルストの『木星』など。全体的に星に関する曲が多いようだ。
 演奏会は第二部に移る。ボロディン作曲の『ダッタン人の踊り』はオーボエソロが美しく、自分も演奏したいとかねてから思っていた曲で、少しばかり興奮を覚えた。指使いが超絶に難しいからとクラリネットパートの猛反対にあって、結局は演奏が叶わなかったのだが。M高のオーボエ奏者も、亮が十分に満足できるほどの素晴らしい音色を見せてくれた。
 第三部ではポップスが始まり、テイラー・スイフトの『シェイク・イット・オフ』が演奏される。部員による賑やかなカラオケ大会が始まり、観客の手拍子で吉野の健やかな眠りもさすがに妨げられた。
「なあ、これってなんかの余興? それとも罰ゲームか何か?」
 覚醒したばかりの吉野が寝ぼけ眼で戸惑うのも無理はない。手拍子と共に女子部員が金色のカツラを被って舞台袖から現れ、プロの歌手さながらに熱唱していたからだ。しかもマイクを通した歌声をよく聴くと、それは田子山先輩のものだった。似非外人のフィーバーぶりに亮の口が埴輪のようになる。彼女の歌は英語の発音がよく、ビブラートも利いていて声に張りがある。並の素人よりも断然上手い。歌手としてユーチューバーになるのではないかという噂があったが、あながち嘘ではなかったのかもしれない。
 遥香がオーディションを受けた『君の瞳に恋してる』も始まった。フルートソロは三年生が選ばれていた。この三年も上手だったが、遥香の演奏技術だってかなりのもののはずだ。最後の演奏会の花道として三年生に配慮したのではないか、という気もした。
 ラストは『展覧会の絵』、これで演奏がすべて終わり盛大な拍手が送られた。吉野がやれやれもう帰るかと伸びをしたところで、アンコールの『セプテンバー』が始まる。「え、ウソ、まだ演奏やんの?」という素っ頓狂な彼の一言で、観客からひんしゅくの視線を一斉に浴びる羽目になった。
 久々に押し寄せてきた音の奔流に、亮の指先や足、心臓に至るまで全身が震えた。友人と別れ、家に帰ってからもこの震えは止まることがなかった。
 部屋に入り、机の上に広げたパンフレットを眺める。紙の端の方が指の汗を吸い込み波打っていた。曲の題名が演奏会の記憶を呼び覚まし、木管、金管、打楽器それぞれの音が流れ星のように頭の中に落ちてきた。忘れかけていた、そして忘れようとしていた音楽へのパッションが、再び亮の胸にはち切れんばかりに膨れ上がってきた。やはり自分は音楽が、そしてオーボエが好きだったんだという渇望が身体の内に蘇ってきた。
 自分の選んだK高校にだって吹奏楽部はもちろんある。けれど亮は入部を諦めた、というよりも、入部しないという選択肢を選んだ。勉強のことがある。生活のことがある。通学に時間が掛かる。叶わなかった目標への悔しさや挫折だって経験した。それよりも何よりも決定的だったのが、遥香の存在だった。
 受付で目にしたバラの花束。メッセージカードに書かれた男の名前……あれだけは思い出したくなかった。こんな辛い思いはもう勘弁してほしい、と頭を抱える。本音を言えば亮は音楽から離れたくはなかった。けれども音楽をすれば必ずあの時の感情が蘇る。音楽を辞めてようやくそれが消えたというのに、音の奔流が抑えていた蓋を思いっきり吹き飛ばしてしまった。つい油断したと激しく後悔する。こんな気持ちになるのは二度とごめんだった。目を閉じて、これ以上考えるなと強く念じる。吹奏楽部の青春が描かれたパンフレットに腐った気持ちを全部丸めて、勢いよくゴミ箱に放り投げた。
 やっぱり演奏会なんて行くべきじゃなかった。
 音楽のことはもう忘れよう。彼女にも会わない。
 連絡もとらないし、絶対に会ってやるものかと心に誓う。

  *

 スーパーでタコ、アスパラ、ジャガイモ、ニンジン、牛乳、卵、パン、切れかかった調味料を選ぶ。夕刻のタイムセールを求めてきた主婦たちでレジは混んでいた。並ぶのも嫌なのでセルフの方で会計を済ます。スーパーを出て歩いて家に向かう。横断歩道を渡り、細い路地へ入り、漆喰の白い塀のある家の角を曲がったとき、目の前を歩く女性の姿があった。見覚えのある姿に意表をつかれて手にしていたレジ袋を落としそうになり、あやうく卵が割れるところだった。
「遥香さん……こんなとこで何してんの」
「あ、亮くん。突然にごめんね」
 亮の声に気が付いた遥香は持っていた小さな箱を掲げて見せた。今日は胸元に紺の刺繍のついた白いシャツ、アンクル丈のジーンズに明るめのグレーのスニーカーというカジュアルなスタイルだった。
「ちょうど今、亮くんの家に行こうと思ってたとこなんだ。コンサートに来てくれたお礼に、お母さんがケーキでも持って行けって」
「そんなの、わざわざいいのに……」
 遥香が手にしていた小ぶりの箱は、亮も気になっていた行列のできる評判の店のものだった。ケーキに母が拒否反応を起こさないだろうかと不安が頭によぎったが、遥香からのものだと言えば多分大丈夫だろう。とにかく少しでも早くこの場を切り上げようと、箱を受け取ってさっさと帰ろうとする。
「どうもありがと。演奏会も楽しかったよ。ケーキは有難くもらってくから、じゃあまた……」
「差し入れのシュークリームもすっごく美味しかった。あれわざわざ作ってくれたんでしょ。一口食べてすぐに分かったよ。さすが亮くんだなって思った」
「ああ、あれ……あんなのぐらいしか作れないけど、口に合ったんならよかった。それじゃあ……」
「それ、もしかして夕食の材料?」
 白いレジ袋を興味ありげに見やりながら、次から次へと畳みかけるように遥香が問う。
「え? ……うん、そうだよ。今から夕食の準備」
「すごいなあ。今日は何作るの?」
「タコとアスパラのアヒージョ風」
「えー何それ、美味しそう! 亮くんってほんと、なんでも作れるよねー。しかも全部美味しいし」
「そうでもないけど……」
「…………」
「…………」
 この会話の流れはいったいどこに向かっているのだろうか。奇妙な沈黙を怪しみつつ、まさかとは思いながらも恐る恐る遥香に尋ねてみた。
「……えーっと、よかったら食べてく?」
 まるで電気が灯るように、遥香の表情がぱっと明るくなった。遥香の反応に、嘘だろ、マジでか、信じられんと面食らいつつ、つい誘ってしまった自分の意志の弱さにほとほと呆れてしまう。遥香から離れようと決意したのはつい先日だったはずだが。惚れた男の性というべきか、男の弱みとでもいうべきか。呑気に自分の隣を歩く遥香が恨めしくて仕方がなくて、その感情を掻き消すように肩で大きく息をついた。

 帰宅して遥香を居間へ通し、台所に入って夕食の準備に取り掛かる。アパレル業界で働く母は残業も多く、母の休日以外、夕食は専ら亮の担当だった。
「おばさんって土曜日もお仕事なんだ。帰りは遅いの?」
「土曜は仕事があったりなかったり。でも今日は残業早く切り上げてくれるって」
 母はもともと主婦業に専念していたが、亮が五歳のときに仕事に復帰した。父の店の開業で家計が苦しかったからだ。有難いことに結婚する前に働いていた職場から声を掛けてもらい、三年間ほどパート職員として働き、その後は無事に正社員登録となった。仕事は忙しく残業は多いものの、自分の能力を存分に活かせてもらえる職場だと母は喜んでいる。
「もうすぐ帰るってLINEで言ってたから、安心してくれてていいよ」
「亮くんだったら全然平気。気にしないで」
 居間のソファに座ってのんびりと寛ぎながら、遥香は疑問というものがこの世に一つもないかのように答えてきた。包丁とまな板を出しながら、おいおい何言ってんの、と突っ込みたくなる。小学生の時ならいざ知らず、高校生ともなると余計な知識と無駄な煩悩が溢れんばかりに脳内に住みついているのだが。遥香にとって自分はいつまでたっても弟感覚なのだろうかと思うと、さすがに少しばかり悲しくなってくる。
 ジャガイモはレンジでふかす。フライパンにオリーブオイルを入れてニンニク、タコ、人参、ふかしたジャガイモを炒める。最後にアスパラを加え、レモン汁、蜂蜜、マスタード、塩コショウで味を調えて手早く一品仕上げた。
 玉ねぎのスープも作っておく。コンソメとチーズを入れてオニオンスープも完成。
 フランスパンを切って軽くトーストする。料理と焼いたパンを白い皿に盛りつける。テーブルの上に雑多に置かれていたリモコンやプリント類や郵便物や新聞を脇にどけて埃をクロスで拭き取り、作った料理を並べた。テーブルに漂う香ばしい匂いに釣られてきた遥香は、彩りよく盛られた料理を見て口から歓声を飛ばす。
「もう出来たの? わあ美味しそう! いつもこんなの作ってるの? やっぱり亮くんって何でもできて、尊敬するなあ。いただきます!」
 手を合わせて遥香は勢いよく料理を口に運んだ。頬をリスのようにぷっくりと膨らませ、夢中になって食べている。初めてシュークリームを食べてくれたあの時と同じような笑顔が輝いていた。遥香の真向いの椅子に座って頬杖をつき、彼女の気持ちいいほどの食べっぷりをぼんやりと眺めていた亮は、ふらりと立ちあがって冷蔵庫の扉を開け、奥から銀色の缶を一本取り出して食卓に持ってくる。
「遥香さんも飲む?」
「え?」
「まだ何本か冷蔵庫にあるから。欲しかったら言ってよ」
 遥香は食べるのを止め、きょとんとして亮の顔と勧められた缶を見つめた。何秒か交互に見続けた後、自分が酒を勧められたことにようやく気が付いたようだ。亮はプルタブに爪を掛け、缶に口を付ける。遥香は箸をテーブルに叩きつけ、亮の手をがっちりと捕まえた。振動で缶の液体が大きく波打つ。
「ちょっと何すんだよ! あーもう、シャツに零れたじゃん」
「ダメだよお酒なんて!」濡れたシャツに慌てる亮などお構いなしに、遥香は亮の手から缶を引き剥がした。「まだ高校生じゃん! 飲んじゃだめだよ! おばさんにも怒られるよ」
「母親だって知ってるよ。アルコールが少ないやつだから大丈夫だって。周りのやつらはみんな飲んでるよ。ちょっとくらいいいだろ」
「周りが飲んでても私は飲んでないよ。私の友だちだって飲んでないよ」
「遥香さんも遥香さんのお友だちも、俺には関係ないことだけど」
「関係あるよ! 関係なくてもお酒はやっぱりダメ!」
「うっさいなあ。親じゃあるまいし、なんでそんなに真面目なの」
「真面目かもしれないけど普通のことだよ。なんかおかしいよ、亮くん」
「おかしい? はっ……俺にとってはこれが普通だけど。もう小学生じゃあるまいし、いつまでもガキんちょと同じなわけないだろ。ただ単に遥香さんが知らないだけ。勝手に描いた昔の偶像と理想を俺に押し付けんなよ」
 冷ややかにあしらう亮の視線を受けたからか、それとも最後の亮の一言で我に返ったからか、いきり立っていた遥香の感情は急速に萎んでいった。そのまま気力を失ったようにストンと椅子へ座り込む。
 亮は濡れたシャツを着替えるために洗面台へ向かう。
「酒は飲まないよ。悪いけど冷蔵庫に戻しておいて」
 遥香からの返事はない。着替えが終わって居間に戻ると、酒はテーブルの上に乗ったままだった。遥香は椅子に座って俯いており、髪の毛に隠れて表情が読めない。そんなに自分は酷いことを言っただろうかと理不尽な思いに駆られつつ、缶を冷蔵庫へ戻し、代わりにジュースを持ってきた。遥香の前にも同じものを置いたが、遥香は俯いたまま手を出さなかった。真向いに座るのも気まずいので、遥香の後ろで膝を立てて座り込む。母が職場でもらったとかいう安物のジュースは、あまりの下品な甘さに一口飲んだだけで顔をしかめた。
「遥香さん、もううちに来ない方がいいよ。というか来ないで」
「……どうして」
「だって彼氏いんじゃん。中学んときの人。演奏会のときにバラ持ってきてたでしょ。彼氏持ちの人が他の男の家に軽々しく来るなんて、誘ってしまった俺もバカだったけど、傍から見てもヒンシュクっていうか正直どうかって思うよ」
「違うよ、あの人は――」遥香は体を少しだけこちらへ体を捻り、また元に戻した。「高校入ってから別れたんだよ。違う高校だし、部活も忙しいし、どうせ会えないんだったらもう離れようって。この間は定演を聴きに来てくれただけ」
「え、そうなの」
「うん」
 そうなのか、と了解したものの、はて、別れた彼氏というものはわざわざ元カノの演奏会に赴いて、気障ったらしいバラの花束など贈るだろうかと別の疑念が頭にもたげた。遥香の方は別れたつもりであっても、彼氏の方はそう思ってはいないのではないだろうか。もしくは遥香のことを諦めきれていないとか。まあ、同じように恋に破れながらも手作り菓子なんか贈ってしまっている自分のことを考えると、人のことをとやかく言えるような筋合いではないのだが。
「私、亮くんに会えて嬉しかったんだよ」
「まさか」
「本当だよ。ねえ亮くん、また音楽を一緒にしようよ。亮くんのオーボエを聴きたいよ」
「…………」
「いつかアンサンブルしたいなあって思ってたんだ。ヒナステラの『フルートとオーボエの為の二重奏』って知ってる? 小さいコンサートで昔聴いたことがあって、二本のハーモニーが素敵なんだよ。これ、楽譜を取り寄せたんだ。亮くんと一緒にできたらいいなあって。今は高校違うし勉強だって忙しいから無理かもしれないけど、大学入ってからでもいいから」
 亮はしばらくの間考え込んで、不味いジュースを飲み切った。全く、遥香もジュースも甘すぎるなあと思う。軽くなった空き缶を両手で持って、手持ち無沙汰にアルミの表面を何度も親指で押していく。ポコポコとした乾いた音が何個も部屋で跳ねまわる。
「オーボエ吹きなんてどこにでもいるだろ。M校のオーボエも上手かったよ。どうしてもアンサンブルをやりたいんだったら、あの人に頼んだら? 俺なんかに頼んなくても、同じ学校の人だったらいつでもできんじゃん」
「亮くんじゃないと嫌なんだよ」
「なんで。俺の方がきっと下手だよ」
「下手じゃないし。亮くん、去年ソロコンテストの本選に出てたじゃん」
 親指で抑えていた空き缶の表面が、強く押しすぎて何か所も凹んだままになった。
「何でそのこと知ってんの」
「後輩の活躍を先輩が応援するのは当たり前でしょ。私も本選まで聴きに行ってたんだよ。頑張って演奏してる亮くんのオーボエを聴いて、すごいなあって思ったんだ。ソロコンなんて怖すぎて、私にはできなかったことだから」
 亮は凸凹になった空き缶を床に置いた。重心の傾いた缶が不安定にぐらつく。
「わざわざ俺の演奏を? そりゃどうも。残念ながら俺の実力では賞に入んなかったけどね」
 自嘲混じりの苛立ちを返されて、遥香は少しばかり返事に間を開ける。
「……賞は残念だったけど、亮くんの演奏だってかなりレベルが高かったよ。それにさ、亮くんって周りの音をちゃんと引き立ててくれるよね。アンサンブルの楽しさって呼吸の合わせ方なんだよ。技術の上手い下手よりもそっちの方がもっと大事。私と亮くんって、呼吸の相性がいいなってトゥッティしながらずっと思ってた。音色とか、ビブラートのかけ具合とか、音の入りとか。合わす音を大事にしてくれるっていうのかな、そういうのが伝わってきた。亮くんと音がピタリと嵌る瞬間って、すっごく気持ちいいんだ」
 トゥッティ、とは音合わせ、つまり合奏のことである。思いもよらなかった遥香からの告白にどういう態度を取るべきものか、亮は返すべき言葉が見つからなかった。遥香本人にそういうつもりがあるのかないのか、一歩間違えれば勘違いしそうになるぐらいの台詞なのだが。
 遥香に彼氏がいると知ったのは、中学二年の冬のことだった。中学生になって、やっと遥香と一緒に音楽ができて嬉々としていたというのに、付き合っている人がいると分かった時のあのショックなど彼女は知る由もないだろう。優しく接してさえいれば、誰でもみんな無条件で喜んでくれるとでも思っているのだろうか。この人は本当に、安物のジュースよりももっと甘すぎる性格をしている……と、半ば呆れはするものの、何気に出てきた「相性がいい」とか「気持ちいい」という魅惑のフレーズに、つい心動かされてしまったことも自覚しないわけではないわけで、まったく単純というか調子がいいというか、好きな人の言葉一つで簡単に踊らされる自分に泣けてくる。
「急にこんなこと頼んじゃって返事しにくいよね。ごめんね。とにかく、よかったら少し考えてみて。今日はごちそうさま」
 食べきれていない夕食の残りを詫び、遥香は立ち上がって帰る素振りを見せた。それと同じタイミングで「ただいま」と玄関から声がした。母が職場から帰ってきたようだ。
「あら、遥香ちゃんお久しぶり」
「おばさん、こんばんは、お邪魔してます」
 レジ袋を提げて居間に入ってきた母に、遥香は立ち上がって恭しく頭を下げた。柔順な遥香に、母は目尻を下げて喜んだ。息子一人しかいない母にとって、女の子の存在というのは計り知れないほど尊いものらしく、母は遥香に娘も同然の愛情を見せていた。母は機嫌よく台所へ入り冷蔵庫を開け、買ってきた食材を次々と冷蔵庫へ放り込んでいく。牛乳や卵など、亮の買ってきたものとダブっているのもあって、冷蔵庫の中の食材たちは二人分以上の賑やかな混雑ぶりを披露していた。
「遥香ちゃん、大人っぽくなって可愛くなっちゃって。もとから可愛かったけど、更に磨きがかかったっていうか。あまり綺麗な家じゃないけど、気を遣わずにゆっくりしてってね。――あ! バカ亮! ビール開けたな! せっかく奥の方に隠しておいたのに」
「蓋空いてるけど飲んではないよ。ちょっとくらいいいじゃんか」
「ダメだってあれほど言ってるのに、もうー。約束を守らないなら小遣い減らすよ。ごめんね遥香ちゃん、亮に変なことされなかった?」
 母の一方的な物言いにカチンときて、亮はすかさず反論する。
「変なことってなんだよ。するわけないだろ。息子に文句言うくらいなら自分が飲むなよ」
「あ、全然大丈夫です。ご飯もご馳走になっちゃって」
 遥香は多少ぎこちない笑顔で母の気遣いに応えた。
「亮くん、相変わらず料理上手いですね。この間も演奏会に来てくれて、シュークリーム持ってきてくれたんです。亮くんが作ってくれたやつ。久しぶりに食べることができて、ほんと嬉しかった」
 あ、と亮は目を見開いた。反射的に左の中指がピクリと動く。
 冷気を発する刃が首筋から背中へ向けて当てられたようだった。
「……シュークリーム? え、亮が作ったの?」
 母の表情にさっと変化が出る。と同時にその微妙な変化が亮の心臓を瞬時に凍えさせた。それはダメだ。母にそれを言っちゃいけない――そんな亮の焦りなど露知らず、遥香は口元の微笑みを崩さずに会話を続けた。
「久しぶりに亮くんに会ったのも、ケーキ屋さんなんですよ。二つ向こうの駅近くの店で、一人で美味しそうに食べてて。亮くんって今でもケーキが――」
「遥香さん!」大音量で放った声が遥香の声を無理やり上書きした。「もう帰ろう。外、暗いから。よかったら家まで送るよ」
 有無を言わさず会話を終了させて亮は床から立ち上がった。勢いで脇に置いていたジュースの空き缶をうっかり倒す。缶は勝手に倒された不平の金属音を鳴らしながら、台所の手前まで滑るように転がっていった。亮と空き缶のダブルの喧騒で、遥香は窓の外の暗闇にようやく気が付き、ほんとだ、と慌ててバッグを肩に掛ける。
「おばさん、またよかったらうちにも来てくださいね。母も会いたがってます」
「あらそう。お母さんの携帯とかおうちの電話番号って、まだ変わってないよね?」
「あ、はい、前と同じです」
「じゃあ、お言葉に甘えて連絡させてもらうわ。遥香ちゃんもまたゆっくり遊びに来てね」
 家まで送るという亮の好意を、遥香は玄関先でやんわりと断った。まだそれほど遅い時間じゃないから、と口にしてはいたが、もしかすると先ほどの喧嘩を気にしていたのかもしれない。
 居間に戻ると、母は温め直した夕食をテーブルに運び黙々と食べている。要らないことはこれ以上口にしないでおこうと、亮も椅子に座り黙って夕食を食べ始めた。

 その夜、また亮は銀の舟の夢を見た。
 相も変わらず影はないが、影があろうがなかろうがどうでもいいと、気楽に構えるようになった。舟の中に足を伸ばし、霧しかない空をぼんやり見上げ、目を閉じる。
 そういえば、影を奪われたホフマンの顛末ってどうなったんだっけか……亮はオペラ『ホフマン物語』のストーリーをなんとかして思い出そうとした。
 しかし子守歌のような波の響きが亮を無意識の揺らぎへと引き込んでしまい、その努力を成し遂げることは結局できなかった。

Chapitre 3

『亮くん、この間は夕食ありがとう。よかったら今度の日曜日、どこか遊びに行かない? お友だちも誘ってみてね』
 このLINEメッセージにどういう返事をするべきか、既読状態のまま延々半日も思案に暮れている。遥香の真意がどこにあるのか、いくら頭を捻って考えても分からない。休み時間中ずっとスマホと睨み合いを続けていて、随分と無駄な時間を過ごしてしまった。
「なあ篠原、悪いけど数学のノート見せて。授業中ずっと寝ていて、どこまで進んだのかが分からん」
 後ろの席から自分を読んだ友人の顔を見ると、いつものご機嫌斜めな目つきがさらにどす黒いものになっていた。まるで一時間格闘して獲物を捕まえられなかったマグロ漁師のような面持ちである。いくらマグロといえども、この強面では恐怖で一目散に逃げ去ることだろう。
「吉野、お前もしかしてまたゲームで寝てないのか。顔色が酷いぞ」
「仕方ないだろ。釣りがどうしても上手くいかなかったんだよ。俺には運が全然足りん」
「……もしかして、ほんとにマグロでも釣ってるのか?」
「はあ? どうぶつの森の話でもしてるのか? 俺が欲しいのはピンクイビルガーだ。あまりにもそいつが恋しくて、授業中だというのに夢にまで見てしまった」
 ガーかギ―かジャンケングーかは知らないが、これ以上の会話を続ける気もなかったので、言われた通り数学のノートを貸して黙らせる。飢えた狼が餌にありつくようにノートに食らいつき一心不乱に書き写している吉野を見ていたら、ふと昨夜の夢のことを思い出した。
「なあ、同じような夢を何度も見たことってあるか」
 数字で埋まっていくノートから吉野は少しだけ目を離し、額に皺を作って上目遣いで亮の顔を見た。
「怖い夢なら小さい時によく見たけど。竜巻が起こってるやつとか、誰かに追い掛け回されているやつとか。テレビや本で刺激を受けたときに、よく見ては泣いて起きてた」
「ああ、そういうのは俺にもあったなあ。いや、そういうんじゃないんだ。昨日も見たんだけど、なんかこう、奇妙な夢なんだ。ゴンドラって言うのかな、三日月みたいな銀色の舟に乗って、霧の中でどこかに流されてる。ついでに自分の影がなくなってるんだ。そんな夢を何度も見る」
「なんじゃそりゃ、影がないってピーターパンか。自分で言ってて恥ずかしくないのか」
「恥ずかしいに決まってるだろ。でも本当のことだからしょうがない」
「まるで漫画か小説だな」吉野はシャーペンを走らせながら、鼻からへっと息を出すような奇妙な笑い声を出した。「小説か映画だったら、それはあなたの前世でしたー、なんと海賊でしたーって話になるんじゃないか。ゲームなら、そのまま勇者にでもなってどこかの異次元に飛ばされる」
「頼むから真剣に答えてくれ。不思議ちゃんになるってわけじゃないよ。それに海じゃなくて川だから海賊にはなれない」
「川? 海でも湖でもなくて?」
「え? あ、うん、そうだな……」
 言うだけ言ってから、はて、霧ばかりで景色の全然見えないあの場所が、どうして川だと見分けがついたのだろうと自分で不思議に思う。川と思い込んでいただけなのか、それとも川だと断定する理由が他にあるのか。
「悪いが夢占いも心理学も俺には分からんぞ」
「吉野がどう思うかだけでいいよ」
「どう思うか、ねえ。それだけじゃあ満足に答えられんな。データが足りん。他に情報はないのか」
「さあ、さっぱり思い出せん」
「他人に訊くぐらいなら少しは思い出す努力ぐらいしろよ。で、その夢ってしょっちゅう見るのか? 毎日か、それとも何日おきか」
「いや、そんなには見ないよ。高校に入ってからは二回ほど。その前に見たのは中学に入る前と、それから小四の夏くらいだったと思う」
「じゃあ環境の変化も関係してるのかもな。所詮は夢なんて体験した記憶をもとに脳が生み出すもんだろ。案外似たようなところに行ったことがあるんじゃねえの。それともテレビや本で見たか」
 それは亮自身も考えたことがある。亮は頭の後ろで手を組んで教室の天井に問いかけたが、夢と同じような景色に見覚えはない。
「ダメだな、やっぱり思い出せん。舟なんて乗ったこともないし。とすると本かなんかで読んだイメージなのかな……あ、そういえば、『ホフマン物語』だ。これがいつも連想されてくる」
「ホフ……なんだって?」
「ホフマン物語だよ」組んでいた手を下ろして吉野の机に肘を掛けた。「オッフェンバックって人が作ったオペラ。ホフマンっていう人が主人公で、そいつがジュリエッタっていう女性に影を取られるんだけど、なぜか夢の中でいつもそのオペラを思い出してるんだ。寝ているのに思い出すって表現も変だけど」
「そのオペラ、観に行ったことがあるのか」
「いや、うちにCDだけある。CDにオペラの概要を載せた解説書がついていて、影のこともそこに書いてあった」
 無事に写し終えたノートを返して、吉野は軽く礼を言った。
「ふうん……オペラにホフマン、取られた影に三日月みたいな銀色の舟、か。なんとも豪華絢爛な暗号のオンパレードだな。まあノートのお礼に時間があったら調べてみるよ。そのCDも今度貸して。音楽には疎いからあまり期待して欲しくないけど」
「助かるよ。ついでにもう一つ相談があるんだけど」
「え、まだあんの」
 思いっきりしかめっ面をした友人の顔に思わず吹き出す。亮は右手に持っていたスマホを彼の目の前に掲げ、画面を見せた。
「演奏会のチケットをくれた知り合いの人が、お友だちも誘って遊ばないかと無茶ぶりしてきた。頼めるのはお前しかいない。またすまんがよろしく頼む」
 吉野の顔が、この世の最後とも思えるような悲痛な面持ちになっていた。

  *

 どこに行こうか、という相談になり、自分たちが楽しめるようなものを考えたのだが、興味のある娯楽などこれといってない。映画に行くにしても面白そうなものがないし、屋外の遊園地やテーマパークは暑すぎる。さすがにプールは恥ずかしいにも程があるので、最終的に選ばれたのは遥香が薦めてきたアミューズメントパークということになった。
 彼女が連れてきたのは予想通り田子山先輩だった。遥香、それに田子山先輩と吉野は初の顔合わせとなる。田子山先輩はスラリとした身体つきで背が高く、逆に吉野は小柄なタイプなので、二人が並ぶと五、六センチほどの身長差があった。
 年上の女性たちを前に、吉野はどうも初めまして、と神妙に挨拶した。
「この間、演奏会来てくれたんだってねーどうもありがと! 吉野くんって言うの? じゃあヨッシーだね。シノッチにヨッシー、今日はよろしくう!」
 出会って早々、緑色のゲームキャラの呼び名にめでたく認定された吉野は喜ぶこともなく、顎を突き出し一重の目を細めて素直な反抗を示していた。この人と先日の演奏会でカラオケをした金髪女性が同一人物などとは、今は伝えない方が賢明だろうなと亮は即座に判断した。
 何から遊ぶ? との遥香の問いに、見るからにカラオケに行きたそうな田子山先輩を完全に無視して、ダーツやビリヤードなど普段できないようなものをしたいと亮と吉野二人で提案した。女性陣もスポーツと体力にそれほど自信がないようで、すぐにそれで決定となる。すんなりと提案が通ったことで、亮は内心ほっと胸を撫でおろしていた。たとえ相手が先輩であっても、女性の前でテニスやサッカーなどの不格好な技術を披露したくはなかったからだ。誰も経験したことがないものなら、たとえ負けたとしてもそれほど恥は感じない。この案は、自分たちのみみっちいプライドをなんとしてでも守るために、亮と吉野が頭を突き合わせて必死になって考え抜いた作戦だった。
 とはいえダーツなんて初めての経験だから、最初から上手くいくはずもない。矢がまともに的に当たらなかったり、当たっても的から完全に外れていたりと一苦労だった。
「手の動きを一定にして、目標物をしっかり見るんですよ。自分が思っているよりも的は随分と上の方にあるから、そこに気を付けてください」
 田子山先輩のいる手前、亮は遥香に対して他人行儀を徹底している。年下だから何もできないと思われるのだけは嫌で、知ったかぶりをして遥香にものを申していたのだが、アドバイスなんて所詮はネット検索で得た情報。偉そうに助言する傍からダーツの矢をことごとく的から外していて、恰好いい姿を披露できるどころか恥をかくだけだった。
 それでも続けていればそれなりに慣れてくるもので、二巡目に入ったときには的に当たる確率がぐんと増えてきた。意外にも見違えるほどの上達ぶりを披露したのが遥香だった。一度だけ的の中心に矢が刺さり、三人からの拍手喝采を浴びた。逆に最下位は亮だった。「オーボエ吹きって器用な人が多いと思っていたのに……」という田子山先輩からの何気ない一言に、ダーツの矢が心臓へもろに刺さったような惨めな気分を味わうことになった。
 ビリヤードでは遥香と亮、田子山先輩と吉野で分かれた。これもルールをネットの一夜漬けで覚えている。遥香にキューの持ち方を丁寧に教えて二人で玉突きをしていると、これはもうWデートと言ってもいいのではないか、と嬉しいような照れくさいようなもぞもぞした気分になってきた。遥香がどうしてわざわざ自分と遊びたいなどと言ってきたのか、その理由にはまだ辿り着けてはいないのだが。
 隣の二人はというと、手足のリーチの長い田子山先輩が圧倒的に有利で、吉野は自分の思い通りに動いてくれない手玉への怒りを真っ赤な顔に表明していた。健気に努力したお勉強も空しく、男性陣はどちらもことごとく惨敗のようである。
 その後フードコートで軽食を食べ、ボールを的に蹴って点数を競うキックターゲットで身体を動かす。他へ移動しようかとぞろぞろと歩く間、友人は首を左右に動かして何かを探すような素振りを見せはじめた。
「吉野、なんか気になることでもあるのか」
「……すまん、ひとつだけどうしてもやりたいのがある。今だけでいいから俺をここから解放してくれ」
 そう置き言葉を残すと、呆気にとられる仲間たちを尻目に吉野は反対方向へ猛ダッシュした。向かった先はなんとゲーセンだった。
 吉野は太鼓の達人の前に立つと、バチを両手に握りしめ、人が変わったように太鼓を連打し始めた。その華麗なバチさばきと正確なリズムは、プロの打楽器奏者でさえも舌を巻くのではないかと思えるほどだ。見ず知らずの人たちでさえも足を止めるほどの、圧倒的な業だった。スコアは『良』が八割、『可』が二割、当然のことノーミス。身近な友人がゲームどころかゲーセンの娯楽にさえも究極の強さと美しさを追及していたことに亮は感動を隠しきれず、曲が終わったときには心からの喝采を送ってしまった。
「お前……なんかいろいろとすげえな」
「まあそれほどでも。しっかし腕がなまったなあ。中学の時の方がもっと上手かった。もう一回やれば、もっとスコアが伸ばせるかもしれん」
 どうしたわけかこの活躍に触発されたのが田子山先輩だった。出来るわけでもないのに負けず嫌いの性分に火が付いたようで、ヨッシーと対決する、と果敢にも吉野に挑戦してきた。田子山先輩は初心者レベル、吉野は鬼レベルと難易度を変えたものの、当然というかあまりの技術の差に付いていくことができない。それでももう一度勝負しよう、と有り余るほどの意気込みを見せる田子山先輩の裾を遥香が引っ張って、十分な結果を残せて満足げな笑みを浮かべる吉野とともにやっと外へ出た。
 さてこの次はどうしよう、と皆との相談になった。小腹が空いたという女性二人の希望により、みんなで甘いものを食べることに決定する。
「ここの近くに、ずっと前から行きたかったカフェがあるんだ」
 遥香は嬉しそうに話した。
「人気のお店だからちょっと並ぶかもしれないけど、お願いしてもいいかな?」
 アミューズメントパークからケヤキの並木が続く大通り沿いに十分ほど歩く。ローソンの角を曲がって入り組んだ路地へ入った。このようなところにカフェがあるのかという狭い通りの片隅に、店舗らしきものが見えてきた。三階建ての白い小さなビルの一階部分に、銀色をしたロゴデザインの看板を掲げた店。派手さがなくて一見しただけではカフェかケーキ屋かどうかもよく分からない。店の玄関から細い道筋に沿って十組ほどの客が並んでいた。そしてそのケーキ屋は亮がよく知る店でもあった。
『バルカロール』――亮の父親が経営するパティスリーだった。

  *

 よく知っている、とはいっても、実は父の店に来たのは随分と昔のことになる。最後に来たのが七年ほど前、それからは母との離婚騒動があり一度も来ていない。父の店が割りと世間で評判になっていると口コミで知ってはいたが、来る気にもなれなかった。母と離婚してからも相変わらず向こうは仕事が忙しいようで、父子で顔を合わせてもいなかった。しかしその方が亮にとっては有難い。家のことをほったらかしにして出て行った父がどうしても疎ましくて、会いたくなかったからだ。
「しばらく待たなくちゃいけないみたいだけど。遥……浅尾先輩、どうしてもここじゃなきゃダメ?」
「従妹がここでバイトしていて、ケーキがものすごく美味しいって教えてもらったんだ。でもここまで来る機会がなかなかなくって。待つのが大変だけど、なんとかお願いできないかなあ」
 澄んだ目で訴えられると断ることもできない。ここにだけは来たくなかったことを遥香へ事前に伝えておくべきだったと激しく後悔した。田子山先輩も遥香に賛同した。渋い顔を隠そうともしない吉野の意見は大体見当つくが。仕方がないので大人しく順番を待つことにする。父のことだけは気掛かりだったが、きっと厨房にいて会うこともないだろう。
 暑さを知らせる蝉の声にゲンナリしながら、外で三十分も待ってようやく店内に通される。
「ここ、涼しい時期だと一時間とか二時間待ちなんてザラなんだって」
 遥香がそっと耳打ちした。
 店内はホテルや空港のラウンジを思わせるような高級感あふれる内装になっていて、照明の落とされた落ち着いた雰囲気が大人の隠れ家のような秘密の空間を作り上げていた。ケーキの豪華な彩りがショーケースの中でひときわ美しい輝きを放つ。ケーキが二十種類ほど、他には焼き菓子やジュレ、マカロンなどが充実している。この時間帯で、ショーケースの中はすでに何点かが売り切れとなっていた。なかなかの人気ぶりといえよう。
 席に座り、それぞれが好みのケーキを注文する。遥香はリンゴと紅茶のタルト、田子山先輩はシャルトリューズという薬草酒とフランボワーズをミックスしたムースのケーキ、吉野は白ワインとヨーグルトで仕上げたレアチーズケーキ、そして亮は店名と同じ名前のついたバルカロールと、プチシューにミルクチョコのクレーム・シャンティを絞ったサントノーレ。
「篠原だけ二つ食べんのかよ」
「三つ頼んでもいいくらいだ。スイーツは俺の大切な生きがいなんだよ」
「そうか、生きがいなんだったら仕方ないな。俺もこの世からゲームがなくなったら生きていけん」
「……君たちってなんというか、変なとこでものすごく尖ってるよねえ。私もゲームは好きだし遊ぶこともあるけど、なくても平気だしちょっと理解できないわ」
 初めて日本に来た外国人を相手にするような態度で偉そうにものを申す田子山先輩に、金髪カラオケのあんたにだけには言われたくないと、亮は心の中で応酬した。ゲームという言葉に素早く反応した吉野は、意外な共通点に興味を抱いたようで、田子山先輩とオンラインゲームの話題に花を咲かせはじめた。見知らぬ海を泳ぐ会話から弾き飛ばされた遥香と亮は、呆れたように視線を交わす。
 程なく注文したケーキが運ばれてくる。テーブルの上に並んだ鮮やかな色彩の躍動感に、全員で息を飲んだ。その美しさを記録に残したい誘惑に駆られたが、スマホの撮影禁止と店内に注意書きがあり、それだけが返す返すも残念だった。
 亮はまずサントノーレに手を伸ばす。プチシューが三つ使われているサントノーレには、ミルクチョコレートの中心部分にパッションフルーツのクリーム、マンゴーのジュレがアクセントとして入っていた。夏らしい柑橘の爽やかな香りがミルクチョコレートのクリームと相性が良く、さっぱりとしていて食欲をそそる。プチシューの中にもパッションフルーツのクリーム。トップにはパイナップルのコンポートが飾られていて、見た目にも美味しさを感じさせる仕上がりとなっていた。
 そして店の名前にもなっているバルカロール。バルケット型という小さな舟形のパイ生地の上に、マスカルポーネのチーズやプリンのような風味のクラフティ。そしてトップにあるのが粉砂糖の降られた真っ赤なハート形の飾り、三粒。最初に見たときから、この飾りが非常に気になっていた。グリオットチェリーのムースとジュレが固められているらしく、まるでチェリーそのままを口に含んだような濃厚な果実の風味を楽しむことができた。
 普段なら一口ずつ小さく切って香りと味と風味と舌触りを確かめ、分析した備忘録をスマホに残すのだが、どうしたわけか今日に限ってはそういう気分になれなかった。そうする労力が惜しかった。夢中で食べた。とにかく静かに食してケーキの味を心ゆくまで楽しみたい、そう思うようになっていた。
 幼いころ、父は試作品を作っては家に持ち帰り、家族に感想を求めていた。帰宅が十時を超えるために試食をするのはどうしても翌朝になるが、それでも父のケーキを食べるのが亮は楽しみでならなかった。朝も六時には出勤でいなくなるため、亮は感想を手紙で書いてテーブルに置いておく。次の日になると父からの返事が手紙に書かれている。ありがとう、参考になった、と。そんな交換日記のような遣り取りが幼い亮には嬉しいものだった。
 とにかく父のケーキは最高に美味しかった。いくら試作品であろうとも、家族から見た贔屓目であろうとも、亮がこれまでに食べてきたどのケーキよりも群を抜いて美味しいと、胸を張って誇れるものだった。
 しかしその評価はあくまでも小学校低学年までのもの。現在は街のいたるところにカフェやケーキの有名店が立ち並び、亮は毎週のように足を運んでは研究に研究を積み重ねている。舌の肥えた今となっては父のケーキなんてそれなりのものだろう、そういう軽んじた気持ちが幾らかはあった。しかし完全に裏切られた、と亮は白旗を上げる。昔の記憶を綺麗さっぱり上書きするほど、いやそれ以上に、この日食べたケーキに衝撃を受けた。味が変わっていないどころか、更に進化していたのである。期待以上、予想をいい意味で裏切るほどの菓子の完成度の高さに舌を巻く。家族としての父には未だに向かっ腹が立ってはいるが、職人としての父には敬意さえ覚えた。それほどまでに父の作り上げるケーキは、亮の価値観さえも変えるほどの何か特別な魔法のようなものを、その小さな世界に築き上げていたのだった。
 ケーキを食べ終わり、その場で遥香たちとは解散となったが、何をどう話して別れたのかその辺りの記憶が飛んでいる。友人たちと過ごすことができた娯楽の歓びよりも、バルカロールで受けたショックの方が断然上回っていた。それからというもの亮は毎週のようにこの店に一人で通い詰めた。とにかく全てのケーキを味わってみたい、という思いからだった。他の店とはいったい何が違うのか、その秘密をどうしても探りたい気持ちがあった。
 ネットでの情報もかき集めた。父は何冊か本を出しており、アマゾンで取り寄せて読んだりもした。フランスでの留学経験、国内のコンクールで優勝していたことなど、亮の知らなかった事実も新たに発見する。それよりも亮が本当に知りたかったのは、彼の作りだすケーキのことだ。どうやってその味を作り出すのか、どのような技を使っているのか。けれども菓子への好奇心を本や情報だけでは埋めることができなくて、もどかしい思いだけが日に日に積もりゆく。亮は父のケーキの味と情報にとことん飢えていた。
 ひと月ほど経ち夏休みも終わりに差し掛かるころ、亮はとうとう覚悟を決めた。
 いつものようにバルカロールで会計を済まし、財布を閉じる手を止めた。チャンスは今しかない。亮はそろそろと口を開く。
「あの……ここって、バイト募集してますか?」
 レジを打っていた女の子が、手を止めて綺麗な形の眉を上げた。
「バイトですか? さあ……もしお時間よろしければオーナーに訊いてみましょうか?」
 お願いします、と首だけを動かして小さく頷く。レジを他のバイトの子に頼んで女の子が奥へ下がった。迷いに迷ってとうとう言ってしまった。心臓が爆発するかと思えるくらいに脈打ちだした。本当にこれでいいのだろうか、とんでもないことをしたのではないだろうかと、期待よりも先に後悔の方がぐいぐいと押し寄せてきた。ほんの一分ほどの時間が、十分にも一時間にも引き伸ばされたような重苦しい気分だった。やはり帰ろう、消えよう、ここから逃げ出そう、そういう弱い気持ちを押し殺すように手をぐっと握りしめたり緩めたりする。そんな葛藤を繰り返しているうちに、長いコック帽と白いコックコートを身につけた男性が慌ただしく奥から現れてきた。
「バイト希望? どこにいる子? あっ、……えっ?」
 男性は目の前にいる亮と目が合って、それを外し、きょときょと視線を彷徨わせる。二、三度口を開いて、ようやく声を出した。
「亮……こんなところでなにしてんの。お母さんは?」
 父はその場からしばらく動くことができない。父の動きを封じていたのは、微動もしない亮の瞳だった。
 カウンターを挟んで、ケーキの上のマジパンで作られた人形のように立ち尽くしている親子二人。これが父――小野孝之と息子との約一年ぶりの再会であった。

Chapitre 4

『この間は楽しかったね。来週の日曜、また久しぶりに映画とか、どこかに行かない?』
『ごめん、バイト始めることにした。しばらくは行けないと思う』
『ほんとに? どこで働くの?』
『バルカロール。この間食べに行ったケーキ屋』
 既読――五分後にメッセージが届く。
『そうなんだ。じゃあまたいつか、亮くんのバイト姿を見に行ってみようかな。頑張ってね』
 ありがとう、おやすみ、と返事を返してスマホを閉じた。これから土日はフルで働くため、金曜の夜には週末の宿題や自学を済ませるつもりだった。終わるのは深夜になりそうだなと、山積みになっているプリントや参考書を前にしてやれやれと思う。明日からバルカロールへの初出勤となる。

  *

 感動的とはとても言えない親子の再会の後、事務室で簡単な面接をしてアルバイトの採用はすんなりと決まった。週二日、土日の八時間勤務。採用に際し父は一応の保護者として三つの条件を出してきた。
 仕事内容は接客とレジ、清掃であること。
 父のことを「オーナー」と呼び、職場では敬語を使うこと。
 そして学業を絶対におろそかにしないこと。
「職人を目指してるわけじゃないんだし、ただのアルバイトなんだから厨房には入らせないよ」との厳しい一言に内心肩を落としたが、相手に悟られるのも癪なので、表情を変えずに平常心を装っておく。
「それから成績があまりにも落ちたら、ここのバイトは辞めてもらうよ。成績表をちゃんと見せてもらうから。いいね? バイトのことは、お母さんにはちゃんと報告しているのか?」
「あ、うん……はい、ちゃんと言ってあります」
「それなら構わないよ。土日の人手が足りなかったから、こちらとしては有難い」
 六畳ほどの事務室で父と向かい合わせになって面接をする間、脇から汗が滴るほどの緊張を感じた。逆に父はすでに落ち着いているようだった。
 緊張しているのは他にも理由があるためだ。バイトのことを母に報告したというのは嘘だった。ケーキ屋で、しかも父の元で働くなんて、母にまともに言えるわけがない。しかしここまで来たからにはもうどうしようもないことで、バレたらバレたで仕方がないと割り切った。
 父は背筋を伸ばして大きく息を吸い込み、声とともに静かに吐き出した。
「しかしまさか亮が来てくれるとは思わなかったなあ。高校の方はどうだ? K高校だったら勉強が大変だろう」
「なんとかしてるよ」
「……お母さんも元気にしてるか」
「まあ普通に」
「そうか……ならよかった」
 何が「よかった」だ、他に言うことがないのかよと、家族への無関心さといい加減な父の返答に腹立たしくなる。一年ほど会わない間に、父の白髪は増え身体つきは若干細くなったが、くっきりとした二重の目の中にある好奇心溢れる光はまだ健在で、意外に元気そうだった。亮は幼いころ父と目元がよく似ていると言われたが、今はその瞳を眼鏡の奥に隠していた。父親に似ていると言われたところで嬉しくもないし、そう思われたくもない。
 ところが息子の反発心などどこ吹く風で、亮が初めてバルカロールに出勤したとき、父は亮との関係をあっけらかんと従業員に紹介してしまった。
「三橋ちゃん、こいつ僕のせがれだけど、厳しく教育してあげて」
 父はへらへらと笑顔を振りまきながら、三橋という女性に亮を任せた。この人はどこまで無神経なのだろうとその態度に憮然とするものの、とりあえず今は無視した。亮は先輩となる相手に対して慇懃に挨拶をする。
「篠原といいます。今日からよろしくお願いします」
 父に亮の教育係を頼まれた女性は、バイトを頼んだ時に仲介してくれた人だった。両目の間隔が狭くてえらが張り特徴的な顔をしているが、肌がきれいで化粧が上手く可愛らしい女性だった。
「こちらこそよろしく。えっと、篠原くん? オーナーの息子さん? 名前が……」
「俺は母方の苗字を使っているので」亮は首をすくめて控えめに返事する。「父は婿養子だったんです」
 三橋は短い会話ですぐに空気を読み、ああなるほどと納得し、これ以上は触れずにすぐさま朝の作業に取り掛かった。人様のプライバシーを詮索するよりもまず、十時開店までにするべきことは山ほどある。カウンター、テーブル、ショーケースの中などを消毒しダスターで吹き上げる。前日のスタッフからの連絡の引継ぎと今日の予約の確認。オーナーを交えての朝礼と報告事項。レジの札束と小銭の補充。備品の点検。そして厨房から順次届くケーキや焼き菓子の陳列。
 店を開ける前に、ケーキや焼き菓子、ドリンク類といったメニュー表の商品の名前と陳列場所、値段を暗記するよう三橋から指示される。
「これができないと接客無理なので。あと、商品の説明書きやナッツ類のアレルギーの表示も全て覚えてください。明日までにはお願いします」
「はい、大丈夫です。十分あれば」
 亮の返事に三橋が目を丸くする。大げさでもなんでもなく、その宣言通り亮は十分足らずで暗記を終えた。暗記が得意なのもあるが、毎週のように店に顔を出していたのがここで功をなしたようだ。
 レジの打ち方やドリンクの作り方も勉強した。こちらの方が少々てこずった。焦ってレジの数字のキーを押し間違えたり、たった一杯のドリンク作りにまごついて時間がかかったりする。
「しばらくは私もフォローしますから」と三橋に励まされてしまったことに、つい恥ずかしさを覚えた。どうにもこうにも初めて扱うような不慣れなものに関しては、亮の手先は自慢するほどの器用さにあまり恵まれていないらしい。
 十時になって店の扉が開けられる。外ですでに並んでいた客たちは粛々とレジに並び、ショーケース内に飾られた色彩豊かなケーキを見て目を輝かす。初めて体験する目まぐるしい一日が、とうとう始まった。

  *

『亮くん、今日一日お疲れ様。お仕事どうだった?』
『思ってた以上に疲れた。今日はもう寝るよ』
『そっか大変だったね。私の従妹、分かった? 三橋ちふみっていう子。年は私の一つ下だよ』
 ああ、あの子がそうだったのかとようやく分かった。どうやら彼女は自分と同い年らしい。
『一緒に仕事してるよ。親切で助かってる』
『ちふみちゃん、いい子だから大丈夫だよ。私からもよろしく伝えておくね。明日も頑張って』
 返事をする間もなく意識が遠のいた。夢の中でLINEに向かってお休みと答えておく。今日は疲れた。明日もまた仕事が始まる。

  *

 最初こそ戸惑いながらの接客であったが、二週目、三週目となるにつれて少しずつ仕事に慣れてきたのを感じる。レジ打ちをスムーズにできるようになり、ホールの仕事やケーキの箱詰め作業も早くなってきた。電話だけはまだ苦手で取ることができないが。
 慣れたといっても三橋の手早さにはとても敵わない。何年も働いているように見えた三橋は、この店に入ったのが今年の四月。このバイトを始めてまだ半年しか経っていないらしい。けれども他のホールスタッフよりも抜群に仕事が早く、頭の回転も速い。就業時間内でレジ締めまで終わらせる彼女の時間の扱い方には、亮も唸るほどの要領の良さを感じる。仕事には向き不向きというものがあるが、三橋にとってこの店の接客は天職であるようにも思えた。
「私、お客さんと向き合うのが基本的に好きなんだ」
 三橋とはバイト時間が重なるため、仕事を上がる時間も同じだ。亮は一人で帰りたかったのだが、三橋が後ろから追いかけてくる、というパターンが多かった。仕事の帽子を外し長い髪を下ろして、Tシャツの上から薄手のカーディガンを羽織った彼女は、バイト姿とはまるで別人のような淑やかな姿になっていた。二人で駅までの六分間をケヤキの並木道に沿って歩く。
「ここのお店って他より客多いけど、それだけ美味しいケーキを扱ってるってことだし、遣り甲斐あるんだ。私にとっては、だけどね――ねえ、もうちょっとゆっくり歩こうよ」
 亮の大股の歩き方に、小柄な三橋は付いていくだけで必死な様子だった。
「ゆっくり話すことなんて特にないよ」
「そんなつまんないこと言わないでさあ。ねえねえ、篠原くんってさ、どうしてここのバイトを選んだの?」
「さあ、なんでかな」亮は長く伸びたケヤキの影を眺めながらしばらく考えた。「ケーキが好きだからかな」
「じゃあこんな忙しいとこじゃなくて、もっと楽なとこでもいいじゃん。ケーキ屋なんて山ほどあるんだし」
 三橋は世間知らずの若者をあしらうような笑みを寄越した。
「やっぱりお父さんがいたから? オーナーの跡継いでパティシエ目指すわけ?」
「いやまさか。大体、跡を継ぐも何も、俺の親って離婚してるし」
「あ、そっか。まあK高行ってるくらいだから、わざわざパティシエなんて大変な職業選ばなくてもいいしねえ。私が入ってから、ここの職人さん二人辞めたよ」
「マジで」
「ほんとほんと。この間の人なんて、入って一週間で辞めちゃったよ。今も一人、蔭川さんって人がオーナーから毎日こっぴどく叱られてて、職場に来るたびに顔が真っ青でさ。あと何日持ち堪えるかなってみんなと噂してる。体力仕事だし、給料もそれほどみたいだし、勤務時間は長いし、この業界って相当だよ。外から見るとパティシエってカッコいいっていうか、花形なのにねー裏では大変みたいだね」
「ふうん……」
 厨房は亮にとっては未だに見知らぬ世界だ。父と会うのは朝礼の時間と、商品を厨房から取りに行くときだけで、父の働きぶりなんてロクに知らない。昔からずっと職場にこもりきりだった父を見ていたから、なんとなく忙しそうな気はしていたが、その多忙さは亮の想像以上なのかもしれない。
「オーナーのケーキって、ちょっとレベル高すぎるんだよ。同業者の人がわざわざここに来て研究するくらいだもん。ほら、今日来たスーツ姿の人で一時間かけてケーキ食べてた人。きっとあの人もそうだよ。この間はフランス人が来てさ、フランス語喋れないからどうしようって焦っちゃった。オーナーの昔の修行先の師匠が、わざわざ会いに来てくれたんだって。二人で何話してんのかさっぱり分かんなかったけど、さすがだなって思っちゃったよ」
 空から砂粒が絶えず降り注ぐように喋ってくる三橋をまともに相手するのは正直言って疲れるが、仕事の裏事情を教えてくれるのだけは有難いと思った。
「そっか、でも俺からしたら三橋さんだってすごいけど。仕事速くてこっちとしては助かってるよ」
「ありがと。ねえ、それよりもさあ」仕事だけでなく会話を変えるテンポまで三橋は速い。「篠原くんって、遥香ちゃんと付き合ってんの?」
「は? なんでそんなこと訊くの。あるわけないじゃん」
「そうなのかなあ。朝ガッコ行くときに遥香ちゃんと電車で喋るんだけど、篠原くんのことがよく話題に上がるんだよねー」
「幼馴染だからじゃないの。中学の時は部活も同じだったし、家族ぐるみで付き合いもあったから、いろいろと世話焼いてくれるんだよ」
 ふうん、そうなんだ、と三橋は半目になって亮をジトリと見る。
「遥香ちゃんって、ちょっとねえ……」
「何?」
「んー別に」思わせぶりな態度で三橋は話をぶつりと切った。「……ねえ、帰る前になんか食べてかない?」
「ごめん、忙しいから今日は帰るよ。家でやることたくさんあるし」
「あっそ、なーんだ。じゃあ来週一緒に食べよ」
 三橋は一方的に予約を決めて、改札に入り逆方向のホームに向かう。ピンポン玉が跳ね返るような三橋との会話と仕事の忙しさとで、いつも以上の疲労を感じてしまい、亮は久しぶりに電車の中で眠り込んだ。うつらうつらと意識が遠のく中で、舟の夢を見ることはなかった。

  *

『お仕事慣れてきた? 疲れてない?』
『なんとかやってるよ』
『頑張ってね。部活で今、フルートパートのアンサンブルコンテストの曲決めてるんだ。亡き王女のためのパヴァーヌ、やってみたいなって』
『ラヴェルのやつ? いいじゃん』
『あの曲、昔、亮くんにCDを貸してもらった曲だよね。すごくきれいな曲でいつか演奏してみたいなって思ってた。決まったら教えるね』
 自分の紹介した曲が役に立ったと思うと口元がつい緩む。何か飲もうとスマホを置き、亮は冷蔵庫を開けた。ビールはいつの間にかノンアルコールに変わっていた。缶コーヒーも大量に入っている。アルバイトを始めたことを母には言ったが、飲食店で働いているとしか伝えていない。バイトのことはむやみやたらと話さないと決めている。コーヒーのプルタブを開けると、一気にそれを飲み干した。

  *

 十月に入ると店の内装とケーキの色彩は黒とオレンジ色に染まり、かぼちゃのお化けが所かしこに飾られる。
 涼しくなってくると客の出入りも徐々に増えてきた。客が増えるということは喫茶スペースの仕事も増えるということで、連日のように混みあう店内の盛況ぶりを目の当たりにしてさすがに余裕がなくなってきた。以前遥香が教えてくれた「涼しくなったら二時間待ち」というのも、あながち大げさではないようだ。この店の巷での評判の高さを改めて思い知らされた。
 一度だけ遥香と田子山先輩が亮の様子を見に店へ来てくれたが、ゆっくり対応をすることもできない。視線を合わせて遥香が手を振ってくれたが、亮の頭の中は次の仕事の流れへと忙殺されていた。
 厨房でもその多忙さは同様だった。菓子の補充のため厨房へ行くたびに、苛立たし気な父の怒鳴り声を耳にする機会も増えてきた。
「ちょっと、このオーブン担当したの誰……蔭ちゃん、蔭ちゃんどこ?」
 蔭ちゃんと呼ばれたのは、「もうすぐ辞めそう」と三橋たちから密かに噂されている蔭川だった。クリームを絞っていた手を止めて父の元へと走る。父はオーブンから出したマカロンを一つ一つ手に取って何かを確認していた。
「ちゃんとオーブンの予熱チェックして焼いたか?」
「あ……はい、ちゃんとしたつもりですけど……」
「こっちとこっち、ピエ(生地からはみ出た部分)がないよ。どういうことなの。乾燥が足りなかったんじゃじゃないの。これなんてヒビ入ってるよ」
 父の怒りに押されて蔭川の青い顔が更に青白くなっていく。骨が見えそうなほどの細い体をしているのに、更に小さく縮まったようだった。
「いや……あの……忙しくて……」
「忙しいってなんだよそれ。したつもりじゃダメなんだよ、したつもりじゃ! そんなのしてないのと同じなの! これ店に出せないよ。全部自分で処分して。最初からもう一度やり直して」
「は、はい」
「それからそっちの仕上げ、遅すぎるよ。丁寧で、手早く! これが基本だろ。これが出来ないと仕事にならんよ」
 蔭川の作った三十個のマカロンはすべて廃棄だ。これをやり直すと他の作業もその分遅れる。極限まで白くなっていた顔は、頬と目だけが痛々しい赤色に変化していた。無表情でマカロンをゴミ箱に捨てている蔭川から、亮はしばらく目を離すことができなかった。
「亮! そこで何してる! ぼうっとしてないで、早く商品を店に持っていけ。仕事サボんな!」
「……はい、すみません」
 サボっていたわけではないのに怒鳴るなよ、いちいちうるせえな、という反抗心をなんとかして抑えて菓子を運ぶ。仕事とはいえ父の怒鳴り声は逆効果ではないのだろうか、という疑問が頭によぎる。間違いを指摘するにしても、もう少し他に言いようがあるだろうに。父の注意の仕方は部下へのストレス発散のようにしか亮には見えなかった。
 こういう時に限って悪いことは続くもので、そのあと亮自身もとんでもない失敗を犯した。注文したはずのケーキがないと客からクレームが来たのだ。どうやら一週間前、亮が予約の電話を取ったときに「十一日」を「十七日」とうっかり勘違いしたようだった。客の注文を復唱するという確認作業を徹底していれば起こるはずのない、ごく単純なミスだ。このミスに父は激怒した。
「こんなヘマ二度とすんな!」父は息子であろうとも容赦せずに厳しい視線を向けた。「予約っていうのはな、わざわざお客さんがうちを選んでくれてるってことなんだよ。お客さんとの信頼の証なんだよ。一度信頼を失うと取り戻すのがどれだけ大変か、お前分かってんのか? 今回は馴染みのお客さんですぐに許してくれたからよかっただけ。お前はお客さんに助けてもらえたんだよ。運が良かっただけなんだよ。確認はやり過ぎでもいいくらいに念入りにしろ。――いや、僕には謝らんでいいから、ちゃんと客に詫びろ。自分がどれだけ甘い考えで仕事をしていたか、しっかり覚えておけ!」
 分かっていたつもりだっただけに、ぐちぐち指摘されるとさすがに凹む。家での父は母とよく喧嘩をしていたものの、息子にまで怒鳴りつけることは一度もなかった。ここまで叱られたのは初めてのことだった。さすがに悔しくて何かを言い返したい気分に駆られたが、下唇を噛んでぐっと気持ちを押し殺す。このようなことは日常茶飯事のことなのか、厨房に響く声に誰も反応せず皆が自分の仕事に集中していて、それだけが有難かった。こういうのは下手に同情の目を向けられると、尚更辛いものだ。
 店の方に戻って仕事を続ける。打ち萎れた様子の亮に、三橋がそっと声を掛けてきた。
「篠原くん、結構絞られたでしょ」
「え、あ、うん……」
「大丈夫、大丈夫。ミスなんて皆あるから、気にしなくていいよ。オーナーいつもあんなんだし。お客さんだって許してくれたんだから。電話取れるようになっただけでもよかったじゃん」
「……ありがと」
「篠原くん、よくやってくれてるって。頑張って」
 注文されたコーヒーを淹れる亮に三橋は優しく笑いかけた。従妹だけあって、笑うと遥香の面影が僅かに表に出てくる。三橋はその笑顔を保ったまま、注文されたジュースとケーキをトレイに乗せて客席へ運びにいった。意外にも細やかな気配りができる三橋の優しさに、ぐらりと心が揺れそうになる。そういえば一緒にご飯を食べに行こうと約束したのは、いつだったっけか……あれ以来、亮は三橋をなんとなく避けるようになった。なるだけ早く帰ったり、逆に三橋が帰ったのを見計らって職場を出たりする。はっきり断らなかったのは彼女に悪かったかもしれないと、亮は少しばかり反省した。
 休憩時間に入り、更衣室へ入る。中間考査の試験勉強と仕事の多忙さと先ほどのミスが重なって、さすがに今日は体がしんどい。更衣室のロッカーと壁の隙間に一人分入るスペースがあって、そこで十分ほどうたた寝をしようと思っていたのだが、お気に入りのその場所には先約がいた。先ほどまで父の怒りのはけ口の場となっていた蔭川だった。珍しく亮と休憩時間が重なったらしい。蔭川は膝に顔を埋めて眠っているようだった。仕方がないので反対側の壁にもたれて座り、ペットボトルのお茶を飲む。
 小さなメモ帳とペンを制服のポケットから取り出した。職場にスマホは禁止のため、新作のケーキの素材や商品のこだわりなど、気が付いたことがあればなるだけ詳細にメモ帳に書き残すようにしている。接客は客から菓子の情報を求められることが多いので、商品のおすすめをすぐに答えるためにもこのメモ帳の覚書は大いに役立っていた。しかしどうにもこうにも今日はメモ書きして復習する気が起こらず、「電話の確認は二度!」と大きく書いてぐるぐる丸で囲み、そのままメモ帳を閉じてしまった。
 人が入ってきたことに気が付いたのか、蔭川は重たげな頭を半分ほど上げた。鷲鼻で頬が出っ張り細長い顔つきの蔭川は普段から顔色が悪く、まるで長年病院から出ることができない入院患者のような雰囲気を持っている。
「すみません、蔭川さん起こしちゃって。隅っこで静かにしとくんで寝といてください」
「あ……大丈夫。えっと……」
「篠原です」
「ああ、確かさっきの」蔭川はまどろんだ瞼を擦り、癖っ気のある髪の毛を手のひらでくしゃりと上げた。「いろいろと大変だったね。もう落ち着いた?」
「はい、大丈夫っす。か……」
 蔭川さんこそ、と言おうとして、その台詞をすんでのところで喉の奥に押し込めた。他人から、ましてや年下の新人から励まされたところで余計なお世話じゃないのか、という思いがさっと頭に流れ込んできたためだ。しかし会話を遮った奇妙な沈黙で蔭川はある程度察したらしい。ため息で更衣室の埃っぽい空気を少しだけ循環させた。
「僕はもう慣れっこだよ。ここの職場が厳しいっていうのは、来る前から噂で聞いていたし。僕の腕はまだまだだから、あれだけ言われるのは仕方ない」
「でもあの人、さすがにちょっと言いすぎでしょ。あんなのパワハラじゃないんすか」
 歯に衣着せぬ亮の物言いに瞠目し、ああ、と何かを思い出したように蔭川は頷いた。
「そっか、オーナーの息子さんだもんね。僕が入った時のオーナーの名前が篠原だったの思い出した。入ってすぐに小野に変わって、あれ? って思ったけど」
「蔭川さんっていくつでしたっけ。入って何年になるんですか」
「二年かな。まだ下っ端。専門学校出てからすぐにここに来たから、年は二十二――僕の見た目があれだよね、もっと上だって思った?」
 いえ、と二人で軽く笑う。
「今日のマカロンは、うっかりしてたよ。最近寝不足気味だったから、集中できてなかった。廃棄処分になったら店の売り上げに関わることだし、オーナーが怒るのももっともだと思う。でももう失敗しないよ」
「でもオーナーなにかと煩いでしょ。腹立ちません?」
「確かに口は悪いけど……あ、お父さんのことなのにごめん」
「気にしないでいいです。悪口ならじゃんじゃん言ってください。俺も、ほんっとムカついてますから」
 手厳しい息子の辛口に蔭川は吹き出した。
「そうだよね。あの厳しさに耐えられない人も多いからね。実際それで辞めた人もいる。でも言ってることは全部正論なんだ。材料を間違えない。無駄にしない。分量をきちんと量る。焼き加減を見る。温度を見る。焦がさない。商品を早く作る。丁寧に作業する。いろいろと細かいことを指示してくるけど、言ってるのはただ一つ、基本に忠実であれ、ただそれだけ。物凄く単純なことなんだよ。言葉遣いは乱暴だけど、その中の真意に気付けないと、あの人の下で働くのは難しいだろうね」
「そんなに単純なことなのにネチネチと怒ってばっかりって、はっきり言ってどうかと思いますけど」
「それは違うよ。単純だからこそ難しいんだ。限られた時間の中で、どれだけ同じレベルを保てるか、いっぱいいっぱいになった状態でそれを継続していくのは並大抵のことじゃない。人間ってね、絶対どこかで気を抜こうって思っちゃうんだよ。単純な作業なら尚更そう。パティシエの仕事なんて、毎日が単純労働だからね。面倒くさいし、特別なことでもないんだし、おんなじことを続けているうちにもういいやってなっちゃう。でもそれを人一倍わかってるのは、実はオーナーなんだよ」
「あのオーナーが? まさか」と軽く笑い飛ばそうとしたのだが、それができないくらい蔭川の目は真剣だった。
「あのオーナーだから、だよ。あの人が僕たちにしきりに檄を飛ばすのはそのためなんだ。努力をクリアさせることは師であるオーナーの責任でもあるから。でも僕はまだその域に達してない。だからよく怒られる。ついていくだけで必死だけど、指摘されるっていうのはそれだけ見てもらえてるってことだからね。努力がちゃんとクリアできた時は、あの人、正当に評価してくれるんだ。みんな勝手なこと噂してるのは知ってるけど、僕は辞めないよ。僕の身体が弱そうに見えちゃうから意外かもしれないけど」
 陰口のことをまさか本人から指摘されるとは思っていなかった。つい動揺してしまい、返事をし損なう。
「パワハラとは違うんだよ。パワハラっていうのは、ストレスと嫉妬が生み出した精神的、身体的苦痛を与えるものだから。オーナーは常に菓子作りに百パーセント、百二十パーセントのものを作り出そうとしてるけど、それを弟子たちにも同じように求めてる。弟子たちがそれに応えてあげないと、オーナーの菓子作りに支障が出るんだ。それができて初めて、オーナーが菓子作りに専念できて、百二十パーセントの力を発揮できる。そしてようやく、あそこまでの完成された菓子を店に出すことができるんだ。『バルカロール』っていう菓子のブランドは、そういう努力で維持されてるんだよ」
 今まで胸の内に溜まっていた熱意を一気に吐き出すように、蔭川は語り続けた。先ほどの眠たげな目つきはすでにどこかへと消え失せている。ひょろりと弱々しい彼ではあったが、その体を支えるのは芯のある理念だった。亮はしげしげと彼の顔つきを眺めた。頬張った顔は相変わらず病人のように青白いが、瞳の奥には赤い炎がちろちろと燃えているようだった。
「蔭川さんて」と、ようやく亮は口を開く。「やっぱり将来はお店を持ちたいんですか」
「できればね」
 蔭川は当然とばかりに頷く。
「でもオーナーと目指しているものは違う。オーナーの感性って、真っ赤に咲き誇っている大輪のバラっていうのかな、何かの魔力で人々を惑わせるような花に鋭い棘があって、それがあるからこそあれほどのクオリティの高いケーキが出来上がってるんだ。この店が多くの人から支持されているのは、そんな危うい美しさをケーキの中に感じ取って、その魅力をあの小さな世界の中に求めてるんじゃないかって思ってる。でもそんな棘がないものを欲する人だって、きっとどこかにはいるんだ。世の中には激しく咲き乱れるバラよりも、その周りに咲く小花の方に魅かれる人もいるんだよ。僕は弱いから、弱いからこそ、そういう同じ立場の人たちの気持ちがよく分かるし、だからこそそんな人たちが求めるようなケーキを作れるんじゃないかって思う」
 言っている傍から、蔭川の頬には彼に似合わない朱色がほんのりと刺してくる。
「……なんて偉そうに言っちゃってごめん。自分の技術なんて、まだまだそんなレベルじゃないのにね。でもね、その域にまで達するための道がオーナーなら分かるんだ。他のお店でもその道に辿り着けるだろうけど、最善の道を彼は知ってる。でも最善で最短だからこそ、道が険しい。これは当たり前のことなんだ。オーナーの元で修業するのは簡単なことじゃないけど、怒られても、凹んでも、僕はここで働くつもり。いつかは必ずその道を探し出したいから」
 道、と言われても、今の亮にはピンとくるものがなかった。それよりも何よりも、気になったのは……
「どうしてそんなに……あの人のことを尊敬できるんですか」
「篠原くんには分からない?」
「全然。家ではケンカどころかロクに相手もしてくれなかったし、だらけてばっかりだったし」
 そうは言いつつも、亮の脳裏には父との思い出が淡く浮かんでくる。シュークリームの作り方を教えてもらったこと。試作品の感想を手紙で遣り取りしたこと。コンサートへ連れて行ってくれたこと。けれどもここでそれらを懐かしむのも胸くそ悪くて、すぐにその記憶をはたくようにして消してしまった。
「……それに、やっぱりあんな言い草って、たとえ相手がどんな立場の人であっても許せることじゃないと思う。蔭川さんはいいって思ってても、俺はダメです」
 呟くように放った亮の主張に、蔭川はもう一度ゆっくりと頷いた。
「そうだね、篠原くんの言うことも正解だと思う。人を育てることを第一に考えるならね。多くのパティシエの未来を考えるなら、尚更そうかもしれない。……ねえ、オーナーの修業時代のこと知ってる? フランスに行った時の経験。あの人ってさ、ツテを頼らずに独自で留学したから相当苦労したみたいなんだ。そのときの話、一度本で読んでみなよ。それかお父さんに直接聞いてみるとか。きっと篠原くんにとってもいい勉強になると思うよ。僕もね、お父さんみたいにいつかフランスへ修行に行きたいと思ってるんだ」
 亮はへえ、と相槌を打ったまま口を閉じるのを忘れた。蔭川が熱く語る夢と彼のイメージとが余りにもかけ離れすぎていて、何をどう言えばいいのかが分からなかった。
「篠原くんはどうするの? やっぱりパティシエになってみたいとか思ってるの?」
「え? ……いや、考えたことないです」
「篠原くんは篠原くんの道でいいよ。まだ高校生だもんね、可能性はたくさんあるんだし。バイトだけじゃなくても、遊んだり、勉強したり、部活でもいいし、いろいろと試してみるのもいいんじゃないかな。でもここにいたら、厳しいけどきっといい経験はできるよ」
 蔭川はにっこりと白い歯を見せた。彼の屈託のない笑顔を見たのは、この店に来てから初めてのことであった。

  *

 家に帰って服を脱ぎシャワーを軽く浴びる。居間に入ると食事が出来上がっていた。
「亮、ご飯食べよっか」
 タオルを頭に被る亮に、お茶の準備をしながら母が呼んだ。休日の夕食は母担当。ご飯と味噌汁、肉じゃがを食卓に並べ、二人で食べ始める。
「お母さん、今日の味噌汁のダシってちょっと薄くね?」
「ん? そうかな……鰹節をケチったのがダメだったかな」
「即席のダシの素も買ってあるんだから、見栄張らずに使ったらいいのに」
「見栄じゃなくて素材のことを考えてるの! お母さんだって主婦してたときはあるんだし、料理作るのだって本当は好きなのよ」
 ふうん、と適当に返事をして肉じゃがのジャガイモを箸で掴んだ。料理好きだと言う母の意見に賛同したのか、よく汁の染み込んだジャガイモの欠片が箸からぽろりと落ちて、その柔らかさを証明していた。
「お味噌汁、そんなに言うほど薄くないわよ。ちょっと疲れてんじゃない? 身体に疲れが出ると塩分欲しくなるから。バイトの方は楽しい? 順調?」
「適当にやってるよ」
「土日あれだけ働くと、そりゃくたびれるでしょう」
「まあそこそこ」
「無理なときはすぐに休みなさいよ」
「分かってるって」
 ぶっきらぼうな息子の口の利き方ではあったが、短い単語の中には仕事への前向きな姿勢もなんとなく見受けられるようで、そっか、と母は安堵した表情になる。味噌汁を口に含み、お椀をテーブルに置いて、底に沈んでいく具材をじっと見つめる。
「亮ってさ……今やってるバイトみたいなのが好きなの?」
「は? 食べ物を人に運んでるだけのバイト、仕事だからしてるだけで好きも何も無いけど」
「違う違う、そんなんじゃなくってさ」母はここでどのような言葉を取るべきか窮しているようにも見えた。「……料理を作ったり売ったりする仕事に興味があるのかなあと思って」
 人参を取ろうとした箸を止めて、急に何を言い出すのだろうと眉をひそめて母を見る。
「なんでそう思うの」
「だってほら、亮の料理っていつも上手に作るでしょう。この間先生と二者懇談したときにも、今後の進路や将来のことで話し合って、それからいろいろと考えてたのよ。お母さんなりに。もしそういう研究に興味があるんだったら、栄養学とか、食物学とか勉強できる学科も面白いんじゃないかって。食品メーカーの商品開発っていう仕事なんかはどう? 農学部とか生物学部とか行けば、そういう分野の勉強もできるって先生言ってたわよ。食のバイオテクノロジーの技術なんか、いろんな企業からすごく求められてるし。亮の学力だったらどこでも――」
「どうでもいいよ、そんなこと」
 パシン、とわざと大きな音を立てて箸をテーブルに叩きつけ、亮は椅子を引いて立ち上がった。
「疲れてるから部屋戻るわ。ご飯、後で食べるからそのまま置いといて」
「ちょっと亮……」
「進路のことはまたいずれ考えるよ。まだ一年なんだし時間はたっぷりあるだろ。妙な心配しなくても父親みたいな職業にはならないし、なろうとも思ってないから。ごちそうさま」
 まだ何か言いたげな母に気付かないふりをして二階へ上がる。疲れているうえに気持ちのモヤモヤが収まらなくて、ベッドに吸い込まれるようにして倒れ込んだ。そのモヤモヤが毛糸玉のように絡み、喉の奥に引っかかっているような不快感がずっと続く。明日から中間考査が始まるというのに、試験勉強をする気が一向に起こらない。起き上がる気力が失せている。
 何を勝手に人の好きなものを決めつけているんだろうと思う。息子のことなんて何一つ知らないくせに。料理が好きだから栄養学っていう、その短絡的思考にうんざりする。好きなものと学びたいものとが一致するわけではない、そんな単純なことが母には分からないのだろうか。
 しかし何がしたいのか、何を学びたいのかと問われると、それはそれで困ってしまう。自分が好きなものを敢えて答えるとするならば……それは音楽とスイーツか。けれども音楽のプロを目指したいとも思わないし、かといって父のようにパティシエになりたいわけでもない。今さら部活に入る気もないし、バイトがものすごく楽しいかといえばそうでもない。音楽もスイーツも、所詮はただの趣味の一つにすぎないのだ。
 道を探し出したい、と蔭川は言っていたが、道なんて今の時点で見つかるわけもないし、そんなものを語る彼の熱弁が自分とはかけ離れた世界のことでしか感じられない。自分がいったい何をしたいとか、どうなりたいとか、亮にとってそんなことはしがない他人事でしかなかった。
 でもそれでいいんじゃないか――このまま何も考えずに、適当に興味のある学部を選んで、偏差値の合う大学を目指して、親が喜ぶような就職先を選んで働ければそれで幸せなんじゃないかと思ったりもする。大学に行けば何かしらはやりたいことが見つかるんじゃないか、と。音楽にしたって、もう一度吹奏楽やオーケストラサークルにでも入れば済むことだし、バイトもほどほどに続けていればいい。それで十分だろう。今はまだ夢とか進路とか将来のことなんてどうでもいいというのが本音だった。
 床に固いものが当たる鈍い音がした。手がスマホに当たってベッドの下に落ちたようだ。そろそろ遥香からのLINEメッセージが届くはずだ。スマホをチェックするために起きなければと、懸命に意識に鞭を打つ。明日からの中間考査の勉強もしなくてはいけなかった。しかしそれらの意識にしがみつこうとする努力も空しく、重い瞼に引きずられて亮は眠りの世界へと誘われる。
 結局そのまま朝まで起きることはなかった。
 翌朝スマホを確認すると、予想通り遥香からのLINEが入っていた。アンサンブルの曲がラヴェルに正式決定したとのことだったが、返事をするタイミングを見失ってしまい、もういいやとそのまま既読状態で終わらせた。

Chapitre 5

「おい、篠原大丈夫か。目が死んでるぞ」
 目の前の友人が、ハンバーガーを手に持ちながら白目を剥いて固まっている。吉野は案じるような声を掛けた。
「そんなに試験勉強、張り切ったのか」
「いやその逆……今回はマジでヤバイ。赤、いくかもしれん」
「まさか。いつものお得意の山勘はどうした。お前のテストの勘って抜群にいいじゃん」
「大体の試験の山は当たったよ。でもそれを暗記する時間がなかったんだ。バイトで疲れて、勉強する前に爆睡こいた。気が付いたら雀が鳴いてて手遅れだった」
 ははっと吉野はそれを笑い飛ばして、ポテトをつまみコーラを飲む。
「何してんだよ。お前なあ、試験の前くらいバイト休めよ。俺だってさすがにテスト前はゲームを断ってたぞ」
「簡単に言うなよ。そういうわけにはいかないんだ。あそこ、人手が全然足りてないんだよ」
「なんだよそれ、ブラックか。そのバイトやべえよ。そんなキツいとこなんてもう辞めたら? ケーキ屋なんて他に山ほどあんじゃん」
 図らずも三橋と同じようなことを指摘されギクリとした。食べたもので喉を詰まらせ慌ててウーロン茶を口に含む。
「……まあ自分で選んだことだし、やれるとこまでやってみるよ」
「そうか、ならしゃあないな。健闘を祈るわ」
 突き放すような吉野の激励にやれやれとため息を零す。
 ようやく中間考査の終わった木曜日。午前中で試験が終わったため、帰り道二人でファストフード店に寄った。なにやら大事な話があるらしい、とのことだった。
「で、吉野の話ってなんだっけ」
「あれだよあれ。お前が知りたがってた夢の話。『ホフマン物語』、約束通りちゃんと調べたよ」
「おおマジでか。それは助かる。なんか分かったか」
「まあいろいろとな」
 吉野はコーラをもう一度飲んでから、先日貸したオペラのCDと一冊の文庫本を鞄から取り出した。本の表紙に『ホフマン物語』とある。
「ジャック・オッフェンバックの作曲したオペラ『ホフマン物語』って、ドイツの詩人E・T・A・ホフマンの小説を元に作られているんだけど、それがこの本にある三つの作品だよ。『砂男』と『クレスペル顧問官』それに『大晦日の夜の冒険』。ホフマンなんて全然知らなかったんだけど、ドフトエフスキーとかエドガー・アラン・ポーなんかが彼から影響受けてるって知ってから、俄然興味が沸いた。森鴎外も、ポーを読む人は更にホフマンに遡らざるべからず、なんて言ってるらしい。特にこの中にある『砂男』、発狂した主人公が自動人形に恋してしまうっていう話なんだけど、人間の負と闇の深淵を突き詰めた狂気と破壊の物語で、元祖サイコホラーとしては傑作だったよ。篠原もミステリーって好きだろ? 一度読んでみなよ、面白いからさ」
 吉野は小説をテーブルに置いた。亮は薦められた小説を手に取ってパラパラとめくる。
「んで、あの夢の話だよな。取られた影に三日月みたいな銀色の舟、だったよな。影がなくなる話は『大晦日の夜の冒険』に出てきてた。オペラと小説じゃあちょっと話が違うんだけど、まず小説の方から説明するよ」
 吉野が話した内容は次の通りだった。
 この話は作者のホフマン自身の実体験が元になったと言われている。一八一二年、ホフマンが三六歳の頃、音楽教師だった二十歳年下のユーリア・マルクに熱烈な恋をする。しかし彼女が商人と結婚することになり、ホフマンは嫉妬のあまり発狂した。ユーリアが自分を襲うという幻覚を日記にまで記すほどまでに、幻想を真実と思い込んでしまったのだ。そしてこの経験が、その後執筆する『大晦日の夜の冒険』に大きな影響を与えることになる。
 この物語には主人公が恋する優しいユーリエと、影を奪う悪魔のようなジュリエッタという二人の女性が登場するが、実はどちらも同じ女性で、モデルはもちろん失恋相手のユーリア・マルク。ホフマンは愛する女性の中に、天使と魔性、二つの分裂した人格を見ており、ここにも狂気を内に抱えた彼の性格の片鱗を窺い知ることができる。彼の人生は芸術と現実、夢と真実、愛と人生、情熱と理性が絶えず相反し、矛盾と葛藤を常に繰り返しており、それがこの物語の象徴ともいえるジュリエッタや影として描かれることとなった。
 オペラの主人公ホフマンはジュリエッタに影を取られたが、小説では若干異なる。小説での主人公はホフマンではなく、エラスムス・シュピークヘルという男性がジュリエッタに鏡像を奪われるという話になっている。ちなみに影を取られるのはペーター・シュレミールという別の小男である。
 影と鏡像は、言葉は違うが意味は変わらない。ジュリエッタが影や鏡像を欲しがる理由は、男たちを家族の縁から永遠に断ち切って、心も魂も全てのものを自分のものにしたいという欲望があったからだ。妻子との縁を切ると宣誓書にサインをすれば鏡像を返してやると、ジュリエッタはエラスムスを執拗に脅すのである。恐ろしいほどの女性の狂気ではあるが、女にたぶらかされて鏡像を騙し取られたエラスムスにも罪はある。
「――じゃあこの鏡像って、いったい何なのかって話になる。小説から引用すると、鏡像とはお粗末な幻影であり、虚栄心が起きるもの、あるいは自我を真実と夢に分けるもの、と皮肉を込めて言われている。そして鏡像を失ったエラスムスはどうなったか――妻子よりもジュリエッタにばかり心を奪われて、苦悩に責めさいなまれ、正気を失っていくんだ。なんとも哀れな話だよなあ」
「つまり愛は人生をダメにするっていう、ホフマン自身の葛藤が生み出したものなのか」
「まあそういうことになるな。よっぽど失恋が堪えたんだろうな。愛でボロボロになった芸術家の心の闇が見えたような気がするよ」
「結局のところ、鏡像とか影っていうのは、夢とか愛とか情熱とか、そういう人生の希望みたいなもんなのかな」
「鏡像を無くした夫に妻が放ったラストの台詞を見ると、そうかもしれん。人生の歓びというものがない男に、女性は魅力を感じないっていう隠喩にもとれる。――鏡像、つまり影は人の心であり、心には愛があり、愛は夢や希望、そして破滅にもなりうるんだ」
 ふうん、と亮は頷いて、広げていた本をパタンと閉じた。
「なんだか随分と哲学的なんだなあ。オペラの方はどうなんだ。大体同じなのか?」
「オペラは舞台芸術としての分かりやすいストーリーに仕上げないといけないから、作曲者のオッフェンバックはかなり脚色を施しているよ。歌う人形のオランピア、瀕死の歌姫アントニア、ヴェネツィアの娼婦ジュリエッタ、歌姫ステラと、主人公のホフマンは次々と恋に落ちるんだ。好きもんだよなあ、ははっ。でも可哀そうに愛する女性にことごとく振られて、最後にステラからも見限られたことで、ホフマンは絶望の中死に至ろうとするんだ。そこを助けるのが詩の女神ミューズ。地上の女性はすべてホフマンを棄てたから、これからは自分に付いてこいと言って、ホフマンを詩人として蘇らすんだよ。愛に敗れ、最後にホフマンに残されたのは詩という芸術だけ。……あ、それと酒。ホフマンはかなり酒に溺れてたから。こちらは小説よりも単純明快で愛と芸術との対立だな。愛を失った時、ようやく芸術家として生きていけるっていう、そういうお話」
「へえ、じゃあ影の意味づけはどうなのかな」
「ジュリエッタの影を欲しがる動機が、心も魂も全てを手に入れたいってところでは、影の意味は同じだろうな」
「なるほど……じゃあ舟は? 確か『ホフマンの舟歌』っていう曲があったような気がするけど」
「そう、その通り。ベネツィアの運河で歌われるのがこの『ホフマンの舟歌』ってやつ。お前が夢で見ていた川を流れる舟っていうのは、この曲に関係してるんじゃないかって思う。この間貸してくれたCDの解説書にも、運河のことがちゃんと書いてあったよ。それを読んでたまたま夢になっただけなんじゃねえの。ただなあ……ちょっとだけ気になることがあるんだ」
「何?」
「銀色とか、月とか、どうして舟にそういうイメージがあったのかが分からん。そんなこと、このオペラにはひとつも出てこないんだ。なにかこう、思い出せるのってないのか?」
「さあ……」と、亮は首を捻った。
「まあこの点は保留にしておくよ。とにかく舟と川と影についてはこれで解決できたよな。ちなみにホフマンを最後に助ける詩の女神ミューズだけど、この女神も実はホフマンのことが好きだったんじゃないかって思うんだ。どうしてもホフマンを詩の世界に連れていきたくて、親友のニクラウスに化けて、あらゆるところでホフマンに愛の疑問を呈する」
「へえ、女神さまが」
「でもそれにホフマンは全然気が付かない。ホフマンが誰かを愛する限り、ミューズはホフマンを手に入れることができなかった。ミューズがいくらホフマンを愛しても、詩と愛は相反するものとしてあるんだよ。このオペラの中ではね。それを唯一繋げるのが、このゴンドラなんだ。舟に乗ってジュリエッタと愛の歌を奏でるのは、ニクラウスに化けていた詩の女神ミューズなんだよ」
「舟が詩と愛を繋げてるってことなのか」
「そう。愛を失って初めて真の芸術は生まれる、というのがこのオペラのオチでもあるわけだけれども、ゴンドラと『ホフマンの舟歌』だけはこの二つを結び付けている。舟の中にいるときだけ、女神はホフマンへ愛を捧げることができるんだ。このオペラの中では最も印象的なシーンだと思うよ」
 友人の深い洞察力に感心し、椅子の背に深くもたれかかって低く唸った。客が増えてきた店内は結構な賑わいを見せていたが、それが気にならないほどの面白い話を耳に入れることができた。
「ここまで調べてくれてありがとう。さすが、お前に頼んで正解だったよ。いろいろと勉強になった。しかしまさか、吉野から愛の話をされるとはなあ……ちょっと意外だったよ」
「バカ言うな、俺だって愛くらい知ってる」
 え、と面食らった亮に、吉野は鼻の穴を膨らませて得意げな笑みを寄越した。
「今は女戦士ミーウにぞっこんなんだ。あんなにがむしゃらに戦いを挑む女戦士は、今まで見たことがない。あいつと出会ってから俺の戦いの人生は変わったよ」
 吉野は遠い目をしてこの世に存在しない恋人に胸を高ぶらせていた。とうとう恋の相手が二次元になってしまった友人相手に、亮は何もコメントすることができなかった。

  *

 家に帰って部屋に入り、吉野から返してもらったCDをケースから出した。クラシック好きだった父は、集めていた多くのCDをそのまま自宅に残しており、これもその中の一枚だった。父は特にこのオペラが好きで、休日には家でよく聴いていたのを思い出す。
 CDプレーヤーにセットして『ホフマンの舟歌』を選択する。演奏時間は三分ほど。付属の解説書には「ベネツィアの運河にて、娼婦ジュリエッタと女神ミューズ扮するニクラウスがゴンドラの中で歌う」と書いてあった。吉野が述べた通りだった。音楽を掛けて、吉野から借りた本を読み始めた。
 波音のようなバイオリンの響きと共にチェロが主題を鳴らす。フルートとハープの軽やかな伴奏に合わせて弦楽器で愛のメロディーが歌われていく。選んだ曲がオーケストラ版だったことに気が付いて、その後にオペラ版も流した。ソプラノはジュリエッタ、アルトはニクラウスに変装している女神ミューズ。ジュリエッタの後を追うようにして愛の歌を歌うミューズは、まるで誰にも知られることのない密やかな恋を、ジュリエッタの歌声へ潜めているようにも感じる。
 目を閉じて、ベネツィアのゴンドラに乗る美しい女性二人を思い浮かべる。影を奪うジュリエッタと、芸術の道を授けるミューズ。二人の妖艶な歌声が様々なイメージとぶつかり合う。
 人の心を映し出す影。夢や希望、そして破滅にもなる愛。
 影というもう一人の自分、その影を奪われたホフマン。
 愛の代わりに残された芸術、そして酒。
 愛と芸術が一つに繋がる『ホフマンの舟歌』……
 あの夢がこの物語の影響を受けているとしたら――自分にとってのジュリエッタとミューズは、いったい誰になるのだろう?

  *

 日曜のバイトが終わって帰宅し、仕事中に使っているメモ帳を店へ忘れてきたことに気が付いた。メモ帳には普段の備忘録をあれこれと書き記しているし、他人に見られるのも恥ずかしい。しかしすでに夜の十一時を超えていて探しに行くこともできない。月曜は店が休みだったが、ダメもとで学校帰りに店へ寄ることにした。
 店の裏手に回ると運よく扉が開いていた。中に入ると、真っ暗な店舗の中で厨房だけ明かりがついている。人の動く気配があり、おずおずと首を伸ばして中を覗き、扉越しに声を掛けた。
「あの、すみません……忘れ物をしたんで、ちょっとだけ店の方に入っていいっすか」
「ん? いいよ――なんだ亮か、入るなら靴だけ履き替えて」
 どうやら父が一人で作業中だったらしい。休日だというのにコックコートを着て何かの菓子を作っている。亮は作業靴に履き替え、カウンターの下や引き出しの中などを探した。念のため更衣室のロッカーも調べたが、どこにもメモ帳が見つからない。もしやと思い、厨房の方も確認に行く。
「さっきからウロウロと何を探してるんだ?」
「俺のメモ帳。仕事で使ってるんだけど、おっかしいなあ、どこにもないなあ」
「もしかしてそこにあるメモ帳か?」
 作業台の隅の方に置いてあった小さな赤いメモ帳に父は顎を動かした。慌ててそれを取りに行く。用事が終わったのですぐに帰ろうとする亮を父が引き留めた。
「亮、もし時間があるんだったら、今作ってる新作食べてかないか」
「え……でも俺がいたら邪魔じゃねえの」
「今日は仕事じゃないんだから見ていていいよ。もし見たいんだったらな。嫌だったら構わないけど」
 帰ろうかどうしようかしばらく逡巡したが、当然ながら無関心よりも興味の方が断然大きく上回る。ケーキを作っている父の作業姿をじっくりと見学していたことなんて、今までほとんどなかったからだ。邪魔にならないよう少し離れた場所から手順を見守る。父はボウルに入った白いフワフワとしたものにヨーグルトを加え、スティックミキサーでかき混ぜていった。冷凍庫から冷やしておいた白いムースの土台を出して、筆でピンクの彩りを淡く塗っていく。流れるような一連の作業に目を奪われ、亮は我を忘れて食い入るようにそれを見つめた。
「それ、何塗ってるの?」
「イチゴのコンフィチュール。ジャムの薄いやつだな。といっても作り方は違うけど。綺麗な色が付くだろ」
 コンフィチュールを塗った後、先ほどかき混ぜていたものを上に乗せ、パレットナイフで平らにならす。上部に真っ赤なフリーズドライのフランボワーズを散らした。まるで女の子が恋をして頬が染まるような愛らしいケーキだった。ケーキの美しさもさる事ながら、小さな世界を魔法のように仕上げていく父の鮮やかな手さばきにも亮は見惚れてしまった。
「よし、試食してみよう」
 出来上がったケーキを早速試食する。白いムースの中にはピンクのイチゴのムース、その上にヨーグルトのムースが入っている。土台になるパート・シュクレから、ふわりと花の香りが漂ってきた。
「この香り……どこかのケーキでも嗅いだことがある」
「ああ、バラの香りだな。バラの花びらで作られたリキュールだ。パート・シュクレに染み込ませてる」
 ムース部分は溶けるようなまろやかさがあり、イチゴの豊かな甘みと酸味をヨーグルトの乳酸が優しく包んで馴染ませていた。いつもながら、なんて上品で軽やかさのある味なんだろうと感嘆する。口に含んだ瞬間から、亮の五感の隅々まで甘く誘惑されるような味わい深さがある。
 息子の食べている様子が気にかかるのか、父は試食しながらケーキと息子を交互に見やった。
「んー……どうだ? 感想は?」
「……美味いよ。ただ……」
「何?」
「なんていうか上手く言えないけど、何かがかち合ってる気がする。なんだろ……」
 父はもう一度ケーキを口に含んだ。
「うん、そうだな、僕もそう思う」と、持っていた皿を作業台に置いた。「香りかな。イチゴとバラが同じように甘くて主張しすぎた。どちらかを減らすか、素材を変えてみるか――亮だったらどうする?」
 突然の父からの問いかけに、ぎょっと目を見開いた。子どものような好奇心を輝かせる父の眼差しは、息子からどんな意見が出されるのか楽しみで仕方がないというような光を放っていた。そんな光を見せられても、自分に分かるわけがないだろうと困却してしまう。昔のような、父と子どもとの楽しい手紙の遣り取りとはわけが違うのだ。父に助言をできるほどの知識も才能も、今の自分にあるわけがないのに。けれどもここで降参するのも悔しいので、今までのスイーツ巡りの研究となけなしの知識を必死に記憶から引っ張り出して、このケーキに見合うような材料がどこかにないか様々な組み合わせを一心に考えた。
 そのときふいに思いついたのが、蔭川の言葉だった。彼はこう言ってはいなかったか――バラよりも、その周りに咲く小花の方に魅かれる人もいる、と。
「ハーブってどうかな……ミントとか、そういうのを足してみるとか……」
 自信ないような弱々しい声になったことに、自分で情けない思いに駆られる。
「どうしてそう思ったんだ?」
「どうしてって……甘みを引き立てるなら、爽やかさがもっとあるといいかもしれないって思ったから。例えばそう、バラの花園を思い浮かべたんだ。バラに添うようにして花を咲かせるものっていったら、やっぱりハーブかなって」
 父は亮の回答を受けてしばらく黙って目を瞑り、二、三度小さく頷いて、土台の部分までざっくりとフォークで割ってケーキを食べた。
「なるほど、思い切ってパート・シュクレを変えてみるか。しかしバラの花園ね。なかなか面白い感性のいい意見だったよ。参考になった、ありがとう」
 父はそのまま食べきって皿を流しに置く。「面白い感性」という表現に多少の引っかかりはあったものの、これは一応褒められたと解釈してもよいのだろうか……大して良い意見を言えたとも思えないが意外にも悪くない評価を受けてしまって、亮は戸惑いを隠せなかった。「努力がクリアできれば正当な評価をしてくれる」と言っていた蔭川の発言は、どうやら買いかぶりでもないらしい。この人は良くも悪くも自分の意見にとことん素直なようだ。父はボウルやハンドミキサーを片付け始めた。
「亮、今の仕事楽しいか」
 手元に残っているケーキを食べ始めた亮は、父の質問に顔を上げた。
「楽しいも何も、仕事だからしてるだけだけど」
「仕事だから、か。そりゃそうだな」
 父はからりと笑って口元を綻ばした。
「どうしてわざわざここの店にしたんだ? 家からも遠いだろ。バイト先なんて近所にいくらでもあるだろうに。ずっとそれが気になっていたんだ」
「それは――」しばらく悩む。「ここのケーキがどこよりも断トツで美味かったから、だと思う」
 つい本音を漏らしてしまってから、しまった、と亮は顔をしかめて口を閉じた。父もその発言に意表を突かれたのか、仕事の手を止めている。しばらく何かを考えた後、「そうか」とぽつりと呟いて洗い物を始めた。背を向けていて顔の表情は見えなかった。シンクに叩きつけている水の音が、厨房にピンと張る沈黙の膜に丸い穴を開ける。
「……悪いとは思ったけどそのメモ帳、少しだけ見せてもらった。ケーキのことをちゃんと真面目に研究していて驚いたよ。よく勉強してるみたいだな」
「……どうも」
「お前もしかして、パティシエに興味あるのか?」
 単刀直入に問うてきた父の質問が亮の咀嚼を止める。答えるべき返事が喉の奥に詰まった。動揺する息子の様子に気が付いたのか、父はそれ以上のことを聞いてこなかった。
「まあいい。もしお前が希望するなら」と、スポンジで器具の汚れを取りながら問いかける。「仕事場を厨房の方に移ってもらうけど。もちろん洗い物と掃除と材料の運搬くらいしか、当面はさせることはできんけどな。ホール係よりはパティシエの働きぶりがよく分かると思う。――どうする?」
「…………」
「これはお前が決めたらいい。厨房に入ったら仕事はまた一から覚え直しになるし、ホールだって大切な仕事だ。僕はどっちでも構わんよ。どうする?」
 どうする、との今日三度目の呼びかけに、お前はここで何をしたいのかと暗に問われているような気がした。亮は皿を持ちながら厨房の床に視線を落とす。蛍光灯の白い明かりの下で、足から生える影がぼんやりと浮かび上がっていた。影は相棒の本心を探るように、『どうする?』とこちらをじっと見つめ返してきた。

  *

 十一月の末まではホールとして働き、十二月から厨房に移ることになった。クリスマスの準備で厨房は多事多端となっていて、一日でも早く人手が欲しいと職人たちから要望があったためだ。
「そっちも忙しいかもしれませんけど、店の方だっててんてこ舞いなんですよ!」
 あからさまに不平を態度で表す三橋に、父は愛想笑いをしながら彼女をなだめた。
「まあそう怒んないで、三橋ちゃん。来週から新しいスタッフ雇ったから」
 平日の昼間、休日はフルで働いてくれるという若い女性スタッフらしく、店側としては有難い存在だった。が、三橋はそれでも不服そうな様子を見せていた「なんで篠原くんが……」と、ぶつくさ文句を言い続けている。人手が足りないから、というよりは、亮と離れることに対して不満があるようにも思えた。
 シフトの時間も変更した。職人たちの勤務時間に合わせて、より早い時間帯に移る。朝は早いが帰宅も早いわけで、夕方の時間を有意義に過ごせるほうが亮としても有難かった。制服もグレー色のホール用制服から白のコックコートに変える。亮に仕事を教えるのは入って一年目の坂上という男性見習いパティシエだった。
「洗い物と掃除を代わってもらえるのは助かるよ。よろしく」
 蔭川とは正反対のがっしりとした身体つきの坂上は、肉付きの良い頬をいっぱいに緩めた。人当たりのよさそうな雰囲気に好感が持てる。というか、ここで働く職人は基本的に皆真面目で性格がいい。トップにいるパティシエがあれだと、従う方はこれくらい従順じゃなければとてもやっていけないんだろうなと亮は勝手に解釈して、職人たちの気苦労をそっと思いやった。
 一日だけ坂上が仕事を教え、次の日からはほぼ自分一人での作業となる。十二月の朝の冷え込みは想像以上に辛い。凍える指先を我慢して体を動かしながら温める。厨房の床掃除、作業台の消毒、店内の床掃除にショーケースのガラス磨き。ショーケースの電源を入れて冷やす。イートインのテーブルや椅子の消毒と拭きとり。扉と窓ガラスを磨いて外掃除。亮が掃除をしている間に坂上がクレーム・パティシエール(カスタードクリーム)を炊きに厨房へ戻った。一人で掃除を続けていると寒いどころか最後には薄っすらと汗が滲む。
「掃除ばっかりで大変だけど明日から頑張って。僕もなるだけ手伝うし。パティシエ目指す人はみんな最初にすることだから」
 戻ってきた坂上が気遣ってにっこりと笑いかけた。
「パティシエになろうとは思ってないんすけど」
「え、ほんとに?」
「はい」
 不思議そうな顔をした坂上が何か言いたげだったが、朝礼の時間になったため会話がそのまま途切れた。
 朝礼での連絡事項や予約商品、天気、温度のチェックと各担当スケジュールを確認し、十人ほどの職人たちが粛々とそれぞれの持ち場に向かう。残っていた掃除を終わらせると、材料の運搬を命じられる。小麦粉や砂糖、卵にチョコレート、牛乳、果物など。十キロ以上になる荷物を倉庫や冷蔵庫へ次々に運ぶ。その後には店舗への品出し作業。積みあがったボウル、鍋、食器の洗い物。販売の方に人手が足りなければすぐさま借り出される。そしてまた延々と洗い物、片付け、洗い物、片付け……。
 楽しいとはとてもいえない目まぐるしい時間があっという間に過ぎていく。下働きから解放された坂上はすぐさまケーキを作れるかというとそうでもなくて、ひたすら卵を割り、イチゴのへたを取り続けていた。皆が黙々と作業を続ける中で、ブランシールがどうたらナッペがこうたら、慌ただし気な父の声がたまに飛んでくる。
 相変わらず蔭川は仕上げをいろいろと注意されてはいたが、それは嫌味というより指示に近いものだった。「チョコレートの飾りは重心とバランスを考えて」「ナパージュ、そんな適当じゃダメだよ。イチゴとケーキが輝かないと」「ちゃんとルセット見てる? 商品のクオリティが落ちてるけど」「絞りはもっと練習しとけよ。大きさをもっと一定にして」といった具合に。
 蔭川が語っていたように、父の指示はごく当たり前の基本的なものばかりだった。指示はしつこいくらいに細かいが、蔭川を本気で成長させようという父の意図は感じられた。逆にクレーム・パティシエールを焦がした坂上が散々怒鳴られていて、どうやら今日も父の怒号は通常モードのようだ。
 商品を運ぶ中に、亮が意見を出した新作のケーキもあった。バルカロールという、店の名前を与えられた舟形のケーキの横に行儀よく並んでいる。土台の部分はバジルの混ざったビスキュイに変わっていた。レブリーと名付けられたこのケーキは、ハーブの爽やかな香りがイチゴの甘さやヨーグルトの酸味と絶妙に調和されていて、客の評判も上々のようだった。このケーキが客の口へと運ばれるたびに浮き立った気分になり、疲れが吹き飛んだ。父の試作品に意見しただけの些細なことではあったが、客の笑顔に自分が貢献できたかと思うと、それだけでも嬉しいものだ。
 休憩は蔭川と重なり、会議室で横に並んで弁当を食べる。会議室に置かれたテレビから、クリスマスのイルミネーションの特集が流れてきた。店の近くのケヤキ並木も画面に映る。点灯式にゲストとして呼ばれた女性歌手が黄金の並木の中で歌を披露していた。亮はテレビから目を離して箸を置き、ポケットから赤いメモ帳を取り出した。
「蔭川さん、ナパージュってなんですか」
「今日言われてたやつ? 艶出しに使うゼリーのようなものだね。見栄えよくするのが主な目的だけど、それを塗るとフルーツの乾燥や劣化も防げるんだ。今日使ったのは無色透明のナパージュ・ヌートル。これにアプリコットが入るとナパージュ・ブロン、グロゼイユが入るとナパージュ・ルージュ」
「へえ。ルセットはレシピでいいんですよね」
「うん、そう」
「ブランシールは? ナッペは?」
「ブランシールは卵黄と砂糖を白くなるまで泡立てることだけど、ドライフルーツを下茹でする意味でもあるよ。ナッペはクリームを塗る作業のことだね」
 亮はさらに様々な質問を繰り返す。弁当を食べることを忘れたかのように、蔭川の説明をひたすら赤いメモ帳に記載していく。メモ帳はすでに端が丸く擦り切れて、至る所で紙がめくれてボロボロになっていた。蔭川はメモ帳にびっしりと埋まっていく小さな文字の羅列をじっと眺める。
「篠原くん、よかったら今度、専門学校で使ってた教科書を持ってきてあげるよ。道具の名前も覚えておいた方がいいし、作業の意味も理解できるから。それにその方がきっと仕事が捗る」
「あざっす」と、頭を軽く下げる。
「でもこれでとうとう篠原くんも、パティシエの道に一歩踏み出したんだね。今日は記念すべき日だ」
 ペンを動かす手を止めて、亮は驚いた様子で蔭川を見た。
「ケーキなんて一度も触ってないですし、掃除と洗い物してただけですよ」
「それで十分だよ」蔭川は優しく微笑みかける。「世界中のパティシエの修業は掃除から始まるんだよ。どんな国のどんな有名な職人でもあってもね。コックコートを着てパティスリーで掃除を始めた瞬間から、パティシエの道は始まるんだ。もう君は、立派なパティシエの卵だよ」

  *

 帰宅すると、夕暮れの日が薄暗くなる中、家の前に白いロングコートを着た人影がある。
「あれ? 遥香さん?」
「あ、亮くんおかえり。やっと帰ってきた」
 いつからそこにいたのか、遥香の赤く染まった頬が外の冷たさを正直に表していた。冷たく乾いた風が彼女の頬を叩く。乱れた髪を抑えて耳に掛ける指先は、紅色の寒さに凍えていた。
「体冷えてんじゃん。寒いし、うち入りなよ。母親もいるから」
「おばさんにはさっき会ったから大丈夫。もうすぐ帰ってくるだろうって思ったから待ってたんだ。今日はこれ渡しに来ただけだから」
 ショルダーバッグからB4の茶封筒を取り出す。手渡された封筒の中身を取り出すと、何かの楽譜が出てきた。
「これ、もしかして前に言ってた……」
「そう、ヒナステラの『フルートとオーボエの為の二重奏』、一緒に演奏しようって言ってたやつだよ。オーボエパートの楽譜をどうしても亮くんに渡したくって。最近LINEの返事もないしどうしようかなって思ったんだけど」
「あ……ごめん」そういえばアンサンブルの曲が決まったとメッセージが来て以来、返事を出していなかった。「ラヴェルだったよね。コンテスト頑張って。それからこれ、ヒナステラはいつ練習できるかは分からないよ。それでもいいの?」
「……やっぱり忙しいから無理だよね。押し付けて悪いことしちゃったかな」
「いや、そんなことはないけど」
「じゃあ亮くんに持っててほしいな。いつかはやろうよ、ね」
 真冬に咲く真っ白なクリスマスローズを思わせるその笑顔に、どう対応すればいいのかいつも戸惑ってしまう。亮は波のようにグネグネと唇を動かして、「うん」と一言その笑顔に返した。
「バイトはどう? 頑張ってる?」
「大変だよ。販売から厨房の方に移ることになったから、仕事をまた覚えなおしてるんだ」
「じゃあこれからは、お店のケーキを作るようになるんだ?」
「いや、今はまだ完全な下働き。掃除と洗い物ばっかりでケーキが作れないどころか、クリーム一つ絞らせてもらえない」
「でもいつかは作るようになるんだよね」
「そりゃあ、やるからにはちゃんと作れるようにはなりたいよ」と、誇らしげな笑みを遥香に向ける。
「そっかあ……亮くんってほんとすごいなあ。私より年下なのに、どんどん先に行っちゃうような気がして、もう大人の世界にいるみたい。私も負けてられないっていうか、頑張んなきゃって思うよ」
 遥香が自分と比べようとする理由が分からず、亮は首を捻った。
「なんでそう思うの? 特別なことなんてなんにもしてないし、俺がやってるのなんてただのバイトだよ。部活がバイトに変わっただけで、頑張ってるのはみんなも遥香さんも同じだし、そんなこと誰でもしてんじゃん」
「そうかなあ。亮くんってさ、なんかこう一旦好きになると、とことん極めちゃうっていうか、絶対に妥協しないっていうか、みんなとはちょっと違う感じがするよ。上手く言えないんだけど……オーボエの練習も半端なかったけど、料理だってなんでも作れちゃうもんね。この間の晩御飯も美味しかったし、お菓子作りも上手だし、バイトだって一生懸命だし――私、そういう亮くんが好きだよ」
「…………」
 咄嗟に返事ができない亮に気が付き、遥香は慌てて体の前に両手を広げた。
「あ、違う、好きっていうのはさ、つまり、その、亮くんの努力のことだよ。なんて言うか、やましいことじゃないから」
「……うん、分かってる」
 その先の会話が急に途切れてしまって、二人の間になんとも微妙な空気が流れ込む。「やましいこと」というのが何を指すのか、はっきりさせたいようなさせたくないような、不安とも期待ともとれる感情が身体の内を駆け巡った。寒々とした木枯らしがどれだけ吹こうとも、顔の火照りを収めることができない。あ、そうだ、と気まずい空気をどこかへ蹴散らすようにして遥香は話題を変えた。
「二十四日のイブって空いてない? お昼からショッピングモールの広場で吹奏楽部のコンサートやるんだよ。クリスマスコンサート。先生がさ、サンタさんの格好して踊りながら指揮するから演奏してる方も可笑しくって。三曲くらいしか演奏しないけど、私のソロもちょっとだけあるんだ。亮くんに聴きにきてもらえると嬉しいんだけど、無理かなあ」
 いつもの夜空色の大きな瞳で遥香は懇願する。なんとかしてでも聴いてやりたい、とは思ったが、残念ながら二十四日といえばクリスマス商戦真っただ中だ。
「ごめん、無理だと思う。クリスマスが終わるまではバイト休めないし」
 亮の返事に、遥香の瞳が僅かに震えたような気がした。
「そうだよね、うん、クリスマスって忙しいもんね。仕方ないっか……じゃ、またいつかお店の方に遊びに行くね」
 柔らかな笑顔を振りまきながら、さよなら、と遥香は帰っていく。彼女を見送った後、家に入って汚れたコックコートを洗濯カゴに放り込み、亮はすぐにオーボエを取り出した。師事していた先生を通じて中古を格安で購入したものだ。以前使っていた人が音大の学生だったようで、古いながらもよい音が鳴る楽器だった。リードを濡らして口に含み、ひと吹きすると、澄み渡るような丸い響きが部屋に響き渡った。
 パラパラと指を慣らしてから曲を練習し始める。一楽章だけ吹いてみたが、指使いが難しくて何度かやり直しを繰り返す。三十分ほどで終わろうと思っていたのに、一旦やり始めると夢中になって止められなくなった。結局夕食を後回しにして、みっちり二時間の練習となった。
 その夜、遥香からのLINEは来なかったが特に気にはしなかった。久々に楽器に触れることができた充足感が、心にわだかまっていたものを全て発散させてくれていた。アンサンブルであれどんな曲であれ、音楽はやっぱり楽しい。楽器を再びケースから出す気になったのは遥香のお陰だった。彼女にちゃんと礼を言わなければ。新作のあのケーキ、いつか遥香にも届けたい。あれならきっと彼女も喜んでくれることだろう……

  *

 時計の短針が十の文字から少し離れた。
 風呂に入りなさい、と部屋の外から母に呼ばれ、遥香はもうすぐ入ると返事をした。勉強机に座ってスマホの液晶画面を見つめる。クリスマス、とタップして消去し、亮くんは、と書いてまた消した。スマホの上でウロウロさせていた指を下ろしてLINE画面を消し、小さなため息をつく。
 今日は久しぶりに彼に会えた。余程バイトが楽しいのか、半年前に比べて顔つきが随分と良くなっていた。「ケーキを作りたい」と誇らしげに話す彼の笑顔が嬉しかった。けれど――と、机の脇に置いてある楽譜に目をやる。
 ヒナステラのフルートパートの楽譜。
 オーボエパートの楽譜を渡したとき、彼は困ったような表情を見せていた。コンサートにも大して興味がないようだ。もしかすると、亮は音楽から離れるのではないのか――そんな一抹の不安が頭によぎり、きゅっと目を閉じて首を振った。いやきっと大丈夫、彼を信じようと心に沸いた懸念を打ち消す。先輩として、頑張っている彼に負けてはいけないと気を取り直す。風呂の準備をしようと時計を見る。メープルの木枠に囲まれた三本の針。秒針が短針を乗り越えて無慈悲に離れていった。
 スマホの水滴の音がLINEの着信を知らせた。もしや亮からではないかと微かな希望を抱いたが、別の人物からのメッセージと分かって肩を落とす。メッセージはあの人からだった。
『遥香、久しぶり。イブにコンサートするんだね。また聴きに行くよ』
 もう離れようとお互いに話し合ったのに、世話好きな彼はまめに連絡を寄越す。七夕の定演のことも彼から訊いてきたことだった。さすがにもう断ろうと思ったのだが、しばらく考え込んで返事を変えた。
『いつもありがとう』
 彼の好意を無視することなんて、やっぱりできない。
 時計の秒針が、再び元に戻って短針と重なった。

Chapitre 6

 街には煌びやかに装飾されたイルミネーションが瞬き、歓びの歌と恋の吐息と鈴の音が至る所に溢れている。店の扉にはフェイクのリンゴや木の実で作られたクリスマスリースが飾られた。直径四十センチにもなる真っ赤なリースは、遠目から見ても華々しい存在感を誇っており、シンプルな店の外観にひときわ派手やかな彩りを添えていた。店内ではカウンター脇に置かれたサンタとトナカイの人形がしおらしく客を出迎える。ショーケースの中は、クリスマス用にラインナップされたケーキがずらりと揃った。ルージュとゴールドに光るプチガトー(カットケーキ)たちの間に紛れて、店の定番のケーキであるバルカロール――ハート形のグリオットチェリームースを乗せた舟のケーキも大人しやかに並んでいる。
 しかし華やかな店内とはうって変わって厨房の様子は全く逆、夢という美味しさを生み出すようなキラキラしたイメージとは程遠い、過酷な労働の場と化す。クリスマスまでまだ二週間もあるというのに、その準備は想像以上の厳しさのようだ。何百という生地を練り、何十種類ものムースを作り、クリスマス本番のための仕込みに連日追われている。職人たちの顔は日に日に疲労の色が濃くなっていく。
 高校生だからということで亮の勤務時間や勤務内容にさほどの変化はないものの、大人たちの残業は深夜近くにまで及び、腰を悪くしたり腱鞘炎を悪化したりで体調不良を訴えるものも出てきた。
 クリスマスといえばワイン、シャンパン、シャンメリーというのが定番だが、この時期のパティシエたちに必要なのは、悲しいかな、疲労回復用ドリンクである。どれだけ疲れようが寝不足であろうが休むことも許されず、職人たちは重い体を引きずりながら痛みを訴える足腰に鞭打ち、寒い厨房の中で淡々と作業を続けている。父もさすがに疲れを隠せないようで、流れるような手さばきでナッペを繰り返しながら、どことなく口数が減ったようにも感じる。
 開店前にケーキの陳列作業をしていた三橋が、店の扉のガラスを拭いていた亮に話しかけてきた。
「三百個のクリスマスケーキの予約、もう完売だって」
「げ、マジで」
「お店のケーキってさ、予約だけじゃなくて当日販売分もあるんでしょ? クリスマスってどうなるんだろうね」
 そういえば三橋もここでのクリスマスは初体験なのか、と思い出した。随分と仕事に慣れているので、まだ一年も経っていないのを忘れるほどだ。
 それにしても予約の三百という数字に驚きを隠せない。しかも二週間前ですでに完売とは、この店の人気ぶりは相変わらず凄まじい。予約のついでにケーキを買っていく客も徐々に増えていて、クリスマスに向けた売り上げはさらに伸びていた。製造数を増やしているにもかかわらず、ショーケース内のケーキは夕方までにはほぼ完売御礼状態だった。この調子だと当日の混雑ぶりはどのようになるのだろう。今から考えるだけでもゾッとする。
 帰り際、亮は蔭川へ声を掛けた。
「蔭川さん、もしあれでしたら、平日の夕方も二時間くらい働けますけど」
 蔭川はマカロンの生地を絞っていた手を止めて亮を見た。
「いいの? 篠原くん。こっちとしては助かるけど……」
「大丈夫ですよ。クリスマス前までですけど、それでもよかったら」
「亮! お前そんな悠長なこと言って、勉強の方は大丈夫なのか?」と、向こうの作業台から父の声が割り込むようにして飛んできた。「高校生の仕事はケーキ職人じゃなくて勉強だぞ! 大人の心配なんて、そんな生意気なことせんでいい!」
「必要ないならいいですよ!」と、亮も声を張り上げて反論する。「せっかく少しでも役に立てたらって思ったのに、なんでそんな風に言われなきゃならないんですか。嫌な顔されるくらいならやめます」
「やめとけ、やめとけ、来んでいい。偉そうにされてもこっちが困るだけだ」
 父は手をひらひらとさせて、息子の意見を邪険に扱った。
「偉そうって……なんだよその言い草。みんなが大変そうだから、少しは役に立ちたいって思っただけじゃんか」
「役に立つ、か。その精神は大いに評価するよ。けど成績落ちたら辞めてもらうっていう約束は覚えてるよな? バイトばっかり一生懸命してるみたいだけど、そっちの方は、ほんとに大丈夫なんだよな?」
「……落ちてなんかねえし……ったく、こんなときだけ親父面すんなって」
「職場では敬語だって言っただろ!」
「敬語もクソもねえよ! あんたが煩くしなけりゃ済むことなんだよ!」
「まあ二人とも落ち着いて――オーナー、一時間くらいどうでしょうか? 片付けとか焼き菓子の包装くらい手伝ってもらえると助かります」
 というわけで平日三日のシフトも増やす。遥香のところにケーキを届けるのは、年を明けてからになりそうだなと少しだけ残念に思ったが、この際仕方がないと諦めた。
 店の方は二十二日から二十五日までイートインを休止する。手の空いた販売の子はシール張りやラッピングなど細かい作業を手伝いにきた。
 倉庫の中はクリスマス本番を待つ大量の材料と仕込みで溢れかえっている。それでも問屋に発注した材料が止まるわけではない。卵や何種類もの粉類、砂糖、チョコレート、蜂蜜、ドライフルーツ、ナッツ、リキュールなどの保管場所を確保しなくてはいけないため、頭を悩ましながらテトリスのように組み上げて倉庫に並べていく。冷蔵庫の中を覗けば牛乳に生クリーム、バター、チーズ、ヨーグルト、ハーブや大量のフルーツ類、そして普段は十分すぎるほどの余裕がある大容量の冷凍庫でさえ、何百というムースや生地の仕込みでみっちりと埋まってしまっていた。
 そしてとうとう二十三日、クリスマス商戦が始まる。
 終業式が終わって帰宅し、すぐにバルカロールへ向かう。店の前に並ぶ客が遠くから見え、いつもの倍ほどもある列の長さが今日の忙しさを物語っていた。
 すぐにコックコートに着替えて厨房に入る。厨房に入って寒さにぶるりと身震いする。真冬の風が吹きさらす外気温よりも低いのではないか、と思えるほどだ。「こんにちは、おつかれさまでーす」という亮の挨拶に応じた職人はわずか数人だった。他の職人は作業に没頭していて聞こえていないようにも見えた。返事をする気力も失せていたか、それとも実際本当に聞こえていなかったのかもしれない。あの父でさえ今日はすこぶる大人しい。仕事への集中と、限界に近い疲労の蓄積と、連日の睡眠不足とで、職人たちの無言のストレスが大量のガスとなって厨房に充満していた。
 この日から三日間は焼き場・仕込み・仕上げで完全に分業制になっているようで、職人たちの持ち場がいつもとは違うようだ。いつもの亮の持ち場となる洗い場には汚れたボウルが山ほど積み上がっていたが、その横の作業台には飾り付けられることを今か今かと待ちわびているアントルメ(ホールケーキ)やプチガトー(カットケーキ)が邪魔をしていて、いったいどこからどう手を付ければいいのか分からず途方に暮れた。
 とにかく今日は予定分の製造数をこなさないといけない。洗い物は後回し、比較的簡単なフルーツの飾りつけやフィルム巻き、予約ケーキの箱詰めを坂上とするよう父から命じられて、せっせと仕上げ作業を始める。ここでようやくパティシエらしい仕事を任されたともいえるわけだが、次から次へと作業台へ並べられるケーキの量と終わりの見えない細かな手作業との連続で、喜ぶどころか辟易してしまうほどだった。
「坂上さん、今日みんな何時から厨房入ってるんですか」
「朝三時くらいかな」
「え……」
「昨日帰ったのは深夜だよ。オーナーとか、他に何人かはここに雑魚寝で泊まったみたい。この三日間が勝負だからね」
「はあ……予約だけで三百あるんですもんね」
「うん、三日間で三百個以上の笑顔をもらえるんだ。クリスマスってそういう特別な日なんだよ。頑張ろう」
 ケーキに乗せるラズベリーよりも充血した目を細めて坂上は微笑んだ。
 ある程度仕上がったところで坂上はクレーム・パティシエールを炊きにいき、亮は洗い物を少しずつ片付けていく。そしてまた仕上げ作業、その繰り返し。
 販売の方も手が足りないとのことで、店へケーキを順次運んだ。店頭へ出ると日頃お目にかかれないような熱気と混雑ぶりに圧倒された。客の溢れんばかりの笑顔、笑顔、また笑顔。予約ケーキの入った箱が次から次へと客に手渡されていく。普段使用している白い箱とは異なり、クリスマス限定の黒い箱で、上面にはヒイラギの模様とバルカロールのロゴが銀色で印字されている。甘い甘い幸せの詰まった、年に一度の特別な箱。ショーケースに並ぶケーキたちは、まるで深海に沈んだ沈没船から金銀財宝が見つかったかのような輝きを四方八方に放ち、その光に照らされた客たちは探していた宝物をようやく見つけたといわんばかりの喜びの笑顔に包まれていた。
 三百個のケーキと、三百個の笑顔。三百個の感謝と三百個の喜び。
 ほんのひとときではあるが、今日一日の目まぐるしさが亮の頭から根こそぎ吹き飛ばされた。
 一つのケーキを無数の愛に変える瞬間が、クリスマスにはある。
 遥香に初めてシュークリームを食べてもらった時の、あの笑顔がふと思い起こされた。自分たちが作り上げる小さな世界の向こう側には、大切な人の笑顔と幸せが待っている。その幸せが柔らかな光となって、空っぽになった亮の心にじんわりと染み込むようだった。その癒しの光は、亮の足元に伸びる影をより濃くしているようでもあった。

 二十三日を無事に終えて翌クリスマスイブ。パティスリーとしてはこの日がクリスマス本番ともいえる。
 戦場となった厨房の慌ただしさはピークを迎え、砲弾の代わりに生クリームとチョコレートクリームが厨房の中をあちらこちらに飛び交う。父はあらん限りのスピードで鍋を泡立て、流れるような手裁きでムースを混ぜ、コンフィチュールを絞り、グラサージュ(チョコレートのコーティング)をかけていく。たとえ数が多くても決して完成を疎かにはしない。手抜きがないよう細心の注意を払い、菓子の見栄えのチェックを行った。
 作業予定をこなせないものには手の空いたものをすぐさまヘルプに回し、二番手の菓子職人であるスー・シェフと進捗状況を連携し合いながら最大限の効率でもって作業を進める。顔は鬼のように真剣で話しかけるのも怖いくらいだが無駄口は一切叩かない。製造の多い分、職人たちの細かなミスがどうしても増えるが、いちいちそれに目くじらを立てるよりもまず先に仕事を進めることを優先していた。凄まじい勢いで作業をこなす父の姿には敬意さえ覚えるが、いつもこれくらい口数が減ればいいのに、とも内心思った。
 そして怒涛の三日間がとうとう終わろうとしている。二十五日午後六時、最後の客にケーキを渡し終え、三橋が恭しく礼をして見送った。
 扉を閉めて鍵を掛ける。これでようやくクリスマス商戦終了。店全体からふうっと安堵した息が漏れ出てくるようだった。
 ごく簡単な打ち上げをするということで、スタッフ全員が厨房に集められた。
「今年も大した事故もなく無事終わりました。みんなご苦労さまでした。ありがとう! ありがとう!」
 父がスタッフ一人一人と握手をしながら激励と感謝を述べていった。目が真っ赤になっているのは、寝不足からか、それとも涙ぐんでいるからか。スー・シェフが本当に泣いていて、なんとも大げさなもんだと目を疑ってしまった。ワイングラスが配られて各自手にしていく。亮も父からグラスを手渡された。中には透明な液体が入っていた。
「亮、よく頑張ったな。三日間よく働いてくれてほんとに助かったよ。はいこれ、僕からの大盤振る舞い」
「どうも。これ、中に何が入ってるの」
「ボルドーのワイン。今日は特別だからな、値段張ってんだぞ。お前もそれくらいもう飲めるだろ。本物の味は知っておいた方がいい」
「……はあ? 何言ってんの。親が酒を勧めてどうすんの」
「ははっ、嘘に決まってるだろ。子どもに配ったのはただの白ブドウジュースだよ」
「……あ、そ」
「嘘だよ」
 いったいどっちだよ、と尋ねる暇もなく父は他の職人たちとの会話に混ざる。「このシャトー・オー・ブリオンのために……」という嬉しそうな声がどこからともなく耳に入ってきて、どうやら本当に本物の酒が配られたことが分かった。まさかこれは違うよなあ、と亮は手にしたグラスを目の前に掲げてじっと見る。液体が揺れると柑橘系のような濃厚な香りがふわりと漂ってきた。
 父は職人との会話をすぐに終え、後始末を他のスタッフに任してさっさと店を出た。亮は隣にいた蔭川に尋ねた。
「オーナーはもう帰っちゃうんですか。片付けもしてないのに」
「ああ、オーナーのお父さんが具合悪いらしくて、今から新幹線で実家に向かうんだって。明日はお店が休みだからね」
 え、と思わず蔭川を見た。その様子に蔭川の方が逆に驚く。
「オーナーのお父さん、去年の夏くらいだったかな、病気で入院したらしくって、休日になるたびに実家へ帰省してたんだよ。篠原くんはオーナーから、その辺りの事情を聞いてなかったの?」
「いや、全然……」
 離婚してから一年間父とは会っていなかった。もしかすると、会えなかった理由は自分や母との面会が嫌だったわけではなく、祖父の病気があったからなんだろうか。
「そうか、じゃあお店のこと、まだ何も知らないんだ……」
「え?」
「いや、またきっとオーナーから話があると思うよ」と、蔭川は首を振り、何かを誤魔化すような素振りを見せた。「とにかく今日はおつかれさま。篠原くんがいろいろと頑張ってくれたお陰で、作業もスムーズにいったよ。ほんと、ありがとう」
 蔭川はいつもと同じ青白い顔で、退院の日が決まった病人のような笑顔を作った。大人から素直に感謝されると、どうしてもむず痒いような気分になる。はにかむようにして亮も笑顔を返した。
「初めてのパティシエとしてのクリスマス体験はどうだった?」
「忙しすぎて、記憶に残らないくらい何が何だかよく分からなかったです」
「そうだよね、僕も去年そうだったから。でもよくやってくれたよ。クリスマスってある意味すごいよね。たった一つのケーキがあるだけで、みんなが幸せになる。こんなことってさ、きっと自分一人の力で成しえるものじゃないよ。それって最高に素晴らしいと思わない? どんだけちっぽけな自分であっても、ケーキを作る技術さえあれば、人のために何かを――たとえばそう、愛、みたいなものを生み出すことができちゃうんだよ。僕ってほんとに弱くて一人では何もできないけど、この店にいれば自分だって誰かに幸せを届けることができるんじゃないかって、去年のクリスマスでものすごく感じたんだ。しんどいし、きついけど、やっぱり僕はパティシエっていうこの仕事が好きだよ」
 言っている傍から蔭川の白い頬に赤みが浮いてきて、それを隠すように急いで彼はワインをがぶりと飲んだ。が、勢いあまって喉に引っかかったようで激しくむせていた。亮もまたグラスの中の謎の液体をぐっと飲む。甘くて苦い芳醇な香りが鼻腔一杯に広がって、液体が喉の奥でジュワッと熱く燃えた。

  *

 おつかれさまでした、と挨拶して店を出る。店の裏通りはすでに夜の帳に覆われていた。寒さを伴う乾いた風が容赦なく体を叩きつける。ダウンジャケットの首元を寄せると同時に、暗い物陰から「篠原くん」と呼ぶ女性の声がして、亮の心臓が喉元まで跳ね上がった。
「誰? 三橋さん? もう帰ったんじゃなかったの?」
「篠原くんも上がるのが見えたから、ちょっとだけ待ってたんだ」
 ねえねえ一緒に帰ろうと無邪気に纏わりついてくるので、仕方なく横に並んで駅までのケヤキ通りを歩く。昼間は骨のようになって寂れた姿を晒しているケヤキ並木は、夜になると辺り一面を黄金色に染め、夜空の星という星がすべて地上に降り注いだような煌めきを放っていた。金色の星の並木は道行くカップルたちの恋をひときわ輝かせる。スマホで写真を撮り、手を繋ぎ、肩を抱き、密やかな愛の睦言と甘い囁きが黄金の光の波にたゆたう。
 仕事で散々揉まれた後だけあって、一年に一度の特別な日を幸せいっぱいに過ごすことができるカップルたちがどうしても恨めしい。シフトを外すことができなかったとはいえ、こんなとき隣には三橋ではなくて遥香がいてくれればいいのにと未練がましく思う。
「キラキラしてて綺麗だねー。クリスマスっていいねー。仕事の鬱憤なんかどこかに吹き飛んじゃうよ。ねえ篠原くんも、そんな不愛想な顔しなくてさあ、イルミを楽しみなよー。今日はスペシャルな日なんだよ」
 高い踵のあるブーツを履いてスキップする三橋を見ていると、そのうち地面に躓いて転ぶのではないかとヒヤヒヤして、黄金の並木を楽しむどころではない。
「三橋さん、もしかして酔ってる?」
「えーどうして? 酔うわけないじゃーん。さっき飲んだのは白ブドウジュースだよ。篠原くんも面白いこと言うねー」
 キャハハと大口を開けて笑う三橋はいつもに増しておかしい。ワインを飲んではいなくとも酒の芳香で酔ったんじゃないだろうかと、三橋の空騒ぎを醒めた目で見つめた。
 イルミを満喫するカップルたちで歩道が塞がれ、前行く人に合わせて歩くスピードが緩やかになる。すれ違う人に肩がぶつかり三橋との距離が近くなった。ここぞとばかりに三橋が亮の腕へ手を絡ましてくる。
「ちょっと何すんの」
「だってこうでもしないと歩けないんだもん。ねえ折角だし、イルミをバックにして写真撮らない?」
 嫌だ、困るという亮の抵抗などお構いなしで、三橋は無理やり腕を掴んでずんずんと車道近くまで寄った。インスタ映えしそうなフォトスポットを探し出し、三橋が腕を離してスマホをバッグから取り出す。ここぞとばかりに亮は三橋から離れてスタコラと駅方面へ逃げ、三橋が慌てて駆け寄ってきた。
「篠原くん、ちょっと待ってよ」
「ごめん、こういうのってマジで無理。俺もう帰るから」
「そうじゃなくて、あれってさ、遥香ちゃんじゃない?」
 三橋の指す方を見ると、ちょうど車道の反対側のカラオケ店の手前で高校生らしき女性が四、五人たむろしており、その中に遥香の姿があった。隣には田子山先輩もいる。女性グループで仲睦まじく会話をしており、気のいい友達が集まってカラオケに来たのだろうと見当をつけた。まあいいやと目を逸らそうとして、ふと何かが視界の片隅に入り、再び視線を引き戻す。遥香と会話をしている相手の後ろの男性グループ、その中に一人、亮のよく知る人物が混じっていた。
 ――定演に来てた、遥香の元彼。気障ったらしい、ピンクのバラの花束の人。
 なぜあいつがここにいる? なぜ? なぜ?
 きっと偶然だろう、とりあえずそう自分に納得させた。しかし二つのグループの距離感がどうにもこうにも近すぎる。亮と三橋はケヤキの陰に隠れ、上半身だけを木陰から出し、四つの目玉を遥香たちに凝視させた。やがて女性グループと男性グループが合流し、一人、二人とカラオケ店へ流れていく。もちろん遥香も一緒に。
 遥香と元彼が、店に入る直前になにやら会話を交わした。二人で顔を近づけて仲良さげに笑いあう。まるで恋人たちが秘密の約束を交わすように。元彼が遥香の肩に手を回す。遥香はそのまま押されるようにして店の中へと消えていった。
 あまりの衝撃に、亮の体は上半身を傾けたまま硬直してしまった。ケヤキの木が亮の足を捕まえたかのようだ。目玉だけが自由を許されてせわしなく左右に揺れる。
「ひゃあ、遥香ちゃんといたのって、前に付き合ってた彼だよねえ」と、三橋が木陰からぴょこんと出ておどけたような声を出す。
「……三橋さんは、あいつのこと知ってんの?」
「もちろん知ってる。うちの高校のサッカー部員で、女子にすごく人気があるんだよ」
「高校に入ってから別れたって、遥香さん本人から聞いたけど」
「そうらしいね。あいつ、浮気性な奴だってもっぱらの噂だからなあ。遥香ちゃんも浮気されて別れたってのに、さっきは随分と楽しそうにしてたね。また元彼とよりを戻す気なのかなあ」
 おいおいちょっと待てよと三橋に心で突っかかる。浮気されて別れたとか、よりを戻すとか、いろんな新情報に頭が対処できない。その動揺を極力押し隠していたつもりではあったのだが、女性というものはそういった心の揺らぎを瞬時に見破るもので、三橋はいつぞやのジトリとした目を亮に向けた。
「篠原くんって、遥香ちゃんのこと好きだよね」
「え? いや……」
「やっぱりそっかあ。隠さなくっていいよ。あの子のことを好きな人って、他に何人か知ってるから。遥香ちゃんってさあ、可愛いし優しいからいろんな人に好かれるんだよね。でもそれが逆に勘違いさせることもあるんだよ。八方美人って言うのかなあ。女からしたら、なんでこんなに男を惑わすんだろうって苛つくこともあるんだ。でもそれが男受けするのかなあ」
 三橋の毒のある言葉にムッとして、元彼のことはひとまず脇に置く。
「遥香さんは三橋さんに優しくしてくれないの? 男の人だけに優しくして、女の方は無視ってわけじゃないでしょ」
「それはそうだけど」
「じゃあそれって単なるやっかみじゃん。そりゃあ確かに彼女の優しさに振り回されて、しんどい思いをしたことはあるよ。でも変に惑わされたってわけじゃない。男受け目的で計算高い女だったら他人から謗られるのももっともだけど、みんなに振りまく優しさに文句言うのはおかしいんじゃない? それは僻みっていうやつだよ。自分がそうできないから相手に嫉妬してるだけ。あの子の優しさを、男受けとか、八方美人という一括りにするのはおかしいよ」
 今度は三橋の方が眉をひそめる番だった。
「なにそれ、私が誰にも優しくしてないってわけ? 高慢ちきなその口の利き方、めっちゃ腹立つんですけど」
「そんなつもりじゃないよ、三橋さん。俺が電話注文で失敗したときには励ましてくれたじゃん。あん時、俺は嬉しかったよ。遥香さんのような優しさが君にもちゃんとあるってこと。三橋さんだって魅力的な優しさは十分に持ってるよ。だから他人の優しさをむやみに僻まなくてもいいんじゃないの」
 滔々と語る亮の話に、三橋は随分と頭を捻っているようだった。そんなに難しいことを言っただろうかと、亮も三橋と同じ角度に頭を傾け、同じ表情をして悩んでしまった。やがて三橋は何かとんでもないことを閃いたとでもいうように、目と口を大きく開けた。
「篠原くん、もしかして私のこと口説いてる?」
「は?」
「あ、違う、遥香ちゃんのことが好きなんだよね。そっか、やっと分かった。私が篠原くんのことを好きなんだわ」
「……はあ?」
「今からどっか遊びに行こうよ。食事でも、映画でも、カラオケでも、なんでもいいからさ。クリスマスなんだし一緒に楽しもうよ」
 自分の腕を掴もうとする三橋の手を亮はするりと抜いた。
「いやいや、ちょっと待って。俺には好きな人がいるって、今あんたも言ったじゃん。クリスマスなんだから、たとえ無理だって分かってても、俺はやっぱり好きな人と過ごしたいよ」
 三橋の好意を即座に否定するのはどうなのかという心苦しさはあったのだが、ここで変に返事をぼかすのも彼女に失礼だろうと、亮は彼女の誘いをやんわりと断った。率直な返事をくらった三橋は、めげずにニッコリと笑顔を見せる。
「まあそうだよね。あの子のことを『遥香さん』だなんて、デレた呼び方されちゃってる時点で私の負けだもんね」
「いや、別にデレてるわけじゃあ……」
「でもこれでお互い好きな人から振られたってわけだ」と、さも当然と言わんばかりに、三橋は強めの口調で亮の声を遮った。「失恋した者同士、何かしらは分かりあえるんじゃない? 遥香ちゃんを諦めきれたら、いつでもこっちに声掛けてね」
 三橋が素直に笑うと、本当に遥香そっくりになる。その笑顔のままじゃあねと言い残して駅の方へ歩いていった。踵でアスファルトを固く叩く音が雑踏に吸い込まれる。スーツを着た男性に彼女の姿が遮られる。彼女を完全に見失うと、「振られた」とか「失恋した者同士」という三橋の声が亮の心をじわりと蝕ばみはじめた。やはり遥香はあいつともう一度付き合うつもりなのだろうか。もし遥香が元の鞘に収まるというのなら、自分は二度目の失恋ということになる。二度目、という響きが鉛のように胃の中へ沈んでいった。頼むからただの思い過ごしであってくれと、複雑な気持ちと重い身体を引きずりながらトボトボと家路につく。
 遥香からのLINEがないか今一度確かめるが、もちろん来ているはずもない。元彼のことを自分から質す勇気もなく、食事のときも風呂に入るときも勉強するときも、スマホを片手に遥香からの連絡をただひたすら待った。就寝前にようやく遥香からメッセージが届く。トナカイがクリスマスのプレゼントを運んでいる可愛らしいスタンプだった。亮もすかさずクリスマスツリーのスタンプで返事をする。次に何をどう話そうかと思い悩む間に、再び遥香からのメッセージが届いた。
『今日ちふみちゃんと一緒に帰ってたんだね。カラオケ店の前で見たよ』
 クリスマスの幸せの笑顔は、残念ながら亮にはもたらされなかったようだ。まるで世界中のイルミネーションが一瞬で消え失せたかのように、亮の目の前が暗闇に閉ざされた。

Chapitre 7

 誤解を解くにはどういった文章が最も効果的なのだろう。相手の疑念を払拭するにはどう説明するのが理想的なのだろう。
 三橋さんとはなんでもなかった、バイトの終わる時間が重なっていただけだと、さりげなさを装って気楽に返事すればいいのかなとは思う。遥香があの時どこまで自分たちの様子を見ていたのかがはっきりしない限り、言い訳をするのもかえって白々しいし、下手なことも迂闊に言えない。「遥香さんだって、元彼といたじゃん」と言い返すのだけは、なんとしてでも避けなければ。それを口にしてしまうと話がさらにこじれることになる。どう対処すればいいのか一晩中悩みに悩んで、うたた寝状態のまま机の上で朝を迎えた。
 次の日は学校で模試があったが、集中力に欠けてひどい有様だった。休み時間に、ミーウの戦い方がどうのこうのと吉野が説明していたが、声が右から左へまっすぐに抜けていき、話の内容がほとんど記憶に残っていない。
 明けて二十七日、この日は学校が休みで朝からバイトだった。仕事の間も脳の中身は遥香のLINEで占められていた。あれから二日経ったが、未だに返信ができないでいる。悩みすぎる状態が一周回って、このままうやむやにして忘れたふりをしようかと半ば諦めの境地になってきた。
 帰る前に事務室へ寄るようにと蔭川から伝言をもらう。何やら父から話があるとのことだった。仕事を終えて事務室に入ると、父がパソコンに向かって売り上げの伝票を入力していた。
「おつかれさん。すぐにこの入力終わるから、ちょっとそこに座って待ってて」
 父の隣にあるパイプ椅子に座り、パソコンの画面をちらりと覗き込む。クリスマスの年度ごとの売上がグラフで出ていた。右肩上がりに線が伸びていおり、なかなかの上々ぶりを読み取ることができた。
「よし入力終わり。さて、話なんだけど」と、父は机の引き出しからA4サイズの封筒を取り出す。「悪いけどこれを見せてもらった。この結果がどういうことなのか、亮の意見を聞かせて」
 淡い黄緑色の封筒にプリントされた見覚えのある校章を目にして、亮の頭から全ての血の気がざあっと引く。中から取り出した白い紙には、一学期と二学期に実施されたテストの点数と順位が折れ線グラフになって描かれていた。店の売上と同じ、折れ線グラフ。けれども両者のグラフは全く異なる動きを見せていた。一学期に順調な上り線を示すその成績は、二学期の中盤からガクンと下へ折れ曲がっていて、まるで乱気流に巻き込まれたジェット機のような急降下をしていた。散々な結果が目の前に叩きつけられたのと、ひたすら隠していた成績表が父の手元にある状況に狼狽し、急降下で慌てふためく乗客のような面持ちのまま声を出すことができなかった。
「なあ、一学期の終わりから百番も落とすなんて、勉強が難しい以前の問題だよ。どう考えてもバイトのせいなんじゃないの。なんで試験前にバイトを休まなかったんだ。他の子はちゃんと休み取ってるのにおかしいだろ。うちは忙しいには忙しいけど、学生を無理に働かせるほどブラックじゃないよ。休んだ分はちゃんと他のパートさんや職人たちでカバーするんだから。成績落ちたら辞めさせるって、しつこいくらいに念を押したよね。どうしてこうなったのかをちゃんと説明して」
 父は成績表をキーボードの上に乗せ、マグカップを手に取ってコーヒーを一口啜った。眉間の皺の深さで苛立ちを表す父にどうにかして対抗しようと、亮は唾を飲み込んで口を開く。
「……この成績表、なんでここにあんの」
「お母さんにお願いしたからに決まってるだろ。事情を話してこっちに送ってもらったんだよ」
「お母さん、なんか言ってた?」
「当然ながら怒ってたよ。ここまで成績が酷くなったのはこっちの責任だって、散々責められた。まあこの成績じゃあそう思うのも仕方ないよなあ」
 父はコップを机に戻して腕を組み、眉間とほうれい線の皺の溝をさらに深めた。亮の手のひらから汗が滲みだし、喉が水分を欲した。眼鏡のアーチに指をやったり鼻の下を擦ったりして、重苦しい沈黙をどうにかやり過ごす。
「……とにかく成績上げればいいんだろ。これから頑張って勉強するよ」
「いい加減な反省の態度だなあ。お前、パティシエに勉強は必要ないとでも思ってんのか?」
「まさかそんなこと思うわけないじゃん。菓子の作り方や技術は勉強しないと分からないんだし」
「じゃあ菓子の作り方や技術って、どんな勉強なんだと思う?」
「材料覚えて、実際に作って繰り返し練習するとか……あとは美味しいものを食べて味覚を鍛えることとか、そんなことじゃない?」
「うん、正解。でもそれだけじゃない。菓子作りって実は『かがく』なんだよ。化学反応のばけがくの化学と、学問の科学、両方ね。菓子って生きてるもので、毎日の温度や湿度でほんのちょっとの差がどうしても出てきてしまうけど、店に出す商品にはその差を絶対に出してはいけないんだ。違う条件の下で同じ味を再現するためには、日々の天候を見ながら材料の配合やオーブンの焼き時間などを調整しないといけない。熟練のプロだったらそれが経験でなんとなく分かるんだけど、素材の持つ特性と化学反応を理解していれば、新人だって誰だってもっと菓子の再現率を高めることができるんだ。使う小麦粉に含まれるタンパク質でジェノワーズ(スポンジ)の膨らみ方に違いができるし、生クリームに入る乳脂肪分でホイップの滑らかさに違いが出る。亮がこの間言っていた香りのことだって、時間や温度や揮発性で、持続性やその場に適した使い方が随分と変わってくる。それらを見極めながら最高の品質を損なうことなく菓子を作れるってのが、プロのパティシエとしての条件なんだよ。ここまでは分かるよな?」
「……うん」
「知識は味覚を助けてくれるし、分からない部分を補ってくれる。その知識を素直に吸収していくことで、個人の菓子作りの技術がぐんと底上げされるんだ。知識を得られるのは学問だけじゃない。いい音楽を聴いたり、綺麗な絵を見たり、本を読んで感動したり、そういった感受性の鋭さも貴重な知識の財産になる。それに日々の生活や経験、例えば高校の勉強も、部活も、恋愛だって菓子作りに繋がるよ。ただなんとなく毎日を流されているだけじゃ、いい菓子は絶対に生まれないんだ。勉強ってのはな、何も大学進学ばかりのことを言ってるわけじゃない。普段の生活でちゃんとするべきことはちゃんとすること、それが勉強なんだ。そうしないといい菓子職人にはなれないんだよ」
 亮は何を言うこともなく、背を丸め膝の上で両手を組み俯きながら父の説教に耳を傾けていた。父はコーヒーを飲みながらしばらく返事を待っていたが、息子の態度に変化は見られず、諦めたようにため息をついた。底に溜まったコーヒーを飲み終え、キーボードの隣にコップを置く。
「まあとにかく、当面はバイト禁止だな。お母さんの怒りが収まるまではしっかりと勉強しておいて」
「……んだよ、それ。結局は母親の顔色一つかよ」
「何言ってんだ。当たり前だろ。お母さんは亮の保護者なんだから」
 父は眉を上げて額に何本もの皺を作り、当然のように持論を振りかざしてくる。その横柄な態度に、胸から毒々しいものが沸々と湧き出すのを亮は感じた。
「一つだけ反論させて」亮は顔を僅かに上げて上目で父を睨みつけた。「ちゃんとすることはちゃんとしろってさ、偉そうに言うけど、するべきことをちゃんとしなかったのはあんたの方でしょ。借金でゴタゴタさせるわ、母親が倒れても付き添いしないわ、俺だって買い物とか毎晩の食事を手伝う憂き目にあったし、離婚してどんだけ家族に迷惑かけたと思ってんだよ。あれだけ家族を放っておいて、よくそんな口利けるよね。途中までは一応納得して聞いていたけど、最後の一言で急にバカバカしくなった。何を語ってても結局はただの口先だけじゃん」
 父の顔色が瞬く間に赤くなり、鼻が膨らんで口元にぐうっと力が込められてきた。癇癪を起こすときのいつもの父の癖だ。それでもなお亮は話を止めなかった。
「バイト禁止、大いに結構。辞めろって命令するんならいくらでも辞めるよ。ちゃんとできないような上司の元では、俺は働くのなんてまっぴら御免だから」
「亮! 親に向かってなんだ、その口は!」
「親ってなんだよ、もう親じゃないじゃん! 親でも保護者でもないくせに偉そうにすんな!」
 亮はパイプ椅子を後ろ足で蹴とばすようにして立ち上がった。足元の鞄を掴んでコックコートを取り出し、父に向かって勢いよく叩きつけた。
「今までどうもお世話になりました。お望み通りもう来ないよ。じゃあさよなら」
 父の怒鳴り声に耳を塞ぎ、事務室を出て扉を乱暴に閉める。駆け足で階段を降り、逃げるようにして店の裏口から飛び出した。外では細やかな雪がちらついていた。建物やすれ違う人たちの輪郭が二重になってぼやけてくるのを瞬きで必死に堪え、バカバカしい、バカバカしいと何度も何度も呪詛のように唱えながら駅まで無我夢中で走っていく。
 駅まであと十メートルというところで、息切れして一旦立ち止まった。膝に手を付いて何度も肩を上下させる。目の前のアスファルトの地面に粉雪が音もなく沈んでいった。顔から出る蒸気で眼鏡のレンズの下半分が曇ってくる。眼鏡の上半分に自分の足元が覗く。足から微かに生えている、輪郭のない仄かな暗闇を見て、あの女性が脳裏にふと蘇った――影を奪うジュリエッタ。
 影はどこだ? 誰が影を奪った? 自分にとってのジュリエッタって、いったい誰なんだ?

  *

 息子が帰宅してから部屋に籠りっきりで夕食を食べにこない。食事に呼んでから一時間以上が過ぎ、さすがに心配になって、母は息子の部屋のドアを軽くノックした。
「亮、ちょっと入るよ――え、まさかもう寝てるの?」
 豆電球だけが付いている薄暗い部屋の中で、亮は脚を内側に畳んだダンゴムシのような寝姿で、布団に潜って丸まっている。
「ねえ、夕食ができたんだけど食べないの? 起きれる?」
「……頭が痛い。今日は晩御飯いらない」
 てっぺんの髪の毛だけを布団から出して、丸まったダンゴムシは布団の下で弱々し気に人間の声を返す。
「風邪でも引いたんじゃないの。体温計持ってくるから測っておきなさい」
 小走りで階段を下りて体温計を探し、部屋へ戻って電気を付けた。息子の上半身を手で支えながら起こして脇に体温計を突っ込む。寝ぐせが酷く、大事なものが身体から抜けきったように血色が悪い。体温は三十六度五分。平熱だった。
「バイトが大変だったんでしょう。今日は特に寒かったし。もししんどいんだったら、明日は無理しないで休みなさいよ」
「バイトにはもう行かないよ」
 亮は気のない返事をする。いったいどうしたのだろうと、母は項垂れている息子を怪訝な顔で覗き込んだ。
「行かないってどういうこと?」
「辞めてきたんだよ。どうせあそこには行って欲しくなかったんでしょ。ちょうどよかったじゃん」
「……ちょっと、意味が分からないんだけど」
「バルカロール」土気色の顔をのそりと母に向けた。「俺があそこで働いてるの、知ってたんでしょ。ずっと前から。下手な演技しなくたって最初から見抜いてたし」
 思いもよらぬ告白を突きつけられて、母は海の向こうに言葉と感情を置いてきてしまったような顔を見せた。亮はそんな母の様子に興味を示さず醒めた視線だけを送る。
「知りたがりの性分なくせに、俺のバイト先を無理にでも訊きだそうとしなかったことからしておかしかったんだよ。最初は気に留めていなかったけど、二週目、三週目あたりからそれが確信に変わった。ああ、きっとこの人は知ってて言わないんだろうって。俺は嬉しかったんだよ。好きなようにさせてもらえてたから。でも進路や将来のことをうるさく言われて、あの店のことがやっぱり気懸かりなんだろうなって気がした。というか、俺が父親のところにいること自体が嫌なんじゃないかって思えた。それにパティシエっていう職業もね。お母さん、なんとかしてでも父親とあの店から俺を引き剥がしかったんじゃないの? 厨房に仕事を移ってコックコートに着替えたとき、これを使えばお母さんの本心を探れるんじゃないかって思いついたんだ。パティシエの制服を洗濯に出したらいったいどんな反応するんだろうって。予想通り、いや予想以上に、有難い気持ちを受け取ることができたよ。まさか父親に成績表を直接送りつけるとはね」
「成績表は――」と、母は視線を窓や机に這わす。「お父さんから送ってほしいってメールで頼まれただけよ」
「でもあの人に怒ったらしいじゃん」
「当たり前でしょう! あんなに成績が落ちるまで働かせるなんて、どうかしてるわ。お母さんは、お父さんに当たり前のことを言っただけよ」
「二人とも当たり前、当たり前って……子どもの当たり前のことは考えないのかよ。なんで俺をすっとばして二人で勝手に話つけてんだよ。俺に直接言えば済むことじゃんか」
 亮は膝を抱えて腕の中に頭を埋めた。母は迷子になっていた視線を手元の体温計に落とした。三十六度五分の表示はすでに消えている。
「うん、そうだね。亮ともっと話し合うべきだったわ、ごめん……でもね、お父さんのところから引き剥がすっていうのは誤解だよ。そんなんだったら、もっと早くから反対するはずでしょう? もちろん勉強はしっかりしてもらいたいけど、もし亮がやりたいんだったら、今のバイトを続けてくれても構わないのよ」
「俺のやりたいことなんて、どうせ知らないくせに」
「じゃあやりたいことって何よ」と、息子の膝の中から生じたくぐもる声に母は切り返した。「それをはっきりしてくれないから、どうしようもないんじゃない。亮のやりたいことって、なんなの? まさか本気でパティシエの勉強をしたいと思ってるわけ?」
「本気になんてなるわけないじゃん。父親みたいになるなって命令したのはそっちの方だろ」
「どうしてお母さんのせいになるの。お父さんのことで文句は言っちゃったけど、パティシエになるなとは一言も言ってないでしょ。亮はいったいどうしたいの?」
 亮はその質問には答えなかった。正確に言うと、答えられなかった。母はしばらくの間返事を待っていたが、膝を抱えたまま何も言わない息子に諦めて部屋を出ていった。静かになった部屋に、いつしか影から問われた言葉が音もなくこだまする――『どうする?』
 その問いかけに、亮はまだ答えを出していない。
 これから、どうする? 影を奪ったのは、いったい誰だ?

  *

 今から会いたいというLINEメッセージが届き、遥香は驚いた。亮の方からメッセージが来ること自体が珍しかったが、時間も夜の九時と会うには遅い。少し考えて、マンション近くの公園ならいいよと返事をした。
 時間になり、コンビニへノートを買いに行くと両親に伝え、マンションの階段を急いで下りる。厚手のダウンコートを羽織っても身震いするくらいに寒く、手を擦って指先を温める。昼間に降っていた粉雪はすでにやんでいた。マンションの玄関を出て二十メートルほど歩く。道路を挟んだ向こう側の公園で、手前の黄色い柵に寄り掛かっている人物が見えた。脇に自転車を置いてある。亮のようだが、黒のダウンジャケットが夜の影と溶け込んでいて、まるでそのまま暗闇に塗りつぶされてしまうような雰囲気をもっていた。手元にあるスマホが亮の顔だけを青白い光に浮かべている。
「亮くん、こんな時間にどうしたの? 今まで寝てた? 髪の毛ボサボサだよ」
 スマホからゆらりと顔を上げた亮の顔色はすこぶる悪く、充血した目と酷い寝ぐせも相まって、まるで病人だ。さすがに心配になってためらいがちに亮を案じた。
「具合が悪そうだけど風邪でも引いたんじゃない? 少し休んだ方が――」
「遥香さん、俺、三橋さんとはなんでもないから。たまたま帰る時間が重なっただけだし」
 遥香に被せるようにして話しかけてきた内容が、咄嗟に理解できずにしばらく悩む。
「……一昨日のLINEのこと、だよね? なんだか悪いこと聞いちゃったかな。ちふみちゃんに尋ねたら、亮くんに訊けって何故かすっごい怒られたんだ」
 亮は遥香が話している間も終始ぼんやりとした表情をしており、「そっか」と一言納得したあと、黙ってしまった。
「会いたかったのって、もしかしてその件だったの?」
「ねえ教えて。遥香さんが俺たちをバルカロールに連れてったのって、本当にただの偶然だったの?」
 疑問文に疑問文を返され、遥香は虚を突かれて口を閉じた。亮はさらに話を続ける。
「偶然にしては出来過ぎてるなって、ずっと違和感があったんだ。なんであんな店にわざわざ俺を連れてったんだろうって」
「……あ、うん、亮くんのお父さんのお店で悪いなって思ったんだけど」
「なんで俺の父親の店って知ってんの。俺、あそこが父親の店だって他人に打ち明けたことなんかないよ」
「…………」
「…………」
 これはただのはったりだった。父のことを店の従業員は知っている。三橋から耳にしたかもしれないし、母親が遥香の母に教えていた可能性だってあった。だがうろたえたような遥香の表情を見るに、亮の推測は大方外れてはいないらしい。亮は肩から大きく息を吐き出して、暗い空を見上げた。夜空の星は厚い雲に覆われてひとつも見えない。クリスマスの日に、夜空の全ての星が地上に落ちて砕け散ってしまったようだった。
「どうせ母親から頼まれでもしたんだろ。そっちに電話するって言ってたし。俺があそこで働くってメッセージを送ったとき、ちょっと返事に間が開いてたよね。もしかして母親に俺のバイトのことを確認してた?」
 亮は過去のLINE画面を遥香に見せた。『バルカロール。この間食べに行ったケーキ屋』と、五分後のメッセージ『そうなんだ。じゃあまたいつか、亮くんのバイト姿を見に行ってみようかな。頑張ってね』の文字が暗闇に光る。右往左往した遥香の目が、その答えを表していた。
「ヒナステラの楽譜を持ってきたときも、まるで俺の帰宅時間を知ってたようだったしね。厨房に移って勤務時間が変わったこと、遥香さんには伝えてなかったのに。どうせ母親と連絡しあううちに知ったんでしょ。母親に何を頼まれてたの。まさか俺を監視しろとでも? 何度もLINEで連絡をしてきてたのって、俺の様子を母親に逐一報告するため?」
「違う、違うよ!」遥香は強く首を振った。「監視なんかじゃないよ。亮くんの思い過ごしだよ。おばさんは亮くんのことをずっと心配してたんだよ。親に変に気を遣いすぎるし、趣味のお菓子作りもやめちゃったし。バルカロールに行ったのは、亮くんがお父さんに会えてないみたいだから、お店に連れて行ってあげてって頼まれたの。おばさんが言っても、きっと聞いてくれないだろうからって。まさかそこでバイトを始めるとは思ってなかったみたいだけど」
「余計なことするね。そんなことしてくれなくてもいいのに」
「余計なことじゃないよ。亮くんに元気出してもらいたかっただけだよ。亮くんってさ、気を遣いすぎっていうか、あれこれと考えすぎなんだよ。そうじゃなくてさ、もっと自分の好きなこととかやりたいことを素直に表に出したらいいのにって、ずっと思ってた。バイトを始めてからはちょっとずつ良い方に変わってきたから、私もおばさんも安心してたんだよ」
「安心も何も、バイトはもう辞めたから」
 え? と遥香は大きく目を開く。どうしてと続ける前に、亮の方が先に話し出した。
「なんで俺の知らないところで、みんなで勝手に動いてんだよ。俺ってそんなに頼りないガキなのか。やりたいことくらい自分で決めるよ。自分で決めさせてよ。その行動がたとえ優しさからくるものであっても、それが本人にとっては負担になることだってあるんだ。俺には遥香さんの優しさが辛いよ。正直言って疲れた」
「なんで……」
「遥香さんってお友達だけじゃなくてさ、別れた彼氏にだって優しいもんね。あいつにまだ未練があるんじゃないの。定演に呼んだり、クリスマスに会ってたり。やっぱりあの人って、遥香さんにとっては特別な存在なんでしょ」
 急に元彼のことに話題を振られて、遥香の顔に戸惑いの感情が浮かぶ。
「まさか、誤解だよ。クリスマスに会ってたのは、ただの合コンだよ。あの人が部活の子と会わせてほしいって頼むから」
「合コンって訳分かんねえよ! 別れたくせに! 合コンでもなんでも、あいつの存在自体がムカつくんだよ!」
 荒げた声が周囲に響き、跳ね返ってきた音に焦って亮は咄嗟に口を閉じた。左右へ目を配り人の気配を確認する。夜の暗闇に変化はなかった。
「……とにかくこんな状態はもうたくさんなんだ。遥香さんが俺に近づいたのなんて、どうせ優しさっていうか、同情みたいなもんだろ。親が離婚した亮くんが可哀そうって、先輩ぶってさ」
 同情なんかじゃ……と震え声を出す遥香を、亮は冷然と無視した。「同情なんてちっとも嬉しくないんだよ。ってか、ウンザリだ。俺はこういう状態で遥香さんと付き合うのがもう嫌なんだよ」
 自転車カゴからB4の茶封筒を取り出した。以前遥香から借りていたヒナステラの楽譜だった。
「この楽譜は返すよ。悪いけどアンサンブルは他を当たって。俺はもう二度と音楽やらないから。さよなら」
 楽譜を受け取った遥香の顔は悲愴そのものであった。地上に堕ちた星の欠片が一粒、遥香の頬に光っていたような気がする。そんなもの自分には一切関係ないと、亮は急いで自転車に跨り家路へと走らせた。どうでもいい、どうでもいいと、行き場のない罵りを暗い夜道に吐き捨てていく。
 ――やっぱりバルカロールには関わるべきじゃなかった。
 あの店のことは忘れよう。音楽のことももう忘れよう。父にも彼女にも会わない。
 連絡もとらないし、絶対に会ってやるものかと再び心に誓う。

Chapitre 8

 亮の願い通り、その後遥香からの連絡が来ることはなかった。一度だけ三橋からのショートメールがスマホに届いた。みんなが待っているから、早くバイトに戻ってきてほしいという内容だったが、返事もせずにスマホを閉じた。シフトに穴を開けることになるし、坂上の仕事が再び下働きに戻ることに気が咎めないわけでもなかったが、もう自分には関わりのないことだと、自らを責めようとする心に何度も言い訳した。
 あれ以来母も亮に対して何も言うことはなかった。楽器は中古屋にでも売ってくれと母に預けた。週末のスイーツ巡りさえもすることはなく、ただひたすら勉学だけに励んだ。お陰で成績は順調に回復し、試験を受けるたびに上がっていく順位を見ることだけが唯一の楽しみとなった。
 四月になり二学年に上がると、文系と理系で吉野とクラスが離れることになった。学校生活も一年送ればそれなりの友人はできており、大して目立つようなイジメもないため、親友が離れても勉強さえしていれば一応の日々を過ごすことはできる。しかし元より積極的な性格でもないためクラスメイトと深く付き合うこともなく、昼休みは一人になって図書室で静かに本を読みふけることが増えてきた。
 亮の高校は進学校でもあり、自学室に行って一人で勉強していたり、亮と同じように図書室に引きこもっていたりする生徒は大して珍しくない。どうする、何をしたいと問いただされることもなく、勉強をしてテストの点数を上げさえすれば自分の居場所を守ってくれる場所でもある。音楽とバイトを同時に諦めてしまい、心に空いた風穴を自覚しないわけではなかったが、大学進学という目標ができた今、亮の居心地はさほど悪いものではなかった。週末の過ごし方が変わっただけで、結局は遥香と再会する前、そしてバルカロールで働く前の、ふりだしの状態に戻っただけともいえる。
 樹々の新緑が青々しく茂り始めたころ、吉野から昼飯をどうかと誘われた。吉野とまともに会話をするのは久々だった。中間考査が終わった後に玄関で落ち合う。折角食べに行くんだからちょっと美味しいものを、ということで、駅近くにあるカフェへ向かうことにした。
 以前何度か一人で来ていた店ではあったが、ケーキのラインナップが少し変わっており、この日もつい癖でランチとは別で注文する。じっくりと時間を掛けながらケーキの写真を事細かく写真に収めている亮の姿を、向かい合っている友人はテーブルに肘をついて半ば呆れるように眺めていた。
「お前、ほんっと、こういうところは変わんねえな」
「別にいいじゃん。減るもんじゃないし。試験の後の大切なご褒美だよ」
 ケーキの断面を思いのほか上手く写真に撮れて、満足げにスマホを閉じる。同時に亮の手元へ一枚のチケットがスッと差し出された。クラリネットとトランペットの絵が描かれたチケットを見て瞠目する。
「これって……」
「喜べ、俺からも試験の後のご褒美だ。M高校吹奏楽部の七夕コンサートのチケットだよ」と吉野は言い、突然亮の前で拝むように手を合わせた。「すまん、頼むからコンサートに付き合ってくれ。じゃないと俺が殺されるんだ」
 吉野とブラバンなんて、犬が突然立ち上がってバイオリンを奏でるくらいのあり得ない組み合わせだ。亮は大きく開けた目を瞼で潤した。
「はあ? 殺されるってどういうこと? ていうか、なんでこのチケットを持ってんの。誰からもらったんだ?」
「……ミーウだよ」
「え?」
「ミーウからもらったんだよ。あいつ、M高生だったんだ。この間音声チャットをしたときにお互いの素性がバレた。田子山さんって人、前に会っただろ。俺とゲームの話で盛り上がった人。ミーウの正体ってあの人だったんだよ」
 思わぬところから田子山先輩の名前が飛び出してきて、飲み始めたウーロン茶を吐き出しそうになる。遥香が田子山先輩のことを「美有」と呼んでいたのを思い出した。吉野は合わしていた手をそのまま組んで、テーブルの上に突っ伏した。
「コンサートに来ないと、敵じゃなくてお前を殺すって脅されたんだよ。すまんが頼むわ」
 強敵を前にして震えるように、吉野の声が腕の中でか細くなっていく。これほどのゲームマニアを震え上がらせるとは、田子山先輩はいったいどのような戦いぶりをしていたのだろうか。確かに彼女なら私情で味方を倒すというのはなきにしもあらずで、自分には関係ないながらもさすがに吉野に同情した。本音を言えば遥香のこともあり、コンサートに行くなどとても気は進まなかったのだが、不運な友人を助けるためにもしぶしぶ了承した。
 財布を出してチケット代の小銭を手渡すと、吉野は二時間かけてラスボスを倒した時のような感極まった表情を見せてくる。五百円だけでここまで喜ばれるなら可愛いもので、こちらとしても気分は悪くない。
「――ちなみに七夕で思い出したんだけどさ、この伝承にも愛と芸術の対立があるって知ってた?」
 亮からのチケット代を財布に入れながら、吉野は不思議なことを語りだした。
「愛と芸術の対立って、この間のホフマンの話の続きか? ホフマンのオペラが七夕と同じ話だとは思えないけど」 
「もちろん話は全然違うよ。七夕伝承は、恋をした織姫と彦星が天の川を挟んで隔離される話なんだけど、その原因ってのが、二人が恋をして遊びまくって働かなくなって、天帝に怒られたからなんだよ。恋をすると人間ダメになるってのは、昔からどこでも同じなのかもしれんなって思って。ホフマンの話でもそうだったけど、愛と芸術、愛と仕事の対立ってのは、古今東西、人類にとって普遍的な悩みなのかもしれんなあ」
 まるで自分のことを暗に指摘されたように感じて、後ろめたい気持ちを誤魔化すように、亮はさりげなく首を客の方に向けた。隣にいた女子高生が、遥香と同じM高校の制服を着ていて、手鏡を見ながらマスカラでまつ毛を針山のように伸ばしていた。友人と会話をしながら何度かこちらを意識している。男子校、しかもK高校の制服というのはかなり目立つ存在らしい、というのはここ一年で分かったことだ。意味ありげな視線が亮にとってはさほど興味があるものでもなく、どうでもいいやと反対側に目を逸らす。
「ま、とにかくコンサートのことはよろしくな」と言って、吉野は席を立つ。「お前のことも田子山さんから頼まれてんだ。絶対に連れてこいって命令されてる。マジで頼むぞ」
 きっと遥香が田子山先輩の耳に何かを吹き込んだのだろう。また自分の知らぬところで余計なことを、とどこかに愚痴りたくなる。店内の客の騒めきの中に、小さな舌打ちをこっそり紛れ込ませた。

  *

 不思議なことではあるが、偶然が偶然を芋づる式に釣り上げるようにして、予想外のことが一日に何度も起きるときがある。
 吉野と田子山先輩という、奇妙な因縁に衝撃を受けた余韻がまだ覚めぬその日の夕刻、一通のショートメールが亮のスマホに届いた。
『バルカロールが十月いっぱいで閉店になるって、知ってた?』
 まさかと一笑に付した三橋からの連絡であったが、文章から伺える彼女のただならぬ様子を見るに、どうやら冗談ではないらしい。亮は夕食の準備を放り出してすぐさま家を飛び出し、駅へとダッシュで向かった。
 電車に乗っている間も、父から何も知らされていなかったのかと三橋から再三メールが来たが、亮にとっても寝耳に水の話だ。バルカロールの閉店について母へ質そうにも、夜の九時近くまで帰宅しないからどうすることもできない。駅から再び店の方まで全力疾走する。店の裏口へ回ると、バイトの終わった三橋が路地でブラブラと暇を持て余しながら待っていた。
「三橋さん、待たせてごめん」
「いいよ、今まで更衣室でみんなと喋っていたし」と、汗だくになって息を切らしている亮に、三橋はパタパタと手で風を送る。「オーナーに直接話を聞きたかったんだけど、どこにもいないんだよねー」
「どうして閉店なんて話が出てきたの。この店ってそんなにやばかったっけ?」
「そんなはずないよ。それに閉店じゃなくって移転なんだって。バイトの子は今日スー・シェフから初めて報告されたんだけど、職人さんたちは前から知ってたみたいなんだ。詳しいことはいずれまたオーナーが説明してくれるって」
 どこに移転をするのだろうと疑問が生じたところで裏口のドアが開き、蔭川が大きなゴミ袋を抱えて出てきた。思いもよらず再会できた馴染みの高校生バイトに、蔭川は心から嬉しそうな表情を見せた。
「篠原くん、久しぶりだね、元気だった? みんな会いたがっていたよ」
「ねえ蔭川さん、店の移転ってどういうことですか?」
「ああそれは」と、ゴミ袋をバケツへ放り込みながら蔭川は答えた。「オーナーのお父さんが病気だって言ってたでしょ。近所に介護をする人がいないから、引越しをしてそっちの方へお店も移転するんだって。バイトの子は今日知らされたみたいだね。職人たちは再就職先のことがあるから、もっと早くから伝えてもらっていたけど」
 祖父のところなんて新幹線で三時間は掛かるところだ。移転とはいえ、バルカロールという人気店がこの街から消えること自体に信じられない思いがした。この店にとっては去年が最後のクリスマス商戦であり、あの日、打ち上げで職人たちが大げさに泣いていたのにもようやく納得がいった。
 当のオーナーはというと、店を休んで祖父のところへ行っているらしく、帰宅は深夜になるとのことだった。ここで待っていてもどうしようもないので、蔭川に別れの挨拶をして一旦家へ引き上げることにした。三橋と並んで駅に向かう。膨らんだような光を放っていた太陽はすでにビルの下に潜り込み、群青色の空がグラデーションをより濃くする時刻となっていた。
「篠原くん、いきなりいなくなったからビックリしたよ。オーナーと喧嘩したんだよね」
 父との喧嘩のことを急に振られて歩が緩む。亮の足の速さについていくのが必死だった三橋は、ようやく落ち着いたペースで歩けるようだった。
「喧嘩のこと知ってたんだ」
「あんだけ大声出されたら外にも聞こえるよ。オーナーまたやっちゃったなあって呆れちゃった。あの短気な性格も、もう少し考えないとダメだよねえ。なんで篠原くんを辞めさせたんだって、みんなから散々責められてて、珍しく肩身を狭くしちゃっててさ。悪いけど笑っちゃったよ」
「……みんなに迷惑かけたよね。ごめん」
「いいよ、今日は会えて嬉しかった」と、三橋はいつもの遥香によく似た笑顔を見せた。「元気そうでよかったじゃん。安心したよ。遥香ちゃんはなんだか元気なさそうだけど」
「…………」
 遥香の名前に亮は反応しない。亮は歩道の黒い塗装から目を逸らそうとしなかった。三橋は僅かに首を傾げて亮の顔を横から覗き込み、興味ありげな様子を示していた。遥香の名前をわざと口にしたようでもあった。
「――ねえ、今日は期待してもいいのかなあ?」
「何を期待するの」
「来なくてもいいのにわざわざ来てくれたんだもん。ちょっとくらいは未練があったのかなあって、こっちとしては期待しちゃうでしょ」
 クリスマスの一件がなかったかのように、三橋は歩きながらグイグイと肩を寄せてきて相変わらず積極的だ。
「よかったら、どっかに行く?」
 押し付けた肩を離し、亮の腕に自分の腕を絡めてくる。白い手の指先にはピンク色のマニュキュアが光っていた。柔らかな体が腕に当たる。
「どこでもいいんだよ。篠原くんの行きたいとこなら。ご飯でも、カラオケでも、――もっと他のとこでも」
「え……」
「もしかして、こういうのって慣れてない? 私は平気だけど。もう会えなくなるかもしんないんだし、楽しいことしようよ」
 危険な誘惑を孕む光を瞳に湛えて、三橋は亮の顔を見つめる。さすがに動揺して、いつものように強気で突っぱねることができない。「いや、うん、どうしようかな……」と目を泳がせて、どっちつかずの消極的な態度をとってしまった。それ以上の返事に窮し、頬を細かく引き攣らせ、俯いて押し黙る。三橋は呆れたように眉をひそめ、絡めた腕を外してそっぽを向いた。
「何よ、そのグダグダとした返事。もうーほんっと、つまんない男だなあ。折角さあ、女の子がこうやって何度も誘ってあげてんだから、もうちょっと自分の思うように、好きなことすればいいのにって思うよ」
 艶やかな桃色の唇を小さく尖らす三橋に、もう一度ごめんと小さく呟く。誘ってあげていると上から目線で物申されても困るだけなのだが。とはいえこれだけ何度も健気に言い寄られると、この子の魅力にも少しずつ惹かれないわけではないわけで、ちょっとくらいは付き合ってもいいのではないか、と密かに心動かされてもいたりする。
 夜を迎え始めた駅には帰宅に急ぐ人で溢れており、気を抜くと忙しなく行き交う人の渦に呑まれてしまう。人波をかいくぐって改札に入る。三橋とはホームが反対方向になるので、一旦ここで立ち止まった。
「じゃあここでお別れだね。あーあ、早く私も、他の好きなやつ見つけなきゃなあ」
「……三橋さん、よかったら飯くらいなら……」
「勘違いしないで」三橋は尖らしていた唇を緩めて、悪戯っぽい笑みをした。「見つけるのは次のバイトのことだよ」
 ぽかんと間抜けな顔を返してきた亮など興味ないとばかりに、三橋は一瞥してすぐに目を逸らす。
「私ってさ、グダグダと決断に迷う人ってあんまり好みじゃないんだ。気になる人なんて他にもいるし。篠原くんのことなんて、なんだかどうでもよくなっちゃった。バイバイ」
 三橋はくるりと背を向けて、コツコツとヒールの踵を鳴らし、反対側のホームへさっさと歩いて行ってしまった。高いヒールを履いているのに小柄なため、人の影にすぐ隠れる。ホームへ降りる階段に三橋の頭が消えるまで、亮はじっと彼女を見送っていた。
 一人になり、自分はいったいここへ何をするために来たのだろうという虚脱感が、亮の足元から小さな蟻が群がるように這い上がってきた。バイトを辞めた今、バルカロールがなくなろうがどうなろうが自分にはとうに関りのないことで、ここまで来る必要もなかったはずだ。何も考えずに行動を起こしたのは、三橋から指摘されたようになんらかの未練があったからなのだろうか。それは店のことか、三橋のことか、それとも他の何かに対してか……
『どうする?』という声が、再び頭の中に響いた気がする。どうする、これからどうする……
 いつものホームへ向かおうとした亮は、歩を緩め、立ち止まった。しばらく考え込んだ後、進んでは戻り、やはり違うと思って再び改札を出た。
 家には帰らない。自分の好きなことを、自分の思うままのことを、今、ここで選ぶ決意をする。
 これからどうするか。向かう先は――父の住むアパートだった。

  *

 中学生の頃、父の住むところへ一度だけ行ったことがある。家にある調理道具を持ってきてほしいと電話で頼まれて、父の部屋へ運んでやったのだ。父は店から歩いてすぐ近くの、ベージュ色をした二階建てのアパートに住んでいた。階段を上がっておぼろげな記憶を頼りに部屋を探す。引っ越していれば諦めて家に帰ろうと思っていたが、蛍光灯の薄明かりの下で「小野」という表札を確認し、胸を撫でおろした。インターホンを押すが、まだ帰っていない。近くのファストフード店でハンバーガーをちまちまと食べながら二時間ほど過ごし、母に帰りが遅くなるとメールしておく。どこにいるのかと返信メールがきたが答えなかった。
 八時になったところでもう一度アパートへ戻り、インターホンを押したがやはりいなかった。仕方なく玄関前に座り込んでスマホを眺めつつ時間を潰す。小さな虫がスマホの周りで羽を震わし、手で払う。電池の残量が十三パーセントになったところで、スマホを閉じて膝を抱え、頭を埋めた。隣の部屋の人が帰ってきたとき、不審そうにこちらを見ている気配があったが、亮は無視して眠ったふりを続けた。
「そこにいるのって、亮か?」と父の声がかかったのが十時近く。白シャツにグレーのスラックスを履き、手には旅行用の大きな黒い鞄を下げている。待ち疲れた様子の亮を見て、とにかく一旦家に入れと鍵を回し、玄関に入れた。
 部屋は2LDKの質素な暮らしぶりだ。男の一人暮らしではあるがこざっぱりと綺麗に片付いていた。お茶をもらい、シャワーでも浴びろと命令される。その間に父は母親に電話をしていたようだ。明日の始発で家に帰らせるという声が風呂まで届いてきた。
 父のパジャマを借りて風呂を出る。父は椅子に座って何十枚という書類に目を通している。小さな四角いテーブルの上には、新しい店の概要が書かれた書類が山積みになって置かれていた。
「それって移転先のやつ?」
「ああ……店のこと、聞いたのか」
「今日初めて聞いた。バイトの子に教えてもらって驚いたよ。引越しすることってお母さんには言ったの?」
「知らせたのはつい先日だよ。亮にもちゃんと言おうと思っていたんだ。クリスマスが終わったあの時にな。成績云々で言えずじまいだったけど」
 すったもんだの親子喧嘩をぶり返してしまい、気まずい沈黙が会話に割り込んだ。あの時の騒動をうやむやにしてしまいたい気持ちは親子揃って同じようで、すぐに父は祖父のことに話題を変えた。祖父は高齢で心臓がかなり弱っているらしく入退院を繰り返していること。毎週のように介護で帰省していて、亮と面会する機会がなかなか持てなかったこと。飲食店を経営していた実家の跡地に店を構えること。職人の大半はホテルや他のパティスリーに再就職をするが、数名は指導係として父の店に来てくれること。来年の三月にオープン予定であること、など。
「スー・シェフの藤原さんは自分の店を出すし、坂上は僕が紹介したホテルに移ることになった。お前によくしてくれていた蔭川、あいつは新しい店に来てくれるんだ。蔭ちゃんは真面目で腕もいいから助かるよ」
「蔭川さんが? でもよく叱られてんじゃん」
「バカ言うな、あいつの腕は僕が一番知ってる。仕事が終わった後に厨房で自主練もしてるんだぞ。それで寝不足になって失敗することがあるから、逆に休めと怒ってるくらいだ」
 亮はいつかの蔭川の眠そうな顔を思い出した。彼が熱弁していた菓子への情熱を、父はちゃんと見てくれていたわけだ。新しい店のことについても、父は説明をしてくれた。今までの都会的な雰囲気とは一転して、ログハウス調のカントリーなイメージの店構えにすることや、惣菜メニューの充実、地産地消の商品も多く扱うつもりであることなど、様々な企画にも恐れずどんどん挑戦していくらしい。
「店を作るなんて、そろそろ年も体力も限界になってくるからな。これを機会に、やりたいことは全部やってしまうつもりだよ」
 そう熱く語る父の目つきは、かつて蔭川がパティシエの未来を語っていたときと同じような生気溢れる光を宿していた。蔭川と父は二十以上も年が離れているが、夢を炎にして燃やす瞳というのは年の差などどこかへ蹴散らすようだ。心の深くにある泉から湧き出すワクワク感が抑えきれないとでもいうように、童心そのものの好奇心が終始その表情に滲み出ていた。
 果たして自分の表情は父にどう映っているのだろうか。明日は学校があるので早々と父のベッドに潜るも、父から浴びせられた好奇心という刺激が亮の胸に突き刺さる。寝つきが悪くてモゾモゾと何度か体勢を変えていると、隣の客用の布団の中から声が掛かった。
「寝れないのか。夢でも見たのか」
 どうやら寝られないのは父も同じらしい。親子共々落ち着かないのも無理はなかった。幼い頃に亮の隣で寝ていたのはいつも母だったし、父の寝室は別だったから並んで寝たことなんて記憶にもない。ましてや高校生にもなって隣の布団に父がいるなんて気まずい事この上なかった。どうせ眠れないなら起きてしまおうと、亮は父に向かって問いかけた。
「ねえ、前から気になっていたんだけどさ、『バルカロール』って店の名前、フランス語で『舟歌』って意味だろ。なんでそういう名前にしたの」
「んーなんでだと思う?」
 暗闇のせいなのか、父の声の輪郭は妙にはっきりとしていた。
「さあ、分かるわけないじゃん」と言いつつ、もしやと思っていたことはある。「例えば舟に乗る夢でも見た……とか」
 ははっと父は笑い声を軽く放った。
「残念ながらそんなファンタジーな理由ではないなあ。これはね、僕の独身時代のフランス修行に関係してるんだ。留学の話は、亮に言ったことがあったかな?」
「聞いたことはないけど本で読んだことはある」
 以前アマゾンで取り寄せた父の著書に、渡仏のことも少しだけ書かれていた。留学当初、言葉は通じないし生活習慣も違うしで相当苦労したらしい。パティスリーやレストランで働こうにも、どこへ行っても門前払い。日本人なんて、所詮は給料なしで働く外国人労働者という弱い立場だったそうだ。
「フランス留学なんて聞こえはいいけど、覚悟がないなら絶対に行かない方がいいと思った。それくらい大変な経験をした。パリのストレールという店の菓子に一目惚れして、どうしてもそこで働きたかったんだけど、ここだってそう簡単に外国人を雇ってくれるはずもない。毎日のように足繁く通って頼み込んだけどダメだった。仕方ないから一旦田舎の方へ移ったんだよ」
「確か、ブルターニュ地方とかベルギーとかに行ったんだよね」
「そう、田舎の経験は僕を成長させてくれたんだ。パリとは違う発見ができたよ。その土地にはその土地の文化があって、土地が生み出す素材の魅力にもいろいろと個性があった。その個性を考え、客が求めるものを考え、商品に見合う価格を設定する必要があるんだ。それに人との繋がりもあったよ。シェフにビザの発行を助けてもらったり、語学学校で出会ったパティシエたちのツテで店を紹介してもらったりとかね。美術品や骨董品巡りとか、音楽鑑賞もよく楽しんだ。フランス菓子の歴史も学んで、これらすべてが今の菓子作りの基礎や財産になってる。留学中で得た経験や知識は、無駄なものが一つもなかったなあ。これもまあ、勉強っていうやつだな」
 暗闇という暖かな布団が、二人の間にわだかまっていたしこりをやんわりと包み溶かしてくれた。今まで堰き止められていた情熱が一気に溢れ出すように、父は息子へ饒舌に語り続けた。
「ようやくストレールで僕の実力が認めてもらえた時は、自分の中にある嬉しさという嬉しさが爆発するかと思えたくらいだ。他のパリの有名な老舗店や三ツ星のレストランで雇われたりもしたけど、ここが一番思い出に残ってるなあ。始めてここで給料をもらったときに、パリのオペラ座に行ってクラシックを鑑賞しに行ったんだ。あそこはいいぞ。本場の音楽も勿論ながら、豪奢な内装はまるで宮殿にいるようで感極まるものがあったよ。それを見ていたらね、何故か急に涙が溢れてきたんだ。ああやっと、自分の力でここまで辿り着いたんだなあって。そのとき鑑賞したのがオッフェンバックの『ホフマン物語』というオペラだった」
 突如父の口からもたらされた『ホフマン』という言葉に、心臓が止まるほどの衝撃を覚えた。もちろん暗闇の中の驚愕が父に分かるはずもない。
「僕が大好きなオペラで、家にいたときもよく聴いていた曲なんだ。CDはまだ残ってるかなあ。あのオペラの中に『バルカロール』っていう曲があるのは知ってるか? 日本語名は確か――『ホフマンの舟歌』だったかな。この店の名前はそこから取ってるんだよ。あの時の感動と熱意を決して忘れないようにって」
 瞬時止まっていた心臓は、本来の役割を思い出したように激しく脈打っている。心臓の音が部屋に響くかと思うくらいに大きく聞こえて、父にバレないように布団をこっそりと胸まで引き上げ、なるだけ平静を装って会話を繋げた。
「……じゃあ『バルカロール』って名前の付いているケーキ、あれも同じ理由なの?」
「いや、あれはな、実はお前の言葉からヒントをもらったんだよ」
「俺の? まさか……なんか言ったっけ」
「小さい時にクラシックのコンサートを一緒に聴きに言っただろ。帰り道、急にお前が夜空を指さして『銀色の舟が浮いてる』って言うから驚いてね。見上げたら、綺麗な光を放っている三日月がプカプカと天の川に浮かんでたんだ。三日月と舟と星の川のイメージが面白くて、あの舟の形のケーキを作ったんだよ。あの頃からお前の感性にはユニークなところがあったんだなあ。……そうか、亮はそのことを覚えてないか。まだ小さかったもんなあ」
 父とコンサートを聴きにいったのは、小学校の二年か、三年くらいのときだ。フランス国立管弦楽団が近くのホールへ演奏に来るとあって、珍しく父が誘ってくれたものだった。曲目は確か、サン・サーンスの交響曲第三番「オルガン付」。初めて聴いたオルガンの迫力に圧倒された覚えがある。しかしコンサートのことは覚えていても、銀の舟などと言った記憶はまるでなかった。
「今だからこっそり教えるけど、舟に乗っている三つのハートの粒は、家族を表しているんだよ。僕と、お母さんと、そして亮だ。家族が乗った幸せな舟がいつまでも流れていくようにって、小さなケーキに願いを込めたんだよ。七夕の短冊みたいにしてね。でも、ダメだったなあ」
 多少の自虐を言葉に含めた父に、亮は何も答えなかった。天井で燈色に光る豆電球が、亮に付き添って父の話に耳を傾けてくれていた。自分と同じ小さな観客を亮は見つめる。
「自分の実力を試したくてコンクールにも全力で挑んだ。でも連日の深夜に渡る練習で、家族を放っておいてしまった。お母さんが倒れたとき、丁度コンクールの準備の真っ最中だったんだよ。とても手が離せる状態じゃなかった。優勝はできたけど、お母さんにも亮にも無理させてしまって、お前の言う通り僕はてんでダメな父親だったと思う――今更だけどごめんな、亮」
「…………」
「好きなものを見つけることも、好きなものに全力で取り組むことも、すごく大事なことだ。でももう一つ大事なのは、本気で好きだったっていう自分を信じてやることなんじゃないかって思うんだ。僕はパティシエとして何十年もこの道を突っ走ってきたけど、道から脱落した人を嫌というほど見てきた。十年後に残ってるパティシエなんて、百人に一人しかいないって言われてるんだよ。それくらい、この業界は厳しい。でもね、好きでやってきたことはどんなことでも無駄じゃない。たとえ諦めなければいけない何かがあったとしても、好きだって信じてきた心の種火は、次の好きなものへの燃料になるんだ。どんな理由があろうともその種火に決して水をかけちゃいけないんだ。僕だってお母さんを、亮を、家族を――全力で好きだって信じてたんだよ。たとえ家族がどんな形になってしまっても、今でもその思いは色褪せていない」
 父の声は途中から掠れを伴っていた。亮もまた、急に喉からぐうっとせり上がるものがあって、慌てて唾で空気を飲み込んだ。
「亮、好きなものは好きでいいんだ。好きだっていう自分を信じろ。それがお前なんだ。お前が歩む人生だ。それでいいんだよ。僕はこの街から離れるけれど、亮だったらきっと大丈夫だ。亮が強いことは僕が知ってる。遠くからでも、僕がお前を信じてる。だから自分のやりたいように、好きなようにやってみろ」
 天井で聞き耳を立てていた小さな光の観客が二人、三人とぶれてきて、慌てて目頭を手で覆う。小さいくせに、光が眩しすぎる。光の観客がどうする、どうするとしきりに亮へ訊いてきた。影を作りたいのか、どうするのかと。やりたいことなんてまだ分かるわけがない、まだ考えなくてもいいじゃないかと必死に抵抗を試みる。しかし光の裏側にいるもう一人の自分が、どうしてそれに抗おうとするのかと、背中から突くようにして疑問を呈してもいた。
「俺は――」
 ここで言うべきものを、自分ではもう分かっている。それなのに今まで言えなかったのは、その存在が自分にとってどうあるべきか、決めることができなかったためだ。それを自分の中にどう落とし込むべきか、納得できる位置を定めることができなかったからだ。それをストンとあるべき位置に落とし込むことができたのは、ようやくここで父の偽りのない本音があらわになったためであった。
「……バルカロールのケーキを学びたい」
 そして大きく深呼吸し、暗闇の向こうの父にもう一度言った。
「ここから離れる前に、お父さ――親父、の、持っている知識をできるだけたくさん教えて欲しい」
 今亮ができることは、この言葉二つを父に聞いてもらうことだけだった。それでも父には十分だったようだ。見えない暗闇の向こう側から、優しく諭すような声が届いた。
「うん、分かった。明日は店が休みだから、厨房に行って教えよう」

Chapitre 9

 高校には父が電話で休みを知らせてくれるとのことだった。
「高校の勉強よりも大事なものはあるんだ。もし先生にバレても僕が責任取るよ」と偉そうに諭してくれはしたものの、母へ電話するときは、まるで大型犬に唸られて尻尾を垂れ下げた小型犬のように弱々しくなっていた。普段は見ることができない、おたおたした父の様子を横目で興味深く観察しながら、朝食のサラダのレタスをパリパリと口に含む。
「お母さん、怒ってたんじゃないの」
「いや大したことないよ。気にすんな」
 電話を切ると、父は何事もなかったようにケロリとして、悪戯を仕掛けた子供のような目つきで白い前歯を見せた。真向いの椅子に座り二人で朝食をとる。父と一緒に寝て、父と一緒の朝食。昔の父の朝は早かったし、休みの日は昼近くまで寝ていたから、父子二人だけの朝食というのは亮の記憶の中ではこれが初めてのことだった。
 店まで歩いていき、コックコートに着替える。亮の投げつけた制服は、クリーニングされて綺麗に畳まれ、事務室に保管されていた。
 さて何を作ろうということになり、とりあえずは初心者向けの焼き菓子がいいだろうと父が助言する。亮が希望したのはシュークリームだった。どうして、と不思議そうな父に亮は答えた。
「小さいとき、初めて教えてもらったのがシュークリームだったから。嬉しかったんだよ」
 言いながら顔を赤らめる亮と同様に、父も照れのあまり緩む頬を手で覆って必死に堪えているようだった。あまりにも恥ずかしすぎる父子の遣り取りを職人たちには絶対に知られたくないなと、亮はこの場からすぐさま消え去りたい気持ちに駆られた。
 手を洗い、オーブンの電源を入れ、作業台を消毒し、調理道具を準備し材料を計量する。
「今日は折角だし、普段とは少し変えてピスタチオを使ってみよう。以前店で出していたシュークリームと同じやつだよ」
 亮がルセット(レシピ)を見ながら出来る限り一人で作り、横で父が補助するという形で作業は進められた。亮の慣れない手つきにやきもきしているようではあったが、仕事でもないため父の機嫌はさほど悪くない。しかしどうしても横やりを入れずにはいられないようで、分かっていることを手取り足取りしつこく教えたりして、邪魔なおせっかいに亮は何度か苛つく。相変わらずな親子劇ではある。
 まずはナッツのプラリネ(ペーストしたもの)を作る。グラニュー糖と水を鍋で温めてナッツを絡める。ペースト状になるまで撹拌し、絞り袋でドーム状のものを何個か作って冷蔵庫で冷やす。
 パータ・シュー(シュー生地)に移る。牛乳、水、グラニュー糖、バターなどを鍋で温め、小麦粉をゴムベラで混ぜる。ボウルに移して卵を何度かに分けながら攪拌する。絞り袋で天板に絞り、オーブンに入れた。
「途中で絶対にオーブンを開けたらダメだから。生地が萎むからね」
「それくらい知ってるし」
 最後にピスタチオのクレーム・パティシエール(カスタードクリーム)作りをする。ボウルに卵黄、グラニュー糖、ピスタチオのペースト、コーンスターチを入れて混ぜ、牛乳、生クリーム、グラニュー糖を鍋に少しずつ入れて炊く。
「これを焦がしちゃだめだよ。何があろうと混ぜ続けるんだ。この炊きあがりを見極めれるようになるのが、パティシエとしての基本中の基本だよ」
「菓子屋のクリーム」との名を持つクレーム・パティシエール。このクリームの味が、店を代表する顔になるともいえる、と、蔭川から借りた専門学校の教科書に載っていた。店で扱うクレーム・パティシエールの量は半端ない。十四リットルもの牛乳が入った寸胴を一人で混ぜ続けなければならないため、かなりの重労働になる。以前、坂上がうっかり焦がしてしまい父から叱られていたのを思い出した。
 もったりとした艶と質感が感じられたところで鍋を火から上げ、バターを加えてラップに包み冷蔵庫で冷やす。寝かす時間が足りないが、今日だけは特別に妥協した。
 焼きあがったパータ・シューの上半分を切って、ナッツのプラリネとピスタチオのクレーム・パティシエールを絞り、上半分の蓋を乗せて粉砂糖を振り完成。
 出来上がったばかりのシュークリームは、小麦とバターとクリームの甘い香りをふんだんに漂わせていた。噛むとサクリと軽やかな音のするシュー生地。香ばしいピスタチオの風味がする若草色のクリーム。それらが相まって、まろやかに口に広がる。シュークリームという小さな世界に、ナッツとクリームの素晴らしい化学反応を楽しむことができた。どこかのカフェで食した、皮が硬くてクリームが無残に外へ飛び出たシュークリームとは雲泥の差だった。父も試食して満足そうに頷く。
「初めてにしてはなかなかの出来だな。絞りは下手だし時間もかかり過ぎで、もっと練習は必要だけどね。美味しかった。よく頑張ったよ」
 素直に喜ぶのも照れくさくて、「どうも、ありがと」と小さな返事しか返せない。
「亮、美味しいケーキを作るのに大事なことって何か分かるか?」
「技術を磨いてセンスや腕を上げることなんじゃないの」
「うん、それもあるな。もう一つ覚えておいてほしいのが素材の使い方なんだよ。素材と素材がぶつかり合うときに、お互いがお互いを打ち消し合っていちゃダメなんだ。そうすると全体の味がぼんやりとした味になるから。どんな素材でも長所が必ずある。その一つ一つの持ち味を理解することで、相手の魅力を最大限に引き出すことができるんだ。オーケストラとかオペラだってそうだろ? 弦と管、どちらの音も聴こえなくちゃいけないし、オケと歌が揃わなくてはいい曲にならない。すべての素材、すべての楽器、すべての音が美しく響き合ったときに、最高のケーキ、最高の曲が生まれるんだ。僕はね、亮みたいに楽器を演奏することはできないけれど、ケーキを作りながらいつも最高の音楽を奏でてるんだよ」
 父はシュークリームを綺麗に食べ終わって道具を片付け始めた。亮はかつて遥香が話していたことを思い出す。遥香は亮のオーボエのことを『周りの音をちゃんと引き立ててくれる』と褒めてくれた。遥香は亮の持ち味をよく理解してくれていた。彼女自身もまた、自分の音の魅力を理解してくれる相手が欲しくて、だからあんなに亮とのアンサンブルにこだわっていたのだろうか。
「さて、亮はこの後どうするんだ。これからもう一度うちに来るのか?」
 父に問われて少しばかり躊躇する。成績は順調に回復したから母の怒りもとっくに収まっているが、もう少しだけ考えさせてと返事を保留にした。
 出来上がったシュークリームを二つの箱に詰め、一つは遥香の元へ届けに行く。運よく大学生の兄が在宅していたので、遥香に渡すよう言付けして家に帰った。もう一つの箱は母の元に。
 母が帰宅して夕食を食べているときに、冷蔵庫で保管しておいた箱をテーブルに出した。白い箱にはバルカロールの銀色のロゴが光っている。母は箸を止め、遠い国からやってきた土産物を見るような目つきでそのロゴを見て、再びお椀を手に取って味噌汁を食べ始めた。父のときと同じように、母もまた息子に何一つ問い質してこなかった。
 夕食が終わると、亮は箱からシュークリームを一つ出して白い皿に置いた。真向いの椅子に座って母の様子に目を注いでいたが、母は感情をできる限り押し殺しているようで、何を考えているのかが今一つ読めなかった。母は垂れ下がってくる髪の毛を耳に掛け、フォークで一口食べるごとに舌と嗅覚を目いっぱい使いながら、味と香りをじっくりと確かめていた。
「美味しいよ。ピスタチオのクリームがすごくまろやかだね。これ、亮が作ったんでしょう?」
「まあね。でも親父と一緒に作ったやつだよ。嫌じゃないの」
「嫌な訳がないでしょう。お父さんの作るケーキの味が好きだったから結婚したのよ」そう言ってティッシュで口を拭い、指に付いた粉砂糖も拭き取った。「亮のお菓子も、お父さんのと同じ味がしたわ」
 そのとき無感動を装っていた母の表情に変化が起こる。母の顔に、表現しがたい不思議な笑みが浮かんだのだ。嬉しいような、寂しいような、幸せなような、悲しいような。何十種類もの感情が絡まり合った表情をほんのひととき顔に浮かべた後、再びその感情は心の奥底深くに仕舞われた。母はそれ以上何も言わずに、食器をそのまま残して風呂に入ってしまった。
 亮は椅子に座ったまま母の食べ終わったケーキ皿を見つめていた。蔭川の言うように、自分はこの菓子一つで愛を生み出し、母へ幸せを届けることができたのだろうか。そんな魔法のような力が、果たして自分にもあるのだろうか。シューの皮のひとかけらも残されていない真っ白な皿が、母の心に秘められた気持ちを代弁しているようでもあった。

  *

 夜、久しぶりに遥香からLINEが届く。
『シュークリームありがとう。やっぱり亮くんの作るお菓子は最高だよ』
 どういたしまして、と途中まで打って、それを消す。
『この間はごめん』
 この間と行っても半年も前のことになる。それでも、ここでちゃんと謝るべきだろうと判断したものだった。メッセージの返事が来ないかとスマホを手に待っていたが、遥香からの返事は結局来ることがなかった。

  *

 次の週からバルカロールのバイトを再開した。とはいえ学業優先ということで勤務時間を半分に減らし、テスト前は必ず休むという条件付きだ。半年間の空白があったにも関わらず、職人たちは亮を歓迎してくれた。「あとしばらくの間になるけど、よろしく」と坂上がにこやかに声を掛けてきて、ペコリと頭を下げる。父の性格とは反比例して、この店はいい職人に恵まれているなあとつくづく思う。
 母に預けていたオーボエは売られることもなく、まだ家の押し入れに眠っていた。ケースを開けて、基礎練習から少しずつ再開した。
 七月の第一週目の日曜日、この日はM高校吹奏楽部の七夕コンサートがある日だった。バイトが終わり次第すぐに駆け付けようと思ったのだが、この日に限って坂上が高熱を出して休むというトラブルに見舞われた。人手が足りないので一時間ほど残業をする。コンサートには若干遅れるが、急いで行けば第二部、遅くても第三部前には間に合うだろうと検討をつける。
 バイト帰りの電車の中で、冷房の風があまりにも気持ちよく、急に酷い睡魔に襲われた。ほんのひと時ではあるが、亮は夢を見た。いつもの舟の夢だった。
 ――銀色の三日月の舟に揺られながら白い空を見ていた亮は、何を思ったのか急に立ちあがった。バランスを崩した舟が左右にぶれ、落ちないように足を踏ん張る。そろりそろりと舟の後ろににじり寄り、赤い背もたれを跨いで舟守の位置まで行くと、両手で櫂をがっちりと掴んだ。
 オール留めに留められて気ままに動いていた櫂は、亮によって自由な身分が奪われたことに若干の抵抗を見せたが、そのうち亮の動きに合わせるようにして水を押すようになった。亮が力を込めると、櫂はザブン、ドブンと水を激しく泡立てる。櫂の勢いに押されて舟は推進力を高めていった。
 霧の中をひたすら前に進める。前に見えるのは赤い背もたれと帆先にある銀色の装飾だけだった。川がどこに向かっているのか、行き先は見えない。でもどこに行こうが構わない。この舟がきっと行き先を知っている。そしてそれは亮が目指す先でもある。
 とにかく、前に進め。何も考えずに舟を漕げ。
 亮は櫂に一層の力を込める。舟のスピードはどんどん上がる。そのスピードは、今までに感じたことのない解放感を亮に与えた。頬を叩きつけるほどの風にも動じず、亮は風で乾いた目を細める。舟は霧を押しのけ、波を裂き、白い泡の尾を作り、幾筋もの銀色の光を伸ばし、そして――ゴン! と何かにぶつかった。
 舟が大きく左右に揺れる。勝手な行動を起こした舟へ逆らうように、大量の水しぶきが亮へ襲い掛かる。慣性の法則に逆らえずに亮の体が斜めに傾いた。咄嗟に足を踏ん張る努力も空しく、足元が滑り、手から櫂が離れて、亮の体は大きくよろめく。よろめいた先は舟の中ではなく、運悪く川の方。足が浮き、体が舟から離れ、川へと落ちる。川に叩きつけられる寸前、目の前の水面に映ったもの、それは……
 自分の顔! 影がある!
 ――落ちる、と思った瞬間、何かがぶつかるような振動を体に感じて目を覚ます。駅でもないのに窓の外の景色が止まっていた。レンガ色のマンションのベランダで雑多に置かれた常緑樹の鉢が、暑苦しそうに電車と向き合っていた。「電気系統のトラブルにより……」というアナウンスが入り、そのままの状態がしばらく続く。
 スマホで時間を確認する。コンサートにさらに遅刻しそうだった。第三部に間に合うか間に合わないかといったところか。約十分後、ノロノロと電車が動き出し、ようやく駅に到着する。扉が開いてすぐに蝉の大合唱の中へ飛び込んだ。駅を出たところでスマホに吉野からの着信が入った。
「おい篠原、今どこにいんだよ。コンサート終わっちまうぞ」
 恨みがましそうな友人に、もうすぐ着くからと謝っておく。吉野の返事の代わりに電話口から飛び出てきたのは、耳に覚えのある女性の金切り声だった。
「シノッチ! あんた何してんの! 早く来なさいよ! 第三部が始まっちゃうでしょ!」
「……田子山先輩、そんなとこで何してるんすか。コンサートは……」
「今は休憩時間なの。ヨッシーを捕まえて電話してもらったのよ。あんたが来てるのか確認したかったから。まさかまだ来てなかったなんて信じらんない。どうすんのよ、早くしないと遥香のソロが終わっちゃうよ!」
 甲高い声を避けるようにして遠ざけていたスマホを、思わず耳に近づけた。
「え? ソロなんて初めて聞いた」
「遥香さあ、去年オーディションで落ちてからものすごく頑張ったのよ。シノッチに負けたくないからって。どうしても聴いてもらいたいからって必死に練習してたんだよ」
「負けたくないなんて勝手に言われても、競争してるわけじゃないし。俺なんか別にどうでもいいでしょ」
「どうでもよくないの! あーもう腹立つなあ。あんた、頭と勘だけはいいくせに、肝心なところはマジで分かってないんだね。遥香はさあ、小学校のときからフルートを頑張ってて、音大に行っていずれはプロにっていう夢があるんだよ。なのに後から楽器を始めた人が自分よりどんどん上手くなって、ソロコンの本選にまで出場して、しかもあっさりと楽器を辞めちゃうってさ、いったいどういうことって思うわけ。遥香はあんたのことをずうっと意識してたんだよ」
「まさか……」
「何がまさかよ。バッカじゃない? まあ楽器をするもしないも本人の勝手だけどさ。去年のクリスマスコンサートだって、シノッチに聴きにきて欲しかったのに断られたって、遥香が随分と落ち込んでたんだよ。自分ばっかり見てないで、あの子の頑張りもちゃんと見てあげなさいよ」
「落ち込んでたって……遥、浅尾先輩が?」
「そうだよ、それにあんたもあんただ。二人のことなんてみんな知ってたよ。それなのにシノッチが妙に余所余所しく振舞っててさあ、遥香のことを意識してるくせに他人行儀なことばっかりしてて。そんなんだから、遥香が変な男に捕まっちゃうんだよ。去年のクリスマスの後、あんたと喧嘩してあの子がどんだけ泣いてたと思ってんの。遥香に酷いことばっかり言って、私だったらぶん殴ってやるところだわ」
「それは……すみません、反省してます」
「私に謝ってどうすんのよ。大人ぶってカッコつけてるつもりかもしんないけど、私からしたらシノッチなんてそこら辺のガキんちょとおんなじだ。もうちょっとさ、しっかりしたら?」
「…………」
「とにかく遥香のソロまであと十分! 急いで来なさい! 間に合わなかったらヨッシーのスマホを叩き割る!」
 電話の向こうからヒイッと男の悲鳴がした途端、一方的に電話が切れた。なんだよそれ、走れメロスかよと思わずツッコむ。とにかく人質になったセリヌンティウスを助けるためにも急いだほうがいいと判断する。タクシーにするか徒歩にするかを迷い、渋滞の様子を見て徒歩に決定、メロスのごとく駆け出した。
 ――さっきの夢で、ようやく分かったことがある。
 影を奪うジュリエッタは誰なのか?
 答えは単純、夢がずっと教えてくれていた。ジュリエッタなんて、最初から舟に乗ってはいなかった。舟に乗っていたのはいつも自分一人だった。ジュリエッタがいると思い込んでいただけで、影を奪うものなんて実は誰もいなかった。影はいつでもそこにあるし、常に自分と繋がっていた。
「ジュリエッタなんてどこにもいない」
 これが亮の出した結論である。本人がジュリエッタにもなることだってあるし、影がなくなったことを彼女のせいにすることだってできる。影があると信じて喜ぶのも、ないと嘆いて苦しむのも自分次第。逃げ出そうが向き合おうが、それを決めるのは自分の心。他の誰かが決めるわけではない。意識して見ようとするのかしないのか、たったそれだけの違いだった。
『もっと自分の好きなこととかやりたいことを素直に表に出したらいいのにって、ずっと思ってた』
 あの晩、遥香に指摘された言葉が蘇る。考えて考えすぎて、屁理屈を捏ねてはできない理由ばかりを挙げて、できないと言い訳してはすぐに拗ねて、「影」を見ようとしない自分のことを彼女は見抜いていた。遥香にきつく当たったのは、図星を突かれてムキになったためだ。バカだ。本当に自分はバカだ。遥香にごめんと心で謝る。
『今更だけどごめんな、亮』
 あの父が亮に謝った。まさか謝るなんて思いもしなかった。いつも自信に満ち溢れていて、体中が好奇心の塊でできているような父なのに。たとえ何があろうとも、いつかそれを手放すことになろうとも、それでも好きなものは好きでいい。好きだっていう自分を、とにかく信じろ。
『じゃあやりたいことって何よ』
 母が再び頭の中で訊いてくる。以前は答えられなかったこの言葉。好きなことからはもう目を逸らさない。やりたいことはもう分かっている。だけどそれは――
 日は天頂近くにあり、ビルや街路樹の影がなく日陰に入れない。じりじりと日差しが容赦なく頭に照り付け、少し走っただけで頭と背中から汗が噴き出してくる。足元には強い輪郭を持った濃い影が、振り落とされないように必死になってしがみ付いていた。白く光る太陽の中へ、亮は走る、走る、そして走る。
 遥香のソロまであと十分。
 絶対に間に合う。とにかく走れ。何も考えずに舟を漕げ。

 *

 亮との電話を終えて控室に戻った田子山は、友人の姿がないことに気が付いた。ケースの上に乗ったフルートが持ち主を待ちわびている。誰も遥香の居場所を知らないようで、もしやと思いトイレを探す。三つある扉の真ん中だけに鍵がかかっていた。シノッチがこっちに向かっているよと扉の向こうに声を掛けると、扉がそろりと開き、案の定遥香がおずおずと出てきた。腹を壊したとか、体調が悪かったわけではないらしい。一人になるためずっとトイレに引き籠っていたのだと、遥香は答えた。
「……美有、ほんとにありがとう」
「どういたしまして。もうーそんな顔して、ほんと大丈夫? 今日のスターがなんでトイレの主になってんのよ。遥香のソロは私も期待してんだからさ、自信もちなさいよ」
 遥香は泣きそうになる表情を我慢するように唇を噛んだ。が、どうしても我慢しきれないようで、眉毛と口元の筋肉がゆるゆると上下する。リハーサルの演奏では、緊張のあまり思うように音が伸びなかった。いつもと違う遥香の演奏を聴いて、指揮をする顧問から調子が悪いのかとしきりに気遣われてしまった。部員たちからの無言の圧力も辛い。「なんとか頑張ってみる」と、その頑張る気持ちがネズミにかじられたようなか細い声で、遥香は弱気すぎる意気込みを見せた。あまりにも情けない顔つきで返事をされて、田子山は苦笑いする。
「ほら、そんなヘンテコな顔しないで、いつもの笑顔になって。遥香ならできるよ。きっと本番は上手くいくって」
「そうかなあ。でもこれ見て。手が震えすぎて指が滑るんだよ」と、小刻みに震える手のひらを見せる。田子山はその手をしっかりと両手で握った。彼女から放たれた柔らかな熱が手の平を通して伝わってくる。遥香の冷えた手が温もりを取り戻す。
「はい、わたしからも念を送ったから、これで大丈夫。遥香なら絶対できる。折角シノッチが来るんだからさあ、あいつにいいとこ見せなって。今までで一番の、最高の音を聴かせてやんなよ。あの子が惚れ直しちゃうくらいにさ。あいつのこと、好きなんでしょ?」
 思いもかけない一言に、遥香は目を白黒させた。「これで緊張しないよね」と高らかに笑いながら、田子山は楽器を取りに控室へ行く。親友の言うとおり、手の震えが嘘のようにピタリと治まった。今日初めて、肺へ新鮮な空気を送り込むことができた。廊下を歩く彼女の真っ直ぐな背中へ向けて、遥香はもう一度心からの謝意を送った。

  *

 亮が市民ホールに到着すると、ロビーに観客はいなかった。恐らく第三部が始まってしまっているのだろう。今演奏されているものが遥香のソロではないことを祈りながら、息を整え、汗を拭き、冷水器の水を浴びるほど飲んだ。「篠原」と後ろから呼びかけられて振り返ると、ディオニス王に処刑寸前になっていた哀れなスマホ、もとい友人が、腕を組み眉間に皺を寄せて究極に不愛想な様子で突っ立っていた。
「吉野、ご苦労さん。スマホは無事か」
「お前なあ……頼むから約束は守ってくれ。マジで友情を疑ったぞ」
「いやほんと悪かった。ここに来るまでに、いろいろあったんだよ。裏切るつもりはなかったから」
 友人の機嫌をなんとかなだめて、演奏が終わるのを扉の前で静かに待つ。遥香のソロは次の曲だと吉野が教えてくれた。曲が終わって拍手が起こるのと同時に扉を開け、中腰のまま小走りで中に入る。暗い観客席の前の方に空いた席を見つけてひと息ついた。パンフレットを見ると、遥香の演奏するのはルイス・ボンファ作曲の「黒いオルフェ」という映画のテーマ曲だった。ラテン系の音楽のようで、ふんわりとした遥香のイメージにそぐわない気もする。
 舞台の上に照明が当たり、指揮者と遥香が登場した。長い髪の毛をポニーテールで縛って、唇に力が入って緊張しているのが伝わってくる。観客席を見まわしたときにこちらを見たような気もしたが、勘違いかもしれない。どうかよい演奏ができますようにと、亮の握った手にも緊張の汗が滲んでくる。力を入れ過ぎて、手に持っていたパンフレットがカサリと乾いた音を立てた。指揮棒が上がり、とうとう曲が始まる。
 金管と木管の静かなコーラスの中へ、フルートソロが勢いよく低く飛び込む。緊張など微塵も感じさせることのない、芯のある低音のビブラートを耳にした瞬間、まるで雪山から氷点下の風が吹き荒れたようにして、亮の腕に、背中に、そして脚へと一斉に鳥肌が立った。
 ――音が進化してる!
 中学の頃の遥香のフルートも勿論素晴らしかったのだが、それはあくまでも指の動きや演奏の技術によるものが大きかった。腹式呼吸が完成されていなかったのか、それとも本人の優しすぎる性格も影響していたのか、音が細くて、特に低音の響きに重さが感じられなかった。それが劇的に改善されていたのだ。ビブラートの低く太い揺らぎが音の大波となって、観客をラテンの世界へと引き込んでいく。高音域への細かなパッセージも寸分に狂いがなく、バックの音に心地よく溶け込む。
 ラテン女性の情熱的な恋はフルートの音に乗って激しく歌われる。まさか遥香がここまでラテン音楽を解釈できるのかと、意外、というよりもかなりの衝撃を受けた。遥香の奏でる愛は金管の音にさえ埋もれることがなく、さらなる情熱の高みへと音をかき鳴らす。この広い世界の中で、私を聴け、私だけを見ろと言わんばかりに、遥香の伸びやかなフルートの音色は愛に焦がれる女性の心を見事に歌い上げ、ホールの隅々まで濃艶な音を震わせた。
 曲が終わるまで亮の鳥肌は止まらなかった。まるで心臓までもが粟立ったように躰の内を叩き続けている。曲が終わり、拍手が鳴ると、遥香は恥ずかしそうに笑顔を作って深々と会釈をした。約四分間の銀色の木管の音色に魅了された観客は盛大な拍手を彼女に送った。亮も手のひらが痛くなるまで拍手した。握っていたパンフレットはすでに皺だらけになっていた。
 遥香の音を聴けてよかった。遥香は本当に美しかった。女神のような美しさを、その音と笑顔に讃えていた。ミューズの神がもしあの舟に乗っていたとしたら――それは遥香であってほしい、と亮は密かに願う。
 最後の演奏が終わり、吉野を連れて舞台裏へ急ぐ。差し入れを受付で渡す時間がなかったため、遥香に直接渡すつもりだった。片付けの終わった田子山先輩が控室の手前にいたので、部屋の中にいる遥香を呼んでもらう。
 少しだけ話をしようと、人気のない廊下の隅へ遥香と二人で移動した。当然のように亮に付いていこうとした吉野が、「状況を考えろ」と田子山先輩に襟首をがっちりと掴まれた。ズルズルと引きずられ拉致されていく友人を見送ったあと、バルカロールの銀のロゴが描かれた紙袋を遥香に手渡した。
「今日は何も作ってる時間がなかったんだ。店の焼き菓子で、口に合うといいんだけど。遥香さんの演奏、想像以上に上手くなっていてビックリした。マジで感動したよ」
 遥香は「舞台からも見えてたよ。ありがとう」と亮の言葉に頷き、今まで胸に溜まっていた喜びという喜びを満開に咲かせたようなとびきりの笑顔を見せてきた。と、思った途端、急に目の前で涙をポロポロと流す。
「え? え? なんでここで泣くの。この間のことだったら……」
「そうじゃなくて、亮くんの顔を見たら急に緊張がほどけて」と、手の甲で涙を拭く。「今日はどうしても亮くんに聴いてほしかったから。でも聴きに来てって自分からどうしても言い出せなくって、美有に随分と助けてもらっちゃった。来てくれてありがとう。ほんとに嬉しい」
 この会話だけで膝の力が抜けるくらいに照れてしまい、もう家に帰ってしまいたいと思ったくらいだが、そうもいかない。「俺も嬉しい」やら「それはよかった」やらたくさんの日本語が口の中で混ざり、「そにょ、れしい」などとよく分からない言葉が口から飛び出た。慌てて咳をしてなんとか誤魔化す。
「……そういえば、音大狙ってるって田子山先輩から聞いたけど」と、気持ちを切り替えてさりげなく話題を逸らした。
「うん、ほんとは諦めようとも思ってたんだ」
「どうして。あれだけ演奏できれば十分だと思うけど」
「私って、自分でも嫌になるくらいに憶病なんだよ」と、目を伏せがちに話し出す。「音大に行きたいって思ってるくせに、ソロコンにも出る勇気もなかったんだ。亮くんの演奏聴いて、私も頑張らなくちゃって練習したのに、去年はオーディションにも落ちちゃって。こんなんじゃ音大なんて無理だなって……」
「でも今日の演奏はほんとに凄かったよ。なんていうか、遥香さんの熱がこっちまで伝わってくるみたいだった」
「今日の演奏が上手くいったのは、亮くんのお陰なんだ」と、遥香が無邪気な笑顔を返してきた。「今日のソロで自信付いたし、音大頑張ってみる。冬には私もソロコンにも挑戦するつもり」
 有難いことに、今日一日で人生に必要とする笑顔の大半をもらってしまった気がする。が、ただ座って演奏を聴いていただけの自分の何が遥香の役に立ったのかがさっぱり分からない。どうして? と訊き返すも、遥香はその答えを教えてくれようとしなかった。どうにもこうにも腑に落ちないが、とりあえずその疑問を棚に上げておく。
「まあとにかく、遥香さんが頑張ってくれるのは嬉しいよ。遥香さんが音大に挑戦するなら、俺も思い切って、あれに挑戦してみようかな――」
 と言いかけたところで、「遥香」と後ろから呼ぶ男性の声がした。振り返ると、人生で最も目にしたくない人物が、水も滴るような爽やかな笑顔を振りまきながらそこに立っている。
 ――ピンクのバラ! なんでここにいる?
「遥香、演奏会お疲れさま。ソロよかったよ」
「あ、うん……」
 表情を曇らす遥香の返事の途中で、すかさず亮が割り込んだ。
「ちょっと悪いけど、あっち行っててくんない? 今は、俺が、話してる最中なんだけど」
「今は」と「俺が」の語気を特に強めて立ち向かった亮の剣幕など動じることなく、ピンクのバラはにこやかな笑顔を絶やさない。
「ああ、ごめん。邪魔したみたいだね――ねえ遥香、たか子ちゃんってあっちの控室かな?」
「多分そうだと思うよ」
「ありがとう。じゃあちょっとだけ寄らせてもらうね」
 ピンクのバラは、今日はピンクではなく紅色のバラのミニブーケを手に持っている。遥香のことはすっかり関心がないのか、機嫌よさげに控室の方へと歩いていった。これからあいつのことは、ピンクのバラではなく紅のブーケと呼んでやろうと心に決める。
「信じられん、あいつ、まだここでウロウロとしてんのか」
「……亮くんごめんね、成平くんのことでいろいろと困らせちゃったみたいで。今はたか子ちゃんが言い寄られてるみたいなんだ」
 どうやら紅のブーケ野郎は、ターゲットを遥香からたか子という女の子に変えたらしい。なんとも豪気な奴だ。
「また犠牲者が出なきゃいいね」
「成平くんってそんなに悪い人じゃないんだよ。ただちょっと、女の子みんなに平等に接しすぎるところがあるだけで……あ、でも私はもうあの人とは関わらないから。安心して」
「その方がいいよ。これからは俺がいるんだし」
 うっかり出た言葉に、あっと口を閉じ、頭の中が真っ白になり、顔は真っ赤になり、なんともめでたい紅白の彩色に二人そろって固まってしまった。さすがにこれ以上はもうダメだと、救いを求めるように廊下の向こう側へ顔を逸らすと、階段の陰から飛び出た頭が二つ、ひょっこりとこちらを向いている。
「遥香、頑張れ、あとちょっとだよ……」
「漫画だったらここでキスをする……」
 かしまし娘と友人たちの野次でようやく我に返り、その場はすぐさま解散となった。お楽しみの続きを見ることができなかったと田子山先輩は散々悔しがっていて、何をバカなことをと冷ややかな視線を彼女に向けた。とはいえ、あともう少しだったのにと亮も内心悔しがっていたのは、ここだけの話である。

Chapitre 10

 季節も移り、樹々の色を紅く染める風が山裾を吹き抜けるようになった。
 十月末、店の最終日ということで、バルカロールの味を求めた客が押し寄せて長蛇の列ができた。ハロウィンと重なったのもある。平日ではあったが亮も夕方二時間ほど手伝いに入った。この日ばかりは従業員の総力戦となった。
 そして夕方六時、バルカロールは店の明かりを落とし、装飾されたカボチャや魔女たちに見守られるようにしてその役目を終えた。
 夜七時になってバイトから上がるときも、職人たちはまだ片付けに追われていた。亮はスタッフ一人一人に、今まで世話になったことへのお礼の挨拶をしていく。
「蔭川さん、あっちに行ってもオーナーのことをよろしくお願いします」
「篠原くんもよく頑張ってくれたね、ありがとう。またいつか会えるのを楽しみにしてるよ」
 いつものか弱そうな面持ちで蔭川は目を細め、亮と握手を固く交わした。彼がいなかったら、この店なんてすぐに辞めていたことだろう。蔭川の存在の大きさを思うと胸が締め付けられるような気分になり、握る手にもつい力が入る。
 父は息子と蔭川との遣り取りが気に掛かるのか、作業の手を止めて握手する二人をじっと見つめていた。亮が他の職人の元に行くと、視線を外して何かを納得するように何度も頷いていた。
 バルカロールのバイトも終わり、再び勉学に邁進する日々が続いた。時間も空いたので、これを機にオーボエの練習時間を本格的に増やそうと思ったのだが、どうにもこうにもやる気が起こらない。バイトをしていたときの方が、時間があれば一時間くらい練習しようという意欲があった。時間があってもやる気が起こらず、忙しい時の方がやる気が出る。なんとも不思議なものだ。
 他のケーキ屋でバイトを始めようとも思ったのだが、それにも前向きにはなれなかった。どこのケーキ屋にもさっぱり魅力を感じない。バルカロール以外のケーキを勉強しようという意欲がこれっぽっちも沸かなかった。どうも自分が思っていた以上にあの店のことが好きで、街一番の人気店で働いていたという自分に誇りを持っていたらしい。
 その日以来、亮は物思いに耽ることが多くなってきた。ただし以前のような後ろ向きの悩みではない。今繋がっている影とどのようにして向き合っていくのか、それを真剣に考えるようになってきた。
 十一月の三者面談の日、亮はとうとう自分の思いに決着をつける。
 この日の面談は予定終了時間より約十分オーバーになった。次の面談者の時間がかなり押したが、教師も母もどうしても面談を終えるわけにはいかなかった。「父のいるところに転校して、高校卒業後は菓子の専門学校に行く」という予想外の進路希望が、亮の口から突如もたらされたからだ。
「父の仕事を勉強したいから」との息子の希望に、母は絶句し教師は慌てふためいた。近隣の国公立に余裕で入れる学力があるから尚更である。ここの高校を卒業したのちに改めて考えてみてもいいのではないかと、なんとかして二人で説得を試みるも、亮は頑として自分の意見を引こうとしない。三者の意見は平行線のまま、とにかく家でじっくり話し合ってくれとその場は収められた。
 もつれにもつれた面談をなんとかして終わらせ、黒いステラに乗る。母はエンジンを付け、ラジオのボリュームを最小限にし、ハンドルを握った。
「なんで先生の前であんなことを言うの、亮。転校なんてお母さんは初めて知ったよ。勝手に物事を進めないで、考えがあるならちゃんと相談してよ」
 母は苛立たし気にアクセルを踏む。いつもよりも乱暴なハンドルの切り替えに、車のエンジンが低く唸って非難の声を上げた。
「決めたのは一昨日だから仕方ないよ。それに相談してもどうせ聞いてくれないじゃん」
「聞くわよ! どうしていつもそうやって自分勝手に決めつけるの。亮がやりたいことを知りたいって、あれほど言ってたじゃない。なんで……」
 ふいに声が止まって母の方を見る。母は、運転しながら泣いていた。目も、鼻の先も真っ赤にして、目尻と口元を皺だらけにして、奥歯を食いしばって、何粒もの涙を溢れさせていた。
 途端に雨風を激しく吹きさらす積乱雲が心に黒々と湧きあがる。あのときと同じ涙だ。離婚の前に酔いつぶれていた、あのときと同じ。この母の涙は亮が絶対に見たくないものだった。そしてこの涙の原因となるのが自分であることに、亮はどうしようもない罪の意識を感じざるを得なかった。
 ――結局は自分だって、父と大して変わらない。
 お父さんみたいになるな、という母の願いを反故にしてしまった。だから母には言えなかった。三者面談でぶちまけたのは、この場だったら勢いで母の気持ちを抑えられるのではないか、という期待が少なからずあったためだ。けれどもそれは亮の逃げに過ぎなかった。母と向き合うことからの、逃げ。ここでもまた亮は自分の決意から逃げていたことになる。遥香や母には知らないところで勝手に動くなと怒ったくせに、誰よりも身勝手なのは自分自身だ。人のことなんて言えやしない。未熟な自分に腹立たしくて、でもどうすることもできず、亮は一言「ごめん」とだけ呟いた。
「……わざわざあっちに行かなくても、ケーキの勉強くらいここで出来るんじゃないの」
「それじゃ嫌なんだよ。俺は、親父の技術をどうしても学びたい。あの人の技と味を尊敬してるから」
 亮は両手の指先を絡ませて、指を踊らすように曲げたり伸ばしたりを繰り返す。
「俺は、やっぱり菓子を作ることが好きなんだよ。前からもそうだったけど、バルカロールがなくなってさらにその思いが強まった。あんな小さなケーキ一個のためにさ、親父は何百というケーキを試食して研究して、数えきれないくらいのレシピを作り直して、見たこともないような国から材料を調達して、途方もない時間をかけて技術を磨いてるんだよ。信じられないでしょ。あんなちっぽけなケーキ一つのためにだよ。あの店で働いてずっとあの人のことを見てたけど、菓子一個のためによくそんな努力すんなって呆れて、でもそこまで夢中になって一つのものに打ち込めてるのがものすごく羨ましかった。あの人は、マジでやばいなって思った。マジで、バカが付くぐらいの菓子職人なんだ。俺は、あの人のケーキが好きで、あの人の技術をどうしても手に入れたいんだよ」
 亮の主張に母はすぐには答えない。大通りを行く車は渋滞に嵌り、運転するスピードが自然と緩くなった。隣の車線の車に何台か追い抜かれた後、母はようやく考えがまとまったようだ。
「せめてこっちの大学行ってからじゃダメなの。それからでも遅くはないでしょう」
「大学行ってからじゃ遅いんだよ。大学行ってる四年間があれば、学べる菓子の技術は山ほどある。早ければ早いほど、それだけたくさんの技術を学べるんだ。俺は早く一人前になって、自分のケーキを作れるようになりたい」
 亮は再び横を向いて母の顔を見た。母の涙はすでに乾いていた。
「お母さん、ごめん、俺はやっぱりパティシエを目指したい。どうかあっちに行かせて」
 母は洟を大きく啜って口から息を吐き出した。ラジオから今流行りの男性シンガーの曲が流れだして、亮は耳を傾けた。心の深い部分を抉り出すような歌詞を書くこの男性シンガーが亮は好きで、通学の間によく聴いている曲だった。
「……後悔はしないのね」
「後悔なんてしないよ。俺が決めたことから」
 母は黙って運転に集中しているようだった。信号が黄色から赤に変わり、車を止める。ハンドルを握った人差し指でリズムを打っている。ラジオの歌に合わせているのかと思ったが、テンポが違うようだ。母の頭の中では別の歌のリズムが流れているようだった。やがて指のリズムが消えてラジオの歌だけが取り残された。愛する苦しみはいつか希望になると、男性シンガーはラジオから切々と訴え続けていた。
「亮が決めたんならもういいわ。自由にしなさい」
 歌に促されるようにして出てきた母の返答に、亮はありがとうと小さく頷いた。男性シンガーの曲も同時に終わる。次に始まった女性シンガーの曲は夢や恋だのと高らかに声を張り上げていて、亮の好みにはちっともそぐわない曲だった。
 その後母は進路のことには一切触れずに淡々と転校の準備を進めてくれた。転校の準備期間が短いことも、息子が父の元へ行くことも、独りになることにも文句を言うことはなかった。それが当たり前のように、なんでもないことのようにいつもの日々を過ごしていく。逆に亮にとっては辛かった。以前みたいに口喧しかった方がかえって落ち着く。母の胸中を察すると、自分のしでかした事の重大さに押しつぶされそうな気分になる。
 不満をぶつけてきたのは母ではなく父の方だ。引越しのことで電話をすると、父は即座に亮を説得にかかった。
「お前なあ、そっちにいた方がいろいろと選択肢があるんだから、早まるんじゃないよ。今からでも間に合う。そっちに残って大学に行け」
「なんで俺のことにいちいち口を挟むんだよ。やりたいことをやれって言ったのはあんたの方じゃんか」
「この道がどれだけ大変か、前にも話しただろ? 高卒よりも大卒の方が、再就職には有利なんだよ」
「やる前から仕事を辞める話をすんなよな!」
「まあそう怒るな。とにかくお母さんが可哀そうだろ。もう少し考えてやれ」
 父も父なりに母のことを気に掛けているらしい。転校するまでの短い期間になんとかできないものかと、亮は様々に考えあぐねる。

 ひと月が過ぎて聖夜の鈴が鳴るころ、亮は家でショートケーキを作った。スポンジを焼き、生クリームを塗る。イチゴとブルーベリーとキウイを乗せてクリームをぐるりと絞った。一人分にカットしたものを白い皿に取り分けて、夕食のローストチキンやシーザーサラダなどと一緒にテーブルに並べる。母は迷うことなくチキンよりも先にケーキに手を伸ばした。
 家でケーキを作るなんて三、四年ぶりくらいではないだろうか。バルカロールでバイトをしていたとはいえ下働きだったから、大した技術なんて身についていない。クリームの塗り方もフルーツの飾りつけも素人に毛が生えた程度だが、それでも母に喜んでもらえればと願いながら作ったものだ。どういった感想をもらえるのだろうかと、自分用のケーキそっちのけでソワソワと落ち着きなく母の表情を伺っていた。
「どう、美味しい? 正直な感想言ってよ」
 恐々と尋ねた亮に、母は目をやった。
「本当に正直に言っていいの? 厳しい意見になるけどいい?」
「いいよ」
「じゃあ言わせてもらうよ――まずフルーツの飾りつけに魅力がない。もうちょっと色合いを考えたらどうなの。統一感がなくて、てんでバラバラ。それにこのクリーム、絞り方が均一じゃないから見た目が悪いよ。スポンジはまあまあかな。でも全体的に味が淡白だね。舌触りとか、風味とかが雑で、もっと研究しないと」
「…………」
「パティシエ目指したいって言われても、この程度じゃ不安しかないわ。お父さんの技術を身につけたいって宣言してたけど、本気なわけ? 本当にそんな簡単にできると思ってる? お父さんの腕を舐めんじゃないわよ」
「……んなことくらい、言われてなくても分かってるよ」
「亮がお父さんの作るケーキに敬意を払うのはよく分かるよ。お母さんだって、お父さんの職人としての才能に惚れてたんだから。もう一緒にいることは無理だけど、あの人の腕だけは間違いないって今でも思ってる。亮、パティシエを目指すって本気で思うなら、あの人と同じになっちゃダメ。あの人を超えるくらいの気持ちでいきなさい。お父さんが悔しがるくらいの立派なパティシエになりなさい。それだけが、お母さんからのお願い。それくらいの意気込みであっちに行くんだったら、いくらでもお母さんは亮を応援するわ。厳しい道よ、頑張りなさい」
 母は一通り言い放ってから、皿の上のケーキを綺麗に食べ終え、チキンを手に持って大きな口でかぶりついた。母の顔には満足そうな笑顔が浮かんでいた。クリスマスという特別な日の、大切な人の笑顔。亮も笑おうとしたのに笑えない。自分用に取り分けたケーキに、まだ一口も手をつけることができないでいた。白い皿の上に、涙が一粒零れ落ちた。

Épilogue

 三月の早春の風が街中に吹き始め、季節は新しい扉を少しずつ開けていく。
 引っ越しの準備の合間に、亮は朝早くから遥香のマンションへ自転車を走らせた。
 亮の引っ越しは三日後。遥香も無事音大に合格したようで、四月からはマンションを出て大学の近くで一人暮らしをするとのことだった。お互いにこの街から離れることになるので、引っ越す前に一目会いたいと思っていた。
 いつもの公園の手前で遥香は待っていた。白ブラウスの上に紺色のカーディガンを羽織り、ベージュ色のロングスカートが春風に清楚に揺れている。自転車の金属音に気が付いて手を挙げた遥香は、近づいてくる亮の姿を見て大きな目を瞬きさせた。
「え? 亮くん、だよね? なんか……」
「なんか変?」
「……ううん、イメージが変わっててビックリした。遠くからだと亮くんじゃないのかなって思ったよ」
 遥香の正直な反応に亮は目を細めた。春休みに入ってから、亮は眼鏡をやめてコンタクトにし、髪の毛を茶色に染めた。大学デビューならぬ、転校デビューである。亮は自転車から降りてスタンドを下ろした。
「あっちの高校って茶髪オッケーなの?」
「うん、生徒会が頑張って校則を取っ払ったんだって」
 高校の掲示板情報によると、数年前に地毛証明書と茶髪禁止校則の撤廃を求めて、生徒会が教師たちと戦ったそうだ。本当かどうかは分からないが、校則が撤廃されたその翌日、生徒会長が金髪に染めてきて担任から大目玉を食らったらしいとその掲示板に載っていた。
「似合わないかな?」
「似合うよ、すっごく。なんだかカッコよくなっちゃったなあ」
 ははっと軽く笑い飛ばして照れを隠し、亮は自転車カゴから白い箱を出した。
「大学合格のお祝いだよ。ソロコンも入賞おめでとう。いつもと同じ手作りのやつで悪いけど」
 冬に挑戦した遥香のソロコンテストは、見事本選で金賞受賞、三位入賞を果たした。箱を受け取った遥香も茶色い封筒を亮の前に差し出す。
「私からも、これ。亮くん、もしよかったら、ヒナステラの楽譜を持っててくれないかな」
「え……でももう部活にも入らないし、アンサンブルだって出来ないけど」
「それでもいいんだよ」遥香の瞳に春の淡い光が差し込む。「これは亮くんのために手に入れたものだから、他の人には渡したくないの。このアンサンブルの相手は、絶対に亮くんだって決めてたから。お願いだから、持っていてほしい」
 遥香にはいつものような微笑みがなかった。真剣な表情で亮のシャツに楽譜を押し付けている。楽譜を受け取ったところでどうすることもできないのだが、遥香の願いを無下に断るわけにもいかない。困惑しながらもその楽譜を受け取った。
 話題は友人たちの近況に移った。田子山先輩は近くの私立大学の文学部に合格したとのことだった。吉野とは、演奏会後もゲーム関連でたまに連絡を取り合っているらしい。あの二人が付き合うかどうかまでは未知数ではあるが。
「田子山先輩のことだし、まあ吉野もなんとかするんじゃないかな」と、大事な友人に対して適当なことを述べておく。
「亮くんは、これからパティシエ目指すんだよね?」
「うん、できるだけ頑張ってみるよ」
「じゃあ私もプロの音楽家目指して頑張ろうっと。フランスにも留学できるといいなあ」
「じゃあ俺もフランスに行って菓子修行するよ」
「ほんとに? もしかしたら亮くんと向こうで会えたりして」
「それだったらすごい。楽しみだ」
 二人の掛け合いを楽しむように公園の樹々の梢が風に歌った。まだら模様の淡い影が足元で踊る。
「でも音楽を一緒にするのは、きっともう無理だよね。亮くんのオーボエを聴けなくなるのは、やっぱり寂しいなあ」
 遥香は風で揺れる髪の毛を手で抑えた。左手の小指にはめられた指輪が銀色に光っていた。小さな石のついた、三日月の形をした飾りが指輪に付いている。イブの日に亮が遥香にプレゼントしたものだった。
「部活は無理だけど、オーボエはたまに練習するよ。それに――」と、遥香の銀色の指輪を見つめる。「親父が言ってたんだけど、ケーキを作るのって音楽と同じなんだって。親父はさ、ケーキを作りながらいつも最高の音楽を奏でてるんだって。俺も遥香さんも違うところに行っちゃうけど、実は同じ道を歩いてるんだよ。この道を諦めない限り、俺は遥香さんと一緒にいられるんだ」
 あの日以来、舟の夢は見なくなった。バルカロールの店ももうない。父と共に試作したケーキも、舟形のケーキも今は食べることができない。けれどもいつかは父と――いや、必ず自分の力であの舟形のケーキを作りたいと思う。
 愛と芸術が一つに繋がるバルカロール。銀色の三日月の舟の歌。
 この舟があればきっとまた遥香に会える。母へ愛を届けられる。
 時間になり別れの言葉を交わして、キスをした。
 亮は自転車に跨りペダルを踏んで、自宅へと走らせる。遥香は、亮の後姿が小さな影となって光に消えるまで見送った。走り去った自転車から、春風の欠片が遥香の元へと吹いてくる。早春の瑞々しい若草の薫りが風のヴェールを彩り、遥香の髪にそっとのせられた。

 ― fin ―

銀の舟歌 ~Barcarolle~

執筆に際し、以下の文献を参考にしました。

ホフマン物語(E・T・Aホフマン著/石丸静雄訳)新潮文庫
砂男/クレスペル顧問官(E・T・Aホフマン著/大島かおり訳)光文社文庫
Pâtissier 柴田書店
プチガトー・レシピ 柴田書店
プロフェッショナル仕事の流儀・杉野英美(茂木 健一郎、 NHK「プロフェッショナル」制作班)
スーパーパティシエ物語―ケーキ職人・辻口博啓の生き方(輔老心著)岩崎書店
「心配性」だから世界一になれた(小山進著) 祥伝社
職人力! トシ・ヨロイヅカのパティシエ哲学 (鎧塚俊彦著)朝日新聞出版
パティシエになるには (辻製菓専門学校編著)ぺりかん社

銀の舟歌 ~Barcarolle~

高校一年生の篠原亮にはこれといった夢がない。彼の両親は離婚し、好きだった遥香には振られ、吹奏楽のオーボエも辞めてしまい、唯一の趣味のスイーツ巡りだけを楽しみとして、ただ何となくの日常を過ごしていた。そんなある日、亮はひょんなことから父の経営するパティスリー「バルカロール」で働くことになる。父との軋轢はあるものの、パティシエという仕事、職人としての父の厳しい姿、そして夢をひたむきに追い続ける蔭川という先輩と関わることで、亮は少しずつ成長していく。奪われた影と銀の舟の夢の謎。バルカロールの店の光が消えるとき、銀に輝く三日月の舟の本当の意味を亮は知ることになる。失ってしまった家族の愛を届けるために、そして音楽の道を歩みだす遥香と再び繋がるためにも、銀の舟に乗った亮が決意したこととは。

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更新日
登録日 2019-08-12

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