そら【乱】

稲穂本丸小説用

痛い表現、出血注意。


今日俺は何もかもが上手くいかずにむしゃくしゃとしていた。ちくしょうとサイダーの缶をゴミ箱に投げ込むと、からんからん。外れて外側に落ちた。少しだけ残っていた中身が地面に溢れる。小さな小さな甘い池にもっと小さく弱い負け犬たちが待ってましたとばかりに群がっていた。俺もこうなるのだろうか、そんな風に呆然としてしまうほどにその日はついていなかったんだ。

彼女の気持ちを無下にし別れを告げられ、コピーしろと言われた資料の枚数を間違えこんなこともできないのかと怒られた。いつもならこんなヘマはしないのに、そんな風に後悔してため息をつけば鳥の糞がスーツに落ちる。自転車のタイヤはパンクし、靴下には穴があく。もうどうにでもなれとやけくそで蹴った石は歩道の段差に当たって下水にぽちゃんと落ちた。不吉だ。ついてない。

ああ、まったくと思いながら缶を拾いゴミ箱にきちんと入れる。そのまま去っても誰も怒りはしないが、そうする気にはなれなかった。切れかけの街灯がちらちらと不規則に点滅し闇夜を強く感じさせる。今は何時だ?とスマホの画面をつければ充電が残り1%の大ピンチ。焦りから時間を見るのも忘れて早く帰ろうと帰路に立つ。

暗く寒い道をとぼとぼ一人、寂しく歩く。虚しさや心細さが沈んだ気持ちを更に落とし込んだ。ため息を深く吐く。幸せにげるよ?と彼女の声が頭に響いた。訂正、元彼女だ。家に帰ってももう誰もおかえりとは言ってはくれないと思うと脚が重い。両足に漬物石でもくっついているんじゃないかというほどだ。

ハッと顔を上げるとなぜか小さな公園の入り口に来ていた。自宅への道にこんなところはない。ぼーっとしていて曲がる場所を間違えたか?と思いながら辺りを見回すが覚えがなかった。ふと目が柔らかい光を認識した。街灯だろうか?よく見ると何かが発光しているわけではない。ジャングルジムの一番てっぺん、高くて見晴らしのいい場所に彼はいた。小学生くらいだろうか?艶やかで真っ直ぐな闇を思わせる黒髪に新雪のような真っ白な肌、足をパタパタと揺らしながら空を見ているようだった。星1つない淀んだ空を。

こんな時間に子供が一人でいるなんてと普通なら思うはずなのに、不思議とそういった感情は湧き上がらない。

「きみ」

声が出た。ほぼ無意識に、導かれるように、誰かに言わされているかのようにするりと。

「なぁに?」

少年がこちらを向く。大きくて丸い瞳が反射するものなどないはずなのにきらきらと輝いていた。まるで星空を切り取ってはめたみたいだ。

「何してるんだい?」

そう聞くと彼はくすくすと笑う。それは鈴を転がすように可愛らしく穏やかで柔らかい。薄桃色の口が歪むのは俺が今まで見たどんな笑顔よりも美しく愛おしく感じた。

「空を見てるんだよ」

当たり前だとでも言いたげに目を細める。

「なぜ?」

綺麗な星が輝く夜空ならば納得もいくが、こんなどんよりとしたただの闇を見ている理由が全くわからない。楽しいのだろうか?

「綺麗だからさ。おにーさんにも見えるでしょう?あの満天の星が」

わくわくしたように少年は空を指差す。すると何もなかった空にぽつりぽつりと光が灯る。すぐに視界いっぱいにきらきらと星が瞬いていた。手を伸ばしたら掴めそうなほど強い輝きに息を飲む。

「どうやって?さっきまで......」

あんなに真っ黒で何もなかったのにという言葉は出なかった。少年の瞳からきらきらとした美しい瞬きが消えていたからだ。吸い込まれそうなほどそこには何もない闇が広がっていた。俺が見ていた空みたいに。

「何をしたんだい」

腹の底が冷えるような感覚に苛まれる。脚がすくむ。

「あなたは空が好き?」

俺の質問に答えは返ってこない。僕は好きと先ほどとまったく変わらない声色が耳から入りこだます。一度瞬きをすると彼の瞳は闇の広がる終わりないものではなく、きらきらと夜空のように瞬いているわけでもないごく普通の茶色いものに変わっていた。何が起こったかわからない。口がぽかーんとアホのように開いてしまっている。

「ねえ、好き?」

答えを催促された。

「あ、ああ。好きだ。特に今みたいな満天の星空がね」

一音目は緊張からか詰まったがそのあとは口が踊るように軽く言葉が溢れる。思ったことがそのまま脳味噌を通さずに出る感じだ。

「そっか、よかった。気に入ってくれたんだね」

嬉しそうににこにこと笑って彼は言う。その笑顔は先ほどのものより無邪気で子供らしい。

「こっちへおいでよ。もっとよく見えるよ」

ほらとジャングルジムの一番上に来るように誘われた。その言葉に導かれるままに登る。てっぺんまで来ると彼の隣に腰を下ろした。少年は下から見ていた時よりは大きく思えたがそれでも俺と比べたら小さくて、幼いことを強く感じる。

「あ!おにーさん!僕のたからもの見せてあげよっか?」

わくわくとした表情で彼はポケットを探る。えーっとこっちに入れてたはずと言いながらごそごそ手を動かした。見つけたのかピタッと動きを止めぐっと握られた拳を出す。なんだろうと覗き込むと開いて見せてくれた。

きらきらと光るそれは触ると壊れてしまいそうなほど繊細に思えるが、力強さも感じる。刺々しくも見え、怪我をしそうだ。色味を少しずつ変えながら瞬くその何かは心惹かれ、夢中にさせる何かがあった。

「これは?」

何かわからずに首をかしげる。不思議だと、それだけはわかった。

「あめだよ。一つあげる」

あーってしてと口を開けるように促されそうするとぽろりと先ほどの飴とやらが入れられる。攻撃されそうな風貌だったのに口の中で優しく溶ろけ少しだけ熱い。味は甘いが何か強い香りや酸味があるわけではなく、これと言ったフレーバーは思い浮かばなかった。舌の上で転がすとすぐになくなりほんのりとした癖のない正解を表現できない後味すらもすぐに消えた。

「おいしいでしょ?」

ふふんと少し自慢げな彼が愛らしい。すごく、と言ってやればえへへと柔らかく照れたように笑う。年相応で純粋な反応だ。

「そういえばさ、おにーさんは空を飛んだことがある?」

一瞬不思議な質問に感じたが飛行機の話だと思った。俺は生まれてこのかた飛行機で移動したことがない。苦手なのだ。あの鉄の塊が空を飛ぶという事実が。

「いいや、君は?」

「あるよ!」

すぐさま息つく暇もなく彼は答える。あのね!あのね!と感動を伝えたいのか精一杯身振り手振りをしながら話す。思わずにこにこと微笑んでしまった。うんうん、そうかそうかと聞いてやる。夜を飛んだら寒くて暗くてすごく怖かったとか昼間は鳥がいっぱいいるから一緒に遠くまで行くんだとか。少し空想染みたそれらは子供ならではの捉え方だろう。

「おにーさんも行こうよ!今から!」

小さな少し汗ばんだ熱い手が俺のかさついたペンだこのある手を握る。ね!いいでしょ?とねだられ仕方ないなと意味も理解せずに頷いた。棒が尻を凹ませる感覚がなくなりギョッとする。嘘だろ、おい、ピーターパンじゃないんだからと思うのにどんどんと体は宙に浮き、上へ上へと上がっていた。びっくりして横を見ればにこにこと少年が笑っている。その表情は楽しいでしょ?と言っているようだった。戸惑っているうちに家の屋根を追い越し電柱の頭を抜かして雲の上まで来てしまう。不思議と寒さはなく息も普通にできた。気分が悪いという感覚すらない。

こつっと頬に何か当たる。なんだろう。手に取ってみると先ほど食べた不思議な飴があった。辺りを見渡せば一面きらきらと輝く星の海。クリスマスのイルミネーションよりずっと綺麗で胸がいっぱいになる。なんだこれはなんだここは。

「あんまり取っちゃダメだよ?なくなっちゃうから」

そう言って少年は飴を一つ口に入れた。真似して俺も星の絨毯から小さな小さなかけらを一つ取って食べる。さっきよりも味が薄い気がする。小さいからだろうか。首をかしげ今度は大きいのを口に放り込むとパチッと弾けた。舌がピリピリする。今度は大きすぎたのかもしれない。けれどこれはこれでそういうお菓子のようで気に入った。

暫く星の上で転がってみたり歩いてみたり飴を食べたりしながら過ごした。気がつけば空の色が濃い黒からだんだん薄くなっていっている。すると一緒に遊んだ少年は悲しそうな顔をしていた。声をかけるとごめんねおにーさんと小さな声で謝る。

「何で謝るんだい?」

こんなに素晴らしい体験をさせてくれたのに!そう思った。嫌なことも全て忘れて年甲斐もなくはしゃいでしまうほどに楽しかったんだ。

「僕ね、おにーさんを落とさなきゃ」

泣きそうになりながらそんなことを言う。何を言ってるんだ?と首をかしげたその時、ドンッと胸を強く押された。彼はすごく寂しそうに見えた。一瞬のことだったが瞳がまるで朝焼けのように濃いオレンジ色に輝いていたのが頭を離れない。俺は太陽に殺されたイカロスのように真っ逆さまに落ちて行く。内臓がふわっとして気持ちが悪い。あまりにも実感が湧かなくて恐怖はなかった。落下する途中一羽の鳩と思い切りぶつかり羽根が舞う。ひらひらふわふわとその時だけゆっくりになったのを覚えている。鳩は俺と一緒に落ち、落ち続け、次の瞬間。ドシャッと強い衝撃と何か水分を含んだものが叩きつけられたような音が頭を粉々にした。痛みはない、ただ体は動かない、寒さも何も感じない。遠のく意識の中、女性の悲鳴と助けを呼ぶ声が俺の周りを包んでいた。


ガバッと起き上がる。気がつけば俺は自室のベッドで寝ていた。何か夢を見たような気がするが覚えていない。すごく不思議で何だか楽しかった気がするのだが何だったんだろう。まあいいか、どうせ夢だ。それよりも喉がごろごろとして痛むのが気になる。風邪でも引いたのだろうか?そう思って体を起こすとバラバラッとシーツの上に何かが散らばる。

手に取って見るとそれは細かく割れたガラスだった。横を見れば窓ガラスが割れている。風に飛ばされてきた何かがぶつかったのかもしれない。困ったなと思いとりあえずシーツの上にまとめようとすると突然噎せた。ゴホッゴホッと深刻な咳。窓が一晩中開きっぱなしだったのだ風邪だろう。

口を覆った手についた唾液を服で拭うとその部分が赤かった。インクか?昨日のことはあまり覚えていないしもしかしたら酔ってインクをこぼしたのかもしれない。そんな風に考えていると鉄臭いニオイが鼻の奥からやってくる。気持ち悪くなって嗚咽が漏れた。何度かえづくとごぽっと液体が出る。シーツに広がったそれは赤、赤、赤。何だこれ、まるで血じゃないか。恐怖に手が震えた。全く覚えていない昨日、何があったんだ。焦って思い出そうとしてもスマホがあと1%だと焦ったところからの記憶がない。家にどうやって帰ってきたかもわからない。パニックからひゅっひゅと喉がなり気がついた瞬間に強まった痛みは焼けるように俺を苦しめる。助けてくれ、誰か、頼む。

震える手でスマホを持ち電源をつけようとするがつかない。そうだ昨日充電がなかったんだ。どうすれば、どうすれば。焦り苦しさに身を裂かれる。声もうまく出ない。獣の呻きのような格好の悪い意味のない音を血とともにぼたぼたと落とすだけだ。
ふと後ろから誰かに抱きしめられるような感覚がしてピタッと動きが止まる。誰だ?そう思うのに振り返ることはできない。

「美味しかったでしょう?」

くすくす笑いとともに少年の声が響く。その言葉を認識した瞬間、何もかもが終わりを告げる。息ができない、苦しい、助けてくれ、目の前が白んで物が認識できない。どくどくと大きな音を立てていた鼓動も突然小さく早いものになる。寒い、とても寒い。ガタガタと震える手で肩を抱くとまた声が聞こえた。

「ずっと一緒にいて」

その言葉の後すぐに頬に何か柔らかいものが触れる。白んだはずの目の前が黒く深い闇に覆われた。終わりのない確かな闇。落ちて行く感覚は覚えがあった。なぜ知っているんだ。俺はなぜこれを。


気がつけば少年がいた。艶やかで真っ直ぐな闇を思わせる黒髪と新雪のような肌。可愛らしい笑顔が印象的だ。

「ねえ、空は好き?」

近づくとすごく自然にまるで兄弟のように手を繋ぐ。ふわりふわりといい気分だ。周りは何もなく彼と俺だけ。

「好きだよ」

俺は知らない。その時彼の瞳はずっと続く何もない闇に満たされていたことを。俺の見ていた空が隣にいることを。

そら【乱】

そら【乱】

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2019-08-11

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