はっきりさせたい主義なのですが
男性教師と女子生徒の恋の話です。はっきりさせたい主義なのは、女子生徒の方です。
私、朝
朝、私が時計を見て、意識を覚醒し始めた時刻は、六時の少し後。
だいたいいつも通り、修正できる誤差範囲内の起床に納得し、私は気持ち早いリズムで朝支度を済ませると、約束通りの時刻に、相変わらずスーツの似合うお父さんと揃って家を出る。
からりと眩しい朝日と忙しない人たち、可燃ゴミ袋を片手にひっ掴んだサイドアップのスーツ美人や、スマートフォンを律儀に赤信号の間だけ取り出す中学生くらいの少年たちが、今日のハイライト。
平日の朝に、今日も参戦する。
お父さんはいつもきっかりというような紳士然とした常識人で、そんな人にこそ朝一のハイライトを進呈しようと、毎朝別れるまでの間、横目で観察する日課を生み出したのだけど、今日も収穫はなかった。
私がもう少し幼い頃から観察を始めていたら、今よりまだ緩みを発見しやすかったかもしれないなと思うと、惜しいことをした気持ちになる。
まあ、一人娘にすら緩みない真面目かっこいいお父さんすごい、誇らしい、という解の裏づけをし続けてくれるお父さんに対して、私は、やはり最後には、さすがという他ない。
高校生の朝は鈍い。
若者は若者らしく夜更かしをするので、教室には上体をまっすぐに保てたクラスメイトは半分くらいしかいない。
この割合は、昼食後の三限ではさらに偏る。
もちろん、担当教員の性格によっても上下するのだけど。
私もそのあたりはまちまちで、たとえばお父さんに、確実に勉強姿勢を崩していないかと問われたなら、首をかしげてにこりと笑顔になるしかない。
とはいえ、今日、というか火曜日の午前授業で姿勢を崩したことは、たぶんないはずである。
なぜなら火曜二限はあの先生の受け持ちだから。
あの、非常勤の数学教師。
上中下のうち、中レベルの習得段階に合わせた数学授業用の一時的なクラス(私の所属しているクラス)を担当している、サラサラヘアの爽やか教師である。
私に限らず、他の女子生徒にしても同様で、この授業での真面目率は他と比べて男女比が若干変動しているはずだ。
さらには、その競う気にもならないルックスと授業の上手さから男子生徒にもよく好かれる、まさに完璧な教師である。
そして、私はあの先生に恋をしている。
たぶん、そう、私自身が恋の感情を今まで抱いたことがなかったので、確実にそうだと言い切ることはできないのだけど、言ってみればそんな浮わついた思考を始めてしまうことこそが恋の証左というような、恋愛感情とはそういうところがあるような気がする。
恋の正体問題は、今の私には荷が重いので、あまり考えすぎないようにしている。
私があの先生に恋をしているという、これは、だから仮定の段階である。
それよりも今私が解くべきなのは、問題、私はどうしてあの先生に恋をしたのか、である。
より正確にいうなら、私が恋をしたあの先生の正体を確かめること、である。
すなわち、あの先生の正体問題である。
お父さんとは違う意味で尊敬できる人なのは確かで、また外見の良さも相当なものだし、ごく普通の女子生徒の一員としては憧れない理由はない。
しかし私があの先生に惹かれるようになったきっかけは、その容姿であったり、その内面であったりという以上に、具体的には言えないのだけど、その奥底になにかを見出したことであった。
なにか、とは、一体なにか。
これは私自身、説明をつけようとするには語彙や表現力の不足を痛感するような、曖昧な感覚でしかなかった。
浮かび上がる印象を並べるなら、それは何となく黒くて、それはドロっとした重さを保持していた。
私はスピリチュアルだとか、感性一辺倒のようなものごとの捉え方を好まないのだけど、これに関しては今のところ、色や感触で例える方法がもっとも適切に思えた。
黒くて重い、崩れぬ笑顔の奥に匿われている、闇。
一見完璧超人に見えるあの先生の正体問題を解決するために、私が取るべき行動は単純である。
目的は正体の解明、そのために必要なのは情報、非常勤教師と生徒の関係では情報源に乏しく、この状況を一歩進める方法は。
すなわち、男女交際を望む告白であった。
私、告白
二限の後、学生陣は元のクラス教室か学生食堂、あるいは売店へと散っていく。
教師陣がどこで昼食をとるのか、もちろん先生個人単位では詳しく知らないのだけど、予鈴直後に向かう先は、学生とは異なって皆一緒のはずである。
私は、先生が授業の後片付けをしている間にさっさと教室を出て、先生の予測ルートを先回りする。
今日はこれがあるから、授業の間中いつも以上に背筋がぴんと伸びていた。
告白の結果がどうであっても、午後のどこかで倒れてしまいそうだなあと、告白の文句を小声で唱える合間に考え事などをしていると、やがて授業ノートを片手に抱えて先生がやってきた。
この時間に人の通る廊下でないことは計算していたことだけど、実際一人の影も見当たらないことは幸運であった。
教師と生徒の恋。
これ自体に対して、私自身の躊躇いや罪悪感はあまり存在していないのだけど、とはいえおおっぴらにしようはずもなく、またもし先生が告白を受け入れてくれる気になったとしても、校内の他の人間がそばにいては、やはり返事のしようがない。
こればっかりは運次第であったので、状況が整わなければまた来週、といったことが連続していく可能性もあったわけである。
先生は軽く会釈をして、私の正面から身をずらしてくれようとするので、私はそれを遮るように、同じ間隔分真横へはねる。
私の様子になにかを察した様子の先生は、
「どうかしましたか。」
と優しい声音で簡素に聞く。
さすがに紅潮してしまっているはずの頬に、きっと先生は気がついているのだろうけど、こういうことはちゃんと言わないとだめだ。
「せ!」
一瞬詰まる声、先生はにこりと笑顔で首をかしげる。
「先生のことが好きです。たぶん、ちゃんと恋をしちゃっています!」
文句はシンプルなものにしていた。
万一頭が真っ白になっても、きちんと言えるように。
「……そうですか。」
先生の優しい眼差しを見つめると、緊張と気恥ずかしさの涙がこみ上げる。
告白って、思っていたよりずっと心に重い。
「わかりました。男女交際がしたい、ということで合っていますね?私は構いません。喜んでお付き合いしましょう。」
瞬間、私の顔から表情が抜け落ちるのを感じた。
「い、いいんですか?」
自分から告白しておきながら、あまりの話の早さに、喜ぶよりも先に驚いてしまった。
「もちろんです、これからよろしくお願いしますね。」
先生はあくまで優しさを前面に出した様子で、正直な感想をいってしまえば告白を断るときに浮かべられる表情や仕草のようにも思えたのだけど、でも実際の私たちは、今このときから彼氏彼女の関係というわけで。
後からようやく込み上げてきた幸福感に、一時は抜け落ちたり疑惑に苛まれたりした心も、まるごとふわりと浮き上がっていた。
「では、ひとまず食事は摂りませんと。すでに少し短いですが、飲み込むときには慌てないように。それでは失礼します。」
「はい、また……。」
先生は、先ほどまでと何ら変わらない歩調で去っていった。
先生と別れて少ししてから、私は思い出した。
これは先生の正体を暴く手段、主にはそのための告白なのだったことを。
それなのに、気がついたときには、先生への好意と不安感で頭の中がいっぱいになっていて、たぶん心の底から沸き立つ感情のまま行動していた。
このときは、先生に対する好意の出所が、曖昧な直感による不信感であったことが、頭からすっぱり飛んでいた。
人間の感情って、よくわからない。
とはいえ、目的のための手段を得たことは事実ではあった。
そして先生の反応はといえば、優しくもわからない、これまでの印象を裏切らないような態度を見せた。
先生の姿は、柔らかい見た目のそこかしこに黒い靄が見え隠れして、よく見ようとすればするほど輪郭がぼやける。
それは私の不信と興味を駆り立てて、生まれた好意と好奇心が、私たちの男女関係へと導いた。
今は、当初の予定通り、段階を進めていくだけである。
これからのことを思い浮かべて、私の心の方はというと、やはり、ついウキウキとした高揚感に胸弾ませてしまうのだった。
わたし。そのとき
そのときは、わたしが生涯でもっとも絶望に身を宿し、もっとも身勝手な心情によって行動していた時期であった。
人好きのする態度を表に出し、己から出てくる言葉は閉じ込めて外に漏らさない。
良くいえば社交的で、悪くいえば誰に対しても受け身な生き方をしていた。
受け身的に、相手の理想とするわたしを想像し言動とすることは、わたし自身を晒さないことであり、すなわち人との距離を保つことであり。
だからこそ、それはわたしの身勝手であった。
その身勝手はわたしにとって、ある意味保身であり、ずるをしないようにと自分を律する手段でもあった。
わたしの求めるものは、手を伸ばすまでもなく、すぐに手に入れられるものであったから。
しかしそれは、きちんと手を伸ばして、全身を余さず使い尽くしてからようやく手に入るべきものであったから。
わたしはわたしを制御するため、わたし自身に対して盲目であろうとしていた。
そんなとき、わたしの目の前に、彼女は突然立ちはだかったのである。
私、理由
私と先生の男女交際が開始してから、一月以上が経過した。
二人の関係はというと、順調に、そして順当に恋人としての仲が深まっているものと思う。
ただ最初だけは、ひどい問題が生じた。
先生は、私の告白を受け入れてから一週間あまり、それまでの教師と生徒の関係と少しも変わらないまま、何らアクションを起こしてくれはしなかった。
私の方からは度々、付き合い始めの男女らしいささやかなアクションを仕掛けていたため、先生も次第に、それらしい対応や連絡先の交換など、こちらに近寄ろういう態度を示してくれるようになった。
それならばどうして最初だけ、と疑問に思い問うてみると、先生は、最初はいたずらの告白かと思っていました、と答えながら謝ってくれたので、お詫びになるかわかりませんがと添えていただいたケーキを頬張りながら、私はなんだか照れくさかったので、スタンプ文字で、いいですよとだけメッセージを送って返した。
そのあとは、ただ理想的で平凡な交際が続いた。
なんとなく予想はしていたことだけど、私も先生も、なにか物事を隠蔽することに優れている。
私自身は言わずもがなであり、先生も印象通り、あるいはそれ以上に事情を誰からも直感させない鉄仮面を保有しているようで、私たちの関係はあらわになるような危機一つ無いままに、何事の問題もなく進んでいた。
当然、世間体を気にした決め事はあった。
そういった行為には至らないよう努力し、SNSを利用した会話の記録を毎日消し去ることは最低限の心得、また直接会って出かけることは、私が見た目の印象を大幅に変える(具体的には、普段の目立たない黒髪ストレートの学生から、ナチュラルメイクの小洒落た休日のOLを意識した印象へと操作する)ことによって、ついでに堂々と振る舞う強い心臓によって叶えていた。
出かける先の選別にもきちんと気を配っていたので、知った顔と出会うこともない。
そして今日の出かけ先は、生活圏から少し離れたところにある、グルメサイトの評価数がそう多くないお店の候補から選出した、落ち着いた雰囲気の内装広めなカフェである。
約束のカフェの店内を少し早めに覗いてみると、すでに到着していたらしい先生が片手に茶色い紙のブックカバーを被った新書を乗せて、美しい姿勢で赤いクッションの椅子に腰掛けていた。
これは、かなり、絵になる。
あの見かけと振る舞いでありながら、なぜかオーラは常人のまま、普通以上の視線を集めないところは(とはいえさすがに、あの顔で一切意識を向けられないわけはないのだけど)、先生の謎の一つだと思う。
奥から出てきた店員に軽くジェスチャを示して、私は先生の側に近寄って、するとすぐに気づいてこちらを向いてくれた先生に、
「お待たせしちゃいました、ごめんなさい。」
そうお辞儀をしながら会釈をすると、先生はいつもの優しい表情で、
「いいえ、私も着いたばかりですよ。座ってください、とりあえずお冷やを、どうぞ。」
と、結露しないように氷なしで入れておいてくれたらしいグラスを差し出してくれる。
無類の紳士であることはいうまでもないのだけど、それを踏まえても先生の言動は隅々まで気遣いで包まれていて、私は間違いなく、いまだに先生の鉄仮面を破れないでいた。
以前と比べたら、より近しい存在になれていることは、確かだと思うのだけど。
だから今日の私は、もう少し直接的に、具体的な言葉で攻める予定なのであった。
先生は無難なホットのブレンドコーヒーを、私は緊張と外気で火照った身体を冷やそうと、アイスコーヒーを注文すると、すぐにカップとグラスが届いて、先生が香りを楽しんでいる間に、私はストロー越しにクイッと一飲みおいてから、
「今日はですね!」
と少し食い気味すぎた姿勢で、切り出した。
「今日は、私の理由をお話ししておきたいと思って。私自身、ちゃんと理解できているかどうか自信のない話ですから、要領を得なかったらごめんなさい。」
どうしても聞いてほしいのです、と意思表示をすると、
「構いませんよ、理由、ですか。」
先生は、私が何を話そうとしているのか若干掴みかねている様子で、先を促す仕草を見せてくれる。
たいそうな話ではないのですが、とワンクッション入れてから、私は話し始める。
「私は一月とちょっと前に、先生に告白しました。先生を好きになったのは、当然もっと前のことです。」
合間に一呼吸入れると、
「私は、はっきりさせるために、先生に告白しました。」
そう正直に告げた。
先生の鉄仮面が少しだけ歪んだように見えたのは、気負う私の思い込みかもしれない。
それはなにを、という先生に私は全てを話す。
私自身の気持ちを明確にしたいこと、その最初の向き先が先生であることの理由、そして、先生の正体を暴こうと考えていることまで、全てを話す。
「といっても実は、全部なんてこともない、禁断の恋みたいな話に憧れた私が先生に勝手に押し付けちゃいました、単なる想像の感覚かもしれないって、最近では薄々思い始めているんですけどね。」
これも、正直にいって本心であった。
最後に少し濁してしまったけど、概ね予定していた内容は話せたはずである。
「それがあなたの理由、ですか。」
深く考え込んでくれている様子の先生。
先生のそんな様子を見ることができただけでも、私は十分だというような気がした。
でも私には、ここへ来るまでに定めた今日のタスクがもう一つだけあった。
「それと、今日は先生の理由も聞きたいと思ったんです。」
先生の理由。
どうして、私の告白を受け入れてくれたのか。
この疑問をきちんと聞くことは、私が解に近づくための一つの鍵だというふうに予感していた。
なるべく、理想的な返し文句によって結果的にはぐらかされることのないようにと、先に私の全てを話したのはそのためだった。
「私の…。」
先生はそう呟くと、一呼吸置いて、こう答えた。
「私はですね、実のところ、早く終わってほしかったのです。」
表情は鉄のまま、でも先生は初めて、闇を露わにした。
私、先生の理由
「……え?」
喉の奥から戸惑いが零れる。
どういう意味だろうかと、頭の中で質問と回答が結びつかず、先生の次の言葉を待ちながら、私は先生の核心に始めて指先が触れた感触がした。
先生は、私が本心を告げたことに対して、私も正直に話しましょうと、あくまで誠実に言葉を吐く。
「先日私は、あなたの告白を悪戯と勘違いしてしまったと、お詫びしましたね。このとき、実は本当のところを少しだけごまかしました。」
先生の口がごまかす、なんて言葉を発するのがなんだかおかしくて、私は自分の口角がひきつるのを感じた。
あるいはそれは、先生の本性を垣間見て怯む私の防御反応かもしれなかった。
「勘違いしたのは本当です。しかしあのとき私は、悪戯は悪戯でも、私を貶める類の悪戯ではないか、そう予想しました。」
それは、それならばむしろ……。
「終わってほしいというのは、つまりそういうことです。私は私が早急に終わることを望みます。破滅する他にどうすることもできない詰みの状況、自業自得によって袋小路に入り込む愚かしい私自身、そしてその先。それこそが今の私の求める未来です。」
喉が干からびたみたいになって、声が出ない。
胸の奥につっかえた何かが気持ち悪い。
大きく反った背中は、恋人の前で姿勢を正そうというのではなく、ただ目の前の人間から距離をとろうとする本能が下した命令であった。
先生の表情は少しも変化していなかった。
教鞭をとるときとも、恋人と会話するときとも、まったく変わらない柔和な形で喋っていた。
その目の奥に、ようやく怪しい光を見つけ出すことができたのは、だから先生の方から露わにしてくれただけ。
「あなたは、それを私にくれますか?」
淡々と先生は、自ら藪をつついてしまった私を、掴まえて喰うというような雰囲気で、私に裏切りをねだってみせた。
私、反撃
と、と呟いて先生は崩れてもいない姿勢を正す。
それまで私は、息をすることすら忘れていたかのようであった。
「すみません、遊びが過ぎました。コーヒーも、もう冷めてしまったようですね。あなたも追加でなにかいかがですか?」
クイッとカップを口に傾けて音もなく喉を動かすと、先生は私の様子を案じて気遣いをかけてくれる。
「はい。あ、いえ……。」
怒れるのか悲しいのか、頭がよく回らずうまく言葉が出ないのだけど、今このまま話を終わらせてしまったらだめだと、私は懸命に思考する。
先生がその奥に所有している闇は、想像を越えて深く黒い。
具体的なところ、どうやら先生はあのときの私がボイスレコーダーでも仕込んでいて、質の悪い悪戯によって己が失脚させられる可能性を考えていたらしかった。
そう予想した上で、驚くべきことに先生は告白を受け入れた。
それは先生が、自身の身の破滅を望んでいることの証左である。
でも先生は、たとえば辞職や自死という選択をしていないし、予想を裏切った私を適当にあしらうこともなく、これまで誠実にお付き合いをしてくれていた。
その矛盾が、先生のあまりにこじれた思考と解釈を表現しているように思えた。
だめです、と、私は小さく呟いた。
先生は相変わらず表情がブレないでいて、その笑顔が、真の意味で仮面であるということがよくわかる。
先生の耳には届かなかったようなので、私は繰り返す。
「だめだと言ったんです。先生はだめです。」
徐々に力がみなぎり始める。
この源泉が怒りなのかなんなのか、とにかく私には、この場で先生に一矢報いる必要があると、そんな確信があった。
「そう、ですか。すみません、あなたの期待する私で、あなたの思いに応えられたらと思っていたのですが……」
「ちがいます!!」
だめとは、そんな意味ではないのだと。
私は先生に失望したのではない、先生を変えたいと思ったのだと、拙くて、途切れ途切れの言葉で訴える。
先生の様子は、まだブレない。
「先生は病気です!心がです!先生は必要なものが、ほしいものがわからなくなっているだけ!麻痺しているだけ!事情は知りません、でも先生を満たすものはいくらでもあります!先生に未来はいくらでもあります!」
思いつく限りの文句をひたすら並べて、自分自身でわけがわからなくなるほど、私は多くの言葉を放った。
先生は笑顔の温度を少しだけ冷まして、私を見つめている。
届いているかもしれない、でも、少しも響いていないようにも見えた。
これは先生と私の初対面なのだと、深く実感する。
「先生に必要なのは、いくらかの時間と誰かとの日常、だけです。それだけで治ります。」
先生の事情は知らないし、今は聞いても教えてくれないであろう。
だから確証などないのだけど、私は確信をもっているふうに言い切った。
「治ってください!それまで私は先生を許しませんし、今の関係をやめることも絶対にさせません!」
なにを許さないのか、そもそも先生がもし拒んだなら、私は厄介なストーカーになってしまうという、ひどくずさんな宣言であることに、言いきった後からようやく気がついたのだけど、それでも発言を訂正する気にはならなかった。
とはいえ、さすがに恥ずかしくて、また言いたいことを言い切った安堵感からか、目の前の人間に先ほど感じた恐怖が蘇ってきて、なんとも恐ろしい気持ちになって、しぼり出ようとする涙で、先生の顔がぼやけた。
よく見えないのだけど、先生から目をそらすことは決してしてやらない。
背筋も、気がついたときからまっすぐだ。
私は堂々と、正面から先生と向き合っている。
その事実は私を強くして、だからこそ勇気と力が湧いてくるのだと、今になって気がついた。
「わかりました。」
そうとだけ答えた先生の様子は、やはり涙でよく見えないのだけど、たぶんいつもの表情で、根負けしたような仕草を添えて、笑ってみせているのだろうなと思った。
私、続く
あれだけ直接的に感情をぶつけておいて、今までと同じ接し方が実際にかなったのかというと、当然かなわなかった。
私の方がうまく現実を飲み込めなくて、また生涯経験したことがないほどの、途方も無いような恥ずかしさがあって、私にはぎこちない挙動や無難な挨拶くらいしか返せない。
むしろ先生の方が、そんな私を気遣って、以前より少し積極的に構ってくれたり、より会話を膨らませてくれたりするようになった。
だめなのは、私だ。
先生を変えたいだなんて、息巻いてみせたくせに。
とはいえ、こういった劇的な感情こそが、本物の恋愛をしている証明というような気もしないではなく、密かにドキドキと胸高鳴ることもあった。
今の私たちの関係を、果たして恋愛関係と呼んでいいのかというと、少し怪しいところではあるのだけど。
ひとまず仕切りなおさなくては、と私は自分の心臓を鼓舞する。
最初の目的、先生の正体問題に関していえば、現段階の私はかなり順調に解に近づいているのだから。
その後、私たちは定期的にお店を移しながら週に一、二度のデートの約束を続けていた。
相変わらず会話のペースを崩していた私が調子を回復するまで、ずっと待ってくれていた先生は普段の数割増しに優しくて、その優しさが仮面から生まれていることを私は知っていたのだけど、それでも愛しさを感じずにはいられないでいた。
あんな側面を見せられておいて、あの瞬間は心の底から恐ろしさに怯えておきながら、私の先生に対する好意は冷めることなく、順調に膨らんでいるようであった。
好奇心が満たされ始めて、また他の誰も知らない先生の裏の側面を私だけが知ったという事実が、感情の促進剤になったのかもしれなかった。
ようやく自然なやりとりを取り戻した頃には、私たちの交際期間は四ヶ月目に入っていた。
そして四ヶ月目にして、私は恋人の一人住まいの部屋を初めて訪れることになる。
お邪魔します、と扉を押さえて身を端に寄せてくれている先生に挨拶する。
私服に合わせて慎重に選択した靴を玄関で揃えてから、先生を待たせないようにサッと廊下を進むと、物が少ないからとても広く見える簡素な男部屋に入り、辺りを、失礼にはならない程度に見渡しながら、私はついまた小声で「お邪魔します。」と呟いた。
「つまらない部屋でしょう。でも、あなたがくつろげる具合にはしたつもりです。すぐにお茶を淹れますから、座っていてくれて構いませんよ。」
先生のテリトリー内だからか、心なしか語調が柔らかく聞こえる先生の声に従って、私は黒革のソファに腰掛ける。
ここが先生の部屋、先生の住空間、ほとんど無臭で今まで感じたことはないはずなのだけど、先生らしいにおいに囲まれているような気がする。
先生はつまらないと言ったが、必要最低限のものしか見当たらない、高級そうなインテリアで整えられた空間は、私からすれば大人びた魅力で満ちていた。
やがてふわりと香る紅茶を運んできてくれた先生が、足の低いテーブルを挟んだ私の正面に腰掛けると、気に入ってもらえたらいいのですが、と言葉を添えて小ぶりな皿に並べたクッキーを差し出してくれる。
先生の好みなのだろうか、それとも今日のために選んでくれたのであろうか、そんなことを考えながら、先生がどうぞと言うのでさっそく頬張ったクッキーは、しっとりと溶けていくみたいな優しい味がした。
「前にあなたと訪れたカフェの特製のクッキーだそうです。先々週の、あの可愛らしい内装のお店ですよ。」
先々週というと、普段のデートよりも少し、私の好みに近寄った雰囲気のお店についてきてもらった日であった。
私の気分の高揚に、そのときは気をつけていたつもりだったのだけど、気づいていてくれたようだ。
相変わらず何も隠せないなと思って、私が照れ照れと頭をかいていると、
「また何度でも行きましょう。あなたにはご褒美をあげすぎだなんて心配が、少しもないようですから。」
どうやら私の学校での成績の件を褒めてくれているらしく、嬉しさでふわっと口角が浮き上がるのを感じて、ありがとうございます、と私は素直に笑顔を返す。
先生とのデートの時間には、私の勉強を見てもらうこともあった。
火曜日の学校の授業とは違う、マンツーマンの、私のためだけの授業であった。
さすがのわかりやすさと、それに加えて先生は、教室で行う授業よりゆったりと、私のペースに寄り添った教え方を工夫してくれていたようで、それで成績が伸びないわけがなかった。
ただ、私は先生の担当科目だけが急に伸びてしまう状況を念のため避けておきたかったので、結果一人での勉強時間も自然と増えていた。
そんなところも、先生は気づいて気にかけてくれていたようだ。
なんだかもう、敵わないという心地になる。
誉められて気持ちがお腹いっぱいになっていると、先生が今度は苦笑しながら話を切り替える。
「しかし、やはりいささか気恥ずかしいものですね。実は、人を部屋に招くこと自体しばらくぶりなのです。きちんともてなせているのかどうか、少々不安なのですが。」
私はまさか、という仕草を返す。
先生が誰かに無礼を働いている瞬間など、想像もつかない場面であった。
「あんまり、お友達を誘ったりしないんですか?」
誘いませんねと答える先生は、確かに、あまり住空間を人に侵されたくないタイプの人間に見える。
裏の顔のことを思えば、なおさらであった。
それならばどうして私は、と自惚れたみたいな質問を投げかけたい衝動にかられたが、先生はおそらく、そうした方が良い時期だからそうしただけなのだろうと予想がついてしまったので、喉の辺りを力んで言葉を飲み込んでいると、そんな私の様子を敏感に察した先生が、
「あなたは別ですよ。私が呼びたいと思ったから、あなたの希望を受け入れたのです。」
と私が言ってほしかった言葉をくれる。
先生の家へお邪魔したいという話は、私の方から持ちかけていた。
男女の間柄では普通、大事の起きる重要なシチュエーションかと思うのだけど、先生はきっと、私の方から迫らない限りそういった展開にはしてくれない。
もし本当に迫ったら、きっと私の将来に影響しない程度には、応えてくれると思うのだけど。
そんなことを考えて、あれやこれやをつい想像してしまって、私は鼓動が早まるのを感じて、勘の良い先生に見透かされるのではないかと、余計に緊張して硬直してしまう。
そういうとき、先生は仮面を外すのであろうか。
先生の過去についての謎は、いまだに謎のままである。
私を惹きつけた先生の真の要素がどこにあるのか、その問題はしかし、恋心の進展にはあまり関わりがないようである。
私も私で相変わらず探り続けているのだけど、行動を焦って台無しにしてしまうには、この関係はすでに大切になりすぎていた。
「先生、私先生のこと、好きです。」
改めて口にしたのは、感情が溢れて仕方がなかったから。
やはり、始まりの感情は恋で間違いなかったのだ。
先生のなにが偽物か、本物か、それとは少しも関係なしに、私は本物の愛を先生に向けている。
先生は真剣な様子で、私もですよと、あなたのことを愛していますと、ちゃんと言葉で伝えてくれた。
それがどれほど私の胸に花咲かせたことか、さすがの先生もそこまではわかっていないはずである。
先生の整った顔立ちから目が離せない。
私たちは見つめ合い、やがて顔を近寄せる私のタイミングに合わせて、先生は。
そのとき、先生の背後からささやかな金属音が響いた。
どうしてだか、ただの反射行動なのか、それとも何か重要な直感があったのか、この状況でそちらの方がなんだか気になって、一瞬視線を奥へと移してしまう。
そこには、私の記憶に深く突き刺さったままの、あの出来事に関するカギのような存在。
あの見覚えのある、銀のネックレスが落ちていた。
わたし。彼女の謎
目の前の少女が、泣きそうな顔をしながら言葉をたくさん吐いている。
わたしがここまで激しい感情を直接浴びたのは、いつ以来であろうか。
わたしの目から見た彼女は、素の快活さを少し隠した表立たない冷静な少女。
そしてその正体というべき性質は、己の都合によって辺り一帯を照らし尽くして、都合の悪い細部すら悪気なくつまびらかに証明してしまうような、白色の蛍光灯みたいな印象の少女である。
最初こそ、欲に目をくらませてしまったこともあって彼女を読み間違えたものの、他人の性質を掴むことにかけて、わたしは生まれつき優れていたし、実際それはすこぶる適切な人物評価であった。
そんな彼女が、今回はわたしの中身を照らし出し、垣間見たわたしの本性から、わたしはここで彼女に関して二度目の読み間違いをするのであるが、彼女は目をそらさなかった。
つい先ほどまでは、わたしの話に悲しんだ様子でずっと言葉を詰まらせていて、わたしは彼女が、そのまま無言で立ち去ってしまうものと予想していた。
わたしたちは、まだ短い期間ではあるが男女交際を続けていた。
恋人としてのつつがない日常。
認識のすれ違いから始まったわたしたちの関係を、わたしは己の過失によるペナルティとして受け入れた。
つい、楽な方向へ逃げようと、愚かにも自分から破滅へ歩み寄ろうとしてしまった、わたしの罪、その罰として。
だからこそ、わたしは彼女の求めるわたしを慎重に探りながら、彼女と接することをやめないでいた。
わたしが本心を筒抜けに話したことも、彼女が本音の話し合いを望んだからである。
その結果、彼女は私に対して怒りをぶつけた。
その怒りは、わたしの心情を察した彼女の優しさに満ちた炎であった。
その炎に、わたしは心が溶かされていくような心地を感じて、随分と久しぶりのことであるのだが、わたしは頰が緩むのを隠せなかった。
その先は、また日常に戻った。
彼女とわたしの、二人の日常である。
どうやら彼女はカフェでの出来事に気まずさを感じていたようで、当分の間は、わたしの口数が数割増すこととなった。
彼女の主張は、興奮してたどたどしい口上ではあったが、的を射ていた。
二人で過ごす日常は、彼女の主張した通り、わたしの心に徐々に暖かさを与えてくれていた。
わたしがこうなる以前の状態に戻るのではなく、今のわたしの性質そのものは変わらないまま、少しだけ視線が上向くような、細々とした部分のささやかな変化を、わたしは感じていた。
それはわたしに驚きをもたらして、そしてわたしは、未来を考え始めていた。
彼女と歩く、未来のことを。
そんな矢先に、事件が起きた。
初めて彼女をわたしの部屋に招いた日。
二人だけの空間において、偶然にも落下し、その存在を主張した、わたしの元恋人の形見。
特徴的なシンボルを繋いだ銀のネックレスに、彼女は強く反応を示した。
目の前の彼女の表情が、わたしの背後で響いた物音の先に向いた瞬間、消えた。
彼女の視線の先、物音の正体は、専用のスタンドから落下したネックレスであった。
「……そのネックレスは…。」
彼女の突然の豹変ぶりに対応が遅れるが、もしかすると別の女性の存在を疑っているのであろうか。
安心してください、とそのネックレスがとある人の形見であることを伝える。
ある人というのが元恋人であるということは、今すぐには伝えない方が良いかもしれない。
ここまできて何かを隠す必要もないため、彼女が落ち着いてから過去の事情を話そうと考えていると、彼女はやはり表情を失ったまま音もなく立ち上がって、
「ごめんなさい、今日は……。」
もう帰りますという意図は伝わってきたが、言い切るまでに声が途切れてしまった様子で、彼女は足早に部屋を出ると、靴を履き切らないままドアの先へと消えていった。
彼女の尋常ならざる様子に、つい見送ることもせず固まってしまっていたわたしは、ドアが閉まりきった瞬間から、ようやく時間が動き出したかのように身の硬直が解け、軽く嘆息する。
落ちたままのネックレスを拾い上げ、どうやら支えの部分が悪くなっていたらしいスタンドにひとまず戻しながら、
「これを知るあなたは一体……。」
思い出深いというわけではなく、きっぱりと捨てきれなかった過去から付いてきたそれを見つめて、小さなつぶやきを漏らす。
「わたしは……。」
その言葉のあとに何を繋げたら良いのか、わたしにはどうにもわからなかった。
昔話
私には尊敬する父がいる。
父は、いつもきっかりというような紳士然とした常識人である。
そんな父は、ある日母を捨てた。
母は品の良い奥様というような印象をよくもたれる人で、私は父と同じくらい母を好いていた。
そんな母が、段々と狂っていくまでの過程を、私はその側で見ていた。
母は、母の学生時代の友人だというとある女性と会うようになってから、少しずつおかしくなっていった。
初めは、ただ普段より前向きになった。
父も私も、母が以前より元気になった事実を喜んだ。
母の言動が、なんだか端々に過激さを含むようになった頃、母が新しく宗教団体に加入していたことがわかった。
私は、なんだかわからなかったのだけど宗教と聞いただけでうさんくささを感じてしまったし、父も脱退することを母に薦めたが、母が説明することには、その団体は怪しいものでは決してなく、教えも人間として当たり前の善行を当たり前に行おうという常識的なことばかりであり、それだから脱退する必要なんてないのだと、母はそう主張した。
実際、母の雰囲気が以前より明るくなったことも確かであったし、危険を感じたらすぐにやめてほしいと、それだけ約束を交わして話は終わった。
そのときすでに、私と父が想像するような、危険で過激な活動に母が参加していたことに、私たちは二人とも気がつかなかった。
母は団体内での地位を上げるため、また団体そのものの成長のために、友人の元をまわって入信を誘っていた。
勧誘活動が、相手のためにも良いということを、信じて疑っていないような様子で、しつこく勧めていたそうだ。
思いつく友人を当たり終えたら、今度は父や私の関係者にコンタクトをとろうとするようになった。
いよいよまずいと危機感を感じた父は、母の説得をそれこそしつこく試みて、そうすると今度は我が家で、いまだかつてなかった規模の大喧嘩が始まった。
家庭が崩れ切る直接のきっかけは、母の管理する通帳を父が盗み見たことであった。
子供の私に詳細は伝えられなかったが、結果から考えれば、どういうことがあったのか、なんとなく想像はついた。
結果とは、父が私を連れて家を出たことだった。
その後のことは、私には知らされていない。
母の行方も、今ではわからない。
私は母を恨んではいなかったのだけど、自分から会いにいこう、なんていう気にもそうそうならなかった。
私は、はっきりしたことが好きだ。
物事をはっきりと捉えて、私は私の行動を明確に決定したい。
そんな主義を貫いたまま、私は最後まで生きていけると思っていた。
しかしこの件に関してだけは、曖昧でもやもやとした状態のまま、まだしばらくの間は放置しておくことを決めた。
事の全てを知って、私らしい方法を見つけようとしたとき、きっと私が壊れてしまうというような予感があったからだ。
母のことは私の生涯の命題であり、そしてそれは、未熟な私のまま解こうとするには、あまりに重厚で巨大な壁なのであった。
私、偽物は終わり
「だいたいの経緯は、これで全部話したと思います。」
あの日、私が取り乱して先生から逃げ出した日から数日のち、私は私の過去の話、父と母と、私の家庭が歩んで来た道を、おおかた先生に打ち明けた。
「そうでしたか……辛かったでしょう、話してくれてありがとうございます。」
私の家族の話だけでは、まだ私と先生の真の関係は見えてこない。
だが、私はなんの脈絡もなく、自分の不幸な過去語りを始めたわけではなかった。
先生は、私の気持ちを案じて、慰めの言葉をかけてくれる。
勘の良い先生のことだから、この先の話はすでに察してくれているかもしれないのだけど、私は甘えるわけにはいかなかった。
私は先生に、全てをはっきりと伝えなくてはならない。
脈絡とは、あのネックレスのことである。
「あのネックレス、あれは団体のシンボルです。それはたぶん知っていますよね、団体加入者は最初、必ずあれを購入する必要がある。だから、母の勧誘活動とは、ネックレスを売り歩くことでもありました。」
私は順序立てて説明をする。
躊躇わないように、途中でやめてしまわないように、続ける。
「先生の、恋人のものだったんですよね。」
さすがに驚いたのか、先生は一瞬目を見開いた。
「以前、母が勧誘して入信した人たちのことを、調べたことがあります。その人たちは、私が今後償わなくてはならない相手ですから。私、先生のことを知っていたみたいです。調べたうちの一人の女性、美智さんという方の婚約者として。」
最初に抱いた先生への気持ちは、どうやら恋ではなかったらしい。
先生が、私の償うべき相手の一人であることを知って、私の中では全てに結論がついていた。
先生の正体問題は、全て解決した。
先生のことが最初に気にかかったのは、過去に調べた人たちの関係者として、わずかに残っていた記憶によるものと、それから先生の奥底に見出した闇自体にも、見覚えがあったから。
あれは、母の件を調べている際に、見かけた関係者たちの多くが抱えていた心のしこりやわだかまり、歯痒さによる苦悩と酷似していた。
彼らを見てきた私には、先生の過去を知った今、その類似点を見比べることができる。
というか、彼らを見てきた私だからこそ、鉄の仮面を保有する先生の奥底の闇を、感じ取ることができたのかもしれない。
なんにせよ、私は先生に近づいた。
今思えばそれは、私の命題、母の件に解を得ようとする、私の中の一部がそうさせたのではないだろうか。
身勝手な答え合わせを求める私自身の欲望によって、私は先生との恋愛を、演じ始めたのではないだろうか。
やがて進展した私の感情は、たぶん本物だったと思う。
そうでなければ説明がつかないくらい、先生との時間に、私は激しく一喜一憂を繰り返していた。
でも始まりが、不義理な偽物であったならば、永久に偽物というレッテルが張り付いて取れなくて、罪悪感がタトゥみたいに心に刻まれて消えなくて、私はきっと、最後まで先生に誠実であることができない。
教師と生徒の禁断の恋、だなんて呟いて浮かれたこともあったものだけど、今となっては笑えない。
世間や法律なんてものではない。
この恋を真に禁じていたのは、私自身であったのだから。
私が先生に向けるべき感情は、恋や憧れなんてものでは決してなく、それは後ろめたさや罪悪感でなくてはならないのだ。
加害者と被害者の間の恋愛だなんて、それが幸せに至るはずがなかった。
未来など、あるはずがなかったのだ。
沈黙が続いた。
私はその間、斬首の刑を待つ罪人のような心地で首を低くして、先生の反応を待った。
先生は重く閉じていた口を慎重に開いて、普段より幾分、ゆっくりとした口調で、
「わたしも、わたしのことを話しましょうか。」
と一呼吸おいて、やはりどこかいつもと違った雰囲気で、静かに話し始めた。
「あなたの言う通り、美智はわたしの恋人でした。美智とは婚約をしていました。」
あれだけ求めた、先生の全てを知ることが叶うというのに、もうそんな気になれないのは、目的がすでに達せられたからか、それともここまで来ておいて、まだ私は、私の至った事実とは異なった真実が欲しくて、耳を塞ごうというのであろうか。
私は先生の話をまっすぐに、最後まで真正面から受け止められるよう、体勢を作り直す。
「美智との交際は、大した問題もないまま順調に進んでいました。とはいえ、やはり結婚となると、わたしたちは未来に対して希望と同じ分量の不安を感じていました。美智はその不安に耐える術を求めていた。わたしはそんな彼女に、寄り添いきることができなかったのです。」
先生は、情けないというように肩を落として、暗く苦笑いしながら話を続けた。
「ある女性に出会ってから、美智は救われたような顔つきで、しかしその裏に狂気にも似た強い思い込みを保持するようになりました。思い込みと言ってしまって、差し支えないと思います。少なくともわたしの目からは、そう見えました。」
その感覚には、覚えがある。
しかし、同じ苦しみを分け合うなどと、先生と私の間にそんな想像をすることは、私には許されない。
「あの方が、あなたのお母様だったのですね。」
私の母が美智さんを勧誘し、ネックレスを売りつけ、精神を狂わせるきっかけを与えた。
「美智はやがて、わたしを裏切りました。少なくとも彼女はそう思ったらしい。団体のために、本来は結婚のためにあった蓄えを枯らした。彼女の支えでいてあげられなかった。本当に裏切ったのは、わたしの方でした。」
先生にとっての美智さんは、私にとっての母なのだろう。
先生も私と同じように、大切であった人との過去に、折り合いをつけきれていないのである。
それが先生の闇の正体、それが先生をどう曲げてしまったのか、元々の先生を知らない私に確認する術はない。
後悔と悲しみ、怒りが渦巻き、渦に溺れて身動きが取れないでいる先生の姿を想像する。
先生が溺れているのをそばで見る私は、手を伸ばせば届くような距離から、しかし手を差し出せないでいた。
「彼女が完全に正気を失っていれば、まだ良かったかもしれません。美智は良心の呵責とわたしへの罪の意識から、心を保てなくなりました。もうわたしといることはできないと、全てを綴った手紙を残し、消えました。行方はわかっていません。」
私は、本当は泣いてはいけない立場なのだけど、洩れ出ようとする嗚咽を抑え込むことができなかった。
どうしようにも止まらない生理反応、むせび泣いて周りが見えやない私は、それだから本当に突然のことだったのだけど、固い体に包まれる。
先生が私を抱きしめてくれたことに、少し間をおいて、気づいた。
「すみません、あなたには特に辛い話でしたでしょう。あなたを苦しめるわたしを許してください。わたしはあなたを救いたい。耐えてください。わたしの話に、わたしといることに耐えてほしいのです。わたしはあなたといたい。」
あのときとは逆に、先生が私に多くの言葉をかけてくれる。
やはり先生は、私の欲するものが全てわかってしまう人だ。
先生の吐く言葉は、私の心を潤してくれながらも、しかし罪を忘れてしまえば私が苦しむことを知っていて、あえて重い現実を意識させるような気遣いを孕んでいた。
私を今救うためでなく、私の未来のための言葉を紡ぐ人。
先生の意図とは違うと思うのだけど、先生の、未来のための言葉が、今の私に一生分というような幸福感を与えてくれた。
この私が、こんなにもきめ細かい心遣いをもらってしまって、良いのだろうか。
でも今だけは。
そして、この先はだめだ。
今、この瞬間が私の全てでいい。
これ以上望まないし、きっと先生は否定するだろうけど、私はこれ以上望んではいけなくて、もらってはいけない。
今が全てで、今が最後。
そう思って先生を見つめると、先生は私に静かに唇を重ねてくれる。
本当に、魔法みたいになんでもわかる人だなあと、私は生まれて初めての感触に溶けそうになりながら、むさぼるように先生を求めた。
私、本当へ戻る
あの後、家に帰った私は自室に駆け込み、決意が鈍らないうちに、メッセージ越しに先生に別れを告げた。
本当に勝手でごめんなさいと謝った。
既読の表示を確認してから、私は即座にメッセージ履歴を削除して、スマートフォンを床に投げ捨てて頭の上まで布団に隠れた。
そんなことをしても意味はなく、またそんなことをせずとも先生は、返信のメッセージを送ってくることはなかったのだけど。
来週の火曜日からは、先生と私は男女の仲ではない。
そして元通りの教師と生徒というわけでもない。
私たちの本来あるべき姿は、恨み恨まれる加害者と被害者の関係なのだ。
そして加害者は、被害者に対して、生涯をかけて償わなければならないのである。
わたし。彼女にしてあげられること
あの日。
いつからか愛しさを覚えるようになっていた彼女の全てを聞いて、それまで話すことのなかったわたしの全てを話した日。
彼女はわたしを一度だけ受け入れて、その日のうちに、わたしに別れを告げた。
おそらく、けじめをつけようと考えているのであろう。
そうなると、もうわたしが彼女にしてあげられることは、とても少ないように感じた。
二度と大切なものを失うことがないように、わたしは自分に誓い、自分を戒めたはずであったのに、わたしはまたしても失敗したのである。
わたしたちの関係は、それ以降は教師と生徒という以上の何者でもなくなっていた。
わたしが執り行う火曜二限の授業にも、彼女は普通に現れ、授業が終われば普通に立ち去る。
ただ、以前と変わったこともあって、彼女は意識的にわたしと目線を合わさず、またわたしが見る限りでは、四六時中ずっと考え耽る様子であった。
何を考えているのか、わたしにはわかった。
どうすれば償いになるのか、わたしに対して彼女はどう行動するべきか、思い悩んでいるのである。
明確な答えの存在しない問い、それどころか、彼女に出題されること自体お門違いの問題なのだが、彼女にとっては解かざるを得ない、人生における命題なのであろう。
どこまでもまっすぐで、痛々しい性質であった。
苦しみとは、人と比べるようなものではないが、しかし彼女の苦しみは、わたしなど比べるべくもないほどに、苛烈で重い。
彼女は、母の勧誘活動に関わる人物を調べたと言っていた。
そうすると彼女は、おそらくその当時も同様の思考を繰り返し、結論の出ないままに、思考を放棄する選択をしているはずである。
彼女自身が壊れないための、身を守るための一時的な忘却。
しかしわたしと出会ったことによって、彼女はまた思い出してしまったのだ。
彼女は取り戻してしまったのである。
それはいまだに彼女には早すぎる、今の彼女にとっては自縄自縛の凶器でしかないというのに。
きっと彼女は、気休めの言葉をわたしにかけられたとしても、僅かにも、ブレることすらないのであろう。
私には彼女を救いきれない、この歯痒さの、なんと心の苦しいことか。
しかし、ああいった思考に陥った人間が、心の奥で何を欲するのか、わたしは知っていた。
罪には罰を、制裁を。
彼女の苦しんでいる部分が楽になるためには、わたしは彼女を罰するだけで良い。
それは救いではないが、わたしの言葉の棘の痛みによって彼女は苦しみを忘れ、やがて考えることを忘れるはずだ。
それは一つの解であり、しかしそれは、彼女の本体を殺すも同義の回答であった。
だからわたしは、彼女が欲するものを、あげてやるわけにはいかなかった。
私、わたし。二人の結論
私は先生に償う方法を見つけられないでいた。
何日経っても、何日考えても、先生に真の意味で償うことのできる方法は見当たらなくて、それでも私は探し続けた。
もしかしたら、この思考の迷宮こそが、私に課せられた罰なのかもしれなかった。
私はこのまま、いかにも不幸そうな顔で、この迷宮をさまよい続ければ良い。
いや、しかし果たしてそれが償いであろうか。
私は自己を嫌悪する。
そんなものは、私自身を楽にするための甘言でしかない。
不幸でいれば良いということではないが、少なくとも私が楽になれるような方向は、償いとは反対の道であるように思えた。
今日も私は思考する。
今ではもう、授業なんて聞いてもいなかった。
勉学に励むことは、私が前向きに歩くことに通じるはずである。
学生にとって学業は義務であるが、私にとってそれは、罪を忘れた無責任な行いであるようにも思えた。
だから、最低限学校には出向くが、ただ自己責任によって勉学に怠け、地位や信頼を失っていく。
ひとまずは落ち着いた、それが私の方針であった。
授業終わりの予鈴が鳴る。
先生の授業は、私が先生に別れを告げてから、これで何度目であろうか。
週に一度は同じ空間にいるわけなのだけど、もう顔すら見ることができなかったので、先生の様子はわからなかった。
私に失望し、私を諦め、もしかしたら私が気づいていないだけで、先生の視線は凍えるような冷たさで、つい先ほどまで私を突き刺していたのかもしれない。
それは、以前先生の闇を垣間見たときよりもずっと恐ろしくて、心細い、私を絶望へ追い詰める想像であった。
先生は、やはり私に欲しいものをくれる。
私が苦しんで生きるための材料を、もっと私に恵んでくださいと、私は心の中で小さく唱えた。
少し考え事をして長居し過ぎたらしい。
他の生徒たちは、すでに各々の教室へ戻った後であった。
先生の姿も、もう見えない。
それまで知る機会がなかったのだけど、どうやらこの時間ここは空き教室となるようで、次の時限の開始予鈴が鳴ってからも、誰一人訪れない私一人だけの空間となっていた。
授業に遅れることは今更構わないが、ここにい続ける意味もなく、席を立って一度机を覗くと、奥に何かがチラリと光った、ように見えた。
私の忘れ物ではないが、気になってスマートフォンの光をあてると、それは控えめに反射して応えてみせた。
手を伸ばすと、その下に紙の感触もあり、私が紙ごと反射の元を取り出して見ると、それは銀色の指輪であった。
その指輪には、見覚えがあった。
これは、正確には指輪ではなく、私と先生の過去、あのネックレスを分解した一部。
どうしてこんな……。
最初はわからなかった先生の意図は、添えられていた手紙によって、私の中に、じわりと暖かく溶け込んできた。
「大切なことを手紙越しに伝えようとする、わたしの行いを許してください。
わたしには、あなたのことがよく見えている。
あなたがもし、罪の清算を求めているのならば、どうか続きを読んでください。」
罪の清算。
その方法を、私はずっと考えていた。
「あなたは、不幸になろうと考えているのではないでしょうか。
幸せが過去を忘れさせて、時間が己を許してしまう可能性を、恐れているのではありませんか。
わたしたちは過去にとらわれています。
今現在、何事にも意欲を失っている様子のあなたと、わたしがあのネックレスを手放せなかったことは、その証拠です。
過去の過ちを忘れてはならない、しかし、過去に縛られて未来へ進まないことは、決して償いにはなりません。
それは怠惰と呼ぶものです。
あえて義務と書きますが、わたしたちの義務とは、償うこと、償うために前へ進むことです。
わたしたちは幸せにならなくてはならない。
あのとき、わたしに未来はあるのだと、力いっぱい叫んでくれたあなたに。
わたしの未来を望んでくれたあなたに、わたしも、同じように未来を望みます。
今のあなたは、きっとこれを伝えても、考え続けることをやめないのでしょう。
それならばせめて、どうかこの指輪を受け取ってください。
それはわたしたちの過去の象徴、あのネックレスを壊して作り出した一部です。
いつの日か、わたしはきっといつまでもあなたを待っていますから、いつの日かその指輪に代わって、あなただけのための、未来の指輪を、わたしに贈らせてください。」
手紙にはそう書かれていた。
私は苦しくて、涙が溢れて止まらなかった。
その苦しさは、ついさっきまで、一人孤独に感じていたものとは違う、溺れるくらい溢れる幸福感に息を詰まらせてしまうような苦しさであった。
先生は、私の考えを認めてくれて、その上で私を守ろうとしてくれるのだ。
私の未来に、先生がなってくれるというのである。
先生がそう言ってくれるのなら、やはり私は、考えることを続けよう。
私は相変わらず母のことを、償う方法を探し続ける。
でも、そのために過去にとらわれることは、もう二度とやめようと思う。
未来を自分から諦める方法は、解にはなり得ないということを、先生が私に気がつかせてくれたから。
過去にとらわれるのではなく、ただ、過去は背負って歩けば良いのである。
罪を背負って、未来へ向かって歩けば良い。
今回、先生は初めて私の欲するものをくれなかったようだ。
結局先生は、私に償わせてはくれなかった。
代わりに無骨な指輪、先生の過去の、砕いた一部をくれた。
私にはこの指輪の意味がわかった。
私たちは過去を打ち砕き、過去を引き連れて、未来へと進む。
先生に対して償うのは、もっとずっと先のことになるのかもしれない。
でも、それで良い。
なぜなら先生はいつまでだって、私を待ってくれるというのだから。
こっそりと薬指にはめてみた銀の指輪は、少しきつくて、私は小指にはめ直すことにした。
ここにはめるための指輪は、まだ、しばらく先の未来で待っている。
私の進む贖罪の道を、銀色の光で照らしてくれながら。
私、そのあと
それから私は、過剰に先生を避けようとはしなくなった。
たまに目が合うたびに、うっすらと赤面してしまう程度の、一般的な女子生徒の振る舞いに、自然と戻っていた。
この感情は恋である。
先生や、母と関わった人たちに対する今後の方針は、ひとまず保留とすることに決めた。
結局のところ、この問題を解くためには、やはり私は弱すぎたのである。
今はまだ。
私は未来のために、知識と力を蓄えなくてはならない。
いつか私が今いる場所より前進して、私自身が過去と正面から向き合えるようになったとき、そこから私の贖罪が始まる。
不安はある。
許されないかもしれない。
罵られるかもしれない。
救いのない道を、永遠と進むことになるのかもしれない。
でも、私は私がするべきだと思う贖罪を、ただ続けるだけである。
たとえ間違えても、くじけそうになっても、私は未来へ向かって生きることだけは絶対にやめない。
先生にもらった言葉が、私をいつまでも立ち上がらせてくれる。
先生が待ってくれている。
その事実だけで、無限の勇気が湧いてくるような気がした。
はっきりさせたい主義なのですが