優しく触れて

前田 文秋

  1. 第一章 田舎町
  2. 第二章 小都会
  3. 第三章 幼馴染
  4. 第四章 才能
  5. 第五章 洋子の気持ち
  6. 第六章 孤独な魂
  7. 第七章 軽蔑
  8. 第八章 二人はどうして三人になったか
  9. 第九章 水曜日の放課後、図書室にて
  10. 第十章 千広の恋
  11. 第十一章 疑惑
  12. 第十二章 傷つけ合う
  13. 第十三章 愛に触れる
  14. 第十四章

 私がなぜ、一人の少女の青春時代のひとときを物語るつもりになったのか。私は青春の瑞々しさを賛美する者ではないし、一人の少女の青春時代を微細な点まで語り、世間ののぞき趣味を満足させるつもりもさらさらない。私が彼女の物語をしるすのは、世間にとっては取るに足りない一瞬間でしかないが、彼女の精神にとっては決定的な時間であったこのときを、私一人の記憶の片隅だけにとどめたまま、私が墓場におもむくことを惜しいと思ったからだ。彼女の物語をここにしるすことで、彼女の魂に共鳴するこのできる少数者のうちに、彼女の魂の灯火を新たにともし、ひとつの魂の明かりを絶やすことがなくなるならば、私がこの物語をしるすことは無駄ではなかったことになろう。

第一章 田舎町

 これから読者諸君にお話しする物語は、今世紀のわずか一年たらずのうちに、この世界のほんの片隅で起こったことに過ぎない。ところで、この片隅は、近代の有する人工化の浸食作用のまだ行き届いていない町であった。天より降り注ぎ、生命を育む光をさえぎる高層建築物は、まだその地に根を張っておらず、人間に恵みをもたらす青い海と緑豊かな田畑に囲まれた町。ありていに言えば、そこは海沿いの田舎町であった。
 この田舎町に昔から居を定める住民の大半は、人々に大いなる恵みをもたらしながら、ときには牙をも()く海と大地から、生活の(かて)を得て暮らしてきた。しかし、この町も今では、こうした田舎の町の多くがたどることになる運命の数々の例に洩れず、この町から車で二、三十分の距離にある小都会から、この町で教育を受け、この町の将来を担う能力のある若者たちを奪われてしまい、衰退の一途をたどりつつあった。
 もしも、この町に暮らす人々を養ってきた海と大地を、新たな方法で活用する賢い人間がこの土地に現れなかったならば、この田舎町も、とうの昔にさびれてしまうか、近隣の小都会に呑み込まれてしまっていたに違いない。田舎の人間の知恵は、自分たちの母である海と大地を、商品として余所者に売り出すことを考え出した。船上の男たちの仕事場であった海は、たちまち海水浴場に様変わりし、今では小さな漁港が点々と残っているだけになった。また、種を()き、苗を植える大地は、その深層に溜めこまれたマグマの熱によって温められた地下水を湧き上がらせるために、無残にも掘り起こされ、温泉街が田畑の代わりに大地を覆うようになった。この田舎町はその母を売ることで、近隣の小都会のもつ浸食作用から、自分自身を守ることに成功したのであった。
 この田舎の温泉街に(のき)をつらねる旅館の中でも、ひときわ立派で、ひときわ古い一軒に、これからたびたび 我々は足を踏み入れることになるだろう。この数寄屋(すきや)造りの純和風の温泉宿は、この温泉街の歴史を体現しているといってよい。温泉街の成り立ちは、江戸時代にまでさかのぼることができる。この温泉街の始まりは、荒海と大地を相手に日々の糧を得る町の住民たちの、疲労した骨身を癒す為の共同浴場の開湯であった。共同浴場の噂を聞きつけた湯治客が、遠方から徐々に足を寄せるようになると、町には温泉宿が次々と出現した。
 これから我々が足を踏み入れようとするこの温泉旅館は、江戸時代以降に建てられた温泉宿のうちのひとつとして、この田舎町に暖簾(のれん)をあげた。残念ながら、戦後の高度経済成長に伴う過疎化の波を受け、先祖代々の由緒ある旅館の多くは、跡取りがいないなどの理由から廃業に追い込まれていった。しかし、幸いなことに、我々が目の前にしているこの温泉宿は、幾度か改築をなされながらも、昔ながらの姿を今に残しながら、この温泉街の隅でその暖簾を掲げつづけてきた。たしかに、この宿の見た目にはかなりの年季が入っているが、決して古びてはいない。そもそも、古びるという言葉は、高度経済成長期に建てられた安ビジネスホテルにはぴったりの言葉ではあるが、この数寄屋造りの日本宿には全くそぐわないものだ。現代の入り込む以前の建築は、そこに人が住まい、使用され続ける限り、決して古びることはない。
 この温泉宿を訪れるもののほとんどは、まず、かつての日本の姿を記録したこの宿構えを前にして、〈ああ、なんと日常から遠いところに、私はやってきたことだろうか!〉と嘆息(たんそく)を洩らし、自身の心構えをすっかり非日常を過ごすのにふさわしいものへと切り替えることであろう。簡単に言うなら、大変リラックスした心持ちになることであろう。今なお生きつづける、かつての日本の姿を映し出す旅館を前にして、呆然として足を止めるものの背後から、宿の真向かいに面する波打つ青い海から吹く白い潮風が、まるで()かすかのように、固まった背中を後押しし、立ち尽くすものをして宿の暖簾をくぐらせる。
  ところが、この年季の入った日本宿のもつ作用をものともしないものが何人かいた。その数には、まず、この立派な旅館の一部を住まいとして生活している、支配人一家が含まれていることをひとこと申し上げておこう。それに加えて、今一人の少女が、浜風が吹こうと吹くまいと一向にお構いなく、風情ある数寄屋建築と、年季の入った暖簾に脇目もふらず、足早に宿の裏手へと回っていくのを、我々は目にする。
 彼女のすっかり着慣れた濃紺色のセーラー服の後ろ姿から、彼女はどうやら女子高生らしいことが分かる。温泉宿の構えのもつ威力をものともしないその脚は、たくましくはあるが、決して太すぎることも細すぎることもない、日ごろの運動により鍛えられた脚らしい。浜風によってなびく髪は、女の子としては短めで、少しくせ毛気味なのか、毛先に行くほど波打ちながら風に揺らされており、春の晴れた空から降り注ぐ陽光によって、栗色に輝いている。彼女の背中を押しそこねた風は、栗色の髪を払いのけて、彼女の横顔が我々の眼にしっかりと映るのに、大いに役立ってくれている。海辺の田舎娘らしく肌は少し日に焼けているが、彼女の年齢にふさわしく、その自然のままの美しさをもっとも発揮しているころの肌だ。自然な弓なりを描いている眉の下には、髪と同じ栗色をした瞳をその内に宿している、垂れ気味のくりっとしたかなり可愛らしい大きな眼が、これから待ち受ける楽しみを前にして輝いている。その眼の輝きと呼応するかのように、下唇のふっくらした肉感的な唇は、両端を斜め上にあげ、彼女の横顔に笑顔をもたらしていた。可愛らしい眼と唇とは対照的に、鼻は大人びており、なかなか高く、筋が良く通っている。その横顔は非常に均整がとれており、彼女と同年代の女の子なら、誰もが(うらや)む顔立ちであると評することができよう。我々の目の前を通り過ぎていったこの横顔は、一体どのような人物であるのか。それを説明するために、我々にとっては まだ非日常な空間である この海辺の温泉宿から、近隣の小都会の方へと、いったん目を向けることにしよう。

第二章 小都会

  小都会。この都市の様子を細々と説明する必要はない。どこの小都会に行ってみたところで、いつも目にするのは同じような様子の街並みだ。都市の中心部にあるのは、全国チェーンの飲食店やコンビニ・娯楽施設、地方発の中型スーパーマーケットに、小都会で最大の集客力を誇る大型ショッピングモール。加えて、どの建物も幾分古びているときた。周辺の住宅街に目をやると、どれも似たような造りの一戸建てが鈴なりになる団地。おまけには、子どもたちに見放され、さびれた公園付きだ。
 この均質な小都会の中の、均質な住宅街の中の、どこにでもありそうな二階建ての一戸建ての前に、我々は今やって来た。ダークグレーの瓦葺(かわらぶ)きに、一面真っ白に塗られた外壁はすでに少し汚れ始めているが、まだそれほど古いものではない。この一戸建て——安海(やすみ)家——の家主は、丸太のように太い腕周りに、六尺を優に超える身の丈をもった、年は四十代半ばほどの船乗りで、時代がもっと昔ならば、親しみと畏敬の念をこめて「安海の親父(おやじ)」と呼び慣らわされることになっていただろうが、彼が操る船は、荒波を越える漁船ではなく、穏やかな波を往く会社所有の大型遊覧観光船であったため、周りからはいつもただ単に「安海さん」と呼ばれていた。彼の妻は、この大男と比べてずっと小柄ではあったが、家計と夫を十分に操縦するだけの気の強さをもった女性で、歳はようやく四十を超えたばかりであった。しかし、彼女の若々しく可愛らしい顔立ちだけを見たら、まだ三十代前半であると勘違いしてしまってもおかしくはなかった。
 安海の親父は、旅先案内人の頭として大海原に一度旅立つと、一週間以上は家を留守にすることがしょっちゅうであったし、小柄な奥さんも、彼女は小都会の保育園に保育士として勤めていたため、家にずっといるわけにはいかなかった。両親が家を留守にしがちではあったが、いや、むしろそうであっただけになお、この仲(むつ)まじい夫婦の一人娘であった洋子(ようこ)は、両親の愛情を余すところなく一身に受け、すくすくと育っていった。
 時刻は、午前六時三十分。太陽はとっくこの小都会の中の灰色の屋根瓦を明るく照らしていた。早起きな小鳥たちは好きずきに歌いさえずりまわっている。その小鳥たちにも負けずと早起きな母親の声が、安海家から派手に洩れ聞こえ、小鳥たちの歌声に混じり、朝の爽やかな空気を振動させた。
「洋子っ! さっさと起きなさい! お母さん、もう仕事に行っちゃうわよ。」
 目覚し時計の金属音が、虚しく空気を震わしてからきっかり三十分後、この肉声は、洋子の精神を夢うつつの状態から現実へと呼び覚ました。
「やばっ! また寝坊じゃん!」
 この覚醒の一声とほぼ同時に、声の主の(ぬく)もりをまだその中に保ったままの、水色のカバーに包まれた綿の塊が軽快に宙を舞った。一晩の間、十六歳の少女の肉体を温めていた布団が無残にも蹴飛ばされ、一転して地へと落とされたときには、「ドドドドッ」と、少女が階段を駆け下りる重低音が、小柄な母親のいる玄関にまで響き渡ってきた。
「階段から転げ落ちても知らないわよ?」
「大丈夫だって。」
「朝ごはん、ちゃんと食べなさいよ。」
「はーい。」
 玄関の扉がガタンと大きな音を家中に響かせ、母親が仕事に出かけたのを耳にしてから、洋子はダイニングテーブルの上に用意された朝食を目にするが早いか、グラスを手に取り牛乳を勢いよく飲み干すと、バターのたっぷり塗られたトーストを片手にパクつきながら、ボサボサの栗毛を整えるために洗面所に向かって、一瞬間(ゆる)められていた歩みを再び速めた。
 だが、これ以上少女の朝の営みをこと細かに叙述したとて、いったい何の意味があろう? 要するに、洋子は急いでいた。七時五分発のバスに乗り遅れないために、七時までには家を出なければならなかった。彼女の用意していたはずの時間の、半分の時間で朝の支度を終えなければならなかった。とはいえ、頬紅がかえってその美をそこねることになる年齢の少女にとって、これはさして大した難題ではなかった。それに加えて、田舎の路線バスというのは、朝寝坊の少女に対しては寛容な態度をとってくれるものだ。いつもこの時間に乗ってくる少女のために、わずか一分ほどの時間を()いてあげることくらいどうだっていうのだ?
 洋子が通う高校は、この小都会にではなく、我々にとってすでにお馴染(なじ)みのあの田舎町の、小高い丘の上に建っていた。だからといって、布団を床の上ではなく、寝台の上に納まるように気を遣ってやってたとしても、また、ダイニングテーブルに備え付いているはずの椅子に、その本来の役割を果たさせてやったとしても、田舎町の丘の上から鐘の音が鳴り渡る前に、洋子は丘の頂上にとっくに到着していたに違いない。というのも、安海家は、小都会の中でもその中心部から少し外れた、田舎町寄りの海岸沿いに立地しており、洋子の家から田舎町の高校まで、バスを走らせて三十分と少しといった距離しか離れていなかったからだ。
 七時五分より一、二分遅れで、安海家から最寄りのバス停を出発したそのバスは、田舎町の温泉街の一角の海岸通りにある、()びついたトタン屋根と、そのトタン板の真下で、白アリが巣食っていてもおかしくはない、汚い木製のベンチの前に停車した。バスは、車中ですっかり息を整えたこの愛すべき少女を、ボロ屋根の前に降ろしてから、バス停をあとにした。
 このトタン屋根のバス停——恐ろしく汚いが、田舎の風景を知っている大人たちの胸を、郷愁と追憶の念で()きむしらずにはいない——を尻目に、海岸通りに立つと、海から吹きつける風をうけて、眼はそれ自身が属している顔ごと、ときおりタイヤとアスファルトの()れる音を届けてくる方へと自然と向けられる。道路の向かいには、背の高い塊がポツポツと立っているのが見える。この建造物の大半は、四、五階建てのその構造から、どうも一般の住宅ではなさそうだ。それらは実際、古びた温泉付き宿泊施設であった。これらの宿泊施設の染み付いて古びた壁々から目を背け、潮の香りと波の音の届いてくる方角を見やると、白のペンキでべっとりと塗られた、腰の辺りほどまでの高さのあるガードパイプを越えた先に、木々の緑を浮かべた、真っ青な水平線と、白色の雲もまばらな水色の大空が我々の視界を満たす。視線をもう少し下に向けたならば、青が途切れたところからペンキの白まで、灰色の陰気な砂浜が広がっていることに気づくだろう。夏の盛りにはそれなりの活況を見せるこの砂浜も、春のこの時分にはさすがに閑散としていた。
 この海岸通りを、目的地をはっきりと定めた足取りで、洋子はどんどん進んでいった。洋子の視線は、車通りの途切れがちな車道をずっと飛び越え、一軒の家屋をしかととらえていた。洋子の視線がとらえて離さないその建物は、周辺の背の高い宿泊施設と比べると、せいぜい二階までの高さしかない数寄屋(すきや)造りの建築で、淡白色の小石を敷き詰めた庭にそびえる松の木々に隠れるように、道路から少し奥まったところに構えていた。しかし、その建物は、周りの背ばかり高い温泉付き旅館とは比べようもないほどの風格を感じさせた。この風格を備えた日本家屋こそ、すでに紹介したあの年季の入った日本旅館であった。そして、あのとき宿の前で見かけたあの可愛らしい栗色の髪をした少女こそが、ただいまこの海岸通りをずんずんと歩いていく、洋子その人に他ならなかった。とうとう我々は、一時間ほどのときをへて、栗色のくせ毛が浜風に波打った、あのときへと戻ってきたのだ。

第三章 幼馴染

 旅館の裏手に回った洋子は、宿に併設するように建つ、これまた古そうな一軒の家屋の、両引き込みの和式扉に、慣れたように両手をかけ、ガラガラと音を立てながら、家の中へ身体(からだ)をすっと滑り込ませていった。
「千広ちゃーん。」玄関先に立った洋子が、大きな声で誰かの名前を呼んだ。
「はーい。」
 洋子の声にこだまするかのように、晴れ渡った声が一人の少女を殿にして、階段を下りてきた。
「おはよっ。」
「おはよっ、洋子ちゃん。」晴れた声が洋子に答えた。「あがって、あがって。」
 洋子を出迎えたこの少女は、洋子と同じ濃紺色のセーラー服姿と、その応対の砕けた口調から、洋子と同じ高校に通う、洋子と同学年の女子高生であるということがわかった。この少女のミディアムショートの真っ直ぐな髪は、洋子の栗色より暗めの焦げ茶色をしており、その色は、少し下がり気味の眉の下に位置する、洋子のそれよりは少し小さめな、くりっとした垂れ目の中心で、鈍く輝いている瞳と同じ色をしていた。この垂れ目と、洋子の唇よりは肉感を感じさせない、薄めの唇に挟まれた鼻は、少し低めで小さく、彼女の顔立ち全体に幼い印象を加えていた。
 洋子が今朝七時五分発のバスを一分ほど足止めさせた理由は、洋子の親友であり幼馴染でもある、このあどけない顔立ちをした少女——高地千広(たかちちひろ)——の存在であった。洋子が平日の朝早くのバスに乗って、千広に会いにいく習慣は、二人の高校生活が始まって以来、すでに二年目を迎えていた。この少女たちの了解ごとを、あらためて言葉にするまでもなく承知していた千広は、洋子を自分の部屋に案内するために、洋子に背を向け、今しがた来た道を引き返し始めた。手すりに手をかけ、二人の少女たちが階段を一段一段とあがっていく途中、一人の女性の落ち着いた声が、この少女たちのもとまで上がってきた。
「あら、洋子ちゃん。おはよう。」
「おはようございます。万愛(まえ)さん。」洋子は、この歳上の女性に対する礼を失しないながらも、十分な親しみがこめられたにこやかな声で答えた。
「千広ちゃん、髪の後ろのところ、少し跳ねてるわよ。」
「嘘っ! さっき会ったとき、どうして言ってくれなかったのさぁー、万愛姉(まえねえ)。」
 妹とは正反対の落ち着いた声と、いっそう落ち着いた印象を与えている黒髪の持ち主であるこの女性は、歳は妹と三つ違いで、どうやらこの温泉旅館の仲居らしく、着物を身にまとっていた。万愛は、この温泉宿を代々営む高地家の長女であり、旅館の跡取り娘として、高校を卒業してすぐに家業の手伝いを始めた。この老舗(しにせ)旅館の主人は、彼の長身痩躯(そうく)で貧相な容姿とは対照的な小柄で丸い顔をした可愛らしい妻との間に、これまた可愛らしい二人の娘を授けてもらったことに対して、ひそかな不満を抱いていた。実は、彼は旅館を継ぐ男の子が欲しかったのだ。というのも、婿(むこ)養子としてこの老舗の暖簾(のれん)をくぐったこの寡黙(かもく)で気立ての良い男は、江戸時代より続く由緒正しい老舗の暖簾と、先代に当たる厳格な義父——婿養子を取ってしばらく、寡となったことからこの頑丈な男は、生来の頑固という徳をより確固なものとした——のもとで、もともと狭い肩身がなおのこと狭くなる気がしていたので、自分の跡取りになるであろう娘婿に同じ思いを味わせたくなかったのだ。とはいえ、頑固親父(おやじ)も、可愛らしい孫の笑顔を前にしては、その態度を軟化させざるを得ず、彼の細い肩も老舗の暖簾の重圧に慣れてきたため、孫の成長を見届ける前に他界してしまった頑固親父の分も、彼はいつも穏やかな妻と一緒になって、静かな愛情を娘たちに注いできた。この両親のもとで、万愛はしっかり者の姉として育ち、今の千広の年ごろには、女性として家を継ぐ意思を両親に伝えた。だから、妹より勉強のできた姉は、高校を卒業するや否や、幼いころから見慣れていた仲居の制服をその身にまとったのだった。
 彼女の仲居姿を背にして、二人の少女たちは一列に階段を上った。ちょうど先頭を行く少女が、しきりに後頭部に手をやりながら、すぐ後ろで苦笑いをしているもう一人の少女に対して、はるか背後に置いてきた女性への愚痴の言葉をこぼしているところであった。
「もぉ、万愛姉ったら、意地悪なんだから。」
「まあまあ、全然大した寝癖じゃないし、(くし)でといとけば大丈夫だって。ちょうど私、もってきてるし。」
「さすが、洋子ちゃん! やっぱ優しいなー。」
「そんなことないってば。」
 そんな会話を交わしているうちに、姉への不満も忘れてしまった千広は、すでに階段を上り終え、自分の部屋につながる扉の取っ手に、その右手をかけていた。だが、我々まで少女の部屋にあがりこむことは遠慮しておいた方が賢明であろう。少女たちの雑談を文字に起こしたところで、いったいなんの得があろうか? それは悪趣味というものだ。幼馴染たちが話に花を咲かせている間に、我々の方では、花の蜜のように甘い、あの幼い日々の回想に(ふけ)ることにしよう。

 幼いころ、千広は海を怖がっていた。この底を見透かすことのできない、()の光をも呑み込む深い青色の中に一度身を沈めれば最後、二度と浮き上がってこれなくなるのではないかと、千広は幼心に恐怖を抱いていた。かつてテレビでその姿を見た日の夜は恐怖で眠ることができなかったのだが、あの大口を開いて海水を呑み込む、亡霊のような白色をした巨大な怪物(それはシロナガスクジラのことであった)のように、海は彼女をひと呑みにしてしまうかと思われた。すると、その腹の中で息をひそめていた亡者の群れが、暗闇に囚われた彼女の小さなくるぶしを一斉につかみかかってくるに違いない!(姉にゾンビ映画を見せられた日の夜も、彼女はやはり眠れなかった。)そんな臆病な千広のことを、姉の万愛は、たくましい笑い声を挙げていつも馬鹿にしていた。『そんなのいやしないって、本当に千広は怖がりなんだから。』
 だが、この姉と同い年の、もう一人の日に焼けた少年は、千広のことを決して馬鹿にしたりはしなかった。反対に、彼女の背中をいつも押してくれた。
『大丈夫だって。怖くねえよ。海は俺たちの友達なんだって、いつも父ちゃんが言ってたぜ。』
 この少年——天沢翔太(あまさわしょうた)——は、真っ白な歯を唇の端から得意そうにのぞかせながら言った。海は友達だと少年に教えてくれた彼の父親は、田舎町でダイビングショップを営んでいた。翔太少年は、この田舎町の少年たちを取りまとめる総大将の地位にあった。彼と同輩の腕白(わんぱく)小僧たちは、この白い歯の、男らしい顔付きをした少年のことをこぞって崇拝していた。彼がこの狭い田舎町の腕白どもの崇拝を一身に集めるきっかけとなった事件とは、こうであった。
 この近所から自転車を走らせて五分ほどの距離に、ある神社が建っていた。その神社の建物自体は、背の高い林の中にひっそりと(たたず)んでおり、外からは(うかが)うことはできなかったが、本殿はなく、年季の入った古い拝殿がひっそりと建っているだけの質素なものであった。この鬱蒼(うっそう)と生い茂る鎮守(ちんじゅ)(もり)を有する神社は、少年たちの恐怖心を掻き立て、いつしかお化けの棲家(すみか)として、この田舎町において代々、(くちばし)の黄色い連中に言い伝えられるようになっていた。ある日の夕暮れどき、肝試しのためにこの神社の鳥居の前に集まった腕白小僧どもを差し置いて、翔太少年はたった一人でこのお化けの棲家に踏み込み、その腕以上に顔を真っ白にした腕白どもの前に、無事な姿を再び拝ませたのだった。この武勇伝に加えて、翔太は、この田舎町の誰よりも速く泳ぐことができたことと、誰も見たことのないほど大きなクワガタを捕まえる方法を心得ていた(あのお化けの棲家にそびえる背の高い木々は、大きなクワガタたちの棲家にもなっていた)ことのために、彼に下剋上(げこくじょう)を起こそうなどという無謀なものは、この田舎町の子どもの中には一人もいなかった。
 高地家の奥さんが翔太の母と仲良しであったことから、万愛(まえ)は幼馴染として、この同い年のガキ大将と肩を並べてよく遊んでいた。そのため、千広は姉と一緒にこの少年としばしば遊んでもらっていた。千広は、姉が翔太少年を誉めそやし、自慢にしているのをよく聞かされていた。特に少年が泳ぎの上手いのを、姉はまるで自分のことのように自慢にしていた。千広は、翔太少年のように海を泳ぎまわり、この二人に自分を認めさせてやりたいと思った。ある日、とうとう千広は、母にその希望を思い切って告げた。それを機に、千広は母に連れられて、小都会のスイミングスクールに通い始めた。
 いつも隣に付いてくれていた姉や、背中を押してくれた翔太少年がそばにいなかったので、千広はスイミングスクールの子どもたちの輪になかなか入れなかった。それでも、プールの中にはなんとか一人で入れるようになった。ついに、ある晴れた夏の日、千広は翔太と姉の前で、深い紺色をした海の中に、派手な水しぶきを上げてその身を思いっきり投げ込んだ。数秒間の深い沈黙のあと、固唾(かたず)を飲んでいた万愛と翔太の眼には、海面を突き破り、生まれ変わった一人の少女の頭が現れるのが映った。翔太も万愛も、大喜びでこの少女のもとへと飛び込んでいった。もう海は、千広を吞み込もうと待ち受ける怪物ではなかった。その日から、海は千広の友達となった。
 それ以降、千広の臆病な心はすっかり溶けてしまった。スイミングスクールの子どもたちともすぐに仲良くなれた。少女は生まれて初めてその小さな胸に、我々が誇りと呼ぶ感情を抱いた。《もう万愛姉の背中に隠れなくたっていいんだ! 翔太(にい)ちゃんに背中を押してもらわなくたっていいんだ!》この芽生えたばかりの感情を仕舞っておくには、少女の胸はあまりにも小さ過ぎた。千広は、この気持ちを誰かに分けてあげたいと思った。その誰かは すぐに見つかった。その誰かは、プールサイドの隅っこで、栗色のフサフサした髪の毛を 膝にうずめながら、その小さな肩を震わせていた。

 その日、洋子はその小さな胸の中を、両親への恨みで一杯にしていた。《パパもママも、もう洋子のことが好きじゃなくなったんだ。だから、こんなところに洋子を置いてけぼりにしたんだ。…もしかしたら、もう迎えにも来てくれないのかもしれない。》そんなことを考えていると、自分にこんな仕打ちをした両親への恨みの気持ちはどこへやら、絶望のために涙が止まらなくなってきた。とうとう少女は、絶望とともにその顔を膝にうずめてしまった。
 もちろん、安海(やすみ)家の仲(むつ)まじき夫婦は、その娘のことを嫌いになったわけではなかった。相変わらず、娘のことを宝物のように大事にしていた。あるとき、両親は自分たちの宝物に何か習いごとをさせたくなった。宝物を宝箱の中にそっとしまっておくだけでは、もったいないではないか。宝物は陽の光を浴びてこそいっそう輝きを増すものだ。この夫婦はきっとそう考えたのに違いない。ところで、この二人の大人が、自分たちもかつては幼い子どもであったということを、すっかり忘れていたことは言っておかねばならない。二人は、幼い子どもはただ愛されるだけで充分に幸せであるということに思いも寄らなかった。ある日、小柄な保育士は、久しぶりのお出かけに浮き立つ娘を車に乗せて、近所のスイミングスクールへと向かった。
 洋子は水が嫌いであったわけではなかった。洋子は海が大好きであった。父は時間があれば、洋子をしょっちゅう海に連れて行った。泳ぎの上手な父のおかげで、洋子は幼いころから、海を小さなイルカのように自由に泳ぎ回ることができた。一人で留守番をするときには、子供部屋のベランダから、どこから見つけてきたのか、手ごろな台に小さな両足をのっけて、はるか彼方(かなた)まで広がる紺色の水平線を眺めて半日を過ごすこともあった。だから、プールの中に入って泳ぐことは、洋子にとっては何でもないことであった。ただ、誰も知っている人のいない場所に、一人置き去りにされたことが不安で(たま)らなかった。特に、自分より大きな子どもたちが怖い顔をして水面を睨んでいるのを見ると、輪にかけて不安が増してきた。そのせいで、自分の周りではしゃぎまわっている子どもたちまで、とても意地悪そうな顔つきをしているように思えてきた。不安にさいなまれた洋子は、終いには人目を盗んで、プールサイドの片隅に逃げ込んでしまった。
 ただ一人の少女だけが、小さな肩を小刻みに震わせながら片隅で小さくなっている洋子に目を留めた。この少女は、その胸から(あふ)れてしまいそうな気持ちが(こぼ)れ落ちてしまわないように大切にしながら、その片隅へと駆けて行った。自分の頭の前に誰かが足を止めたことを感じた洋子は、涙に濡れた目を上げた。ぼやけた視界に、一人の少女が胸に手を当て、すっと息を吸い込んでいるのが映し出された。(またた)きの間、頭上から勇気に満ちた声が降ってきた。
『こんなところで、どうしたの?』
 これが、洋子と千広の最初の出逢いであった。

第四章 才能

 楽しい時間は速駆ける駿馬(しゅんめ)である。さっきまで雑談に(ふけ)っていた幼馴染たちは、学校行きのバスにもう少しで乗り遅れそうになった。万が一これを逃したとしたら、次のバスがやってくるのは、ちょうど一時間後になってしまう。
「ふぅー。危うく乗り遅れるところだったよぉ…。」息も切れ切れに千広が洩らした。
「本当にねー。」と相槌(あいづち)を打つ洋子。少女たちを乗せたバスが、遠目に見える小高い丘の(ふもと)に到着するまで、もうしばらくの時間があった。少女たちは呼吸をもとどおりに整えると、再びよもやま話に花を咲かせた。
 丘の麓のバス停に降りると、ベージュ色の壁をした校舎を(いただき)にして、坂道がずっと上まで伸びているのが目に入る。坂道を登りきると、かつては真っ白であったのだろうが、今では茶色く錆びついてしまっている鉄門が、半開きになって我々を出迎えてくれた。その先からは、これまたすっかり黒ずんだベージュの壁面に設置された大時計が、我々を見下ろしていた。大時計の二本の針は、八時二十五分を指していた。濃紺色のセーラー服に身を包んだ女の子たちと、黒の学生服に身を包んだ男の子たちが、大声をあげながら、錆びついた正門をどんどん走り抜けていく。あと五分もしないうちに、高校生活の一日の始業の時間を告げる鐘が田舎町に響き渡ることを、彼ら、彼女らはわかっていた。
 洋子と千広が、バタンと大きな音を立てて扉を開け、教室に駆け込み、同じ教室にある自分たちの席に腰を下ろして一分もしないうちに、鐘の音がこの古びた建物全体を揺らした。
「ふぅ。ギリギリセーフ。」教室の窓際の一番後ろの席に腰を下ろした洋子は、鐘の音を聞きながら(つぶや)いた。
「いつもギリギリだよねぇ。」洋子の前の席に座っていた、明らかに自分で染めたらしい茶色の長髪をした女子生徒が、笑いながら後ろを振り返った。「洋子って、本当朝弱いよねー。」と、他の女子生徒。
「そんなことないはずなんだけどなー。」
 笑いに包まれる教室。鐘の音はすでに鳴り止み、その余韻(よいん)は少女たちの笑い声に()き消されてしまっていた。洋子の隣の席では、千広がまだ肩で息をしていた。少女たちの笑い声のか前方から、「ガラッ」という音が割り込んできた。黒と濃紺の制服たちの前に、教師がその姿を現した。さっきまでざわついていた教室が急に静まり返った。水を打ったようにしんとした教室に、一人の生徒のはっきりとした声が響いた。「起立っ!!」今日も一日が始まった。
 退屈な時間は鈍足の驢馬(ろば)である。我々はこの驢馬をさっさと追い越して行くことにしよう。一日の中でそれが鳴り響くことを最も心待ちにされている終業を告げる鐘の音が鳴った。群れ成す鳥たちが大空目がけて一斉に飛び立つように、青年たちは、この鐘の音とともに銘々のおもむくところを目指して腰を上げ始めた。
「あー、やっと終わったー。」
 両の手のひらを薄汚い天井に勢いよく突き上げて、大きく伸びをしている千広が、今日一番の歓声をあげた。
「よしっ。帰ろっか!」いつも見慣れているこの一幕を笑顔で見つめている洋子に、千広は笑顔で声をかけた。
 行くは辛いが帰るは安楽な坂道をゆっくりと下って、二人は帰路に着いた。いつものバスの、海側に面するいつもの二人席に、幼馴染たちは並んで腰を下ろした。
「今日、家寄ってくよね?」窓側の席に腰を下ろした千広が、隣に座っている洋子に話しかけた。
「あー、ごめん。今日、練習入っててさー。」
「あれっ、今日水曜だよね?」
「うん。でもほら、先週休み入ってたでしょ。その振り替えが今日になってさー。」
「そっかー、残念。まあ、頑張ってね。将来のオリンピック選手さんっ。」
「はいはい。」
 トタン屋根のバス停の脇に、焦げ茶色の髪の少女だけを残して、バスはもう一人の少女を運んでいく。バスの座席に一人残された洋子は、まだ温もりの感じられる隣の窓側の席にそっと手をやり、そこにゆっくりと腰を滑らせた。走り去っていく海を横目で見ながら、窓枠に(ひじ)を置き、洋子はそっと溜息を()いた。
 バスは洋子の家から一番近いバス停を通り過ぎ、ようやく小都会の中心部にある駅の前で停車した。洋子はバスを降り、駅の方へと足を向けた。改札をくぐり抜け、プラットホームで電車を待った。向かうのは、この駅から電車で二十分弱の距離にある、ここよりもっと都会の隣町だ。再び改札を抜けた洋子は、混雑する人足を掻いくぐり、しばらくして大きな施設の敷地の前までやってきた。このまだ新しくかなり綺麗(きれい)な見た目の現代風の建築は、このあたりで一番規模の大きい水泳場であった。
 等間隔に立ち並ぶ木々をぐんぐん追い越しながら敷地を通り抜け、ガラス戸を抜ける。洋子はすみやかに受付を済ませて、慣れた足取りで更衣室の方へと向かった。この水泳場には、ふたつのホールがあった。ひとつは、25メートル8コースの サブプールと、初心者用のミニプールを(よう)する小ホール。もうひとつは、50メートル10コースの メインプールと、0.5メートルから10メートルまでの四つの飛び込み台とその真下に25メートル四方の飛び込みプールを擁する大ホール。競泳水着の上からジャージの上着を羽織った洋子が向かったのは、後者のホールであった。入ってすぐに我々を出迎える巨大なメインプールに脇目もふらず、洋子は奥に屹立(きつりつ)する飛び込み台を目指して歩みを速めた。洋子と同じような格好をした数人の男女の一群が見えた。その中心には、背の高い、髪に白いものが混じり始めた男性が何やら陽気に(しゃべ)っていた。彼は、こちらに向かってくる栗色の髪を視界に収めると、右手をあげて親しみのこもった声をホールに響かせた。「おう、洋子、来たか。」この男は、髪がまだ真っ黒であったときには、高飛込(たかとびこみ)の日本代表選手として活躍したが、今はこの場所で、自分の現役時代に果たせなかったオリンピックの舞台に立つという夢を次の世代に託す立場にあった。そして、彼は洋子の高飛込のコーチであった。コーチに挨拶を済ませて、入念に体をほぐし、ウォーミングアップを終えた洋子は、すでに10メートルの高さから水面を見下ろしていた。上着はとうにプールサイドの隅っこの方で丸められていた。
 飛込競技は一瞬の競技である。選手は、飛び込み台から着水までのわずか二秒弱の間に、回転やひねりといった高度な技を競い合う。入水時に、水しぶきが上がらないほど高い評価点が付く。なかでも高飛込は、水面から10メートルの高さにあるコンクリート製の飛び込み台から飛び込む。とはいえ白状すると、私はこの競技に精通する人間では全くない。だから、一番背の高い飛び込み台に立っている、あの少女の方へとさっさと視線を戻すことにしよう。
 冷んやりとした高さ10メートルのコンクリートの台の表面に接する素足から、自分の体温を感じる。背をぐっと伸ばし、深く息を吸い込む。洋子の眼は、真っ直ぐ前を見据えていた。一瞬、誰もいない観客席の方へと目をやる。再び前方へと視線を据えた。洋子の足が宙に投げ出された。水しぶきが上がる。洋子の身体(からだ)はプールの中にあった。
 洋子が高飛込を始めたのは、中学入学が決まったばかりの三月のころであった。きっかけは、千広が小学校卒業を機に、スイミングプールを辞めると母親から告げられたことであった。中学生からスタートを切るというと、プロスポーツ選手となるには出足の遅れたほうであると言って良い。しかし、洋子には比類のない才能があった。すでに競泳においていかんなく発揮されていたその才能を、我々がすでにその顔を知っているあのコーチは、その慧眼(けいがん)ですぐに見抜いた。中学三年の全国大会では、二連覇中の優勝候補をくだして、表彰台の一番高いところに洋子は上った。洋子は一躍、将来のオリンピック選手候補である天才少女として、地元のヒーローとなった。
 そうした評判を別にして、洋子はこの競技のことが好きであった。飛び込み台の上から水中に身を沈めるまでのわずか二秒弱の間、世界が全て自分だけのものになった気がした。いや、むしろ自分を含めたこの世界が、最初から存在していなかったかのような感じがした。競泳のときには絶えず意識されていた自分を、この瞬間だけは意識しないで済んだ。だが、この日の洋子はそうはいかなかった。どうにも調子が悪いと感じていた。十本ほど試したあとで、コーチからも「今日はもうやめにしておけ」と言われてしまった。
 学校の制服に着替えた洋子は、家に帰るでもなく、誰もいない二階の観客席にぼんやりと腰を下ろしていた。その眼は、互いに競い合う男女の若者たちが登ってはそこから落ちていく、あのコンクリートの高台の方へと向けられていた。一方、その心は、飛び込み台から次々と消え去ってゆく影からは遠ざかり、我々が過去と呼ぶあの場所へと向けられていた。

 小学五年生の夏のころ。昼間にはそれなりに(にぎ)わっていた田舎町の海岸も、日暮れ前には人影がまばらになってきた。人が少なくなり、あたりが静まり返っていくほど、洋子の胸はかえって早鐘を打つ心臓のためにやかましくなってきた。洋子の隣には、中学校に入学してからすでに二年が経過し、すっかり背の高くなったあのガキ大将が、相変わらず日に焼けた顔に唇の端をきっと結びながら立っていた。二人の眼は、海に浮かぶ赤い旗をじっと見つめていた。緊張を隠すためか、洋子は海岸線から一番近い距離にあったそのブイを指差して、語気を強めて言った。
『あのブイまで先に泳ぎ着いた方が勝ちだからね! 分かってる?』
『分かってるよ。』翔太のぶっきら棒な声が答えた。
 この二人と、後ろ方から二人の背中を見守る二人の少女以外には、あたりには誰も見えなくなった。後方から、闘いの火蓋を切る号令が響いた。『位置に着いてぇ、よーーい、ドンッ!』
 大小四つの足が水を跳ねさせた。日に焼けた背中の方が先に水面に浮上した。洋子は出遅れたのだ。そのせいもあってか、いつもプールで泳いでいるときの冷静さを、このときの洋子は完全に失っていた。相手を意識する余裕はなかった。洋子は無我夢中になって泳いだ。20メートルほど泳いだときであっただろうか、洋子はふと、自分の後頭部よりさらに後ろの方から、人の気配を感じた。すでに洋子が先頭を泳いでいた。海に入ってから初めて、洋子は赤いブイを視界に捉えることができた。勝ったのは洋子であった。
 洋子はしばらくの間、ブイのそばに陶然とその身を浮かべていた。洋子は勝利の意識に酔いしれていた。《勝ったんだ。この私が。あの翔太兄(しょうたにい)に!》洋子の勝利の喜びに(うる)んだ眼は、速度を緩めながらこちらに近づいてくる日焼けした顔のはるか彼方(かなた)、砂浜の上で大きく手を振る姉妹のうち、背の低い少女の方へと向けられていた。夕日に照らされた幼馴染のその眼は、太陽の如く照り輝いているように見えた。

 誰もいない観客席でぼんやり回想に耽る洋子の心は、地球が太陽の周りをちょうど一周するぶんだけ、時計の針をさらに進めた。ときは小学六年生の夏のころ。
『高飛込?』千広の突然の申し出に、洋子は少し驚いた顔をした。
『そうっ! 翔太兄が一緒に観に来いって。何でも、ダイビングで知り合いになった人が、その大会の決勝に出場するんだって。10メートルの高さから、プールに飛び込むんだって。想像できないよねー。』
『高飛込かー。今まで観たことないなー。わたしらのスイミングスクールではやってないしねぇ。』
 千広の提案にそれほど乗り気ではなかった洋子であったが、今回の全国大会の会場となった、隣町にあるこのあたりで一番規模の大きな水泳場のメインプールを、二階の観客席から見おろしては興奮する気持ちを隠せなかった。会場の熱も高まっていた。とうとう、全国中学校水泳大会、男子高飛込の決勝戦が始まった。
 一人の青年が一番高い飛び込み台の先端に立つ。彼の緊張は会場全体にまで伝わっていた。次の一瞬、彼の身体が浮いた! 宙を蝶のように軽快に舞っている。「ザブンっ」という音が会場に響いた。会場は歓声に包まれていた。彼の姿はもう見えなかった。
 洋子は、会場の一部となっていた。真剣な面持ちで、次々と飛び込み台から水中へと舞う選手たちに目を注いでいた。飛び込み台に、ひときわ色の白いすらっとした青年が登ってきた。そのとき、端から聞き慣れた男の声が耳に入ってきた。『純だ。』この色白の青年——御堂純(みどうじゅん)——が、今しがた洋子の集中を破った声の出どころである翔太の、知り合いだという人物であった。洋子は再び飛び込み台の方に意識を集中させた。青年の身体が宙に舞った。もう青年の色白の姿は見えない。会場は今日一番の歓声を挙げていた。観客は今日一番の演技を目にしたのであった。洋子の素人目から見ても、ほかと比べて彼の演技が頭ひとつ抜き出ていたことは明らかであった。今し方の素晴らしい演技を見た感想を伝えようと、ふと洋子は右隣の席の少女に目をやった。その瞬間、洋子ははっとした。幼馴染の眼は、洋子が今までに見たことのないほど綺麗に輝いていた。

 あのときと同じ会場の、同じ席に、洋子はぼんやりと腰を下ろしていた。隣の席から「ピロンッ」という音が鳴った。洋子は夢想から揺り起こされた。右隣の席に置いてあった鞄から、おもむろに携帯電話を取り出す。メールは母親からであった。母は帰りの迎えの時間を尋ねていた。手早く返信を済ますと、洋子はゆっくりと腰を上げた。外ではすでに太陽がその役目を終え、とっくに夜の(とばり)が下りようとしていた。

第五章 洋子の気持ち

 五月。四月の冷たい潮風も、この時期になると少しづつ暖かくなってきた。それと同じように、ゴールデンウィークの前半を占めていた飛込の強化合宿を終えた洋子は、目前に迫った楽しみに、心の温度が嫌がうえでも高まってくるのを感じていた。
「小学生以来だっけ? 本当久しぶりだよねー、洋子ちゃんとここにくるのもさぁ。」
 清々しく晴れ渡った五月の今日の日、この晴天と同じくらい陽気な声が洋子の耳に心地よく響いた。洋子と千広は、高地家から歩いて十分ほどの距離にある水族館の前にやって来ていた。その施設の外観をひとことで伝えるとしたら、「田舎のさびれた小さな水族館」という言葉がぴったりだと思われた。私がこんなことを言って、久しぶりの楽しい気持ちに浮き立つ幼馴染たちに水を差そうとしているなどと邪推しないで欲しい。こうした見た目ほど、旧懐の情を誘うものだ。
 甘い過去をしのぶ間もなく、陽気な調子から一転、遠慮するような声で、千広は話の口火を切った。
「でも本当に良かったの? 合宿明けで疲れてるんじゃない?」
「大丈夫、大丈夫。むしろ気晴らしになるっていうかさぁ。千広ちゃんの方こそ、旅館の手伝いはよかったの?」
「うん。今日ぐらいはゆっくりしていいよって言われたし。よしっ、それじゃあ、行きますか!」
 先ほどは、この水族館がさびれているなどと(おとし)める言葉をつい口にしてしまったが、大型連休のこの日は、この水族館も結構な盛況を見せていた。特に家族連れで大いに(にぎ)わっており、水族館の狭い通路を子どもたちが嬉しそうに駆け回っていた。今日この日を楽しみにしていた洋子も、子どもたちのように年甲斐(としがい)もなくはしゃぎ回るのはさすがに気恥ずかしかったが、一方、無邪気な千広は、大きな子どもみたいにはしゃいでいた。そんな千広の様子を嬉しそうに眺めていた洋子の頭に、小学二年生のとき、千広と二人っきりでこの場所を初めて訪れた際の、懐かしい記憶がよみがえってきた。

 プールサイドの片隅で涙に膝を濡らしていた洋子の前に、千広が救世主として登場して以来、いつも千広が洋子の手を引っ張ってきた。千広は、洋子を未知の世界に案内する先達(せんだつ)であった。千広はまず、洋子を翔太と万愛(まえ)に引き合わせた。洋子が初めてこの二人と顔を合わせたときは、善良な町民が粗暴な山賊に捕らえられ、山賊どもの頭領夫妻の前に引き出されたかのようにすっかり萎縮していたが、千広に引っ張られて、この粗野な野生児たちと交わるうちに、洋子は、自分の暮らす小都会にはない、田舎町の野生的な魅力に徐々に引き込まれていった。近所の強面(こわもて)の不愛想なおじさんが所有するみかん畑から、こっそりみかんを盗み食いしたときも、お化けの棲家(すみか)として恐れられている神社に忍びこんだときも、洋子の手を引っ張ってくれたのは、いつも千広であった。
 小学二年生の夏休み、千広は大胆な冒険計画を洋子に提案した。それは、千広の近所の水族館に二人だけで行くというものであった。千広は、それぞれの親にも、ましては翔太と万愛にも、この計画を決して漏らしてはならないと洋子に念を押した。計画実行の前日の夜、洋子はなかなか眠れなかった。恐れや不安を感じたことはもちろんのことだが、何か自分がとても悪いことをしている気がして、その夜は、お休みを言う母の顔をまともに見ることすらできなかった。その一方で、千広と二人っきりで秘密めかした遊戯をすることに奇妙な喜悦(きえつ)を覚え、胸がどきどきした。こうしたさまざまな思いが、洋子の小さな頭をすっかり疲れさせ、結局、洋子は知らぬ間にぐっすりと眠っていた。
 洋子たちのような年端(としは)もいかない少女が、二人っきりで商業施設に入るなど考えられないと読者は思われるだろう。しかし、この水族館の受付のおばさんにとって、抱っこ紐にぶら下げられていたころからその成長をひそかに見守ってきた千広は、まるで孫のようなものであった。孫の成長を喜ばない祖母がいるだろうか? なけなしのお小遣いを小さな片手に握りしめ、もう片方の手で見知らぬ少女の手を握りながら、胸を張った千広が受付で「大人二枚」と口にしたとき、このおばさんが満面の笑みを浮かべながら、太陽の光を反射して鈍く輝く硬貨と交換に、子ども用のチケットを二枚、千広の小さな手のひらにのせたことは想像にかたくない。
 最初の関門を突破した二人は、内心胸を()で下ろして、目一杯水族館の見世物を堪能(たんのう)した。水族館の客も従業員も、二人が親御(おやご)を差し置いてはしゃぎ回る仲の良い姉妹だと思ったのであろう、誰もこの二人の少女を引き止めるものはいなかった。洋子は昨夜の不安や奇妙な喜びのことも忘れて、ただ幸福に浸っていた。人魚となって、千広と一緒に広い海の世界を自由に泳ぎ回っているかのような気分であった。しかし、恐ろしい深海の闇の世界を目の前にしたとたん、洋子のたくましい空想は破られてしまった。
 薄暗い通路の真ん中で、洋子は今にも泣きそうになっていた。二人が立っていた場所は、この水族館の深海魚コーナーの一角であった。薄暗く気味の悪い場所に(おび)えて愚図(ぐず)つく洋子を、千広はその手をとり、半ば強引に引きずって先へと進んでいた。別に、千広は洋子に意地悪しようとしていたわけではなかった。彼女はどうしても洋子に、この薄暗い道の先にある、あるものを見せたかったのだ。それは、深海魚コーナーの一番の見どころである、クラゲの水槽であった。この水槽では、無数に漂うクラゲが虹色の照明に照らされ、なんとも幻想的な光景を目にすることができた。
 恐ろしい洞窟を通り抜けてきた二人の少女の前に、ついに、虹色の光の差す幻想的な世界が開けてきた。その世界に踏み込んで、二人の少女が目にしたものは、単なるクラゲの(ただよ)う水槽ではなかった。それは、七色に光り輝く純白のドレスであった。洋子は、先ほどまでの恐怖心や、千広の無慈悲な振る舞いへの憤懣(ふんまん)も忘れ、純白のドレスが七色に光り輝く不思議な光景に、しばしの間魅入っていた。そして、この夢幻の世界に自分を導いてくれた勇敢な英雄の顔をふとのぞき見た。そのとき、千広の眼は照明の反射により七色に光り輝いていた。この七色の眼を見たとき初めて、洋子は千広の眼が綺麗(きれい)だと思った。

 あのとき以来初めて、二人は一緒にこの水族館を訪れていた。中学校に入学すると、二人の間に水泳という接点が失われてしまったことや、洋子が高飛込(たかとびこみ)のために日常の時間を犠牲にするようになったことなどの理由から、こうして二人でゆっくり出かける機会もめっきり減っていた。そうした事情から、洋子は、自分と千広との間に距離ができてしまったことを感じていた。この距離がそれ以上広がってしまうことを恐れた洋子は、千広が受験するのと同じ、田舎町の小高い丘の上にある、あの高校を受験したのだった。
 薄暗い通路を、千広と肩を並べて歩いている今の洋子は、二人の間に生じたすれ違いのことをすっかり忘れることができた。二人のすぐ目の前では、この薄暗く気味の悪い空間に怯えて愚図つく一人の子どもを、お母さんが優しい言葉でなだめながら、その小さな手を引っ張っていた。この親子は、まさしく小学二年生の洋子と千広であった。
 深海魚コーナー一番の見せ場は、連休のこの日はさすがに大勢の人で混み合っていた。たむろする頭の先からは、あの虹色の光が漏れていた。人でごった返す水槽の前には、ちょうど二人の人間が肩を並べて立つことのできる程度の空間ができていた。二人は人混みを縫って、その空間へと引き寄せられるように歩いていった。洋子と千広は、九年のときを超えて、再びあの夢幻の世界の前に立っていた。二人は再びあの七色に輝くカーテンに魅せられた。
 眼前に広がるこの幻想的な光景にただただ見入っている千広の眼を、洋子は盗み見た。彼女の眼は、九年前のあの日と同じように、七色に輝いていた。九年前の洋子は初めて、その眼が綺麗だと気がついた。今の洋子は、その眼が世界で一番綺麗だと思っていた。
 読者諸君は、お気づきになったであろうか。洋子の眼がたびたび、千広の眼を追っていたことに。そのことに気づいておられた方々ならば、今の洋子の眼に宿る感情が、世間ではどのような名前で呼ばれているのかをきっとご存知ではないだろうか? その気持ちを、我々は恋と呼ぶ。もちろん、洋子と千広は女性同士であった。しかし、今世紀においては、同性愛に対する偏見もかなり薄らいできているはずであるから、読者諸君が洋子のこの気持ちを不快に感ずることはないであろうと私は期待している。とはいえ、洋子の生きる世界はあまりにも狭かった。洋子は、この恋は叶わない恋であると感じていた。
 太陽はとうに海を青色からオレンジ色に染めていた。二人は帰りぎわに近くのコンビニに寄り道をした。そこでひとつの氷菓子を買った。それは、氷菓子が封入されたチューブ型の二本の容器が、ひとつにつながって、ひとセットとして売り出されていた。
「はいっ。」
 千広は、ひとつをふたつに分けて、片方を洋子に差し出した。洋子は夕日に赤く染まった右手でそれを受け取ると、手の平にじんわりとした冷たさを感じた。

第六章 孤独な魂

 六月。梅雨空の訪れを前に、田舎町の小高い丘の上にある校舎の中には、新たな風が吹き込み、校舎の空気を一変させていた。学課は短縮授業となり、太陽が古びた校舎の大時計の真上を通り過ぎたころ、いつもより長い放課後が始まった。各々の教室からは、若い声たちがさまざまなメロディーにのって流れてきた。ときは学園祭シーズン、その第一幕の準備期間に当たっていた。本校の学園祭は、文化祭・体育祭の二部に分かれており、その第一部を飾る学園祭のメインイベントとなるのが、学年の壁を隔ててクラスごとに優劣を競い合う、合唱コンクールであった(というか、この高校では、学園祭即ち合唱コンクールであったのだが)。
 読者にはあらかじめお断りしておきたいのだが、私はこの学園祭という行事を美化するつもりは毛頭ない。制服をまとった学生たちを主役にした、まぶしいばかりに(きら)めく青春劇にとっては、この学園祭というイベントほど格好の題材はないだろう。ぶつかりあう汗と汗、団結しあう肩と肩、深まりあう友情、密かに結びあう恋心。誰もがそこで何かが起こることを期待させられてしまうかと思われる、不可思議な魔力をもった雰囲気。一方、このイベントを、もっと現実的な観点から見ると、集団が勝利というひとつの目標に向かって一致団結し、成員のうちに協調性、集団への帰属意識といったものを生じさせるという効果が期待されていると思われる。
 しかし、これら多数の目は何かを見落としてはいないだろうか。人々が手と手を取り合ってひとつの輪を形成するとき、その輪に入れない人間が必ず存在する。ところで、輪はこのものを決して忘れてはいない。輪はこのものを余計者と見なす。それによって、輪はその結びつきを一段と強固なものとする。心のないものならば、輪の中に入れない奴が悪いのだと言うだろう。そうでない読者の中には、その人物を輪の中に導き入れようとして差し出される手こそが、美しいのではないかと仰る方もおられることかと思う。しかし、その手を望まない人間もいるのだ。そのものたちはこう言うだろう。「ほっといてくれ。私に構わないでくれ。」彼ら、彼女らの大半は、単なる(ひが)み屋に過ぎないかもしれない。しかし、なかには、その心の内部に何かキラリと光るものをもったものもいる。その光を放つものとは、偉大な瞑想家の魂だ。私はこの瞑想家たちのために、この場を借りて、孤独でいる権利を主張したい。
 洋子と千広のクラスでは、早くも不満の煙が(くすぶ)っていた。一方には、クラスメイトを団結させ、先導して、勝利の栄冠をつかみ取ろうと躍起になっているものたちがいた。もう一方には、上のような連中を居丈高(いたけだか)な態度をとっていると見做(みな)して、厄介に思っているものたちが肩を寄せ集めていた。そして、残りの連中は、この手のものが一番数の多いということがままあるものだが、対立に巻き込まれる面倒を避けたがり、どっちつかずな態度を取りたがるものたちから成っていた。とはいえ、こうした日和見(ひよりみ)主義者たちであっても、ふたつのうちどちらかの態度かをとらなければならない場面に直面することがある。また、どちらかの態度にくみする方が、自分にとってはより利益になると考える狡猾なものもいる。どちらにしろ、そんなときは大抵、連中は声の大きな方になびくものだ。
 ところで、洋子と千広もどちらかといえば、この最大党派に属していた。洋子は来月下旬ごろに迫った高飛込(たかとびこみ)の地域別選手権のための練習に気を取られており、学園祭に本気になる気分ではなかった。千広の方はどうかといえば、自分が歌をうたうのが音痴なことを気にして、クラスで目立ってしまうことをできるだけ避けていた。
 ところがこの日は、クラスは合唱の練習どころの騒ぎではなかった。とうとう弾薬庫に火が点いたのだ。きっかけはつまらないことであった。この日は、音楽室を借りてピアノの伴奏付きで練習ができる貴重な日であった。そんな日に限って、クラスの音頭(おんど)を取ろうとする連中への敵意を日ごろ(あら)わにしていた生徒の一人が、今朝から腹の調子があまりすぐれず、クラスの全員が音楽室に集まっていなければならない時間に、折悪しく便意を(もよお)してしまったのだ。この偶然が全ての発端となった。
 今朝から初めての快調な気分に顔を輝かせていたこの生徒は、自尊心からか悪びれた様子のない平気な顔をして、集合時間から五分遅れで音楽室に姿をあらわし、いつもの仲良しメンバーに話しかけに行った。どうやらこの態度が良くなかったらしい。クラスを牽引(けんいん)しようとする派閥の中心人物の一人であった、茶髪の女子生徒が、クラス全員の前で、ちょうど全員の耳に入るくらいの声の大きさで、ようやく腹の調子が快方に向かっていたこの生徒に対する愚痴を洩らしたのだ。これは聞き捨てならなかった。相手は反抗的な態度で応答した。「何か文句あんの?」幸い、文句は次々と飛び出した。当の二人の擁護者たちもこの言い合いに加わった。当初の目的は忘れ去られていた。もう、音楽室もピアノ伴奏もあったものではなかった。互いが互いに、日ごろ積もり積もった不満をぶちまけあった。ちょうど、関係の冷えつつある夫婦が、お互いの目のつくところ、たとえば、相手のご飯を食べたあとが汚いであるとか、掃除の仕方が汚いであるとかを指摘しただけのつもりが、夫婦関係の存続に亀裂が入らんばかりの喧嘩に発展してしまうのとそっくりであった。結局、ピアノの蓋は虚しく閉じられたまま、生徒たちは音楽室をあとにせざるを得なかった。
 合唱練習が思ったよりも早く終わったため(というよりも打ち切られてしまったため)、飛込の練習開始時間までにまだいくらか時間のあることに、洋子は思い至った。〈千広ちゃんのところに寄ってから、練習に行けばいいかな。〉
「千広ちゃん、このあと…」
「あっ、しまったぁ!」千広のひときわ大きな声が、洋子の声を掻き消した。
「どうしたの? 大声出して。」一瞬虚をつかれた洋子であったが、すぐに気を取り直して千広に尋ねた。
「古典の宿題、今日の昼休みに出しにこいって言われてたの忘れてた…。」この世の終わりかといわんばかりに、顔を青ざめさせた千広が、先ほどとは打って変わって、消え入りそうな声で洩らした。
「えっ、まじ? それって先週締め切りのやつじゃなかったっけ?」
「うー、またお説教だよぉ…。ということで、ごめんだけど、洋子ちゃんは先に帰ってて。」
〈はあ、今日はついてないな。〉すっかり気持ちの(しぼ)んだ洋子は、足早に駆けていく千広の背中を見送ったあと、すでに人もまばらな教室をあとにした。下駄箱まできた洋子は、ふと教室に忘れ物をしてきたことを思い出し、(きびす)を返した。重い足を上げながら階段を上り、教室のある二階の廊下に続く踊り場の片方までやってきた(校舎は三階建ての、廊下を挟んでふたつの階段が上へと伸びる構造になっていた)。人通りのない廊下には、合唱の練習の声が響いていた。
 人気のない廊下を横切って、洋子は自分の教室の扉に手をかけた。すると、扉の向こう側から、聞き覚えのある声がポツポツと漏れてきた。この声は我々も何度か耳にしたことがあった。音楽室で今朝から腹を痛めていた生徒に、真っ先に食ってかかった あの女子生徒の声であり、洋子の前の席からたびたび、彼女に向かって発せられていたあの声であった。彼女の他に、その取り巻きの女子たちの声も混じっていた。彼女らは誰か一人の生徒に対して、一方的にまくしたてているらしかった。
「何とか言ったらどうなのさ?」突然、例の女子生徒がきつい口調で声を荒げるのが、洋子の耳に聞こえてきた。〈どうも様子がおかしい。〉この威嚇(いかく)するような声を聞いてそう思った洋子は、扉の取っ手から手を離した。ふと、扉のそばの窓が、ちょうど顔をのぞかすことができる程度に開いていることに洋子は気がついた。洋子はその隙間から教室の中をのぞき見た。
 窓際の一番後ろの席の背後にひらけた空間に、茶髪の長髪を中心にした三人の女子生徒の背中が見えた。それらの背中のすぐ向こうに、一人の女子生徒が毅然として立っていた。流れの強い川の真ん中に顔をのぞかせているゴツゴツした岩の上に、細長い足をした一羽の鳥が降り立つ。川の激しい流れが岩にぶつかり 足元に飛びかかる白いしぶきなど 気にも留めぬこの鳥は、その優雅な長身を上空へとすくと伸ばしている。息巻く三人の女子生徒に囲まれた、その一人の女子生徒の様子は、ちょうどこのようであった。
 洋子の立ち位置からは、ちょうどよい具合にこの女子生徒の斜め顔を拝むことができた。彼女の漆黒の髪は、胸のあたりまで真っ直ぐに流れていた。切り(そろ)えられた前髪と、そこから薄っすらと見えるやや上がり気味な弓形の眉の真下で、ほぼ黒に近い焦げ茶色の瞳をした、吊り目が虎の如く堂々と構えていた。真っ直ぐ筋の通った大きな鷲鼻(わしばな)の下では、上唇のやや厚い血色の良い薄紅色が相手を見下していた。包み隠さずいうと、相当な美人顔であった。ただし、決して親しみやすい種類の顔ではなかった。
 この超然と背を伸ばしている娘——空間蓮乃(そらまれんの)——は、洋子と千広のクラスメイトであったが、クラスではあまり目立つ存在ではなかった。その力強く美しい容姿と、いつも本ばかり読んでいて寡黙(かもく)なところと、どこか超俗的な雰囲気とから、孤高の存在として周囲の生徒からはそっとされていた。彼女の(かも)し出すどこか浮世離れしたオーラには、ひょっとすると彼女の生まれが関係しているのかも知れない。彼女は、神社の神主(かんぬし)の一人娘であった。そして、我々は彼女の家がどこにあるかも知っている。かつて翔太少年が、腕白(わんぱく)小僧どもの間でその名をあげるきっかけとなった、あのお化けの棲家(すみか)と呼ばれていた林の中、その奥深くに彼女の暮らす家はあった。
 ところで、この林の中に暮らす娘の孤高の陣幕が、今こうして破られることになったきっかけとはこうであった。その日は五月下旬としてはかなり暑い日で、この気温に体調を崩した一人の男子生徒が、授業中に嘔吐を催してしまった。この予期せぬ出来事に、誰も冷静な対処をとることはできなかった。ただ一人を除いては。壇上でただ口をポカンと開けて立ち尽くす教師と、ただ騒然とするだけのクラスメイトたちに脇目もふらず、蓮乃はその美しい背をすくと伸ばして、教室を出ていった。ようやく状況を悟った教師が壇上から降りて、|項垂《うなだ〉れる男子生徒におろおろと声をかけているとき、蓮乃は濡れ雑巾(ぞうきん)を右手に握りながら、あたふたしている教師をよそに、男子生徒の背を優しくさすり、彼の汚物を掃除し始めた。「誰か、彼を保健室に。」彼女の冷静そのものの声に、この情けない教師は、やっとのことで男子生徒の肩を抱えながら教室を出て行った。教室に居合わせた誰もが、このとき何が起こっていたのかを理解していなかった。茶髪の娘は、漆黒の艶髪の垂れかかった背中をただ恨めしそうに眺めていた。
 どうやらこの茶髪の娘は、この騒動の発端となった男子生徒に好意を抱いていたらしい。ところで、この男はへまをやらかした。彼は、真っ先に自分を介抱してくれたあの美人に対して、賛嘆の念のこもったお世辞を友人たちの間で振り撒いていた。これがあの娘の耳に入ってしまったのだ。彼女は嫉妬(しっと)を覚えた。それだけだったらまだ良かった。今日の彼女は、音楽室でのあの一件により機嫌を大変そこねていた上に、蓮乃が合唱の練習に全くのり気でないことに不満を感じていた。こうした事情が総合された結果、今彼女は、|霊山《れいざん〉の山頂で竜の如く居を構える蓮乃の前に立ち、不満と不機嫌と嫉妬の入り混じった醜悪(しゅうあく)な感情を(さら)け出していた。
「無視すんなって!」
 先ほどよりも一倍怒気を含んだ威嚇の言葉が耳を貫くや否や、茶髪の生徒が蓮乃の肩を突くのを洋子は目にした。このとき初めて、蓮乃の眼に感情の火が宿った。それは、個人的屈辱という焚き木に激しく燃え上がる復讐(ふくしゅう)の火炎ではなく、静かに揺れる義憤の炎であった。洋子は、目の前の不正に平気で目をつぶるような卑怯者ではなかった。だから、普段の洋子であったならば、この暴力の現場に 敢然(かんぜん)と踏み込んでいくだけの勇気はあったはずだ。この場に割り込んで 事態を収める力を発揮するだけの存在感を、洋子は クラスにおいて有していたであろうし、洋子もそのことを自分で実感できていたはずだった。だが、蓮乃の眼が焔に煌いた矢先、蓮乃の眼と洋子の眼が刹那(せつな)に出逢った。少なくとも、洋子はそのように直感した。瞬時、洋子は理性を失った。恐怖が彼女の脊髄(せきずい)に電撃のように走った。火を見た動物が本能に突き動かされて素早く逃げ出すように、洋子は踵を巡らし一目散に駆け出してた。
 階段の踊り場の、三階と一階に伸びる階段の手すりを右手で強く触れたとき、洋子はふと自分の背中にじっとりとした冷たさを感じた。背中に冷や汗が流れていた。そのせいで背後に気を取られた洋子は、図らずも首を後方にめぐらした。すると、洋子が先ほどまで立っていた あの場所に、千広が立っていた。だが 彼女の眼は、洋子のよく知る あの眼ではないように思えた。それは、つい先ほど見たあの眼であった。千広が扉の取っ手に手をかけたその瞬間、洋子は階段を飛び降りるほどの勢いで駆け下りていった。

第七章 軽蔑

 あたりは今や闇に支配されていた。あのあと洋子は、自分の内側を見ないで済むように、身体(からだ)をくたくたになるまで酷使しようとする本能的な衝動から、一心不乱に高飛込(たかとびこみ)の練習に打ち込んだ。そして今、寝台の上に 身を横たえ、ぐっと(まぶた)を閉ざし、眠りにつこうと試みていた。だが、心のなかを空っぽにしようと 努めれば努めるほど、心のうちを ますます意識させられた。
〈あの眼は私のことを見ていただろうか?〉
 もう何度目の問いかけになるだろうか、心の声が洋子にこの問いを投げかけてきた。眠ることはどうにもできそうにないと観念した洋子は、とうとう自分の心の声に答え始めた。
〈もし見ていたとしたら、私はどうなる? 恐らく彼女は私を軽蔑(けいべつ)するだろう。〉軽蔑! この言葉は洋子を戦慄(せんりつ)させた。さらに洋子は続けた。
〈でも、もし見ていなかったとしたら? そうすれば、私も見ていなかったことにできる。そもそもあのとき、あの眼は本当に私を見ていたのだろうか? 私の単なる思い過ごしではないかしら…? そうだ! そうに決まっている! 仮に、あの場で私のことが目に入ったとしても、あの子が私の存在に気が付いたはずがない。そうだ、何も恐れる必要なんてないんだ!〉
こうした好都合な解釈に落ち着き、心の落ち着きを取り戻した洋子は、瞼から力が抜け始めたのを感じた。同時に、あの焦げ茶色の髪をした幼馴染の姿が、瞼の裏にぼんやりと映し出された。
〈そういえば、千広ちゃんはどうなっただろうか。あの場は丸く収まったのかしら? 千広ちゃんのことならきっと大丈夫だろう。〉こう考えたまさにそのとき、洋子の心にある考えが到来し、洋子の心は恐れ(おのの)いた。
〈もしあの子が千広ちゃんにあのことを伝えていたとしたら? そうすれば破滅だ。私は一生軽蔑され続ける。〉
 私はこれ以上、極端から極端へと揺れ動く、彼女の乱れに乱れた心を、ここに描くことはできそうにない。想像してみて欲しい。十数年の間、誰からも愛され続けていた一人の少女が、自分が人から軽蔑されるに値する人間であることを看取した瞬間を。しかも、少女はあからさまな軽蔑を人から投げかけられたのではない。全くの独力で、その考えたどり着いたのだ。その苦しみは想像を絶する。
 真夜中ごろ、洋子はついにひとつの結論に落ち着いた。〈今、どんなに考えたところで仕方がないじゃないか。明日になれば全てが明らかになるんだから。〉乱れた心に平静さが戻って、洋子は極度の疲労を感じた。心身ともに疲弊しきっていた。洋子は深い眠りに落ちていった。
 運命を決する明日が訪れた。午前七時五分発のバスの座席に腰を下ろした洋子は、すっかり決意を固めた表情をしていた。〈千広ちゃんに会って確かめないと。何も変わっていないということを。〉その表情には、(かげ)りは見られなかった。洋子は、千広が相変わらずの態度で自分を出迎えてくれるであろうことを、漠然と確信していた。そして、千広は洋子をいつもどおりのまばゆい笑顔で出迎えた。
 自分に向けられるいつもどおりのあどけない笑顔。透き通る笑い声。(たわむ)れに冗談を言うと、頰を膨らませて唇を(とが)らせる可愛らしい癖。洋子は、千広の部屋で彼女といつもどおりの談笑を交わしていた。洋子は、昨日のことをすっかり忘れていた。
 学校行きのバスに揺られながら、洋子は幸福な気持ちで、隣で(せわ)しなく口を動かしている千広を見つめていた。会話が少し途切れたあと、千広が何気なく洩らしたひとことに、洋子の幸福は破られた。
「そういえば昨日、初めて蓮乃ちゃんと喋ったんだぁ。ほら、同じクラスの。」
 今朝からこのときまで、洋子はこの名前のことを一度も思い出すことがなかった。これは奇妙なことだと、読者はお考えになるだろうか。だが、これは決してそれほど奇妙なことではない。なぜなら、これまでの洋子の人生においては、蓮乃のことを考える習慣など彼女には存在しなかったから。これまでの洋子にとっては、蓮乃は存在していないに等しかった。今、その蓮乃が、洋子の世界にその存在を主張していた。洋子を軽蔑する資格を有した唯一の存在として。

第八章 二人はどうして三人になったか

 ここで一度、ときを昨日まで巻き戻して、千広と蓮乃の邂逅(かいこう)の様子を物語る必要があるだろう。古典の教師からたっぷりとお説教を食らった千広は、がっくりと肩を落としながら、憂鬱(ゆううつ)な気分で職員室をあとにした。明日までに仕上げて必ずもってくるようにといわれた課題は、いまだに手つかずのままであった。「うぅ、明日までになんて、無理に決まってるよ…。」そんな心の声を思わず洩らしたとき、不意に、自分の肩が今の気分に全く見合わないほど軽いことに気がついた。どうやら鞄を教室に置いてきてしまったらしい。
〈はあ、今日はついてないや。〉千広は、項垂(うなだ)れながら階段を上り、ほんの少し前まで洋子が立っていたのとは反対側の二階の階段の踊り場に差しかかった。千広は、教室の教壇とは反対側の扉、つまり自分の座席に近い方の扉へととぼとぼと歩いていった。このとき、千広は相変わらずがっくりと俯いたままであったし、廊下には他のクラスの合唱練習の声が響き渡っていたので、千広は自分の前を駆けていく洋子の背中に全く気がついていなかった。しかし、教室の様子がおかしいことはすぐに察知した。いじめの首謀者は、誰も教室に入ってくるものはいないだろうし、他のクラスは合唱練習に気をとられているに違いないと判断し、今やかなり大胆になっていた。
 千広には、不正に心を痛める優しさと、不正を見逃してはおけないだけの正義感が備わっていた。ただし、彼女には、自分自身の力に対する自信が欠けていた。結局、不正に対して果敢(かかん)に立ち向かっていくだけの勇気はなかった。そこで千広が採った戦略は、なかなか悪くなかった。千広は教室の扉を勢いよく開き、開口一番に大きな声を張り上げた。「しまった! 鞄を忘れてきちゃった!」
 このひょうきんな台詞が、この場に及ぼした効果は絶大であった。一瞬唖然とさせられた茶髪の娘も、この道化師のひとことのもつ意味を反芻(はんすう)するうちに、ついつい笑いがこみあげてきた。笑いは人を陽気にする。その人物がたとえ怒りに(はらわた)が煮えくり返っていようと、絶望に打ちひしがれていようと、一度笑いがその人のうちに飛来すると、自分の先ほどまでの気分と、笑いを引き起こすもととなった滑稽さとのコントラストのためにかえって、ますます可笑(おか)しくなってくる。この笑いに備わる作用のおかげで、事態はすっかり丸く収まってしまった。
 千広は一度気を許した相手に対しては腹蔵(ふくぞう)なく接することができる(たち)であった。先の一件のあと、千広と蓮乃が同じバスで家路に着くころには、千広は蓮乃に対してすっかり気を許していた。表面的には、蓮乃が自分の家の近くの、千広も幼いころにその噂を耳にしていた、例のお化けの棲家(すみか)に住んでいるという事実に懐かしさと親近感を覚えた という理由があった。だが、もう少し深くまで千広の心を探ってみることにしよう。自分とは好対照であるその大人びた端正な容姿と、優秀な学業成績とから、千広は蓮乃に対して憧憬(どうけい)のようなものを漠然と抱きながらも、やはり近寄りがたく感じていた。しかし、先ほどの場面に立ち会い、千広は、蓮乃が実は(もろ)く、傷付きやすい、繊細な存在であることを悟らされた。というよりは、知らぬうちに一人で勝手にそう解釈していたといった方が正しい。というのも、蓮乃はただ一人で不正と闘うための心の強さをもっていたから。とにかく、千広は無意識のうちに蓮乃のことを、自分が守ってやらなければならない存在であると認め、そのためにいっそう蓮乃のことを愛おしく感じていた。
 たしかに蓮乃は無口で孤独を愛する少女であったが、決して無愛想な性格ではなかった。蓮乃は千広を拒もうとはしなかった。蓮乃は、千広が古典の宿題の件で頭を抱えていることを聞くや否や、千広に手を貸すことを申し出た。千広の部屋で、二人一緒に宿題を進めているときの蓮乃は、親しげな態度で千広に接し、それでいて遠慮するそぶりも見せなかった。千広の勉強でいけないところは、遠慮なく駄目出しし、甲斐甲斐(かいがい)しく世話を焼いた。宿題の済んだころには、千広は蓮乃のもつ魅力に引き込まれていた。こうして、一緒にお弁当を食べるときも、バスで家路をたどるときも、いつもの二人は三人になった。

第九章 水曜日の放課後、図書室にて

 太陽はおのれを取り囲む陰気な灰色の雲々を払いのけ、その光輝を地上へと燦燦(さんさん)と降り注いでいた。田舎町に夏がやってきた。一年のうちで、田舎という場所が最もその美を顕現する季節であり、我々の田舎町がもっとも活況を呈する季節でもあった。
 一面に広がる夏の青空にも似ないで、洋子の心は雲のかかったようにもやもやとしていた。学園祭は一応無事にその幕を下ろし、間もなく期末試験前の時期に入った。とはいっても、洋子の心にかかる靄の発生源は、直接的にはそこになかった。洋子は期末試験そのものには何の心配も抱いていなかった。彼女は高飛込(たかとびこみ)の練習をいいわけに学業を(おろそ)かにしたことは一度もなく、常にクラス上位の成績を維持できるだけの要領の良さをもっていた。洋子の心が夏空のようには晴れてくれない原因とは、蓮乃の存在に他ならなかった。
 洋子は人間関係においてもその要領の良さを幾度となく発揮してきた。相手がどんな人柄の人間であっても、大抵の場合、当たり障りのない仲になることができた。この優れた世才(せさい)は、蓮乃との間にも大いに腕をふるったかのように見えた。千広と蓮乃が打ち解けあった日以来、千広は、洋子と自分の仲に蓮乃を積極的に引き入れてきた。この変化に対しても、洋子は要領よく対処し、蓮乃と表面的には打ち解けた仲となることができた。傍から見れば、この三人の少女たちは仲良しに思われたに違いない。
 だが、これまでに洋子の内心を垣間見てきた読者諸君であるならば、仮面の下での彼女の苦心を想像していただけるであろう。彼女を悩ましていた感情をここに名指しすると、それは嫉妬(しっと)と自己嫌悪であった。千広が試験で赤点の危機に(ひん)していることを知った蓮乃は、期末試験初日の二週間前(一週間前から勉強していては遅すぎると蓮乃は千広を(しか)った)から、放課後千広の家で、千広の試験勉強に付き合うことになった。ところが、洋子の高飛込の練習は課外活動であるから、学校の試験期間に関係なく練習が入っていた。つまり、洋子は、練習が休みとなる水曜日と、練習後にも時間の空いている土曜日、日曜日を除いては、千広と蓮乃の勉強会に参加できなかったわけだ。今までは、試験一週間前のこの三日の間に、洋子が千広の勉強を見ていたのだが、この二週間のうちの最初の水曜日に、初めてこの二人と一緒に試験勉強をした洋子は、蓮乃の方が自分よりかなり勉強ができるため、自分の出る幕がないことを嫌というほど思い知らされた。そのため、洋子は強い疎外感を味わった。これほど憂鬱(ゆううつ)な水曜日は初めてであった。高飛込の練習にも全然身が入らなかった。この憂鬱な水曜日のことが、絶えず思い出された。結局、土曜日と日曜日は、自宅で一人勉強することにした。
 ある日の放課後、トタン屋根のバス停で先に降りた千広と蓮乃を背後に見送るバスの後部座席から、洋子はふと後ろを振り返った。談笑する二人の姿が目に入った。蓮乃に笑いかける千広の眼は、幼いころ、洋子の手を引っ張ってくれた彼女の眼であった。
〈千広ちゃんは私と二人でいることが嫌なのかな。〉
 一度洋子の頭を駆けめぐったこの考えは、彼女にいつまでも付きまとった。〈蓮乃ちゃんは、やっぱり私のことを軽蔑(けいべつ)しているに違いない。だから、私を苦しめようとしているんだ。〉
〈こんな考え方をするなんて、私は最低だ。私に彼女を責める資格なんてないんだから。私は千広ちゃんの隣にいるべき人間じゃない。〉嫉妬は憎しみを呼び、やがて自己嫌悪へと陥った。ときには、次のような考えが洋子の心を千々(ちぢ)に引き裂いた。
〈彼女はあのことを、千広ちゃんに話したかもしれない。今ごろ、二人で私のことを軽蔑して合っているに違いない!〉洋子の苦しみは(つの)る一方であった。
 再び水曜日が訪れた。だが、運命は少女たちに奇妙な悪戯(いたずら)を仕掛けた。千広は折悪しく家の手伝いに呼び出されて
しまい、終業の号令とともに、いつもより一本早いバスに乗るため大急ぎで家路に着いた。今日の勉強会は生憎(あいにく)中止となった。あの疎外感を二度味わうことにならないで済んだことに、洋子は内心ほっとしていた。洋子が安堵に胸を撫で下している間に、教室には蓮乃の姿はすでに見えなかった。
〈家に帰っても勉強に身が入りそうにないや。〉そう考えた洋子は、図書室に行って勉強をしようと思いついた。〈あそこならほとんど誰も来やしないし、勉強するにはちょうどいいや。〉この新たな思いつきは、洋子の気に入った。鬱屈した気分を晴らすには、習慣に変化を与えるという処方は、大いに功を奏するものだ。図書室は、校舎の一階の隅、下駄箱の反対側に位置していた。職員室のすぐ近くという立地条件や、そもそも本に関心のある生徒が学校にほとんどいないという理由から、ここを利用する者はほとんどいなかったため、洋子の唐突の思いつきは(とう)を得ていたわけだ。
 図書室の扉を開いたときの洋子の驚愕(きょうがく)を、どう描いたらよいだろうか。図書室に入ってすぐ右脇には、カウンターがあった。本来ならば、各クラスから選出された図書委員がそこに座を占めることになっていたのだが、この学校では図書委員はそこに座らなくても良い(なら)わしになっていた。この高校では、図書委員はいわゆる閑職として周知されていた。万が一、本を借りたい生徒がいたとしたら、良心に従って勝手に本を拝借することが許されていた。この慣習を承知していた洋子が、無人のはずのカウンターに、本を手に一人静かに(たたず)む蓮乃を目にした際の、内心の驚きがいかほどのものであったかは想像にかたくはないだろう。
 このとき、洋子は自分の驚愕の念を隠さなければならないととっさに感じた。この態度は蓮乃の目にはむしろ不自然に映ったかも知れなかった。しかし、この瞬間の文字どおり不意を突かれた洋子が、しっかりと理性を働かすことができなかったことを読者は容易に想像できよう。
「あれっ、まだ帰ってなかったんだ。」落ち着き払ったふうを装い、どうにかこうにか蓮乃に話しかけた。
「ええ。洋子ちゃんの方こそ。」
「あっ、うん。ちょっと勉強していこうかと思って。」
 会話が途切れた。蓮乃は再び本の上に目を下ろした。洋子は口の中がひどく渇いていることに気づいた。自分の身体(からだ)がまるで自分のものではないような感覚を覚えた。次にどう動いていいのか全く分からなくなってしまった。
 途方に暮れる洋子を前に、蓮乃は開いていたページに紙製の(しおり)を挟んで、閉じた本を卓上に丁寧に置き、ゆっくりと洋子の方に目を向けた。数秒間、蓮乃は洋子を探るような目つきとじっと見つめた。その数秒間は、洋子にとっては永劫(えいごう)につづくかと思われた。この無間(むけん)の沈黙を、とうとう蓮乃が破った。
「前からずっと言いたかったことがあるの。」
「…な、に?」
 声が震えた。「何」のひとことがうまく出てこなかった。口の中は、何ヶ月もの日照りに乾いた地面のように、ひび割れを起こさんばかりに渇ききっていた。全身の血が一遍に温度を失った。生きた心地がしなかった。〈彼女の次のひとことが、私の運命を握っている。〉洋子は、最後の審判を待ち受ける悪人のように歪んだ顔をしながら、蓮乃の次のひとことを待ち受けた。とうとう、洋子の前に最後の審判のラッパが鳴り響いた。
「洋子ちゃんはさ、私のこと嫌い?」
 高く鳴り響くと思われたラッパからスカスカの音しか出なかったときのように、洋子は呆気にとられた。全く予想外の言葉に、洋子は返事をすることすら忘れていた。
〈今、彼女はなんと言ったのだろうか…? 私が彼女を嫌っていないか…? すると、彼女は私を軽蔑していない?では、彼女はあのことを見ていなかったのか! どうやら、まだ破滅するには早いらしい…。〉しかしこの考えとは裏腹に、(つか)()、思いも寄らない言葉が沈黙の中に投げ出されるのを洋子は耳にした。
「なんで…、そう思うの…?」
 笑って誤魔化してしまえばよかった。「何言ってるの、そんなわけないじゃん!」ただそうひとこといってしまえば、どんなに楽になれたろう。少なくともこの拷問(ごうもん)部屋からは抜け出せたはずだ。だが、蓮乃の眼は、洋子が自身を偽ることを許さなかった。
「洋子ちゃんの眼を見ていればわかるよ。私と千広ちゃんが話しているときの。」
 さっきまで蒼白だった洋子の顔に、急に赤みが差してきた。情けないやら、恥ずかしいやら、色んな感情が入り混じって、洋子は泣きそうになった。しかし、自然と絶望的な気分ではなかった。
「気づいてたんだ…。」
 それは、どこまで気づいていたという意味であったのだろうか? 洋子が蓮乃を憎み、嫉妬していることまでであったのか、それとも、洋子が千広に、誰にも言えない特別な感情を抱いていることまでであったか? それは、この言葉を発した本人にも分からなかったに違いない。
 隠していた粗相(そそう)の跡を親の前で暴かれて耳たぶまで赤くする子どもような様子の洋子に対して、蓮乃は自分の方が済まないことをしたかのように、おずおずと口を開いた。
「ごめんなさい。本当はこんなこと、洋子ちゃんに言うべきじゃなかったのかもしれないわね…。でも、私が洋子ちゃんと千広ちゃんの間に割り込むことで、洋子ちゃんが苦しそうにしているのを見ているのは嫌だったの。だからといって、千広ちゃんの友情をみすみす無下(むげ)にもできなくって。だから、私たち二人の関係を新しくしなくちゃって思ったの。そのためには、洋子ちゃんの傷に触れないといけなかったの。本当にごめんなさい…。でも、そのために、私がどれだけ洋子ちゃんに(うら)まれて、(ののし)られたって構わないって思ってることは、わかって欲しいの。」
 蓮乃のこの誠実な言葉を耳にして、洋子がどうして涙を抑えることができたであろうか。それは不可能であった。〈私は馬鹿だ。苦しんでるのは私だけじゃなかった。〉
 親愛なる読者諸君に、どうやら私はその寛恕(かんじょ)を請わねばならない。この瞬間を描くことは、私の手には余るのだ。ただし、この小説が数世紀前のヨーロッパを舞台にしていたならば、洋子はきっと蓮乃の足下に倒れ込み、彼女の足を無限の接吻(せっぷん)で覆ったに違いない。だが、この感動的な場面は、身を焦がす情熱の死に絶えた二十一世紀の日本でおこなわれたことを忘れてはならない。
 蓮乃に背中をさすってもらい、洋子の涙もやっとおさまった。蓮乃に慰めてもらっている間、自分が本を好きなこと、図書委員をしていること、朝早く登校していつもこの場所で本を読んでいること、千広や洋子と出逢うまで昼休みも放課後もここで過ごしていたこと、千広と洋子と出逢ったことを宿命(蓮乃はこの言葉に特別力をこめた)であると感じていることを蓮乃が語り聴かせてくれる声に、洋子は子守唄(こもりうた)を聴くように耳を傾けていた。
「本当ごめん…。もう大丈夫だからさ。」
 やっとのことで顔を上げた洋子であったが、子どものように泣きじゃくったことの恥ずかしさから、まだ蓮乃の顔を直視できそうになかった。それを察したのだろうか、話題を逸らすように蓮乃がひとつの問いを発した。
「それを傷つけることなしには、心に触れることができない。洋子ちゃんはこれってどう思う?」
「えっ? どう思うって…。…そんなの分かんないや。」
 蓮乃は続けた。「どこかで読んだことがあるんだけど。人間はヤマアラシみたいなものだって。ヤマアラシってわかる?」
「うん。針のたくさん生えた奴でしょ。でもそれってどういう意味なの?」洋子がやっと蓮乃の眼を見ながら答た。
 蓮乃は微笑を浮かべながらさらに続けた。「身も凍るような寒い夜、寒さにこごえてヤマアラシがお互いに身を寄
せ合おうとするでしょ。すると、お互いの針でお互いを傷つけちゃうの。だから、そうならないようにちょうどいい距離を保つことを人間は学んでいくの。」
「なるほど。だからさっき、心を傷付けることなしには触れられないって…。」
「ええ。でも、私はそうではないんじゃないっかて思うの。」
「それって?」
 蓮乃は悪戯な微笑みを浮かべながら、唇を開いた。
「ヤマアラシの針って背中についてるじゃない。だったら、互いに腹を見せ合いっこしたらいいのよ。」
「何それ。もしかして駄洒落(だじゃれ)?」洋子の表情に、しばらく忘れ去られていた、あの陽気な笑いが戻ってきた。
「ふふっ、分かった?」
 二人だけの図書室に(あかね)の差し込むころ、赤く染まった空と海に、二人の少女の笑い声が遠く響き渡った。
 その晩、洋子は寝台に身を横たえ、夢想に(ふけ)っていた。
〈傷つけることなしには心に触れることはできない…。それって、あのときの私たちのことだ。私たちはずっと互いに苦しめ合って、距離を取り合っていた。この関係を新しくするためには、蓮乃ちゃんは私の傷に触れなければならなかった。私の傷とは、蓮乃ちゃんへの嫉妬と、嫌な感情を抱く自分への嫌悪だ。逆に私は、自分の醜い感情をぶつけて、蓮乃ちゃんを傷つけなければならなかった。でも、蓮乃ちゃんは自ら自分を傷つけようとした。そうすることで、私の傷に優しく触れてくれた。〉
〈自ら傷つくことを恐れないこと、それが腹を見せ合うってことだ。〉
 慣れない夢想に心地よい疲れを覚えた洋子は、母に抱かれた赤子のように夢の中へと落ちていった。

第十章 千広の恋

 七月も後半に差し掛かっていた。飛込競技の地域別高等学校選手権を、洋子は周囲の期待どおり、大会一番の演技で終え、八月半ばの全国高等学校総合体育大会へと歩を進めることになった。その前に、地区予選の翌週の土曜日、我らが田舎町の夏を飾る最大の風物詩、花火大会が待ち受けていた。例年の人出は数万人、打ち上げられる花火の数は数千発と、全国規模で見れば大きな規模の大会では決してなかった。しかし、この田舎町にとってこの花火大会は、やはり皆に待ち望まれるビッグイベントであった。赤、青、黄、緑と鮮やかに輝くひとつの夜空を、ひとつの町に暮らす老若男女(ろうにゃくなんにょ)、皆がいちどきに見上げる。こんな特別な日が、一年のうちこの日を除いて他にあるだろうか?
 洋子ももちろん、この花火大会を楽しみにしているものの一人であった。毎年、洋子は千広と二人で花火に煌めく夜空を見上げることにしていた。そして今年は、蓮乃を加えた三人で花火を見ることができるのを、洋子は待ち焦がれていた。
 例年、花火大会を週末に控えた水曜日の放課後、千広の部屋で花火のことが話頭に上がるというのが、洋子と千広の二人の間での暗黙の了解となっていた。そして、今日の水曜日の午後、幼馴染二人に蓮乃を加えた三人が、千広の部屋で膝を寄せ合っていた。
 洋子は、千広の様子に何か違和感のようなものを感じていた。いつもなら、真っ先に花火大会のことに言及する千広が、今日はどことなくそわそわしている気がした。見兼ねた洋子が、とうとう話の流れを変えた。
「そういえば今週の土曜日、花火大会でしょ。今年はこの三人で見に行こうよ!」
「二人とも、ごめんっ!」
 声を張り上げて、大げさな身振りで両手を合わせながら、千広は二人に向かって頭を下げた。
「その、今年は一緒に行けそうにないっていうか…。」いつもの千広とは違い、何とも歯切れが悪かった。洋子は胸のざわつきを感じた。嫌な予感がした。
「えっと、それって、どうして…?」洋子が恐る恐る口を開いた。
「えっと、その、隣のクラスに西澤君っているでしょ。その人から、一緒に見に行かないかって誘われちゃってさ。」
 忽然(こつぜん)、沈黙が訪れた。最も恐れていた言葉を耳にした 洋子は、自分の頭が 真っ白になるのを感じた。あの口の渇きを感じた。〈早く何か言わないと…!〉洋子は やにわに仮面をかぶった。
「それって、もしかしてデートの誘い!? やるじゃん! もー、どうして言ってくれなかったのさー。水くさいなあ、千広ちゃんったら。」
〈上手いこと言えたぞ、全く大した役者じゃないか、洋子。動揺しているのもバレてないはず。〉このときの洋子の張り付いた笑顔のことを想像すると、胸が痛くなってくる。だが、劇を続けなければならない。この不幸な女優は、彼女の演技を続けた。
「それで、デートの誘い、受けたんだよね?」
「うん。別に。よかったんだよね…?」
「当たり前じゃん。どうして私に許可なんて求めるのさ。デート、うまくいくといいね。」
「うん! ありがとっ。あー、なんかスッキリしたぁ。胸のつっかえが取れたって感じ。二人ともありがとねっ。」
 今まで自分の演技に精一杯であった洋子は、このときになってようやく、二人のやりとりの間ずっと無言を貫いていたもう一人の少女の方へと目をやった。洋子の眼は、海底を覆う闇のように深い蓮乃の瞳とぶつかった。その瞳のずっと下で、ゆったり唇が開かれた。
「じゃあ、洋子ちゃんは今年、花火見に行かないの?」
 この言葉を理解するには少し時間がかかった。〈そうか、今年は千広ちゃんと花火を見ちゃいけないんだ。何でこんな当たり前のこと、今さら考えてるのさ、私。〉現実が洋子の胸を締めつけた。息がし辛かった。
「そんなの駄目だって! 私のせいで洋子ちゃんが花火に行けないなんて…。そうだ! 洋子ちゃんと蓮乃ちゃん、二人で見に行けばいいじゃん! 蓮乃ちゃんもそれでいいでしょ?」千広の天性の明朗な声が、凍りついた空気を破るように、狭い部屋に反響した。
「私は別に嫌じゃないけど。でも、私あんまり花火とか興味ないのよ。それに、人混みとか苦手で…。」蓮乃が遠慮がちに答えた。
「大丈夫、大丈夫。洋子ちゃんなら人の少ない穴場知ってるし、ねっ。」千広が洋子の方に顔を向けた。
「あっ、うん。そうだね。せっかくだし、一緒に見に行こうよ、蓮乃ちゃん。」この幕間に再び仮面をかぶった洋子が、蓮乃にどこかぎこちない笑顔を向けながら話しかけた。
「洋子ちゃんがそう言うなら、一緒に行かせてもらうことにするわ。よろしくね。」蓮乃が笑顔をつくって答えた。
「うん。任せて!」洋子が精一杯の明るさを見せながら答えた。
 ところで読者諸君は、千広の隣で花火を鑑賞するという僥倖(ぎょうこう)にありついた西澤氏のことを、そろそろ見知っておきたいとお思いになっていることであろう。本物語の主要人物たちが通う高校は、各学年二クラスずつという規模の小さな学校であり、西澤何某(なにがし)は、三人の少女と同学年の、別のクラスに属する男子生徒であった。容姿はなかなか悪くはなかったが、両頬と額にできたニキビが彼の容貌を少しそこねていた。あけすけにいえば、彼はよくいる浮薄な男子学生でしかなかった。
 そして、洋子もこの人物をそのように評していた。いや、それよりもっと悪かった。別に、彼を性悪であるとか思っていた訳ではなかった。むしろ、彼は結構気の利く男であった。ただ洋子は、彼を特別いやらしい男だと感じていた。洋子は、昨年彼と同じクラスに属していた(千広は別のクラスに属していた)。彼女はよく、彼が他の男子連中と一緒に、教室の中でいやらしい話を、周りに聞こえるような声で交わしているを耳にしていた。さらに拍車をかけるように、洋子は彼が自分に好意をもっているという確かな噂を耳にしていた。彼が自分に投げかける視線がいやらしいものに思えて、どうにも我慢ならなかった。そのため、洋子の彼に対する態度はかなり冷淡になった。気のいいこの男は、洋子が自分の与える好意をありがたく思っていないことに勘づくと、その好意をさっさと引っ込めてしまった。
 花火大会に行くことが、こんなに憂鬱(ゆううつ)であったことは今までになかった。
〈もし会場で、千広ちゃんとあいつが二人でいる所に鉢合わせたら、私は正気で居られるだろうか?〉
 あの水曜日から花火大会当日の今日まで、洋子はできる限り千広のことを考えないように努力した。しかし、昨晩はなかなか眠れなかった。〈あのいやらしい眼が、彼女のことをじっと見つめる。そしたら、彼女はあいつに笑顔を返す…。〉想像したくないことが幾度も彼女の頭をよぎり、彼女を苦悶(くもん)させた。明日の朝が来て欲しくなかった。だが、洋子はいつの間にか睡魔の手に落ち、土曜日の朝が洋子の(まぶた)を再び開かせた。夕刻、洋子は重い足取りで、蓮乃との待ち合わせ場所へと向かっていた。
 (にぎ)わう人。立ち並ぶ出店。あたり一面に、祭りの雰囲気が立ちこめていた。普段は大人っぽい蓮乃が、祭りの活況を子どものように物珍しげに眺める様子に、洋子の張り詰めた心は少しほぐれてきた。
「本当に花火初めてなんだね。」
「うん。でも、こうやって歩いてみると、案外悪くないわね。」
「でしょ? あっ、焼きそば屋さんだ。蓮乃ちゃん、一緒に食べよっか。」
「ふふっ、いいわよ。」
「おじさん、焼きそばひとつちょうだい!」
〈せっかく蓮乃ちゃんと一緒に来たんだから。目一杯楽しまなくちゃ。〉
 憂鬱な気分は祭りの活況の中へと霧散(むさん)していった。二人は、祭り特有の空気を存分に味わった。しかし、これはまだ今日の晩餐の前菜に過ぎなかった。上空から「ドンッ」と空気を震わす音が聞こえた。恐らくこの場に居合わせた全ての人が、夏の夜空を一斉に見上げた。本日のメインディッシュ、花火の打ち上げが始まったのだ。
「蓮乃ちゃん、こっちこっち。」洋子は、息を切らせながら遅れてやってきた蓮乃の手を取った。
「人が少なくって、本当に穴場だね。」
 二人の眼前に広がる夏の夜空が、華やかな色彩に燃え上がった。一瞬間遅れて、二人の鼓膜が震えた。二人は肩を並べ、同じ方向へと目をやった。とりどりの色彩に燃える炎が、夜の闇に次々と消えてゆく方へと。
 空がひときわ派手に燃え上がった。空気が強く震えた。あたりから感嘆の声が洩れ渡るや否や、空一面が極彩色(ごくさいしき)の爆発に包まれた。本日のフィナーレだ。花火の大連弾に、あたりはますます明るくなった。この明かりのもとで、洋子の眼は、今まで視界の端にぼんやりと映っていた、肩を寄せ合うひと組の男女の姿をはっきりととらえた。ふと、男の方が女に向かって何か話しかけた。女が男にその横顔を向けた。洋子は、あの七色に輝く眼を見た。彼女はいつもと違う凝った髪型をしていた。それは紛れもなく、千広その人であった。あまりの美しさに彼女から眼が離せなかった。今や千広は隣の男と向かい合いになっていた。花火が落とす明かりのもとで、二人の影が重なりあった。洋子の中で、何かが一気に崩れ落ちた。
「ごめん、私帰るね。」
「えっ?」
「本当ごめん。気分悪くて…。」
いまだ絢爛(けんらん)を極めて輝く夜空を背に、ただ一人茫然自失(ぼうぜんじしつ)(てい)で立ち尽くす蓮乃をあとに残して、洋子は夜の闇の中へと駆け去った。

第十一章 疑惑

 どうにかこうにか自分の部屋にたどり着いた洋子は、()身着(みき)のまま寝台に突っ伏し、枕に顔をあて思いっきり泣いた。思いっきり泣いたら、ぐちゃぐちゃだった心が少し落ち着いてきた。冷静さを取り戻した心の中に、真っ先に千広のことが思い浮かんできた。それから、一人置いてけぼりにしてきた蓮乃のことが思い浮かんできた。
〈そうだ、蓮乃ちゃんに謝らないと…。〉洋子は、携帯電話を手に取り、蓮乃への言い訳と謝罪のメールを打った。メールを送信し終えた洋子は、ふと今の自分の冷静さに奇妙な感じを抱いた。〈あんなあとに、平静な顔して蓮乃ちゃんにメールできるなんて、私はどうしちゃったんだろう。〉
 洋子はもう一度 千広のことを考えようとした。それから、千広の隣にいたあの男のことも考えてみた。すると、自分の中に ふつふつと憎悪の感情が わき上がって来るのを感じた。しかし、それは明らかにあの男に対するものではなかった。あの男のことなど、考えるや否や、夜空の花火のように消えてしまうのであった。〈おかしいな、あいつのことなんてどうでも良くなってる…。〉
〈やっぱり、私はあの男のことなんて少しも憎んでいないらしい。じゃあ、私は誰を憎んでいるんだ?〉この答えの明らかな質問を自身に投げかけた洋子は、背後から不意打ちを食らったかのように突如跳ね起きた。
〈私が千広ちゃんを憎んでいる! あんなに慕っている彼女のことを! いやそんなはずはない。きっと嫉妬(しっと)で頭がおかしくなってるんだ。〉洋子はもう一度、あの男のことを考えようと努めた。だが、その試みは徒労に終わった。
 洋子は、思い詰めた顔を床に向けながら、自分の狭い部屋の中を行ったり来たりしていた。
〈あのいやらしい眼が千広ちゃんを見つめることが、耐えられないわけではないらしい(このときの洋子は、あのいやらしい眼を思い描くことができなかった)。千広ちゃんがあの眼をあの男に向けていることが耐えられない。そう、あの綺麗(きれい)な眼が、私以外の誰かに向けられていることが。〉
〈私はあの眼を独り占めしたかっただけなのか? そうだ。小学生のころ、赤いブイを目指して泳いだときも、あの高飛込(たかとびこみ)の大会を見たあと、飛び込み台に立つようになったときも。〉洋子は、どんどん考えを推し進めていった。
〈私は今あの眼をどう思っている? 今はただ、憎いだけだ。では、あの眼はもう綺麗ではなくなってしまったのだろうか?〉この考えに至ったとき、洋子は、雷が落ちたのを耳にしたときのように頭を急に上げて立ち止まった。
〈じゃあ、私の恋心は? 私はもう彼女のことを愛していないのだろうか?〉この疑惑に、洋子は抜けない矢を受けたかのように苦しめられた。この疑惑を認めてしまえば、千広と出逢ってから今までの自分の人生が、全て否定されてしまう気がした。
 その晩を、洋子はまんじりともせず過ごした。明け方前、ようやく少しだけ眠ることができた。日がすっかり昇ったころ、ゆっくりと起き上がった洋子は、(まぶた)が非常に重いことに気が付いた。部屋の勉強机の上に置いてあった鏡をのぞくと、眼は充血し、少し腫れていた。〈そっか、昨日は泣いてたんだっけ。〉昨日のことを、まるでずいぶん昔のことであるかのように思い出した。携帯を開くと、蓮乃から昨日の洋子のメールに対する素っ気ない返事が届いていた(蓮乃のメールは、いつも事務的な感じがして素っ気なかった)。
 高飛込の練習は休もうかと思ったが、家でじっとしているのも気が滅入るし、かといってどこかに出かける気にもなれないので、やはり練習に行くことに決めた。そして、案の定、調子が出なかった。
「ちょっと、そんな調子で次の全国、大丈夫なの?」
「あー、ちょっと寝不足でさ。」
「ふーん、しっかりしてよね。洋子がそんなだと、あたしも調子狂うんだから。」
 色白の肌と、肌の色とは対照的な黒髪を後ろで一本結びにした、気の強そうな少女が洋子に話しかけるや早く、背を向けて飛び込み台に足を進めていった。彼女——御堂玲華(みどうれいか)——は、洋子と同い年の高飛込競技者であった。玲華は中学三年の全国大会で三連覇を逃し、洋子の次席をおさめてから、洋子をライバルとして見ていた。その彼女が飛び込み台に立っているのをぼうっと見ていた洋子は、彼女の兄、御堂純が五年前の夏、あの飛び込み台に立っていたこと、その彼をキラキラした眼で見つめていた千広のことを思い出していた。
〈駄目だ。集中しないと。〉飛込競技は、一歩間違えると大怪我につながりかねない。洋子は再び気を引き締め、10メートルの高さへと登っていった。
 軽く深呼吸。足下に広がる水面に軽く目をやる。それから、無意識に、誰もいない観客席を横目で見た。誰もいないはずの観客席に、祈るような姿の千広が見えた気がした。洋子が初めて、10メートルの高さから飛び降りるとき、千広はまるで自分がこれからこの高さから飛び込むかのように、観客席から洋子を必死に見守ってくれた。〈私が水面から顔を出したとき、千広ちゃん大はしゃぎしてたっけ。〉懐かしさに緩む口元をきっと引き締める。〈まただ。集中しろっ、洋子。〉洋子が飛んだ。水しぶきが上がった。
 もう二、三本試したが、やはり調子は出なかった。そして、練習を早めに切り上げた洋子は、消化不良のままの状態で、母の運転する車の後部座席で揺られていた。〈今日は、千広ちゃんのことで全然集中できなかった。やっぱり、千広ちゃんに会って確かめないと。まだ、私が彼女のことを恋しく思っているのかを。〉
 洋子は早速、千広と連絡を取り、午後の二時間ほどを千広の部屋で彼女と二人っきりで過ごした。久しぶりに二人で過ごす時間は、洋子にとってあまりにも(いと)おしく感じられた。それは甘い夢想のひとときのようであった。あっという間に時間が過ぎ去った。
 夕方、バス停まで見送りについてきた千広が、笑顔で(しゃべ)っているのを心地よく耳にしながら、洋子は次のように考えていた。〈やっぱり、昨日は頭がどうにかしていたんだ。だって今、私は彼女をこんなにも愛おしく感じているんだもの。〉
「ねえ、洋子ちゃん、ちゃんと聞いてる?」千広の声が洋子を夢想から呼び戻した。
「あっ、ごめん。何の話だっけ。」
「だからさ、その、昨日の話でさ…。」
 歯切れの悪く、どこかもじもじする千広に対して、洋子は不快そうにひとことだけ返した。「昨日?」
「うん。だからさ、昨日、告白されて…。それで西澤君と付き合うことにしたんだ。」
少しうつむき加減で、明らかに夕陽のせいだけではなく、顔を紅潮させた千広が洩らしたこの言葉は、洋子をはっとさせた。〈千広ちゃんに彼氏ができる。どうして私はこのことを考えていなかったんだ?〉
 バスが近づいてきた。
「あっ、バス来ちゃったね。」気まずさに耐えられず話を逸らそうと、千広がさっきよりいくらか大きな声で言った。バスが二人の前に停車した。扉が開いた。洋子は思い切って千広の方を振り向いた。
「その、良かったじゃん。昨日、うまいこといってさ。」
「洋子ちゃん、ありがとっ。蓮乃ちゃんにも報告しないとね。」洋子の肯定的な答えにほっとした千広は、安堵の混じった声で答えた。
「あっ、そうだよね。じゃあ、また明日学校でね。」
「うんっ。それじゃあ、ばいばい。」
 夕陽の差し込む窓際の席で、ゆっくりとバスの振動に揺られながら、洋子は考えた。〈そうだった。蓮乃ちゃんも今のことを知ることになるんだ。昨日あんな別れ方をしたあとで、蓮乃ちゃんはどう思うだろうか?〉
 翌日、蓮乃はいつもどおりに振舞っていたため、洋子は少し拍子抜けしてしまった。千広から例の報告を聞かされた蓮乃は、簡単な言葉をひとこと返しただけであった。彼女のつれない態度を茶化した洋子に、蓮乃はただひとこと、「私、恋愛には興味なくって」と返しただけであった。その次の日も、全く同じ調子の蓮乃に、洋子はかえって不安を覚えてきたほどであった。
「ごめんっ。今日は二人とも先帰ってて。」
 水曜日の放課後、千広がここ数日の流れを断ち切る一声をあげた。例の歯切れの悪さで、千広は続けた。
「その、実は、今日の放課後、一緒にデートしようって誘われちゃてさ…。だから、今日は二人と一緒に帰れないんだ。」
 何かの因縁(いんねん)であろうか、水曜日の放課後、洋子と蓮乃は再び二人取り残されることとなった。
「じゃあ、私、今日は久しぶりに図書室に寄っていくね。」蓮乃が、洋子の方に顔を向けて話かけた。その瞳には何か裏があるように洋子は感じた。洋子は反射的に答えた。「じゃあ、私も一緒に行くよ。」
 二人は無言のまま階段を下り、図書室へと向かっていた。二人とも、これから何か決定的な話合いが行われることを、互いの肌にひしひしと感じていた。図書室の扉が、その先に何かが待ち受けているかのような威圧感を放っていた。扉ががらっと大きな音を立てて開け放たれた。
 蓮乃はカウンターを通り越して、手近なテーブルに腰かけた。彼女は隣の座席の背を引いて、優しい笑顔を洋子の方に向けた。そして、子どもをあやすかのように優しく語りかけた。「隣、座って。」
 洋子はこくりとひとつ頷くと、蓮乃が示した椅子にぎこちなく腰を下ろした。図書室の静けさとは対照的に、洋子の胸は緊張に高鳴っていてた。暑さで頭がぼうっとしてきた。
「その、花火大会のときは、本当にごめんなさい。」
「うん。大丈夫。そんなの別に気にしてないからさ。」
「そっか…。」
 図書室の中では、ジージーと、遠くからうるさく(せみ)の声が鳴り響いていた。洋子の心臓は、今や喉元まで届かんばかりであった。汗が額に浮かんできた。〈覚悟を決めるんだ。今日こそ、腹を見せるんだ。〉
「何でか聞かないの…?」意志とは反対に、蚊の鳴くようなか細い声が鳴った。
「何となくわかってるつもり。千広ちゃんのことだよね? 今日話したいことって。」
 蝉の声が、まるで頭の中で鳴り響いているかのようにうるさかった。洋子は机の上に目を落としたまま、懺悔(ざんげ)するように恐る恐る口を開いた。
「私さ、千広ちゃんのこと、ずっと好きだったの…。」
 最後の方は声がうわずった。まるで自分の声ではないかのような感覚を覚えた。
「やっぱり、そうだったんだね。」
 隣から聞こえてきた声は、相変わらず抱擁(ほうよう)するような優しい声音であった。洋子はおずおずと蓮乃の方に、今にも泣き出しそうな顔を上げた。
「好きって、友達としてって意味じゃないんだよ…?」
「ええ、わかってる。」
「…気持ち悪くないの? 私のこと。」
「全然。そんなはずないじゃない。」
「女の子のこと好きなんだよ、私…。」まるでいっそのこと責めてもらった方が楽だというように、洋子は自分を卑下する言葉を執拗(しつよう)に繰り返した。そんな洋子の態度を前にしても、蓮乃は優しい調子を保ちつづけた。
「その気持ち自体は、全然悪いことじゃないんだよ、洋子ちゃん。だって、本当に相手のことを想う気持ちに、性別のあれこれなんてないじゃない。私はそう思うの。」
 蓮乃の裏表のない答えに勇気づけられた洋子は、全てを蓮乃に話した。自分が先日の花火大会で何を見たのか、そして、それを見た自分の心に生じた疑惑がどんなものであったのかを。
「…自分を見てくれない千広ちゃんのことが心から憎くなって。でも、一緒にいるとやっぱり(いと)しくなって。だから、自分の本当の気持ちがわかんなくなっちゃって…。」
 洋子の告白を全て聞き終えた蓮乃は、何やら難しそうに顔をしかめて、険しい表情をしていた。ようやく、蓮乃は決心した表情で、洋子と正面から向かい合った。
「洋子ちゃん、恋は(みにく)いものよ。罪なものよ。わかるかしら?」
 洋子はこの言葉に驚かされた。何とも返事できなかった。しかし先日、蓮乃が恋愛には興味ないと言っていたことが不意に頭をよぎった。
「…どういう意味?」
「よく、誰かが好きだ、誰かを愛しているとか、お互いに好き合っている、愛し合っているとか、世間では言うでしょ。私はあれって、大抵嘘だと思うの。」蓮乃はうつむき加減で、ひとつひとつ選ぶように言葉を発した。
「嘘?」
「そう。そんなことを言ってる人は、本当は相手のことを愛してなんかいないと思うの。ただ、相手に愛されたいと思ってるだけよ。だから自分が愛されていないってわかると、相手を憎んだり、軽蔑(けいべつ)したり、傷つけたりする。そんなもの、本当の愛じゃないわ。」
 洋子は胸に短刀の一撃を食ったかのような表情をした。恐怖や絶望、不快感などがごちゃ混ぜになった感情に思わず顔をしかめた。「つまり、何が言いたいの?」思わず語調が冷たくなった。それに気づかない蓮乃は、この手負いの獣に対して、とどめの矢を放った。
「洋子ちゃんは、千広ちゃんのことを本当に愛しているの?」
 言葉の矢が宙に放たれたときには、すでに遅かった。蓮乃はやっと、洋子の異常な様子に気がついた。洋子は立ち上がり、顔をうつ伏せにし、肩を震わしていた。そして、震える声でやっとの事で言葉を吐き出した。
「蓮乃ちゃんは、私に何がしたいのさ…。」
 口が硬直してしまったかのようで、何も言えなくなってしまった。蓮乃は、ただ扉を無造作に開け、幽霊のようにゆっくりと歩き去ってゆく洋子を見ていることしかできなかった。図書室には、蝉の声が相変わらずうるさく響いていた。

第十二章 傷つけ合う

 幸か不幸か、夏休みに入り、洋子と蓮乃の関係はすっかり疎遠になっていた。恋に浮かれる千広は、二人の間にできた溝に気づくわけもなく、二人の仲裁役としては全く役に立たなかった。それに洋子は、八月中旬に控えた飛込競技の全国大会の練習に忙しくしていたので、二人とは全く顔を合わせずに済んでいた。表向きには、洋子は高飛込(たかとびこみ)の練習に没頭してるように見えたが、実際は死んだように淡々と練習をしていた。というのも、洋子は自分が高飛込のことを本当は好きではないということを、今やはっきりと意識していたから。水泳も高飛込も、千広に愛されたいという一心で取り組んでいたことは、洋子にとってもはや明白な事実であった。
 ところで、洋子が飛び込み台に立つとき、無意識に観客席の方に目をやる癖があったことに読者は気づいておられたであろうか。洋子は練習中、飛び込み台の上から観客席に目を向けるたびに、遠いものを見るような千広の眼がそこにある気がして、ひどく心を乱された。その眼を洋子が初めて見たのは、中学二年生の夏、初出場の全国大会で、決勝にまで勝ち進んだときであった。

 初めての全国大会での、初めての決勝戦。洋子は決勝戦最後の演技者として、すでに四度の演技を終え、最後の演技をおこなうため飛び込み台へと登ったところであった。女子飛込競技は、五度の演技の合計得点の寡多(かた)で順位が決まる。自分の各演技の得点と、すでに演技を終えた競技者の合計得点および順位が会場にアナウンスされており、最後の演技を確実におこなえば、自分が優勝するであろうことを洋子は意識していた。そして、洋子は自分にその実力があることをもしっかりと意識していた。飛び込み台の上に立った。会場全体の視線が、自分一人に集中しているのを肌に感じた。無意識に、観客席の彼女のいるところへと目をやった。彼女の眼は、まるで手の届かないほど遠くにあるものを見つめるように寂しげであった。水しぶきが上がった。結果、洋子は四位であった。表彰台には届かなかった。

 中学校入学前、千広がなぜ自分に黙ってスイミングスクールを辞めてしまったのか、洋子は今では嫌でも理解していた。自分が、彼女を傷つけていたからだ。ただ千広に、キラキラ輝くあの綺麗(きれい)な眼を 自分だけに向けて欲しかった。その一心で、高飛込の練習に必死に取り組んできた。そのせいで 彼女を知らずに傷つけていた。彼女の誇りをずたずたに引き裂いてしまった。しかし、今さらそのことに気づいたところでどうしろというのか?
 洋子を苦しめていたのは、千広への罪の意識だけではなかった。洋子の両親も彼女を苦しめていた。洋子は今まで国際大会に出場したことはなかった。国際大会出場メンバーの選考会で洋子が演技をすれば、代表メンバーに選ばれることはほぼ確実だと思われていた。しかし、洋子は世界で自分の実力を試す勇気がなかった。それはなぜか? もし、世界に羽ばたく決意をしたら、自分と千広を結ぶ糸は確実に切れてしまうと洋子は予感していたからだ。洋子の両親は、世界に足を踏み入れようとしない洋子に不満であった。とうとう今年、両親は、来春の世界選手権の選考会に出場することを彼女に説得し、世界で自分の実力を試すことを約束させてしまった。両親はこの約束事をコーチの耳にも入れることを忘れなかった。ライバルたちもそのことを周知していた。
 両親は、洋子が今回の全国大会で圧勝し、来春の選考会に期待の星としてその頭角を世間に堂々と示すであろうという期待を、常にちらつかせていた。特に全国大会が目前に差し迫った今は、なおさらであった。この期待の目が、洋子には重荷であった。練習をしているときも、コーチやライバルたちの、期待や競争心を剥き出しにした態度がひどく重苦しいものに感じた。それらを意識すればするほど、演技がうまくいかなかった。今まで簡単にできていたことがひどく難しいように感じた。そのせいで、どんどん自己嫌悪に陥っていった。
 特に、同年代の御堂玲華の視線は、刺すように痛く感じた。玲華は、才能があるくせに国際大会に出ようとしない洋子をひそかに軽蔑(けいべつ)していた。その軽蔑の中には、自分がどれだけ努力したところで、洋子の才能には敵わないであろうという事実からくる、強烈な嫉妬(しっと)と劣等感が混ざっていたことは間違いないだろう。

 ある日、洋子は恐ろしい夢を見た。夢の中での洋子は、いつもの飛び込み台の上に立っていた。洋子は、背後に誰かの気配を感じて、思わず振り返った。そこには両親が立っていた。その顔は靄に包まれてよく見えなかったが、明らかに見慣れた自分の両親の姿であった。口元だけは、靄に包まれていないためにはっきりと目にすることができた。その口元が動いた。『洋子、来年の世界選手権、期待しているからな。』洋子は恐怖に思わず眼を背けた。眼を背けた先のプールサイドには、コーチや玲華、いつも同じ飛び込みプールで一緒に練習しているメンバーが立っていた。皆の顔は死んだように蒼白であった。しかし、その眼は燃えるように紅く血走り、洋子をきつく睨んでいた。洋子は救いを求めるように観客席を見た。観客席には、千広がただ一人で立っていた。彼女は、遠くにあるものを見つめるような、あの寂しい眼をしていた。彼女の口元が動きを見せた。その声は、まるで彼女が洋子の耳元で囁いているかのように生々しく聞こえてきた。
『どうして、私のことを置いていくの?』
 突如、誰かに足をつかまれる感覚を覚えた。洋子はつと足元を見た。そこには、幼いころの千広がいた。だが、その眼にはあの輝きはなかった。洋子はそのまま足を引っ張られ、深淵(しんえん)へと落ちていった。

 日々、洋子は暗澹(あんたん)たる気分に沈んでいった。しかし悲しいことかな、洋子はあまりに自分を偽って生きていくことに慣れ過ぎていた。彼女は決して自分の沈んだ心を表情には出さなかった。そのせいで、誰も洋子の様子がおかしいことには気がつかなかった。皆が皆で、知らず知らずのうちに彼女を苦しめていた。蓮乃ならば、洋子の様子が明らかにおかしいことを嗅ぎつけたかもしれない。しかし、洋子は蓮乃と会うことを避け、一切の連絡を断っていた。そして、ついにあの事件が起こった。
 それは、全国高等学校総合体育大会、女子高飛込の予選のときであった。そこで誰もが予想もしなかった事態が起こったのだ。本大会の優勝候補と目されていた一人の選手が、演技中に事故を起こし、棄権扱いとなったのだ。彼女は初っ端の演技で派手な水しぶきをあげて、文字どおりプールに落ちてしまった。彼女はなかなか浮いてこなかった。水の中で意識を失っていたのだ。会場は一時騒然となった。彼女は医務室に運び出され、大会は続行された。現場を目撃した人々は、彼女が演技の直前に、まるで恐ろしいものを見たかのような眼で観客席を見ていたという。当の少女は、軽度の脳震盪(のうしんとう)により意識を失っていたようで、すぐに意識を取り戻し、幸い軽い打撲(だぼく)だけで済んだ。その少女が誰であるか、読者諸君はもうお分かりであろう。それは、安海(やすみ)洋子であった。

第十三章 愛に触れる

 洋子は深淵(しんえん)へと落ちていった。洋子は、自分がどんどん深みへと沈んでいくのを意識した。漆黒の闇の中で、洋子は必死にもがいた。ジタバタする洋子は、自分の手が何やら生温かいもの触れる感触を覚えた。どうやら それは人の腕のようであった。洋子は、藁にもすがる思いで それをつかみ、自分のもとへと引き寄せた。そしてその顔を見た。彼女を見つめ返す その顔は、まさしく自分自身の顔に他ならなかった。

 ゆっくりと(まぶた)を開ける。見慣れない天井と、のっぺりした明かりを一面に広げる照明が視界に飛び込んでくる。身体(からだ)を起こしてあたりを見回す。洋子は、自分が今どこにいるのかをようやく理解した。洋子は病室にいた。医者からは、軽い脳震盪(のうしんとう)を起こして意識を失っていたこと、後遺症(こういしょう)もなく軽い打撲(だぼく)だけで済んだこと、二、三日すればすぐに退院できることを聞かされた。両親やコーチが見舞いに来た。翌日、千広もやってきた。千広は泣いていた。退院当日、母が迎えにやってきた。コーチもそこに居合わせた。しばらく練習を休むように言われた。コーチは全国大会の結果も教えてくれた。女子の部では、玲華が優勝したらしい。とうとう蓮乃は見舞いには来なかった。
 家に帰っても、両親は大会の話に触れようとはしなかった。しかし、両親が自分を扱うときのおずおずとした気配りに、洋子はすぐに気が付いた。洋子はかえって気詰まりを覚えた。そんななか、意外な人物から連絡が入った。それは翔太からであった。三年前、翔太が高校二年生のとき、ダイビングショップを経営する彼の父が仕事中に大怪我をし、実家を手伝うために高校を中退して以来、自然と彼と顔を合わせる機会も減っていた。そんな事情の中、洋子は、翔太から話があるからと呼び出されたのだ。
 待ち合わせ先に指定された、洋子の家の近くの展望型水門の上へと彼女はやってきた。晴れた日であったなら、ここから小都会を囲む海が一望できたが、今日は生憎(あいにく)の天気であった。洋子は、翔太の隣に車椅子に座った一人の男性がいることを即座に認めた。翔太と同年代くらいで、真っ黒な髪に白い肌をしており、顔立ちは中性的ながらもかなり整っていた。翔太とは対照的なタイプの彼の顔を、洋子はどこかで見覚えがあった。洋子の姿を認めた翔太が口を開いた。
「おう。わざわざ来てもらって悪いな。今日は、こいつがどうしてもお前に会いたいってよ。」
 洋子に会いたいという青年が、爽やかな声で話し始めた。
安海(やすみ)さん、こんにちは。いつも妹の玲華が世話になってるみたいだね。」
 彼は玲華の兄、御堂純であった。読者も彼のことを覚えているだろう。小学六年生の夏、洋子たちが彼の高飛込(たかとびこみ)の卓越した演技を見せつけられたことはすでに話した。純が話を続けた。
「この前の全国大会のこと、妹から聞いたよ。そのことで、何か玲華から言われたりしなかったかい?」
「いえ、あれからまだ彼女には会っていないので。」洋子は答えた。純は、明らかに言いにくそうなことを言おうとするように、眉間(みけん)にしわを寄せながら再び話を続けた。
「そうか。しかし、玲華の奴、君が予選敗退したおかげで、自分が優勝できたと言っていて、それがかなり不満らしい。あいつはプライドが高いから、君に気を悪くするようなことを言うかもしれない。でも、気にしないでやって欲しい。あいつは、君の才能に嫉妬(しっと)してるだけだろうから。」
「ええ、わかりました。」洋子は冷淡に答えた。純は洋子のそんな態度を気にも留めずに続けた。
「見てのとおり、僕はもう飛込をしていないんだ。君と同じ高校二年生のとき、大会でへまをやってね。それでこのざまさ。でも、見たところ、君はまだ飛込を続けられそうだ。誰にでも挫折はある。それにめげずに、来年の世界選手権に出て欲しいんだ。」
 純の表情に、同情や激励(げきれい)の他に、何か押し付けがましいものがあるのを感じとった洋子は、一瞬悪魔のようなほくそ笑みを浮かべたあと、聞き手にもわかるような冷淡さでやり返した。
「言いたいことはそれだけですか。私、来年の選考会には出ませんから。それでは失礼します。」
 昔から洋子を知る翔太は、彼女の信じられないほど冷ややかな応答に口をぽかんと開けているしかなく、背中を向けてさっさと立ち去る洋子に、声をかけることすら忘れていた。水門を出たところで、翔太はやっと洋子に追いついた。
「おい! 一体どうしちまったんだよ。らしくねえじゃんよ。」
「ねえ、ひとつだけ聞いてもいい?」
「何だよ?」
「どうして万愛姉(まえねえ)と会わなくなったの?」
 唐突の質問と、洋子の精気を失ったかのような表情に面食らった翔太は、返事に詰まり、やっとのことで次のようにもごもごと呟くことができただけであった。「べ、別に。今、関係ねえだろ…。」
 この(あわ)れな男に対して、洋子はただひとこと「そっか」とだけ返して、その場をあとにした。翔太は、洋子の立ち去る背中を、ただ黙って見ていることしかできなかった。
 洋子はここ数日間、家の中に閉じこもってしまい、口数も明らかに減ってしまった。食欲もあまりなかった。食事中も、まるで鉛を喉に押し込むかのようだった。さすがに心配した両親は、洋子を医者に見せようか迷った。しかし、それを洋子に告げることもできず、途方に暮れていた。
 この冷笑的な孤独に浸る洋子に、あの恐るべき死魔の影が這い寄ってきた。その黒い影は、洋子の影と容易に混じり合ってしまった。そして、死魔が人にもたらすあの感覚、つまり、生きることへの無気力からくる強烈な倦怠感(けんたいかん)が、洋子の全人格をのっとってしまった。死魔にとり()かれた洋子は、夜の闇を煌々(こうこう)と照らす月の引力に潮が引き寄せられるように、自殺という観念の妖しい魅力に 自然と引き寄せられていった。この幽霊に魅了された洋子は、たとえば電源コードなど、何であれ紐状のものを目にするたびに、首吊りのことを 思い浮かべた。そして、その実行方法とその成功の可能性を、恐ろしいほど冷静にひとつひとつ検討しているのであった。また、夕刻、ひとけのない海を眺めていると、そこに白くなった自分が浮かんでいる光景がはっきりと脳裏に浮かんできた。ときたま家にいることに嫌気がさして外に出たときには、ひとけのないところに差しかかると、ここでならば誰にも邪魔されることなく、静かに実行に移すことができるだろうと考えた。こうした考えに心を奪われているときには決まって、冷たくなった自分に向かって、千広や両親が己の過誤を悔い、赦しを請う姿を想像して、言いようもない悦びを覚えるのであった。そして、この悦楽をともなう不気味な妄想だけが、洋子を慰める唯一の友であり、洋子を浮世の生に結びつける唯一の絆でもあった。

 ある日、洋子に一件のメールが届いた。蓮乃からであった。その内容は次のようなものであった。

  本当は洋子ちゃんには黙っておこうかと思ってたんだけど。でも、やっぱり言うことにします。最近、千広ちゃんの様子がおかしいの。彼の話になると急に話題を変えようと焦るの。
  彼と何かあったんだと思う。とりあえず伝えておきました。
                                                                                  蓮乃

 このメールを見たとき、洋子の眼にとうに消え尽くしてしまったかと思われていた光が戻ってきた。その光は異様な輝きを放っていた。彼女の凍てついた心は、誰か他の人をも焼き尽くすほどの生命の業火(ごうか)に今や燃え盛っていた。洋子は居ても立ってもいられず、家を飛び出した。バスを待つことすらできなかった。高校に入ってからほとんど乗っていなかった自転車をつかんで、道路へと くり出した。このときの洋子は、もはや 何も考えてはいなかった。千広が留守ではないのか、先に連絡しておくべきではないのかなど、考える余裕もなかった。ただただ、千広のもとへと急いでいた。そこに行けば、何かにありつけるとでもいうように。
 千広は家にいた。洋子は、彼女の部屋に上げてもらった。特に千広に変わった様子はなさそうであった。むしろ、いつもと様子が違うのは、どう見ても洋子の方であった。千広は不審に思って洋子の顔をのぞいた。
「どうしたの? そんなに汗だくになって…。」
「千広ちゃん、聞きたいことがあるの。」千広の問いには答えず、洋子がぞんざいにに言い放った。
 別人のような洋子のありさまに恐怖を感じた千広は、無理に笑おうとしながら答えた。「どうしたのさ、洋子ちゃん。なんか怖いよ?」「あの男と何かあったんでしょ。答えて。」間髪(かんぱつ)入れず洋子が続けた。
「えっと…、一体、何の話?」
「とぼけないで!」
 そのとき洋子は、両手で千広の肩を強くつかんだ。その際、千広が一瞬痛そうに顔をしかめたのを、洋子の血走った眼は見逃さなかった。洋子は急いで千広のTシャツの肩の部分を乱暴に(まく)り上げた。千広の左肩には痛々しい青痣(あおあざ)ができていた。洋子は、全身の血が逆流するのを感じた。燃えるような目つきをしながら、(おび)える千広に畳みかけた。
「あいつにやられたの?」
「それは、その…。」
「何があったの? ちゃんと言ってよ。」
 千広は恐怖に肩を震わせ、恥辱に眼を(うる)ませながら、こわごわと語った。
「西澤君に無理矢理されそうになって、抵抗したら、殴られて…。」 
 千広のこの告白を聞いたときの洋子の表情を、どうして描くことができようか。それはこの世のものとは思えない表情であった。憤怒(ふんぬ)とも歓喜とも、何とも見分けがたかった。このときの洋子の心の中には、旋風が渦巻いていた。〈あいつを殺してやる…。そうだ…! 私はまだ彼女を愛しているんだ! だってこんなにもあの男のことが憎いんだから。彼女が傷つけられたことに、怒りと憎しみで全身の血がこんなにもわき上がっているんだから。〉
 不意に洋子は両手を千広の肩から外し、素早く出口の方を振り向いた。
「どこ行くの? 洋子ちゃん!」千広が悲痛な声で呼び止めた。洋子は取っ手にかけていた手をゆっくりと下ろして、ひと粒ひと粒噛み砕くように(しゃべ)った。
「安心して。もう大丈夫。私がなんとかするから。私があいつをぶん殴ってやるから。」
「ダメっ! そんなことしちゃ!」千広は洋子に(すが)りついた。
「何で止めるの!? 離してよ!」洋子は取り縋る千広を振り払い、獲物を目の前にした猛獣のように、彼女をきつく(にら)みつけた。
 千広が次に放ったひとことは、猛る獣の心臓をひと突きにする効果を発揮した。洋子はその言葉に、すっかり色を失ってしまった。千広は泣きそうな声で、こう答えた。
「だって…、洋子ちゃんには関係ないでしょ…。」
〈関係ない…! そうだ、彼女の言ったとおりだ。お前に一体何の関係があるというんだ? 彼女とあの男の間に割って入ったとして、一体何になると思っていたんだ?〉
 このときの洋子の恐ろしいほど蒼白な顔を目にして、千広は思わず後退りしてしまった。傷ついた獣が足をひきずるように、背を向けてその場を去っていく洋子に対して、千広は何も言うことができなかった。千広はその場に膝をがっくりと落とし、ただただすすり泣くばかりであった。
 乗ってきた自転車のことも忘れて、旅館の前に立った洋子は、吹きつける潮風の匂いを感じた。眼をあげると、海に白い波が立っているのを見た。目頭(めがしら)が急に熱くなってくるのを感じた。涙が落ちぬようにと、洋子は思わず空を見上げた。上空では、地上での人間の営みなど眼中にもないといったふうに、一羽の(とび)が円を描いて自由に飛び回っていた。一刹那(せつな)、洋子は全力で走り出した。
 走りに走った。一度の後ろを振り返らなかった。随分長く走った。小さな山の狭い石段の道を駆け登った。頂上は木々の緑に囲まれて薄暗く、奥にはひとつの小さな(ほこら)が鎮座していた。その真ん中で、とうとう洋子はどうと膝をつき、地に倒れ伏してしまった。小さな祠に(まつ)られた神を前にして、洋子は一人(むせ)び泣いた。もうあの男ことなど少しも憎くはなかった。千広のことも憎いとは思わなかった。ただ自分のことが情けなく、虚しかった。涙が止まらなかった。
 ふと、幼いころ、千広と喧嘩したあとに、洋子はこの場所に駆け込み一人で泣いていたことを思い出した。そうしていたら、必ず千広がやってきて、慰めてくれて、仲直りをしたのだ。〈何でこんなときに思い出すの…。〉そうしたことをちょうど思い出していたら、背後から足音が聞こえてきた。〈千広ちゃん…?〉洋子は泣き腫らした顔で振り向いた。そこに立っていたのは、蓮乃であった。
 蓮乃はゆっくりと歩み寄り、洋子のそばで膝をついた。「どうして、ここに…?」(かす)れる声で、洋子が問いかけた。
「洋子ちゃんのことずっと心配で…。そしたら、ひどい顔して走っていく洋子ちゃんを見てさ。ここまで追いかけてきたの。」
 ひと呼吸置いたのち、蓮乃が続けた。「千広ちゃんのとこにいたんでしょ。何があったの? 教えてくれる?」
 洋子は地面に突っ伏した体勢のまま、ひとことひとこと、ゆっくりと物語った。語り終わったあと、一瞬の間を空けて、再び語を継いだ。
「蓮乃ちゃんの言ったとおりだった。私、千広ちゃんのこと、愛していなかったんだ。」
「洋子ちゃん…。」
 今にも消えてしまいそうなほどか細い洋子の声に、蓮乃は目頭に思わず熱いものが込み上げてくるのを感じた。洋子がぽつりとひとことだけ洩らした。
「もう私、死にたい…。」
一人の少女のこの悲痛な声を耳にした蓮乃の気持ちは、筆舌に尽くしがたい。たとえるなら、陶工が丹念に時間をかけ、真心を込めて造った作品が、自分の不手際(ふてぎわ)で、無残に砕け散ってしまったのを目の前にしたときに覚える気持ちと似ているだろうか。しかし、蓮乃の目の前で無残にも砕け散っていたのは、一人の生きた少女の心であった。
 突然、蓮乃は驚くべき行動をとった。蓮乃は崩れ落ちる洋子の前にいきなりひざまずいた。そして、その両手で洋子の顔を、割れ物を扱うように優しく触れながら、自分の顔の前に置いた。蓮乃は、目の前の血を失ったように冷たくなった唇に、自分の唇でそっと優しく触れた。それは、あの身を震わすような貪欲に燃える接吻(せっぷん)ではなかった。それは天使のように清らかな接吻であった。だがそれはあまりに苦かった。
「ごめんなさい…。」洋子の顔を目の前にして、驚いたような表情をしながら、蓮乃は絞り出すようにかすかな声で呟いた。蓮乃は急いで立ち上がった。
「そんなつもりじゃなくて。ただ洋子ちゃんを救いたくって。本当にごめんなさい…。」
 すっかり頭の混乱した蓮乃は、放心した洋子をひとりその場に残して、足早に立ち去ってしまった。
 小さな祠を鬱蒼(うっそう)と取り囲む木々の上から木洩(こも)()が差して、祠を明るく照らしだした。ひとり取り残された洋子は、無意識に自分の唇に右手をやった。唇はかなり温かかった。むしろ熱いくらいに感じられた。そこには蓮乃の唇の感触がはっきりと残っていた。あの優しさに(あふ)れる感触が。洋子は自分に触れたものをさらに理解しようとして、下唇を口に含み、そこに残されたものをゆっくり味わった。それは蓮乃の愛であった。そして、それは真実の愛であった。たちまち、洋子は、自分の喉を通り越して、肺の中に生命の息吹が吹き込まれるのを感じた。枯れた眼には光が戻り、萎えた足には力がみなぎり、蒼ざめた頰には赤みが差してきた。洋子の心を覆っていた死魔の影は、新たな光によりすっかり取りはらわれ、その光は洋子の前に新たな道を指し示した。洋子は新たに生まれ出た。愛の真理に触れて。
 洋子は、神の祠の前に堂々と立ち上がった。今まで彼女を足下に見下ろしていた祠を、今や洋子は見つめ返していた。洋子は祠に背を向け、走り出した。愛をもって自分の心に触れてくれた、彼女のもとへと。
 緑の葉々に囲まれた狭い山道の石段を一気に駆け下り、朱色の鳥居をくぐり抜けると、眩しいほどに青い世界が眼前に開けた。見慣れていたはずの空と海は、今や新たな意味をもって洋子の前に広がっていた。空と海はずっとそこにありながらも、常に移ろいながら変化していた。空と海の隙間を埋めるちっぽけな地上では、数知れぬ草木や小虫などの生きとし生けるものが、ときには争いあい、ときには共存しあい、その束の間の生命を懸命に謳歌(おうか)していた。洋子の目の前では、空と海と大地が完全に調和し、循環していた。洋子は自分がその循環の一部であり、かつ、その循環そのものでもあることを、自分がそこから生じ、そこへと没していくことを、欣快(きんかい)の心をもって感じていた。
 一瞬間、自然の与える強烈な印象に打たれていた洋子は、あの愛の感触を思い出した。洋子は再び彼女のもとへと駆け出した。頭上に広がる青空をゆっくりと流れていく雲々を次々と追い越し、海岸沿いの歩道を、海から吹く潮風とともに軽快に疾走していった。身体が風になったかのように軽かった。照りつける太陽に、額からは玉のような汗が流れ落ちた。日差しは眩しく、汗が目に染みた。だがそんなことは気にもかけなかった。一刻も早く彼女のもとにたどり着きたかった。そのあと彼女に対してなんと声をかけるか、どう振る舞うかなどは考えていなかった。ただそうしなければならないと思ったから、洋子は走っていたのだ。
 とうとう、優しい風になびく黒髪の後ろに、彼女の背中が見えた。 
「蓮乃ちゃん!」
 途切れることなく広がる青空の下、太陽の光を反射する鏡となる海のそば、舗装された海岸沿いの通りの真ん中で、洋子は蓮乃の背中を強く抱きしめた。
「蓮乃ちゃん…、ありがとう。」
 熱い涙に湿ったこのほんのひとことだけで、自分の背中に熱いほどの温もりを伝える少女の魂に起こった全てのことを、蓮乃は刹那に理解した。洋子は腕にこもっていた力を(ゆる)めた。二人は向かい合った。そして固く抱擁(ほうよう)し合った。二人の涙が混じり合った。
 蓮乃が洋子の耳元で優しく(ささや)いた。
「洋子ちゃん、前に図書室で、私に聞いたよね。私が洋子ちゃんに何がしたいのかって。」
「うん…。」
「私は、私の為すべきことを為そうと思ったの。ただそれだけだよ。」
 蓮乃の為すべきこと。それは何であったのだろうか? それは、愛の真理によって一人の人間の心に優しく触れることであったと私は信じている。しかし、私よりも彼女自身の方が、それが何であったのかを一番よくわかってる。

第十四章

 洋子には、依然としてやるべきことが多く残されていた。まず、千広との関係を新たなものにしなければならなかった。何よりも始めに、あのときの自分の闇雲な言動を深く詫びた。千広は快く許してくれたように思われた。しかし、洋子はそれだけではまだ、彼女に対して何もしてあげられていないと感じた。千広を放っておくわけにはいかない以上、千広の傷ついた心に触れなければならないと覚悟した。一度心に負った傷は、簡単に塞がるものではない。それには途方もなく長い時間を必要とする。生涯、傷跡が残るかもしれない。しかし、傷ついた心に優しく触れることはできるはずだ。もしそのために、千広から絶交を言い渡されたとしても、洋子は構わないと考えていた。幸い、そうはならなかった。蓮乃が二人の間の潤滑油となってくれた。
 千広と西澤の関係にメスを入れることは、避けては通れないことであった。洋子と蓮乃は、彼に直接会って、千広に会ってしっかりと話し合って欲しいと願い出た。西澤は、千広に対して良心の呵責をひそかに感じていた。しかし、千広に強く抵抗されたことで、自分のプライドが傷つけられたと感じており、そのために彼の心は、千広に対して頑なになっていた。洋子と蓮乃は、彼の良心を信じて、彼を一切責めなかった。千広と別れろとは口にせず、それを仄めかすことも避けた。ただ千広と話し合って欲しいとだけ告げた。二人は、彼の良心に彼自身を裁かせることを望んていた。この態度は、西澤の(かたく)なな心を解きほぐした。彼は千広に対して深く頭を下げ、今後彼女と一切関わりを持たないことを誓った。そして、千広は彼を許した。
 今まで曖昧(あいまい)にしておいた、両親との関係に深く切り込んでいくことは、洋子にとって一番辛い仕業(しわざ)であった。できることならば、家を出てしまいたいと思ったくらいであった。洋子は、自分がこれ以上高飛込(たかとびこみ)を続けられないことを思い切って両親に告げた。誰かを傷つけ、蹴落として、高みに立つことを自分は全く望まないと宣言した。両親は娘を引き止めようと意地になって、洋子に説得を試みた。最初は優しく彼女を慰め、励ますような労りを見せた。洋子の決意が変わらないのを見て取ると、洋子が自分から逃げているという意味のことを言葉に含ませながら、彼女を不孝な娘として責めた。洋子は無理解な両親の言葉に、唇を噛み締めて耐え忍んだ。自分をずっと愛してくれた両親が、今や虚栄心を()き出しにしながら、自らに対してハイエナのように食いかかってくるのを目の当たりにして、洋子は悲しい気持ちに沈み込んだ。自分の理想を見失ってしまいそうになった。だが、あの虚偽の暗い道に引き返すことは、もっと恐ろしいことであった。以降、安海(やすみ)家の灰色の屋根の下には、常に暗雲(あんうん)が立ち込めた。雷撃を内に密かに隠す暗雲が。しかし、洋子にどうしようがあったであろうか?

 おお、無理解な親どもよ! お前たちは、自分たちが無償の愛をもっていることを、誇らしげにラッパを吹き鳴らしながら、世間の大道において大音声(だいおんじょう)で口外する。だが、その愛は天上に属するものだ。それを地上に見いだすことは、地上の大河の底にある砂粒を全て集めたなかから、一粒の砂金をただの一手で摘まみ出すことよりもなお難しい。おのれを神と同列に置く傲慢(ごうまん)を恥じ、おのれの内に荒波の如く狂い立つ利己心と虚栄心をしっかりと見つめよ。それから決して目を逸らすな。

 だが私は言葉を慎むことにしよう。口に出した言葉は自分に返ってくるものだから。洋子の新たな歩みに、再び話を戻すことにしよう。コーチには長らく世話になったことの感謝の意を伝えた。コーチは 洋子を無理に引き留めることはしなかったが、目に見えて惜しい顔をしていた。玲華は洋子との会見を頑なに拒んだ。彼女の兄に対しては、翔太を通して会見を申し込み、あのときの非礼の詫びを入れたあと、自分の決意を簡単に伝えた。純も言葉にこそ出さなかったが、コーチと同じ様な顔をしていた。
 翔太には、万愛(まえ)に対する冷淡な態度を改めることはできないのかと暗に伝えてみた。翔太は家業を継ぐために高校を中退し、万愛が旅館を継ぐために進学を諦めたことを知ると、万愛との今までの睦じい関係を一方的に断ち、それ以降、頑固に冷淡な態度をとり続けた。万愛も諦念(ていねん)をもって翔太の冷淡さを受け入れていた。翔太は洋子に対して、自分の態度を考え直してみるという意味の言葉をちらと洩らしたが、洋子は彼の頑固さを知っていたので、これ以上立ち入ることを諦めた。事実、二人の関係に冷たく張った氷は、決して溶けることはなかった。
 こうして洋子は、自分の(ごう)に相対して、それらをひとつひとつ見つめ直していった。この点検作業の中で、世の中の頑なな態度に幾度もぶつかった。その中には、自分のもち得る限りの力を尽くしても、和らげることのできないものがたくさんあることを痛感させられた。洋子はそれを思うと、どうしようもない歯痒(はがゆ)さを覚えた。
 ある日の午後、洋子は日光を遮り切り立つ背の高い林と、この薄暗い林の中に我々を引き込もうとするかのようにそびえる石造りの鳥居の前に立っていた。そこは、蓮乃の住まいがある神社であった。洋子が蓮乃の家を訪れるのは、これが初めてであった。洋子はここ数日間に自分の受けたさまざまな印象を整理するために、ここしばらく自分がおこなってきたことを蓮乃に物語ってみようと思い立った。そこで、蓮乃の家を訪れたい旨を彼女に伝えた。蓮乃はいつもどおりの素っ気ない文体で、洋子の考えに同意するメールを送り返してきた。
 霊界への入り口の如く直立する鳥居に吸い寄せられ、近所の子どもたちの恐怖を煽り立ててきた陰気な林に足を踏み入れると、さっきまで遠くから鳴っていたように聞こえていた、種々の(せみ)の声に洋子は包まれた。この陰気な林は、大小さまざまな昆虫などが暮らしながら織りなす、ひとつの生態系を包み込む小世界であった。生命の神秘に包まれながら参道を進み、この鎮守(ちんじゅ)(もり)の中心をなす小作りな拝殿の裏手に回ると、そこには一軒の古い日本家屋が建っていた。そこが蓮乃が住まう家であった。
 呼び鈴を鳴らしてからしばらく、軽い足音が扉の向こうから聞こえてきた。ガラガラッと音を立て開かれた扉の先には、白いブラウスに紺のロングスカートという飾り気のない服装の蓮乃が姿をあらわした。きしむ階段を上った先にある蓮乃の部屋は、部屋の主人以上に飾り気がなかった。部屋の中は清潔に整っており、少し物がなさ過ぎるきらいがあった。洋子は畳に敷かれた座布団に座り、蓮乃と向かい合った。
 しばらく当たり障りのない会話を交わしたあと、二人の間に しばしの沈黙が訪れた。しかし その沈黙は、人をして会話に()き立てる、あの互いに気まずい思いをさせる 沈黙ではなかった。それは、静かに相手の話に耳を傾ける意思を伝える沈黙であった。この沈黙が醸成させる空気によって、洋子の口はほぐれた。洋子は、蓮乃に自分が今までおこなってきた点検作業のことをすっかり語った。その行程の途中で得たさまざまな印象、ことに、自分の力をもってしては和らげることのできないものにぶつかったときに覚えた、例の歯痒さのことを伝えた。洋子が語っている間、幼子(おさなご)の誇らしげな自分語りに、満足げに耳を傾ける慈母(じぼ)の様な表情を浮かべていた蓮乃は、語り終えた洋子に対して、穏やかな表情で次の言葉を与えた。
「たしかに、世の中には自分の力の及ばないもの、変えがたいものがある。でも、それでいいんだよ。世の中を変えようとしなくてもいい。世の中に何か変革をもたらそうとか、何か偉大なことを成し遂げようとか思わなくてもいい。自分の為すべきことを知って、ただそれだけを為す。そして、行為の結果に執着することなく、ただ為すべきことを為す自分に満足する。それだけでいいのよ。だって、自分を変えることのできるものが、もっとも偉大なんだから。」
 洋子はこの言葉を舌の上で転がして確かめるようにそっと吟味したあと、ゆっくりと口を開いた。
「うん。確かに。そうだよね。」
〈自分を変えることのできるものがもっとも偉大、か。〉洋子はこの言葉を自分の胸の奥深くにしっかりと刻み込んだ。このときの洋子の顔には、満足げな表情が読み取れた。事実、このときの洋子は、自分の至らないところをも認めた上で、自分の全てに満足し、自分の全人生を肯定する心持ちになっていた。

 黄昏(たそがれ)どき、玄関口に見送りに立った蓮乃に対して、洋子はある提案をした。
「ねえ、せっかくだからお参りさせてもらってもいい?」
 少し不思議そうな表情を浮かべながら、蓮乃は返事をした。
「ええ、構わないけど。」
 逢魔(おうま)がときに差しかかった境内(けいだい)は、丑のときと比べるとよりいっそう静かであった。静謐(せいひつ)な森の中では、カナカナカナとヒグラシの甲高い鳴き声が響き渡っていた。洋子と蓮乃の二人は、例の小ぶりな拝殿の前に並んで立った。
「二礼二拍手一礼、だったよね。」拝殿を真っ直ぐ眺めながら、洋子は隣に並んで立つ少女に話しかけた。
「ええ、そうよ。」
 パンッパンッと高い音がひっそりとした境内に鳴り渡った。最後の一拝を終えて頭を上げた蓮乃は、洋子がまだ、胸前で両の手のひらを合わせながらうつむいていることに気がついた。ゆっくりと顔を上げ、最後のお辞儀を済ました洋子は、満足げな顔で隣の蓮乃に声をかけた。「よしっ、行こっか。」
「何をお願いしていたの?」拝殿をあとにして、参道の半ばに差しかかったとき、蓮乃が おもむろに洋子に尋ねた。洋子は いったん歩みを止めて、腕を組み、前方に顔を向けたまま 答えた。
「うーん、特に何か考えてたわけじゃないんだけど。お願いというよりは、感謝、かな。」
「感謝?」
「うん。何への感謝かって聞かれると困るんだけど…。そうだなぁ…、蓮乃ちゃんに出逢えたことに対する感謝、かな?」
「何それ。褒めても何も出ないわよ?」
「ふふっ、別に褒めてなんかないよ?」
 夕暮れどきの神社の境内で、魔物をも追い払うかのような、少女たちの明るい笑い声が響いた。
 二人は鳥居のもとまでやってきた。洋子が言った。
「ねえ、蓮乃ちゃん。ひとつ聞いてもいい?」
「何?」
「私、自分を変えることができているのかな?」
 しばらく思案したあと、蓮乃がゆっくりと口を開いた。
「私はね、人が何かにつまずいたとき、ふたつの道をとることができると思うの。ひとつは、自分をつまずかさせたものから、眼を逸らさせてくれるものに慰めを求めること。もうひとつは、自分をつまずかせたものに正面から向き合うこと。洋子ちゃんは、愛につまずいた。でも今は、自分のうちに愛を見出した。だから、大丈夫よ、心配しなくても。」
 洋子の背後で、鳥居の向こう側で手を振る蓮乃が、立ち並ぶ木々の中に徐々に溶けていった。洋子は、今時分は深い色を見せる海に臨む田んぼ道をゆっくりと歩いていた。洋子は歩きながら、先ほどまでの蓮乃との会話のことを考えていた。
〈私は愛につまずいた。それはどういう意味だろう? その愛とは、千広ちゃんに対する愛だった。私はあのとき、千広ちゃんを愛してはいなくて、ただ自分自身を愛してもらおうとばかりしていた。私をつまずかせたのは、私自身だ。私は、私をつまずかせた愛が虚偽であると悟った。そしたら、私はどうした? 死に慰めを見出した。いや、それは少し違う。あのときの私は、決して自殺はしなかっただろう。私は、死という考えの魅力に慰められていたんだ。そして私は、もう一度、あの虚偽の愛に慰めを求めた。あれは衝動的なものだった。あの愛は、私と一緒に千広ちゃんまでも焼き尽くそうとしていた。思い出しただけでもぞっとする…。〉
〈どこまで考えたんだっけ…。そうだ、私はあの(ほこら)の前で、蓮乃ちゃんの愛に触れたんだ。蓮乃ちゃんは私を愛してくれた。でも、私に愛されようとはしなかった。蓮乃ちゃんの愛? 彼女は、私を虚偽から真実へと引き出してくれた。自分自身という虚偽から。そして今、私は、真実に何度も打ちのめされながらも、真実の愛を自分のうちに見出したんだ。私は今、それによって生きようとしている。〉
〈でも、私は世の中の頑迷な人たちにぶつかった。あの人たちは、頑なに虚偽の中に閉じこもっていた。蓮乃ちゃんはそれでいいと言っていたっけ。私の為すべきことを知って、その結果に執着せずに、為すべきことを為す自分に満足する。つまり、私自身を変える。私の為すべきこと? いや、それは私だけじゃない。全てがこの真理のなかでひとつとなって生きている。〉
 ここまで考えたとき、彼女はふと立ち止まり、頭上を覆う天蓋(てんがい)を仰ぎ見た。すると、烏たちがポツポツと黒い点のように寝所(ねどころ)をさして飛んでいくなか、一羽の(とび)が夕暮れの空を悠々(ゆうゆう)と円を描いて飛んでいるのを見た。洋子は、絶望に駆られて千広の家をあとにしたときに見かけた、あの一羽の鳶のことを思い出した。そして、洋子は、自分に一瞥もくれようとしないこの鳶に対して、ひとつ満足げな微笑を洩らすと、再び歩み始めた。

優しく触れて

 彼女の物語はこれで終わったわけではない。無論、彼女の人生の旅路はこれからも長く続いていく。道の途中で、幾度となく、世間の人々の無理解や偏見の壁にぶつかり、貪欲や憎悪、慢心、無知という激流に曝されることであろう。だが、こうした些事を書き記す必要はあるまい。というのも、支えもなく恐れ惑う人々を容赦なく呑み込む大海において、彼女は確固とした島の上に立っている。その上で、彼女は自らの真実の平安の境地を見い出すことであろう。その暁には、海洋の底深いところでは波が立たないように、彼女の魂を乱すことのできるものは何ひとつない。だから、私はこの物語にここで一応の終止符を打つことにする。しかし、何も名残惜しい気持ちになる必要はない。なぜなら、我々が心の眼をしっかりと見開いて生きている限り、彼女のような高潔な魂と出会うことだってあるだろうから。この世界のどこか片隅で。そして、そのときは次のようにしてくれることを、どうか私の方からもお願いしたい。そのいまだ会わぬ隣人たちに、敵愾心や妄念を決して抱くことなく、その魂に真実の愛をもって、優しく触れてやることを。

…to the unhappy few.

優しく触れて

恋愛、友情、勉強、スポーツ、仕事など、人生に漠然とした悩みや不安を抱えている方々へ。一人の少女が自己を揺るがす苦悩に相対したとき、彼女の魂がこの苦悩をいかに克服しようとしたか。この時代、この世界の片隅で起こった、この小さな物語を贈りたいと思います。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-08-11

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