腰越海岸の出来事

上松煌

          1


 一面のいわし雲の下に、江の島の緑が浮かんでいた。
もう、理由も忘れてしまったけれど、智也(ともや)と腰越海岸にいたのだ。
沿岸道路から砂浜に下る石段に腰掛けて、コンビニのチキンをかじっていた。
それを記憶の中ではなぜか、2つの後ろ姿として覚えている。
そのあと、そこでおきた出来事は、小6の忘れられない思い出だ。

 秋の海は寂しい。
澄んだ少しそっけない空気感の中に、人気(ひとけ)のないガランとした海岸が広がっている。
いや、完全にだれもいないわけではない。
40メートルくらい先には子供を連れた女の人が、夏よりきれいになった午後の波と遊んでいた。

 おれと智也はいろいろしゃべった気がする。
彼は中学進学に合わせて引っ越すと言っていたから、別れを惜しむ気持ちや連絡方法、
絶対に遊びに行くなどの他愛ない誓いを、繰り返し話し込んだはずだ。
細かいことはほとんど忘れて曖昧だけど、これだけは思い出せる会話がある。
「トモ、流しそうめんしに来いよな。絶対来いよ」
「来るに決まってんじゃんか。すんげえ楽しかったもん」

 そうなのだ。
夏休みの1日、親父が「自家製流しそうめん」を企画した。
智也が引っ越してしまうことはすでに話してあったから、思い出作りを考えてくれたのだろう。
400坪越えの山林のおれの家は傾斜地が多く、資産価値は低いが趣だけはたんまりある。

 もともとは祖父母の別荘で、山からの絞り水を流すためのでかい池があった。
水道管を岩に埋め込んだ滝もつくってあって、突出した管の先端に裏山から切ってきた孟宗竹を樋にしてはめ込む。
7~8メートルていどのものでも、智也の家族3人、祖父母も含めたおれの家族5人が囲むとなかなか本格的だった。

 水道栓を全開にしてたっぷりの水で流すと、麺が束になったまま旨そうに流れて、発案者の親父は大得意だった。
でも、これには智也が下痢をしてしまうというおまけがついた。
多分、楽しさのあまり副食の刺し身とエビ天を食べ過ぎてしまったのだ。
母と祖母は、親父がいいかげんにゆでた麺が固かったからではと疑っていた。
やんわり叱られた父は「あ~あ、親父の権威を保つのはむづかしい」と大げさに嘆いていた。

 智也の父はそんな親父と話し込み、「不景気」「田舎に帰って稼業を継ぐ」という言葉が聞こえた。
沸き立つようなバブルが去ってから間もない平成6年のころだった。


          2


 サクサクと砂を踏む音がして、さっきの女の人が子供を連れてそばに来ていた。
観光客には親切に、という不文律があったから、おれたちは行儀よく微笑して迎えた。
30代くらいのきれいな人で、ちょっと疲れた感じの横顔が印象に残っている。
「ごめんなさい。…あのね、あの、この子をちょっと見ていてくれる?おばさん用事をしてくるから…ちょっと大事なことなの。ね」
なんだか、やけに真剣な口調だった。

 「え?あ。別に…いいですけど…」
おれたちはちょっとためらったけど承諾していた。
なんとなく、断ったらこのお母さんが困るだろうという気がしたのだ。
鎌倉市の小学生は高学年になると、登下校時に下級生の面倒をみる。
まぁ、扱いは慣れているので、知らない子でも短時間ならこっちには問題ない。

 でも、本人はどうなのだろう?
いきなり見知らぬ子供に囲まれてイヤがらないだろうか。
4歳くらいで、幼稚園年中組ていどには見えた。
ちょっとはにかんだ上目遣いでもじもじしているその子は初対面なのになぜか可愛い。
相性は良さそうだ。
「俊之(としゆき)、よろしくお願いしますって言いなさい」
その人は母親らしく、そんなことを言って背中を押したようだった。
「よろ…くしおね…がいます」
子供らしいぶきっちょなセリフは、子供のおれたちから見ても純真でほほえましかった。

 「どうする?遊ぶ?」
集団登校でも面倒見のいい智也が、慣れた感じで話しかける。
ぎこちない緊張を解いてやろうとしているのだ。
「砂遊びしてたよね。じゃ、またやろうか?」
たしか、そんな感じで誘導したと思う。

 女の人は足早に石段を上がって歩道に出て、そこで立ち止まってこっちをじっと見ていた。
やっぱり、見ず知らずの小学生に自分の子供を預けるのはちょっと心配らしかった。
少し悲しげに見えたのは、気のせいだったろうか?
おれたちは大丈夫という意思を笑顔に託して手を振った。

 
          3

 
 湿った砂の波打ち際に、その子が作ったささやかな小山があった。
「アッキー、でっかいの作ってやろうぜ」
「うん、いいな。引き潮だし」
あたりまえだが、海には潮の干満がある。
引き潮時は海面が退いて、波がしだいに遠ざかってくれるので、湿った水際に砂山を築くのには都合がいいのだ。
智也とおれは股のぞきをするときみたいに、海に向かって上半身をかがめた。
「GO!」
ババババッと両手で砂を掻き、股の間から後ろに弾き飛ばす。

 「こっち来てやってみ?疲れたら休んでいいから」
智也がまた、上手に誘導する。
「う~ん!」
目を輝かせて全身でうなづくその子は、弟分みたいで実に可愛かった。
おれたちはギャハハっと笑って、
「トシちゃん、いや、トッちゃんでいいよね」
と呼び方を決めた。
「じゃ、ええと、おれは智也。だから、呼ぶ時はトモくんでいい。こっちは煌。アッキーくんね」
遅ればせながらの友達認定だった。

 しばらくは砂を盛り上げるのに集中した。
水を含んだ砂は重いので、すぐに肩と腕がだるくなって能率が落ちる。
エビのように曲げた腰もキツイ。
それでもトッちゃんを意識して踏ん張り続けた。
やっぱり、年上の面子と体面がある。

 「うっは~、もうダメ。アッキーはすげえな」
智也が先に音を上げた。
「って、まだ、余裕、だろ」
口では言うものの、息はきれている。
トッちゃんに至っては動作はしているものの、ほとんど砂を掻っ掃けていない。
でも、顔だけは真剣だ。
おれたちはそれが愛しくて、意味もないのにまた笑った。


          4

 
 砂山は1メーター20くらいになって、叩いて押し固める段階に入っていた。
真ん中あたりに左右からトンネルを掘り、中で手を握り合って開通式をやった。
ざらついた砂だらけのちっちゃな手が、もぞもぞとおれの手を握った時、本気で弟が欲しくなっていた。

 そういえばさっきから、トッちゃんの腹が鳴っている。
「お腹空いてる?コンビニで何か買って来てやるよ。なにがいい?」
尋ねると同時に小さな顔が輝いた。
やっぱり、腹がへっていたらしい。
「う~ん、おにぎりっ。エビマヨっ」
ニコニコと気合を入れて、うれしそうに答えてくる。
それがすげえ可愛い。

 「トモは?おごるよ。」
「うひょ~、わっりいな。じゃあ、イクラね。あと、なんかお菓子。そっちおれがおごるから」
おれたちは大抵こうだ。
大体、同額くらいをおごり合う。

 代表して道路向こうのコンビニに向かうと、夕方近いラッシュが始まりかけていた。
意識して周りに目を配ったけれど、こっちに向かって来る女の人の姿はない。
トッちゃんのお母さんの用事はまだ済んでいないらしかった。

 3人で石段に腰掛けて、海を見ながらおにぎりをほうばった。
昼と夜のはざまのみかん色の空に、江の島がしだいにグレーを濃くして行く。
おれたちは砂山にバベルの塔みたいな螺旋状の廊下を刻んで完成させた。


          5


 夕闇が迫りはじめると、智也がそわそわし始めた。
気持ちはわかる。
もう、帰らないといけない時間だ。
おれは信用があるからいいけど、智也の家は親が厳しい。

 「トッちゃんのお母さん遅いな。ど~したのかね?」
「わからん。トモは先に帰れよ。おれんちは正当な理由があれば遅くても叱られないから。おれが残ってトッちゃん見るワ」
「う~ん、わりい」
言いながら、ぐずぐずしている。
先に帰るのに気が咎めているのだ。

「…ね、お母さんの用事ってどんなの?」
智也に聞かれて、トッちゃんは困って体をぐねぐねした。
「え~と、わかんない。…でも、遅い時は遅いよ」
「う~ん…」

 「いいから、トモは帰れ。子供に聞いたってわかりゃしないよ。いろいろあるんだろ。なんか訳ありそうだったもん」
「まぁ、な。大人は複雑だからな。じゃ、おれ、駅からおまえんちに連絡するワ。人に親切にしたんだから、怒んないでって」
「頼むワ」

 そのまま智也は、申し訳なさそうに帰って行った。
子供が携帯なんか持てる時代ではなかったし、PHSが現れるのは2年も先の話だ。
ただ、2人とも江ノ電の「極楽寺」駅だから、ここ「腰越」からは4つ目で、普段の行動範囲では近いほうだ。
まぁ、その点は、智也も親に言い訳ができそうだった。

 彼が帰ってしまうと、あたりが急に物寂しくなる。
もう、陽はとっぷり暮れて町の明かりがやけに鮮やかだ。
ちらほらいた散歩の人たちも三々五々、引き上げていく。
おれとトッちゃんはしばらく、暗い海に木切れや貝殻などを投げて遊んだ。
最初は集中出来たけど、ちょっと大き目の波が来たころから、小さなトッちゃんは怖がり出したと記憶している。

 夜の海は黒々と、なぜか砂浜より高い位置に見える。
目線の低い子供には確かに怖そうだ。
おれは手をつないで石段のところまで戻った。
下から見える歩道には、やっぱり親らしき人の姿はなかった。
 

          6


 もう、かれこれ20時すぎだ。
トッちゃんは目に見えて口数が少なくなり、心配そうな眼は今にも泣き出しそうだ。
おれも不安でたまらない。
お母さんはどうしたのだろう?
なんだか深刻そうだったから、考え事していて交通事故とか?
ひょっとしたら、用事の相手がヤクザで、お母さんはきれいだから目をつけられて、監禁されて売られてしまうとか?

 ろくな考えが浮かばない。
「ね、トッちゃん、そこのコンビニ行こう。お母さん遅すぎるよ。わけを話してお巡りさん呼んでもらおう。おかしいよ。絶対、なんかあったんだ」
手をつかむとトッちゃんは振り払った。

 「ダメッ。ここにいなきゃ。ここで待ってなきゃダメッ。お母さんはここに来るのっ」
素直なトッちゃんの初めての強い拒絶だった。
そうだ、たしかにこの石段のところで頼まれたのだ。
本来なら、ここで待っているべきなのだ。
その点では幼いトッちゃんのほうが正しい。
だが、状況はそれを許さない。

 「いや、遅すぎるんだよ。考えてみ?もう、大人だって子供のいる人は、家に帰る時間だよ。それでもお母さんは来ない。なにかあったんだ。きっと良くないことだ。お巡りさんに助けてもらわなきゃ」
おれの言い方が不安をあおったのだろうか。
トッちゃんはついに、ぎゃぁっと泣きだした。
抑えに抑えた感情が一気に噴き出したみたいだった。

 「泣いてもダメだ。コンビニ行くぞ、それしかないっ」
おれは意を決して、再び手をつかんだ。
そのまま石段を引きずり上げる。
「いやぁ~っ、ダメえっ」
トッちゃんが絶叫した。

 まるで害をなす人間に爪を立てる子猫ちゃんみたいに、力いっぱい手を引っ掻く。
自分が幼児虐待のバカ親になった気がした。


          7


 「じゃあ、いいっ」
おれは怒鳴った。
「そこで待ってろ。いいか、そこにいるんだぞっ。絶対動くなっ」
石段を駆けあがる。
でも、気になる。
このまま目を離したら、トッちゃんも消えてしまうのでは?
泣きながら、どこか遠くの手の届かないところに行ってしまうのでは?

 必死で振り向くと、小さな影が拳を握りしめた形でおれを見上げていた。
「そこにいろっ」
もういち度いって車道に出た。

「バカッ」
激しい怒声とクラクション。
だれかが腕もちぎれそうな勢いで、歩道に引き戻した。
「轢かれるでしょっ」
緊迫したおれの母親の声。
罵声と引き戻しは親父だった。
心配して迎えに来てくれたのだ。

 あわてていて気付かなかったけれど、親たちはおれを見つけていて、行動を予測して動いてくれていた。
本当に危ないところだった。
親が止めてくれなければ、車道でおれはどうなっていただろう。

 おれもワッと泣いていた。
トッちゃんを指さすと、一瞬で理解して、父はコンビニに駆けこんだ。
母はずっと2人を両腕に抱きよせていた。
おれは母にしがみついているトッちゃんを感じながら、本当の兄弟になった気がした。


          8


 お母さんは2度と戻らなかった。
次の日、近くの岬で女性物の靴が、きちんとそろえて置いてあったというニュースが小さく地方版に載った。
なにがあったか、子供でも薄々想像がつく。
それっきり続報はないようだった。

 あの時、歩道に立ってじっと見ていたお母さんの、少し影の薄い姿を思い出す。
すでに別れを意識していたのだろうか?
それとも、よく言われる発作的行動に身を任せてしまったのだろうか?
今となっては想像する余地もないけれど、覚悟を決めた人は意外に静かな気がする。
あせったり、努力をしたり、じたばたするのは、きっとその一歩手前の段階なのだ。
 
 おれは一人ぼっちになったであろうトッちゃんを、弟に欲しいと真剣に願ったが、父母は難しい顔で、
「そんなに単純なことではない」
と言うだけだった。
祖母は、
「他人を入れるのは問題が多いから」
とだけ説明した。
子供には理解できない謎の言葉だった。

 結局、トッちゃんは親戚に引き取られて行き、本人もそれを望んだということを後から聞いた。
お母さんが遺した保険で、少しばかりお金持ちになったという。


          9


 思えば、あのとき初めて、人生の影がおれに差したのだ。
生きることの困難さ、社会の冷酷さ、そして親としてのギリギリの選択。
おれも大人になって、トッちゃんのお母さんと同じような立場に立った時、やはり同じ選択をするのだろうか?
子供を生かすための金を得るために、自らを犠牲にする決断を。
 
 この間までバラ色の好景気に沸いていたのに、社会とは生活とは、何と脆弱な基盤の上に成り立っているのか。

 おれも来年には中学に進む。
そして高校、大学、就職、結婚、子育て…老後。
その時、世界はどうなっているだろう?

 願わくば、平安の世であって欲しい。
否、人々が協力し合って、マイナスを乗り越えていく社会であって欲しい。

 おれはきっと、小さな会社を経営する親父の後を継ぐだろう。
仕事をシェアしあって今のところ、ひとりのリストラも出さずに健全経営を続けているこの会社を。
将来はおれの双肩にかかることになるのだ。

 いつもニコニコと穏やかな父の直面する不景気という現実の恐ろしさを、図らずも、トッちゃんのお母さんが教えてくれたのだ。
田舎に帰るという智也の父親が伝えてくれたのだ。

 それに思いいたった時、おれの子供時代は終わった気がする。
親の庇護のもと、楽しく明るくあどけなかった世界は、今や、本性を現したのだ。
大人へと向かう長い坂道を、少しおびえながら踏み出す。
子供は年齢で大人になるわけではない。
大人が考えるほど、バカでも幼くもないのだ。


          10


 早熟な子供の代償は、ひょっとしたら決して幸せなものではないのかも知れなかった。
子供が無邪気に子供らしくあるための社会を、大人になったおれは 果たして作り得ているだろうか?
否…。
10歳の思い出の中の自分を振り返る時、いつも少しだけ悲しい。

腰越海岸の出来事

腰越海岸の出来事

気力が続かないので、短いものをひとつ。 最初は子供のころの思い出に見えて、その実…。 ちょっぴり哀しくて深いお話しです。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-08-11

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