虫の町

あおい はる

 虫が、ぼくたちの町を、いつか、支配するのだろうと思っている。
 かぶとむし、くわがたむし、かなぶん、ちょうちょ、せみ、こおろぎ、くも、かみきりむし、とんぼ、それから、諸々。
 なにか、重大なことを諦めた人間、というのは、日に日に、建物の外壁に、道路に、街路樹に、公園の遊具に、屋上に、増殖し、埋め尽くしてゆく虫を見ても、平然と生きていられるものらしい。世界は狂ったのだと、先生は言って、ぼくは、先生だけが味方だった。安いコーヒーが飲めるカフェで、先生と、窓の外を眺めているときに、あの虫はなにか、という当てっこゲームをするのも、そろそろ飽きてきた。どこからわいてくるのか、うんざりするほど、虫がいて、いまは、みんな、人間も、飼い犬や飼い猫にも、外出の際は、全身防護服の着用が義務づけられている。防護服の内側に、送風機がついているとはいえ、夏は地獄で、炎天下のなか、外に出ている人間は、いない。犬や、猫も。
「鳥も、そういえば見かけなくなったな。生態系が崩れはじめているのかもしれない」
 先生は呟きながら、安いコーヒーをごくごく飲んだ。ぼくは、軽食用で売っている菓子パンを食べながら、そうなんですねぇと言った。先生のくちから、その名称が出てくるまで、鳥、という存在は、ぼくのあたまのなかからすっぽり抜け落ちていた。例の如くにカフェは閑散としており、突っ立ったままの店員が、おおきなあくびをしている。ときどき、こつ、こつ、と叩く音がするが、それは虫が窓にぶつかる音であることは明らかだった。狂っているという表現は決して大袈裟なものではなく、実際、この町に住み続けている人々は少なからず狂っていると思う。ぼくと先生も含めて、ではあるが、先生曰く、ぼくらはまだ傍観者という立ち位置であるらしい。
 よくわからない。ほんとうのところ。
 わからないことばかりだけれど、とりあえず、この混沌とした世界で、先生だけが、ぼくの光といえる。なにか希望をあたえてくれたり、明るい未来を予感させてくれる、そんな前向きなものではないけれど、昆虫の生態に詳しい先生は、この、いまにも虫共に陥落させられそうな町で、ぼくにとって、唯一の救いだ。
 ぼくは、かぶとむしが、好きだった。
 先生は、蛾の翅の模様をじっと見ていると時間を忘れる、という。
 蝶の群れを纏い、歩いている女の子を目撃したことがある。まるで、その青い翅を持つ美しい蝶が、アクセサリーであるかのように、女の子は平然としていた。防護服を着用していなかったので、そのうちに捕まるだろうと、先生は無感動に言い放った。
 かなしかった。
 なにがかなしいのか、ぜんぜん、ほんとうに、わからないのもかなしかったし、見ず知らずの女の子が、捕まるのも、かなしかった。
 なんだかもう、すべてが、かなしい。
 そう感じさせる、町だった。

虫の町

虫の町

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
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CC BY-NC-ND
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