リュカのいる夏

真水ななし

 小ぎれいな公園のベンチに、吹きつける風のぬるさ。湿度がじっとりと汗をかかせて、日本の夏に嫌気がさす。海外に行ったことのないおれには分からないけれど、リュカはいつも文句を言っていた。リュカ。本名はなんだったか、忘れてしまった、親しい女の子。
 整然と茂っている植物はみずみずしさを主張していて、延々と夏は続いていくのだと、はしゃぐようにしている。真っ白な病院と植物の青とは、点対称だ。くるりと回せば重なるほどの、ささいな差だけを持ち合わせている。病院に眠るリュカのことを考えて、おれは静かにかぶりを振った。リュカとおれは、違う平面で生きている。

「お前、見舞わなくていいのかよ」
「――先生。よく分かりましたね、おれの居場所」
「太宰が教えてくれたからな」
 そうですか、と言いながら立ち上がる。暑苦しいスーツに身を固めた男を一瞥して、あえてその横を素通りした。だれの顔を見ていても、こみ上げるのは嫌悪感ばかりだ。
「太宰はお前のこと、よく見てる」
 すれ違いざまに短く告げられた言葉が、おれを苦しめる。意思に反して止まった歩みと、薄汚れた靴をじっと見つめた。教師の分際で、どうしてそんな台詞を吐けるのか。おれを苦しめるためにあるような、そんな台詞を。
「おれには。おれには、リュカのことなんて、なにも分かりませんよ」
 地面に吸い込まれていく弱音を、どう受け取ったのだろう。後は追うなよ、だなんて的外れな言葉を掛けられて、戸惑ってしまう。後を追うもなにも、彼女は生きている。簡単に死んでしまうような人間ではない。強運というか、呪いというか。とかく生きやすい体質なのだ。おれたちにとっては、ひどく不幸なことだけれど。不幸なことの、はずだけれど。今の、今のおれには、リュカがこの世に囚われてくれることは、むしろ幸福に思えてしまう。
「お前らにしか分からない世界があるんだろ」
「……あった、はずでした」
 萎んでいく語尾。おれはもう、なんの自信も持っていない。
 リストカットで自殺未遂。おれたちの美学に当てはまらないそれは、明確な裏切りだった。そもそも。最初に裏切ったのは、おれなのかもしれない。
「まあ、なんだ。ちゃんと話せよ」
 教師らしい振る舞いをして、男が去って行く。真昼ののどかな公園には、ビジネススーツをかっちりと着込んだ背中は不似合いだった。おれはもっと不似合いだと思って、空を仰ぐ。植物の青とはまったく異なった、すがすがしい青。
 みんなが夏を謳っている。もう八月は残っていないし、新学期は始まっているのに。
 リュカと出会ってから三度目の夏が、終わる気配を見せない。おれはリュカとの約束を思い出した。おれと彼女を結んだ、あの日とともに。


「いい天気ですね」
 フェンスに掛けた手のひらが、淡く暖色を帯びている。病院の屋上から望める海は狭く、息苦しさを感じるほどに、ビルが建ち並んでいた。臨海公園があるはずだが、ここから見つけることはできない。そんな景色を、飽きもせず眺めていたときだった。
「そう、ですね」
 狭い海から視線を逸らさないまま、応える。夕暮れのころを「いい天気」だと思う感性がおれにはなかったことを知る。土砂降りの雨に支配された夜だって、今日は天気が悪いね、とはならない。なんというか、それは明るい時間帯の特権だと思っていたのだ。そういうおれの思考を読み取ったわけではないだろうに、隣からは楽しげな声がした。
「変なひと」
 弾けるような笑い。ようやく彼女のほうを向くおれを、彼女は存外しっかりと見つめていた。ひとみにふれた前髪が、ふっと風に煽られたのを合図に、彼女は瞬きをした。それから、ひどく緩慢に、くちびるを動かす。
「私はリュカ」
「リュカ? ハーフなの?」
「でも、あだ名みたいなものだよ。本名は好きじゃないから、きみもリュカって呼んで」
「わかった。呼ぶ機会があればね」
 あるよ、と自信たっぷりに言った彼女が、また瞬きをする。零れそうなひとみが、目蓋に覆われる一瞬、おれは特殊な背徳感を覚えた。ふれてはいけない神聖を、侵しているような。もう松葉杖で済む脚へと視線を流して、ないと思うけど、と口にする。日常生活に支障がなくなったから、明日には退院だ。
「だって夏には、魔物がいるでしょ」
「――魔物」
「そう。だからきみは、空を飛びたくなったんだよね」
 目を瞠ったおれに、リュカはまた笑う。どうして分かったんだ、と問い詰める。
「ミステリアスなほうが、女は美しいの」
 と言ったリュカの足許に、ようやく気がついた。覚えのある靴。同じ学校だと分かれば、種は簡単だ。夏休みの最終日、飛び降り自殺を図ったおれの噂を、どこかで耳にしたのだろう。死に場所に学校を選んだのは、そういう僅かな禍根を、残したかったからでもある。
 きみは、何年なの。そう尋ねれば、おれの気づきをリュカも察したらしい。もとより隠すつもりもなかっただろうが、悪戯を失敗した子どものように、頬を膨らませていた。
「一年。同い年だよ」
「おれの噂は、どのくらい広まってる?」
「わかんない。私も学校に行ってないから。先生に聞いただけで」
「不登校、っていうか、病気?」
「まあ、病院にいるもんね。ううん、なんていうか私も、魔物に――ね」
 魔物とは。あの、衝動のことだろうか。暴力的なまでの、あの。
「きみも、死のうとしたのか」
「私にそんな勇気はないよ。ただ、命のほかを、捨てちゃっただけ」
 命だけを捨てないことのほうが難しくて、恐ろしい。リュカは、悪運が強いんだよね、と呟いた。おれに聞かせたがったのではなく、独り言らしい声音。おれは遅れて、リュカが語った魔物が、「夏に」住んでいることに首を傾げた。残暑という季節も過ぎ、今はもう秋だ。おれはまだ、フェンスの向こう側に惹かれてやまないけれど、リュカは違うのだろうか。
「――夏、だけ?」
 揺れ動いたひとみ。くちびるを覆った手のひらが、太陽を嫌うように真白い。偽善、かな。小さく漏れだした言葉は、ほんとうに細やかで、おれはリュカの儚さを見た。初対面の同級生に抱くにしては、大きすぎる感情。共鳴と同情とを、恋慕とはき違えようもなく。
「死ぬべきだって思う日が、いつも、夏だから」
 自殺日和、という四字が頭をよぎる。おれもそんなふうにして、八月の終わりに飛び降りたから。死ぬべきだと思う日があることを、よく知っている。よく知っているのに。結局は生き延びてしまった自分のことを棚に上げながら、リュカに頷くことはできなかった。
「そんな日、ないよ。死ぬべき人なんて、まず、いない」
「――やっぱり、変なひとだね」
 リュカは楽しそうだった。矛盾だらけのおれに、おれの偽善に。なにも言わずに、ぬるく吹きつけた風を、ただ享受していた。

 おれは、すぐに教室へ通いだした。驚いたのは、後を追うように、リュカも学校へ来るようになったことだ。組が違っていたら、保健室が関の山だったかもしれないが、なんの運命か、あるいは運命の悪戯か、おれたちは同じクラスだった。
ふたりで過ごしているうちに、いつの間にか腫れ物扱いもなくなって、ふたりいれば仲間だ、という論理はどこでも機能しているのだなと思った。思っている間に、夏を迎えた。死ぬことの魅力に、惹かれつづけているおれと、夏になると焦点が定まらなくなるリュカとが。どうしてか、ふたりで生きていられた。夏を超えても、また、リュカのいる夏はやってきた。ぼんやりとしたままの彼女を連れ回して、おれはそこに、意味を見つけていた。魔物に、あの衝動に、打ち勝つことの。意味。おれたちは時折、命や世界を、分け合っていた。


「空を飛びたい。ほかの方法じゃ、だめなんだ」
「私は、服毒自殺がしたい」
「――子どものおれたちには、難しいかもな」
 そうなの、と、柔らかな声が返ってくる。怪盗に美学があるように、おれたちにも、つまりは自殺志願者にも、美学があるのだと信じていたかった。おれは飛び降り。リュカは服毒。彼女が今になっても生きている理由が、その美学にあるのだと、ふと思って、首筋が冷えた。ナイフを当てられているように、ぞっとした。
「約束しよう」
 おれたち、誓った方法でしか、死なないって。おれの提案した約束が、裏切りだったかもしれないと気がついたのは、リュカが約束を破ってから、だった。彼女が意識を取り戻したと聞いても、見舞いにも行けないで、そればかり考えている。裏切り。リュカをこの世に縛っていたおれこそが、そういう下心に無自覚なまま、美学を謳っていたおれこそが。
 「太宰はお前のこと、よく見てる」、あの教師の台詞が、回っている。太宰治を読まず嫌いしていたリュカのことを、みんな、当たり前に太宰と呼ぶ。名字だから、というだけで。足許が、その下の地面が、揺れて、ほとんど倒れるように、ベンチに座り込んだ。真っ白な病院、リュカの肌の色。おれたちが交わらない平面に生きるべきことを、ずっと、考えている。秋らしい顔をしない景色の中で、夏に閉じ込められている錯覚に突き落とされる。この空を飛びたいと、おれは思っているのだろうか。魔物すら、彷徨っている。
 じっとりと、張り付いた汗が、数時間も項垂れていたら、引いていた。薄ら寒ささえ覚えて顔を上げると、もう夕暮れだった。
 夕暮れ。あの日みたいな、夕暮れだった。
 手のひらが帯びている暖色に、眩暈がする。飛び出していた。心持ちでは、飛び出していたけれど、実際はふらふらと覚束ない足取りで、病院に向かった。言うまでもなく、リュカのところへ。気が急いて仕方がないのに、緩慢な動作を速められない。心臓だけが、強く、拍動した。

「――リュカ」
 夏だと思っていたが、リュカの焦点はしっかりしていた。おれだけが取り残されていたのかもしれない。
「自殺日和、だったのか?」
 もう確信していた。
「ごめんね。約束、破っちゃった」
 でもね、とリュカの声が響く。あどけない笑顔をするリュカに近づいて、そのひとみを、真っ直ぐに見つめる。手首に巻かれた包帯を、ていねいに解きたかった。リュカ、おれたちもしかして、栄養剤で死ねないかな。あるいは催眠剤で。かぶりを振る。おれの心にも、リュカの言い訳にも。わかってるから、と呟く。彼女の語りは止まらなかった。止める気もない。
「死ぬべきだと思った、わけじゃないの」
「うん」
「きみと見た景色を追ったとき。いい天気だなと、思ったとき。死ぬのに、ちょうどいい日だって。ふさわしい日だって。ふさわしい、幸せなんだなって」
「――うん」
「でも、薬なんて持ってないから。たまたまあった、カッターナイフで」
「なあ、リュカ」
 息を潜めている。あの衝動が、狭い海に、潜っていく。リュカが開けていた窓から、吹きつける風がぬるくて、おれは安堵していた。自信があった。拒まれない、自信が。
「多分それって、生きていたいってことだよ」
 おれと。生きていたいっていう、幸せだよ。零れそうなひとみから、溢れていく涙を、そっと拭う。張り付いた死への誘惑は、簡単には殺せない。だったら。
「約束、し直そう。おれたちふたりで、ふたりの同意で、入水する。誓ってくれる?」
 リュカは、ゆっくりとくちびるを動かした。
「一つだけ。確認したいんだけど」
「うん」
「きみは、私のことが好きなの」
 うん、と答える代わりに、リュカの手首に巻かれた包帯を、するすると解く。もう開いてはいない傷口に、くちびるを落とした。伝わるだろう、という甘え。分け合ってきた世界の一つのように、下手な愛情表現を、拾ってほしいと投げかけて。「変なひと」と、くすぐったさに眉を下げたリュカが、言う。
 ふたりで入水する。そういう、ふさわしい日が、死ぬのにちょうどいい日が来るまでは。ふたりで生きていよう。――すきなんだよ。表面にでない部分ばかりが饒舌なおれに、リュカが許しを与える。
「いいよ、誓う」
 柔らかな夕暮れのころ、おれたちは、その夏を閉じた。

リュカのいる夏

リュカのいる夏

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2019-08-10

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