水溜りを眺めて
水溜りを眺めていたんです。
しゃがみこんで、じいーっと。
そこには自分の顔が映っていました。
けれども名前が思い出せないのです。
自分の名前が思い出せないなんて。
絶望的だな、と心の声が何処かで言いました。
そうだね。と僕は返答をして
でもそのまま、名前を思い出す努力はしませんでした。
僕は足元の水溜りをぼうっと眺めて、
ひとりごちていました。
世界がなくなればいいな。
世界が、なくなればいいのに。
僕の胸の最深部では、そんなふうな言葉がとくとくと、
漏れ出してでも止めようともしませんでした。
何故なら、心が腐っているから。
枯れてしまっているから。
別に、誰かに助けを求めているわけじゃないけれど、
誰かが助けてくれればいいな、と思っているわけです。
別に、それがいいことか悪いことかとかじゃなくて、
ただ単に、少年はそのスカスカで中身のない身体を、
持て余してしまっているのです。
では、僕に何ができるのだろうか。僕に能力などあるのだろうか。
そう思うときにだけ、
少年の心は、酷く軋んで、苦しくなるのです。
僕が、何をやったというのだろう。
こういう時、少年はいつも心の内、神さまに向かって呟くのです。
僕が、どんな罪を犯したというのだろう。
少年には仲良しの女の子がいました。
Kちゃんです。Kちゃんは、いっつも少年のことを気にかけ、
心配していました。少年には、Kちゃんだけが、心の味方でした。
けれども少年は、Kちゃんを疎ましく思うようになりました。
何でも自分より先を歩くKちゃん。自分よりも賢いKちゃん。
ねたましくて、だから傷付けても良いんだと、思いました。
Kちゃんを、崖の上から落としました。
Kちゃんは重傷を負いました。
少年は、病院に運ばれるKちゃんの様子を見て、
怖くてぶるぶると震え出しました。
それは、ほんの些細な出来心だったんです。
けれども、Kちゃんは崖の下に落ちてしまった。
別に、強く背中を押し出した訳じゃないんです。
ぽん。と、小さく。
押した、それだけだったんです。
けれどもKちゃんは、奇跡的に生き残りました。
まるで、少年の罪を追いかけるように。
少年は、ひきこもるようになりました。
自分の部屋に、毛布を何枚も重ねて被って。
そのうちKちゃんが退院して、少年の元を訪ねてくるようになりました。
少年は、心が酷く病んでいるように思われました。
Kちゃんは状況を察し、それから少年の傍へは
近寄らなくなりました。
それから数年もの時が経ち、
少年は大人になりました。
一時期はひきこもっていた少年ですが、その内身に逼迫感を感じ、
外へと出たのです。
外の世界には、Kちゃんはいませんでした。
とっくの昔に自立して、街を出ていたのです。
少年は、やり残したことがありました。
心の内に、無様にこびりついて離れない、悪心の塊とKちゃんへの罪責感。
それを排除しないことには、少年は過去を切り離すことができない。
前へと歩き出すことができない。
そう。感じていたのでした。
少年は街から街へと、転々と職をかえ住居をかえ、
Kちゃんを探し回りました。けれども
なかなかKちゃんの居所を探ることは困難でした。
Kちゃんは、何処へ行ったのだろう。
遠い遠い所へ、行ってしまったのだと思いました。
少年は、探すのを途中で中断しました。
42の街を巡っても、Kちゃんは見付からなかったからです。
少年の歳も、もう42歳を過ぎてしまっていました。
少年は巡る街の途中で出会った八百屋の娘さんと、結婚をしました。
娘も、もう2人います。少年は、幸せでした。
本当に、自分がこんな幸せを授かってもいいのかと思うほど。
それから半年ほど、一つの街で農家の手伝いをしながら生計を立てていた頃、
少年と家族の元に、ある一通の手紙が送られてきました。
少年は驚いて、心臓が止まってしまうのではないかと思いました。
Kちゃんからでした。
Kちゃんは今、少年とKちゃんの地元に帰郷しているということでした。
Kちゃんと、その家族と一緒に。
長い間離れている間に、Kちゃんにもまた、
新しい家族ができていたようでした。思えば、当然のことだったように思えます。
Kちゃんは、地元で少年の両親と再会し、少年の現在の話を聞き、
Kちゃんの旦那さんに提案されてから、この手紙を書いたのだそうです。
少年は、酷く脱力しました。それから、再び心を奮起させました。
早く、故郷へ帰らなければ。
そうしなければ、二度と、Kちゃんに顔向けできない。
そう感じ、少年はその家族を連れて、住んでいた街を後にしました。
少年の家族は、少年のことを愛していました。なので、
少年がどんな罪を背負い、その為に生きていたとしても、
その傍を決して離れないと誓っているのでした。
その後、少年がKちゃんと会えたかどうか。
それは、誰にも分かりません。
けれど一つだけ確かに言えるのは、Kちゃんと少年もまた、
家族とは違った意味で愛し合っていたのだということです。
水溜りを眺めて