人情下り坂
男はひどく疲れていた。
非正規労働で食いつなぐ毎日には、昼夜を問わない機械的な働き方でプライベートなどまったくない慌ただしさばかりがあったが、そこには辛うじて社会に踏みとどまっている安堵感も確かにあった。
絶望さえしなければ希望は持てなくてもいい。
そんな心中で送る慎ましい暮らしに、ある日突然絶望はやって来る。
所詮首の皮一枚で繋がっていた社会。
あっという間に溢れ落ちて路上に立たされた男は、わずかな小銭を握りしめ、然るべき行き場を求めて天王寺駅で電車を降りた。
人情を頼りに天王寺駅から男が向かっている釜ヶ崎まではたった数百メートルしかない。
しかしその風景はまったく違う。
テッペンとドン底。
その両極の風景が織り成す格差社会のくっきりとした明暗は、男に『天国と地獄』という映画を思い出させた。
大阪で天下を取った人たちが居住する高層の眩しさに背中を押されながら、男は安酒を求めてドヤ街へ向かってトボトボと坂を下っていった。
ハルカスの高層から連なる大型商業施設のビル群とマンションの風景が、飛田の赤線地帯を境にぷっつりと途切れる。
潜るように日の当たらない山王商店街のアーケードに入った男は、その小便臭い煤けたシャッター通りで最底辺の暮らしを享受する日雇い労働者たちを目にして、自分にも訪れる悲観的な未来をそこに重ねた。
自動販売機で買った発砲酒で乾いた喉を潤し、溜息を洩らす。
日雇い労働者たちの稼いだ金はすぐに酒とタバコとギャンブルに消える。
そしてまともな社会生活を送る算段はとうの昔に捨てられたかのように、全ての出来事が退廃的に流れていた。
時折やり場のない怒声と投げ遣りな奇声が遠くの方で飛び交い、すれ違う人々のくすんだ目には金目の物以外映らないような虚ろさがあった。
そんなドヤ街にお釈迦様のお慈悲で垂らされる蜘蛛の糸は望めない。
ここは落ちるところまで落ちた者がたどり着く奈落だ。
人情はどこや……?
自分の居場所はどこや……?
途方に暮れて行き詰まった男は小さな公園のベンチにへたりこんだ。
近所の野球少年だろうか?
誰かが忘れて行った金属バットが無造作に立て掛けられている。
この金属バットでガムシャラにスウィングしたらあのハルカスの高層まで球が届くやろか?
男は天王寺の高層階にある天国のような暮らしにしばし思いを馳せてみた。
しかし現実が男に突きつける答えは否だ。
ならばせめて中間に帰ろう……。
男は金属バットを手に虚ろな表情でまた天王寺駅までの坂を上った。
上っては止まり、上っては止まり、坂の傾斜に息を切らす度に、男はすれ違う人間たちにささくれだった。
たどり着いた駅構内はかつての自分と良く似た忙しない人種で溢れている。
そこに豊富な可能性を持った未来ある学生や子供らの無邪気な顔が混じり、不自由な体を意地らしく操って余生を意地らしく楽しむ高齢者たちの緩い足取りがゆっくりと過ぎ去っていく。
どうせお前らだって明日は我が身やろ?
目につく者なら誰でもええわ……。
そう思った男の金属バットは、半ば無意識に、自分に対して無抵抗であろう女や老人などの非力な存在にターゲットを絞っていた。
我を失った男のガムシャラなスウィングが架空の野球の球を追って人間に向かう。
出来るだけより遠くに飛ばそうと、男は思った。
カツンッ! カツンッ!
空振りではないが、ひどく鈍い打球音がする当たりばかりだった。
あかん、こんな球じゃハルカスまで届けへん!
そう思った男がふと前方を見ると飛距離の延びそうな小さな女の子の頭部があった。
当たればホームランの予感がした。
駅構内のいたるところで悲鳴が起こっていたが、男の耳にはそれがスタジアムを埋め尽くす大歓声のように聞こえた。
ヨッシャッ!これまで一度も打ったことがないホームランのチャンスや!
男は女の子の小さな頭めがけて大きくバットを降った。
カッコンッ!
その瞬間、男の目にハルカスの高層に向かって壮快なアーチを描きながら高々と飛んでいく球がはっきり見えた気がした。
スタジアムを揺るがすほどの拍手と大歓声。
男は大歓声と共に駅構内を駆けずり回った。
しかしそのどこにも男の踏むべきホームベースは見当たらなかった。
人情下り坂