人目虫
奇妙な小説です。縦書きでお読みください。
「ひなちゃん、これ計算して」
部長が外国の投資家の出納資料を持ってきて日菜子に渡した。
「この人はこのお金を何に使っているのかね、この五年間の、月ごとに振り込まれる国それぞれの変動をみたいんだ」
うちの銀行に口座を開いているアラブ首長国の個人だが、何をやっている人か、会社側でもはっきりとつかんでいないようだ。しかし特に悪いお金ではなさそうだ。ただ、毎月かなり大きなお金を動かしている。月ごとの収支といっても、ドルからユーロからポンドからいろいろなお金が振り込まれ、それが円に替えられており、その日のレートで改めて、元のお金の額に変えて計算しなければならない。
「面倒な仕事で悪いが、ひなちゃんじゃなきゃできないからね」
そう言われて、やっかいな計算はみんな日菜子のところにもちこまれる。それも悪くはないかと思いながら日菜子は精をだしている。
残業になることが多いが、それだけ実入りは悪くなく、同じ年の子たちよりかなり高い給料をもらっている。
隣の席の子が「ひなちゃん何でそんなに計算が速いの、すごいよね」
と驚嘆の声を上げる。日菜子はとある私立大学の物理学科出身で、ともかく数字を見ていると落ち着くというタイプである。人間との付き合いは得意ではなく、アラフォーでまだ恋愛経験がない。
収入がいいだけ、住まいは都心に近いところに、それなりのマンションをもつことができた。
新宿からそれほど遠くないところの、私鉄の駅から五分ほどのマンションである。オフィスビルとマンションが交互にあるような町で、ちょっと知られた店もあり、仕事が引けたサラリーマンやオフィスレディーたちが買い物や、少しばかり贅沢な夕食をとりに、わざわざ新宿から訪れる町でもある。
駅の前に三叉路のスクランブル交差点がある。その交差点は渋谷駅の前にあるような大きなスクランブル交差点ではない。状況は似ていないわけではないが、もっとずーっと小さい。
おかしい、どうしてもおかしい。日菜子はいつもそう言いながら交差点を渡っている。渡り終わると、ちょっと寒気(かんき)を襟首に感じる。というか空虚感がある。
駅前の交差点を渡たった角にコーヒーの店がある。比較的最近できた店であるにもかかわらず、店内は一昔前の喫茶店といった雰囲気で、客にだされるコーヒーは一種類である。ただ毎日違い、キリマンジェロ、マンデリン、モカ、ブルーマウンテン、コロンビア、ガテマラ、コナなどが一週間の周期で変わる。オーナーが気に入った豆を仕入れてきて、自分のいれ方で提供してくれる。人前のカウンターではなく、厨房で入れてきて客の前に出されるので、どのような作り方をしているのかわからない。かなり凝っていることは確かだろう。店の前にその日のコーヒーの種類の札が下がっている。ケーキも手作りだが一日一種類であり、日によって変る。これも店の前に名札が出ている。
店内の壁は漆喰で、梁は古民家にあるような色の茶色ではなく、ペンキの茶色で、かえってそれが、古い外国映画にでてくる場末の雰囲気をつくりだしている。壁や窓際には小さな木の丸テーブルに二客の籐椅子、中央にはいくつかの少し大きな丸テーブルに、四客の籐椅子が置かれている。
日菜子はこのコーヒー店がすこぶる気に入っている。常連も多いが、噂を聞いてわざわざ訪れる客もいる。日菜子は常連客といっていいだろう。通勤前、朝食代わりにケーキを食べることもあり、仕事の後、同僚と食事をして帰ってきたときにコーヒーを一杯飲むこともある。
日菜子の座る場所は駅が見える窓際の席である。窓際には三つテーブルが置かれており、彼女が座るのは左右どちらかである。
今日も仕事が終わって、同僚の女性たちとインドカレーを食べてきたところで、コーヒーも飲んだが、もう一度この店のコーヒーが飲みたくなった。
電車が駅に着くと、二、三十人の乗客に混じって改札を出た。右左に行く人と交差点を渡る人がほぼ同じほどで、すなわち交差点には十人ちょっとの人が信号を待っていた。日菜子は一番後ろについた。
一台の赤い車が交差点を通り過ぎた。信号が青に変わり、渡る人の後姿を見ながら歩き始めた。渡り終わって、まっすぐの道を行く人、左右の道を行く人に分かれるが、確か渡ったはずの赤いスカートをはいた女性がいない。きれいなプロポーションをしていたし、夕陽の赤がとてもきれいに見えたので、日菜子が何気なく気に留めた女性だった。しかし渡ってから右にも左にもまっすぐにも行った様子がない。このコーヒ店に入ったのかと思ったが、日菜子は今、店の中でこうしてコーヒを待っているが、店内にはいない。
たまにこういう気持になることがある。交差点を渡り終えると、何かおかしいという思いに駆られる。この間もそうだ。その時、信号待ちをしていたのはほんの七、八人だった。一人の茶色の鞄をもった黒いスーツ姿のサラリーマンが日菜子と並んで交差点を渡ったのだが、渡ったときにふといなくなったような気がしたのだ。あたりを見ても黒いスーツの男性は見当たらなかった。その時も日菜子はコーヒー屋に入ったがやはりその男性はいなかった。
今こうやって、コーヒを飲みながら交差点を見ている。下りの電車がきたようで、駅から出てきた人が交差点の前に立った。かなりの人が信号の変わるのを待っている。ということは急行だったのだろう。
二台続けてタクシーが通り過ぎたところで、信号が変わったようで、一斉に人が歩きだした。渡りきるのに数秒だろう。ぱーっと左右に散るので、数人ならいいが、数字の得意な日菜子でも十人以上だと数を数えるのは難しい。ただ、こうやってみていると、なんだか人々が渡り終えると人数が減っているような気がするのである。日菜子の思い込みかもしれない。しかし、今日のサラリーマンは明らかに目の前から消えてしまった。
日菜子は自分は想像力が豊かな方だとは思っていない。人によっては消えた男性や女性がどうなったか、ストーリーを考え、楽しんだりするのだろうが、彼女の頭にはそのようなものは浮かんでこない。むしろ数字である。だから、経理のエキスパートとして会社で重宝がられているのだろう。このコーヒー店も、自分でコーヒーを選んで楽しむのは面倒で、黙っていてもおいしいコーヒーとケーキが目の前に出てくるところが自分に向いていると思っているのである。
それが数字で交差点の不思議を知ることになった。その時、窓から何気なく外を見ていたら、九という数字が頭に残った。男性四人女性五人である。それがたまたま、一人を除いてコーヒ店側の道をまっすぐに進んで来た。ところが、渡り終わった時、日菜子の目には男性四人女性四人しか認められなかった。女性が一人居なくなっている。このコーヒー店に入ったわけではない。やっぱり消えている。
そのようなことがあって、日菜子はますます交差点を渡るとき、人数を気にしだした。交差点で信号待ちをしている人は日菜子を入れて五人という時があった。その時は全員渡りきっている。減るようなことはなかった。日菜子はそのままコーヒー屋に入り、いつもの窓際で駅を見ていた。
十数名の人たちが信号待ちをしている。頭一つ飛び出している背の高い、紺の背広を着た男の人が目立っている。コーヒを一口飲んで、再び目をやると、その男性の首がちょっとおかしい。首が右に寄っている。傾いているのではない。首が真ん中にないのである。首から右肩までの距離が、左肩までより短いということである。バランスが悪いので日菜子の目に留まったのである。ああいう人は背広を選ぶのが大変だろうななどと考えながら顔を上げると、信号は青になっており、人々はもうすぐこちら側に着く。そこであの背の高い、顔の位置のバランスの悪い男がいないのに気づいた。
数日後にも同じように、コーヒー店にいた日菜子の目に白いブラウスに橙色のカーデガン、黒のロングスカートの女性が信号待ちの人々の中で目が止まった。なかなか均整がとれている。四十代だろうか。
モカを口に含み、顔を上げると信号が変わり歩き出すところであった。ところがその女性の顔が左肩の方に寄っている。さっきはバランスのとれている人だと思ったのだが、不思議なことだと思っていると、さらに、おかしなことに、その女性が信号を渡る人々の中から消えてしまっていた。
渡りきった人の中にその女性は居なかったのである。そのようなことが何回かあった。目の錯覚なのか、どこかに死角があって、日菜子の目に入らなくなったのか。
十二月も暮れに押し詰まったある日。かなり寒く、皆コートの襟を立てて冷たい風をよけている。日菜子も少し厚めのコートを着て交差点の前にいた。いつものように彼女は一番後ろで信号の変わるのを待っていた。その時つむじ風かと思うような空気の流れが日菜子の前に生じると、すぐ前にいた女性の首がすっと右の方にずれた。髪の長い若い女性である。黒いコートが右の方に偏った。左の袖が少し持ち上げられ、手首が現れた。
そんなことに気が付いたとき、信号が変わり、みなが歩き出した。日菜子ははっとして、渡るのをやめ、皆が渡りきるのを見ていた。黒い長い髪の、黒いコートの女性は、横断歩道を渡りきる寸前、すっと消えた。日菜子は周りを見渡した。信号は赤だ。
やっぱり、首のずれた人がみんな消えていく。
オートバイが音高らかに通り過ぎた後に信号が変わったので、一番前にいた日菜子は交差点を渡ると、いつものようにコーヒー店に入った。
コートを前の椅子にかけ、腰掛けるとコーヒーを頼んだ。
交差点を眺める。おやっと思ったのは、あの髪の長い黒いコートの女が駅の前に立っている。さっき渡ったわけじゃないのか。と、ちょっと安堵の気持ちで見ていると、その女性は交差点を渡って、日菜子のいるコーヒー店に入ってきた。首は真ん中についている。どこと変わったことはない。その女性は日菜子の隣のテーブルにくると、コートを脱いでコーヒーを注文した。駅前をちらちらと見る。しばらくすると、スーツ姿の男性が入ってきてその女性の前に座った。
「待った」
「いえ、ほんのちょっとよ」
「君、なんか、感じが変わったね」
「なに、なにも変えていないけど」
「いや、どこというわけじゃないけどね、なんだろう」
「やーね」
そんな会話が聞こえてくる。
日菜子は自分のコーヒがなくなったことに気づき、帰ろうと立ち上がった。
やはりその女性は日菜子より前に交差点を渡っている。自分の感覚は間違っていない。とするとコーヒー店に入ってきて隣で話しているのは誰だろう。
マンションに帰り、いつものように軽い食事をするとテレビを見て、十一時に本を持ってベッドに入った。
明くる日、日菜子は経理の仕事をしている途中で、ちょっと眩暈を感じた。数字が目の前で踊っている。ちょっと頭も重い。あわてて、部長に医務室にいく許可をもらった。
産業医が「ちょっと疲れてますね、有休とってないんでしょう」と聞いたので、彼女はうなずいた。
「ちょっと休んだ方がいいね、部長にはそう報告しておくから、風邪がちょっとはいっているかもしれないけど、からだに悪いところはないようだから、旅にでも行けばそれですっきりするよ」
確かに日菜子はまじめに毎日を働いてきた。あまり趣味もなく同僚とちょっとおいしいものを食べることくらいしか楽しみはない。それも自分から言い出すのではなく、仲間の誰かがいうのに付いていくだけである。酒を飲みに行くことはほどんどない。同僚が飲みに行こうと誘うのだが、酔った自分を想像するといやになり、酒を飲む気がしなくなる。ちょっと他人を気にしているのだろう。それで一緒に飲みにいったことはない。やっぱり一人でコーヒーが落ち着く。
部屋に戻ると、もう部長に話が通じていた。部長が、「ひなちゃん、今日は早く帰って休んだほうがいいって医者がいってたよ」
隣の同僚の女の子も「ひなちゃん働きすぎ、大丈夫よ、教えてくれれば、やっとくから」
その子はよく休み、日菜子が代わりをやっていた。
「それじゃ、お昼で帰らせていただいていいですか」
「もちろん、何なら、明日休みをとったらどう、遊びに行ってらっしゃいよ」
部長がそういってくれたので、日菜子はそうすることにした。
日菜子は家に帰る途中でコーヒ店によろうと思い駅を出た。その日も寒い日で、日菜子はコートの襟を立て、人々の一番後ろで信号が変わるのを待った。頭が重いせいか、あたりの景色がくっきりと新鮮に見える。
一台のタクシーが交差点を通過すると黒い渦巻きができたのが見えた。黒い渦巻は日菜子の前で信号を待つていた女性の前にすすんでいくと、背の高い真っ黒な人形(ひとがた)になった。黒い人形は前の女性の首を両手で引っ張り身体から抜いた。黒い人形は女性の頭をひっくり返すと、首の切り口をのぞき込んだ。
「ちぇ、入っていない」
人形はあわてて女性の首を元に戻した。首は真ん中に戻らず左にずれた。女性は信号が変わり、渡りきる前に消滅した。
日菜子はびっくりして、その場に立ち止まっていると信号が赤になり、渡るつもりの人が後ろに集まってきた。
一台の車が通り過ぎると、また黒いつむじ風が生じて、日菜子の後ろの信号を待つ人のところで黒い人形になった。日菜子は振り返った。人型はその男性の首をスポッと引き抜くと、首をのぞき込んだ、
「やっぱり入っていない」
黒い人形は男性の首を元に戻した。といっても真ん中ではなく左に偏っていた。そうすると黒い人形は後ろを向いた日菜子の方に顔を向けた。。
「おや、あんただ」
そう言うと真っ黒な顔を日菜子に近づけてきた。日菜子はびっくりして硬直してしまった。すると黒い人形は日菜子の首を両手で持つとスポット引き抜いた。ひっくり返して首を覗いた。日菜子の目はコーヒー店がひっくり返って見えた。
「おー、あるじゃないか」
黒い人形は日菜子の首に手を突っ込むと何かを引っぱった。
「これは旨いんだ」
黒い人形は日菜子の首のなかからずるずると白っぽい紐のようなものを引きづり出した。日菜子の目の前でぶらぶら揺れている。白い粘土でできているような紐には、たくさんの人間の目玉がついている。紐は生きているようにグニャグニャと動いている。目玉はみんなして日菜子の首を見ている。
黒い人形は真っ黒な口を開けてその目玉の連なった紐を飲み込んだ。
「人目虫だ、これで百年は寿命が延びた」
黒い人形は日菜子の首を胴体にくっつけるとまた黒い渦となって消えていった。
日菜子はコーヒ店にいた。コートを脱ぐとコーヒーを頼んでいた。体がなんだか軽くなり自分が自分ではなくなったような気がしている。目もさっぱりとして、周りが明るくなったようである。日菜子には分からないのだろうが、他人の目が気にならなくなったからだ。
明日は休みをもらった。誰か誘ってどこかの海を眺めにいこうか。交差点を見ると、昼間なのであまり信号待ちをしている人はいない。
ふっと首に手をやった。なんだか真ん中にないような気がしたからだが、特に変わったことはないようだ。そうこれからはコーヒーじゃなくて、おいしいお酒が飲めるところも探さなきゃ。日菜子はビールが飲みたくなった。
人目虫