Fate/Last sin -29


 夜明けが近く、降り続いた雨は弱まっている。
 不意に、湿った砂浜の上を歩く音が聞こえた。
 文香月は仰向けに倒れていた体をゆっくりと起こし、音の方を見る。背中の傷がいっそう痛みを主張したが、呻き声は飲み込んだ。傍らに立っていたアーチャーが弓に矢を番えて、こちらに歩み寄ってくる女を静かに威嚇した。
「止まりな。それ以上近づいたら射る」
 アーチャーが矢を向けたのはただの女ではなかった。白い和服のようなコートに、短い黒髪は小雨に濡れて烏羽のように艶やかに光っている。一見するとごく普通の顔立ちをした日本人女性だったが、彼女はアーチャーに矢を向けられても表情を変えなかった。しかし逆らう気はないようで、素直に足は止め、やや離れた位置からアーチャー達を見る格好になった。
 静かで軽い女の声が言う。
「今晩は、アーチャーのマスター」
「……」
「マスター、知り合いか?」
 その言葉に香月はゆるく首を振った。
「いいえ。この聖杯戦争の参加者の一人ですよ。名は、確か……」
「空閑灯ですよー、どうぞお見知りおきを。というか、私、そんなに臭います?」
 黒髪の魔術師はけらけらと笑った。しかしアーチャーは表情を緩めることなく、むしろ眉間に深く皺を寄せて矢を握る指に力を込める。
「何の用だ」
「いえ、というか、言わないと分からないほどでもないでしょう」
 空閑灯はにこにこしながら言う。
「瀕死で倒れている獣の肉を、カラスが啄みに来るのは当然の事です」
「!」
 彼女がそう言い終わらないうちに、アーチャーは空気の流れが捻じれるように奇妙な方向へ向きを変えたのを肌で悟った。番えた矢を躊躇なく灯に向かって放ち、身を起こしているマスターの上半身を脇に抱えて横へ飛び退く。
「ぐ」
 香月が苦しそうな声を上げたが、それをかき消すような異様な音が海岸に響き渡った。
 パァン、とクラッカーが弾けるような軽い音を立てて、香月がいたあたりの堤防のコンクリートが粉砕したのだ。アーチャーの目には、堤防の上を漂っていた空気が無理やり捻り上げられ、それが一息に解放され、さながら空気銃のようにコンクリートを叩き砕いたように見えた。
「あはは! やっぱりサーヴァントとの戦いはこうでなくては! そうです。一筋縄で殺されては困ります。身勝手な報復で自滅されても困ります。正々、堂々と、ただこのように殺し合わなくては!」
 空閑灯は心底楽しそうに声を上げた。
「……何て女だ」
アーチャーは香月を解放し、膝を突いたまま再び弓を番える。三本の矢を一度に放ち、―――それぞれ頸椎、眉間、心臓の急所を狙った一撃だったが、空閑灯はいとも容易くそれらを空中でねじ切り、湿った砂の上に矢の残骸がこぼれた。
「詠唱が、無い……」
 砂の上に倒れ込んだ香月は、咳き込みながらそう呟く。空閑灯は首を横に振った。
「いいえ。詠唱はしていますよ。ただ、あなた達には聞こえないだけ」
「空の属性か……しかも、この魔力は」
「異常だ。俺が地上にいた時と同じ匂いがする」
 アーチャーが険しい顔で立ち上がり、倒れる香月を庇うように空閑灯の前に立ちはだかった。そして灯を見据えたまま、香月にしか聞こえない小声で言う。
「分かっていると思うが、アサシンとの戦闘の後で俺も保たないぞ。あんたに魔力を回復してもらわねえと無理だ」
「……分かっている。だが霊脈が遠すぎる」
「ま、やるだけやってみるか。隙を見て適当に逃げろよ。そうじゃなきゃ仲良く共倒れだ」
 香月は小さく頷いた。アーチャーは口を引き結び、再び弓に矢を番える。間髪入れずに引き絞った矢を放った。今度は四本、流星のような速さで砂浜の上ぎりぎりを掠めていく。
 空閑灯もすぐさま右手を差し出し、何かを呟くように唇を動かしながら手を握りこむ。空気が破裂して、矢羽根が無残に飛び散る。しかしそれを追うように、すぐに追撃が迫る。空閑灯がそれを砕く。隙を与えず、次が―――
 矢と空の魔術の攻防は無言のうちに、しばらく続いた。お互い一歩も譲らず、間合いはほとんど動かない。灯が踏み出せばアーチャーが退き、アーチャーが攻めれば灯は油断なく守りに入る。もはや矢と空弾は常人の目では追えないほどの速度に到達している。
 香月は空閑灯を警戒しながら、背の傷を庇うようにゆっくりと砂の上を後ずさりし、手持ちの中の最後の紅骸礼装を脚に纏った。アーチャーが空弾を躱し、矢の雨を天に向かって放った時、香月は逃亡の姿勢へと転じる。だがその背に、無情な声がかかった。
「あら、どちらへ?」
「……ッ!」
「マスター!」
 最後の力をかき集めて砂を蹴った先で、空気が身をよじるように捻じれたのが、今度は香月の目にもありありと見えた。あれが破裂したときが、多分自分が救いようのない致命傷を負うときだろう、と直感する。無理やり進行方向を変えるために踏ん張った左足首が、一瞬奇妙な方向に捻じれて、香月は悲鳴を飲み込んだ。眼前で空気が破裂し、余波の風が湿った重い砂を容易く吹き散らす。
 辛うじて直撃は免れたものの、助走のために礼装に注ぎ込んだ魔力が最後だったらしい。香月の脚は突然力を失って、糸が切れた人形のように体が砂浜の上に崩れ落ちる。背中の傷を覆っていた礼装も動力源を失って、もはやただの紙切れにすぎなかった。
「―――負ける、のか? ……私が?」
 空閑灯は香月のその隙を見逃さなかった。マスターである香月の魔力切れによって急激に失速したアーチャーの矢の隙間をかいくぐって、白い手袋をした右手を香月に向かって開く。
 それは獲物を捕らえる食虫花の花弁に似ていると、香月は思った。
 目を閉じる。
 その時、香月の耳に、遠くで馬が嘶く声が聞こえた気がした。


「セイバー! あの人を!」
 遠くで叫んでいるような声の残響が、確かにそう聞こえて、香月は閉じていた瞼を跳ね上げるようにして目を開く。夜明けが近いのか、わずかに白みはじめた曇天と、小降りの雨が目に入った。
 だがそれだけではなかった。空の一点、街の低い空を滑るように、何かが猛スピードでこちらへ向かってくる。黒い点のようだったそれは、近づいてくるにつれて徐々にその姿を現した。
「なんですか、あれは。黒い……」
 空閑灯は動きを止め、警戒するように、顔に右手をかざしながら口にする。
 それは紛れもなく、巨大な黒馬だった。馬は地ではなく、天馬のように空中を駆けて砂浜へ降下してくる。さながら、大砲の弾が降り注いでくるような威圧感だ。
 そしてその背には、うっすら見覚えのある金髪に銀鎧、真紅のマントのサーヴァントと、長い髪の少女が跨っていた。彼らは迷うことなく、香月の元へ駆け降りてくると、サーヴァントの方が馬に跨ったまま手を伸ばし、香月の体を掻っ攫い、瞬く間に馬の背に乗せて、自分は砂浜へと降り立った。
「手綱を頼むぞ!」
 サーヴァント――セイバーは馬上の少女に言い残して、鞘から剣を引き抜く。香月を抱え込むような形で背後に座る少女は、ひとつ頷くと、妙に慣れた手つきで黒馬の手綱を引いて向きを変え、セイバーを置いて砂浜を後にするように空を駆けだす。
 それは一瞬間の出来事だった。
「お前―――」
 口を開きかけた香月に、
「すみません、喋らないでください! 危ないので!」
 遠慮がちな声が背後で聞こえたと思ったら、突如として黒馬が速度を上げて、香月は危うく舌を噛みそうな揺れに襲われた。

   *

「どういうつもりだ」
 黒馬が辿り着いたのは、風見市の北のはずれにある雑木林に近い、古びた洋館の庭だった。長く手入れされていないのか庭は荒れ果て、外からではそこに屋敷があるとは思えない有様をしている。空を駆けた馬が二人を下ろして霧散するように消えたあと、背後で馬を操っていた少女が香月の背に手を回そうとしたのを振り払って、彼女は詰問した。
「なぜ助けた。私はアーチャーのマスターだ、分かっていないのか?」
 少女は香月の態度に怒るどころか、むしろ申し訳なさそうに慌てて口にする。
「ご、ごめんなさい! でも、あのままだとあなたが危ないと思って……そ、それに! 助ける理由ならありましたよ!」
 香月は片眉を上げた。少女は必死に続ける。
「私は最初の日にアーチャーに見逃してもらいましたから、その借りを……いや、恩を、恩を返そうと思って!」
「……ああ。あの時の」
「そうです、思い出してもらえましたか? セイバーのマスターで、望月楓というんですけど」
「さっき私が殺した男と一緒にいた、弱い魔術師か」
 冷たい香月の声に、楓はさっと顔色を青くした。口の端はひきつっている。立ち竦んだままの彼女はしばらく言葉を失った後、小さく言った。
「……杏樹先輩は亡くなったんですね」
「私との戦闘がきっかけで、アサシンと自殺した」
 白くて小さな手が震えていた。壁にもたれかかるようにして座り込んだ香月は、無表情でその手の持ち主を見上げる。
「仇をとるなら今が絶好の機会だ」と、香月は囁く。
 だが楓は口を固く結び、首を横に振った。長いビロードのような髪の毛がゆらゆらと揺れる。
「だめです。この儀式で、これ以上誰も死なせたくない。だからあなたを助けたんです」
「……」
 それ以上香月は言い返すことが出来なかった。限界を迎えた体はそのまま、冷たい草のなかに倒れ込む。

  *

 空砲のような音が連続して鳴り響いている。セイバーはその空気の破裂の隙を縫うようにして一気に空閑灯のもとまで駆け、距離を詰め、同時に赤い剣を振りかぶった。
「!」
 アーチャーの矢を撃ち落とすのに集中していた灯は若干遅れて反応したが、その時にはもうセイバーとの間合いはほぼゼロ距離に等しくなっていた。剣から噴きあがる炎が灯の表情を露わにする。
 空閑灯は笑っていた。次の瞬間には、セイバーの剣が振り下ろされている。
「ようやく来ましたね、セイバー」
「ああ、来た。お前を殺すのは私だ」
 剣の赤い刃は、灯の白いコートの胸元を深く斬った。それは間違いなく致命傷になるはずだった。
「いいえ、あなたは私を殺せませんよ」
 鋭利な切創から溢れ出たのは、血ではなく、紙くずだった。生身の人間のように見えていたソレは、セイバーの炎に触発されたかのように端からゆらゆらと燃え上がって崩れ落ちていく。セイバーは気づいて、苦虫を嚙み潰したような表情で唸った。
「依り代の類を……!」
「神父を探しているのでしょう。風見聖堂教会に行きなさい。彼もあなた達を待っている」
 セイバーはわずかに目を見開いた。もはや原形を留めていない紙の塊から、最後の声が聞こえた。
「全く、あなた達が、もたもたとしているから……言伝のためだけにこんな礼装まで……」
 日が昇ると同時に吹いた北風が、紙くずたちを残らず吹き散らし、あたりは静けさに包まれる。セイバーはしばらく乾いていない砂浜を見下ろしていたが、自分を呼ぶ声にふと顔を上げた。
「よう、セイバーのサーヴァント。いやあ助かった。恩に着る。で、俺のマスターはどこだい?」
 口調とは裏腹に、警戒の色がありありと浮かんだ冷ややかな声色だった。セイバーは剣を鞘に納めて振り返り、弓矢を構えるアーチャーに向かって両手を上げてみせる。
「心配しなくても、今頃風見で一等の霊脈地まで案内されているだろう」
「……どういう罠か、見当もつかないね。なぜ剣を下ろした」
 アーチャーはとりあえずといった体で弓を下ろした。セイバーは続ける。
「別に罠でも何でもない。戦わないのは、私のマスターがアーチャーとの戦いを望まないからだ、と言うしかないな。私が召喚される前だったマスターの命を助けたとか、なんとか言っていたが」
「ああ、そういえばそういう話もあったな。借りを返したってわけか」
 アーチャーは腑に落ちた様子で頷く。それから首を傾げて苦笑した。
「じゃ、今の俺とあんたは戦う必要はない。どう見たって俺の方が弱り切っているからな。正々堂々とした戦争とはとても言えないだろ?」


  *

 日が昇っても未だに寒さの癒えない礼拝堂に、空閑灯ひとりの姿があった。キャスターからの言伝は伝えた。早ければすぐにでも、遅ければ今夜中にはキャスターの望むサーヴァントがここに現れるだろう。
 冷えた長椅子に、疲れ切った体を深くもたせ掛ける。体内のマナを純粋に暴発させる魔術より、空閑家の礼装を行使する方が灯に何倍もの苦労を強いた。おまけにここ何日間と眠った記憶がない。少しくらいここで仮眠を取ったって文句は言われないだろう――と空閑灯は踏んだ。瞼を閉じる。濃墨色の闇の中で、礼拝堂の地下、医務室に姿を消したキャスターの事を考える。
『これでも医者で、これでも神父だ。死は看取り、生誕は言祝がなければ』
 そう言っていたのを思い出す。いよいよ胎動を始めるのだ、と灯は直感する。
 残りのサーヴァントはあと三騎。セイバー、アーチャー、ライダーを残すだけだ。そのうちの一騎を退去させれば、聖杯は目覚める。
 それを手にして、ようやく家族との約束は果たされるのだ。
 なんとはなしに、歌を口ずさむ。幼い頃、母に教えてもらった歌だ。何度も何度も歌ったが、それが擦り切れて無くなることはない。父の頭のように爆ぜて消えることもない。血筋のようにある日断絶することもない。見上げればいつもそこにある星のように、その歌は恒久的に、半永久的に、美しかった思い出をいつでも、美しいまま再生できる。
 灯の意識は、暗い底へと落ちていこうとする。

 俄かに、ガラスの砕け散る暴力的な音が礼拝堂に響きわたった。

「だから、射的はただの趣味だと、そう言っただろう」
 自分以外の誰かに語り掛ける、低く重い声がした。灯は銃弾の掠めていった左足首を庇うように長椅子の上に立ち上がって、粉砕した一枚の長い窓の奥を見る。舞い上がる埃と朝焼けの霧に覆い隠されるようにして、一人の長身が立っている。
「誰です? ……なんて、聞くまでもないですよねえ」
 アーチャーとも、セイバーとも姿は違う。銃を構えたままの老兵は、軍帽のひさしの下から冷淡な視線を灯に寄越した。
「白兵戦は儂の得手ではないが。まあ老体に鞭打つのも仕方あるまい。……さて。魔術師よ」
 灯は呼びかけに対する応答の代わりに、顎を引いてライダーを見据えた。ライダーは長身をまっすぐに伸ばし、毅然とした声で問う。
「大人しく貴様のサーヴァントを差し出す気はあるかね?」

  *

 階上で、ガラスが砕け散るような派手な音が響いて、寝台の上に横たわっていた彼女の瞼がピクリと震えるように反応した。
「……アルパ神父?」
 目は閉じたままで、彼女は不安そうに小さく呟く。もうそうするのも、かなり力がいるはずだ。それを分かっていたから、アルパはわざわざ寝台に歩み寄って、その震えている指先を握った。
「私はここだ」
「………あの人は? 彼はどこ? もうずっと目を覚まさないの。ずっと……」
「心配はいらない。痛みや苦痛もない。静かに待てばいい。全ては、いずれ君の願う通りになるのだから」
 アルパが語り掛ける寝台のその人―――クララ・ルシオンは小さく頷いた。
「ええ。そうだわ。全ては……」
「聖杯の意思のままに」
 クララの金の睫毛に縁どられたアイスブルーの瞳が、突如として見開かれた。悪夢を見て跳ね起きた人のように、悲鳴のように彼女は息を呑む。
「あ」
 それきり、彼女は停止した。 
 アルパは数十秒間の間、クララの指先を強く握り込んで彼女の見開かれた瞳孔を見ていた。何かを言いかけた薄桃色の唇がわずかに開かれたままなのを凝視していた。やがて彼女が完全に『聖杯の器』としての役割を始めたのだと悟ると、ようやく手を離した。
 クララの隣で、彼女の悲願も知らず、昏々と眠り続ける男の顔を見る。
 堪え切れない笑みが、口元からこぼれ落ちた。
 長い十一年の月日が結実する時は近い。

Fate/Last sin -29

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  • 短編
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