おわりの八月

 ひとりの夜は、深海の、底にいるみたいな感覚だった。
 天体、というものは、ぼくらのあたまのうえで、平等に、光り輝いている。社会、なんてものは、不平等で成り立っていると、先輩は言った。爪の先で、うでに、ひっかき傷をあたえられたとき、ぼくは、先輩の、所有物、となったはずなのだが、傷が消えると、先輩は、かんたんに、ぼくのことを、捨てた。
 神さま。
 思うのだけれど、恋は、したいひとだけが、すればいいもので、したくないひとに、むりやり、運命のひと、なるものを出逢わせて、恋をして、愛をして、と仕向けるのは、いかがだろうか。したくないことを、したくない、という意思は、けれど、まわりに疎まれるものだと、おとなは言うから、おとなにはなりたくない。先輩、というにんげんが、ぼくのうでよりも、内側の、なかの、もっと奥の、深いところにつけた、傷は、いつになったら癒えるのだろう。金魚鉢の、金魚が、優雅に泳いでいる、夏の、冷房で、南極のように寒い部屋に、ぼく以外の影があるとすれば、それは、ぼくが忘れられない、先輩の影だ。友だちの恋人が、町の、冷凍睡眠施設で、アルバイトをはじめてから、すこしだけ、やさしくなった、と聞いたとき、先輩も、そこに行けばいいのにと、ひそかに思った。
 そういえば、夏なのに、さいきんはめっきり、風鈴の涼やかな音色を、聴かなくなったね。
 白い入道雲が、綿菓子だったらという想像は、あたりまえのように、幼い頃に、して、漫画や、アニメのキャラクターのように、いつかは自分も、雲に乗れるものだと、信じていた。
 ぼくは、一度、先輩のものになったのだから、どうか、捨てないでほしい。
 しかし、そういうのは、重い、のだそうだ。軽いのをご所望なら、はじめから愛など、植えつけないでほしかった。ばか。

おわりの八月

おわりの八月

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-08-06

CC BY-NC-ND
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