Club Line

プロローグ

 メッセージ到着のアラートがさっきから鳴っている。塾帰りだろうか、長い髪を後ろで束ねたセーラーの女子高生は、参考書を開いたまま深く眠っていてアラートに気付かない様子だ。
 ラッシュはとうに過ぎているので車内は閑散としている。乗客は勤め帰りのサラリーマンがほとんどだ。
 ふいに彼女は顔を上げ、スマホを取り出してアラートを止めた。メッセージは見ようとせず再び参考書を眺める。


 東亜女学院大学付属第二中学高等学校は、郊外の丘陵地にある中高一貫の女子校である。大学付属校なのでエスカレーター式に上がるイメージがあるが、ほとんどの卒業生は他大学を目指す。
 多くの私立校がそうであるように、この学校も少子化や公立一貫校の影響を受けている。その上、昨今の都心回帰の流れもあり志願者減少に歯止めがかけられていない。
 そんな学校経営とは対照的に、11月の放課後、この春入部した陽気な中学1年生から、すっかりお姉さんになった高校2年生までの合唱部員達は、部室となっている音楽室に集められていた。
 部員達はいつものように自分の席はあるのに大好きな先輩の膝に座る子、ほかの子の髪型を勝手にポニーテールにいじりだす子など華やかで賑やかだったが、練習に欠かせない楽譜は持っていなかった。それというのも、この日は部長をはじめとした役員の交代式なのである。

 顧問教員の田丸と田中雪乃が入室すると、引退を目前にした高2の部長が号令をかけた。

「みんな、早く席に戻って!」「起立!、礼!」
 教壇に立つ田丸の横で、ピアノ椅子を引っ張り出した田中雪乃がちょこんと座った。
「高2のみなさんは、この1年間、本当にご苦労さまでした。みなさんの活躍で今年も無事に活動を終えたことを嬉しく思います。来年もいっそう飛躍しお互いに力を合わせて頑張りましょう」
 田丸が話し出す。
 高2の部長は涙ぐんでいたが、その理由は「1年間、無事に部長を務めあげたことの安堵感」なのか、「今年も全国大会に進めなかったことの後悔」なのか、本人でさえも分からなかった。
 進学校である同校は高校2年生が部活動の主体である。毎年11月になると、最上学年である高2は合唱部を「引退」し受験モードに入る。来春に高2を向かえる現在の高1が、この日以降、役員として部を引っ張るのだ。
「まず、部長から発表します。部長:土方美咲、副部長:伊藤英里華、永井鈴香」
 部員達は行儀よく発表をきいていたが、部長に指名された土方美咲と、副部長に指名された伊藤英里華は、内心、穏やかではなかった。伊藤英里華は、現在の高1学年代表(学代という)である。ソプラノ担当、実力面で合唱部を支える柱であり本人も部長になることを希望していた。
 反対に土方美咲は、部長になること自体が想定外であった。訳あって中3の3学期に弓道部から合唱部に移ったばかりなので、活動経験は浅く1年に満たないのだ。伊藤英里華、永井鈴香は中1からの生え抜きなので、順当にいけば英里華か鈴香が部長に指名されるべきだった。
 会計担当等、各学年の学代、副代が淡々と読み上げられる。
 発表が終わると、田丸は旧役員の高2と新役員の高1を引き止め、中学生は散会させた。まばらになった高校生を手前に集めて静かに話し始めた。
「高1のみなさんは、高2に替わってこれからは役員です。ひとりひとりが下級生の模範となるように努力すると共に、互いに助け合って取り組んで下さい。高2のみなさんはクラブ活動は今日で最後ですが、合唱部を退部したわけではありません。これからも合唱部の活動を支えて下さい。まずは、自分の役割を新役員に引き継いでください。」
「来年の活動にあたり私からお願いがあります。これから話すことについて新役員で決定し、来週末迄に顧問に報告して下さい。」
 雪乃が田丸に続いて話し始めた。

「今年の9月、都立山王下工業高校から校長先生宛に、来年度、わが校と合同で合唱活動したいとの申し入れがありました。活動はコンクールなどの参加も含めてです。校長先生は、わたくし達顧問にもご相談の上、申し入れを基本的に受け入れるとのご判断をいたしました。ただし、校長先生は合唱部の生徒達が納得して活動することを求めておられます。そこで来週中に合同の可否を決めて下さい。山王下高校へは私からお返事する予定です。」

 ワープロ打ちの提案書のコピーが各自に配布された。校長公印の後、顧問教師の蛭間が連記され提案の理由が書かれていた。そこには、
・きっかけは生徒の発案であること
・学校の性格上、部員数が少ないため、活動経験が豊富な本校に協力を求めたいこと
・学校を超えた地域交流を図りたいこと
等、綴られていた。提案書の別紙に紹介欄があり部の沿革や、部員6名の名簿が添えられている。

「合同でコンクールに参加なんて初めてだね」
 中高一貫高で高校入試を行っていない女子校の部員たちは、工業高校が共学ということしか知らない。
「6人しかいないんだ」
 誰かが声をあげた。コンクールの参加規定は最低でも8名。これでは参加資格がない。
「工業高校ってなんか強そう」
「部員ってほとんど男子じゃない。男性合唱って声汚いから嫌だなぁ」
 彼女らの男子のイメージは、コンクールで歌唱している人だけなのだ。
「女の子ひとりなんだ。かわいそう。」
「って男子も五人だよ!」
 一同が笑う。
 大半が好意的である。今回の提案は彼女たちの自立を育むチャンスであることを、校長以下、2人の顧問は認識していた。女子校という枠組みの中で、意図的に外部から隔離されてきた生徒たち。保護者からすれば中高時代は学業に専念し、多少でもリスクを伴う社会教育は不用なのである。今まで学校側でもその意図を汲んで他校との交流は慎んできた。
 しかし時代の流れは変わった。多くの卒業生は女子大ではなく共学の総合大学を目指していく。男女の隔たりなく自らの意志で様々な世界と繋がり能力を発揮できる人、意見が違う人達と上手にコミュニケーションがとれるしなやかな人材を卒業生として送り出したい。校長以下、2人の顧問は切実な思いを抱いていた。
 新任教師の雪乃はほっとしていた。思ったとおりこの子たちは偏見というものがない。学力や評判を気にすることもない。純粋に合唱相手として工業高校を捉えている。
「屈託がないというか、天真爛漫というか、てんしん、てんし、うん、天使なのかな。」
 すっかり大人の世界に浸ってしまった自分が気恥ずかしい。
「来週中ですよ」
 雪乃は田丸と共に騒がしくなった教室を出た。

第1章 きっかけ

1.合唱部の存続
 山下信夫は山王下工業高校機械化に通う2年生。新入生勧誘で断り切れず工業高校では珍しい合唱部で活動している。もともと消極的な性格だったが、高2になってから周りがびっくりするような行動力を見せるようになった。新学年の4月もそろそろ終わろうとしている今、合唱部の新人数は絶望的局面を向かえている。部の存続に必要な新入生が全く合唱部に興味を示さないのだ。
 近年、学校での合唱教育は低迷している。一部の強豪校を除いては、熱意ある顧問教員の異動により合唱部の運命が決まる。趣味の多様化、集団から個性尊重への変化、いろいろな理由があるが、最も重要なのは合唱曲自体が「今風でない」ため、時代にそぐわなくなってしまっているのである。
「今年も新人が1人か、このままだと部がつぶれちゃうなあ。なんとか部員を増やしてコンクールに出たいなあ」
「女子を勧誘したらどうかなあ。結構、男も入るんじゃないかなあ」
 土木科2年の倉田である。
「どうやって女子集める」
「俺、土木科だからここ数年女子と話してない」
「俺、電子科だけど高3の女子が、今から合唱なんてありえないよ」
 高3の部長である。
「今年入部した新人が電子科だから、クラスの女子を勧誘してもらうか」
 電子科だけは女子がいるのだ。
「日常会話が苦手な感じだから絶対無理だと思うよ。もっと日本語ペラペラなやついないの」
「じゃあ、僕が1年の電子科女子に声かけてみるよ」
 発言したのは高2になったばかりで勧誘担当の山下だった。
「お前、女子と話したことあるのか?」
「この前、狢坂46の握手会に行って、ちゃんと話せた。」
「えっ狢坂?山下って地下アイドルのオタクだったんだ。で、何、話したんだよ?」
「CD1枚しか買ってないから「応援してます」って一言だけですぐ引き剥がされた。それに狢坂は地下じゃないよ。真面目にテレビ見ろよ。」
「そんだけしか話せないんだ?」
「そんだけしか話したことないのに、学校の女子に話せるのかよ?」
「そんだけでもお前らの百倍は話してるぞ!」
「確かに。俺たち超絶女っ気ない」
 部員たちが陽気に笑った。

 山下は休み時間中の1年生教室に入る。ターゲットの佐藤さんは机にもたれて話し込んでる子だ。
「あのー、俺、機械科2年の山下っていうんだけど。合唱部してるんだ。佐藤さんだよね」
「え、合唱?」
「クラブ決まったかなぁ。放課後に練習あるから見学してほしいんだけど?」
「合唱部って?こんな学校にそんな部あるんだ。あたしは興味ないから小百合にきいてみたら」
「小百合ちゃんってどの子?」
「あそこ」
 指さす。そこには、大人しそうな伊藤小百合が寂しそうに座っていた。

「佐藤さんから聞いたんだけど、小百合ちゃん合唱部に入らないかな?今日の放課後に公開練習があるから来てね」
「えっ、はぁー」
「音楽室だよー。わかるよね」
「えーと、あのー」
「そんじゃよろしくね」
 放課後、小百合はひとりで音楽室に現れた。この日の見学者は小百合だけだった。部紹介のパンフレットに写っていた女子先輩を小百合は探したが、教室にいるのは男子だけだった。
「今日は来てくれてありがとう。どうだった?」
 休憩に入った山下が小百合に声をかけた。
「あのー、この写真に写ってた女子の先輩は今日はいないんですか。」
「あの人、今年卒業しちゃったんだ。今、特別キャンペーンやってて、女子部員大歓迎なんだ。」
「わたし音楽は好きなんですけど、人前で歌うの苦手なんです。恥ずかしくて。」
「それじゃー、最初はマネージャーでいこうよ。気が変わったら、いつでも歌えるから」
 高3の部長が言った。
「はあ」
「マネージャー?そんなのあったっけ?」念願の女子部員が入部した。

 山下は帰宅後、今日も合唱連盟のHPを見ている。
「うーん、コンクールの参加資格は少人数8名以上、大人数が33名以上か、小百合ちゃん入れても6名だなぁ。もっと入ってくれないかなあ」
 軽音楽部で同級の安田をLINEで勧誘してみる。
「ふたり足りない、大会まで兼部してくれ」
「女子いるの?」
「またかよ(怒スタンプ)1年生の小百合ちゃんが入ってくれた」
「佐藤ちゃんは入った?」
 女子が極端に少ないため新学年の女子はすぐ覚えられるのだ。
「断られた」
「ウチの部もダメ出しされた。じゃ、いやだな。入らない」
 考えれば競争相手だ。あっけなく交渉が決裂した。

 今度はクラブラインで呼びかける山下。
「新入生でなくていいから、あと2名勧誘頼む。コンクール出たいから」
「おーい誰かあ(スタンプ)」
「おーい(スタンプ)」
「既読スルーかよ、ちっ(怒スタンプ)」

 しばらくしてメッセージ到着のアラートが鳴る。
「勧誘は2年の仕事だろ。」
「てか、ともだちへってきた(スタンプ)」

 山下はHPの参加規程を再び眺める。
「うーん。複数校で編成する合同合唱団もいいのか。でもほかの学校で合唱やってるやつ知らないな。」

クラブライン
「みんなほかの学校の合唱部員知らないか。あと二人入ればコンクールだぞ」
「帰宅部なら知ってる」
「合唱やってるなんてバレたら恥ずかしくて生きてけない」
「私立の女子校なら小学校時代の友達います」
 マネージャーの小百合だ。
「どこの学校?」
「東亜女学院第二高校です」
「都大会の常勝校じゃん(びっくりスタンプ)」
「スタンプ」
「スタンプ」
「てか、進学校だし」
「ウチらじゃ相手にされんわな」
「すいません。知らないもんで」
「やた、じょし」
「これはテンションMAX」
「あした部長に相談すっか」
「スタンプ」
「スタンプ」
「スタンプ」

「うーん。合同参加かあ。地方ならあるけど、都会じゃきいたことないな」
 高3の部長が顧問の蛭間に相談している。
「今年入った1年生の伊藤小百合が友達知ってるっていうんですよ。それで、」
「試しに提案書、書いてみなよ。返事くるかわからないけど、俺の名前入れていいから」
 蛭間に何度も手直しされ、最後は蛭間が全て書き直して提案書の原文が出来上がったのは夏休み前だった。


2.集団中の孤独
 美咲が新部長に指名されてから2日が過ぎた。それからずっと気分が優れない。今まで自分を支えてくれた顧問の先生や部員達に恩返しが出来る。反面、それまでの経験がトラウマになり、部長に立つことを恐れる自分もあった。
 中学1年生の頃の美咲は華やかだった。同じクラスの仲良し4人組は一番最初のお弁当グループ。放課後は学校帰りにこっそり私服に着替えてパフェを食べに行き、誰かのお母さんから催促メールが来るまでお喋り。最後はプリクラを撮って別れる。家に帰ると4人のグループラインが、ものすごいスピードで流れていて勉強が手につかない。深夜まで笑いが止まらなかった。
 原宿でお揃いの服を買い揃え、知っている限りのおしゃれをして鼠の国に行く。仲間たちは、普段はクールで整った顔立ちの美咲が、コースターで取り乱したり、絶叫してしまう様が面白く、嫌がる美咲を強引に誘うのだ。コースターは苦手だったが、美咲は友達の喜ぶ姿が大好きだし一緒に過ごすのが心地良かった。
 この学校では中1のクラブ活動が必修で、美咲は道衣が大人っぽい弓道を選んだ。4人組はそれぞれバトミントン、ダンス、合唱、弓道に分かれていた。
 弓道部で美咲は活躍した。数年前の受験生向けパンフレットの凛とした表情で弓を引く美人は、モデルではなく中1の頃の美咲本人で、パンフレットが配布された翌年の新入生達は、憧れの先輩がいる弓道部に押し寄せた。
 中学2年生のクラス替えで仲良しグループは四散した。美咲は身長が高く落ち着いた雰囲気のせいか、クラス委員などの代表に推されることが度々あった。美咲はもともと、自分から立候補するような積極的な性格ではなかったが周りはそうはさせなかった。代表になってしばらくすると、選んだ本人たちは責任をすっかり忘れ協力しなくなる。いつも、そんなことを繰り返していた。
 中3の1学期が終わる頃、順風満帆だった美咲の学園生活に変化がおきた。クラスメートがなにか、よそよそしいのだ。中1の頃の仲良しグループは四散していたので、秋の修学旅行の自由行動はクラスでも大人しいグループの班に入っていた。
 以前ならクラスのどの班でも誘ってもらえたが、その頃は自分に声をかけずらい雰囲気があることを感じていた。
 ある日の放課後、例の大人しいグループで班行動の話し合いが終わり、道衣に着替えクラブに向かおうとしている時だった。大人しいグループの子の1人が、クラスでも評判の美人の明日香に、階段の踊り場で問い詰められていた。
「なんで美咲をグループに入れたのよ!美咲が楽しそうにしていたの、あたし見たわよ」
 ヒステリー状態で明日香が喚いている。
「だって、ひとりでかわいそうだったし、ウチの班1人足りなかったから」
 同じグループの子はかわいそうに涙を流している。
「美咲は、一人では何もできないし、友達をただ利用するだけのずるい子なのよ。あなたも、あたしと同じひどい目に合わされるわよ。今度、美咲が楽しそうにしていたら、わかってるわよね!」
 美咲は驚いた。2人に近寄ろうとすると、明日香は美咲に気付きいなくなってしまった。何があったのか、取り残されたグループの子に尋ねる。
「どうしたの?大丈夫?」
「ううん、何でもないよ。心配しなくていいよ」
「でも、泣いてるんじゃないの?わたし、明日香に言ってくる」
「本当に大丈夫だよ。お願いだから明日香に言わないで」
「…、わかった。でも何か私にできることがあったら言ってね」
 美咲が明日香にいうと、グループの子がいっそうひどいいじめに遭うことは明白だった。美咲は我慢した。

 家に帰って明日香のことを考えてみる。中3のクラス替えで最初に声をかけてくれたのが明日香だった。それまでクラスが一緒になることはなかったが、テストの順位表にお互い張り出されていたので名前は知っていた。同じクラスになると、明日香は美咲に異常な興味を示し、勉強方法、学習塾、ノートの取り方、家族のこと、父の勤務先、昨日寝た時間、好きなテレビ番組、お弁当の中身、思いつく限りのあらゆることを質問した。
「へえー、美咲ちゃんって漬物とか好きなんだぁ。意外だなぁ」
 明日香の思う美咲のイメージはお金持ちのお嬢様で、庶民的なものではない。自分の描いた美咲のイメージが違うと、明日香のまん丸の瞳はくるくると回り、まるで、脳の引き出しのどこに新しい情報を収納するかを模索しているようだった。彼女の頭の中には、理想とする美咲像が形成されていて、その虚像を偏執的に愛しているのだ。彼女の妄想上の美咲は実際の何億倍もお嬢様で、容姿端麗、学力優秀であり、美咲が止められないスピードで急速に膨張していった。
 美咲は息苦しくなり、失敗談など人間的な話を返すのだが、それさえも、彼女にとっては自分だけが知る美咲の秘密であり、失敗談が共感できるものだったりすると彼女の喜びはいよいよ頂点に達し手がつけられなくなった。

 明日香は美咲を独り占めにしたいらしく、他の子と美咲が親しくしているとわざと話を遮った。明日香の性格に美咲は呆れた。美咲の家に遊びに行きたいとの願いは、さすがに断った。(質素な団地暮らしだったから)

 ある日、ほかの子と話していると、例によって明日香が絡んできた。美咲はその子と話を続けたかったから、明日香にやさしく「今○○ちゃんとおかあさんのこと話してるんだ。明日香ちゃん家はどう?」と話を振った。明日香はそれまでと変わり、悲しむような目で帰っていった。その日から明日香は美咲に近づいてこなくなった。

 クラスの仲間が自分に対してよそよそしいのも明日香が原因だろうか。私はいつの間にか、クラスメートにとって恐ろしい人物になっているのではないか。
 いじめを受けた子に聞いてみると、ほかの子のことは知らなかった。ただ、ほかの子も美咲との接触をなるべく絶とうとしているらしかった。どうやら、明日香はクラスのひとりひとり個別に接触し、美咲と関わらないように脅迫している。その割には、授業中など先生の前では、明日香は美咲と仲が良いように振る舞っている。
 しばらくたった授業参観の時、初めて美咲は明日香の母親が亡くなっていたことを知った。失言だったが当時は判りようもなく、謝るタイミングを完全に逸していた。
 美咲が明るくしていると明日香のヒステリーは日に日に激しくなる。明日香は形に残る嫌がらせはしなかったが、明日香に洗脳されたクラスメート達は容赦がなかった。いつしか美咲はお弁当はひとりで食べ、食べ終わると図書館に行って昼休みを過ごした。教室に戻ると、筆箱や体育着がなくなっていたりして肝心の授業で使えない。時間が経つと、なくなった学用品は落とし物として職員室に届けられていて、届けたのは決まって明日香以外のクラスの子だった。

 夏休み後半、ずっと体調が優れなかった美咲の母親は入院することになった。美咲は2人姉妹で姉は就職していたから、中3の2学期から弓道部は休部し、母に代わって家事は美咲がするようになった。お弁当を毎日作るのは面倒だったし、少しでもクラスから離れたかったので、昼食は併設された大学の学食で食べることにした。教室と同じようにひとりで食べるにしても学食は気楽だった。母が退院した後も学食での昼食は続いた。

 秋の体育祭の日、母は起きだしてお弁当を作ってくれた。体調が優れず学校に来てもらうことは難しかったので、母ができる最大限の応援だった。母の期待に応えて美咲は活躍した。午前中の競技が終わり、教室でお弁当を食べると全体にタバスコがかけられているようで、あまりの辛みのため「しゃっくり」が止まらなくなった。それでも、お弁当を残すようなことはしなかった。母がこんなことをする筈がなく、多分、クラスの誰かが学食からタバスコを持ち出したのだろう。明らかに美咲は取り乱していたが、周りの子は誰も気づいていないようだった。

 体育祭が終わり家に帰ると母にお弁当のお礼をいい、容器は自分で洗った。母は夕食まで用意してくれていた。単身赴任中の父と帰りの遅い姉は外食だったので、夕食はいつも2人で食べる。美咲は幼い頃から弱音を吐くようなことはなく、両親に甘えることも無かった。母には体育祭の結果を努めて明るく報告し、今年も100m競走で一位になったことなど喜んでもらった。
 母の作ってくれたカレーは本当に美味しかったが、じゃがいもをスプーンでつついていると不意に昼食の出来事が思い出され涙が止まらなくなった。母は事情を訊くのだが、美咲は心配させることが言えず、ただ、泣いている。美咲はかろうじて
「わたし、学校が嫌い。学校に行きたくない」
 とだけ言うと、部屋に閉じこもって泣いた。
 突然の美咲の変化に母はどうして良いのか判らなかった。
「今はそっとしておいてあげよう」
 母は美咲が落ち着きを取り戻すまで待つことにした。
 この頃から、美咲は学校を休みがちになった。担任教師は美咲を呼び出し事情を聞くのだが、先生に正直に話しても、凶悪化したクラスメートが態度を改めるとは思えなかった。むしろ、明日香のヒステリーを更に助長させ事態が悪化することは明白だった。自分のせいで、事情を知らない子が苛められたり、洗脳されたりするのがたまらなく嫌で、美咲は担任にも話すことはできなかった。

 中学3年生の3学期になると、心配した中1の時の仲良しグループ3人が、学校を休んでいる美咲を訪ねてくれた。
 クラスが別の3人に、美咲は勇気を出して本当の事を話した。「元々は自分が悪い」、「自分のせいで友達が責められるのが耐えられない」、「これから学校で自分について良くない噂をきくことになるけど自分を嫌いにならないで欲しい」等、美咲は全てを打ち明けた。
 3人が受け止めるには、あまりにもヘビーな美咲の告白だった。
「普段明るい美咲がこんなにも悩んでいる」
 3人は何も言えずただ泣いていた。
 それでも楽しかった頃の話題に切り替えて、ひととき美咲を和ませてくれた。美咲が健康を害している訳ではないと判ると、3人は少しだけほっとして帰った。

 気分が晴れた日は学校に行った。相変わらず学食で食べていると、音楽科の田中雪乃先生が美咲に気づき横で食べ始めた。
 雪乃は女子校OGで、明るくユーモラスなキャラクターなので人気がある。学食が大好きらしく、とりとめもない話で美咲を笑わせた後、弓道部を休部していることを聞き出した。そして自分が顧問をしている合唱部に転部するよう勧めるのであった。

 数日が過ぎたある日の放課後、仲良し4人グループの一人、合唱部の永井鈴香に誘われて、美咲は合唱部の放課後練習に参加した。鈴香は美咲の事情を顧問の田中雪乃に相談し、休部していた弓道部から合唱部に転部するように図ったのだ。
 合唱部は卒業式に歌う「時を超えて」(作詞作曲:栂野知子)の練習の最中だった。元々は混性三部合唱でそれほど難しくない曲なのだが、女子だけで歌うと声質が似ているため歌が単調になる。
 美咲は不足しているアルトパートの練習に加わった。同じパートの鈴香は気心が知れていたから丁寧に教えてくれた。他の部員達も親切で、ひととき、美咲はそれまでの苦悩を忘れた。練習の最後に全パートで通し練習が行われた。先輩はまだまだ練習が足りないと言っていたが、教室中に響く全パートの声量は圧巻で、それぞれのパートが混じり合い、清らかで、荘厳で、儚いものを感じた。
 美咲は深く心を打たれ、練習に打ち込むようになっていった。
 新入部員の美咲には、顧問の田丸の指示で放課後の練習の他に昼休みの強化練習が組まれた。強化練習では、同じアルトパートの部員達が協力してくれた。
 それまで弓道部に所属していた美咲は、姿勢、腹式呼吸など合唱の基礎となるベースは申し分なかった。部員たちは美咲の上達のスピードに驚いていた。

 卒業式の日、美咲はアルトパートの一員として、中学生全員の前で「時を超えて」を歌った。歌うことで、自分が合唱部に入ったことが知られてしまう。もしかしたら、大人しい合唱部の部員達がクラスメートのようにいじめに遭うことも考えられる。いじめを受けた部員が原因の美咲を恨んで、美咲の居場所がなくなることも想定できた。美咲は事前に仲良しグループのひとり、同じアルトパートの永井鈴香に相談していた。
「あたしが合唱部に入ったことが判ると、合唱部のみんなに迷惑がかかるかも知れない。本番は出ないでいたい。」
「美咲は歌いたいの?それとも歌いたくないの?」
「今まで練習してきたし、合唱が好きだから本当はみんなと一緒に歌いたい。」
「それなら何も心配いらないよ。みんな美咲のこと好きだし信じてるから。今まで言ってなかったけど…」
 鈴香は、顧問をはじめ合唱部全員が、美咲の不遇のいきさつを知っていることを初めて話した。その上で、部内で協力し、美咲を守ること、いじめに屈しないことをお互い約束したのだ。少し前にも美咲と同じクラスの部員が美咲のことでいじめを受けたが、反対に「あなたは実際に美咲にひどいことをされたことがあるの?わたしは今までないわ」と返したのだとか。
 嫌われているという風評だけで人を嫌ったり貶めてしまうことを、なるべくソフトに諭したのだが、言い方によってはいじめの矛先が自分に向いてしまうリスクがあり大変な勇気が必要だ。
 合唱部員たちは、もし自らがいじめに遭ったとしても、他の部員たちが助けてくれることを信じて美咲を守っていたのである。

 そうした助け合いは、合唱部では田丸や雪乃が着任するずっと前から日常的に行われていた。顧問は合唱部の良いところを引き継ぎ、休み時間もできる限り生徒達の雑談に加わったり、いじめを受けた生徒のケアに努めていた。生徒達と年齢が近い雪乃は、美咲の一件のように直接生徒にアプローチして「きっかけ」作りもしていた。

 中学の卒業式を終えて高校1年生に進級した美咲は、クラス替えにより明日香とは別のクラスになった。明日香に洗脳されて凶悪化したクラスメートの数人は同じクラスだったが、以前ほど悪質ないじめをすることはなくなっていた。
 美咲に憧れて弓道部に入部した3人が、美咲を追って中3の進級と同時に合唱部に転部したのもこの頃だった。

第2章 連携の行方

1.学校訪問
 連携活動の回答締切日が迫っていた。美咲は希望者を募り放課後に相手先工業高校を見学した。顧問の両名が引率してくれる。
 工業高校は一駅隣だ。校門前でブレザーの制服を着た合唱部員たちが待っている。簡単な挨拶のあと、部室となっている音楽室まで通される。校内にはたくさんの生徒がクラブ活動で残っていた。工業高校なのでほとんど全員が男子だ。
「校舎すっごい古いねぇ、富士急の病院みたい」
 手入れの行き届いた女子校と違い公立校はきれいとは言えない。
「そんなこと言わないでよ、怖いじゃん」
「女子少ないねぇ」
「学校の匂いってこんな感じだったっけ?気持ち悪くなってきた」
「なんかウチ、小学校のころを思い出すわぁ、給食食べられなくていつも残して先生に怒られるの」
「おじさんみたいな男子が大声でランニングしてて怖いよー」
「さっきすれ違った人、髪の毛染めてネックレスとピアスしてた。目つきが変でこっちじろじろ見てた。気持ち悪い。」
「今、ジャニーズみたいな人いたよ。あたしに手を振ってくれた」
 セーラー服の一団は目立った。特に美咲は身長が高く、背筋も伸びて整った顔立ちなので、興味を示さない者はいなかった。
「校門のとこで、すっごい美人見た!」「タレントの撮影やってる」
 芸能人が来たと勘違いしているらしい。連携活動のことは誰も知らない。予め話を聞いていた教師たちも生徒の違いに驚いていた。同じ年齢なのに身の振る舞い、佇まいがまるで違う。制服も乱れていない。

 部室となっている音楽室では工業高校顧問の蛭間が司会となって、3年生の合唱部長から提案内容の説明が行われた。
「せっかくなので部員の紹介をします」
 工業高校合唱部員たちの紹介が行われた。
「電子科1年の伊藤小百合です。マネージャーとして、今、ピアノ伴奏の練習中です」
 マネージャーまでの紹介が終わると解散となった。

「いつも、この音楽室がテナー、音楽準備室がバスと分かれて練習します。これから練習するんですが見ていきますか」
 部長の勧めで美咲たちは公開練習を見学することにした。
 最初はパート単位に分かれて発声練習。テナー、バスとも声量は充分にあるのだが、ほとんどが地声で全体に雑だ。裏声は母音がはっきりせず歌詞がききとれない。コンクールは前途多難と思われた。マネージャーの伊藤小百合はピアノ担当で、それぞれの教室を行ったり来たりしている。通しの練習ではないので、ほとんどの時間は退屈そうだった。
 副部長の永井鈴香は、暇そうな小百合を見つけてお互いの制服を見せ合ったり思い出話に花を咲かせていた。2人は同じ小学校出身、同じ音楽教室に通っていた同級生で、中学から私立、公立と別れていた。小学校卒業以後会うことはなかったが、親同士は交流していて、そこから小百合は鈴香が合唱部に入ったことを知っていたのだ。今回の連携活動は、小百合の紹介がきっかけであることが分かった。

 休憩時間になると、小百合はふざけて「let it go(ありのままで)」のイントロを弾いた。音楽教室の発表会で合唱した曲だ。懐かしい曲を聴いた永井鈴香は隣に座り連弾となった。
 それぞれの学校の部員達も印象的なイントロを聞くと話を止めて2人に注目した。楽しそうに弾き始めた2人を見ると、美咲はふざけてみたくなり歌い出した。
 美咲は茶目っ気たっぷりでわざと両手を大きく広げて歌っているのだが、曲と美咲の低い声がマッチして情緒満点だ。発声が素直なので嫌味な感じがしない。工業高校の部員たちは圧倒されている。女子校の部員たちは美咲が大袈裟に歌っているのが判るので大笑いしている。
 やがて女子校の部員たちは、それぞれソプラノ、アルトに分かれて美咲と一緒に歌い出した。伊藤英里華は笑いながら指揮をしている。
 英里華が工業高校の男子のほうを指して、
 「オクターブ下ね!」
 と陽気に合図した。鈴香は音程を取りやすいようにオクターブ下を弾き、小百合は和音やアクセントになるパートを弱く弾いた。
 間奏に入っても鈴香・小百合は楽しそうだ。音楽の授業とは異なり、学校のクラブ活動で使用出切る曲は著作権などの関係で制限がある。ディズニーに限らず誰もが知っている曲は学内で演奏する時以外は採用し辛いのである。特に部費の予算が少ない公立校ではどうしても選曲が地味になってしまう。つかの間の時間、生徒たちは自由な雰囲気を満喫していた。
「サビのとこからまた歌ってね」
 英里華が男子のパートを休ませる。
 2コーラス目のサビの部分、今度は男子と音が揃った。
 最後はさすがに歌詞が分らなくなり英里華は演奏を終わらせた。男子をバスとテノールに分ければ混声4部合唱だったが、即興にしては英里華の指揮は立派だった。両校の部員たちはハーモニーの響きにびっくりした。工業高校の部員たちは、指揮者や伴奏者の役割を初めて知った。それまでは、その役割を理解していなかったのだ。小百合が楽しそうにしているのも初めてだった。
 コンクールは考えないことにして、楽しく練習できそうだった。

 練習が終わり、工業部員たちは今日の感想を話しながら下校する。さっきから饒舌なのは土木科2年の倉田で、すっかり女子校部員たちに魅了されている。
「汚れのない歌声っていうのは、あの子たちのことを言うんだろうな。キラキラ輝いてた。俺、今まで合唱やってきて本当に良かった。」
「まだ連携してくれるって、決まった訳じゃないぞ。」
「でもウチらの汚い学校に来て一緒に歌ってくれたんだ。こんな学校の俺たちのためにだぞ。天使みたいだった。」
 山下や小百合は、倉田の変わりように呆れている。
「調子いいやつだ。」
 山下は練習の間OFFにしていたスマホの電源を入れた。
「あっ、」
 小さく声をもらす。
 春に勧誘を断られた軽音楽部の安田から珍しくラインが入っている。

「あの女子高生たち、合唱部と合同で活動すんの?」
 送信時間はちょうど、女子校生たちが来校した時刻だ。安田が女子高生たちを音楽室に案内したのを目撃したのだ。
「そうだけど、お前、合唱部には入らないんだろ。」
 すぐに返信がある。
「女子が入るんなら条件が違う」
「今なら、入ってやっていいぞ。」
「動機が不純だからダメだな。そんなことしたら女子に嫌われるぞ。」
「本当に合唱したいんだよ。頼むから合唱部に入れてくれ。」
「しょうがないな。顧問に話しといてやるよ。」

「さっそく部員がひとり増えたみたいだ。」
 下校途中の合唱部仲間に報告する。
「男子って信じられない。女子のこと何だと思ってるの。」
 小百合が露骨に嫌な顔をした。
「部員が増えてコンクールに出られるなら、それは良しとしないと。」
 3年の部長が言った。
「安田は俺が監視するから大丈夫。根はまじめな奴だよ。」
 山下は小百合をなだめた。


2.保護者会
 11月の役員の交代日から数日後、女子校合唱部の保護者会が開催された。毎年この時期に、それまでの活動結果や収支報告と次年度の活動内容の説明が顧問より行われる。新しく役員に任命された生徒の保護者はここで挨拶を行う。
 形式上、保護者会は保護者が主催する交流会であり顧問はゲストである。司会は体調の悪い美咲の母に代わり、新副部長の英里華の母が務めた。美咲の母は美咲同様に合唱部経験がないので、保護者会に出席するのも初めてだったからである。
 まずは部長、副部長、各学年代表に指名された生徒の保護者が挨拶した。続いて、顧問の紹介があったが、今回は初めて校長が同席していた。
 次年度の活動内容の説明は田丸が行った。予想していたとおり、質疑の時間は工業高校との連携活動のことで紛糾した。
「何故、連携を行うことになったのか」
 保護者の一人が質問する。
「工業高校から地域活動の一環として提案があった。学校の方針としては地域への協力は重要と考えている。そのためクラブ活動の主体である生徒に確認を行っている。」
 田丸は答えた。
「子供に判断を求めるのは無理があるのではないか。もし連携が実施されたとして不測の事態があったらどうするのか」
「生徒は、社会に出ても恥ずかしくない常識を学校・家庭で教育されてきた。学校は生徒が充分に判断が出来ると信じている。万一の話であるが、まず第一に問題は生じないように練習には顧問を同伴させるなど必要な対策を行う。」
「他校との連携活動が本当に必要なのか。また、その効果をどう見込んでいるのか」
「学校としては、教育方針である自立した女性の育成という観点から貴重な機会と考えている。今回の経験は卒業後、大学生や社会人になった際に必ず役立ってくれると信じている。」
「本校に相応しいレベルの学校と連携すべきではないか」
「人をレベル分けするような教育は本校では行っていない。むしろ日頃から困っている人には別け隔てなく接するように指導している。校風であるリベラル教育に同意の上、入学していただいたのではないか。」
 校長が答えた。
「そうは言っても、女子校に男子が練習で通うのは女子校を選択した意味が無いし不安である。必要な対策を取って欲しい」
「不安が払拭されるよう対策する」
「連携を望まない生徒はどうするのか」
「高校生を2グループに分ける。連携を望まない場合は、1グループを従来どおりの方法で練習や大会にエントリーする。」
「部が2つに割れてしまうのではないか」
「部が分割しないよう必要な施策を行う。役員にもまとめを行える人材を指名した。田丸は主に従来の活動を担当し田中が連携を担当する。学校祭は両グループ合同で演奏することを考えている」

 予定より1時間も超過して質疑が終了した。予想していたとおり発言は反対意見が多かった。
 何人が連携グループに残ってくれるだろうか。雪乃は心配になった。
(連携活動の失敗は許されない。)田丸は雪乃とは別の心配を感じていた。

 保護者会から帰宅した保護者は、子供にどちらのグループに入るかを確認した。ほとんどの子供が連携グループを希望していたため、親たちは説得しなければならなかった。最終的に親子の力関係でどちらのグループに入るかが決まった。
 英里華の母は合唱部でも指折りのモンスターペアレンツで言うまでもなく連携に反対した。家に帰った母親は娘が今までなく強い意見を言ったのに驚いた。いつの間にか、大人になっていたのである。
 一方、美咲の母は美咲を励ましただけだった。(部長の美咲は人数の少ないグループに回るのだろう。)美咲はそんな子だった。



3.グループ分け
 保護者会から数日が過ぎ、いよいよグループ分けのアンケートが行われた。
 今まで、人数がいくら多くなってもグループ分けが行われることは無かった。部員が多くなっても、出場枠を大人数に変えれば良いのだ。しかし、今回は連携活動を行うグループと行わないグループに振り分けなければならない。保護者会を受けて2グループで活動することになっているからだ。
 アンケート対象は来春、高校の部に区分けされる現在の高1、中3で合計18名、先日引退した高2は対象外である。
 集計の結果、学内グループは副部長の英里華を筆頭に11名、連携グループは部長の美咲、副部長の鈴香が入った7名と分かれた。
 学内グループは主にソプラノ、連携グループはアルトの割合が多くなった。それぞれのグループ内で話し合いが行われ、各パートリーダーや割り振りを決めていく。例年と比べて人数が減った学内グループは顧問の田丸が指揮者を務める。大会の曲目が発表されていないので伴奏者は未定だった。

 連携グループは、昼休み練習で美咲に基礎を教えたアルトパートが中心になっていた。ソプラノが1名、アルトは美咲を含めると6名とソプラノが少ない。声域の広い鈴香がソプラノに回り2名となったが、まだソプラノが足りなかった。パート分けも、連携先の工業高校と相談の上、決めていかなければならないが、女子が圧倒的に少ない工業高校なのでソプラノ数は問題だった。
 この時以降、顧問の田丸の発案で、学内グループは「学内選抜グループ」、連携グループは「学外選抜グループ」と呼ぶことになった。

 連携の回答締切日、顧問の雪乃の引率で学外選抜グループ6名が工業高校に向かい打合せを行う。顧問の雪乃は、学校長が押印した提案書に対する回答書を携えている。
「やだー、前に来たときに見た気持ち悪い人、合唱部だったんだ。」
 誰かが聞こえないように言った。この日の安田は髪には長い髪にメッシュが入り、ネックレス、ピアスをしてまさしくヘビーメタルの盛装だった。
「やあ」
 安田は自分のことを女子校部員たちが見ているので嬉しくなり、細い指の手をあげて挨拶する。薬指には太い指環が見える。
 女子校部員たちは騙されたような気分になり、うっすらと涙を浮かべている。
「どんな人でも、みかけで決めつけたらダメよ。」
 雪乃が気づいて注意する。
「でも、だって、怖い。」
 女子校部員たちは凍り付いている。
(こいつ、自分がなんで女子校部員に見られてるのか分かってないな。)
 山下は先行きに不安を感じた。

 女子校部員たちの気分とは別に、決め事が決まっていく。
 いつの間にか工業高校マネージャーの小百合がソプラノパートに加わることになっていた。ソプラノが少なかったため、副部長の鈴香はマネージャーの小百合をソプラノパートに誘ったのだ。それ以外、以下が当日に決定されたことである。

・工業高校は毎週土曜日は休日であるため、合同練習日は月・木の週2回16:30から18:30までとする
・合同練習には女子校から顧問教師及び女子校のコーチが参加する
・練習場所は工業高校とし女子校の生徒が工業高校に向かう
・練習日以外にパート練習を行う場合は、ソプラノ、アルトは女子校、テノール、パスは工業高校とする
・両校で連絡を行う場合は必ず顧問を通して行う
・両校校則によりLINE等のSNSは禁止、スマートフォン使用も禁止、制服での外食も禁止(実際この校則は守られていないのだが、表面上は禁止である)

 工業高校では音楽室のアップライトピアノ1、音楽準備室の電子オルガン1でパート毎練習に使用する楽器が足りなかった。2パート分の楽器は工業高校の部員が家から持ち出してくれていた。
「これ使ってよ」
 男子が見せてくれたのは子供用のおもちゃで、鍵盤が短くて24個しかない。
「あら、かわいい」
 鈴香が試しに「カノン」を弾くと音域が足りない。低いファから高いミまで、ぎりぎり2オクターブだった。
「ちょっと鍵盤の数が足りないかも。「ネコふんじゃった」は出来るよ。」
 結局、練習には女子校の部員たちが持ってきたロールピアノを使うことになったが、おもちゃオルガンは、その後、連携活動のシンボルとして、長いことみんなに可愛がられることとなった。

 この日に最も議論されたのが部員数についてである。「指揮はなるべく生徒にやって欲しい。」雪乃は田丸からそう言われてきたが、現在の人数では生徒が指揮をすることは難しい。女子校では高校生で新規に入部する者はいないため、来春の工業高校の新入部員だけが頼りだった。指揮者は、本番までに工業高校の生徒を育成することに決まった。



4.女子校の知恵
 美咲は、副部長で学内選抜グループリーダーの伊藤英里華に、学外選抜グループのソプラノ不足について相談した。英里華はもともと学外グループを希望していたが母親の強力な反対に遭い学内としていたのだった。英里華は部内の事情を知り尽くしている。
「私みたいに学内選抜Gは、ほとんどの子が親に反対されて学内を選んでるから親の考え方が変わらない限り学外選抜にするのは難しいと思う。」
 その通りだった。
「そういえば今年の春に中2で弓道部から転部してきた3人の子、ソプラノじゃなかったっけ。あの子たち、美咲に憧れて入部したんだよね。学外選抜に入れたらいいよ。」
「?」
 美咲は英里華が何を言っているのか判らなかった。来年中3の3人では高校の部に出場することは出来ない。誰でも知っていることだ。
「Nコン(NHK全国学校音楽コンクール)では、中学校の生徒が高校の部に混じることはできないわ。でも朝コン(全日本合唱コンクールのこと)だったら確かできた筈」
 英里華が禁止されているスマホで大会規程を調べだす。
「あった、これだ、一貫校の扱い、規程上はOKだよ」
 部長を目指していた英里華の知識は誰にも劣らなかった。
「中学生の部から3年生を3人も引き抜いたら、大変なことにならないかなあ?」
 美咲は影響を心配した。
「あの子たちは、美咲と一緒に歌いたがっているのよ。元弓道部だし、他の中学生も協力してくれるわ。」
「3人以外の子が高校の部で歌いたいって言い出したら、中学生の部がガタガタになってしまうわ」
「今のところ、3人は入ったばかりだからパートリーダーにはなっていないし、それほどあてにできる状態じゃないわ。他の中学生に任せて大丈夫だよ。中学生の場合、春には新入生が入部してきてその子たちもあてにできるし、中学の部の人数はもっと増えるから大丈夫。これから田丸先生に相談しよう」
 美咲は英里華の発想に驚いた。一見、規則や伝統に厳しい英里華だが、連携を機会にして考え方が変わってきていた。英里華は後輩の指導も厳しかったが、実は後輩たちをしっかりと見ていたのである。

 顧問の田丸と雪乃に事情を話す。中3の学年代表が呼ばれて意見をきくと悪くない返事だった。でも3人だけを特別に高校生の部に指名することは、3人以外の部員からすると違和感がある。
「美咲ちゃんから、直接、3人に話してちょうだい。3人が希望を出したら、田丸先生もわたしも認めるわ」
 雪乃は答えた。
「3人のお母さんは反対しないでしょうか?3人以外のお母さんからも、何か言われたりしないでしょうか?」
「3人のお母さんは美咲ちゃんを追って3年生からの転部を認めた位だから大丈夫よ。3人以外のお母さんは、それぞれ重要なパートに子供が就いているので高校生の部に入り、目立たなくなることは、むしろ、とまどうと思う。」

 美咲は3人に声をかけ快諾をもらった。
「美咲先輩の最後のコンクール出場に力になれることが嬉しいです」
 3人は素直に喜んだ。
「先輩の足を引っ張らないよう頑張ります」
「私も合唱経験はみんなとそう変わらないから、私こそ、よろしくお願いします」
 学外選抜グループのソプラノパートは合計5名になった。

 こうして、2校合同のソプラノ6名(うち1名は工業高校の小百合)、アルト5名が編成できるようになった。


5.ギター対決
 合同合唱部の指揮者選びは行き詰っていた。女子校部員たちは、それぞれパートの要になっていて引き抜き不可能だ。部員たちの練習風景を見ていた顧問の蛭間は、一番態度が大きく、いちいち蛭間に反抗する軽音楽部出身の安田に目を付けていた。それまでエレキギターをやっていた安田は確かにリズム、メロディ、ハーモニーを理解している。ただ、歌が酷い。
「おい、安田、日本語で歌えよ。」
 少しでも蛭間が注意すると、個性が発揮できないと幼稚な反抗をする。
「俺の熱いソウルが理解できないかなあ。やっぱクラシックじゃなくて、いろんなジャンル聞かないから判んないんだよ。」
「じゃあ、勝負しようぜ。お前が勝ったら、このまま歌っていいよ。でも、俺が勝ったら指揮やってもらう。どうだ、お前が得意な楽器でいいぞ。」
 険悪な雰囲気になる。安田は指揮をすること自体は構わないが、顧問の蛭間に命令されるのが嫌なのだ。ふたりは楽器がある軽音楽部の部室に移動する。後からは両校の部員たちがぞろぞろとついていく。
「田中先生、ふたりを止めてください。なんだか怖い。」
 女子高部員たちが女子校顧問の雪乃に懇願する。
「安田先輩って、高校生コンテストで優勝したこともあるんです。ライブハウスで演奏したこともあるそうだし勝ち目ないですよ。」
 工業高校の部員も黙っていられないらしい。

「ちっちっ」
 人差し指を口元に立てると、雪乃は笑いながら答えた。
「面白そうじゃない。さあ、見に行くわよ。」
 余裕の表情だ。

 軽音楽部の部室に着くと、安田は自分のギターをマーシャルの小型アンプに差し込み、16分音符をすごいスピードで速弾きしている。
蛭間は部室にあったフォークギターを選んだ。音量に差があるので安田がフォークギターにアンプを繋いだ。
「何の曲やるか、決めてくれ。」
 チューニングペグを回しながら蛭間が言った。
「先生も分かるようにカノンロックでいいよ、ちょうどここにオケあるし、タブ譜も貸すよ。」
「そんなんでいいんか?なんかハンデ付けてやるよ。」
「ったく、呆れるなあ。それじゃ、そっちから先に弾いてくれ。」
「1弦から3弦までしか使わないとか、そんなんでもいいけど。まあ、よかとよー」
 蛭間はノリノリだ。
 イントロのシンセサイザーの後、蛭間が続く。単音でゆっくりメロディを弾くだけなので簡単なパートだが、蛭間はピッキングで強弱をつける。タブではなく五線譜を見ている。
「おっ、先生、知ってんじゃん。」
「聞いたことはあるけど弾くのは初めてだ。ワンコーラス目はバッキングやってくれ。」
「いいよ」
 イントロが終わったところで、オケのドラムスが入りリズムが変わる。蛭間もコードでリズムを刻む。
 蛭間はフォークギターなので音が歪まない。チョーキングはせずスライドだけで弾いている。
「ここはチョーキングすんだよ。」
「別に音程取れてんなら、スライドでいいだろ。楽譜どうりに弾くのがロックじゃないだろよ。」
「じゃあ、もっとエレキギターらしい弾き方しろよ。」
「んじゃ」
 蛭間はフォークギターをライトハンドで速弾きする。ピッキングも半端じゃないスピードだ。
「すごい、蛭間先生かっこいい。」
「学生時代にスタジオでバイトしてたんだよ。何の楽器でも何のジャンルでも敵わないよ。」
 雪乃が興奮して答えた。
「雪乃先生って蛭間先生のこと知ってたんですか。」
「コーラス部の先輩だよ。」
 大音響の中、合唱部員たちは声を張り上げて話している。

 蛭間の1コーラス目が終わると安田の出番だ。蛭間はバッキングに回る。安田は上手だが譜面通りにしか弾けない。安定していてミスがないが、原曲以上の弾き方ができない。
 バッキングに飽きた蛭間がユニゾンで2度下を弾く。安田が蛭間のほうを振り向くと蛭間は笑った。
「こいつ、笑ってやがる。」
 曲がマイナーコードに転調すると、蛭間は安田に7thを入れて弾くように指示した。曲がおしゃれに聞こえるようにブルースギタリストがよく使う手法だ。安田はリードを弾きたいが7thのスケールが判らないのでバッキングしか出来ない。仕方なく7thコードをバッキングしている。薬指のドクロの指環が泣いている。蛭間のギターは変貌自在にアドリブを繋いでいく。安田は蛭間の引き立て役にしかならなかった。
「次はブルースで勝負しようぜ。」
 曲が終わると蛭間が提案するが安田は断った。
「もう判った。俺の負けだ。」
「いろんなジャンルでやらないと、勝敗つかないだろ。こんなのどうだ?」
 ジミ・ヘンドリックスのライク・ア・ローリングストーンのイントロ。ボブデュランの名曲だが「ロックの神様」ジミヘンもカバーしている。
「みんな集まってくれてるから、もう一曲、やろうよ、な。ロック楽しいだろ。」
 仕方なく、安田もバッキングで付き合う。オケがないがスローな曲でなので弾き語りで十分だ。蛭間がボーカル兼リード、安田がバックコーラスと2ndギター。蛭間の声は合唱練習の時と違い渋めでトーンも抑えている。曲が終わると全員が拍手した。

「蛭間先生ってメチャカッコいい。合唱部じゃなくて軽音の顧問やればいいのに。」
「変わり者だから、やらないのよ。」
「こんな公立高校になんでこんな先生がいるんだ。」
「変わり者だからじゃない。」
 生徒たちが笑った。
「なあ、安田。ロックって楽器じゃないんだよ。魂だろ。フォークギターでも十分ハードだろ。お前はリズムもメロディもハーモニーも判る。指揮やれるだろっ。」
「わかった。やるよ。」
 あっけなく勝負がついてしまった。その日から安田は蛭間に反抗しなくなった。


6.サイケデリック指揮者
 短期間に安田は演奏を追及していた。安田は動画サイトにアップされている課題曲の演奏やCDを、楽譜を見ながらヘッドホンで聴きこんだり、作曲家や作詞家をネットで調べる。
「全国コンクールレベルの学校には、にわか合唱団では全く歯が立たない。経験豊富な女子校部員でも、課題曲をまともに歌えるのは1年生の鈴香と小百合くらいか。まして来年の新入部員では、どうなってしまうのだろう。」
 安田は調べれば調べるほど不安になる。来年のコンクールの課題曲である合唱名曲シリーズが発表になるのは11月末で、今は本番の練習はできない。
 指揮の基本は経験豊富な顧問やコーチに教えを受ける。分からなければ女子校部員にも恥ずかしがらず質問する。当初、女子校部員たちは安田を恐れ怖がっていたが、安田の情熱に触れ次第に打ち解けていった。
「初めてその曲を聴いた人が歌詞の内容を誤解しないように、正確に作詞家の言葉や気持ちを観客に伝えること。」
 ソプラノパートリーダーの鈴香から聞いた歌詞にかかるポイントだ。安田は作詞家の生い立ちやエピソードをネットで調べたり、曲の口コミを見たりして歌詞の意味を理解しようとした。
「普通なら、こういう言葉は使わないのになぜ、こんな言葉を使うのか。かっこつけたいのか、ゴロがいいからか、それとも別な意味なのか。」
 理由は判らないが、その部分の歌詞が曲の中で浮いているのを感じる。あちこちに尋ねても判らないときは、女子校顧問の雪乃かコーチに聞く。作詞家の人間的なエピソードを聞かされ心が動く。歌詞については安田が納得できる理由が存在していた。
 曲中の3連符やスタッカート、リズムの変化と曲の構成。ジャンルが違うが彼は楽譜は読めたので、作曲家が曲に込めた意図を彼なりに見抜いていた。曲が最初にあって、それに歌詞をつけたのか、それとも歌詞が最初にあって曲をつけたのか、ロックでは最初に曲があったが、合唱ではその逆であることが多そうだ。メロディーに違和感を感じるところは、同じコード進行で音符の長さを変えたり、音程を変えて歌ってみる。元の曲とどう違うのか、弾き語りで録音して聞き比べてみる。気の遠くなるような作業を明け方まで夢中になっている。

 どうしても自分のアレンジが優れていると思うところは雪乃に尋ねた。雪乃は安田のアレンジのほうが良いことを認めた上で、次回には同じ作曲家の他の楽譜を見せた。作曲家の「個性」や「クセ」、楽曲の不自然さが個性と云われて採点のポイントに繋がる。以前の安田であれば自分の感性を曲げることができず反抗していたが、次第になんとなく分かってきた。
 各パートの強弱はどうか。動画を見てもCDを聞いても本当の強弱が判らない。ミキサーの感性で各パートの音量が変わってしまうからだ。

「生の演奏を聞きたい。」
 入賞候補の学校のコンサートがあると部員を集めて聴きに行く。圧倒的な技術の違いを思い知らされ、山下や倉田とともに凹まされる。山下や倉田も全国レベルの合唱に触れるのは初めてだった。
 帰り道、ファーストフードを頬張りながら大会曲について話す。消去法でいくと日本の楽曲だけではなく、外国曲2曲も選択に加えたほうが良さそうだ。技術的な難易度がなるべく少ない楽曲を選択しないと、本番に間に合わないのは明白だった。

 山下の発案で駿河台にあるニコライ堂の賛美歌を聴きに行くことになった。ニコライ堂は日曜日のミサを一般開放しているのだ。山下が女子校の美咲に相談したところ、女子校部員たちも一緒に行くことになった。
「初デートはニコライ堂」
 呑気な倉田は喜んでいる。
 ニコライ堂前に集合すると、さっそく女子同士の服の見せ合いが始まる。どの子のコーデが可愛いとか、どこで買ったとか。女子たちの洋服にかかる興味は尋常ではなく工業部員たちは驚いている。男子の服装には一切興味を示さない。
 安田も女子校部員たちの服装を見ている。どの子も地味でロングスカートだ。お嬢さん学校の私立だから、テレビドラマのようなミニスカート姿を想像していたのに、そんな子はひとりもいない。見回すと倉田も残念がっている。
「みんなミニスカートとか着ないの?」
 山下が聞いた。
「ミニスカートは持ってるけど、今日は教会に行くんでしょ。足が出てたら神様に失礼でしょ。」
「神様に感謝して讃えるのが讃美歌なんだから、感謝してないと入れてくれないかと思って。」
 美咲が答えた。
 讃美歌を聴きに行くのが目的だった工業部員たちは、すっかり教会本来の目的を忘れていた。いつものように安田は盛装していたが、その服装は神様への敵意が丸出しで恥ずかしかった。安田はそっとドクロの指環とネックレス、ピアスを外しポケットに入れた。

 初めて聴く賛美歌は荘厳で美しい。ハーモニーの美しさに思わず涙が出る。
「歌うことの目的を理解することが大切なの。」
 雪乃が言った。
「何語なんだろう」
 大人数のためフロアに入りきれず、入り口近くまで溢れた女子校部員の一人がつぶやく。
「たぶん、ラテン語」
 雪乃が人差し指を口元にあてる。
「こんなの課題曲になったら厳しいよね。」
「技術的にこのレベルにならないと入賞は難しいよ。」
 鈴香が本当のことを話した。

 ミサが終わると近くの神田明神へ入賞祈願のお参りに行くことになった。女子校部員たちは、いちいち看板の前で立ち止まり内容を読み上げる。工業部員たちは神社の歴史に興味がないので素通りだ。
「女子って歩くの遅いなあ」
 いちいち看板の前で立ち止まるので、ちっとも進まない。
「でも楽しそう」
 倉田がいった。
「何にでも興味があるって、すごいことだよな」
 山下が感心している。

「へえー、平将門ってここに奉祀されてるんだって。知らなかった。」
「本当に首があるのかなあ、日本史の先生が首は天高く飛んで行ったって言ってたけど。」
「首塚の怪談って知ってる?」
「ちょっと止めてよ。そーいうの苦手だから」
 全員が笑った。
(学校の勉強ってこんな時に役立つんだ。)
 女子部員たちの話しを聞いていた男子部員たちは博識に驚嘆する。
「ほらほら、みんな、参道の真ん中を歩いちゃダメよ。真ん中は神様の通り道なんだから。」
 雪乃が注意する。
「あ、そーだった。忘れてた。」

 楽し気な集団は無事にお参りを済ませた。
「ちゃんとお賽銭入れて祈願したから、頑張れるよ。」
「お賽銭の金額が足りないんじゃない」
「金額じゃなくて気持ちが大切なんじゃないかなあ」
「穴が開いた50円玉と5円玉がなかったから、10円玉入れといた」
「穴が開いた小銭が必要なのは三途の川を渡るときだよ。お寺だったらまだ分かんなくもないけど、神社は死後の世界は関係ない。」
「へえー、知らなかった。」
「今日は宗教が違う2つの神様にお願いしたから、ご利益も2倍だよ。」
 美咲は黙っていたが、母親が早く元気になってくれることを、まず第一番にお願いしていた。

 お参りが終わると遅い昼食をファーストフードで食べて解散になった。ここでも工業部員たちは驚いた。みんなお金持ちのお嬢様だから、ファーストフードなんて食べないと勝手に決めつけていた。実際はみんな美味しそうに食べている。
「もっと高いもの食べないの?別に俺たちに合わせなくて良いんだけど。」
 倉田が心配して聞いた。お嬢様にファーストフードは似合わない。
「確かに人によっては、高いレストランとか行く子もいるよ。でも、お小遣いそんなに無いし美味しくておなか一杯食べれるから、ファーストフード大好きだよ。」
 美咲は言った。工業高校の部員たちは女子校の生徒たちを誤解していた。女子たちの気取らない姿にますます惹かれた。

「もしかしたら女の子たち、俺らよりもお金使わない暮らししてんのかもな。」
 帰り道に山下がいった。
「そうかも」
 倉田や安田が頷いた。いつもクラブの帰りにラーメンやカツ丼を食べてる工業部員たちのほうが、よっぽどお小遣いを浪費している。
「貧乏になってしまうお金の使い方ってあるのかも知れないな。」
 山下がポツリと言った。
「女子たちは、多分、洋服にお金使ってるんだよ。どの位の頻度で買うかは分からないけど。」
 安田が言うと3人は笑った。


 課題曲が収録された合唱名曲シリーズが発売になると、安田の焦りは現実になった。
(合唱のプロじゃないと歌えない難しい楽曲ばかりだ。)
 課題曲4曲を全員で聴く。日本語の2曲は難易度で早くから選考に外れた。
「ラテン語とスウェーデン語、どっちがいい?」
「究極の選択だねぇー」
「鈴香と小百合のソプラノを当てにできるから、ラテン語がいいか?」
「伴奏なしでも音程とれるかな。」
 結局、G1の賛美歌でいくことに決まった。
 その後も他校の鑑賞活動は続く。安田は指揮者の所作、強弱のポイントなどを盗んでいく。多くの学校の指揮者は教員だ。教員は合唱経験も豊富で、技術的に安田とは比べものにならない。
「自分が指揮するより、顧問かコーチに指揮を任せないと入賞は難しい。」
 安田は顧問の蛭間に懇願する。
「教員でもお前ほど耳が良い奴は珍しい。部員を上手にまとめて誘導できるのは、むしろお前のほうだ。」
 思いがけず蛭間は安田をほめた。蛭間は安田の成長力に期待しているのである。

 安田は歌詞がポイントのところやサビは主旋律のアルトやテナーの内声に、それ以外のところはソプラノやバスの外声を中心にしようと組み立てた。各パートリーダーを集めて相談するが結論が出ない。チグハグな演奏になることを避けたいので、いずれか、結論を出したい。最後に蛭間に聞いて歌詞のポイント、サビ部分はビブラートも合わせて、音がぶれないようにして乗り切ることになった。
「9月の本番には、なんとかミスなく歌えるようにする。」
 安田は心に決めていた。

 指揮する時、安田は目を閉じ聞こえてくる歌声に集中する。少しのイメージのずれも見逃さない。安田の指揮はまさしくジミヘンだ。音楽にとり憑かれている。アイコンタクトは本当に必要なところしかしない。完全に自分の世界に浸っている。奇怪な動作だったが、経験を積んできた女子校部員でも彼の曲に対する考え方は共感できるものだった。部員たちは、次第に安田の熱意に打たれて信頼していった。

第3章 新学期

1.新入生勧誘

 赤茶色の桜の若葉が芽吹いた頃、両校とも新学年での活動が始まっていた。特に工業高校では新入生入部による部員増が大会参加の絶対条件だ。連携の申出時は6人いた部員達も卒業で5人に減っていた。部員のうち部長の山下と副部長の倉田、昨年11月に軽音楽部から転部してきた指揮者の安田が3年生、唯一の女子の小百合とテノールのオタク君が高校2年生、テノール2名、バス1名、ソプラノ各1名という編成だった。

 工業高校では毎年、体育館で文化系クラブ紹介のパフォーマンスが行われる。合唱部はプログラムの一番最後で軽音楽部の後だった。ところが軽音楽部の演奏が終わるとほとんどの新入生が帰ってしまった。合唱部の演奏自体は悪くなかったが、アピールが足りない。
「順番わるっ」
 高校3年生に進級し合唱部長になった山下信夫はくじ運の悪さを痛感した。華やかな軽音楽部から地味な合唱部ではコントラストが際立ってしまった。
「選曲が地味だった」
 副部長の倉田がいう。コンテストの課題曲と自由曲の組合せは一般受けは難しい。
「アニメソングとかもっとみんなが知ってる曲がいいですね」
 2年生になった小百合が控えめに言った。オタク君の新2年生男子は頷いていたが、自分の意見が無いのではなく話すことが苦手なのだ。
「何か手を打たないとヤバいなあ」
 山下は毎年、新人の心配をしている。
「公開練習の時の宣伝をド派手にやって、アニメソングを歌うってのはどう」
 何事も大雑把な倉田はいった。
「宣伝しても、わざわざ音楽室まで来てくれないよ」
「音楽室にお菓子とか持ち込んで、食べ放題ってどう?」
「いいですね。でもお菓子食べ放題って宣伝したら先生に怒られそう」
 小百合が心配した。
「自分だったら、お菓子だけ食べて帰るなあ」
「軽音楽部みたいにゲリラライブするのってどうでしょう?」
「いいよね、それ。曲はなんにする?」
 山下の顔が急に明るくなる。
「アナ雪とか、どうでしょうか」
「そういえば、東亜女子のlet it go(ありのままで)ってすごい感動したなあ。女子校の子たち助けに来てくれないかなあ」
 倉田は女子校部員たちが大好きなのだ。
「あたしもそれ考えてました。コンテストの宣伝にもなるから。入部してくれなくても、活動のことを知ってもらういい機会になるし、もしかしたら校内で私たちを応援してくれる人が出てくれるかもと思うんです。」

 合唱部顧問の蛭間は、部長の山下の提案を訊き絶句した。他校の生徒を巻き込んでゲリラライブ。今までクリーンなイメージの合唱部だったが、いきなりキャラ変かよ。
「穏やかじゃないなあ」
 蛭間は笑っている。連携の提案の頃から部員たちは活気がみなぎっていた。思いつくことがいちいち大きい。蛭間は野球部の顧問も兼任していたが、合唱部が野球部より手がかかるようになったのは初めてだった。
(どうして、こうも熱いヤツが集まっちまったんだろ。)
 それまで合唱部は万引きとか、窃盗とか面倒な事件を起こさないから楽だった。蛭間は煩わしいことが大嫌いだが、顧問としては部員が積極的に活動を考えるのは素直に嬉しかった。

 冷静に部長の山下の説明を聞いてみると確かに理由はある。何も対策を講じないで連携が取り止めになってしまうのは校長も不本意だろう。
「で、いつやるんだ」
「来週中くらいを考えてます。早くしないと他の部に決まってしまうから」
「始める時間は?」
「軽音楽部みたいに昼休みにしようかなって考えてます。放課後だと新入生が帰ってしまうから」
「ウチの学校はいいけど、東亜女学院の生徒は昼休みにここに来る時間あるの?移動時間とかそういうこと考えた?」
「うーん、確かにそうですね。思いつきませんでした。ここから東亜女学院まで30分位だから往復1時間、昼休みが12:30から13:30だったら移動さえも危ないですね。どうしよっかなあ」
「昼食を食べる時間もないだろう。女子はごはん食べれないとうるさいぞ」
「いいアイデアだったのにボツですかぁ」
「うーん、移動方法かあ。車で10分位か。野球部で使ってるマイクロ(バス)頼むか」
「それって高いんですか」
「当たり前。世の中、人にものを頼む時はお金がかかるの。まあ、卒業生の会社だし格安でやってくれるよ。そのくらいの部費はあるから何とかなるよ」
「じゃあ、いいんですね」
「職員会議で相談してからだな」
「ゲリラライブだから秘密にしてもらわないと、ゲリラにならなくないですか?」
「軽音楽部みたいに生徒指導の先生に絞られたくなかったら、言うこときいたほうがいいぞ。それに、多少、情報が漏れたほうが客が集まるだろ」
「来週の合同練習の時に提案していいですか」
「向こうの顧問には、俺から話しとくよ。当日、一発で決まるように段取り考えとけよ」
「ありがとうございます」

 翌週の練習時間の最後、反省会の時に蛭間から説明を行った。予め蛭間から田丸に話が通され、田丸は学内の協力を得ていたので実施自体に異議はなかった。
「曲は「let it go」だけやるんですか?」
 女子校部員が質問する。
「演奏時間を長くすると、ごはん食べる時間なくなるから」
 山下が答えた。
「伴奏とか、どうしますか?」
「安田に言ってキーボードとか機材を借りたし、ミキサーもやってもらうよう頼んだ」
「伴奏と指揮は誰にします?」
「伴奏は小百合に頼んだ。指揮は、えーと、決まってない」
「男子のパートが薄くなるから、指揮はウチから出しましょう。後で連携グループのメンバーから選びましょう」
 美咲が答えた。
「通しの練習しないと不安ですね」
 女子校の部員である。
「明日の練習を通し練習にあてよう」
 その頃には練習は毎日が基本になっていた。
「雨降ったらどうしよ」
「雨降ったらその日は中止で翌日かな」
 いろいろ考えなくてはいけないことがあるものだ。山下は感心した。
「ウチはソプラノ5人、アルトも5人なんだけど、そちらは何名ですか。」
 美咲が聞く。
「テナー2名、バスは僕だけで安田は音響やってもらう。」
 倉田は頭を掻いている。
「私もソプラノ歌っていい?」
 小百合である。
「もちろん良いよ。弾きながらでいいよね」
「嬉しい!わたしも東亜女学院さんと一緒にソプラノ歌えるんだぁ」
「わたしたち、制服で歌うのかなあ。制服が違うから目立つし恥ずかしいな」
「着替えてる時間無いから制服で歌うことになるね。山王下工業高校の制服もかっこいいけど、身だしなみはきちんとして歌いましょうね」
 首が太くてワイシャツの第一ボタンが止まらない倉田のほうを見ながら美咲が言った。
「はい!気をつけます」
 倉田は緊張している。いつの間にか、倉田は美咲の虜になっているようだ。
「歌い終わったら、すぐバスのところに走って、授業に間に合うように戻るから、恥ずかしいなんて思う暇ないよ!」
「歌う前もなるべく準備しておくけど、当日は練習する時間は無いと思うんだ」
「着いたら直ぐ歌って、歌い終わったらダッシュでバスのところに戻って帰るの?まるでフラッシュモブみたい!」
「かっこ良いなぁ。一度、やってみたかったんだ。」
「わたしもやってみたかった」
「フラッシュモブか。そうだ!最初は小百合がキーボード弾きながらソロで歌って、徐々にメンバーが歌いながら加わるようにしようよ!」
 山下が提案する。
「今回の連携みたいに最初は山王下工業高校のメンバーが揃って、それから東亜女学院のメンバーが徐々に入っていくんだ」
「そうすると、最初はアルトが入らないけど大丈夫?」
「ソプラノ1名、テナー2名、バス1名で頑張るよ」
「うわー、なんだか面白そう!ワクワクしてきた。ウチの学校じゃ厳しいから絶対できないよね」
「わたしたち、制服が違って目立つから最初は隠れていないとね。どこに隠れればいいかなあ。隠れる場所あるかなあ」
「明日、下見しよう。場所は校舎前の中庭。結構、教室から見えるから、大きな声ではできないけど」
「雨降らないといいね」
 盛り上がったところで解散となった。


2.フラッシュモブ
 決行日の昼休みが始まった。4月なのにじっとしていると汗ばむ陽気だ。東亜女学院付属第二中学高等学校の来訪者用駐車場。午前中の授業が終わった合唱部の学外選抜メンバーたちは、次々に山王下工業高校が手配したマイクロバスに走っている。
 バスは校門近くに止まり、乗車口では顧問の田中雪乃が人数をカウントしていた。次々と息を切らした部員たちが到着する。高校の部で歌うことになった中3ソプラノトリオのうち2名がまだ来ていない。もう1名の中3部員にきくと、二人は前の時間は体育で着替えているらしかった。雪乃は腕時計を見た。

「もう、時間がないわ、お願いだから早くして!」
 彼方から体操着のままバスに走る二人が見えた。
「早く!、早く!」
 小さな体で手をぐるぐる回して「巻き」をしているつもりらしい。
「すいませーん、お待たせしました」
「あれっ、制服に着替えるんじゃなかったの?」
「時間が無かったので、体操着のままきちゃいましたぁ。制服よりも走りやすかったわー」
「まあ、取り敢えず全員揃ったからいいか、すいません、発車して下さい」
 バスは動き出した。
 雪乃が座席に座ろうとすると、車内の部員たちは楽しそうにお菓子を食べている。
「ちょっーと、それどうしたの?、お菓子は禁止でしょ。」
「今、校門出たから校外です。あ、先生の分これです。どうぞ」
「あ、ありがとう」
 お菓子と小さなメッセージカードであった。
(みんなのお小遣いで買いました。こっそり食べてください。山王下工業高校合唱部)
(そういう問題じゃないでしょ。)
 でも、部員たちの楽しそうなおしゃべりを聞くと怒るに怒れないではないか。
(いちごポッキーが入ってる!)
 雪乃もお菓子の誘惑に勝てなかった。

 あっという間に工業高校に着く。女子校部員たちは食べかけのお菓子を放り出し自分の持ち場に走っていく。校舎の陰、木々の裏、全員が持ち場に隠れると、雪乃は工業高校顧問の蛭間に準備完了のサインを送った。中庭に一人、あたりの風景に同化して開始サインを待っている小百合は、深呼吸をするとlet it go(ありのままで)のイントロを弾き始めた。
「あれ、軽音楽部から借りる筈だったキーボードが、いつの間にか「おもちゃオルガン」になってる。小百合ちゃん弾き辛そう。」
 メロディーを弾く分には大丈夫だが鍵盤の数が足りないので、いっそう「おもちゃ感」が際立っていた。
 おもちゃオルガンは、普段、ゲリラライブをしている軽音楽部のキーボードと明らかに音色が違う。
 小百合が演奏を始めると、売店で昼食のパンを買うための列に並んでいる生徒が一斉に振り向いた。
 小百合が歌い始めた。もともとソプラノの小百合は低音が厳しい。小百合は同じようにソロを歌った美咲に自身を重ねていた。
(今のわたし、美咲さんみたいに見えるかなあ。)
 美咲になりきって歌う小百合は、人前で歌うのが恥ずかしい頃の小百合とは全くの別人だった。

 2フレーズ目、小百合はしっとりと歌っているつもりだが、聴いてる側からすると、とぼけたオルガンといい小百合のビジュアルといい、コケティッシュでユーモラスな感じだ。到底本気で勧誘してるとは思えない。
 テナーの山下、オタク君とバスの倉田が歌いながら加わる。途端に演奏に重厚さが増した。これがハーモニーの楽しさなのだ。

 3フレーズ目、女子校アルトパートが様々な方向から、歌いながら加わった。「おおー」学校の生徒からどよめきが起こる。聴衆たちは新しいパートが加わる度に声のする方向に振り返る。自分の周りのどこから演奏が始まるのか分からず、常にまわりに気をつけていないといけないのだ。

 サビの部分、一番最後に鈴香が率いる精鋭のソプラノパートが加わった。あまりに聴衆が集まったので舞台となっているところに行きつくのが遅れている。鈴香は歌いながら指揮を始めた。アルトパートは長身で色白の美咲に関心が集まっている。ドラマチックな演奏に誰もが見とれていた。

 中庭を見下ろす教室の窓にもたくさんの顔が見える。
「おおー」
「やるじゃん」
「すげー、合唱部、メチャカッコいい!」
「楽しそう!」
「セーラー服カワイイけど、どこから借りてきたのかしら」
 生徒たちは女子校と合同で活動をしていることを知らない。
「背の高い子、激カワ!」
「何これ、コスプレ大会?」
 そう言えば、ソプラノパートのうち2名は着替える時間が無く体操着のままだった。

 間奏になると、山下と倉田は小百合のおもちゃオルガンがのった机に、用意していた張り紙を貼った。
[山王下工業高校、東亜女学院付属第二中学高等学校合同合唱部 部員募集中]
 生徒から再びどよめきが起きた。
「あの制服、本物なんだぁ」
「よく協力してくれたなあ」
「すごいーじゃん」
「合唱部楽しそう」
「合唱部入りてー」
「背の高い子めっちゃタイプなんだけど」
 スマホで動画撮影を始める者もいる。動画撮影に気づいた女子校顧問の雪乃が不満そうに工業高校顧問の蛭間にサインを送る。

『やっちまった。』
 女子校と比べて校則が守られない工業高校では致し方ないところだが、こうなってしまうと、もう、手遅れだ。誰も止められない。

 2コーラス目、やはり美咲のいるアルトが目立つが、聴衆の関心が全パートに向かうよう各パートに見処を分散していた。
 わざわざ校舎から降りてきた生徒たちがいたため人垣が出来てしまう。もう誰が動画撮影しているのかも判らない。2コーラス目もパートソロを各パートに入れたりして曲に変化をつけていた。曲が終わると工業高校部長の山下が挨拶した。
「これで合唱部の昼休みライブは終わりです。放課後、音楽室で練習してるので興味があったら見に来て下さい。一同、礼」
「ありがとうございました!」
「解散!」

 女子校部員たちは歓声を上げながら一目散に散った。軽音楽部のライブよりインパクトがあった。工業高校の部員たちはおもちゃオルガンが置かれた机、PAスピーカー、ミキサーなどを片づけはじめる。感極まって泣き出した工業高校2年生の小百合は、幼馴染の女子校2年の鈴香に介抱されていた。
 部長の美咲はそっと鈴香を促し一緒にマイクロバスに向かって走り出す。小百合に向かって手を振りながら。
 聴衆たちは鈴香や美咲の細かい仕草にも魅了されていた。あっけにとられ口をポカンと開けている。誰もバスまで追いかけてこない。

「あー面白かった」
「楽しかった」
「感動したねー」
 バスの中は途端に騒がしくなった。最後に美咲と鈴香が戻ると雪乃はバスを発車させた。
「安田君のアレンジ、素敵だったね」
「センスあるよね」
「おもちゃオルガンに誰が変えたの?」
「たぶん山下君じゃないかなあ」
「じゃあ、ステージの構成考えたの山下君かなあ、すごい良かったよね」
「構成は安田君がやったらしいよ。」
「すごい才能だね」
 軽音楽部出身の安田の経験が生かされていた。

「おなか空いたね!」
「学校に着くまでに残りのお菓子食べなくちゃね」
「人前で聞こえるように歌うのって、意外と難しいんだねー」次の練習の課題を見つけた誰かが呟いた。


3.評議員会
 美咲高2の5月末、東亜女学院大学本部にて決算評議員会が開催された。
 東亜女学院大学は都心の本拠地に大学院、大学、付属高校、付属中学校を構える他、郊外に大学第二キャンパス及び第二中学高等学校を展開している。
 郊外のキャンパスと付属中高校は時代の流れに翻弄されてきた。郊外キャンパスは当初は一般教養課程の大学生のほとんどが通学していた一大拠点だった。ベビーブーム到来による学生数を吸収するため、学校法人の郊外移転が推奨された折に開設したのである。
 ところが、用地の取得、校舎の建設等の借入金の返済が終わらないうちに少子化の時代に突入してしまった。学校の付加価値を高め、学生の就職活動を有利にするために学生数が少ない学部は可能な限り都心の本拠地に再移転した。移転が難しい学部や第二中学高等学校は本校に統合させることができず、広大な敷地に取り残されたのである。
 それでも、例年は進学校である第二中学高等学校は健闘してきた。ところが近年は公立の中高一貫校の台頭により、入学者のレベル低下、進学実績低迷という玉突きが起き、進学校の看板に陰りが見え始めたのである。
 学校側でも郊外校独自に国際教育等のカリキュラムを採り入れたり、大学入試対策を強化してきた。毎年の評議委員会では第二中高校の借入金返済や事業状況が注目され、近年は郊外校の独立採算や存続が議論されるまでになったのである。

 第二中学高等学校長の加藤文子は正念場を迎えていた。
 今年の入試は志願者も前年を下回った。
 カリキュラムの柱のひとつである短期留学はEU圏内の政情不安から中止になった。
 進学実績も志望先大学の助成金の関係から絶対的な合格者数が絞られ本校同様に振るわなかった。

 事業結果は本校の事務局長が説明にあたるが、委員からの質問に答弁するのは校長の役割だった。
 同学院では年2回開催される評議員会のうち、今回の5月は前年度の収支報告の他、事業結果などが理事会の承認後に報告される。評議員会は会社法でいう株主総会に相当し、理事の他、各校の校長、在学中の父兄の代表、卒業生の代表等から組織されていた。

「山王下工業高校との合唱部の合同状況について報告いただきたい」
 どこから聞き付けたのか委員のひとりから質問があった。
 委員たちがざわめいている。
 合同については本校にも報告していたし手続き上は問題なかったが、提案を受けた時期が遅かったため、今年度の事業計画時の評議員会には間に合っていなかった。
 第二中学高等学校長の加藤は、事業の経緯、目的、期待する成果を説明の上、現在は2グループに分けて活動中であること、大会に向けて部員たちのモチベーションも上がっていること等を報告した。
「連携活動はいつまで行うのか、工業高校以外の学校と連携を行うつもりはあるのか、学院のブランドイメージを傷つけることにならないか」
 等、質問が続く。加藤は連携の終了時期については曖昧に答えたが、委員からは相手校が自立した時点で連携を解消すべしという注文だった。

 加藤は事務局長をはじめとした学内の理事からも協力が得られていないことを痛感していた。第2学校長はこれまで教員側と事務局側が交互に務めてきた。自分が校長になったのも営利的な事務局出身の前任校長の施策が問題となったからである。
 加藤は就任時から伝統的な女子教育に戻そうとして事務局側と対立してきた。その結果、今回は合同活動の成果を短期間に求められることとなったのである。

「これで少なくとも1年間はあの子たちを守ることができた。彼女たちがやり易いように、もっと頑張らねば」
 評議委員会を終えた加藤は決意を新たにするのだった。


4.放課後事件
 ゴールデンウィークが明けると合同練習日は毎日となり本格化した。
 美咲たち女子校部員の活躍により工業高校合唱部員は25名の大所帯になった。新入部員の内訳は高1が10名、高2、高3が10名で、2、3年生は多くが他部からの転部者であった。出身元の部もバラエティに富んでいて軽音楽部、応援団、ブラスバンド、軟式テニス、サッカー、野球、帰宅部など個性が強い。当然、練習も混乱し既存部員では手が回らない。

 新入部員は大別すると2つの派閥があった。
・合唱活動に協力的な部員
 新1年生(うち女子2名)、応援団、野球、ブラスバンド(女子2名) 計14名
・合唱活動に非協力的な部員(全て男子)
 ブラスバンド、軟式テニス、サッカー、帰宅部 計6名

 合唱活動に協力的な部員は、連携活動の良き理解者であり純粋に合唱したいと考えて入部したメンバーである。一方、非協力的な部員は、女子校部員との交際が目当てで入部したメンバーである。ところが、合唱活動が始まると女子校部員は顧問に引率され一斉に登校、下校してしまうため声をかける隙がない。しかも女子校部員たちは下心を敏感に察知し警戒してしまうため、取りつく島が無いのである。楽しそうに美咲たちと談笑している山下や倉田を見ると、非協力的な部員たちはふてくされ次第に不満が募っていった。

 部長の山下は大所帯になった部を統率することができず悩んでいる。
「やる気のない奴は全員退部してもらう。」
 倉田は言うが、非協力的な部員でも発声に見込みがあったり、個人的な付き合いがある奴もいて割り切れない。軽音楽部の安田も当初はそんな感じだった。安田の蛭間に対する不満は手に負えなかった。根底には「教師に反抗することがかっこいいと思われる風潮」があったのである。

 コーチはクラブ活動前の腹筋やランニングなどの独自の強化メニューを課した。特に新規に転部してきたものたちは、呼吸、発声方法、姿勢等、徹底的に指導される。
 カラオケ等、マイク使用を前提とした歌い方や歌謡曲等、歌詞内容を無視した発声に慣れてしまった彼らは合唱には全く不向きだった。コーチの指導も部の統率を損なう原因のひとつで、非協力的な部員たちは次第に幽霊部員と化していった。

 ある日の練習時、女子校顧問の雪乃と工業高校顧問の蛭間は、指導をコーチに委ねて新入部員の育成問題について話していた。
 パート練習が佳境を迎えた時だった。突然、校門の方角からオートバイの爆音が鳴り響いた。爆音はしばらくしても鳴り止まず、周辺の道路を行ったり来たりしているようだった。あまりの騒音で練習が中断した。工業高校の部員たちは至って冷静だったが女子校部員たちはショックを受けた。
「怖がらなくていいよ。あれね、3月にドロップアウトした千尋君だよ。時々、学校の友達に会いたくなって、あーやってバイクでやって来るんだ。悪いヤツじゃないんだけど、最近は面倒くさいから誰も話しにいかなくなったなあ。」
 同級生で土木科3年の倉田が言った。女子高中3のソプラノ3人は可哀想に涙ぐんでいる。
「短い練習時間がますます過ぎてしまう。」
 美咲は居ても立ってもいられなくなった。
「どうして素直に友達に会いに来ないのだろう。あれではいっそう嫌われてしまう。なんで、工業高校のみんなは正直に言ってあげられないのだろう。」
 怯えきっている女子校部員たちが痛ましい。

 いつの間にか美咲は音楽室から飛び出し校門に向かって走っていた。部員たちは美咲が教室から勢いよく出ていくのをあっけにとられて見ていた。打合わせ中だった山下と倉田は美咲に気づき後を追った。
「危ない。女の子が一人で行って勝てる相手じゃない。なんとか、引き止めろ。」
「美咲ちゃん、危ないから戻ってくれー」
 美咲は校門近くでアクセルを煽って空噴かししている2台のバイクの前に飛び出し、両手を広げて止めた。
「迷惑だから止めてちょうだい」
「あぶねー、ひくとこだった。俺らになんか用?」
 千尋は突然飛び出してきたセーラー服の女の子に面食らった。
「エンジンを切って!、今、合唱の大事な練習中で迷惑だから静かにして欲しいの」
「こっちは友達に会うっていう用で来てんだ、危ねーからそこどきな」
「合唱の練習が出来なくて困っているの、止めてくれるまではどかないわ」

「(はぁ、はぁ)間に合った、美咲ちゃん、もう、いいよ、音楽室に戻ろう」
 山下と倉田がやってきた。
「めんどくせぇーなぁ」
 千尋たちはバイクを降りてしまった。
(まずい、やられる)
 腕力では山下も倉田も千尋たちに敵わない。体が咄嗟に動かない。

「ちょっと、あんたたち、なにやってんだ」
 通りがかった工業高校の女生徒が中に入った。女生徒は茶髪、スカート短く、いわゆるヤンキーだ。
「この子は隣の女子校の合唱部の子だよ。ウチとこの合唱部が潰れそうだから、わざわざ放課後に助けにきてくれてんだよ。あんた、この子になんかしたら学校の友達全部失うよ。」
「なんだよ、言ってくんねえから分かんねえじゃん」
「あんた、放課後は練習があるんだから、これからは邪魔すんじゃないよ。わかったら、さっさと…」
 彼方からパトカーのサイレンの音がする。いつものように近所の住民が110番通報したらしい。
「やばっ」
「早く帰りな」
 千尋たちはスタンドを上げるとエンジンをかけた。
「美咲ちゃんっていうんだ。勇気あるし、かわいいね。練習邪魔しちゃって悪かったな。また今度なー」
 千尋たちは、そう言い残すと一目散に逃げていった。
「悪いヤツじゃないんだけど怖がらせてごめんね」
「こんな方法じゃ、どんどん友達いなくなっちゃう」
「そうなんだけど、こんな方法じゃないと自分をアピール出来ないやつらなんだよ。なんか、困ったことがあったらウチらに相談しな。ウチら、あんたのこと応援してんだ。この学校のことなら力になったげるから」

「あんたら2人、女の子ひとり守れないのかい。情けないねー。彼女もできない訳だ。」
 ヤンキーは男子部員ふたりに捨て台詞を残し立ち去っていく。
「ありがとうございました」
 後姿のヤンキー娘に美咲はお礼を言った。
「危なかったね、さあ練習に戻ろう」
 山下と倉田は美咲を連れて音楽室に戻った。

 音楽室では顧問の雪乃と蛭間が部員たちから事情を聴いている最中だった。
「美咲ちゃん、何があったの?」
「ええ、別になんでもないです。ただお願いしただけだから」
「頼むから、今度からは一人で行かないでよ。」
「はい、もう行かないです。困ったときに頼りになる人見つけたから」
「?。みんな、今回のことは家に帰っても内緒にしといてね。じゃないと連携活動が中止になっちゃうから。」
「すいません」(大変なことになってたんだ。)
 美咲は反省した。

 この事件をきっかけにして、工業高校部員たちは美咲の勇気、熱意を痛感した。一方、女子校部員たちは、いつの間にか工業高校の生徒が協力的になっていることを実感していた。

第4章 コンクールに向けて

1.ボーイソプラノ
 『役員ミーティング』とは、女子高合唱部の昼休みに役員、パートリーダー、高1や中3の学代と顧問が集まり、必要な決めごとを行うものである。もともと昼食を終えた顧問のところに、部員たちが雑談に集まったことがきっかけだった。
 この日は昨年11月に受験勉強のためクラブを引退し、普段あまり顔を見せない高3の元部長らの姿があった。久しぶりに先輩の顔を見ると美咲と英里華は緊張し、鈴香は安心した表情になった。
「前の運動会の時に、この春卒業した先輩がいらしてたよね。そこで工業高校との連携活動のことが話題になったんだ。ほら、学内と学外で分けたでしょ。それで練習がどうなってるか見学しようってことになって。」
 高3の元部長が話し出す。
「そんなに大したことかなあ、先輩に会えるのは嬉しいけど。」
「多分、先生方とも近況を報告したいんだと思う。」
「いつ頃、ご来校される予定なんですが」
「昨日、私と雪乃先生宛にメールが来てて再来週の火曜になったわ」
 田丸が答えた。
「どなたがお見えになるんですか」
「部長、副部長二人とソプラノリーダーだった美鈴ちゃん」
 雪乃が答える。
「えー、美鈴先輩も来るんだ。やだー、あたし、どうしよー。」
 鈴香が顔を赤らめる。憧れの先輩の名前を聞いただけで少女に戻ってしまう。
「先輩方を工業高校にお呼びする訳にいかないから、再来週火曜の練習は女子・男子で分けて女子パートはうちの学校でやるかな。」
 美咲が言った。
「ウチの学校を知ってもらうチャンスだし、気分が変わっていいかもね。」
「2箇所で練習するとなるとコーチはどうしましょう。」
「男子にはやっぱり見張りが必要でしょ、工業高校の顧問は蛭間先生ひとりしかいないからどうだろうなあ。男子パートって蛭間先生なしで大丈夫かなあ。さぼらないといいけどなあ。」
 鈴香が言った。
「工業高校のソプラノ、アルトの部員たちに召集かけないと、ですね。工業部員の移動時間があるから学外選抜グループは30分遅れで開始ですね。雪乃先生、お手数ですが工業高校への連絡をお願いします。」
 美咲が言った。
「後で連絡しとくね。他に伝えることあるかしら。」

「えーと、あのー、ソプラノの中西君をパート練習に入れていいですか。私は一緒に練習させてあげたいのですが。」
 鈴香がためらいがちに質問した。
「あの1年生の『おかまちゃん』のこと?」
「こらっ、美咲、言い過ぎ!」
「中西君は工業高校の1年生のソプラノの男子なんですけど、声変りがまだなんです。声だけじゃなくて心の中も女子なんです。見かけも色が白くて小さいから、ウチの制服着たら誰も男子がいるとは気づかないと思います。」

 中西君を知らない学内選抜グループや中学生たちは目を輝かせている。実は「おかまちゃん」とか「BL」とか大好物なのだ。今までは練習場所が工業高校だったから特に問題にならなかったが、女子校で練習する場合、昨年の保護者会での懸案が再燃する。女子校に男子が練習で通うことの不安に対し、田丸は不安が払拭されるように対策することを約束していた。
「確かに悩ましい問題ね。中西君は女子のソプラノパートに加わることをどう思っているのかしら。」
「女子と一緒に歌うことが好きみたいです。男子より女子といるほうが居心地がいいみたいです。」
「そうか、女子と一緒が楽か。みんな、いろいろ興味あるかも知れないけど、同性のお友達として迎えた方がいいみたいね。『性同一性障害』っていって性別は男でも、女子の心を持つ人、反対に女でも男子の心を持つ人がいて、その気持ちが強くなると自分に閉じこもったり、傷つけたりしてしまうこともあるの。中西君は男子に違和感を感じてるタイプなんだと思う。」
 田丸が説明する。
「確かに美咲は生物的には女だけど心の中は男だよね。美咲が学校でもてるのって、そういうことだったんだぁ。なるほど」
「それって褒めてないよねぇ。ちっとも嬉しくない感じ」
 一同が笑った。
「ウチの学校の半分の子って、男子入ってるよね。」
「そうだね、英里華もかなり入ってる」
「んもうー」
「程度の差こそあれ、誰もが持っているものなの。肝心なのは自分の性別を悔んだり、両親を恨んだりマイナスに考えないことね。そういう意味では、中西君は良い方向に考えてるし大丈夫だと思うけどみんなでケアしないとね。」
「それじゃ先生、中西君を呼んでも良いですか。わたしの制服を着せますんで。」
「女装はやりすぎよ(笑)。それに中西君は女になるって決めた訳ではないんでしょ。校長先生には私から話しておきます。そうそう、トイレは男性用ね」
 田丸がつけ加えると一同が笑った。

「中西さんのソプラノってどうなんですか」
 中西を知らない中3が質問する。
「うーん、音域は確かにソプラノなんだけど私たちの声とは違うんだ。なんていうか、そうだなあ、子供っぽいっていうか、そうだ、空き時間に学外Gの見学に来たらいいよ。」
「えー、嬉しい、いいんですかぁ」
「他校が入ってもウチの学校なんだから、お互い自由に見学可だよ。」
「楽しみだなあ、お友達になれると良いなあ。」
「工業の部員全員とね。」
 雪乃が念を押し一同が笑った。

2.ミックスボイス
 OG訪問日当日、工業部員たちは顧問の蛭間の引率でOGより先に到着した。部長の美咲と副部長の鈴香が迎えた。校門横の守衛室には事前に連絡しているので入校はスムーズだ。
 初めて入る女子校校内、整然と立ち並ぶ近代的な校舎を見ると、工業部員たちは驚いた様子だった。
「大学のキャンパスが併設されてるから、こんなに建物があるの。私たちの校舎はこの通りをずっと奥にいったところだよ。」
「すごい広いですね。どの校舎もきれいで羨ましい。」
 小百合が感激している。
「朝なんか、キャンパスの移動時間を考えないと遅刻するんだ。門から遠いから。」
「へえー」
 呆れるほど広いがその割には学生はまばらで閑散としている。木立に囲まれたやたらに広い運動場は芝生になっていてヒバリのさえずる声がする。林間を渡ってくる5月のそよ風が心地よい。
(あの芝生の上で寝転んだり、お弁当を食べたらおいしいだろうな。)
(学生生活って羨ましい。)小百合はぼんやりと考えていた。

「こんにちは」
 すれ違う女子校の生徒が挨拶した。女子校では来訪者には挨拶するように躾けられているのだ。
「あ、こんにちは。」
 少し遅れて工業部員が挨拶を返した。挨拶の習慣はもちろん躾けとして一般的だが、イメージの向上や防犯の意味もあるのだ。部員たちを引率した顧問の蛭間はそんなことを考えている。
(今頃、部長の山下や倉田はうまくやっているだろうか。)
 男子パート練習は敢えて山下や安田に任せることにした。テノールのパートリーダー山下、バスのパートリーダー倉田、指揮の安田、彼らが部をまとめ新入部員を引っ張っていくのだ。これまで積極的グループと消極的グループはお互いに融合することができず、女子校部員が緩衝材になって活動してきた。もともと蛭間に反抗していた安田が指揮者となったことで部内がまとまってくれることを期待をしていた。風貌は崩れているが根はまじめだ。蛭間は安田を見抜いていた。

 練習場所となっている音楽教室に工業部員たちは案内されてパート毎練習が始まった。練習が始まると代わる代わる女子校部員たちが見学する。見学が終わりそれぞれのパート教室に戻るとソプラノパート唯一の男子の中西君のことで盛り上がる。
「見たー、身長が150センチくらいだよ。」
「確かに美少年」
「手が赤ちゃんみたいに小さいよ。靴なんか子供用じゃないのかなあ。」
「女子っていうより制服着た小学生だね。」
「自分のこと、ボクって呼んでた。」
「『ボクっこ』なんだ。中身が女子だから女の子の言葉話すのかと思ってた。ちょっと残念。」
 みんなが笑う。
「工業のソプラノの子、上手だったよね」
「小百合さんっていうんだって。鈴香先輩と同じ小学校で同じピアノ教室に通ってたんだって。」
「すごい。学外選抜Gのソプラノパートって層が厚いね。コンクールで入賞めざせるね。」
「アルトはどうだった?」
「やっぱ美咲先輩かなあ。先輩の声っていやみがなくって透き通るような感じで、よく響くんだよね。」
「美咲先輩は元弓道部だから息が切れないし、きちんと頭のてっぺんから、声出せるんだよね。」
「ちょっとアルトはソプラノに比べて全体的に細い感じかなあ。メゾ(ソプラノ)あればいいけど混声4部だから、テナーとバス入れてどうなのかなあ。」
「アルトはソプラノと比べると大人しい感じかなあ。」

 学外選抜グループの休憩時間になると、さっきと反対に美咲や鈴香に連れられて、工業部員たちが学内選抜グループや中学の部の練習を見学しにきた。女子校だから当前なのだが、女子の多さに圧倒されている。「ボクっこ」の中西君は目を輝かせている。どうやらボクっこは高校生の「お姉さん」ではなくて、中学生の「女の子」のほうがお好みの様子だ。
「そういえば、田丸先生が中西君をひとりで歌わせてたけど、どうしてたの?」
「声域を確かめてた。田丸先生が言うには変声期に入ったのかも知れないって。無理に歌うと声つぶしてしまうから、練習を控えたり、アルトのほうが楽に歌えるなら、アルトパートに移ったほうがいいって。」
「アルトは全体的に弱いから、ちょうどいいかもね。でも本当は「同い年」の中1の子と歌いたいんじゃないかなあ。」
「そうかも知れない。」
 学内選抜グループの一同が笑った。

 練習が一段落つくと大部屋で全員のミーティングを行った。OGたちはアイスを差し入れてくれた。実咲が司会になり、ひとりずつ発言できるように話しを回していく。実咲は最初にOGを紹介しOGから感想を言ってもらう。
「全体的に大人しい感じかなあ、良い悪いはともかく歌詞を大切にして3連符やスタッカートとかをきちんと歌うのがウチの伝統だから。」
「学外選抜グループのソプラノは仕上がってると思う。声量もあってよく揃ってる。工業のみなさんと中3の3名はこの春から始めたのに基礎ができてる。」
 鈴香と小百合の2強を擁するソプラノはOGにも褒められている。
「学外選抜のアルトは少し弱いかな。もう少しはっきりと「アイウエオ」を発音したほうがいいかも。こういう時、大学のコーラス部で知った練習法を教えるね。」
 ソプラノリーダーだった美鈴先輩である。

「なるべく変な顔で歌う練習をするの。まず口を閉じてハミングで歌ってみる。ほら、みんな裏声になるでしょ。裏声になったら、その状態で口を開く。「ア」だったら口を縦になるべく大きく開いて顔や体全体を細長くするイメージ、手のひらは上にあげる。「アーーー」ってこういう感じ。「イ」は反対に口をできる限り横に開くの、感覚的には顔が平安美人のように下ぶくれに見えるくらい、口が耳の辺まで裂けてる感じ。手は両脇腹にくっつけて、ムーミンのニョロニョロになった気分かな。体の表現が付いたら、もう一度、ハミングの喉を意識する。2歳位の子供が耳が痛くなるような超音波で話すよねえ。そんな感じ。変な顔で歌ってもコンテストでは減点にならないから、恥ずかしがらずにやってみて。」
「アーーーーー」
 全員一斉に歌い始める。
「そうそう、みんなよく声出てる。結構、体力使うでしょ。ほらそこ、変な顔っていったけど「変顔」じゃないから。」
 笑いが起こる。ソプラノリーダーだった美鈴先輩は教えるのも上手なのだ。

「きみもいい超音波出してるよ。」
 美鈴先輩は中西君を褒めた。
「中西君はもともと赤ちゃん発声だから」
 工業高校の女子部員が笑った。
「○○ちゃんの変顔かわいい。」
「キュンキュンするよ。」
「○○ちゃん、「イーー」の時、黒目が左右離れて「ヒラメちゃん」みたい。可笑しすぎる。ねーやってみて。」
「イーーー」
 全員が爆笑する。
「○○ちゃん、目が超細くなって危ない人みたい、すっごい怖いんだけど。」
「イーー#」
 語尾がシャープしている。
「ほんとうだ。悪霊に取り憑かれてるみたい。おっ、お祓いが必要だ。」
「顔を前に突き出す必要ないから。」
 また爆笑。笑いすぎて過呼吸になる子もいる。その子を見て別の子も笑ってしまう。
「オペラ歌手の人ってみんなすごい顔して歌ってると思ってたけど、ちゃんと意味あったんですねー。」
「歌う時の表情って大切なんだ。裏声と地声が混じったミックスボイスを出すためには女子だからって遠慮してはだめよ。」
 顧問の田丸が言った。
「みんな家帰ったら、変な顔で歌えるように鏡みて練習するようにね。」
「やだー、「ほうれい線」深くなっちゃう、家帰ったらパックしよー。」
 顧問の雪乃が声をあげると一同が笑った。
「笑いすぎて涙出るし、おなか痛いよ」
 自分のパートが注意されるはパートリーダーの実咲にとっては辛いところである。ところが美鈴先輩はやさしく分かり易く教えてくれる。しかもアルトパート担当の心が折れないように笑いに変えてくれた。男子の前では気を使ってしまう練習が、女子同士だと気後れなく出来たことも嬉しかった。

「もうお帰りの時間ですね。ありがとうございました。」
 実咲は帰る時間を迎えたOGに挨拶した。高3がOGに付き添う。
「それじゃあみんな、コンクール頑張ってね。多分見に行けると思うけど、当日は声かける暇なんてないから。今日みたいに練習続ければきっといい結果出せるよ。大切なのは大会前に今みたいに全員で大声で笑うこと、そうして、たくさんの空気を吸い込むこと。そうしたらいい声が出せるし緊張もなくなるからね。」
「ありがとうございました。」
 全員が見送る。工業高校の部員たちは拍手をしている。OG訪問で心がひとつになった。実咲は心からOGに感謝した。


3.男子のまとまり

 OG訪問と同日、工業高校では男子パートのみの練習が行われた。
 パートリーダーはテナーが部長の山下、バスが副部長の倉田だ。このふたりと指揮者の安田が中心となって指導していく。今日は女子パートは女子校で練習しているので、頼りとしている美咲、鈴香、小百合はいない。
「そんなこと言っても、どこをどう歌えばいいんだよ。俺は喉をどう使うとか、体の中身まで分んねえよ。」
 バス担当の元サッカー部の3年が倉田に向かって声を張り上げる。
「倉田の歌った良い見本と悪い見本で、どこが違うのか、ちっとも分かんねえ」
 3年の元テニスボーイだった。困った倉田はコーチの助けを借りる。コーチの指導を受けていた指揮者の安田も、一緒に練習部屋にやってきた。コーチはそれぞれの部員の発声を聴いてアドバイスしたが、それでもまだ、自分の歌い方のどこが悪いのか分からない。

「倉田が俺らの歌い方が気に入らねえんだってよ。だいたい倉田って普段から何言ってんだかよく分かんねえんだけど、倉田の言ってること翻訳してくれねえか。」
 ふたりが安田に詰め寄る。
「ふたりとも、もう一度歌ってみろ。」
 サッカー、テニス部の順で注意された小節を歌わせる。安田は目を閉じて耳に集中している。
「次、倉田歌ってみろ。」
 目を閉じたまま倉田を指名する。
「全然違うな。倉田のほうは音程が変わらないが、お前らふたりとも音が揺れている。ギターでいうとトレモロが入ってる。合ってるのはリズムだけだ。」
「それは声質の違いだろ。人によって声が違くなるのは当たり前じゃねえか。」
「練習でなんとかなる。コーチに言われた通りに練習しろ。」
 安田は目を閉じたままだ。
「お前、歌えない癖に何言ってんだよ。指揮者になったからって、かっこつけてんじゃねえぞ。なんで倉田のかた持つんだよ。お前だって女にもてたいから入部したんだろ。」
「ああ、もちろんもてたい。だから必死に合唱の勉強した。」
「お前、気は確かかよ。今更勉強して何とかなるもんじゃねえよ。お前もともとバカなんだから。」
「バカか。確かにそうだな。そのバカが教えてやるよ。ここで女子にもてたかったら上手く歌えるようになるんだよ。動画サイトで合唱聴いて勉強しろ。CD聴いて練習しろ。お前らは聴くってことがどういうことかさえも判らない大バカなんだよ。」
「おい、ふざけてんじゃねえぞ。」
 蛭間がいないので遠慮しなくなる。安田はふたりに胸倉を掴まれたが相変わらず目は閉じている。他の部員が息を飲んでいる。
「いい加減にしろよ」
 倉田が止めに入る。ふたりは部室を出て行った。
「ほっとけよ。やる気があるんなら戻ってくるだろ。」
 安田は倉田に言った。

 バスに比べテナー部屋は更に酷い。顧問の蛭間がいないのでだらけている。山下の指示に耳を貸そうとしない。
「ちょうーぜつかわいいみさきちゃんー」
 スマホをいじりながら大声で雄叫っている。女子がいたらドン引きしそうな発情風景だが、男子しかいないので隠そうとしない。
「こっちもゲロかわいい」
 ふたりがお互いの携帯をのぞき込む。いつの間に隠し撮りしたのか、歌唱している女子校部員たちの動画を持っている。
「あふー」「ぐうかわ」
「おい、お前らケダモノには檻が必要だ。その動画消せ。」
 耐えかねた応援団出身の3年生は、ゲーセン仲間の帰宅部ふたりに怒鳴った。
「消してもインスタにアップされてってから、いつでもダウンロードできんだけど。」
「そのインスタも消せ。お前ら女子に近づくな。インスタ消して合唱部からも消えろ。」
「やなんだけど」
「お前のアタマ、まじヤバい」
「その言い方も気に食わん。男らしくしろ。」

 やりとりを見ていて腹が立った元野球部員は、突然、窓を開け、帰宅部ふたりの荷物を放り投げた。カバンは無残にも2階の窓から1階の花壇に落下した。
「何すんだよ」
「これですっきりした。」
 野球部員がつぶやいた。
「とりに行けよ」
「自分のカバンだろ。知ったことか。」
 帰宅部ふたりは怒り狂い、手近にあった椅子や机を手当たり次第に野球部員や応援団員に投げつけた後、部屋を出て行った。
「インスタ消してなかったら、蛭間に言って退学にさせるぞ。」
 応援団員は部屋を出ていくふたりに叫んだ。
「退学にしやがったら、もっとアップしてやるからな。」
 1階に下りる階段の踊り場あたりから返事が戻ってきた。

 1年生のテナー部員たちはすくみ上っていた。
「俺が悪かった。甘やかせすぎた。」
 山下はふたりに詫びた。
「いつかあのふたりはこうなる運命だった。」
 椅子や机を元に戻しながら野球部員が呟いた。
「もう少し早く膿を出すべきだった。あいつらネットの動画消すだろうか。」
 応援団員が言った。重苦しい雰囲気が漂う。練習を続けられる自信がない。

「腹減ったな。今日はラーメンでも食って帰るか。」
 山下は残りのメンバーに声をかけた。


4.自分たちの楽曲
 夏休み直前、各パートの部員たちは指揮の安田の意図どおり、ひととおり歌えることを実感していた。それより前から、安田はなんとなく違和感を感じていた。
「作詞・作曲家の意図を自分たちなりに理解し、その理解を忠実に再現することが自分たちの最終形なのか、それとも、その再現に加えて自分たちの持っている特徴を生かして組み込むべきか。」
 もし前者であれば、今後の練習は今の方針で継続し更に完成度を追及する。後者であれば、自分たちの良いところを洗い出し楽曲に反映させる必要がある。安田は後者が正しいと推測する。
 では、自分たちの持ち味は一体なんなのか、考えても結論が浮かばなかった。各パートリーダーを招集し全部員でディスカッションすることになった。

「われわれの合唱の良いところを考えて欲しい。良いところを生かすため、どの小節をどう歌えば良いか、アイデアを出して欲しい。」
 全体ミーティングで安田は意見を求めた。
 最初、部員たちは静かだった。漠然とした質問だったし、今まで必死に安田の要望に応えてきたので、自分たちの良さを考える余裕が無かった。確かに女子パートは透明感があって素晴らしい。でもそれだったら男子パートは女子の引き立て役でしかないのだ。
「自分らが最初に女子校に合同を申し込みしたときは、女子と一緒に歌いたいっていうのが目的だった。」
 山下が発言した。
「そうね、同性ではなく混性を試すことが出来たのは嬉しかった。」
 美咲が言う。
「ゲリラライブの時に、各パートが次々に加わってくれるのが嬉しかった。」
 小百合が思い出したように言った。
「俺たちは、それを見てぞくぞくしたよ。正直、鳥肌がたった。」
 元応援団と野球部だ。
「学校が違うのに男子・女子のパートが協力し合って歌うことが、俺たちのいいところじゃない?」
「それなら、男声パート、女声パートのみのところはなるべく抑えて、一緒に歌うところは嬉しそうに歌ったらどうかな。」
「嬉しそうに歌うって例えばどういう風にやるの?顔だけやればいい?」
「元気よくってことかなあ?」
「元気が持ち味なんてどこの合唱部もそうだよ。」
 鈴香が笑った。
「なんか歌に喜びを表現したいなあ。」
 安田は腕を組んで考え出した。
「ベートーベンの第九ってどうやって歌うのかな、ネットで検索っと」

「あのときの録音あるかな」
 ふと、山下が思い出して安田に尋ねる。
「たぶん、あるよ。」
 安田は1年生を引き連れ、軽音楽室の部室から機器やゲリラライブの録音を持ってきた。再生してみると思ったより音が悪い。
「今聞くとだいぶ下手だな」
 小百合が感慨深そうに思い出している。
「新しいパートが入った直後の小百合の歌い方に注目」
「確かに嬉しそうに歌ってる」
「過呼吸になってる感じ」
「結構、音外してない?」
「上に外してる。」
「声が上ずってるけど軽く歌ってる。微妙にスタッカートしてる。」
 ヘッドホンを聞いていた安田が言った。

「もう一度、歌ってみない?当時のメンバー以外は違いを見つけて」
 美咲が提案する。恥ずかしがりながら小百合がミニオルガンを弾き始める。1年生の前で歌うのは照れ臭い。
「男子パートが加わる前の小百合の声はかなり地声に近い。加わってから裏声が強くなって音量もある。」
「わかった、母音の「い」の音がはっきりしてる。」
「やっぱ神曲だな」
「もう一度、小百合ちゃん、歌ってみて。」
「「い」の音をなるべくはっきり言って、スタッカート、嬉しい気持ちを込めて。」
「仲間が加わった時のコントラストがはっきりわかるように」
「これだ」
「これか」
「結構、難しいね。」
「もう一度だね」
 嬉しそうに歌うコツを全員で協力して発見した。安田の指揮で課題曲と自由曲に試してみる。
 前より若干嬉しそうになった。入れる場所をこれから考えていこう。

「各パートリーダーは明日からのパート練習で、この歌い方を引き続き練習してください。」
 山下が指示を出した。

第5章 ハーモニー

1.東京支部大会
 夏休み明けの日曜日、運命の日がやってきた。学外選抜グループである都立山王下工業高校東亜女学院大学付属第二高等学校合同合唱部は、全日本合唱コンクール高校生Bグループにエントリーし初戦となる東京支部大会を迎えた。エントリー校のうち全国大会に推薦されるのはたった2校である。
 会場となっている文京シビックホールには早朝から両校の合唱部員たちが集合した。この日の伴奏は工業高校顧問の蛭間が行い、昨年秋に軽音楽部から転部した安田がタクトを振る。この日の安田を見た合唱部員たちは安田の変わり様に大笑いした。
「あれー、安田君、髪の毛どうしたの?、ピアスもネックレスも指環もないよ。あんまり変わったから気づかなかったよ。蛭間先生に叱られたの?」
 この日のために安田は肩まであった髪を切り、色も黒に染めていた。
「別に先生に怒られたんじゃないよ。自分のせいで評価が下がったら嫌だから。」
「別に外見で評価される訳じゃないよ。安田君は今まで通りでいいんだよ。なんか調子狂っちゃうな。」
「ロックしてない安田さんって、結構、かわいい。」
「今でもロックしてるよ。ロックは外見じゃない。魂なんだよ。魂って判る?ソウルだよ、熱いんだよ。」
 鳩尾のあたりをポンポンたたく。
「なに?今日の天気のこと?」
 ソプラノの小百合が斜めにそらすとみんなが笑った。

 舞台整列の練習をホールで行う。舞台慣れしている安田さえもまるでロボットのようにぎこちない動きだ。歩く時に右手と右足が同時に出る。それを見た部員たちが指をさして大笑いする。
「うちのサイケデリックマシーン壊れてC3POみたくなった。」
「さっきペットボトルこぼしてたからショートしたのかな。」
「うるさい、黙れ。集中しろ。」
 たったひとつの演奏にこれだけ時間をかけたのは初めてだ。昨日もほとんど眠れなかった。

 練習室に入ると工業部員たちは更に緊張した。
「そんじゃ発声の練習からするよー」
 ソプラノの鈴香が声をかける。
「あーーーー、いーーーー、うーーーー」
 女子校部員のひとりが、また悪霊に憑りつかれている。全員が大笑いする。いい調子だ。
「次は課題曲の出だしのところ行くよ。」
 限られた時間なので通しの練習はできない。問題があるところ、ポイントのところを中心にこなしていく。
「時間でーす。」
 呼び出し係の人から声がかかる。あっという間に時間が過ぎてしまった。

「みんな、歌うよー」
 最後に美咲が声をあげると、
「おー」
 女子に混じって男子の野太い声が返ってきた。


2.本番
 舞台のそでに待機したあと、ステージに整列する。学校が違うので制服がばらばらだ。工業高校の制服は男子も女子もブレザー、女子校は高校生も中学生もセーラー服。一見すると女子校の中学と高校の制服の違いは分からないが、ネクタイの色など微妙に違う。
 学校紹介のアナウンス時、客席から驚いたような声が上がる。落ち着いてみると、客席には部員、顧問の両名に混じって校長先生の顔が見える。仲良し4人組のふたりも来てくれている。OGも見える。体調の優れない母は来ていないがたくさんの人が見える。
 工業高校の集団には運動部からの転部者の仲間だろうか、いかつい体格の生徒たちが陣取っている。ヤンキー女生徒、アロハシャツ着てるのはひょっとしてドロップアウトした千尋君か。

 この1年間、いろいろな人に出会ってきた。それぞれの人との思い出を巡らすと美咲は熱い気持ちがこみ上げてきた。今こそ支えてくれたみんなに感謝し歌う時だ。
 ふさぎ込んでいた自分は鈴香に励まされ卒業式で歌を歌った。合唱部の仲間たちは全員で美咲を守ってくれた。顧問の田丸と雪乃に連れられ初めて工業高校に行った。ゲリラライブも楽しかったなあ。昨日のことのように記憶が蘇る。

 指揮の安田の腕が上がり演奏が始まる。
 美咲は歌いながら仲間の声を聴いている。どの声も歌う嬉しさに満ち溢れている。

(そう、みんな、嬉しい気持ちを声にして、スタッカート、スタッカート、跳ねろ、跳ねろ、跳ねろ)
 幸せな気持ちになる。

 あっという間に演奏が終わった。技術的に未熟な点はともかく合同で歌うことができる喜びは伝わったろうか。
(この気持ちを伝えることができれば入賞なんてどうでもいい。)
 いつの間にか美咲は自分たちのために協力してくれた大勢の人のことを考えていた。

 結果発表の時、他校の部員たちは手を組んでお祈りをしている。ところがウチの学校はみんな魂を抜かれ呆然としている。誰も心ここに無いのだ。
 入賞した学校が次々に読み上げられると会場のあちこちから歓声が上がった。喜んでいる学校、失意の学校。目指すところが違うので学校により反応は様々だ。金賞の発表の最後に自分たちの合同合唱部が読み上げられる。全員、反応がない。暫くしてやっと元応援団の男子部員が声を上げた。美咲たちパートリーダーや小百合、指揮の安田は実感が湧かない。ソプラノの中学生3人が泣きながら美咲に抱き付き、やっと美咲は入賞したことを実感した。そして全国大会への推薦校の発表の時を迎えた。

 1校目の推薦校に続き2校目が読み上げられる。
「山王下工業高校東亜女学院付属第二中学高等学校合同合唱部」
 ぼんやりと聞いていたので分からなかった。あたりの部員が声をあげるのを感じて美咲は初めて推薦を受けたことが分かった。部員たちが抱き合って喜んでいる。涙を流している。それを見た途端自分も涙が溢れてきた。体が震えて止まらなかった。隣にいた鈴香と小百合の3人で抱き合う。

 発表が終わり会場を出た後のことはほとんど覚えていない。応援してくれた人たちの祝福を受けた。美咲は泣き崩れる鈴香と小百合を支えていた。山下と倉田は、それぞれ別の男子に支えられていた。
「なにごとも、やってみないと分かんないもんだね。」
 人知れず苦労した安田が陽気に美咲に声をかける。
「安田君のおかげだよ。みんな感謝してる。」
 美咲はお礼を言った。

「今日は校長先生のお許しが出たから、特別にSNS使っていいよ。」
 帰りの電車の中で顧問の田丸が言った。泣き疲れて眠ってしまった鈴香と小百合は、美咲の膝の上で寝息をたてている。起こさないよう静かにスマホを取り出すと美咲は母にLINEを打った。
「応援ありがとう。金賞もらった。全国推薦ももらったよ。これから帰ります。」
 送信ボタンを押すと美咲はふたりに覆い被さるように眠りについた。


3.旅立ち
 11月の放課後、春に入部した陽気な中学1年生から、すっかりお姉さんになった高校2年生までの合唱部員達は、部室となっている音楽室に集められている。部員達は、自分の席はあるのに大好きな先輩の膝に座る子、友達の髪をポニーテールにいじりだす子などそれぞれだが、練習に欠かせない肝心の楽譜は持っていない。この日は部長をはじめとした役員の交代式である。

 顧問教師の田丸と雪乃が入室すると、引退を目前にした部長の美咲が号令をかける。
「起立!、礼!」
 教壇に立つ田丸の横で、いつものようにピアノ椅子に座る田中雪乃。
「高2のみなさんは、本当にご苦労さまでした。今年は学内選抜グループ、学外選抜グループ、中学の部それぞれ立派な成績を残すことができました。また工業高校との連携活動を通して沢山の人と貴重な交流を持つことが出来ました。多くの難しい状況を素晴らしい判断とアイデアで乗り越えられたことを誇らしく思います。」
 田丸が話し出す。

 美咲は考えている。予定通り工業高校にはたくさんの合唱部員が入部し、女子校との連携活動を行わなくてもコンテストに参加できる体制が整った。結果はともかく、両校の部員全員がいずれかのコンテストで演奏し、次世代へ繋がる経験を蓄積することができた。コンテストの終了後、OGや高3も今年の活動を総括し労ってくれた。合唱部の連携活動を支えてくれた校長先生までもがコンテストに来場し、成功を喜んでくれた。
 そういえば校舎の垂れ幕を作ってくれたのも校長先生だろうか。いつの間にか校舎には「おめでとう 山王下工業高校東亜女学院付属第2中学高等学校合同合唱部 全国大会出場」の垂れ幕が誇らしげにかかっていた。校長や顧問の両名は学内外の見えない圧力と戦っていたがそんなことを部員は知る由もない。

 ぼんやりと田丸の話を聞いている。たった今、合唱部の活動が終わったという実感が沸かなかった。
 昨年もそうだったが、田丸先生は引退する高校2年生に発言を求めない。誰かに何かを話したい。押し寄せる感情を抑え切れない。そんなに簡単な1年間ではなかった。クラブのことを片時も忘れることはなかった。クラブ活動が学校生活の全てだった。いよいよクラブを引退し受験勉強に入るのだ。今も生々しいクラブ活動の記憶は、しばらくすると懐かしい想い出に変わるのだろう。

「明日から気持ちを入れ替えて頑張ろう。」
 頭の中ではそう思っても、心の片隅に残る「もやっとしたわだかまり」の本質が「寂しさ」と言われるものであることを美咲は分らなかった。

 次期役員の発表が始まる。各学年の代表、副代表が読み上げられる。重苦しい雰囲気の中、誰かが息をのむ気配を感じる。

 やがて顧問の両名が退出し、合唱部の新しい1年が始まった。

エピローグ

 3月上旬の土曜日、工業高校の卒業式が始まった。校門の外では暴走グループが、卒業記念ツーリングということで卒業する生徒の下校を待っている。改造車やバイクは時々マフラーから大きな音を上げる。工業高校の卒業式の風物詩である。
 山下は就職か進学かを最後まで悩み、どうしても女子校との連携活動が忘れられず混声合唱部がある総合大学を受験した。
 工業高校ではほとんど全員が学校斡旋による就職を選び、大学の進学率は毎年1パーセント程度だ。山下は浪人が決定したが、その気持ちは晴れやかだった。
「来年合格できれば美咲たちと同学年でまた合唱できる。1年間の浪人生活なんて何のことはない。」
 土木科の倉田は、もともと親が経営する工務店に就職が決まっていたが、就職してしまうと合唱が出来なくなることを悩んだ。結局、合唱クラブのある警察官になり、地域の安全を見守りながら合唱を続ける道を選んだ。放課後事件(美咲が暴走する千尋を体を張って止めた事件)で美咲を守れなかったことも理由のひとつだった。美咲に触発され最も大きく成長したのは、暴力に対して立ち向かう「勇気」をもらった倉田だったかも知れない。

 卒業式が始まると山下は合唱部顧問の蛭間を探した。高3に進級する新部長の伊藤小百合率いる合唱部が、送辞の時に「時を超えて」を歌唱する筈なのにその姿がない。
「まったくいい加減だからなあ。」
 もらった卒業証書を丸めてポンポンと首をたたいたら、予想以上に音が大きくまわりから冷たい視線を浴びた。

 退屈な来賓の祝辞が終わりかけていよいよ送辞が始まるころ、蛭間は合唱部員を従えて体育館の後ろから入ってきた。部長の小百合が先頭でオタクの姿も見える。最後の今年入った新入生に続いて、デコボコの身長のセーラー服の一団が見えた。一番背が高いのは一番会いたかった土方美咲だった。
「えっ、なに、女子校の子が来てくれるなんて話、聞いてないよ。」
 生徒は面食らった。
「俺たちの卒業式にわざわざ来てくれたんだ。」
 誰かが言った。
 蛭間は伴奏者としてグランドピアノの前に座り、合同合唱団は舞台下に整列した。

「続いて、在校生代表による合唱「時を超えて」です。なお、本日は本年度に合同で活動を行ったお礼ということで、東亜女学院合唱部の方も一緒に歌唱していただけることとなりましたので紹介いたします。東亜女学院大学付属第二中学高等学校合唱部のみなさんです。」
 司会の教頭が紹介し美咲たち部員が深々と頭を下げた。

 指揮の小百合が両手を上げると、部員たちは両足を肩幅まで開き歌唱の姿勢をとった。顔を上げた美咲が、鈴香が、英里華が目を輝かせて笑っている。山下は感激し胸が熱くなった。
「蛭間のヤツ、女子校生の飛び道具使うんかい。」
 誰かが言った。
「だから、ウチが言ったろ、あの子たち、本当にいい子なんだって」
 ヤンキー生徒も驚いている。
 ピアノのイントロのあと混性3部の合唱が始まった。清廉な歌声が体育館内に響く。それまでの嫌な記憶を消し去っていく。
「ヤベ、マジで目から汁出てきた。」
「ウチ、あしたから清く正しくまじめに生きるん。」
 山下も涙が止まらない。土木科の倉田はクラスが違うので見えないが、山下以上に号泣していることだろう。
 いつの間にか、校門外に集結していた暴走の集団が静かになっていた。美咲たち女子校部員が到着したころにはぱったりと爆音が止んでいた。どうやら、美咲を見た千尋やその一団は引き上げたらしい。4輪の免許をとり若葉マークが着いたセダンを見せびらかしたい千尋であったが、美咲から応援のお礼をもらい戦闘意欲を失したとのことだった。

 開校以来の風物詩であった卒業暴走は中止になり、開校以来初めての静かな卒業式は終了した。
 式後、山下らは美咲たち女子校部員に会うとお礼をいった。
「今日は、来てくれて本当にありがとう。まさかと思ったけど忘れられない想い出になったよ。」
「私たちこそ、活動のお礼を今までできなくてごめんなさい。学校のみなさんが応援してくれたことを本当に感謝しているの。」
「僕たちこそ。合唱部を続けることができたんだ。本当にありがとう。」
「ところで、あのー、言いづらいんだけど、美咲ちゃん、僕の彼女になってくれない?」
目を赤く腫らした山下は集団の前で思い余ってプロポーズした。あたりのみんなが驚いている。
「歌を歌っている美咲ちゃんのことが忘れられないんだ。美咲ちゃんのこと本当に好きなんだ。」
「ちょっと部長、あり得ない。ドン引きなんだけど。浪人の癖に。」
 小百合部長が口を挟む。
「やましたぁー、それは困るよ。俺、美咲ちゃんを守るつもりで警察官になったんだけど。」
 涙でぐしゃぐしゃになった倉田が言った。
「ありがとう。とっても嬉しいよ。うーん。でも、残念だけど、わたしは高校3年の受験生なの。倉田君はたくさんの後輩達やいろんな人たちを守ってくれたら考えてみることにするね。山下君は受験生だよね。そんなことしてたら絶対受からないよ。いっとくけどわたしが受験する学校は結構難しいよ。一緒の合唱部に入れたら考えてあげる。」
 同時に2人からプロポーズされた美咲が笑って答えた。

「美咲って八方美人だな。校長や田丸先生のいう『強かでしなやかな人材』なのかもね。」
 女子校顧問の雪乃が言うとあたりの全員が笑った。

Club Line

Club Line

私立女子高校と公立工業高校が合唱を通して交流する物語です。 学園生活の僅かな起伏をテーマにしていますが、ベタな合唱ものではないです。 物語は全てフィクションです。「自分のことだ」なんて悩まないようにして下さいね。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 青年向け
更新日
登録日
2019-08-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 第1章 きっかけ
  3. 第2章 連携の行方
  4. 第3章 新学期
  5. 第4章 コンクールに向けて
  6. 第5章 ハーモニー
  7. エピローグ