コスモス

散歩中にふと見たらあったので。

日に日に移り行く風景の中で変わらないものがあるとして、それが命のしたたかさであったら、なんと嬉しいことだろう。
 毎日歩く道で、ふと見ると、私の左右に花が咲いていた。コスモスだ。
 畑の中にあるコスモスはいい色をしていた。白や桃色の、美しい花を盛大に咲かせている。
 しかし、歩道を挟んで道側にあるコスモスは違った。痩せた茎に僅かな葉しかつけていない。花はと言えは色褪せていて、とてもきれいな色をしているとは思えなかった。しかし、なんとその花の愛おしいことだろう。私はいつの間にかその花に惹かれていた。
 毎日の散歩、その定番の道をゆくと、必ずそのコスモスに出逢う。華やかではないが美しい。周りの草は除草剤をかけられて枯れていた。その中で懸命に生きて花を咲かせている。見れば見るほど愛おしかった。日に日に、その花は弱って行って、ついには抜かれてしまった。しかし、私はその瞬間までその花に話しかけていた。「こんにちは」「今日も元気だね」「最後まで元気でいるんだよ」と。
 花が抜かれてしまったことを知ったときは悲しかった。しかし、その沿道の花がたくさんの人を元気づけていたことを知っていたのだろう。畑の主はその花が枯れるまでずっと咲かせてくれていた。
 植物は、生える所を選ぶことができない。人間が選んでやることはできるが、それは植物自身の意思とは無関係。荒れ地だろうが豊かな湿地だろうが、種が飛べばそこに定着する。
 そこで、生きる力を試されるのだ。
 しかし、植物は人間のようにくじけたりはしない。弱音を吐くこともない。しかし、心はあるのだと、どこかで聞いた。
 農園主だったか、庭の主だったか、それは覚えてはいない。ハーブを育てている人間が言っていた。
 植物も突然切られると痛い。だから声をかけてあげるの。これから切りますよ、と。
 心はあるのだ、と、植物に毎日触れている人間は言っていた。私もそう思っている。だから、子孫を残そうとするのだ。あまねくすべての命に宿るもの、それが愛だとする。それは、生きるものが本来持ちうる生存本能から生まれたものではないかと思っている。子孫を次代に残すために生まれる感情が愛であれは、必ずしも悪いものではない。
 愛があるから、生き物は強くなれるのだ。
 その強さが、身にしみて分かったときに、愛おしさを感じた。おそらく自分の中の何かがそれに共感したのだろう。
 今日も、道を歩く。
 またあのような強さに巡り合いたくて、道端をゆっくりと探りながら。

コスモス

珍しく短いのを書いてみました。

コスモス

散歩中に見た、枯れそうなコスモスをみて、何かを感じたもよう。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-10-21

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