音の深度

音の深度

妻が歯を磨く音は大きかった。ゴシゴシ、ゴシゴシ、歯のエナメル質が剥がれそうな位に。
妻がトイレットペーパーを巻き取る音は大きかった。ガラガラ、ガラガラ、神社の鈴を鳴らしている位に。
妻が鼻をかむ音は大きかった。ブーブー、ブーブー、子豚の鳴き声の様に。

今朝も洗面台の僕の横で妻はゴシゴシ歯を磨いている。
「そんなに強く磨いたらエナメル質が剥がれるよ」
そう言う僕に妻はそう?という表情で答えた。
キッチンで朝ご飯の用意をする妻が出す全ての音も大きかった。冷蔵庫を閉める音も洗い物をする音も。
朝食を済ませて出勤する僕を妻が玄関まで見送ってくれて、行ってらっしゃい気を付けてねの表情をしながら手を振る。行ってきますと歩き出す僕の後ろで妻が玄関のドアをバタンと閉める大きな音が聞こえた。

僕の妻は先天性の聴覚障害のある聾唖者だ。だから周りの音も自分自身の出している音も聞こえないし、音声言語を取得する前に失聴しているので手話を第一言語としている。
音が聞こえないとはどういう感覚なのだろう?僕が当たり前の様に耳で聞いている色々な音、もし今僕にその音が全部聞こえなくなったら…静寂の世界できっと僕は、独りぼっちになってしまった様な絶望感に打ちひしがれる事だろう。

付き合い始めた頃に妻に聞いた事があった。
「音が聞こえないと寂しいんだろうね」
産まれた時から聞こえていなかったから聞こえない事が当たり前だし、だから寂しいと思わない。逆に嫌な音を聞かなくて済むから案外便利だよ、とその時はまだ手話を習得していなかった僕に妻は筆談で答えた。それに、と妻の筆談は続いた。
音は聞こえないけれど、心臓や手で音を感じる事が出来るの。大きな音だと心臓ではっきりと音を感じる事が出来るのよ。

大きな音を聞くと、びくっとしたりドキッとして音の振動が心臓に伝わる様な感覚は確かにある。だから妻が出す音は無意識に大きいのかもしれない。心臓で音を感じる為に。
「僕が大きな音を出したら、君に伝わるかな」
そう言った僕の右手を妻は自分の左胸に押し当てた。妻の心臓がトクトクと動いているのを感じて、僕の心臓はドキドキとした。

あなたの音は優しい、そう紙に書いた妻は僕の左胸に自分の右手を押し当てた。僕のドキドキと激しく脈打つ心臓の音を、妻はあなたの気持ちを手で感じる、と紙に書いて笑った。

懐かしい事を思い出している仕事中の僕に妻からメールが届いていた。

"実家のお母さんが風邪で寝込んでいるらしいから、今日は実家に帰ってそのまま泊まるね。夜ごはんは焼き魚と肉じゃがを作っておいたから温めて食べて。明日帰れるかまた連絡するね"

仕事を終えて帰ると、当たり前だけれど妻のいない家はしんと静まり返っていた。
風呂に入って温めた焼き魚と肉じゃがを食べていると、聞こえてくるのはテレビのバラエティー番組の楽しそうな賑やかな音だけだった。今日は歯のエナメル質が剥がれそうな音も、神社の鈴を鳴らしている音も、子豚の鳴き声も聞こえて来ない。僕は早目にベッドに潜り込んだ。
テレビを消すと、聞こえてくるのは時計がカチカチと時間を刻む音だけで今夜は未知の怪獣の鳴き声も聞こえてこない。

僕の妻は鼾が大きかった。ガーゴー、ガーゴー、それはまるで未知の怪獣の鳴き声の様な…結婚したばかりの頃はびっくりして、妻にその事を話したら妻はとても恥ずかしがっていて、未知の怪獣みたいだと言った僕をひどい、と怒った。でも彼女のその鼾を聞くと僕は毎夜何故か良く眠れた。彼女の出す音の全てが僕を安心させてくれている。

"未知の怪獣さん、お母さんの具合は大丈夫?明日はこっちに帰ってこれそう?"
僕は妻にメールを送った。妻はまた怒るだろうか。

音の深度

音の深度

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-30

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