ショーウィンドのサイレントマジョリティ
巨大掲示板やインターネット、テレビジョンで人気を博したコメディアンに、様々な疑惑が生まれた。不正な資金繰り、異性との怪しいうわさ、ぽわーハラスメント。
「あのコメディアンは、もういくつもの噂があるし、賞味期限切れだよね」
インターネットが人格がくりかえされることのしつこさ、なんとなくで理解している出来事への疑問、それでも抽象的な事柄は、中途半端な関心をうまく引き寄せてしまう、そして関心に飽きたときに、人々の中には、スキャンダルでそうした人気ものを叩く傾向がある、正義がないのに、そこに正義が生まれてしまった、いつものことだ。関心などあっただろうか、初めから関心など、興味とは一時の一過性のモノで、その一時のモノを食いつぶしてしまえば、正義は形を変え、それ以前のふるまいが本当に正義だったかという議論さえも置き去りにしてしまう。世界はまた、自分以外のモノの中に問題を発見して、発見したふりをして、次の標的を探してこの世界の隅から隅までうろつきまわる。それを個性というのだろうか?それは多数が求めた没個性にすぎないのに。
全ての人間が小さくとも大きくとも、何かしらの流行をただなぞるように消化して、消化する事にもあきるほどにそれを多用する。そこで自分がいなくなることことが、誰もが認める自分を作る唯一の自分とでもいうように、こうして町は、画一的なび意識のマネキンにおおわれ、機械化された体達は、もっとも美しいものや最も優れたものに飽き飽きとして、平均的なその体を駆り立てる偽の体と偽の信念で鎧をつくった。まるでビルが窓ガラスというあけすけな本性をコンクリートの鎧で覆い隠すように、共通の事物と共通の関心だけが、日常を消費する巨大な化け物の原動力になる。
アリはそんな街の地べたを這いずり回り、その人間たちや、鋼鉄製の人間たちの歩み、そして生活したリズムにあわせてその老廃物を窃盗した。もはやそこに自然の行き場などないのに、アリはまるでその人間たちの人間性を取り戻すための試みを束ねているかのように働いた。そのモデルは太古から引き継がれてきた、種を守り温存するためだけに動く。人間はもう、そのプライドはどこへ行くのだろう、個性を失って、批判されないための個性を演じ、その個性を守るために人を批判する事で自分の立場を失って孤立と孤独の人生を歩み、もはや過去さえも握りつぶすかのように何かを批判する事だけに熱心だ。
ただしい形の対話がないまま、誰かが誰かの言葉を拾って、違うだれかがそれを強引に自分の解釈に変えて大きな言葉で別意見を封じてしまう。そして強引にめと耳と鼻をふさいでしまう。もうだれも、誰かを、個性を、その本性を信じなくなった。だから個性が生じた個体も、その器械組織に置き換えられた人工人体も、その流行モデルも、やがて彼のコメディアンの、あのしつこい饒舌さを失ってやがて色を薄めて、それでもあの強引な人を丸め込む性質をどこかにマネして蓄えたまま、何事もなかったかのように過去に蓋をして、街を成り立たせるのだ。もうどうしようもなく、そこに束の人間としての個性は生じている、もう、隠せないのに、情報は都市の必要最低限な生活の一部、巨大な都市といいう生き物の中で、仕方なく呼吸と血液の循環を繰り返すための血管となって、彼等の失われた個性と過去をめぐり照らしている。その循環が意味を持つのは、彼等が彼等の過去にたいして、コメディアンに下したような断罪をしてしまえばいい。
けれど彼等は過去を覆い隠せるし、匿名はもはや、それを許しはしないだろう。仕方なく集団は個性をうしなって、仕方なく集団は、孤立の道を歩むのでしかない。
ショーウィンドのサイレントマジョリティ