ベイビーズブレスの昼
そっと、寝台の上で上半身を起こす。そんな、他の人々にとっては些細な動作である行為も、この身体は手を借りなければできはしない。
幸い公女であるフュラシアには、「手」はいつも身近にあった。常にそばにいる私兵のチュニカが、何でも先を読んで助けてくれる。彼女はフュラシアの意思を汲み、不便のないよう図ることに誰より長けていた。
「姫さま。デュロンさん来ましたよ」
背中を支えてくれたチュニカが、扉を開けて言った。流れこむ空気の匂いに葉巻の残り香を感じ、フュラシアは扉に近い側の頬が上気するのを抑えられなくなる。
「起きてたか? 手貸せ」
入室して椅子へかけた侍医デュロンにたやすく右腕を取られる。か細い手首へ長い指が沿った。脈を診る彼の、暗い金髪に翳る横顔を盗み見ると、毎朝のことであるのに鼓動がみるみる暴れだす。
「今日も。脈速いな」
何食わぬ顔で覗きこんでくる侍医に、何も申し開きできず戸惑う。頬は熱を帯びるばかりで、フュラシアはこのひとはどこまで知っているんだろう、と、目の前で揺れる髪からふっと瞳をそらすのだった。
朝の検診と食事が済んでしまえば、部屋へも心にも空虚な静けさがやってくる。
侍医のデュロンはもともと、診察が終わればすぐに去っていく人間だ。チュニカはフュラシアの私兵でいつもそばにいるとはいえ、常時つきっきりでいてくれるわけではない。彼女の本分はれっきとした騎士で、多少は騎士団の庶務もこなさねばならなかった。
「姫さま、少しだけおそばを離れますが、何かあればすぐに呼んでくださいね」
ここを出る際、チュニカは必ずそう言っていく。けれどいくらなんでも、寂しいとか心細いとかのわがままで再々彼女を呼び戻すことはできない。自分がチュニカの行動を制限し、忙しくさせてしまっているという思念は、フュラシアの中で強固に根を張っていた。
チュニカや侍医デュロンの他に、この部屋を訪うことが許されているものは幾人かいた。だがその誰もが、日中はそれぞれの職務で慌ただしい。だから結局は毎日、昼食までの時間はフュラシアにとって、遅々と過る無聊だった。
「……う……」
寝台の内で身を捩り、左手で額を押さえる。痛み出したこめかみはずきずきと疼き、手はその小さな動作だけで重いだるさを訴えはじめる。繊細で病弱な身体は万事この調子で、フュラシアの時間は実際には、退屈を退屈と感じられるゆとりも見いだせない日がほとんどなのだった。
寝具の中で痛みに身を任せ、引きつれる息をただ懸命に吐いて吸う。苦痛には波があり、そうしているとやがて波が遠のくか、しのいでいればじきに、チュニカが侍医を昼の診察へ呼んできてくれる。そうでなくても、耐えているうちに眠ってしまえることもある。
フュラシアは眠ることが、夢を見られることが好きだった。夢は自由だ。夢の中では痛くもつらくもないし、どんなことだってできる。チュニカたちのように剣を振ることも、馬の高い背へ飛び乗ることも、走るのも回るのも転ぶことでさえ自在に叶う。現実のこの身体ではどれひとつとして為し得なくても、夢の世界であればすべて容易に遂げられる。
「……姫さま、姫さま」
ややあって、フュラシアは自身を呼ぶ声に瞼を開けた。
夢を恋ううちに寝入ってしまったのだろう、霞んだ視界に映るチュニカがぼやけて見える。
「もうすぐお昼です。お食事の前に、デュロンさんが来ますから。どこか、痛むところはありませんか?」
「……あ……」
答えようと唇を開けば、わずかでも眠ったためか頭痛は消えていた。けれど、心配そうにつぶらな目を瞬いているチュニカの顔が、至近距離で揺らいだ。
チュニカはいつも元気そうで、健康で、親切で明るい。背は小柄で、手だってフュラシアとそう変わらない小ささだ。でも軍属らしく手首は骨太だし、腕や脚はそれなりに逞しい。
うらやましい、と、思う。
剣を振れることが、馬に飛び乗れることがうらやましいのではない。自由に城の中や外を歩けたり、走りたい時に走ったり、日夜忙しく立ち働いたりできることが、そうしてもいいことがフュラシアはうらやましかった。
この身体じゃ、と息をつく。手首も腕も脚も折れそうに細く、屋外の陽射しを知らない肌は蒼いほど白い。
「……姫さま?」
もし、チュニカの半分でも健康だったならどんなにいいだろう、とフュラシアは思う。チュニカと同じくらいになんて望まない、彼女のせめて半分でも、この身体が健やかだったなら。もしそうだったら、毎日こんな部屋に独りで寝ていなくていいし、諦めてきたことへも挑戦できるし、もっと公女として国のために役立ってみせることだってできるのに。「もし」なんて、どれだけ思い描いてもほんとうにはならないとわかっていても、フュラシアはその想像を止められなかった。
だが、
「入るぞ」
ノックもなしに部屋へ入ってくる侍医の姿を目にした途端、際限なく膨れ上がった詮ない空想は嘘のようにかき消えた。
「具合どうだ。ん、頭痛かったか?」
葉巻の残り香を纏って目線を低めるデュロンは、こちらが何も言葉にせずともフュラシアの容態を、いつもたやすく言い当てる。その声に、ためらいもなく額へ伸びてくるその指に、どきどきと速まる鼓動をフュラシアは隠しきれなかった。
(そうだわ)
肌に熱が灯る感覚の隅で思う。
もし、この身体が健康だったなら。
そうなったら。このひとはきっと、わたしだけの侍医ではいてくれなくなる。
こんなふうに、毎日、朝昼晩と、わたしの部屋へ来て、わたしの様子を言い当ててくれたりしなくなる。
「脈とるぞ。手貸せ」
こうやって、わたしの手首に触れてくれることも、なくなってしまう。
そこまで考えて、フュラシアは思わずうつむいた。さっきはあんなにも、チュニカの半分でもいいから健康になりたいとうらやんだのに。元気になりたい他のどんな願いより、自分は彼をひとり占めすることに価値を見いだしているのかと思えば、恥ずかしさに胸が臆した。
健康になりたい理由には、公女として役に立ちたいという、真摯な意志も含まれていたのは本当だった。だというのに、こんな身勝手で一方的な想いひとつで、望みが覆ってしまうだなんて。
「よし、また頭痛くなったら呼べよ。薬持ってくるから」
デュロンが手を離しざま、その髪の先が頬に滑ってフュラシアは息をのむ。ばくばく乱れる拍動に、耳まで赤くなってしまいそうでどぎまぎした。
元気になりたかった。健康になってみたかった。けれど、それでもし、彼を失ってしまうなら。なら、わたしは、このままでいい。
上気する頬を案じてか、傍らからチュニカの真面目な瞳が覗きこんでくる。その陰から出ていくデュロンを窺いながら、フュラシアは自己の胸中を、誰にともなく密かに詫びた。
ベイビーズブレスの昼