大地は雨をうけとめる――続・天空の庭はいつも晴れている

宮崎純嘉

大地は雨をうけとめる――続・天空の庭はいつも晴れている
  1. 第1章 跡継ぎ娘の憂鬱
  2. ピスカージェン市街地図
  3. 第2章 小侍従の気苦労
  4. 第3章 パルシェムの幻視
  5. 第4章 逃亡計画
  6. 第5章 幽霊屋敷
  7. 第6章 シリンデの領域
  8. 第7章 待つ者たち
  9. 第8章 魂の抜け殻
  10. 第9章 アニサードの横顔
  11. 第10章 種
  12. 第11章 決別、もしくは道を定めること
  13. 第12章 暗赤色の闇
  14. 第13章 れんげ草の家
  15. 第14章 曇り空の向こう
  16. 第15章 紅貝
  17. あとがき ――生きること、そのものが大冒険――

第1章 跡継ぎ娘の憂鬱

   



 御定処(ごじょうどころ)は静かだった。四月の乾いた暖かさもこの室内には届かず、ひんやりとした空気が軽い緊張とともに満ちている。石壁が呼吸している音も聞こえそうだ。外では庭師のバシル親方の声がする。剪定(せんてい)ばさみの手入れがなっていない、と誰かを怒鳴っている。
(アニスは何をしているんだろう……)
 瞑想の(ぎょう)のためにこの御定処に入って半時は経っている。この問いは七度目だった。ルシャデールはあぐらをくずし、両足を伸ばす。腕を頭の後ろで組み、大柱にどっかりともたれた。
(はあ……)
 深々と息をついた。
 最近アニスのことばかり考えている。


 ルシャデールがアビュー家の養女となって、四年が過ぎていた。
 アビュー家は代々神和師(かんなぎし)を務める家だった。神和師とはフェルガナ王家専属の呪術師であり、同時に神子(みこ)もしくは巫覡(ふげき)というべきものだ。もともとは月の女神シリンデ信仰にあった巫女と北方の呪術師が混交して一つになり、国の繁栄とその民の守護を祈祷する役割を担っていた。
王家に仕える呪術師として、大貴族並の厚遇を得ている。
 所有する荘園からの収入に加え、配下の寺院からの奉納金もあり、内情は裕福だ。怪しげながらも無視できぬ異能の持ち主であり、王家をはじめとするやんごとないかたがたの私的な相談役となることしばしば。
 ただ、心身ともに清浄であるべき神職者という立場から、職を辞するまで結婚は禁じられていた。そのため、九つの神和家では当主が三十前後になるとユフェレンの子供を養子にとり、跡継ぎとするのが習わしだ。
 ルシャデールは『ユフェレン』、すなわち「ユフェリに触れる者」だった。
死霊や精霊、神々が属する世界は『ユフェリ』と呼ばれる。
 幽霊が()える者はしばしばいるが、『ユフェリ』に満ちている純粋な『気』を取り出して利用したり、あるいは『ユフェリ』自体に入って行ける者はそう多くない。
 幼い頃から、ルシャデールは幽霊や精霊の類を当たり前に視ていた。
 その場にない景色が現実の風景に重なって現れたり、何か言葉が降ってくるようにひらめくこともある。それらは、時をへて実際に起きることもある。そうでなければ遠い過去か別の世界の幻影のようでもあった。
 六歳で孤児になった時、当初は文字通り路頭に迷っていた彼女だが、やがて辻占いをして日々の糧を得るようになった。
 アビュー家の養女に迎えられたのは、それから四年後のことだった。


 ふう。
 ため息が出た。
 昼過ぎ、アニスは養父(ちち)の侍従デナンと外出した。どこに行ったのか、彼女は聞いていない。ただ、デナンが『アニサードをお借りします』とだけ言い置いて行った。
 アビュー家に来た当初、彼は屋敷の僕童だった。心暖かく穏和な少年だったが、家族を豪雨災害で亡くし、深い心の傷を抱えていた。
 死んだ家族にもう一度会いたい。
 そう願う彼を、ルシャデールは精霊や神々の住まう世界『ユフェリ』へ連れて行った。そこには死者の魂が憩う庭があった。
 それから少し後のことだ。アニスがルシャデールの侍従に決まったのは。
(あの頃のアニスはかわいかったな)
 ふっくらした顔に笑みが浮かぶとお日様の下のたんぽぽみたいだった。
 すれっからしのルシャデールから見れば、すこし単純で、こいつバカだ、と思うこともあったくらいだ。
 それが最近では、妙に生意気になってきた。背も高くなって彼女を見下ろすようになり、態度もやや素っ気ない。


 渡り廊下に足音がする。それに固めの衣擦れの音。アニスだ。ルシャデールはあわてて瞑想の姿勢を取る。
「御寮様」扉の向こうから声がかかった。「アニサードです。ただ今戻りました」
「うん」
 失礼いたします、と彼が引き戸を開けた。銀鼠の長衣に紺の外套を羽織り、片膝を立てて侍している。
「湯浴みの用意ができていると、ソニヤが申しておりました」
「わかった」
 アニサードは彼女のサンダルをそろえて扉の脇に身を移した。侍従は主人の一挙手一投足に注意を払う。もし、主人が何かのはずみで長衣の(すそ)でも踏み転びそうになった時、すばやく手を貸すために。あるいは、ちょとしたしぐさから主人のささいな異変を見逃さぬために。
 その視線に、きゅっと胸が緊張する。それを振り払うかのように、ドスドスと音を立てて歩き出す。
 アニスの横を通り過ぎた時、針葉樹の香りが匂いたった。彼が服につけている香油だ。
 渡り廊下に出ると、さあっと風が彼女の身を吹き撫でていく。満開のあんずの花が、薄桃色の花びらを散らした。
 一瞬、そのさまにルシャデールは心を奪われた。舞う無数のはなびらに、移ろいゆくさまざまなものが視えたような気がした。
 目の前を吹きすぎる、その一枚を捉えようとしたが、手の中は空だった。
 アニサードが同じことをしてみせる。柔らかな笑みとともに、ルシャデールに向けて差し出された手のひらには、はなびらが二枚。薬指で押さえられていた。
 それをつまみとろうとしたが、その前に再びはなびらは風に吹かれていった。
『十四、十五はあんずの花よ、早く散らすにゃ惜しすぎる』
 そんな()れ歌が頭をよぎる。
「前は(どん)くさかったもんだけど……少しはましになったか」
 辛口の主人にアニサードは苦笑するが、その瞳は変わらず明るい。
 彼は今、武術指南院(アデール)に通っている。侍従は神和師の主人を守る護衛でもある以上、剣ぐらいは使えた方がいいということだろう。軍務につくわけではないので、剣、弓矢、乗馬の三種だけだが、動きが機敏になり、顔つきに少し精悍さが出てきた。
(でも、鈍くさい頃の方が好きだった)
 ルシャデールは胸のうちでつぶやいた。
 渡り廊下は突き当りで分かれる。右に行けばカシルク寺院。左に行けば屋敷の本棟だ。
 浴室は二階の奥にあった。
 乾燥しがちのフェルガナで、湯浴みは一般的ではない。貴族や商家など、ある程度富裕な家なら浴室はあるが、たいていは蒸気風呂である。庶民が通う公衆浴場(マハムル)もそうだ。
 湯(または水)をはった浴槽で入浴するのは、神和家(かんなぎけ)の者と月の女神シリンデを祀る斎宮院の巫女ぐらいのものだ。
 アビュー家に来る前、母と暮らしていた頃は二、三週間に一度くらい、ぬらした布で体を拭いたりしていただろうか。しかし、母に世話をしてもらった記憶はほとんどなかった。浮浪児となってからはそれもない。春から夏に川で水浴びをした程度だ。
アビュー家に来て、風呂に入らされるようになり、最初の頃はかなり抵抗したものだ。熱い湯に慣れていなかったし、当時の世話係とそりが合わなかったこともあったのだろう。今ではすっかり湯船につかるのが好きになっている。
 むしろ、祭事の前の水垢離の方が嫌でたまらない。冬でも冷水だからだ。もっとも、一番寒い時期には、アニサードが気を利かせてお湯を足してくれる。
「はああー」
 浴槽のふちに頭をもたれさせ、天井や壁のタイル模様を眺める。フェルガナ南東部の町オスジニで焼かれたタイルだという。ユーモラスな顔つきの魚が浴室を取り囲んで泳いでいる。ラピスラズリに似た青色が美しい。
「お疲れのようですね」
 エクネは手際よく脱いだ服をたたんでいく。
 体は疲れていない。疲れたのは精神(こころ)だったが、ルシャデールは「うん、まあ」と答えるだけにとどめる。
 エクネはルシャデールづきの侍女ソニヤの従兄の娘だった。昨年の夏から侍女として屋敷に来ている。結婚を三月後に控えて許嫁が急な病で亡くなり、すっかりふさぎ込んでいたという。
 おりしもトリスタンがもう一人、ルシャデールに侍女をつけようと考えていた時だった。いくら侍従でも、男のアニサードでは理解できないことだってある。彼女と同年代か、少し年上ぐらいの若い女性をそばに置いてやった方が、娘同士で話もしやすいだろうというはからいだった。
 エクネの方は大きなお屋敷で御寮様のお相手をするということに、気おくれしたようだが、今ではすっかりアビュー家にも慣れて、よく働いている。
 ルシャデールより四つ年上だが、柔らかい面差しや明るい瞳はいかにも娘らしい。
浴槽につかりながら、ルシャデールは自分の手をじっと見る。肉があまりついておらず、筋張っている。女の手じゃないな、と思う。骨っぽい体は棒のようだ。
「お湯加減はいかがですか?」
「ちょうどいい」
 ホホバと月桂樹の精油を入れた湯が芳しい。清々しくて気分がさっぱりとする。
 風呂から上がって、ぬれた髪を拭いてもらう。鏡の中の自分とエクネを見比べてしまう。金色のエクネの髪は豊かに波打つ。同じ色合いでも、ルシャデールの髪は艶がなく、くすんでいた。フェルガナでは珍しいくらいの白い肌やピンクの唇、ルシャデールにはないものばかりだ。
「きれいだね、エクネは」
 そんなことありませんと、否定しつつも、エクネはうっすらと頬を染める。
「御寮様だって、これからおきれいになられます」
 今はきれいではない、ということか。まあ、それはわかっている。
 でも、きれいになったからって、どうだというのか? 神和家の跡取りが、きれいになる必要はない。
 エクネも最初に執事か誰かに注意されているはずだ。御寮様の前で年頃の娘を連想させる言葉は禁物だと。おしゃれ、口紅、眉墨、恋……花嫁。
 黙り込んだルシャデールに、彼女も気がつく。 申し訳ありません、とエクネが小さな声で言う。
「気をつかわなくていいよ」ルシャデールは笑ってみせる。「他の女の子がうらやましいとは思わないし」
 半分嘘で半分は本当。
 フェルガナの娘たちは、それほど自由ではない。家庭で力を握っているのはたいてい父親だ。娘たちの素行は父親と、それに従う母親の厳しい管理のもとにある。
 身内以外の男と二人で出歩くなど、もってのほか。父親の許しが必要だし、男と会う時兄弟や乳母が必ずついて来る。結婚も半数以上は父親の決めた相手だ。
 エクネの結婚も父親が決めた。二度ほど会ったが、特に感慨もなかったらしい。それより婚礼の衣装や嫁入りの道具など、準備がされていくのが嬉しかったという。
 ソニヤの話では、婚約者が亡くなった後、あんな娘と婚約したから息子は死んだ、とんだ疫病神だ、などと、相手方の母親が言いふらしていたらしい。
『大事な息子さんが亡くなって、向こうのお母様もショックだったんでしょうけどね。それでも、言っていいことと悪いことがありますよ』
 珍しくソニヤが怒っていたのを、ルシャデールは覚えている。
 エクネの父は、つとめに出すなど外聞が悪い、悪い虫がついたらどうするんだ、嫁のもらい手がなくなる、と反対したが、ソニヤが押し切ったらしい。
(器量がいいし、嫁ぎ遅れるなんてことないだろうに、エクネなら)
 ふと、オリンジェとかいう娘のことを思い出す。クズクシュ地区の貸し物屋の娘だ。焦げ茶色の髪をして、黒いぱっちりとした大きな瞳と、少し気の強そうな唇が魅力的な少女だった。エクネとは違う雰囲気だが、彼女も嫁入り先には困らないだろう。
 二ヶ月前からアニスとつきあっているという。
 神和師の侍従と言えば、宮廷にも出入りし、高貴な方々とも知り合いだ。俸給も高い。それでいて出自は一般庶民が多いため、貴族ほど気位が高くはない。町の娘たちにとっては、手の届きそうな玉の輿だ。
 容姿は十人並みながら、アニスは穏やかで優しい性質の持ち主だ。老若男女を問わずだれにでも親切だから好かれない方がおかしい。
 街を歩いている時などに、付け文されることもある。
 二、三人の女の子がもじもじと、あとずさりするように近寄ってくる。彼女らはルシャデールを無視して、供をしている彼の方に小さく折りたたんだ紙を手渡してくる。
 これ、あの子から。
 指差した方には、家の陰に隠れて、女の子がこちらの様子をうかがっている。
 最初の頃は、アニスも少しうれしそうだった。だが、そのうち、しだいにいい顔をしなくなり、ここ半年ぐらいは、はっきりと嫌な顔をするようになっていた。いくらか自分に気をつかっているのかもしれなかった。遠慮しなくていいと思いつつ、なんとなく安心していた。
 髪を乾かし終わって、エクネが外衣を着せかけてくれる。衣服は下着から上着まで上質の絹物だ。金糸、銀糸で繊細な模様を刺繍をした長衣(セニード)だが、男の正装とほとんど変わりない。やせて、顔も体もふっくらとした柔らかさを感じさせないルシャデールが着ると、少年のように見えてしまう。おまけに声も低めだ。男に間違えられることもある。
 アビュー家に来た頃は、神和師になることがどういうことか、あまりよくわかっていなかった。
 同年代の女の子が着飾り、リボンで飾られた帽子をかぶって、はにかみがちに、あるいは目をきらきらさせて、男の子を見つめているのを目にすると、いつも複雑な気持ちになる。彼女たちが結婚し、子供を産み、育て、年取った時に子供や孫に囲まれた時も、ルシャデールはたぶん一人だ。
 それでも、アニスがそばにいてくれる、そう思っていたのはいつまでだったか。
 オリンジェはかわいい子だと、ルシャデールは思う。その辺の女の子の中でも、いい方だ。多少気が強いかもしれないが、優しい子だろう。
 アニスだっていずれは嫁をもらうだろう。早くに家族を失った彼は、家庭に対する憧れがあるはずだ。それなら、優しい子の方がいい。そう思いつつも、ルシャデールの気持ちはすぐれない。
 部屋に戻った彼女に、従僕が夕食を告げた。
(ああいうかわいい子なら、嫁入り先だって不自由しないだろうに、なんでアニスなんだ)
 ひりつく思いが胸を占める。

 食事は以前と変わらず養父の部屋でとっていた。
 フェルガナでは食事用の部屋を作らない。普通は居間にきれいな布を敷いて、その上に料理の皿を置くが、裕福な家なら一人用の小卓をしつらえる。
(ああ、またトマトづくしか)
 ルシャデールは小卓をざっと見て、がっかりする。
 フェルガナ料理はトマトやピーマン、ナスが多い。乾燥しがちな土地でも作れる作物だからだろう。
 好き嫌いはないし、お腹が一杯になれば満足なのだが、トマトの入った煮物はどろどろして、こぼしやすい。それをトルハナという薄焼きのパンに包んで食べるのが、ルシャデールは下手だった。
「少しは気分が落ち着いたかい?」
 料理と格闘していると、養父トリスタンが声をかけてきた。
 一瞬、何のことだかわからなかった。が、すぐに思い出した。瞑想の行をすることになったきっかけを。
 治癒術の練習で失敗ばかりしていたのだ。
 ナイフで浅い傷を作り、手をかざして元通りに治す。普通の人間にはとうてい無理なわざだが、ルシャデールはわりと用意にしてのける。そう、アニスが練習台でさえなければ。
 彼は血を見るのが苦手だった。
 アビュー家の施療所は、時に血まみれのケガ人が担ぎ込まれてくることがあるのだが、彼はそれを目にして失神したことが何度かあった。
 さすがに最近は慣れてきたようだが、治癒術の練習台になるのは気がすすまないらしい。
 アニスの緊張はルシャデールにも伝わる。
 失敗してはいけない。そう思ってしまうことが逆に失敗を呼ぶ。
 昨日は血を止めるどころか、吹き出させてしまった。
 恐怖に固まり呆然としているアニスを前に、王宮の庭園の噴水みたいだと、ルシャデールは妙に冷静に見ていた。たまたま近くを通りかかったエクネの悲鳴で我にかえり、すぐさまトリスタンを呼びに行き、適切な処置をしてもらい事なきを得たが。
 その後で、しばらくの間、瞑想の行を毎日行うようルシャデールは言いつけられたのだった。
「え、はい。ああ、いいえ」
 養父の問いにルシャデールはあいまいに答えた。
「それは困ったねえ」さほど困った口調でもなくトリスタンは鷹揚に微笑う。「雑念ばかりかい?」
 彼は癒し手として一流だが、霊感はないに等しい。そのくせ妙なことに勘がいい。雑念の中身に気がついているのかもしれない。考えると身をよじりたくなる。
「まあ、君の年頃で静かに考えを巡らすのは難しいかもしれないな」
 そう言って肉詰めのナスを口にひらりと放り込んだ。
 生まれながらの貴族のように、彼の所作は優雅だ。スプーンを使うにしても、トルハナで包んで食べるにしても、衣服を汚すことなどない。神和師の長衣は袖先がゆったりと広がっているため、料理を取る時に汚しやすいのだ。
「あなたも雑念があったの?」
「もちろん」
「どんな?」
「秘密」片眉をひょいと上げて、彼は微笑む。「君の雑念を教えてくれるなら話してもいいよ」
 三十過ぎても、まるで少年のようにいたずらな輝きをまとう養父に、ルシャデールは軽く息をついて目をそらした。
 アビュー家に来た当初は、トリスタンにしばしば嫌味や皮肉を言っていたが、最近はそんな余裕はない。そばに控える給仕も侍従二人(もちろんイェニソール・デナンとアニサードのことだ)も、父娘の会話を聞いているが、眉ひとつ動かさない。
 誰か何とか言ってくれればいいのに。
そう思いつつ、トルハナにオクラとトマトの煮物を包む。ルシャデールは食べるのが下手だ。食事をして袖を汚すのはよくあるし、落とすことも多い。小さい子供みたいに服を汚すのが、恥ずかしかった。
 オクラがぼとっと服に落ちた。うっ、と息を飲む。膝の上のナプキンにではなく、なぜか外衣の裾についている。 
 彼女はナプキンでオクラをそっと取り除いた。以前こすって取ろうとしたら、『染みになります』とアニスに言われた。柔らかく注意されたのが、よけいに恥ずかしかった。
 ルシャデールは食べかけのトルハナを呑み込んでしまうと、ごちそうさま、と立ち上がった。
「もう、終わりかい? ほとんど食べていないじゃないか」トリスタンが言った。
「食欲がない」
「そりゃいけないね」
 返事をする気もなく、ルシャデールは汚れた外衣を脱いでアニスに放った。外衣はぶわっと広がって彼の頭と上半身にかぶさった。
(ああ、もう嫌だ)
 ルシャデールはトリスタンの部屋を出て行った。
 トリスタンは給仕係にルシャデールの食事を部屋へ運んでやるよう指示した。それから彼女の侍従の方を向き、
「情緒不安定が続いているようだね」と意味ありげに笑う。
「はい」アニサードは困ったように答えた。
「小食は以前からだが、最近は傷の手当もうまくいかないようだ」
「何かご心痛でもあるのではないかとお聞きしても、何でもないと仰られるばかりです」
「二ヶ月ぐらい前から……かな? 何か心あたりは?」
 アニサードは首を振る。
「いいえ、何も。申し訳ございません」
 給仕係が彼女の食事を運んで行くのと一緒に、彼はルシャデールの外衣を持って辞した。
 二人がいなくなってから、トリスタンは声を上げて笑いだす。
「ははは、面白いね、イェニソール。アニサードは全く気づいていないのか?」
「そのようでございます」
 デナンは侍従らしく表情を変えずに答えた。
「初々しいな。十四、五の頃はあんなものだったかな?」
「さあ、どうでしょうか。御前様がそのご年齢の頃、私はお仕えしておりませんでした。しかし、多少は聞き及んでおります。十二歳の時は牛飼いの娘、十三の時に貝売りの娘にご執心であられたとか。十五歳の時には、粉屋の娘と駆け落ちの約束をされて、三日間、屋敷にお戻りにならなかったと」
 粉屋の娘は相手が神和師の跡継ぎと知り、怖れをなして、待ち合わせの場所に来なかったのだった。半日待って、トリスタンは裏切られたことを知った。悲しさと恋しさでピスカージェンの街をさまよい歩き、やがて屋敷の者に見つかり連れ戻されたのだった。
 デナンが先代当主の命を受けて、トリスタンの護衛についたのはそれからまもなくのことだった。護衛というより監視と言った方が適当かもしれない。
 その二年後、彼の侍従だった青年が亡くなり、デナンが侍従となった。粉屋の娘が嫁に行ったと聞いたのはその頃だったろう。今ではあの痛みもいい思い出に変わっている。
「いいな、若い時は」夢見るようにトリスタンはつぶやく。「しかし、アニサードはつきあっている娘がいるんだろう?」
「はい」
「結婚するつもりなのか?」
「さあ、どうでしょう」
 デナンは澄ました顔で答えた。
「父親の許しを得て付き合うとなったら、普通は結婚が前提だろう?」
「あまり、深く考えずに返事をしてしまったようです」
「まあ、いずれは彼も嫁をもらうこともあるだろうが……」
 トリスタンの顔がわずかに陰る。
 常日頃、一緒に行動する侍従が家庭を持ったら、ルシャデールの孤独が際立ってしまう。だからといって、アニサードが好きな娘を妻にしたいと望むのを禁じるのは酷だ。
「釘を刺しておきました」
「釘を刺した?」
「御寮様以上に大切な者などありえぬと。もし、御寮様のことが第二、第三となるようであれば、即刻アビュー家から出ていけと、申しておきました」
 それはまた、きついことを、と思ったが、トリスタンは口には出さなかった。
 アニサードにはルシャデールのそばにいてやってほしいと思っている。気が強く憎まれ口の多い娘だが、四年間、父娘として暮らしていれば情がわく。神和師の跡継ぎに選んだことで、彼女が寂しい思いをしたり、不幸せになるのは望んでなかった。不幸になるくらいなら、いっそのことアビュー家など潰してしまってもいい、とさえ考えていた。
 だが、その一方で癒し手としての自分に誇りを持っている。それをルシャデールが理解してくることを願いつつ、彼は食事を終えた。


 一方、その跡取り娘は自室で侍従に監視されながら、再び食事をしていた。ソニヤとエクネは自分たちの食事に行ったのか、いなかった。給仕も食事を持ってくると、さっさと下がってしまった。
 きっと砂をかむような顔をして食べているに違いなかった。料理はなかなか減っていかない。あいつも嫌になってるんだろうな、と考えていた時、ぼそっと、アニスが言った。
「食べさせてあげましょうか?」
 心臓が飛び跳ねて天井を突き破っていく、ような気がした。
「冗談です。そんな、暗闇で化け物に出会ったような顔しないでください」
 すねたようにそっぽを向いた。そういう時の彼は子供らしかった頃の面影がちらりと見える。それから、ふっと視線を落とし、再びルシャデールの方を向いた。
「昔、食の細い妹によく食べさせてやりました」
 彼の妹は六年前に四才で亡くなっていた。豪雨による土砂崩れで家ごと潰された。両親もその時に失っている。
 その話が出ると、ルシャデールは何と言っていいかわからない。黙り込んだ彼女に、アニスは穏やかに微笑った。
「気にしないでください。もう、大丈夫ですから」
「うん」
 トマトとピーマンと豆の煮物を口に放りこむ。その時、ふと思い立って、たずねた。
「そういうことを、彼女にも言ってるの?」
 今度はアニサードの方がぎょっとした顔をする。何を驚いているんだ。
「めっそうもない!」
「ふーん。してるのかと思った」
「そういうことは、新婚の夫婦がするものです」
「そういうものなの?」
「そういうものです」
 私は小さい妹みたいに面倒みてやらなきゃならなくて、彼女の方は……女として見ているのか。
「だいたい、おまえが言い出したんじゃないか」
 急に腹が立ってきて、彼女はスプーンを置いた。
「もういい。下げて」
 アニスはそばに寄ると一礼して盆を下げた。立ち上がり、踵をかえす時に外衣をひるがえして出て行った。
 彼はこれから食事だろう。ルシャデールが食事を終えないと、彼は空腹のまま侍していなければならないのだ。
(よくわからない主人だと思っているんだろうな。でも……自分でもわかってないんだ)
 ふーっと、溜息が出た。

ピスカージェン市街地図

ピスカージェン市街地図

見づらいかもしれませんが、アビュー屋敷は上部の北方丘陵の下、カシルク地区の字の左です。ミナセ屋敷は下部イチェリニ地区です。

第2章 小侍従の気苦労

    


「顔つきが締まってきたね」
 武術指南院の入口で、預かり番のじいさんが言った。アニスは預けていた剣を受け取る。
「そう……ですか?」
「ああ、ここへ来始めた時は毎日半べそかいてたが、さすがにイズニデール様の御子息だ」
「ありがとうございます」
 彼はあいまいに笑って応えた。
 『イズニデール・マトケスの息子』
 いったい、何度聞いた肩書きだろう。
 アニスにとって、父の名はイズニード・イスファハンだ。父が母と結婚する前は貴族であったこと、剣の腕が達者であったこと、イェニソール・デナンの友人であったことを知ったのは、四年前、ルシャデールの侍従に決まった後だった。
 貴族であったときの名、イズニデール・マトケス。他人にしか思えない。だが、武術指南院で、宮廷で、街で、デナンに連れて行かれるさまざまなところで『イズニデール・マトケスの息子』として紹介される。そして、一様に「ほう!」という顔で見られる。
 父の評判は悪くなかった。
『妾腹に生まれたのに(これもアニスは知らなかった)ひねくれたところが少しもなく、いつも明るかった』
『小さな頃から優しい子だったよ。重い荷物を持ってたら、すぐに持ってくれようとしたりね』
『曲がったことが嫌いだったね。弱い者いじめする奴らには敢然と立ち向かったよ。それに強かった』
『あいつはよくもてたよ。若い娘からの付け文は多かった。ケシェクスの申し込みは、武術指南院じゃあいつがいつも一番だったぞ。二番はイェニソール・デナンだったな』
 従兄にあたる男から言われた『マトケスの家に泥をぬった恥さらし』というのは例外的な部類に属する。町娘だったエルメイと駆け落ちしたことを言っているらしい。
評判がいいのは息子としても嬉しいはずなのだが、胸につかえるものがある。
 無言の圧力。
 イズニデール様の息子なら剣も上手かろう。
 イズニデール様の息子なら、明るく親切なはず。
 イズニデール様の息子なら……。
 その期待に応えようとするが、応えきれないこともある。特に剣の腕前については。さすがに、最初の頃のように木剣でボコボコにされることはなくなったが。
(父さんなら、きっと侍従の仕事もうまくこなしただろうな。僕には……荷が重すぎる)
 アニスは歩きだしながら、石を蹴った。
 神和師(かんなぎし)には必ず一人、侍従が仕えている。現在では秘書的な存在になっているが、かつては、王が神和師につけた監視人だった。
 フェルガナの王が王家専属の呪術師を置くようになったのは、千年ほど前のアルシャラード王の御世のこと。
 北に興った帝国グルドールが周辺の国を次々と支配下に呑み込んでいった頃だ。軍備を増強する一方で、王はそれまで怪しげな者としてうさんくさがられていた呪術師たちのうちから、十五人を身近に登用した。
 彼らの尽力もあり、またグルドールも領地を広げ過ぎたこともあってか、あちこちで反乱の火の手があがり、帝国は崩壊していった。
 呪術師たちが正式に神和師という身分を得たのはそれからだ。
 しかし、大きな敵が消えた時に、強い味方であった者に対して疑心を抱くのもよくあることだ。フェルガナの王は神和師たちに権力を奪われることを恐れた。
 当時、王の侍従たちは手練れがそろっていた。必ずしも貴族ばかりではなかったが、時に密偵となり、敵地へ潜入する者も多かった。王は神和師たちの動きを知るために、侍従の中でも忠誠心の固い者を選んで、神和師たちに賜ったのだ。
 穏やかな時代が続く今となっては、侍従も神和家で独自に選任する。王からの賜りものという形式だけは残っており、神和家の跡継ぎの成人の儀式に、王からの祝いとして下されることになっていた。そして、その前の半年を、跡継ぎの侍従(当主の侍従と区別するために、小侍従と呼ばれた)は王の侍従として王宮に上がるのだ。
 そういう経緯もあってか、屋敷においては執事よりも上位になる。俸給も高い。
 しかし、そのためにはやらねばならないことも多かった。王宮に上がるからには、剣や弓など武術も身につけねばならない。
 それに、何千人といる貴族の名や姻戚関係や、血族関係を記憶し、薬草のこと、神和師が関わる儀式のこと、覚えておくことは限りなくある
 アニスが侍従に決まった当初、使用人の間でもやっかみや中傷まがいの噂は多かった。御寮様にうまく取り入っただの、デナンが父親の友人だったから、そのコネを使っただのと。
 侍従になりたがっていた若い従僕見習いは、そのあとすぐに屋敷を出てしまい、アニスが辞めさせたようなことも言われたのだ。
 もともと彼は侍従になりたかったわけではない。自分の力には余る職務だと思っていた。ただ、トリスタンが気難しい娘と気が合うようだからと、彼を選んだのだ。
噂もやがて消えた。アニスは侍従に決まってからも、年長の者には敬意のこもった接し方をしていたからだ。
 それでも、彼の気は晴れない。次々と要求されることをこなしていかなければいけない。その水準が今の彼には高すぎた。


 剣術の練習が終わると、今度はルシャデールを迎えに行かねばならない。
 彼女は今、週に四日、奉納舞の稽古に通っていた。
 王宮や斎宮院神殿でさまざまな祭事が行われるが、その折に舞を奉納することも神和師の務めだった。舞の種類はざっと五百以上。神和家の嫡子たちは、跡目を継ぐまでにそれをすべて覚えなければならなかった。
 武術指南院の門を出ようとして、アニスは振り返った。ヘゼナードが出てこない。
まあ、いいか。先に行ってよう。
 そのうち追いついてくるだろうと、再び歩き出した。
 ヘゼナード・ソワムはヌスティ家で小侍従をしている。アニスよりも一つ年上の、おおらかで気さくな少年だ。馬鹿話をできる数少ない友人と言っていい。
 最近そのへゼナードが挙動不審なのが、アニスは気になっていた。彼の主人もルシャデールと同じく奉納舞を習っているため、前は一緒に主人を迎えに行っていたが、近ごろは別行動のことが多い。大きな包みを武術指南院に持ち込んだり、剣の稽古が終わってからもふっとどこかへ消える。
(そりゃ、女の子じゃないんだから、別にくっついて歩かなくてもいいんだけど)
女の子で、思い出した。オリンジェのことを。
(面倒だな、女の子って)
歩きながら石を蹴る。
(何か気に入らないと泣いたりほえたり。どうしてほしいのか、全然わからない時もあるし……御寮様の方がはるかにわかりやすいよ)
 オリンジェのことは、もののはずみと言ってよかった。
 付け文されることはこれまでにもあった。最初にもらったのは、おととしだったか。その後、一緒にいたルシャデールの機嫌がひどく悪くなり、往生したのを覚えている。
 よくわからないが、そういうことは御寮様を傷つける。だから、彼女と一緒の時は極力注意して、受け取らないようにしていた。
 それが先々月、同じ神和家のレセン家へ使いに行った帰り、突然一人の少女が彼の方へ突撃するように走ってきた。目の前で立ち止まったかと思ったら、
『わたし、あなたのことが好きです。時々、会ってもらえませんか』と告げた。
 一瞬、何のことだかわからず、アニスは『え? ああ……はい』などと口走ってしまった。次の瞬間、彼女は飛び上がって喜んだ。それからそのまま彼女の家に引っ張られて、父親に付き合う承諾をもらう羽目に。
 ケンカは最初のにらみあいで勝負が決まるという。男と女の間も似たようなものなのか、最初に、オリンジェの勢いに負けてしまった。その後はずるずると彼女に引きずられていた。
 そういった話は広まるのが早い。翌々日にはアビュー屋敷にも伝わった。デナンには釘を刺され、庭師のシャメルドには「婚約したって本当か?」と聞かれて卒倒しそうになった。従僕のルトイクスには嫌味を投げつけられ、洗濯係のおばちゃんたちにはからかわれる。
 ルシャデールは……知っているのだろうが、何も言わなかった。私には遠慮しなくていい。そう言っているような背中が寂しげに感じるのは、気のせいか。
 そんなことを考えていたら、ミナセ家が近くなっていた。
「主(あるじ)を迎えに参りました」
 門番に告げ、案内されて舞楽堂を兼ねた伽藍(がらん)へ入って行く。供人の控えの間で待っていたら、すぐにルシャデールがやってきた。唇を少し突出し、目が憤然としている。
(う……今日もご機嫌ななめだ)
 そのとき、パタパタと軽い足音とともに小さな影が飛び出してきた。
「イスファハン!」
 ヌスティ家の跡継ぎパルシェムだ。十歳というには小さな体でちょこちょこ動くせいか、小ネズミのようだ。
「へゼナードはどうした?」
 他家の跡継ぎを前に、アニサードは膝を折り、一礼する。
「ソワム殿はまだ御用がおありの様子でしたので、わたくしは先に武術指南院を出てまいりました」
「何の用だ」
「それはわたくしにはわかりかねます」
「しかし、」
「こら、小童(こわっぱ)
 パルシェムの不作法に業を煮やしたルシャデールが蹴りを入れた。
「何をする?」
 パルシェムはとっさに振り返った。
「何をするも何も、人の前に飛び出してきて、他人の侍従とべちゃべちゃ何を埒もないことをしゃべってる?」
「これは御無礼を。こんなところにのっぽの棒杭がなぜ立っているのかと思うておりましたが、ガマガエル殿でございましたか」
 小さいが口は達者で、ルシャデールに負けずに嫌味たらしい。
「何をぬかす、この小童!」
 ああ、まずい。これ以上ここにいたら、またいつかのように乱闘が始まる 
アニスはあわてて割って入る。
「ソワム殿はまもなくお迎えに来られましょう。しばし、お待ちくださいませ、パルシェム様」
 アニサードはそれだけ言うと、後ろからルシャデールの腕をつかみ、抱えるようにして外へ出ていく。門の外まで行って、ようやく彼女を放した。
「失礼しました。しかし、他家の御寮様と揉め事を起こすのはおやめください。それにパルシェム様の方が御年少なのです。多少のことは大目に見て差し上げてはいかがですか?」
「ふん、あの小童は年長者に対する礼儀というものを知らぬからだ。悪餓鬼をほっとくとロクなものにならない。……わかっている、おまえの言いたいことは」
 ルシャデールは軽くにらみ、ぷいと、そっぽを向いて屋敷への道を歩き出す。
 ガマガエル殿って何だ?
 そう思ったが聞くのが(はばか)られ、彼は黙ってついていく。と、ルシャデールが振り向きもせずに言った。
「エディヴァリ様に、ガマガエルと言われたんだ」
 エディヴァリ・ミナセは先代のミナセ家当主だ。七年前に隠居したが、神和家の跡取りたちに奉納舞を教えるため、屋敷にとどまっている。厳しい人柄はよく知られており、行儀作法にもうるさい。
「ガマガエル……ですか?」
 乾燥したフェルガナ平原で、蛙はほとんどいない。ただ、ガマガエルは強心剤として利用されることがあるため、まじない師や癒し手の間ではよく知られている。
「予見や御宣託を主業とするエディヴァリ様が、蛙を御存知でしたか」
「あの方はおまえと同じネズルカヤ山地の方の出身だと聞いた。それより! 私はガマガエルか?」
 アニスは考えた。ここは答えを間違うと、また機嫌を損ねてしまう。
「いえ、御寮様はあんなずんぐりはしてはいません。細身ですから、せめて……」とっさに思いつかない。「ヤモリぐらいのものでは?」
 ルシャデールの顔色が変わり、アニスは言葉選びを間違えたことに気づいた。こういう時は話をそらすに限る。
「ジュースでも飲んで行かれますか?」
 オテルス広場が前方に見えていた。そこではいつも、ジュースや菓子の屋台が出ている。
 おまえの魂胆なんかお見通しだよ、とルシャデールは片頬で笑った。だが、すぐにうれしそうにほころんだ。
「サクランボがいいな」
 フェルガナのサクランボは酸味がある。その甘酸っぱい味は彼女のお気にいりだ。甘いものが好きなアニスはザクロのジュースだ。
 二人で広場の真ん中のオベリスクに寄り掛かって飲む。
 飲みながら彼は広場を見回す。
『主人に危害を加えようとする者がいないか、侍従は常に気を配っていなければならない』何度もデナンに言われたことだ。
 オレンジ売りのおばさんがお腹のところに大きな籠を下げて客を待っている。
 櫛売りの娘は小さな布袋を肩にかけ、木製の櫛を手に通りを行く。前歯が一本欠けている娘だ。ジュース屋のオヤジの話では、酒飲みの父親によく殴られているらしい。
 荷車を引く牛が呻くように鳴いている。
 オベリスクから少し離れたところで、二人組の楽師が楽器を抱えて手慣らしをしていた。年取った男は三弦のヴィクラを、息子だろうか、若い男は縦笛ロッサイを手にしている。
 見ていると、アニスの視線に気づいた年配の男がにっと笑って、歌い始めた。少しかすれているが、深みのあるいい声だった。

「大地は雨をうけとめる
 もろ手広げて、
 アイサイヤ
 お天道様がよこした水は
 流れ流れて、さらに流れて
 いつかは海へと還りつく
 海から空へまた昇るのさ
 俺たち流れ者とて
 いつかは帰り着くのさ
 お天道様のいるところ
 大地は雨をうけとめる
 かんかんひでりの灼熱も、
 冷たい雪、みぞれ、
 すべてうけとめ、育んでいく。
 アイサイヤ 」

 アニスは小銭を出して、彼らの前に置かれた木の椀に投げてやる。小銭は吸い込まれるように椀に入った。
「へえ、うまいね」ルシャデールが感心する。それで終わればいいのだが、「私もやってみる、貸して」と手を出した。
 アニスは一デクレ銅貨を渡す。
ルシャデールが投げる。
「ああ! 大はずれだ」彼女は振り向きもせずに、また手を突き出す。
 僕の金なんだけどな。
 そう思いつつ、黙ってアニスはまた硬貨を渡す。
 今度はもう少し近いが、やっぱりはずれた。
 五回目、ようやく小銭は椀に入るが、弾かれて外に出る。
「力を入れ過ぎです」
「うるさい! 黙ってて!」
(なんでこんなことに、突然熱中するのかなあ)
 二人の楽師がニヤニヤ笑っている。通りがかりの者も、何人か立ち止まって見ていた。
 十二回目、やっと硬貨は椀に納まった。
 ルシャデールが振り向く。どうだ! 言わんばかりの笑顔で。財産がだいぶ減ってしまったアニスは苦笑で応える。
 楽師たちも笑って、拍手をしていた。
「ありがとよ。たくさんもらっちゃって悪いね、兄さん」
 彼らはちゃんと、金の出どころをわかっているようだった。
「お礼に好きな歌、歌ってやるよ。」
「それじゃ、ラフィアムの歌を」
「永遠の恋人、エルニセード・ラフィアムだね。ラフィアムといえば、シヴァリエルスへの恋歌だ」
 ラフィアムは千年ぐらい前の楽師だ。グルドールの女帝の皇子に生まれ、すぐに小国ペ
 シャヌルの王座についたが、実権はなく、十六歳になるまで幽閉されていたという。呪術師シヴァリエルスによって解放され、その後は楽師として名を馳せた。
 楽師はヴィクラを弾き始めた。

「シヴァリエルス、シヴァリエルス
 僕の美しい小夜鳴鳥よ、君に会いたい
 君は飛び立ったままどこにいる?
 悠久の風の中で舞っているのだろうか
 それとも天空の庭に枝をのばす糸杉に宿っているのか
 君に会いたい、今一度
 もしできるなら、この身を放り出しても
 君を探しに行くものを
 シヴァリエルス、君は今どこにいる 」

 彼らの歌を聞くアニスをルシャデールが見つめていた。
「どうかしましたか?」
 再び彼らは屋敷へと歩き出す。
「会いたいのかな、と思って」
「誰にですか? あ……」
 オリンジェのことだ。
「私には気をつかわなくてもいいよ」
「いえ……御寮様の方こそ、どうぞお気遣いなく」
「もし、仕事が忙しくて会う時間とれないなら、デナンに私から言ってあげるよ」
「いえ、本当に……大丈夫です」
 やっぱり知っていた。それより、妙に気を回すようになったと、アニスは感じていた。以前はもっとはっきりと言ってきたものだ。
 ユフェリへ行ったときに、友達でいる約束をした。表向きは御寮様と使用人だけれども、友達だよと。しかし、気づいたら、彼女はどこか引いている。離れたところから、何か言いたげにこっちを見ている。そんな感じだ。何が言いたいのか、気になって仕方がない。しかし、たずねてみても、何でもない、おまえの思い過ごしだ、としか返ってこない。
 急に機嫌が悪くなることもしばしばだ。もともと、癇癪(かんしゃく)を起しがちだったが、前は理由がつかめていた。
 トリスタン・アビューが何か知っているのではと、感じることもある。ルシャデールと彼のやりとりを見ていて、ニヤニヤと笑っている。
 といって、屋敷の主に対して『何か知っているんでしたら教えて下さい』などと聞くのは(はばか)られた。何と言っても、自分はルシャデールの侍従なのだ。
兄貴分のようなシャメルドに相談したら、
『馬鹿だなあ、女なんてそんなもんだぞ』で終わった。
 そんなこと言ってるから、女の子に振られるんじゃないのかなあ。そう返したら、誰に物を言ってるんだ、と首を絞められてしまった。

 ルシャデールが寝室の姿見を割ったのは、翌日の午後だった。ソニヤによれば入浴の後、何を思ったか、飾っていた壺を投げつけたという。
「突然どうなさいました?」
 床に散らばった破片を片づけさせる間、別室でアニスは主人を問い詰めた。
「何でもない」
 ルシャデールはソファにもたれ、やや虚脱したように窓の方を見ている。
「理由もなしに鏡を割られたのですか?」
「……イライラしたから」
「何にですか」
「いろいろなこと」
「といいますと?」
「……」
 彼女の眉尻が上がってくる。怒鳴り声が飛んできそうだ。
 ルシャデールは息をつき、アニスの方を振り向いた。その顔は怒っていない。感情を呑み込んだような疲れた顔だ。
「悪かったと思ってる」
 素直に謝られると、アニスもそれ以上は問い詰めづらくなる。それに、彼女が表面上、従順になる時は、むしろ頑固になっていることを彼は経験から知っていた。本当のことは決して話さない。
「もし、悩んでいることがあるなら……何でも打ち明けて下さい。以前は、半分八つ当たりしながらも、わたしに話して下さいました」
 ルシャデールは再び、窓の方を向いてしまった。
「それは……侍従として聞いてるの? それとも友達として?」
 三年前、一緒にユフェリへ行った時、友達でいようと約束した。だから、身分の差はあっても親身に彼女が抱える問題をできるだけ軽くしてやりたいと思っていた。時に、友達としての考えと、侍従としてすべき方向が違っていることもあるが、それをなんとかうまくすり合わせてきた。
「両方です」
「じゃ、今日を限りに友達の方は解任」
「えっ?」
 どういうことですか? と、たずねる前にルシャデールは立ち上がって、ドアの方へ向かった。
「他に話すことはない! 庭を散歩してくる」
「御寮様!」
 アニスも慌てて立ち上がるが、服の裾を踏んでつまづいてしまった。
 何やっているんだ、僕は。
 みっともなさに頭を抱えたくなりながら見上げると、ルシャデールが立ち止り、振り向いていた。嗤ってはいない。ただ、憂いを含んだ静かなまなざしで彼を見ていた。ふっと微笑ったかと思うと、
「ありがとう」
 そうつぶやいて出て行った。
 友達を解任? どうして? 僕が何かしたのか? 
 侍従をクビというならまだわかる。自分はその器じゃないと、常々思っていたからだ。しかし、友達であることをやめるというのは……理解できなかった。
 起き上がったものの、アニスはその場にへたりこんだままだった。
「あら、御寮様は?」
 快活な高い声はルシャデールの侍女ソニヤだった。
「散歩に行きました」
 アニスはつとめて平静に答えたが、心の動揺を隠しきれていなかったのだろう。
「何かありまして? 顔色がすぐれませんわ」
 何でもありません、大丈夫です。そう言おうとして顔を上げると、ソニヤの心配そうな顔がすぐ前にあった。深い褐色の瞳に、亡くなった母の面影がよぎり、彼の細くて弱っちい突っ張り棒はぽきんと折れた。口から出てきたのは、いとも情けない声音だった
「ソニヤさん……」
 アビュー家に来たのは二年前だが、お屋敷勤めの長いソニヤはよく行き届いた侍女だった。
 総じて、貴族は神経質だったり、傲慢だったり、気難しい人間が多いのだが、その中でも神和家はユフェレンということもあって、理解しがたいことも多い。だがそれも、ソニヤは四十過ぎた女の気負わないたくましさで、動じることなく乗り切ってしまう。
 アニスにとっては、ルシャデールのこと以外でも頼りになる存在だった。彼は今あったことを、二年前からのことも含めて話した。
「そう、友達だったの」
アニスの話を聞いて、ソニヤは微笑んだ。
半時たつが、ルシャデールはまだ戻ってこない。屋敷の中は静かだった。
「そうね、御寮様があなたに寄せる信頼は、単に主人と使用人という風には見えなかったわ」
「信じてもらえないかもしれませんが、四歳ぐらいの時に僕は御寮様にお会いしたことがあります。ええ、もちろんここに来る前です。僕はネズルカヤにいましたし、御寮様はカームニルにいらっしゃったはず。僕は近所に来た子だと思って、遊ぶ約束をして、その後はそれっきり。あ、そんな顔しないで下さい。僕だって御寮様に言われるまで、すっかり忘れていたし、夢か何かじゃないかって気もしているんです」
普通は信じてくれないだろう、こんなこと。ただ、アニスは『友達』はあの時から始まっていると考えていた。
「驚いた。コルメスの道、ね」
 ソニヤは少し間を置いて言った。
「コルメスの道?」
「聞いたことない? 子供や時には大人が突然、行方不明になってしまうの。旅人が夜道で不思議な場所に迷い込んだ話とか、聞いたことないかしら。後になって、その場所を探しても見つからないのよ。行方知れずになった子が、ずっと離れた場所で見つかったり。だけどその子はどうやってそこへ行ったか、まるで記憶がないの。そういう現象を『コルメスの道』って呼んでいるわ。もちろん中には、人さらいに連れ去られた子もいるでしょうけど。でも、御寮様ならありそうね」
「だけど、もう友達は終わりだって、宣告されました」アニスはできるだけさばさばと言った。
「仕方ないわね。あなたには付き合っている娘さんがいるんでしょう? その娘さんにしてみれば、同じ年頃でいつも一緒にいる御寮様のことが気になって仕方がないと思うわ。御寮様だって、それがわかるから、距離を置こうとお考えになったのよ」
「えっ……」
 彼の中では、ルシャデールとオリンジェはまったく違う次元の存在だった。
「ねえ、イスファハンさん。もしよ、御寮様とそのおつきあいしている娘さんと、二人が同時に違った場所で危険な目にあっているとしたら、あなたはどちらに駆けつける?」
 この質問の裏に何があるのか、ソニヤが何を聞こうとしているのか、アニスには見当もつかない。
「たぶん……御寮様の方です。それが当然だと思いますが。それが何か?」
「難しい立場にいることに、あなたは気づいてないってこと、よくわかったわ」
「えっ? 何のことですか?」
「本当に気づかない?」
「何のことだか、さっぱりわかりません」
 ソニヤは謎めいた微笑みを浮かべる。
「え?」
「そういうあなただから、御前様はあなたを御寮様におつけしたのかもしれないわね」
 アニスには、ソニヤが何を言っているのか、よくわからなかった。
「ソニヤさん、何か知ってるんですか? 教えて下さい」
「御寮様はきっとあなたにだけは知られたくないと思っていらっしゃるわ。だから、私には言えない。今しばらくはそのままにしてさしあげて。御寮様も他にどうしていいか、おわかりになっていないでしょうから」
「よくわかりませんが……僕はどうすれば?」
「あれこれ考えて悩むより、成り行きに任せてしまった方がうまくいくこともあるわ。迷いながら進むよりも、立ち止ってしまう方がいいこともあるの。あなたなら大丈夫。きっとうまくいくわ」
 アニスはよくわからないまま、黙ってうなずいた。


「カズック! いる?」
 その夜、寝ようとして、再び寝床から身を起こした。
「呼んだか?」
 壁の鏡から、狐顔の犬がのっそり出てきた。
 カズックはルシャデールがカームニルにいた時からの仲間だ。彼女がフェルガナに来る時に一緒についてきた。
 もともとはカズクシャンの街を守る神だったというが、今では精霊のようなものだ。半肉半霊であるため、普通の人の目にも映るし、ものを食べることもできる。アビュー屋敷では使用人たちに「キツネちゃん」と呼ばれ、かわいがられていた。
「何だ?」
「御寮様が……なんだか悩んでいるみたいなんだ。僕は全然役に立たないし、そもそも僕のせいらしいんだけど。代わりに慰めてあげてくれないかな」
「あーあ」彼にもすぐにわかったようだ。「心配するな。年頃になったら、だれでもかかる病気だ。水疱瘡みたいなもんだ」
「病気?」
「病気に似ているってことさ。おまえはまだだったか」
 カズックは笑う。犬の笑い顔はすこし怖い。
「みんなして謎かけみたいなことばかり言う」
「焦るな、坊や。ものごとは、知るべき時があるってことさ」
「坊やじゃないよ」
「ふん、下の毛が生えただけじゃ、大人とは言わんさ。女の柔肌も知らんくせに」
「カズックは知ってるの?」
「この世の犬の半分はオレの血筋だ」
 本当かどうか確かめるすべはないが、彼はそう豪語した。
「人間の女じゃないんだ」
 アニスは笑みをこぼす。 
「おまえ、人間の女はまずいだろ。面倒なものだってのは、おまえだってわかってるんじゃないのか?」
「ああ……まあね」ちらりとオリンジェの顔が浮かぶ。
「そのうちデナンが適当なところへ連れて行ってくれるだろうさ。神和家の侍従にふさわしい『館』に」
「ああ……そうかな」何と言っていいやらわからない。
「変なところへ行くと病気を移されるからな。気をつけろよ」
「わかったよ。それより、、御寮様を頼むね」
 ああ、そう言って、カズックは頭をごしごしとアニスの夜着の裾にこすりつけた。
「何してるの?」
「慰めてやればいいんだろ?」
「慰めるって、変な事したらダメだよ!」
「ばーか、おまえ何考えてんだ」
 カズックは舌を出して、また壁の向こうへ消えた。
 脱力して、布団の上に倒れ込む。
 明日の朝はお勤めがある。夜明け前に起きて、ルシャデールの水垢離に付き合わねばならない。白い修道着を三枚着た彼女に冷水をかけるのだ。
 髪を簡単に結い上げ、きれいなうなじがあらわになる。うなじがきれいだ。水に濡れて衣服がはりついた体の線……。
(あ、まずい)
 思いがあらぬ方向に転がりそうになって、彼は布団を頭からかぶった。

第3章 パルシェムの幻視

   


「午後からの予定は?」
 部屋の鏡を割った翌日、昼食を終えたルシャデールに、トリスタンはたずねた。
「特にない」
「それじゃ、一緒にカプルジャさんのところへ行こう」
「カプルジャさんって、壁道沿いの?」
「うん、胃に悪いできものができて、ずっと伏せっている。君の意見を聞きたいと思ってね」
「あまり役に立たないと思うけど」
 一昨年から治癒の(わざ)をトリスタンから教わっているが、あまりうまくいっていなかった。『気』をうまく操ることができず、苦労している。おとといは施療所で、ねん挫で訪れた石工を悶絶させてしまった。それ以来、患者たちはルシャデールの治療を怖れている。
「ご謙遜を。君は視えるじゃないか」
 あ、そういうことか。ルシャデールは納得する。確かに、どこが悪いか、悪くなるか、わかる。
「わかった、行く」
 近所だからか、トリスタンは侍従も従僕も連れなかった。父娘二人だけの外出は初めてだ。養父を独り占めしているようで、知らず知らずのうちにルシャデールの顔に笑みがこぼれてくる。
 近隣の農夫や女たちが、二人に軽く頭を下げて行き過ぎる。
 北の丘陵地帯には放牧された羊が点々と草を()んでいた。牧童がロバのそばにすわりこみ、昼食だろうか、堅そうなチーズを食べている。
 カプルジャの家は、この丘陵地帯にあった。日干しレンガを泥で接着して積んだだけの、粗末で小さな家だ。横には物置小屋と石積みの囲いがあった。夜の間、羊を入れておくのだろう。
「まあ、これは御寮様まで」
 カプルジャの息子の嫁アイサが二人を出迎えた。
 スカートの影から二、三才の女の子が顔をのぞかせている。母親と同じようにスカーフをかぶり、くりっとした目があどけない。
 家の中は薄暗かった。床は三和土(たたき)の上に絨毯を敷いただけだ。隅に小さなかまどが設けられ、レンガの台にナベや食器が置かれていた。ここが居間なのだろう。
 板敷になった奥の部屋に病人が寝ていた。
「これは御前様、いつも申し訳ねえです」
 カプルジャは起き上がろうとした。それをとどめて、トリスタンはそばに寄る。
「今日は少し顔色がいいようだね」
 だが、ルシャデールにはそれほどよくは見えなかった。それに……彼の体を黒い影が包んでいるのが視える。
 黒い影。
 これまでにもたびたび視たことがある。街行く人の中に。アビュー家の施療所を訪れる人の中に。その影に包まれた人間に死期が近づいていることも、経験上わかっている。最初は母だったろうか。自殺する数日前に、黒い影は現れた。
 この人はそう遠くないうちに死ぬんだ。行く先は浄福の地ユフェリだから、何も心配することはない。
 とは思うものの、そんなあっさりと割り切れないものが残る……。


 帰り道、カプルジャの家を少し離れてから、トリスタンが聞いてきた。
「君が見てどう思った?」
「長くはないと思う。もって三、四カ月ってところかな。それを私に見てほしかったの?」
「うん、手かざしで『気』を送っても、穴の開いた桶に水を入れているような感じがした。もし、助からないのであれば、できるだけ苦しみを減らすことを考えた方がいいと思ってね」
 そういえば、カプルジャもそんなことを言っていたな、とルシャデールは思い返す。
 こんな老いぼれ、どのみち長くはねえんです、早く楽にしてくだせえ、と。
「アルスケスを処方しようかと思うんだ」
 アルスケスは岩ケシの花からとる鎮痛剤だ。量を間違えると中毒になってしまうため、滅多なことでは使わない。
「あれの処方は人任せにしたくないんだ。劇薬だからね。しかし、わたしには神和師の務めもある。だから、君に頼むことも出てくると思う」
 ルシャデールはうなずいた。
「本当は、できるなら神和師なんてことも辞めてしまいたいんだ。できるなら、癒し手としての仕事に専念したい」
 え? ルシャデールは驚いて養父を見た。施療所での治療はかなり熱心にやっているが、神和師を辞めてもいいほどだとは思っていなかった。
「意外かい? でも、辞めてしまうと荘園からの収入がなくなる。うちに来る病人のためにも、あの収入は魅力的なんだ。遠方から薬草を買い付けるには、多額の金が必要だ。跡継ぎ娘に鏡を買ってやるためだけでなくね」
 ルシャデールはうつむいた。昨日、苛立つ想いに耐えかねて、鏡を割ってしまったのは、みっともないことだったと思う。
 どうしてあんなことをしでかしたのか。そうだラフィアムの歌だった……。
 アニスがなぜラフィアムの歌を注文したのか。楽師として名高い彼の歌が一般的によく知られているし、ユフェリを訪れたときに彼に会ったということもあるだろう。
ルシャデールには、彼がオリンジェのことを考えているように思えた。だが、会いたいのかと聞いた後の『誰にですか』は、オリンジェのことを想っていたようには見えない。
 いや、アニスだって侍従の端くれだから、感情を表に現さない(すべ)を身に着けてきているのかもしれない。
 屋敷に戻って来て、鏡が目に入った。つかの間、彼女が見たのは、神和師の跡継ぎではない娘だった。赤いチェックのスカート、刺繍の入った晴れ着のチュニックに絹のショールはクリーム色。枯草色の髪にはリボンを絡め、唇に薄い紅をさしたやせぎすの少女ははにかみながら微笑っている。
 その幻はすぐに消えた。だが、その残像はルシャデールの脳裏に焼き付き、彼女の心を掻き裂いた。手じかにあった壺を鏡の中の自分に投げつけたのは、その直後のことだった。ガラスのかけらが飛び散る。
 その音にソニヤや従僕が二、三人、駆けつけてきた。何か言っていたが、ルシャデールの耳には入ってこなかった。終わりにしなければ、と思った。
 子供の時の、とるに足らない友達の約束なんか、もう終わりだ、と。
 夜、みじめで切なくて眠れずにいたら、カズックが来た。アニスに慰めてやってくれと、頼まれたらしい。カズックの体から移り香が匂い、思わず犬を抱きしめた。バカだな、とカズックには言われた。結局、ゆうべは全然眠れなかった
「……ごめんなさい」
「執事が頭を抱えていたよ。ま、彼の一年分の給金に値するからね」
「えっ!」そんなに高値(こうじき)とは思わなかった。
「誰だって気分や感情のむらはあるさ。それをうまくあやしながら、みんな日々を送っている。まして君はアビュー家の次期当主だ。わたしの言いたいことはわかるね?」
「はい」
 自分の言動は使用人にも影響を与える。散らばった鏡のかけらは彼らがきれいにしてくれた。女主人が裸足で歩いてもケガをしないよう、ほんの小さなかけらも残すまいと、床に這いつくばり、反射する光に目をこらして。
「でも私は」トリスタンは歩みを止めて、彼女の方を振り向いた。「アビュー家より、自分の幸せを大事にしてほしいとも、思っている。私は君を跡継ぎに選んだが、それを受けるかどうかという選択は常に君のものだ」
 アビュー屋敷が見えてきた。トリスタンは少し声を落とした。
「もし……誰かと逐電したいと思ったら、前もって相談してくれると嬉しいな。たぶん、協力してやれると思うから」
 彼の眼にはいつものいたずらな輝きと共に、深い情愛が宿っていた。
 アビュー家に来た当初は、本当の親子のようになれるとは思わなかった。しかし、トリスタンが今、寄せてくれるのは血のつながり以上に貴いものだ。
 彼はわかっている。ルシャデールが神和師になりたくないと思っていることや、普通の娘のように暮らしたいと望んでいることを。
 トリスタンだって、本当は癒し手として跡を継いで欲しいと思っている。できるならそれに応えたい。でも……。
「……ありがとう」
 それ以上、何と言えばいいのか。ルシャデールは黙り込むしかなかった。


「しっかりと顔を上げて! もっと速く!」
 エディヴァリ・ミナセの声が飛ぶ。
 ルシャデールは頭を上げて、エディヴァリと、稽古をつけられているパルシェムを見た。小憎らしい小童も、エディヴァリのまえでは神妙だ。か細い手足を必死に振り回している。
 この日は他にレセン家のサハビヤとエニティ家のバルクルが来ていた。
 サハビヤはルシャデールより年上だが、レセン家に養女に入ったのが一昨年。どんな家の生まれかわからないが、今の身分にまだ慣れないのか、どこかおどおどしている。
 神和家より兵隊の方が似合いそうなのはバルクル・エニティだ。あごのひげの剃り跡が青々しく、ユフェレンにしては無骨で男っぽい。陽気な性格だが、立ち居振る舞いが雑で、二十歳過ぎてもまだ奉納舞の稽古に通っていた。
 打楽器モルメージの低い音が静かな舞楽堂に響く。
 今、パルシェムが教わっているのは、ルサイム・デーレと呼ばれる旋舞だ。モルメージの音の中で、くるくると回る。
 数多い奉納舞の中で神和師が舞うのは、かなり大きい祭事や儀式のものに限られている。斎宮院の巫女たちには、日常的に奉納される舞が伝えられているが、月の女神シリンデへの信仰が盛んだった頃と比べると、忘れ去られたものも多いらしい。
 ルサイム・デーレは宣託を受けるための舞だった。伴奏のモルメージの音により、ユフェリのさらに奥、シリンデのまします世界へ意識をつなげる。重低音の単調な音だが、耳に障る。聞いているだけで、ルシャデールは体から脱けてしまいそうだ。時と場所をわきまえないわけではないが、こちらの世界にとどまる方が難しい。
 意識が広がってゆく。エディヴァリの声が遠くなり、舞楽堂の景色が薄れていく。気づいた時には天井近くから下を見下ろしていた。ルシャデールの体は、板の間に座ったままだ。
 彼女の意識はするりと天井を抜けた。ミナセ屋敷の外が見える。門番が農夫と笑いながら何かしゃべっている。さらに彼女は上昇し、ピスカージェンの街の上空に出た。
 何度も経験していることだが、鷹になったような爽快感はいつ味わってもいい。
と思っていたら、ユフェリの野にいた。
 白い灯台がそびえる周りには、シロツメクサの野原が広がる。風が柔らかにそよいでいた。草があまり生えていない空地に、テーブルが一つ、そして女性が一人椅子に座って、ルシャデールに向かって手を振った。
「こんにちは」
 ルシャデールは笑いかけた。エルメイ・イスファハン。七年前に亡くなったアニスの母だ。彼女も笑みを返す。
「こんにちは、久しぶりね」
 ルシャデールがアニスの母に会うのは二回目だ。最初はアニスをユフェリに連れて来た時に『庭』で会っている。もっとも、その時はほとんど話はしていない。
 テーブルの上にはピカピカのサモワールと、小さな土鍋があった。茶色っぽいおかゆのようなものが入っている。
「食べる?」
「何ですか、それ?」
(ひえ)蕎麦(そば)の実のおかゆよ」
 食べてみると、確かにおいしいとは言い難い。彼女とて昔はロクな暮らしをしていなかったから、好き嫌いはないのだが。
「カームニルでは蕎麦の実は食べないらしいから、お口に合わなかったかしらね」苦笑いするルシャデールに、エルメイは屈託なく微笑んだ。「ネズルカヤの山の中では、小麦はあまりとれなくて。蕎麦の実はまだごちそうの方よ。いつもは稗や(あわ)ばかり。それでもアニスはおいしいと言ってくれたけど。あの子、おつきあいしている女の子がいるんですって?」
「はい」
 ユフェリは時間もなく距離もない世界だ。個々の意識が創りだすものだけが現れる。肉体を持って生きている者の世界(ユフェリに対してカデリと呼ばれている)も、たやすくのぞき見ることができた。肉眼ではなく意識の目で見るからだ。
 家族の中で一人生き残ってしまった息子のことを、エルメイはいつも見守っているのだろう。アニスとその周囲で起きていることはあらかた知っているようだ。
「あの子がどうしてそんなにもてるかしらね。鈍いし、とんちんかんなのに。もっとも、たいがいの男はそうだけど」
 彼女は自分の息子をあっけらかんと評する。
「知ってる? あの子意外としつこいところがあるわよ」
「しつこい……ですか?」
 ルシャデールが知っているアニスは、何かに固執することなく、周囲の人や物事にうまく均衡をとって対処している。
「四歳の時に会っているんでしょ? (とち)の実の女の子。あなただったのね」
 衣装箱の中で寝ていたルシャデールが目覚めた時、どういうわけか山の中の草の上にいた。その頃すでに何度も怪異に出会っていたから、彼女はそれほど慌てもしなかった。ここはどこかと思ってあたりを見回すと、木の枝を拾う男の子が現れた。アニスだった。
 友達になってと言われ、栃の実を一緒に取る約束をして別れた。
 ルシャデールは夢だと思っていた。もとの場所に戻って、よくわからないまま眠って、次に目が覚めた時は衣装箱の中だった。服に枯葉がついていなかったら、彼女はそのまま夢だと思って忘れたに違いない。
 それが『コルメスの道』と呼ばれる現象だと知ったのはもっと後のことだ。
「あの時、アニスは楽しそうに話してくれたわ。栃の実をとる約束をしたって。でも、次の日、村のどこを探してもそんな女の子はいなかった。あの子は……本当に村中を探したのよ。それに山の中も。もしかしたら、崖からでも落ちてケガして泣いているんじゃないかって。家の仕事や畑の手伝いも放って探しに行くようになって、イズニードにこっぴどく叱られて、それからはあきらめたようだったけど。でも、三年ぐらいたっても、まだ時々言ってたわよ。あの子どこ行ったんだろうって」
 最後には、山の妖精だったんだろうってことに落ち着いたのよ、エルメイはそう言って笑った。
「でも、アビュー家で会った時には、すっかり忘れていたようでした」
「私たちが土砂崩れで死んでしまったことが、あまりにも大きかったのよ」
 そうだった。ルシャデールは四年前を思い出す。アニスは声にならない悲鳴を常に発していた。見た目には明るくほがらかだったが。
「その付き合っている女の子とはよく会っているの?」
「よくわかりません。仕事もありますから、そうひんぱんには会えないと思いますが」
「その程度なら大丈夫よ。仕事を放り出して会いに行くのでなければね。あら、呼ばれているわよ」
 え? と思った瞬間、大音声に包まれた。
「ルシャデール・アビュー! 稽古中に居眠りとは何事ですか!」
 それとともに脳天に衝撃を受けた。
 扇を投げつけられたらしい。扇骨は木だが、まともに当たると相当痛い。
いってえ……このクソばば、なんてことするんだ。頭がぶち割れる。
 心の中で悪態をつく。
「舞の稽古を何と心得ているのですか?! ここは神へ奉納する舞を稽古する場。神の御前と言ってもいいのですぞ!」
 ルシャデールは頭を押さえつつ、そっと顔を上げる。憤怒の形相がそこにあった。
「居眠りなど! わたくしが舞を教えるようになって、一度もありませんでした!」
では、私がお初をとりましたか。名誉なことでございます。
「トリスタン殿にも厳しくしつけるよう、お話しなければ! このような無礼な事、許されませぬ!」
 サハビヤやバルクルが笑っている。モルメージの奏者三人も、笑いをこらえて顔がひきつっていた。
 モルメージの音が、『()け』を誘発してしまうことを説明しても、エディヴァリ婆さまには理解してもらえそうになかった。同じユフェレンとは言っても、能力にはかなり差がある。
 トリスタンなどは癒しの技に限定されているし、同様にエディヴァリ婆さまは予見が主業だ。二人とも意図的にユフェリを訪れることはできない。
 ルシャデールの場合は、ユフェリとのつながりが強すぎて、モルメージの音で向こうに引っ張られてしまう。むしろ、こちらの世界に居続けることの方が努力を必要とする。
「御無礼いたしました」
 ルシャデールは神妙に頭を下げた。アビュー家に来たばかりの頃なら、『何しやがる、このクソババア!』ぐらいは叫んで、飛びかかっただろう。今はさすがにそんなことはしない。アニスにも何度か言われたのだ。
『怒っている相手に怒りを投げ返すのは、火に油をそそぐようなものです。賢い者がやることではありません。頭を下げ、嵐をやりすごすのが一番です』
 しかし、嵐がなかなか過ぎ去らねば、こっちの我慢も限界に近づく。
「だいたい、そなたは心根がたるんでいるのです! 」
 この分なら養父トリスタンに文を書くかもしれない。将来神和師となる者にあるまじき不作法な態度、言語道断! 厳しくご指導されたし、とか何とか。
 それをトリスタンは『うん、あの婆さまもお元気でいらっしゃる、いいことだな』で、終わらせるだろう。
 それを想像して、不謹慎にも笑い出しそうになってしまう。
「何がおかしいのですか!」
 まずい、と思った時、バルクルがエディヴァリを呼んだ。
「パルシェム殿が!」
 見れば、稽古を中断されたパルシェムが立ったまま、全身を震わせていた。顔は恐怖にこわばり、目の前の虚空を見つめている。
 ユフェレンにはしばしばあることだった。深い瞑想の時と同じ状態だ。半ば覚醒した状態でユフェリへ入ってしまったらしい。モルメージの音に誘導されたのだろう。
 パルシェムが失神して頭を打たないように、バルクルはゆっくりと彼を座らせ、それから床に寝かせた。
 パルシェムは目を見開いたままだったが、急にからだをけいれんさせ、気を失った。彼の小さな体の周りには、エディヴァリ、バルクルの他、稽古場にいた全員が集まっていた。
「ユフェリに入ってしまったのではありませんか?」
 年長者に遠慮したのか、バルクルが控えめに言った。エディヴァリはパルシェムを見つめ考え込んでいる。少し様子を見るか、他家の神和師を呼ぶか、思案しているようだ。
「お許しを頂ければ、わたくしが見て参りましょうか?」
 ルシャデールはエディヴァリに申し出た。
 エディヴァリは彼女を推し量るようにじっと見つめた。さきほどまでの怒りはすでに去っていた。
「いいでしょう、しかし、深追いしてはなりません。手に負えないと思ったらすぐに戻りなさい」
 許可を得てルシャデールは速やかに体を離れる。周りの景色が薄れ、闇に閉ざされた。
 怖れる必要はない。もう何十回、いや何百回とユフェリには来ている。探すのは難しくないだろう。パルシェムのことに意識を集中させればいいだけだ。
 闇がほんの少し明るくなる。明るいと言っても、日没から四半時たった頃ぐらいの暗さだ。山の黒い稜線が見える。足元はよく見えない。固くて……乾いているようだ。
 だが、ユフェリのどこにいるのかわからない。
「パルシェム!」
 四方を見回す。近くにいるはずだ。しばらくすると暗さに慣れてきて、小さな姿が走って行くのが目に入った。
「パルシェム!」
 追いついて服をつかむ。彼はきっ、と振り向いた。
「離せ、ガマガエル!」 
「いいから、戻るよ!」
「離せ! へゼナードが行ってしまう!」
 え? と思ったら、パルシェムは彼女の手を振りきって、また走り出した。追いかけているうちに、ルシャデールにも見えた。パルシェムの前を行くへゼナード・ソワム。
 街の水売りのように、大きな真鍮(しんちゅう)製の水つぼを背負い、縁なしの帽子をかぶっている。そばに黒っぽい犬が付き添っていた。
「へゼナード! 待ってよ、行かないでよ!」
 何がどうなっているのか、よくわからないが、パルシェムと共に走って行く。だが、歩くへゼナードにいつまでたっても追いつけない。
「あっ!」
 パルシェムが転んだ。大きな水たまりに足をとられたのだ。
「あーあ、何やってるのさ」
 そう言いつつも、ルシャデールは起こしてやる。
 いつの間にか三日月が出ていた。おぼろな光に門のように並んだ二つの塔が黒々とそびえている。陰鬱な、不安をかきたてる光景だった。彼女は記憶をたぐりよせる。
八歳ぐらいだったろうか。まだカームニルで辻占いをしていた頃だ。ユフェリについていろいろ教えてくれていたカズックの話を思い出す。
『囚われの野にいるのは、ほとんどが死者の魂だ。しかし、少数だが、生きている者もいる。愚者の道と呼ばれる、小さな道を行くと塔門に出る。そこから先が、シリンデの領域だ。生きながらにして死した者が集う場所で、低級なユフェレンもよくいるぞ』
 『生きながらにして死した者』というのは、どういう人間のことを言っていたのか。その時は、汚い小路の隅に横たわっているような浮浪者みたいなもののことかと思っていたのだが。
 パルシェムは起き上がると、再び塔門の方へ行こうとした。
「待ちなよ」
「うるさい、離せ」
「戻った方がいい。ユフェリで見るものは、今起きていることとは限らない。遠い昔のこともあれば、何十年も先に起こる事かもしれない」
 今起きているとは限らない。
 その言葉に、パルシェムは動きを止めて、ルシャデールの方を見た。迷っているのか何も言わず、それでいて不満そうだ。
「向こうのソワムの様子を確認してからの方がいい」
 塔門の道に、へゼナードの姿はもう見えなかった。
「わかった」しぶしぶパルシェムは答えた。
 

 気がつくと、ミナセ家の控えの間でソファに寝かされていた。
「お気がつかれましたか」
 そばにアニスがいた。
 起きようとして、力が入らず、ふたたびクッションに頭をつける。
「パルシェムは?」
「つい先ほどお帰りになりました。ソワムと私が参りました時は、お気がつかれた直後だったらしく、ひどく興奮されておいででしたが、ソワムの顔を見て落ち着かれたようです」
「そうか……」
 やっぱり今のことではなかった。とすると、未来に起こることなのか? あの黒い犬は何を意味しているのか……。
 人の気配に戸口の方に、顔を向けると、エディヴァリ・ミナセだった。
「かげんはいかがですか?」
 今度こそ、気力を出して起き上がる。
「パルシェムは話ができる状態ではありませんでした。ユフェリへ入って、何があったのですか?」
 ルシャデールはシリンデの領域にへゼナードが入って行き、パルシェムが追っていたことを話した。
「予見かもしれません。それが何を意味するのか、慎重に判断せねばなりません。輿(こし)を用意させました。今日はそれに乗ってお帰りなさい」
 えっ。小さく声を上げる。結構です、と言う前にアニスが割って入った。
「お心遣い感謝いたします。ありがたく使わせていただきます」
 普通、裕福な家の女性ならば外出には輿を使う。レセン家のサハビヤも稽古に来る時は自家の輿に乗ってくる。歩くのは下賤の者がすることと考えられていた。
 しかし、ルシャデールは輿に乗るのを嫌った。稽古に通い始めた時、そのことでアニスとちょっとした口論になったのだ。
『仮にも、神和家の跡継ぎというお方が、徒歩でなどとんでもないことです』
『まっぴら御免だ。輿に乗るのは葬式の時だけでいい』
『なりません』
『トリスタンみたいに馬に乗るならまだいい』
『女性が馬に乗るなど、とんでもない! そんなはしたないことは認められません』
『じゃあ歩く』
『……ロバはどうですか? いささか品がありませんが、田舎ではよく農婦が横座りで乗っています』
『ロバに乗るなら歩いたほうが早い』
 結局、アニスが折れて、徒歩での通いになった。彼はその後でデナンに叱責されたと聞く。主人を社会常識にうまく沿うようにするのも侍従の務め、ということだ。
 さすがにミナセ家の輿かつぎは、揺らさないように担ぐことに長けているようだ。なめらかに進んで行く。
 そんなに悪いもんじゃないな。
 嫌いだったのは、道行く者に蔑みのまなざしを向ける貴婦人たちだったかもしれない。
 しかし、輿に乗っていたら、街でアニスとジュースを飲んだりはできなかっただろう。
(でも、これからはそんなことは無しだ。ちゃんと、アビュー家の跡継ぎらしく振る舞わないといけない)
 先ほどのパルシェムを思い出す。ルシャデールよりも年下とはいえ、やけに侍従にべったりのように見える。口は生意気だが、いつも不安そうに目がきょろきょろしていた。
 エディヴァリにもしばしば落ち着きがない、もっと舞に集中しろと、注意される。
(神和家の跡継ぎなんて、もともとロクな者じゃない。みんな根無し草みたいなもんだ)
 根無し草が肥えた土地に移植された心もとなさ。ルシャデールにも覚えがある居心地の悪さを、パルシェムも味わっているのかもしれなかった。
 アビュー家に着くと、アニスは輿担ぎの男たちに心付けを渡して返した。
「アニサード」
「はい」
「明日から輿で稽古に通う」
 彼の視線が彼女に向く。そのまなざしをよぎるのは何なのか。よくわからない。だが、それはすぐに引っ込み、侍従の微笑みにとってかわる。
「それは、ようございました。当家の担ぎ手たちは雇われてこのかた、ずっと仕事にあぶれておりましたから」
 そうだった。アビュー家では三年前に担ぎ手六人を雇い入れたのだ。ルシャデールだけのために。だが、輿は使われず、彼らは厩や庭の仕事をしていた。といって、簡単にクビにするわけにもいかず、執事は悩んでいたらしい。
「では、明日からそのようにいたします」
 ルシャデールはうなずいた。

 へゼナード・ソワムはその後も特に変わりはなかった。
あの幻視のことも、さほど重大には考えていないらしい。
『まるで他人事です』とアニスは言っていた。
普通の人間はユフェリから送られる『知らせ』を必要以上に恐れるか、取るに足らないものとみなしてしまうか、二種類に分かれる。ソワムは後者らしい。
あの幻視はパルシェムだけでなくルシャデールも見ている。一緒にいた黒い犬は何だったのか。へゼナードはどこへ行こうとしていたのか。
 だが、六月のドルメテ祭が近づくうちに、そのことは二の次、三の次になっていった。ドルメテは神和師にとって大きな祭事であり、ルシャデールやアニスもその手伝いに駆り出される。
 それが終わった時には、もうすっかり彼女もその件は忘れてしまった。
 

第4章 逃亡計画

   

 輿(こし)は揺れないようにゆっくりと進んでいく。
 ミナセ家から帰るルシャデールにつき従いながら、アニスはぼんやり考えていた。
つつがなく毎日が通り過ぎて行く。
 周りがどんどん変わっていくような気がする。
 空は青いままなのに、周囲は雨が来そうだと、走り出している。ルシャデールも、オリンジェも、へゼナード、トリスタンやデナンも、シャムでさえ少し変わった。前はもらった給金はぱっぱ、ぱっぱと食べ物や酒、小口の賭け事など使っていたが、最近貯金をしているらしい。
『おれも先のこと考えなけりゃな。いずれは嫁だってもらいたいしさ。知ってるだろ、男が払う結納金は三年分の給金が相場だぞ。そりゃさ、おまえみたいに高い金もらえるなら、いつでも好きな女と結婚できるだろうけどな』
 シャムにも好きな娘がいるのかもしれない。軽口たたいてじゃれ合うだけの女の子ではなく、結婚してもいいと思うような娘が。
 おまえみたいに高い金もらえるならいいけどな。
 その言葉にかすかな棘を感じた。
 アニスは輿の上の女主人を見上げた。輿に乗ると言い出した時、すっと彼女が離れて行った気がした。もちろん、彼女の身の安全を考えれば、徒歩よりもいいに決まっている。暴漢にでも襲われた時、彼ひとりではルシャデールを守れそうにない。情けないが事実だ。
 鏡を割った日から、ルシャデールは乱れない。自分の立場にふさわしく振る舞っている。だが、それはアニスに対しても同様だ。一線を引いてしまった。
 来年の七月には『錫杖(しゃくじょう)の儀』が予定されている。彼女の成人の儀式だ。アニスはその前の半年を仮仕えとして王宮に上がる。そして、王からの賜り物として『錫杖の儀』に神和家|嫡子(ちゃくし)に与えられ、正式に仕えることになるのだ。
 仮仕えも不安の種の一つだが、今から心配しても仕方がないし、王宮の侍従たちはたいてい武術指南院(アデール)で知った顔ぶれだ。
 それより、仮仕えの半年は王宮から出られない。彼自身は、そういうものか、と思うが、それですませられない者がいた。オリンジェだ。
 彼女はもっと頻繁(ひんぱん)に会いたいと言っている。だが、アニスにすれば月二回、時間をとるのがやっとだ。もう少し、こっちの立場も考えて欲しいと思う。
 最初の頃、アニスのことをうさんくさげに見た彼女の父親も、最近ではやけに歓迎してくれる。それも重荷だった。
 輿担ぎたちは乗降台に輿を乗せた。アニスは彼女の履物をそろえて置く。立ち上がったルシャデールはゆっくりと台から降りた。
「ごくろうさまでした」
 彼女は輿担ぎたちをねぎらい、屋敷に入っていった。すっかり『アビュー家の御寮様』だ。
 彼女を部屋まで送ると、廊下の向こうにデナンが待っていた。
「アニサード、話がある」
 感情を表に出さないデナンだが、ずっと彼の指導を受けていると、少しはわかってくる。いい話じゃなさそうだ。彼の部屋へ黙ってついて行く。
 使用人の中で、唯一デナンだけが主人と同じ階に部屋を持っている。ソファ、絨毯、低いテーブルはあるが、ずっと質素だ。彼は戸を閉めると、立ったまま話を始めた。
「ロサイム・ヤズハネイが私に会いにきた」
「えっ?」
 オリンジェの父親だ。
「仮仕えに上がる前に、娘とおまえのことを、もう少しはっきり決めておきたいとのことだ」
「はっきり決める?」脳みそが蒸発していきそうな気がした。
「年齢的にはまだ早いが、数年後には娘を嫁にすると約束してほしい、とのことだ」
 アニスは口をぽかんと開けて、デナンを見る。
「四年前に教えた侍従の心得を、また一から教えなければならないとは情けないな」
 デナンは冷ややかにアニスを見る。
「おまえにとって一番大切な者は誰だ?」
「……御寮様です」
 デナンは軽く息をつく。
「本当にそうか?」
「はい」
「では、御寮様よりも大切だと胸を張って言えない娘なら、最初から相手にするな」
「!」自分の中途半端な気持ちを見透かされ、アニスは黙り込む。
「御寮様がどれほどおまえに気をつかわれていらっしゃるのか、わかっているのだろうな?」
「はい」
「オリンジェ・ヤズハネイとはうまく手を切れ」
「はい」
 素直にはい、はい、と答えるアニスに、デナンは息をつき、眉間に皺をよせる。
「アニサード。他人の顔色をうかがうな。己が正しいと思ったことは信じろ」
「はい」
「もういい、行け」
「はい」
 デナンの部屋を出て、溜息をつく。現実が陽炎(かげろう)のようにおぼろにかすむ。
(どうして僕は……いつもこうなんだろう。どこか……誰もいないところへ行ってしまいたいな……)


「なんだ、しけた顔してるな」
 ミナセ家から武術指南院に向かうアニスに、へゼナードが追いついてきた。
「そういう君は元気そうだな」
「おれはあいつと離れれば元気になるんだ」
 へゼナードは肩をすくめる。確かにパルシェムと一緒の時の彼はしかめっ面を崩さない。
 へゼナードとパルシェムは従兄弟同士だとアニスは聞いていた。どちらも一人っ子だが、パルシェムは両親に猫かわいがりされて育ったらしい。
「かわいい女の子ならまだしも、あんな甘ったれのクソガキ。同じ侍従やるんなら、おまえのところの方がまだいいよ」
「男の方がいいよ。女は何考えているのかさっぱりわからない」
 妙に実感のこもったアニスの言葉に、それもそうだな、と彼はうなずいた。
「でもさ、おまえのところの御寮さん、最近落ち着いてきたじゃないか」
「表面的にはね」
「……何かあるのか?」
「わからない」
 アニスは小さく首を振る。最近のルシャデールは何かを必死に封じ込めているようだ。根拠はないが、それに触れてはいけない気がして、最近は何も言わないことにしている。
「オリンジェとかいう()とはどうなってるんだ?」
「あー……うん、手を切れと言われた。デナンに」
 話題がオリンジェのことに変わって、声が軽くなる。
「なんでだ? ……あ、御寮さんか? やきもちでも焼いてるのか?」
「やきもちはないと思うけど、でも気をつかわせているみたいだ」
「おまえ、いいのかそれで? 確かに、おれたちは主人第一の侍従だけど、これだけは譲れないってこともあるだろ」
 アニスはちょっと考える。
「……ないよ。そりゃ、御寮様に突然、死んでくれとか言われたら、ちょっと待って下さいってなるけど」
 へゼナードはあきれた顔してアニスを見た。
「オリンジェよりも、御寮様の方が優先か? 信じられない奴だな、おまえは。あんなかわいい子、ちょっといないぞ。潤んだような目とか、ぽっちりしたピンク色の頬とか、それに」彼は両手を胸の前で丸く形作る。「だろ?」
「君は彼女の家族に会ってないから、そんなのんきなこと言っていられるんだ」
「家族がどうかしたのか?」
 父親は一見家の中で威張っているようだが、何か言おうとするとき、妻の顔を窺う。母親は半ば睨むように、何かを言わせようと顎でしゃくる。アニスはその母親がオリンジェとよく似ているように思えてならない。
「だいたいの家庭はそんなもんだろ」へゼナードは珍しくもなさそうに言った。「つまり、オリンジェはかわいい娘だけど、このまま付き合い続けると何もかも牛耳られそうだってことか?」
 アニスはコツンと石を蹴った。
「会うたびにたかられている気がする。ラピスラズリの腕輪とか、ネックレス、細い絹レースのついた肩掛けとか」
「高級品だな。でも、金がないわけじゃないだろ?」
「まだそんなにもらってないよ」
「あるならいいじゃないか」
「よくない。なんだか、穴のあいた桶に水を入れているような気がする」
「ぜいたくな悩みだな。かわいい子に好かれてるのに、それがうっとうしいなんて」
「ぜいたくでも何でも、どうやって彼女から逃れればいいんだ?」
「もったいない。でも、そうだな……愛想をつかされるようなことをすればいい」
「例えば?」
「博打にのめりこんで大枚の借金を背負い、神和家を追い出されるとか……女もいいかもな。あちこちの女を渡り歩いて(かさ)(※)を患いました、ってのはどうだ? いや、だめだ。なんたって、トリスタン様は癒し手だからな。侍従の職務に耐え切れず、物狂いになるのはどうだ?」
 あきらかに面白がっている。
「へゼナード、僕は真面目に悩んでいるんだ」
「失踪……ってのはどうだ」
「へゼナード!」
 むっとして彼の方を見ると、彼は笑っていなかった。試すような目がアニスに向けられていた。
「……おまえさ、違うことやりたいとは思わないか?」
「違うこと?」
「このまま侍従じゃなくて、もっと普通の、多少貧乏でもさ、街の中で物を商ったりするような仕事なんかだよ」
 二人は西街道を横切り、ムスタハンとクズクシュ両地区に挟まれた隊商通りに入った。ここは別名、ラクダ通りとも呼ばれていた。船での交易がそれほど盛んでなかった昔は、
 この辺にたくさんの隊商宿があり、キュテフェルやラトベスから荷を積んだラクダが往来したという。今でも、かつてほどではないが、陸路の隊商はここに滞在する。
「あの生意気で我儘なチビの言うことばかり聞いて、この先何十年も過ごすのかと思うとゾッとするんだ」
「どうするつもりなんだ? どこか他の国でも行くのか?」  
 へゼナードはそれには答えず、絶対秘密だぞ、と口止めした。
 そう言われても、黙っていていいものなのか。そういえば春先、彼は挙動不審だった。その頃から用意を始めていたのかもしれない。
 アニスはアビュー家に来て六年になるが、屋敷を出ようなどと考えたことは一度もなかった。どういう形であれ、ここでずっと働いていく。そう思い込んでいた。もし、屋敷を出るとすれば、クビになる時だ。
 小侍従の逃亡はしばしば起こることだった。神和家の跡継ぎは養子ということもあってか、甘やかされることが多い。それに振り回される小侍従が耐え切れなくなる。
また、高い地位にある神和家は政争にも巻き込まれがちだ。侍従は家の存続が危うくなるような厄介事を避けるべく立ち回らねばならない。他人に話せないことも多い。侍従という立場は孤立しがちだった。他の使用人とは一線を画している。
 へゼナードがアニスに打ち明けたのは、同じ立場の者として多少なりとも、心を許しているからかもしれない。


 彼の計画はなかなか実行に移されなかった。
 その間も、アニスの周りは何もかもが変わりなく進行中だ。
 オリンジェとも会っている。
 この前はカベル川沿いを歩いていたら、突然聞かれた。
『また御寮様のことを考えているの?』
 話の種が尽きて、ちょっと考え込んでいた時だった。指摘された通り、考えていたのはルシャデールのことだった。違うよ、と言ってはみたものの、たいがいの女の子は勘がいい。
 別にやきもち焼いているわけじゃないの、とオリンジェは前置きして、
『でも、私と会っている時は、御寮様のことを考えるのはやめて』と、ふくれっつらを見せる。とがらせた唇が妙にかわいくて、目をそらせてしまう。
 その後で、彼女が市場の髪飾りを見に行った時、監視役の弟がぽつりと言った。無理しない方がいいよ、と。
『姉ちゃんはおっかねえからさ、やめといた方がいいよ。器量よしだってみんな言うけど、見かけだけだから』
 身内の遠慮ない言葉にアニスは苦笑いしてしまった。
『それにわりとしつこい性格だからさ、つかんだものはなかなか離さないんだ。下手すると、うちの父ちゃんみたいに尻に敷かれるよ』


 その日の稽古はさんざんだった。しかも、稽古をつけてくれたのがカルジュイク公アルセラームだ。武術指南院でも一、二を競う使い手だ。その長身から繰り出される鋭い剣さばきにはいつも圧倒される。いつも顔を合わせるわけではないが、会うと稽古をつけてくれる。 
「どうした、今日は気が入っていないな」
 剣は弧を描いてあさっての方へ飛んで行った。木剣を拾いに行く背中に追い打ちがかかる。
「実戦でそんなざまでは、命がいくつあっても足らんぞ。御寮人をお守りせねばならぬのだろう?」
「はい」
「仮仕えはいつからだ?」
「十一月からです」
「王の御前でそんな腑抜けた顔は禁物だぞ」
 三十になるかならないかというカルジュイク公もまた、アニスの父を知る一人だった。武術指南院に通い始めた七つ、八つの頃に、父やデナンに稽古をつけてもらったのだという。父を語る時にはいつも、敬愛のひびきがこもる。
「はい」
「神和家の侍従には、それ相応の心労苦悩があるのだろうが、剣を抜いたら一切の雑念を遮断せねばならん」
「はい……」うなだれたアニスはふと思いついて顔を上げた。「アルセラーム様」
「何だ?」
「逃げることは卑怯ですか?」
 カルジュイク公は灰色の瞳を興味深げに光らせる。
「武人の誇りや誉を一に置く者ならば、卑怯だと言うだろうな。だが、私は生き延びる方を選ぶ。生きて、王に仕える方がいい。だから、そのためには常に退路を頭に入れておく必要がある」
「退路……ですか」
「たとえば、この稽古場に四、五十人の敵が襲ってきたとしたら、おまえはどこから逃げる?」
 アニスは稽古場を見回した。大寺院の伽藍(がらん)ほど広いが、出入り口は三つだ。南側は外への玄関に通じている。東は院長の私邸に続く。西は屋外の稽古場だ。馬場や弓の稽古場がある。
「敵が南側から来たのなら、西の方でしょうか」
 カルジュイク公はにやっと笑う。
「上はどうだ?」
「上?」
 稽古場は二階屋はないし、階段もない。
 戸惑ったアニスに、カルジュイク公は北側の壁の隅にある戸を指し示した。木剣などの武具が置かれている部屋だ。
「奥にもう一つ部屋がある」
「はい、使われなくなった剣や弓がありました」
「本当にそれだけか? ソワムは気づいていたぞ。春ごろ、よく入って行っていた」
「え?」
「気持ちいいぞ。つまらぬ鬱屈など忘れてしまう」
 稽古をつけてもらった礼を言って、アニスは物置へと向かった。
 へゼナードが? 春先?
 武具庫の棚に使っていた木剣を置き、さらに奥へ進む。
 物置部屋の中は薄暗かった。採光用の小さな窓が高い位置についているだけだ。壁際にはずらりと、古そうな鎧が並んでいる。剣はいろいろ三日月刀や、細い片刃の剣もある。棍棒の先に棘のような突起付の鉄球をつけた、朝星棒と呼ばれるものもある。どれもこれも(ほこり)っぽい。長櫃(ながびつ)があちこちに置かれている。一つを開けると、弦の切れた弓が入っていた。
 あたりを見回し、出入り口みたいなものを探す。
 ない。今、入ってきた稽古場への戸だけだ。
 アニスはふと、長櫃の一つに目を止めた。それだけ埃がたまっていないことに気がついた。重い蓋を持ち上げると、そこには石段があった。地下へと続いている。
 え? これは……どこにつながっているんだ? 
 用心しながら、足を踏み入れる。蓋は開けたままにして、下に降りて行く。階段はすぐに終わり、そこからは平らな通路だ。少し奥の方に進むと、明かりは届かなくなり、真っ暗になった。ひんやりした石の壁と足元の感触を頼りに進む。
 やがて通路は行き止まりになったが、手で探ると、戸の取っ手が見つかった。開けると今度は螺旋階段だ。光が差し込んでいる。上に窓があるようだ。昇っていくと少しずつ明るくなっていく。数十段で上にたどりついた。天窓がある。そこについていた梯子を上り、窓を開けた。
 風が髪をなでて吹き過ぎていく。頭上には雲一つない空が広がる。
 四年前に訪れたユフェリを思い出させる空の青さだ。
『つまらぬ鬱屈など忘れてしまう』
 アルセラームの言葉を思い出した。アニスは注意しながら、屋根の上へ出る。稽古場の屋根は平なところに傾斜の(ゆる)いドームを乗せた形になっている。彼がいるのはそのドーム屋根の北側だった。
 手前には貴族の館が木々の間から見え隠れしている。その向こうには北方丘陵の稜線。
 そっと屋根の上を歩いてみた。ドーム屋根は明かり採りのため、一部分がガラス張りだ。踏み抜かないように気をつける。
「わあ!」
 頂塔部にたどりつき、思わず声を上げた。
 左手には王宮がそびえ、近くには貴族の館が立ち並ぶ。その先に広がるのはピスカージェンの街だ。オテルス大寺院の尖塔が朱色の屋根の間から突き出ていた。
 カベル川が光っている。アビュー家の屋敷からの景色もいいが、こちらの方が高台にある分、眺望がいい。
 アニスはしばらくその風景に見惚れていた。
 カルジュイク公にこの場所を教えたのは、父とデナンだったのではないか。ふと、そんな考えがよぎる。隠し通路の入口になっていたあの長櫃に腰かけて泣いている幼いアルセラーム。そこへ不敵な笑みを浮かべるデナンといたずらっ気に満ちた明るい瞳の父が現れて……。
 もちろん、それはアニスの空想にすぎない。
 それはそうと、へゼナードはここへ何しに来ていたんだ? 『鬱屈』を晴らしに?
それだけではなさそうだった。左手には武術指南院の院主コッフェルの私邸がある。右手には壁道と街の中心部をつなぐ道。前方は隣家の屋根だ。
「あっ!」
 屋根の上はうっすらと砂埃がたまっていたが、そこに点々と足跡がついている。真新しいものだ。ヘゼナードに違いない。
 たどっていくと、足跡は武術指南院の屋根の端から隣家の屋根へと続いていた。
 トカリスとかいう貴族の別邸らしいが、ふだんはほとんど無人だ。本棟は別にあるようなので、使用人の居住棟かもしれない。アニスがいるところからは、少し間があいている。
 そーっと下をのぞいてみた。石を積んだ塀が見える。ここは三階ぐらいの高さだが、地面の遠さにめまいがしそうだ。
(でも、これくらいなら飛び移れないことはないだろう)
 現にヘゼナードは飛び越えている。
 アニスは長衣の裾をたくし上げ、帯に裾を挟み込むと、えいやっと、向こうの屋根に飛び移る。
 漆喰がもろくなっていたのだろう。着地した時の勢いで、屋根に足を突っ込んだ。
「うわあ!」
 なんとか体勢を立て直すが、冷や汗がふきだした。呼吸を整え、さらに足跡を追う。
(こんなところ、誰かに見られたらまずいだろうな。神和家の小侍従がすねを出して、泥棒みたいに屋根を渡り歩いてるなんて)
 その一方で、思いもよらぬ冒険にワクワクしないでもない。
 細長い建物の端まで行くと、向こうは別の家の敷地だ。
(で……ここからはどこへ行けばいいんだ?)
 見回しても飛び移る屋根はもうない。あとは下へ降りるだけだ
(下へ? まさか! 絶対にケガをする!)
 考え込んでいると、黒っぽい影がひゅっと前を通り過ぎて行った。ざくろの大樹をめがけて、ヒヨドリが飛んできたらしい。赤い実が葉の影に見える。
「あ、そうか」
 屋根の下をのぞくと、太い枝が伸びていた。アニスが乗っても折れなさそうだ。ひょいっと太い幹をめざして飛び移る。
(いてっ!)
 細い枝が顔を打ったが、うまくいった。あとは樹のこぶや窪みを使って降りるだけだ。
 降り立ったのは大きな館の庭だった。人気(ひとけ)はない。
 崩れかけた塀に沿って糸杉が数本、天をさしていた。大理石の彫像にからみついたツタはとうに枯れ、装飾タイルをほどこした泉水盤はひび割れている。ぼうぼうと茂った雑草の下には煉瓦の舗石が見えた。
 草をかきわけていくと、大きな屋敷のテラスに出た。窓のガラスは割れ、中は薄暗い。廃屋のようだ。
(ここは……もしかして幽霊屋敷?)
 トカリス家別邸の隣は幽霊が出ると聞いたことがある。
 六十年前に当主が息子に殺されたのだという。息子は親殺しの罪で処刑され、家は廃絶した。幽霊の噂はその頃からあったようだ。老人が窓のところに立っていたとか、夜中に叫び声が聞こえるとか。トカリス家別邸に人が出入りしなくなったのもそれが関係しているのかもしれない。
 ユフェリを訪ねたことがあるにもかかわらず、アニスに霊感はない。しかし、見えないからこそ怖い。薄気味悪い。
 そーっと建物の中に足を踏み入れてみる。
 大広間とおぼしき部屋はひどく荒れていた。調度品はすべて処分されたのか、がらんとした室内は絨毯(じゅうたん)も敷かれていない。天井から吊り下げられたろうそく台は、三段づくりの大きなものだが、蜘蛛の巣におおわれていた。
 そろそろと、音を立てないように歩いた。
 ガタン! 
 はっ、と身がすくむ。隣の部屋あたりだ。幽霊なんかいるはずないと思いたいが、いることはすでに知っている。
 床に赤黒くしみのようなものが残っていた。血の跡じゃないだろな、と思いつつ、そのそばを通り過ぎる。後ろから何かに首を掴まれるような気がした。
 隣の部屋の戸は斧でも打ちつけたように壊れていた。そっと覗いてみる。
 へゼナードが背負い袋になにやら詰めている。
「へゼナード!」
「うわあ!」彼は少しのけぞってアニスを見た。「びっくりした。おまえか」
「何をやっているんだ?」
 床には毛布や着替え、携帯用の食糧、それに地図が散らばっている。どうやら『逃亡』の準備らしい。アニスは地図を拾い上げた。東フェルガナ地方の地図だ。
「本気なのか?」
 へゼナードは地図を取り返し、背負い袋につめた。
「止めるな。もう決めたんだ」
「止めないよ」アニスはあっさりと言った。「僕も行く」
「何をしに?!」
 驚いてへゼナードは聞き返す。
「君が言っていた『違うこと』を探しに」
 そうだ、違う道を探そう。御寮様に僕は必要ない。侍従なんて誰だっていいんだ。いや、僕じゃない方がいい。僕みたいな気のきかないのろまよりも、もっとほかの誰か。
 へゼナードは他に何か意図があるのではないかと、怪しむようにアニスをじろじろ見る。
「なんでおまえがアビューを出なきゃならないんだ」
「……話せば長くなる」
「御寮さんを捨てて行くのか?」
「君だって同じだ」
「あいつはおれから離れないと、かえってダメになる。でも、おまえのところは違うんじゃないのか?」
「うちの方は……僕がいなくても大丈夫だ」
 むっつりとへゼナードは考えていたが、やがてそれを振り切ったのか、アニスに言った。
「わかった。決行は四日後だ。それまでに自分の荷物を用意しろ」
「わかった。行く先は?」
「秘密だ。おまえみたいないい子ちゃんは、いざとなると裏切りかねない」
「僕だって好きでいい子ちゃんしているわけじゃない!」
 思わずアニスは大きな声を出した。
「他に……他になりようがないんだ!」
 ふだん穏和なアニスが怒りにけおされたのか、悪かった、とへゼナードは低い声でつぶやいた。
「最初にペトラルに向かう。その後は……まだわからない」
 アニスは黙ってうなずいた。



※瘡:梅毒のこと。

第5章 幽霊屋敷

    


 正午の鐘が重く響いた。
 遅い。
 舞の稽古はとっくに終わっていた。輿担ぎたちも迎えに来ている。侍従だけがまだ姿を見せない。
 何かあったんじゃないか?
 何か……武術指南院(アデール)で馬に蹴られたとか、何か悪いものを食べて腹痛を起こしたとか、それとも、街でごろつきに因縁をつけられて怪我でもしているとか……。
 自分の想像力のなさにため息が出た。
 別に侍従を待たずに帰っても問題はない。迎えに来ないアニサードが職務怠慢とみなされるだけだ。主人に侍従を待つ義務はない。
 同じ控えの間にはもう一人、侍従を待つ者がいた。パルシェム・ヌスティだ。小馬と馬丁は半時以上も前から外で待っている。
「どうしたんだろう、へゼナードは……」
 彼はさっきから同じことをつぶやきながら、玄関の方を気にしている。
「わがままな主人に愛想つかしたんじゃないのか」
 ルシャデールは退屈しのぎにからかう。だが、パルシェムはちらりと彼女の方を見ただけだった。
 おや? と、彼女は目を止める。以前から侍従にべったりの奴だと思ったが、もしかしたら、単なる心配性ではないかもしれない。何かを感じているのだろうか。そういえば、いつぞやの幻視もわからないままだ。
「おまえの家は遠視(とおみ)でならしているんだろ。侍従がどこにいるかぐらい、わかりそうなもんじゃないか」
「うるさい、ガマガエル。おまえだって、ユフェレンだろ。イスファハンの居場所がどうしているか、わかるはずだ」
 ルシャデールは北の方角を親指で指差した。あまり品のいいしぐさではない。
「方角だけしかわからないんだ、私は。モルメージを持ってきてやろうか? ユフェリにつながりやすくなるだろ」
 でも、こいつがユフェリにつながる前に、私が先に向こうへ行ってしまいそうだ。
「そんな都合よく()えるもんか」
 パルシェムはむくれて、ぷいとそっぽを向く。
 ふと、ルシャデールは思いついた。
 私がこいつにユフェリの『気』を入れてやったらどうなんだ?
 思いつくとすぐ、彼女は実行してみる。
「何をするんだ!」
 突然額に手のひらをかざされ、パルシェムは避けようとした。
「動くな! 今、ユフェリの気を入れてやる。そうしたらよく視えるかもしれない」
 パルシェムは動くのをやめて、ルシャデールを見る。瞳が不安に揺れたが、一瞬のちにそれは消えて、彼は流入する『気』を受け入れた。目の焦点がしだいに合わなくなり、体の緊張が解けていく。眠りかかったように目は半ば閉じられて……。
「うわあ!!」叫びとともに目を見開いた。
「何か視えた?」
 パルシェムの額には脂汗がにじんでいた。
「暗い……部屋の中だった。廃墟のような荒れた部屋が視えた。床にへゼナードと」彼はルシャデールを見上げた。「イスファハンが倒れていた」
 倒れていた。自分の言葉にショックを受けたのか、彼は青ざめた。
「もしかしたら……死んでいるのかもしれない!」
「まだわからない」ルシャデールは平静だった。「もう一度、視てごらん」
 先ほどと同じように、彼の額に手を当てる。今度は素直にユフェリの気を受け取る。ややあって、彼は目を開け、「同じだよ」と情けなさそうな顔でつぶやいた。
「場所は?」
「わからない。でも、今起きてることなんだよ、きっと。だって、へゼナードは僕の迎えに、こんな遅くなったことはない。イスファハンもそうだ。おかしいよ、絶対」
 ルシャデールは立ち上がった。方角はわかっていた。でも、遠くないだろうか? 
 以前、方角だけを頼りに、ある場所へ行こうとしたことがあった。歩いているうちに日が暮れてしまい、屋敷に帰ったのは翌朝だったろうか。一緒にいたアニスはデナンにひどく怒られてしまった。
 でも、今回はピスカージェンの街の中か、そうでなくても近いだろう。朝はちゃんとミナセ家に彼女を送ってきたのだ。
 「ルシャデール! 二人を助けに行かないと! 方角はわかるんだろ? 行こう!」パルシェムが彼女の手を引っ張る。 
「ちょっとお待ち」彼女は引っ張り返す。「私たちは、神和家の嫡子なんだ。供も連れずに、ひょこひょこ歩くわけにいかない」
「何を急に分別くさくなってるんだよ。二人が死にそうになっているんじゃないか!」
 きいきい騒ぐパルシェムを前に、不思議とルシャデールの方は落ち着いていた。ちらりと外に目をやる。子馬の横で馬丁が手持無沙汰そうに空を見上げて、鼻毛を抜いている。
「おまえ、今迎えに来ているのは馬丁だけかい?」
「そうだよ」
「小馬や輿に乗るなんてまどろっこしい。屋敷に帰そう。走った方が早い」
「走る? 神和家の跡継ぎが走る?」
「うるさい!」ルシャデールは小童の襟首をつかんで目の前に引き寄せた。「おまえのたいそうな足二本、何のためにあるんだ?!」
 彼女はパルシェムの腕を引っ張り、稽古場の方へ戻った。
 エディヴァリはまだそこにいた。召使に手伝わせて、床の拭き掃除をしていたようだ。前当主みずから掃除をすることに、一瞬ルシャデールは驚いたが、今はそれより急ぎの用がある。
 小侍従二人が迎えに来ず、尋常ならざる事態が起きているように思われることを説明した。
「それはゆゆしきこと。わたくしの家の者を二、三人連れてお行きなさい。そなたたちの家にはわたくしから知らせます。ですが、無理をしてはなりません。ルシャデール、行く先はわかっているのですか?」
「方角だけは」
「では、行くのはピスカージェンの市街地の中まで。いいですね? 壁道より外へは行ってはなりません。行かねばならないとしても、その前に必ずここかご自分のお屋敷に戻り、当主どのに報告して指示を仰ぐこと」
 壁道とは、かつてピスカージェンの街を取り囲んでいた城壁ぞいの道のことだ。城壁はかつての戦いでほとんど壊れてしまったが、道はそのまま街全体を取り囲む環状道路となって残っている。道の内側をピスカージェン市街地としていた。
「はい」
 エディヴァリは自分も一緒に行こうと言ったが、かえって邪魔になる。ルシャデールは丁重にお断り申し上げた。
 ミナセ家の門を出て、ルシャデールは天気を見るように空を見上げ、目を閉じる。
 北だ。
「行こう」
 彼女はパルシェムの手をつかみ走り出す。ミナセ家の従僕三人もついてくる。
 屋敷前の道をいったんは西に進む。しばらく行くと、オテルス大寺院と斎宮院を結ぶ道に出た。迷いなくルシャデールは大寺院の方へ向かい、次はスメラ橋の方角へ。
 この地域はピスカージェンでも一番の繁華街だ。屋台や人混みを避けながら走る。
 スメラ橋を渡って、最初の四辻でルシャデールは初めて立ち止まった。右手はエニセ地区。王宮を始め、貴族の館が立ち並ぶ。左手はアビュー家のあるカシルク地区だ。右手からは楽の音が流れてくる。犬が風に乗ってくる匂いや音を捕らえようとするように、彼女は顔を上げた。
 そう遠くない。
「武術指南院がこの近くだよ」
 パルシェムが息を切らしながら言った。
「武術指南院じゃない」考える前にそう答えていた。「でも、近くだ」
 ネズルカヤ地方へと続く道からエニセ地区へ入って行く。甘い花の香りが漂う。
 ああ、これはアムラーテだ。
 頭の隅で思った。いぶした煙を吸うと、思考力が低下し、眠くなる。月の花とも言われていた。昔から月の女神シリンデに捧げられる。妖艶な香りは嫌いではないが、今はなぜか不吉なもののように感じた。
 ……たりは……ら……があずかって……おる……
 え?
「何か言った?」
 ルシャデールは立ち止まり、パルシェムにたずねた。
「何も言わないよ」
 ミナセ家の従僕たちの方を振り向くと、何も申しておりませんがと、一番年上の男が言った。
 ……わらわが……あずかっておる……
 預かっている? 誰だ?
 声はそれきり聞こえなかった。
「どうしたのさ?」パルシェムが不審な顔をしている。
「いや、何でもない」
 意味のはっきりしないものは、うかつに口に出さない方がいい。辻占いをしていた頃、カズックに教えられた。もっとも、ユフェリから送られてくる知らせはいつだって曖昧だ。
「行こう」
 ルシャデールはゆっくりと進む。あたりの気配を慎重に精査しながら。
 馬のいななきが聞こえた。武術指南院が近い。ミナセ家の従僕に二人が来ているか聞いてくるよう頼んだ。
「朝から顔を見せていないそうです」
「やっぱり何かあったんだよ!」
 パルシェムの甲高い声が頭に響いた。剣の稽古にも来ていないことに、ルシャデールは不安を感じた。
 武術指南院の門を通り過ぎ、辻で立ち止まる。
 右は違う。まっすぐだろう、たぶん。だが、左の道も気になる。大きな樹の枝が細い小路の上を渡って隣の屋敷の屋根の下まで伸びていた。
 その木の下まで歩いていき、枝を見上げた。目に視えないものの気配がざわついている。そのはざまに、二筋の魂跡が残っていた。大枝を這うように渡って行くアニスの姿が頭に浮かんだ。アニスとヘゼナードが通ったに違いない。
 何が起こったのかわからないが、最悪の事態になっていないことを祈った。取り乱さずにいられるのは、パルシェムのおかげだろう。彼のきいきい声は、むしろ彼女の心を鎮めた。
「あの屋敷のような気がする」
 ルシャデールは四人のところに戻り、大樹のある屋敷を指差した。
「誰の屋敷?」
 パルシェムに聞かれたが、彼女が知るはずもない。
「私の記憶に間違いなければ、あれは空き家と存じます」一番若い従僕が言った。「昔、人が殺められ、以来、住む者はおりません。幽霊屋敷との噂があり、よく若い者が度胸試しで忍び込んでいると聞きます」
 彼の案内で門の方へ向かった。塀も門も手入れがされておらず、半ば崩れかかっていた。門番小屋も残っているのは土台だけだ。石やレンガは持ち去られたらしい。
 玄関の方へ続く道は石畳になっていたが、隙間から草が生えている。屋敷の戸は開いているが薄暗い。
「気味悪い……」パルシェムが尻込みする。「誰か見てきてよ」
 おまえは自分の侍従が心配じゃないのかと、怒鳴りつけたくなる。代わりに彼の腕をむんずとつかみ、引きずるように中へ入っていった。
「殴られたくなかったら、これ以上弱気なこと言うんじゃない!」
 中は埃だらけで蜘蛛の巣もあちこちに張っていた。それを避けながら、一行は進む。
「足跡がございます」先頭を歩いていた侍従が振り返った。
「幽霊だ、きっと!」青い顔をしてパルシェムは叫ぶ。
 ルシャデールは足跡を見つけた従僕を下がらせて、前に出る。
〈隠れてないで出ておいで。いるのはわかってるんだ〉
 声に出さずに呼びかける。さっきから気配は感じていた。部屋の一つに入っていく。大広間だ。
 白髪頭の老人が座っていた。
「でっ、出た、出た、うわあ……幽霊だあ!」
 後ろでガタゴト音がしたのはパルシェムが腰を抜かしたらしい。それを追って遠ざかる足音がする。従僕が彼を連れて出て行ったようだ。でも、一人は残っている。気配から察するに、あの一番年配の従僕かもしれない。
白髪頭の老人を再び見やる。ひたいと眉間には深くしわが刻まれ、目には力がこもっている。
〈不法侵入の(やから)が出てこいとは無礼であろう〉
〈これは失礼いたしました。人がいるとは思っていなかったものですから〉
〈住む者がいて何の不思議がある。ここはわしの屋敷じゃ。招かぬ客をもてなすのは本意ではないが、茶ぐらいは出して進ぜよう。これ、誰かおらぬか!〉
 どうやら老人は自分が死んでいることに気づいていないらしい。
〈ああ、どうぞおかまいなく。それより人を探しているのです。十四歳の少年二人、こちらへお伺いしておりませんか?〉
〈不法侵入の若い者なら幾人も来ておる。愚かで軽薄な馬鹿者ばかりじゃ。しかし……〉老人は陰険な笑みを浮かべた。〈わしは親切じゃからな。たいていはコルメスに頼んで丁重にお帰り願う〉
 コルメス……コルメスの道! このじいさんは、道をつなぐことができるのか?
 驚いて黙っていたら、老人はちらりと隣の部屋へ続く扉を見る。
〈もっとも、無事に帰り着いた者がいるかどうかは、わしの知ったことではないが〉
 ルシャデールは最後まで聞いてなかった。隣の部屋へ突進した。壊れた扉の向こうに少年が二人、前のめりに床に倒れていた。
「アニス! ソワム! 誰か! パルシェム! 二人がいた!」
 駆け寄って抱き起す。アニスは息がある。ソワムもだ。しかし、気を失っていて、揺さぶっても目を覚まさない。
「へゼナード、死んじゃいやだよう!」
 おそるおそる入ってきたパルシェムが、ソワムに取りすがって泣いていた。「ヘゼ、目を開けてよう!」
 声変わり前の甲高い声が耳に障る。
「死んでないよ、バカ」
 ルシャデールは彼の尻を軽く蹴った。振り返った少年の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。
「でも……」
「気を失っているだけだ」たぶん、とルシャデールは心の中でつけくわえた。
 興奮した小童は捨て置いて、彼女は従僕たちに指示を出す。一人はアビュー家へ、もう一人はヌスティ家へ。起きたことを知らせに走らせた。一番年上の男が彼らとともに残った。
 さっきの老人はもういなかったが、あざ笑うような気配はまだ残っている。何か悪さをするような印象はなかったので、放っておくことにした。
 床に横たわった小侍従たちのそばには、背負い袋が落ちていた。二個……二人分だろう。ルシャデールはしゃがみこみ、その背負い袋を手に取る。
 どこかへ行こうとしていた? でもどこへ?
「パルシェム、おまえの侍従はどこか行くつもりだったのかい?」
 彼はまだ鼻をすすっていたが、少し落ち着いたようだ。
「知らないよ。ヘゼは一人でどこか行く時は、必ず僕にことわってから出かけた」
 それはアニサードも同じだ。
 見てはいけない気もしたが、ルシャデールはそっと背負い袋を開けた。着替えの服、火口箱(ほくちばこ)、手ぬぐい、薬入れ、干した果物が入った布袋、折りたたんだ羊皮紙は地図だ。
「東フェルガナの地図だ」
 それを聞いて、パルシェムが顔を上げた。
「地図? もしかしたら……ペトラルへ行こうとしていたのかもしれない。前に住んでいた街だ」
「身内の者がいるのかい?」
「ヘゼの父親、僕にとっては叔父がいる。うちの両親が亡くなった後、僕もそこにいた」
「ふうん。ソワムは父親のところに帰ろうとしていたのか」
「たぶん。病気らしいんだ」
「誰が? ソワムの父親が?」
「うん」
 パルシェムはちょっとばつの悪そうな顔をしてうつむいた。
 ソワムの方はきっと、こいつのわがままのせいだ。
 ルシャデールはすばやくその辺の事情を察した。
 では、アニスは? いくら小侍従同士、親しくしていたといっても、ペトラルまで見舞いに行くほどの間柄ではないだろうに。しかも主人である自分に無断で。
 そのことをパルシェムにたずねてみた。
「僕がなんでイスファハンのことまでわかるんだ。きっと意地の悪い主人にこき使われるのが嫌になったんだろう」
 その言葉、そのままおまえに返してやる。そう言いたかったが、他家の侍従の手前、にらむだけにした。
 半時もしないうちに、イェニソール・デナンが騎乗で駆けつけた。彼は二人の小侍従の体を調べて言った。
「外傷は何もないようですね」 
「うん。私たちが来た時、うつぶせに倒れていた」
「まずは、二人を屋敷へ運びましょう。荷車と輿を手配しました。まもなく着くでしょう」
 それから彼はパルシェムの方を向く。
「ソワム殿はいったん、アビュー家の方へお連れいたします。二人の容態を診るには、その方が都合がよろしいかと存じます」
 パルシェムはうなずき、世話をかける、とだけ言った。


 その日の夕刻、アビュー家の客間に、九人の神和師が集まった。
 一番の年長で総代格のカラサ・ディクサンをはじめとして、
 エデュラール・ケサイ。
 セラフード・レセン。
 ロセイム・カルバサル。
 ヴィクトゥス・エニティ。
 ラグジュエリ・ミナセはエディヴァリの養女だ。
 代替わりしたばかりのキリス・タクスムは先代のダーヒルを伴っていた。
 もちろんケテルス・ヌスティとトリスタン・アビューも同席している。
 さらにおのおのの侍従がつき従っていた。
 アニスとヘゼナードはアビュー家の客用寝室に二人して寝かされている。まだ目覚めてはいない。集まった神和師たちは二人の様子を見てから、善後策を練っていた。
パルシェムとルシャデールは部屋のすみの方で黙って座っていた。
 重苦しい空気が部屋を満たしている。従僕がときおり冷めたお茶を代えに来る以外、誰も動こうとしない。
 二人がアビュー家に運び込まれてから、他家の神和師たちも呼ばれた。その他にも引退した神和師でピスカージェンに住む者が何人か来ていた。何が起こったのか正確に把握するには、多くの者に見てもらう方がいいからだ。
「『オルメニの道』か……』
 タクスム家の先代当主ダーヒルが難しい顔をしてつぶやいた。
 宇宙はたくさんの層からなっている。一番重い層がカデリ、この現世だ。ユフェリには重い層と軽やかな層がいくつもあるが、ふだんはその層が交わることはあまりない。しかし、『オルメニの道』は違う層と層の間に自在に抜け穴のようなものを作ってしまう。
「あれも精霊の一種と言われているが、はっきりしたことはわかっていない。肉体ごといなくなることもあれば、魂だけ持って行かれることもある。いわゆる『(たま)さらい』だな」
「あの現象を何と呼んでも構わんが、彼らは戻って来るのか?」
 セラフード・レセンが焦れたようにたずねた。
「『魂さらい』の場合は、たいて眠り続ける。一日、二日で目覚めることもあれば、そのまま眠り続けることもある」
「その場合はどうなる?」
「飲まず食わずで眠っていたら、当然体が衰弱して死ぬ。運よく意識が戻っても、正気を失って廃人となる者も少なくない」
 治癒の方法はないのかと、たずねたのはディクサン家の当主カラサだった。それに対してダーヒル・タクスムは「ない」ときっぱり言った。
「宇宙が始まってこの方、意味のない存在はないとするなら、『コルメスの道』とてそうであろう。このたびのイスファハン、ソワムの件も、どのような結果になろうと必要なことと私は考える」
 正統なユフェレンとしては、この上なく正しい意見だ。誰も何も言えなかった。
 結局、しばらく様子を見ようということで、みな帰って行き、当事者であるケテルス・ヌスティとその侍従、それにパルシェムが残った。
 客用寝室で眠り続ける二人の小侍従を見下ろし、トリスタンが絞り出すような声で言った。
「意識が戻ってくれればいいが」
「ああ」
 陰鬱な表情でケテルス・ヌスティがうなずく。
 パルシェムが『ヤギ親父』と陰で呼んでいる彼の養父は確かに、ヤギに似た風貌だった。あごひげの形や、長い首や風雨にさらされたような白いもしゃもしゃの髪。それから、どんよりと暗く気難しそうな目つき。
 ものの言い方も情味がない。今もソワムの身を心配しているというより、単に厄介なことになったと思っているようにしか見えない。
 ヘゼナード・ソワムは二、三日、アビュー家に置いておくことになった。様子を見て、ヌスティ家の方へ移すという。
 小侍従二人がどうして幽霊屋敷に出入りしていたのか、荷物を持ってどこへ行こうとしていたのか、誰も問題にしなかった。逃げ出そうとしていたのは明らかだったし、今、問うても仕方のないことだ。
 それでもルシャデールは、アニスの寝顔に、なぜ? と心中で問いかける。 
 逃げ出すほどに辛いことがあったのか? 私の侍従を務めることがそんなに嫌だったのか? 
 見ればパルシェムもうなだれている。もともと赤みのない顔がますます青白い。大人たちの方へしばしば向けられる目はおびえているようだ。
 ルシャデールは彼とその養父を交互に眺め、苦笑いを浮かべた。彼女とトリスタン以上に、冷えた関係のようだ。
 パルシェムがヌスティ家に養子に来たのは、昨年の暮れと聞いている。それまでパルシェムがどういう暮らしをしていたのか知らないが、まだ互いを親として、子として受け入れられないにちがいない。四年前のルシャデールとトリスタンがそうだったように。
 もうこれ以上話すこともないのだろう、ケテルス・ヌスティが(いとま)乞いをして立ち上がった。続いて侍従のギュルベール・ラトンもそれにならう。だが、パルシェムは座ったままだった。
「帰るぞ、パルシェム」
「嫌です、僕はへゼナードのそばにいます!」
「おまえがここにいてもできることはない」
「嫌です! このまま死んでしまうかもしれないのに!」
「アビュー殿にもご迷惑だ」
 パルシェムはきっ、と、トリスタンの方を向く。ご迷惑ですか? と言わんばかりに。
「ケテルス殿……うちは構わないが……」
 目の前で繰り広げられようとしている親子ゲンカに、トリスタンは困惑気味だ。だが、ヌスティ家の当主はそれを無視して、パルシェムの腕をつかみ立たせた。その手を振り払い、彼は抵抗する。
「嫌だ!」
「わがままを言うのもいい加減にしろ!」
 パシンという音とともにパルシェムの頬が打たれた。泣き出す彼を、挨拶もそこそこに、ヌスティとラトンが荷物のように引きずって出て行った。
 見送ったルシャデールとトリスタンは顔を見合わせ、息をついた。


 その晩、寝支度をすませてから、もう一度ルシャデールは様子を見に行った。大きな七本の蝋燭の灯りの中で、二人は意識を失ったままだった。今夜は従僕が交代で付いてくれるという。
 寝台のそばに、従僕のルトイクスが何も言わず立っていた。
「交替は?」
「夜明け前にはインディリムが来ます」
 インディリムは従僕見習い、ルトイクスは今年見習いから上がったばかりだ。どうやら一番下の二人が、寝ずの番を言いつかったらしい。
「夜中の仕事は辛いだろうけど、頼んだよ」
 かしこまりました、というルトイクスの返事を背に、彼女は部屋へ戻る。
 生意気でかしましい小童が帰った後、屋敷の中は妙に静かに感じた。毛布をかぶっても、眠れそうになかった。
 目を覚ますだろうか。もし覚まさなかったら……。
 血の気がひいて行くようだ。このところ、距離を置くようにしてきたとはいえ、アニサードが大切な存在だということは変わっていない。
 人ならぬ気配に気づいて、そちらを見ればカズックだった。のんきな顔をして、後ろ足で耳の後ろをかいていた。
「カズック……アニスは今、どこにいる?」
「ユフェリだ。行っても会えないぞ」
 ルシャデールがすぐにそこを訪れようとしたのを察して、彼はつけ加えた。
「どうして?」
「タクスムの隠居が言ってただろが。そうすることが必要だからだ。忘れたのか? 『ものごとすべて故なきものはなし。人の目に見えずとも、常に義あり』ってな」
「そのくらいわかっている」
「どうかな?」カズックは首をかしげ、片耳を上げる。
「このままだと死んでしまう!」
「人は死なない。四年前、おまえはあの坊やにそう言ったろう。そして、ユフェリに生きる家族と会わせてやったじゃないか。死ってのは何だ? 無になることではないぞ」
「だけど……」
 自分の中の矛盾を突き付けられて、ルシャデールは黙る。
「おまえ、昔の方がよくわかっていたぞ。年頃になって、色ボケしたか」
 最後の一言にかっとなって、水差しを投げつけたが、彼はすでに姿を消していた。

第6章 シリンデの領域

    
「なあ……おれたちどこを歩いているんだ?」
「うーん……わからない」
 じっとりとした濃い霧が周りを取り囲んでいる。他には何も見えない。その中を二人は歩き続けていた。どこへ向かっているのかもわからない。
「おれたち何時間、それとも何日歩いているんだ?」
「さあ」
 アニスは肩をすくめる。
 いったいいつからこの霧の中を歩いているのだろう。
 朝、御寮様をミナセ家に送り、その後へゼナードと共に、幽霊屋敷へ荷物を取りに行った。そこで管理人と称する老人が出てきたのは覚えている。アニスは無断で屋敷に入ったことを謝り、すぐに出て行くと言った。
 老人は怒りもせず、旅に出るのかね? とたずね、へゼナードがそうですと答えた。すると老人はそっちの扉の通路を行った方が街道に近いと教えてくれたのだ。扉を開けると真っ暗な廊下だった。二、三歩進んで、扉は音もなく閉まった。
 え? とアニスは思わず振り返った。しかし、それに構わず、へゼナードはどんどん先に進んでいく。暗闇がしだいに薄れ、気がつくと霧の中だった。それからずっと歩いている。
 どちらともなく、休もうか、と言ってその場に腰をおろした。
「ここ、ピスカージェン……なのか?」
 ヘゼナードは困惑した様子で息をついた。
 アニスは首を振った。
「違うと思う」
 ピスカージェン周辺で霧が発生することなど、十年に一回あるかないかだ。
「あの幽霊屋敷で真っ暗な通路に入った時、僕らはおかしなところに来てしまったんじゃないかな」
「……あのじいさん、生きている人間じゃなかったよな」
「えっ?」
「おまえ気づかなかったか? あのじいさん影がなかったぞ。だから、おれ、さっさとあの場を離れたくてさ」
 それで、足早に通路に入っていったら、このわけのわからない場所に来ていた。
「服がぬれてないね」
 さっきから不審に思っていたことだ。彼が育ったハトゥラプルは、夏はよく山から霧が降りて来る。山の濃い霧は服を湿らすので嫌いだった。でも、この霧は……煙のように乾いている。
「そういやそうだな」へゼナードも相づちを打つ。「なんだ、何か気づいたのか?」
「僕が思うに……いや、間違っているかもしれないけど……」
「言ってみろよ」
「ここはユフェリじゃないかと思う」
「ユフェリって、あのユフェリか?」
「他にどのユフェリがあるんだ?」
 だが、アニスが知っているユフェリとは様相が違っている。イルカのいた海や灯台野のように明るくはないし、囚われの野のような岩だらけの荒れ地ではない。といって、もちろん『庭』のような緑と花に囲まれた美しい園でもない。
「つまり俺たちは死んだのか? 死んだ記憶はないぞ」
「死んでなくてもユフェリには来れるよ」
 四年前にも経験している。それに、夢を見ている時にも訪れていることがあるらしい。だが、本当にユフェリなのか、確証はない。
 その時、霧の白い(とばり)が割れた。ぬっと現れた人影に二人はのけぞった。
「うわあああっ!」
 しかし、人影は彼らの方を見向きもせず、再び霧の中へ。互いにしがみつきながら、二人は消えた先を凝視していた。
「何だ、あれは? 幽霊か?」
 アニスはわからない、と首を振った。
「もし、ここがユフェリだとしたら、僕らも幽霊みたいな状態だ」
「おれたちも?」
 ユフェリは精霊や死者の魂が集う場所だ。肉体を持つ者は出入りできない。そのくらいはへゼナードだって知っている。
「じゃ、おれたちの体は?」
「幽霊屋敷にあるのかもしれない。たぶん、気を失った状態で」
「……誰か見つけてくれるかな? そのままだったらどうなるんだ? 死んだりしないのか?」
「大丈夫だよ、きっと。僕たちがミナセ家に迎えに行かなければ、何かあったと思ってくれる。君のところの御寮様は遠視ができるんだろ? 僕たちがどこにいるか、わかるんじゃないのか?」
「あいつの力か?」ヘゼナードは首をかしげた。「視えるったって、あまりあてにならないぞ」
「それならうちの御寮様が見つけてくれるよ」
 ルシャデールなら、求めるものがどの方角にあるかわかる。
「体は見つけてくれると思う。でも、ここにいる僕たちを、誰が見つけてくれるんだろう?」
「……元に戻れないって言いたいのか?」
 アニスは答えなかった。
(帰りたいんだろうか、僕は? 逃げ出すつもりで、準備したのに。そもそも何から逃げたかったんだろう)
「帰りたいのか、君は?」
「目的地はここじゃない」ヘゼナードはむっつりと答えた。そして、やおら立ち上がり、畜生! と、闇に向かって叫んだ。
「ヘゼナード?」
 座ったままアニスが見上げると、握りしめたこぶしが震えている。
「おれはこんなとこで足止め食っているわけにいかないんだ」
 暗くてよくわからないが、アニスには彼が泣いているような気がした。
「落ち着けよ、ヘゼナード」
 アニスは袖を引っぱり、座るよう促す。彼はため息ひとつついて、再び座り込んだ。
「何があった?」
「……親父が死にそうなんだ」
「えっ」
 半年ほど前から彼の父親は床についているという。
「近所の人がたまたまピスカージェンに出てきた時に教えてくれた。それで今年の初め、宮廷や斎宮院の行事が一段落したあたりで帰らせてもらったんだ」
 ああ、そういえば、と思い当たることがあった。一月の半ばからパルシェムの供についていなかったし、剣術の稽古も休んでいた。再び会ったのは二月も後半に入ってからだ。
 どうしたのかと聞いても、ヘゼナードは『ちょっとな』と言葉を濁していた。
「あまりよくないのか?」
「近所のまじない婆さんに診てもらったら、肺が悪いんだろうって。そんなに……長くないと言われた」
「……」
「むこうにいた一週間なんてあっという間だ。病気の親父を残して戻りたくなかったけど、親父はおれを心配させまいとして、熱があるのに仕事に出ようとしたりしてさ。おれ、こっちに戻ってから御前様に言ったんだ。小侍従をやめたいって」
「ヌスティ家を出るのか?」
 へゼナードはうなずいた。
「そうしたいと思ってる。おれ、ヒゲじじいには気に入られてないんだ。おれも嫌いだ。あんな陰険な奴。ま、侍従はちょっと気の利く奴なら誰でもいいし、ヒゲじじいにすりゃ水売りの息子より、もうちっと利用価値のあるのを小侍従に据えたいらしくてな。辞めるならどうぞ、と言いたいところだろうが、パルシェムのやつが承知しないんだよ。あいつ、あれでなかなか頑固だからな」
 確かに、彼のヘゼナードに対する固執と言ってもいい甘えっぷりは小侍従仲間でも時々話題に上がる。あまりよくない意味で。
「そんな……。彼にとっても叔父さんにあたる人なのに」
 アニスの言葉にへゼナードは首を振った。
「あいつにとっては、うちの親父はろくでもない叔父なのさ。死のうが生きようが、知ったこっちゃない。それより、誰が自分の面倒を見てくれるのか、そっちの方が問題なんだろ」
 へゼナードの父ソワックは、もともとオスジニの生まれで、早くに両親を亡くし十歳でタイル職人のところに弟子入りしたのだという。だが、十五の時に親方とケンカして飛び出てしまい、それ以来水売りをしていた。
 二十三の時に祭で知り合った娘エニと結婚の約束をした。しかし、彼女は街でも裕福な小間物屋の娘だったから、水売りとの結婚などとんでもないと反対され、駆け落ち。二人はペトラルの町に落ち着いた。
 一年後、居場所を探し当てた彼女の兄ノセルが、ペトラルへ来た時にはヘゼナードが生まれていた。そうなると連れ戻すわけにもいかず、エニは親兄弟から絶縁されたという。
 ヘゼナードが三歳になった年、エニが病に倒れた。ソワックは妻に少しでも滋養のあるものを食べさせてやりたかったが、水売りの稼ぎでは食べていくだけでも精一杯だった。
 恥をしのんで、ヘゼナードの父はエニの実家に金を借りに行ったが、もう関係ないと追い返されたのだった。
「おれはその時まだガキだったから詳しいことは知らないけど、後で聞いた話じゃ、かなりえげつないことを言われたらしい。どのみち、おふくろは助からなかったかもしれないけどな。それでも親父はパルシェムの親が死んだ時、あいつを引き取った」
 パルシェムの両親は流行り病で相次いで亡くなったのだという。店は繁盛していたが、多額の借金もあったらしい。店は借金のかたに取り上げられた。
「うちに来てからのあいつはひどかったぞ。『飯がまずい』から始まって、『家が狭い、汚い』だの、『働くのは嫌だ』だの。わがままが過ぎて、うちの親父に殴られることもあったな。あいつは体が弱かったせいか、母親に甘やかされて育ってんだ」
 そのパルシェムを養子に欲しいと、ヌスティ家から申し入れがあったのが一年前だった。
「いい厄介払いだと思ったんだけどな」
 神和家は裕福で、王家にも重んじられている。しかし当のパルシェムが嫌がった。
 それはそうだろう。一人で知らない家にもらわれていく。不安でないはずがない。へゼナードと父は、ヌスティ家に行けばおいしいものを毎日食べられるし、大きな家で贅沢ができる、おもちゃも一杯買ってもらえると、説得した。そのうち、パルシェムも折れてきたが、
『ヘゼが一緒なら行く』と言い出した。
 彼は行きたくなかったが、侍従として一緒に来てもよいという話がヌスティ家側から出て来ると、彼の父親が行くことを勧めた。
『ここにいたって、水売りや荷担ぎがいいとこだ。毎日、食うことに追われるだけの暮らしだ。しかし、神和家の侍従といや、そりゃあたいしたもんだって話だぞ。おれのことはいいから、パルシェムと一緒に行け』
 そうして彼は神和家の小侍従に決まってしまったという。
「おふくろが死んだ後、おれはよく親父の商売にくっついて行ったよ」ヘゼナードは懐かしそうに話した。「母を亡くしたかわいそうな子ってんで、お得意先のおかみさんたちが駄菓子をくれたりしてさ。舌足らずな口で『ひゃっこい水、ひゃっこい水だよ』って、街を流して歩いたもんさ。大人になったら、おれも水売りになるもんだと思ってたし、なりたかった」
 水売りがそれほどいい仕事とは思えないが、ヘゼナードが父を誇りにしているのはアニスにもよくわかった。
 その一方で、パルシェムがそんなにわがままとは思えなかった。昔のルシャデールと似ている。親に愛されなかった子と愛され過ぎた子の違いはあるが、どちらも不安で怯えていただけだ。へゼナードには、パルシェムの父親が金を貸してくれなかったことに対して、わだかまりがあるのかもしれない。
「で、勝手に出て行くことにしたのか」
「ああ……。四月頃から準備してたけど、あの幻視の件があっただろ、延び延びになってしまった」
「そしたらこんなことになった、ってわけか」
「おまえはどうなんだ?」
「え?」
「何だって逃げ出すんだ? 御寮さんだって、そう悪くないだろ。最初の頃はひどかったって、噂は聞いたけどな。でも、今はアビュー家の跡継ぎらしく振る舞っているじゃないか。愛想はないけど」
 どう説明すればいいのか。へゼナードの話を聞いた後では、自分の出奔の理由がひどくばかげていて、愚かしく、幼稚なものに感じる。
「うちの御寮様は……うん、僕にはよくしてくれる。侍従に決まる前から。他の使用人から『御寮様のお気に入り』とか言われてた」
 アニスは苦い笑みを浮かべる。へゼナードはその笑みの影にあるものを察したようだ。黙ってうなずく。
「パルシェム様とは反対に親に構ってもらえずに育って、他人に心を閉ざしていた。御前様にもなじめずにいて、その分、僕には……親しくしてくれた」
 ルシャデールは寂しくても、寂しそうな顔はしない。むしろ、それを隠すために不機嫌で、ふて腐れた顔をする。うれしい時も、照れ隠しに無愛想に口を曲げるから、身近に接していないと、彼女の機嫌はわからない。アニスはそれがわかる数少ない人間の一人だった。
「僕はあまり気が利いているわけではないし、御寮様が望むことをすぐに察することもできない。それでも、まあ、役には立っているんだろうとは思っていた」
 この四年間、ルシャデールの気持ちを一番よく理解しているのは自分だという自負がアニスにはあった。彼女の養父トリスタンよりも、侍女のソニヤよりも、彼女が胸にしまいこんだ悲しみや苦しみもわかってやっている。そう思っていた。
「でも、春頃から、御寮様は僕との間に距離を置くようになった」
「不思議ではないだろ。主従とはいえ、男と女だし」
 確かにその通りだ。
「……捨てられたような気がする」
「捨てられた? そういう仲だったのか?」
 アニスの発言に、へゼナードはすっ頓狂な声をあげた。
「違う……」うまく伝わらないことに、軽く苛立つ。「友達だったんだ」
「男と女で『友達』はないぞ。おまえ、御寮様に女を感じることはないのか?」
まるっきりないと言えばうそになる。
「ないわけじゃないだろ」
「う……ん。でも、洗濯のおばちゃんにも、それはあるよ。すねが色っぽいだとか」
「胸がでかいとか」
「尻がでかいとか」
 二人は顔を見合わせて笑いあった。
「でも、御寮様は妹か何かみたいな感じなんだ。もちろん、主人でもあるけど」
 兄と妹には見えないぞ、姉と弟ならともかく。へゼナードはそう言って笑う。
 実年齢でもルシャデールの方が四ヶ月程度年上だ。アニスとしては、彼女の世話をしてきたという思いがあるから、妹という言い方をしたのだが、実際にはそれ以上のもののようにも感じていた。
「片足一本なくしたような気分だ」
「そりゃ、片足ったら一本に決まってる」へゼナードが上げ足をとる。
「オリンジェなんかはさ、別に僕でなくてもいいんだと思う。君でもいいし。要するに神和家の小侍従、いやそうでなくても将来有望そうな奴だったら誰でもよかったんじゃないか? だけど、御寮様は違う。僕が荷担ぎでも、屑拾いでも、たとえ盲の乞食だったとしても、街で会ったら声をかけてくれる。反対に御寮様が街の辻占いをしてても、僕はきっと友達でいると思う」
 へゼナードは黙ってアニスを見ていたが、ややあって、いいな、そういうのは。とポツリと言った。
「おれはあのチビに対してそういう風には考えられないよ。あいつが街で物乞いでもしてたら、おれは知らんぷりして違う道へ行こうとするだろな。そしたら、あいつが目ざとく気づいて、『行かないでよ、ヘゼ。従兄弟じゃないか。昨日からなにも食べてないんだ』とか何とか哀れっぽく追いすがってくる。うん、目に見えるようだ」
 パルシェムそっくりな口真似で、最後はさも嫌そうに言う。アニスはつい笑ってしまった。
 風がそよぎ、霧が吹きちぎれ、流れて行く。
 二人は思わず立ち上がった。芝居小屋の幕が開くように、あたりの景色が彼らの前に広がる。
 雲間から現れた丸い月が煌々と照らしていたのは、枯れた草がところどころに生えているだけの荒れた土地だった。一抱えぐらいもある円錐形の岩が、固い地面から突き出たように転がっている。
 振り返れば、二本の塔がそびえ、狼か犬の遠吠えが不安をかきたてる。
「薄気味の悪いとこだな」
「うん」
 アニスはさっき、ユフェリじゃないかと言ったが、本当にそうなのか自信がなかった。もし、ユフェリだとしたら、『囚われの野』に近いところかもしれない。
 以前に来た『囚われの野』は死してなお欲望や執念に捕らえられたままの魂や、死んだことに気づいていない者が集まって、それぞれの望む世界を作り上げている。金の亡者や終わることのない戦乱の中で戦い続ける兵士たち、浮かばれないままの自殺者。
 御寮様のお母さんは今でもあそこにいるんだろうか?
 ルシャデールの母セレダは彼女が六歳の時に自殺していた。アニスは四年前にユフェリを訪れた時に、セレダを見ていた。首を吊ったままの状態で、行方不明になった夫の名を呼んでいた。
「おい」
 へゼナードがアニスをひじでつついた。青ざめた顔は円錐形の岩にじっと向けられている。
 アニスははっと気が付いて、後じさりした。良く見ると、どの岩も膝をかかえて座る人の姿だ。全体が黒っぽく、彫像のようだ。
「なんだ、あれは?」
 アニスはわからない、と首を振った。岩の一つに、そーっと近づいてみる。四十くらいの女だった。三つ編みにした髪を結い上げ、ショールを肩に巻いている。
 恐る恐る触れてみた。手に砂のようなものがつく。柔らかい石のようだ。やけに生々しいのは、髪の毛やまつ毛の一本一本や唇のしわまであるせいか。
「彫像……か?」
 へゼナードもさわってみる。
「うわっ!」
 髪の毛がぱらぱらと砂になって崩れた。顔を見合わせる二人。
 その時、しゃがれた歌声が風に流れてきた。
 
「ひょいほい、ひょいほい、
 今日も麗しき御方様のため、
 哀れなホユックは働くのさ
 ひょいほい、ひょいほい
 昔の悪さをつぐなうために
 いかさまホユックははたらくのさ
 ひょいほい、ひょいほい」

 年を取ったせむしの男だった。右手にカンテラをかかげ、左手にさげているのは木桶のようだ。黒いマントにすっぽり身をおおっている。さっき、霧の中から現れた人物とは違う。額から頭頂部にかけて禿げあがり、そのまわりの薄い髪は雪のように真っ白だった。左目には黒い眼帯をかけている。
「なんじゃ、新入りか」
「僕たち、道に迷ったんです」アニスは言った。「教えてください、ここはどこですか?」
 せむしの老人は二人をじろりと見た。まるで奴隷商人が奴隷を値踏みするよう抜け目ない眼差しだ。
「ふん、新入りにしては元気がいいと思ったわ」
 老人は木桶とカンテラを下におろした。
「ここはどこですか?」アニスはもう一度たずねた。
「御方様の御料地じゃ」
「御方様とはどなたですか?」
「もちろんシリンデ様じゃ。まさかシリンデ様を知らんとは言わんじゃろな?」
 どこのシリンデだ? 小声でへゼナードが聞いてくる。
 アニスが知っているシリンデは一人しかいない。そのシリンデなのか? カデリなら途方もない考えだが、ここがユフェリなら、ありえなくもない。
「月の女神にして処女(おとめ)たちの守護者、荒ぶる男たちの女王、冥界の支配者、シリンデ様……ですね?」
「本当にいるのかよ?」
 神和家の小侍従とはいえへゼナードにとって、神は遠い存在だ。
「うん、いると思う」
 アビュー屋敷をうろつくカズックは、カズクシャンの街の守護神だった。神と言うにはさばけているが。
「幽霊が見えるのに、神の存在は信じないのか?」
「おまえ、幽霊と神は違うだろ。神なんてものは、他に食っていく道のない奴らが、他人から金を集めるために創りだしたようなもんじゃないのか?」
「違うよ」アニスはきっぱりと言った。「別に『神』という名でなくてもいいんだ。だけど、僕らを愛し、見守ってくれる存在は確かにいると思う。願い事を叶えてくれるような者ではないだろうけど」
 それは幼い頃から彼の中に根付いている信仰というよりも確信だった。最初は祖父(本当は父のじいやだったが、祖父として一緒に暮らしていた)から聞いたことだ。空に、風に、木々や草花の中に、小さな虫の中にも、あらゆるものの中に神がいるのだと。
 せむし男は二人の会話にかまわず仕事を始めた。木桶の中からハンマーを取り出し、人型の岩を一つ一つ吟味していく。
「あった、これじゃ」
 そうつぶやくと、ハンマーを振り上げ、岩に打ち下ろした。岩は一瞬にして細かい砂となって崩れ、小さな山となったが、一陣の風にすべて吹き飛ばされた。あとには何も残っていない。
 二人は唖然と見ていたが、へゼナードの方がおずおずとたずねた。
「何をなさっていらっしゃるんですか?」
「ここにいる必要がなくなった奴を追い出したのさ」
「追い出した……」
「ここにある岩はみんな人間の魂が固まったものなんじゃ」
 どういうことですか、とアニスがたずねると、せむしの老人は面倒くさそうに教えてくれた。
 ここは、生きてはいるが意識がない、あっても、もうろうとした状態の人間の魂が集まる場所だという。酒や麻薬、高熱、狂気などで正常な意識を失った者がここに来る。
「道を見つけて、すぐに向こうに戻って行く者もいるがね、戻れん者も少なからずおる」
 道を見つけられない者は、さまようことに疲れて、座り込む。そのまま石のようになってしまうのだという。
「じゃあ、さっき壊した石の人は……死んだんですね」
「ああ、そうじゃ。ここには死んだ者はおれんからな。それより、おまえさんたち、道を探したほうがええんと違うかね? 向こうに未練がないなら、それでもかまわないがね。ひっひっひ」
 耳障りな声でせむしの老人は笑った。
「あなたは……ここの番人をしているんですか?」ふとアニスは興味を持った。
「番人というより仕置きされてるんじゃよ」
「仕置き……」
「カデリで生きていた頃、御方様に仕える処女に悪さをしてな。巫女は美しい娘がそろっていたでな。若かったわしには目の毒じゃった。で、ある日、巫女を呼び出し、無理やり物置小屋に連れ込んでな」老人はニタニタと笑う。
「あとでそのことがばれて、わしゃ片目をつぶされ、七日七晩吊るされて、やっと息が絶えたと思うたら、御方様の前に引き出されておったんじゃ。御方様はえらいべっぴんじゃが、気性がきつくてかなわん」
「巫女さんはどうなったんですか」
「塔から身を投げてしまったよ」
 下卑た笑を浮かべながら、老人は仕事に戻って行った。ややあって、アニスはヘゼナードの方を振り返った。
「ホユック・ナケルバンって聞いたことないか?」
「いいや」へゼナードは首を振った。「誰だ、そりゃ?」
「神和家の一つだったナケルバン家の最後の当主だ。斎宮院の巫女七人を犯して、そのうち六人を侍従に殺させた。」
 侍従も七人目の娘になると、罪の恐ろしさに耐えきれなくなったのだろう。殺さずに逃がしてやった。
 だが、娘は身を投げた。仔細を書きおいた遺書を残して。
 それで事が露見し、ナケルバン家は廃絶。神和師が異性との交わりを禁じられるきっかけになった事件だった。
「そのナケルバンなら聞いたことがある。ホユックの侍従は、娘が自殺したことを知って、毒をあおいで死んだんだろ」へゼナードは深く息をつく。「……主人のために人殺しまでしなきゃならない侍従って、何だろな」
「うん」
 重い空気が漂う。
 自分だったらどうしたのか。アニスは考える。年少の頃からつき従う主人は、一心同体とも言っていい。だからこそ、主人の暴走を止められなくなってしまうことも起きてしまう
『寄り添いながらも、冷徹な観察者でいろ』
 デナンがよくアニスに言っていたのは、そんな状況を避けるためなのだろう。
 へゼナードが思い出したように顔を上げた。
「そんなことより! 道を探さないと、おれたち死んじゃうぞ」
「うん」
 うなずいたものの、アニスに切迫感はなかった。父が病に伏しているへゼナードはなんとしてもカデリに戻りたいだろう。だが、アニスの方は……。
 帰らねばならない理由が見つからなかった。
 侍従なんか僕でなくても代わりはいる。今の御寮様なら、きっと、僕以外の人間が侍従になっても大丈夫だろう。それは御前様やデナンさんだって同じだ。オリンジェだって代わりを見つける。

(どこへ行けばいい? 誰も僕を必要としていない) 

第7章 待つ者たち

    


 カズックには、行っても会えないぞ、と言われたが、ただ待っていることもできなかった。ルシャデールはユフェリへ行ってみる。
 このまえアニスの母に会った灯台野には誰もいなかった。よく見かける楽師のラフィアムも他の精霊も姿を現さない。この世との境の『橋』や、死者の魂が憩う『庭』にも行ってみたが、知った顔はいなかった。
 仕方なく『囚われの野』に足を踏み入れる。
 茫漠(ぼうばく)とした赤茶色の岩だらけの荒れ地だ。
 空は曇って薄暗い。風はなく、空気はどんよりと重かった。
 得体のしれない不安に襲われながら、じっと待っていると、竪琴の甘い音色がかすかに流れてくる。優美な曲はこのわびしい地には不釣り合いに思えた。
 やわらかな音は天へ地へと吸い込まれていき、やがて空気が変化した。
 ポツポツと空からのしずくがルシャデールを打つ。それはじきに驟雨(しゅうう)となり、見る間に乾いた土地を潤し、小川となって流れていく。
 草が岩の割れ目から生い出てきた。
 草はするすると伸び、白や黄色の花を咲かせる。
 ルシャデールは目の前で繰り広げられる変化に見入っていた。ふと気づくと雨は上がって、少し離れた岩にラフィアムが腰かけていた。
 ルシャデールを認めると、彼は手を止めて「やあ」とにっこり笑みを向けた。
「尋ね人かい?」
 どうやら彼女が何をしに来たか、わかっているらしい。
「アニスを探しに。どこにいるか知ってる?」
「知ってるよ」彼はあっさりと答えた。「でも、連れ帰るのは無理だ。カズックに言われなかった?」
「だけど!」
「彼はシリンデのところにいる。あの領域はここ、『囚われの野』の一角だけど、シリンデの許しがなければ入れない」
「どうして? ユフェリは自由自在に動けるって、前にカズックは言っていた」
「たいがいのところはね。ただ、シリンデの領域は、『計画』に関係している」
 『計画』のことは聞いたことがあった。個々の魂たちはユフェリからカデリに行く前に、生まれて行った先で何をするか、ある程度決めている。それに対して他者が変更を強いることはできない。
 彼は再び竪琴をつま弾く。
 それ以上何も教えてくれそうになかった。
 ルシャデールは月の女神の領域に意識を向け、移動する。 
 夜の世界だった。
 月の湿った光に照らし出される二つの塔。それは越えてはならない境界を示しているかのようだ。その間を一本の道がくねりながら伸びている。
 道の果てには山並みが黒々と浮き上がっていた。
 その山並みには覚えがある。舞の稽古中にパルシェムが倒れた時に見たものだ。
 あの時の幻視はこのたびの事件を暗示していたのかもしれない。黒い犬はアニスだったのだろうか。
 ルシャデールは塔門へとゆっくり歩いていく。踏み込んだら何が起こるのか。まさか消されることはないだろう。それとも、戻れなくなってアニスみたいなことになるのか?
 意を決して一歩、踏み入れる。
 何も起こらない。
 なんだ、入れるんじゃないか。
 そう思って、もう一歩踏み出した時だ。元から渦巻く風が湧き起った。いとも簡単に風にすくわれ、吹きあげられていく。
 うわあ!
 何がどうしたのかわからぬままに、つむじ風というよりは竜巻のような猛々しい気流の中、ゆすぶられ翻弄される。
<入ることはならぬ!>
 はっきりと拒絶の意志が伝わってくる。
 そのうちに風はゆっくりとおさまっていき、気がついた時、彼女は見知らぬ家にいた。
 ここは?
 彼女は天井近くに浮いた状態で床を見下ろしていた。
 やせた男が布団に横たわり、止まらない咳に苦しんでいる。黒い死の影が男の身をおおっていた。
 家の中には家具らしい家具もなく、小さな衣装箱が一つと、部屋の隅にはよく水売りが担ぐ大きな水差しがあった。真鍮(しんちゅう)製で、もとはぴかぴかだったのだろうが、かなり傷がつき、色もくすんでいる。背負うための皮のベルトは切れたところが補修してある。
 戸口には近所のおかみさんだろうか、女が二人小声で話をしていた。
「へゼナードは帰ってこないのかい? この前帰ってきてからずいぶんになるじゃないか」
「お屋敷のお許しが出ないんだろか」
「……ピスカージェンからは遠いしねえ」
 ルシャデールは男を見下ろした。両胸に黒い気がたまっている。呼吸をするたびにゼイゼイと音がする。熱もあるようで、かなり苦しそうだ。
 体から脱けた状態で癒しの術が使えるのか、試したことはなかった。死を遠ざけるのは無理としても、少しでも苦痛を和らげることができればと、下に降りていく。
 枕元にひざをついた時、目が合った。
天女(アプセラ)さま? お迎えに来てくだすったかね?〉
 ルシャデールは首を振った。
 右手を天に左手を地に向けて、天地の気を自分の中に取り込む。力強い『地の気』と軽やかな『天の気』が彼女の中に流れ込んでくる。
 今度は腕を横に広げ、二つの気を混ぜ合わせる。
『天の気』が強い。
 彼女が脱けているからか、それとも男がこの世界から脱けようとしているからなのか。肉体の治癒には『地の気』が強い方がいいのだが。
 彼女は不安そうに見ている男に両手を向け、『気』を放つ。
 男は驚いたように目を見開き、徐々に苦しげな表情が和らいでいく。
 咳が止まったのを見計らって、ルシャデールは『気』を注ぎこむのをやめた。今度は男から彼女へと、暖かな感謝の(おも)いが流れてくる。それとともに、遠く離れた地にいる息子への情も。
<あの子たちは元気でやっているだろう。もう会うことはないだろうが、幸せでいてほしい>
 男はかすかに笑みを浮かべた。ルシャデールはいたたまれず、その場を離れた。
屋敷へ。
 自分の体に戻った彼女は布団に入り闇を見つめる。胸が重苦しい。
 どうすれば、二人は、いや、アニサードは戻って来るのか。それとも、戻ってこないのだろうか? もしそうなったら……。
 答えのない問いは終わりがない。寝返りを打ってばかりの夜はゆっくりと更けていった。


 朝は無慈悲にあける。人が死のうと生きようと。
 ほとんど一晩眠れなかったが、ルシャデールはいつものように顔を洗い、食事に行く。
 いつもとほとんど変わらない朝食の風景。
 ただ、アニサードがいない。ヘゼナードとともに眠りこんだままだ。
 トリスタンもルシャデールも無言で食べる。砂をかむような味気なさだ。
「御前様」
 執事のナランだった。
「ヌスティ家からパルシェム様がお見えでございます。応接間にお通ししておりますが」
 トリスタンはわずかに眉をひそめる。
「早いな」小声でつぶやき、面を改めてナランに指示をだす。「ソワム殿のことが心配なのだろう。二人が寝ている客間に通しなさい。もし、朝食がお済みでなければ、用意するよう厨房の方に伝えなさい」
 かしこまりました、と下がる執事を横目に、ルシャデールは塩漬けのオリーブを口に放りこむ。
 きっと、パルシェムも眠れなかったに違いない。眠れない夜をどう過ごしたのか知る由もないが、とばっちりを食うのはきっと召使だろう。

「こんな時だが、今日はこれから穣禮儀(エトルワ)の準備の会合がある」
 食事が終わって、トリスタンはルシャデールに言った。
 穣禮儀は王宮で行われる儀式の一つだ。毎年十一月に、その年の作物の実りに感謝し、国の安泰を祈る。それは神和師たちが主となって執り行うものだ。
「パルシェム殿は君が応対してくれ」
 ルシャデールはうなずいた。
「ミナセ家に一緒に連れて行く」
 え? と、トリスタンが聞き返した。
「稽古に行くつもりかい?」
「もちろん。ここにいたからって、二人の容態がよくなるわけじゃない」
 パルシェムはきっとへゼナードのそばにいたがるだろう。彼女だってアニサードが気づくのを待っていたかった。だが、その一方で「目覚めない可能性」も、頭の中で羽虫のように飛び回っている。じっとここにいても、不安がつのるだけだ。
「昨日、エディヴァリ様に従僕をお借りした。そのお礼も言わないと」
 そうつけ加えたルシャデールを養父は気遣わしげな眼差しを向ける。 
「まあ、その方が気が紛れていいかもしれないな。ただ、彼が大人しく行くかな?」
「猿ぐつわ噛ませて()巻きにでもすれば何とかなるさ」
 その言葉にトリスタンはぷっ、と吹きだした。

 二人が寝かされている客間へ行くと、パルシェムがトルハナにナスの煮物を包んでぱくついている。どうやら食事もせずに来たらしい。
「ここはいい料理人がいるな。ガマガエルにはもったいない」
「うちは使用人の給金をけちっていないからね」
 しょっぱなから憎まれ口の応酬だ。普段なら、もう少し続くのだが、互いに気落ちしているのか、出てこない。
「昨日と同じなんだな」パルシェムは寝台の方に目を向け、深く息をついた。
「気がついてたら、夜中でも使いを出してる。さっさと食事をすませたら、行くよ」
「どこへ? 」
「舞の稽古に決まってる」
 パルシェムは、ルシャデールが見ていて面白いほど、口をあんぐりあけて、彼女を見た。
「自分の侍従が心配じゃないのか?」
「ここに詰めていたからって、二人がよくなるとでも? これだから甘ったれるだけのお坊ちゃんは嫌だ」
 青白い彼の顔が見る間に赤くなってくる。
「おまえにそんなことが言えるのか!? おまえがそんな冷たいからイスファハンは逃げ出したんだ!」
「何だって!?」
 そこへ、
「お下げしてもよろしゅうございますか?」
 静かに声をかけたのは従僕のルトイクスだった。パルシェムの食器を下げに来たらしい。
「うん、もう終わった」
 二人は押し黙った。カチャカチャと陶器製の食器が片付けられていく。
「気の利く従僕だ」
 ルトイクスが出て行った後で、パルシェムがぽつりとつぶやいた。神和家の跡取り二人が口論しているのを、うまく治めてしまったのを指しているのだ。
「ダメな親には出来た子が育つって言うけど、そんなもんか」
 こいつ、またケンカをふっかけるつもりか。
 ルシャデールはむっとしたが、四つ年下のパルシェムと一緒になって怒っているわけにもいかない。
「パルシェム」穏やかな口調を心がけようとするが、頬がひきつる。「私たちは神和家の跡継ぎとして責任ある立場だ」
「それがどうした?」
「いかなる変事があっても、それに動揺することなく、平常心をもって自らを律せねばならない」
「僕はいつも平常心だ」
 どこがだ。あ、もしかして、泣いたり吠えたりが、こいつの平常心か? 
 笑いがこみあげてくる。
「結構なこと。それなら、昨日エディヴァリ様に世話をかけたお礼もちゃんと言えるだろうね」
「当然だ」
「じゃ、ミナセ家に行こう。とりあえずエディヴァリ様にお礼だけでも言わなければ。稽古をするか、しないかは、その時に決めればいい」
「子馬と馬丁は返してしまった」
「一緒に輿に乗って行けばいいさ。おまえ一人ぐらい、なんとかなるだろう」
 パルシェムは不満げだったが、結局ルシャデールの言う通りにした。
 ミナセ家まで行って、礼だけ述べて帰るわけにもいかなかった。常と変わらず稽古に来たとは殊勝なこと、とエディヴァリが二人をほめ、パルシェムは「いえ、僕はこれで失礼します」などと言えなくなったのだ。
 稽古を終えても、パルシェムは自分の屋敷に帰ろうとはしなかった。ルシャデールと一緒にアビュー家へ来た。
 小侍従の二人に変わりはなかった。
 トリスタンは会合に行ってしまって不在だ。昼食はルシャデールの部屋で、パルシェムととった。
「オリーブの塩漬けが上手い女は料理がうまい、って昔、父さんが言っていた」
 父さんというのは、実の父のことだろう。
「ふうん」
「でも、これは去年のだね」
 オリーブの収穫は十一月頃だから当然だ。
「新鮮なうちに作ったものとは違うね、やっぱり。うちにいた料理女が作るオリーブの塩漬けはおいしかった。いくら食べても食べ飽きるってことがないんだ。大きな瓶に漬けてくれたけど、一週間で食べてしまった」
「へえ」
「もっと食べたいって言ったけど、もうオリーブの収穫時期は終わってしまっていたんだ。そしたら、母さんは召使に言いつけて、ギョクスルから買い付けてくれた。僕は大切にされていたし、うちはお金があったからね」
「ギョクスルから……ね。さぞ美味しかったろう」
 フェルガナの西方にある国、ギョクスルはオリーブやブドウで名高い。特にオリーブは王侯貴族が食するような、最高級品を産していた。
「毎日食べて、二週間目には飽きてしまった。残ったのは召使に分けてやったよ」
「御親切でお優しいパルシェム坊ちゃまに、みんなさぞ感謝しただろう」
 半ば嫌味をこめて言う。何か言いかえしてくるかと思ったが、黙ってしまった。
「昼から、私は近所の病人を診に行くけど、半時ぐらいで戻るよ」
 カプルジャの様子を見に行かねばならない。 
「客を放ったらかして行くのか? 僕も行く」
「ソワムについていなくていいのかい?」
「同じ神和家の者として、他家(よそ)でやっていることを見知っておくのも悪くないだろう」
 じゃまくさいな、と思ったが、トリスタンからパルシェムのことを頼まれている。ルシャデールは軽く息をつき、いいよ、と答えた。
「近いから歩きだよ」
「神和家の嫡子が歩くのか?」
「いやなら来るな」
「行く」
 
 カプルジャは少しずつ体力が落ちてきていた。彼の身をおおう黒い影は徐々に濃くなっている。とはいえ、痛みがないぶん前より楽そうだ。
 パルシェムは邪魔にならないよう、後ろに控えてルシャデールのすることを見ていた。
「若い人はいいねえ」
 カプルジャはルシャデールとパルシェムを見てつぶやく。微かな笑みには、自分がとうに失った若さへの憧憬と羨望がにじむ。
「そうでしょうか?」
 ルシャデールとしてはそう答えるしかない。「若くない」ということが、どういうことなのかわかっていないからだ。
「そうとも、未来は光に満ちあふれ、あるのは期待と希望だけだ」
 そういうわけでもない、と、ルシャデールは思う。若ければ若いなりに、精神(こころ)の未熟さや経験不足、自意識過剰が引き起こす失敗や葛藤、挫折をいやと言うほど味わう。
「わしが御寮さんぐらいの時か……上の兄が街で馬に蹴られて死んだのは。わしは商人になりたかったが、親のあとを継いで羊飼いさ」
「そうでしたか」
「子供の時は、昔話に出て来るような大金持ちに、自分もいつかなれると思ってたよ。よくあるだろ、貧乏人の兄弟の一番下の弟が、妖精や魔物に助けられて、大冒険の末に宝の山を手に入れる。そんな話が自分の身にも起こると、本気で信じていたよ」
 老人もかつては子供だった。当たり前のことだが、ときおり新鮮な考えのように思えるのは、大概の大人には見当たらないからだろうか。光をはじいて輝くガラス玉のようなものが。
「だがねえ、最近になって思うのだよ。もしかしたら、生きることそのものが大冒険なんじゃないか、ってね。初めて娘っ子をケシェクスに誘った時のことや、親父が死んだこと、嫁をもらった時のこと、息子が生まれたこと、羊が高く売れたとか、仔羊がたくさん生まれたとか、いろんな思い出がきら星のように輝いているように思うよ。息子が死んでから羊の数を減らしてしまったが、前は三百頭ぐらいいて、夏はずっと北の方まで放牧させていたんだ。夜の涼しい風に吹かれて見る天の川はきれいだった。夏の谷川を流れる水の鮮烈さ、忘れられないねえ」
 死期が近いことを、うすうす感じているのではないか。ルシャデールはいぶかった。訪れる度にカプルジャが澄んでいくように思えた。
 カプルジャの家から帰る道すがら、黙って歩く。
「灯は消える前が一番美しい」パルシェムがつぶやいた。「何かに書いてあった。詩だったかな」
 カプルジャのところでは挨拶したきりずっと黙っていたが、小童(こわっぱ)は小童なりに何か感じたのかもしれない。
「おまえ、ソワムの父親が病気なのを知っているんだろう?」
 パルシェムはぶすっとして答えない。
「どうして父親のところに帰してやらない」
「一度帰してやった」
「明日をもしれない命だったことも知ってるね?」
「ヘゼがいなくなったら、誰が僕の世話をしてくれるんだ?」
「使用人はソワムだけじゃない」
 パルシェムは彼女の前に回りこんだ。
「みんな……僕をバカにしている。僕の前ではペコペコして、後ろを向いた途端に舌を出すんだ。養父(ちち)だって、僕のことなんか本当はどうでもいいんだ。とにかく跡継ぎさえいれば。面倒なことは全部召使まかせだ」
 聞いたことがある、いや、言ったことがある、似たようなセリフ。四年前に。
「ヘゼだって、僕を好いちゃいないのはわかってる。だけど、ヘゼははっきり言ってくれる分、まだましだ。おまえなんか嫌いだって。仕方ないからいてやってるんだ、だってさ」
「へえ、意外と冷たい奴だね」
 侍従にそんなはっきり言われてしまうと、後がない。アニサードなら、絶対、そんなこと言わないだろう。
 彼女は四年前のことを思い出す。トリスタンにも心を開けず、周りの人間に攻撃的になっていた時、アニサードだけは掛け値なしの笑顔をくれた。
 この小童には、そういう人間が、一人もいないのか……。
「おまえは、ソワムにどうしてほしいと思ってる?」
 パルシェムは考え込んでいる。
「自分のことを見てほしい。わかってほしい。自分のことを一番に好きになってほしい。違うかい?」
 同じなんだ。私もこいつも、たぶん、誰でもみんな。
「見てほしかったら、見てあげないと。わかってほしかったら、わかってやらないとさ、相手からは何も……期待するものは何も返ってこないよ」
 こんな、偉そうなこと、四年前なら絶対に言わなかった。私も成長したもんだ、と、ルシャデールは思う。四年前の自分なら、こんなことを言われると、反発するだけだった。
 パルシェムは答えない。むっつりと目の前の道を見て歩いていた。

 彼は夕方、迎えの小馬で屋敷に戻った。へゼナードとアニスは依然として眠ったままだ。
 その晩、ルシャデールは再びシリンデの領域を訪れた。
 微風が頬を撫でる。月の他に明かりはなく、星も出ていない。
「シリンデ!」月に向かって女神の名を叫ぶ。「出てきなさい!」
 本当なら平伏(ひれふ)し奉るべき相手なのだろうが、ルシャデールにすれば、人さらいのごろつきと大差ない。
「シリンデ!」 
 返事をするように月がふくらみ、光芒が地上に流れ落ちる。光は落ちた先に人型を形作った。
 女神は二つの塔の間にすっくりと立ち、ルシャデールを見ていた。白い衣装が薄く柔らかに輝く。銀色の髪は頭から肩、かかとへと、ベールのように背をおおい、足元で渦を巻く。
「わらわを呼んだはそなたか」
 細面の白い肌。紅い唇。黒々とした瞳がルシャデールを射る。
「ソワムとアニサードを返して下さい」
「彼らは自ら、わらわの料地に入ってきたのじゃ」
「あれは、廃墟の館に棲みつく霊がコルメスと結託した罠です。彼らは好んであなたの料地に入ったわけではありません」
「わらわの知ったことではない」
「なぜ、二人をここに留め置くのですか?」
「そなたに説明する必要はない」
「それは、あなたも知らないということですか? あなたの上に座す存在によって、あなたも動かされている」
「そうやもしれぬ」
 シリンデは艶然と微笑む。
「神とは人間たちがより高位の力ある者につけた、都合のよい呼び名にすぎぬ。神と呼ばれるや全知全能であらねばならぬのか?」
「それほど力があるわけではないと、あっさりお認めになるのですね」
「そなたたち人間は力を誇示することを好むようじゃが、われらはその必要はない。ただ、あるがままでよいと()っているからの」
「二人を返してください」
「ならぬ」
「どちらも待っている者がいるのです。アニサードは私にとってかけがえのない侍従ですし、ソワムは死期の迫っている父親がいます。息子が戻って来るのを待っています」
「死がなんの妨げになろう。死は愛を終わらせるものではない。ただ、生きる形が変わる、それだけのこと」
 ああ、またこの議論だ。カズックともそうだった。神という薄情な連中に、死すべき定めの人間の悲しみをどう理解させればいいんだ。
「ここ数日のうちに二人とも覚醒するはずじゃ。されどすでに門をくぐった身。前と同じとはいかぬ。狂人となって魂は、わらわの領地をさまようこととなろう」
 狂人……。ルシャデールは絶句した。
「狂気の中にこそ神は宿る。浮世の欲を離れねば、見えぬものは多い」
 詩でもそらんじるような言い方だった。
「神など宿らなくても結構! 浮世の欲とは何です? 彼らが受けるべき幸福を取り上げなければならないほど、傲慢で罪悪に満ちた欲を彼らが抱いていたと、おおせですか!?」
「狂人が幸せでないと、何故そなたに言えるのじゃ?」
「幸せなはずが……」
 ないではありませんか、そう言おうとしてルシャデールは止めた。本当にそうなのか、という疑念が生まれたのだ。狂ったことがない者に、狂気にある幸・不幸など判断できない。理不尽な苦しい運命を強いられた者が、耐えられずに狂気に逃げ込むのは、昔からあることだ。ということは、『最悪』ではないのだろう。
 狂った人間は冷静な感想など語ってくれない。 
「不幸なのは、当人ではなく、そなたら周囲(まわり)の者であろう。世間を(はばか)っての監禁は、よく行われてきたことじゃ。悪霊憑きとして忌まれ、蔑みを受け、その果てに身内の者が手を下すことも少なくない。正気を保っていた時には、愛おしんでいた者に刃を向ける。辛いことかもしれぬ……されど!」
 シリンデの声に力がこもる。
「愛するに値せぬ者か? 彼らは? 与えること、生み出すことのできない、厄介者。さっさと死んでくれるがいい、穀潰(ごくつぶ)し。そのように思うてはおらぬか? つまるところ、そなたらは利用価値のある者しか愛せぬのじゃ。狂人だけではない、いざり、(めしい)、つんぼ、働けぬ病人や老いた者。己の欲を満たす役に立たねば、そなたらは愛することも、受け入れることも考えぬ。違うかえ?」
 シリンデは優艶な笑みを浮かべて、ルシャデールを見据える。
狂人を愛する? 受け入れる?
 彼女の頭が混乱する。
 無理だ。
「とくと考えるがよい」
 シリンデはそれだけ言うと、姿を消してしまった。ルシャデールは肩を落とし、その場に立ちすくんでいた。

第8章 魂の抜け殻

 噂が広まるのは早い。
『アビュー家とヌスティ家の小侍従二人、怪異に遭遇して寝ついている』
 そう聞きつけた人々が、事件の翌々日には見舞いに来ていた。ほとんどは武術指南院の院生だ。
「どうして、知れ渡っているんだ」
 何人目かの見舞客を送り出して、ルシャデールはつぶやいた。
 おととい、幽霊屋敷で二人を見つけた時、ミナセ家の従僕が助言してくれたのだ。この件は神和家以外に知られぬようにした方がいいと。
 狂気は神や悪霊のせいと、世間一般では信じていたから、狂人の出た家はいわれなき偏見を受け、社会から疎外されることが多い。
 神事を司る神和家では「神がかり」「神憑(かみつ)き」で通すが、それでも、いらぬ厄介事を招かぬように、あまり大っぴらにはしない。
「神和家に決まっている」
 一緒に客を見送りに出たパルシェムは、そんなこともわからないのか、と言いたげだ。
 神和家の間には、昔から静かな闘争があった。
 神和師は月の女神シリンデの神子であると同時に、「始源にして一なるもの」ユクレスを信奉する寺院の院主でもある。ピスカージェンの九つに分けた各地区に一つ、それらの寺院があり、神和師の屋敷と隣接している。
 それぞれの寺院はフェルガナを九つに分けた教区を一つずつ支配しており、荘園を所有する。荘園からの収入が神和家の生活を支えている。
 神和家が何らかの事情で廃絶した場合、荘園などの財産は残りの神和家に分割して与えられる。つまり、神和家が少ないほど、収入が多くなるのだ。
 他家をおとしいれ取り潰そうという企みは、常日頃は深く水面下に漂っているが、ときおり有力貴族やユクレスの大寺院、斎宮院などを巻き込み大きな事件となって顔を出した。
 当然、神和家同士、警戒し合って、必要以上に親しくしない。嫡子同士で仲良くなっても、跡を継ぐと疎遠になっていくのが普通だ。
「おととい、意見も聞くために他の神和家も呼んだろう」
 パルシェムの言葉で思い出した。
 二人をアビュー家に運び込んだ後で、トリスタンとケテルス・ヌスティの間で軽い口論があったのだ。
 ユフェリがらみの瘴気(しょうき)や霊障による病はいかにトリスタンでも難しい。特に、本人が意識がない状態では。彼は他の神和家に助力を頼もうと提案した。憑依呪術を専門とするエニティ家や霊媒としても名高いカラサ・ディクサンに相談した方がいいと言ったのだ。が、ケテルスは難色を示した。
 神和家の小侍従が二人、幽霊屋敷に忍び込んで意識不明になっているなどと、人聞きが悪いというのだ。
『小侍従の代わりならばいくらでもいる』
 ヌスティ家の当主はそう言ってのけた。それを聞いたパルシェムがぎゃあぎゃあ騒ぎ、仕方なくケテルスも承諾したのだ。
「おまえの親父さんは……なかなか薄情だね」
「うん。養父(ちち)はあまりヘゼを好いていない。ヘゼは馬鹿正直だし、変に正義漢ぶるからね。もっと人に合わせてうまくやればいいのにさ。養父は有力な貴族とか役人の息子を僕の侍従にしたいみたいだ」
「へえ」
 それで何をするつもりなのかと、ルシャデールはいぶかった。
「イスファハンは父親が貴族だったから、そっちに知り合いが多いだろう。そういう奴をさ。神和家は代々養子だから親戚がいないし、何かあった時のために有力者を味方につけたいんだろな、髭オヤジは」
 アニスの父イズニードの実家は貴族でも名門と言われるマトケス家だ。しかし、イズニードが町娘と駆け落ちした時以来、絶縁状態だ。アニスのことも親戚とは認めていない。むしろ目障りに思っているようだ。
 アビュー家で何かあっても、頼りにはならないだろう。
「まあ、そういう考えもあるかもしれないね。トリスタンはその手のことは何も考えていないみたいだけど」
「そのかわりデナンが考えているだろうさ。イスファハンは、そういうことは話してなかったのか?」
「何も。ソワムは言っていた?」
「うん。教わるのは腹のうちを探ることばかりだと、こぼしていた」
 アニスもそうだったのだろうか。政争に巻き込まれないような処世を、デナンから教えられていたのか?
 彼は自分の仕事について、細かいことは、ほとんどルシャデールに話さなかった。ただ、わずかに垣間見えたことはある。
 小侍従になって、間もない頃だった。夜中に目が覚めて、ルシャデールが部屋から出ると、彼は玄関ホールの暖炉の前で分厚い本を膝に抱えて読んでいた。
 アニスの部屋は使用人の居住棟にあったが、夜のあかりは卓上のランタン一つきりだ。、ろうそくを何十本も灯した玄関ホールの方が、読書にはよかったのだろう。
 何の本かたずねると、『貴家名鑑』だと答えた。貴族の名簿のようなものらしい。どこの家の誰と誰が縁続きだとか、そういったことが載っている。それを全部頭に入れるようにデナンに言われたという。
 その厚みはルシャデールの手でつかめないくらいだった。それより、何千人いるんだか知らないが、貴族の名をすべて暗記するというのが信じられなかった。呆れた顔の彼女に、アニスはただ微笑っただけだった。
 辛いとか大変だとか、愚痴は一度も聞いたことがない。
「守られていたんだな」パルシェムが言った。
「え?」
「大人の汚い世界のことを主人に聞かせないようにしてたんだろ、イスファハンは。ヘゼは僕にいろいろ話してくれた。で、『ああ、うんざりだ。こんなこと誰のためにやってると思ってるんだ』って、最後に恩着せがましく、言うんだ」
 ソワムの方もおまえに甘えていたんじゃないのか。そう言おうとした時、二階からばたばたと足音がした。
「御寮様! ソワム殿がお気がつかれました!」
「なんだって!」
 二人そろって競うように階段を駆け上がった。
 部屋に入ると、へゼナードは横になったまま、天井を見つめていた。
「ヘゼ! 僕だ、わかるか?」
 パルシェムは彼の顔をのぞきこむ。へゼナードの目が動き、主人をとらえる。
「パル……。ここは、どこだ?」
「私の屋敷だよ」ルシャデールが答えた。「武術指南院そばの幽霊屋敷から、ここに運ばれたんだ」
 施療所からトリスタンが駆けつけてきた。
「ソワム君が気がついたって?」
 アビュー家当主が現れて、ヘゼナードの顔にさっと緊張が走る。何かまずいことをやった、と気づいたかのように。
「御前様……」と、つぶやいてきょろきょろと周囲を見回す。隣で眠ったままのアニスが目に入った。状況が呑み込めたのか、顔から血の気が引いていく。
「アニサードはまだ目が覚めていないが」トリスタンが言った。「彼のことは気にしなくていい。気分はどうだい?」
「わ……かりません。なんだか、ぼうっとして……。」
「薬湯をいれるから、それを飲んでもう少し休むといい」
 トリスタンが自らいれた薬湯を飲むと、ヘゼナードは別の部屋に移された。アニスのことで余計な心労を与えないように、との心遣いだった。
 ヌスティ家へもすぐに使いが出された。
 何があったのか、誰もが知りたがっていたが、彼が話せるまで回復するのが先だった。
 しかし、その日の夕刻、ケテルス・ヌスティが輿を伴って訪れ、彼を屋敷に連れ帰った。もう一晩、様子を見るためにもここに留まったらどうかと、トリスタンは言ったのだが、これ以上迷惑はかけられぬと、ヌスティが断った。
『もし、何か起こったとしても、それはソワムの命運。癒し手なんぞに、どうこうできるものではない』
 役にもたたない癒し手は引っ込んでいろ。そう言わんばかりの言いぐさに、トリスタンはかなり気を悪くしたようだ。実際、今回のことではトリスタンも、同じ癒し手のセラフード・レセンも手立てがなかったのだが。


 へゼナード・ソワムがアビュー家を訪れたのは、それから五日ほどたってからだった。主人のパルシェムも一緒だった。
「アニサードに会わせてください」
 張りのある声で体調はよさそうだが、表情はくもっていた。すでに聞いているのかもしれない。
 ルシャデールは(かたわ)らの養父を見た。いいよ、と彼はうなずいた。
 彼女はへゼナードとパルシェムを案内する。
 扉を開ける前に、二人を振り返る。
「もう聞いているんだよね?」
「うん」パルシェムが答えた。「養父から聞いた。でも……」
 信じたくない、と小童は言った。彼女だってそうだ。
「どうぞ」
 ドアを開ける。
 アニスはソファに座っていた。三人が入ってきても反応はない。(うつ)けのように(くう)を見つ
めている。
「ソワムが目覚めた次の日、彼も目を覚ましたけれど、ずっとこの状態だよ」
 ルシャデールは平静に言った。
 シリンデの話から前もって覚悟はしていたし、取り乱しはしなかった。いや、取り乱さないようにつとめていた。
「アニサード……」ソワムは彼のそばに寄る。「おれだよ、へゼナードだ。ソワムだ。戻って来てないのか? 戻れなかったのか?」
 ゆっくりと彼の方に顔を向けたアニスは、何も目に映っていないかのようだ。開いた口の端から、よだれがすーっと垂れる。隅に控えていた従僕が、失礼します、とへゼナードをよけさせて、アニスの口を拭いた。

 
「申し訳ありません」
 トリスタンの部屋で、着座するなり、へゼナードは深々と頭を下げた。
「私がイスファハンを巻き込んだがために、このようなことになってしまいました」
 その横で、パルシェムは顔をこわばらせたまま何も言わない。
「君のせいではない」トリスタンは言った。「イスファハンは自らの意志で君と一緒に行こうとしたのだろう。なぜかはわからないが」
「イスファハンは……」へゼナードはルシャデールをちらりと見て、少しためらった後で話を続けた。「小侍従という身分が重荷に感じていたようです。その他にも理由があるのかもしれませんが、それ以上のことは聞いておりません」
 それから、彼はユフェリに入ってからの顛末(てんまつ)を話した。
「……ホユックと別れてから、私たちはただあてもなく、歩き回っていました。
 ユフェリのことは私も多少は聞いておりますが、聞くと見るとではまったく違いました。どれくらい時間がたったのかもかわからず、もしかしたらこのままカデリに戻れず、向こうで死ぬことになってしまうのか。それを思うと焦りと恐怖を感じました。
 そこにいるのは番人のホユックだけなのか、彼が言っていた『御方様』とは誰なのか。イスファハンにたずねたら、彼は少しの間考えてから、『シリンデ……かもしれない』と、月を見上げて言いました。霧が晴れてからというもの、月だけは常に私たちの頭上にありました。
『シリンデ!』と、私は月に呼びかけました。『もし、おまえがここの主なら出てこい!』と。神和家の小侍従として、あるまじき言いぐさですが、いくぶん腹を立てていました。それから、二人でまたしばらく歩き、そのうちに歌声が聞こえてきたのです。

『わらわは種をまこう
 水も光もなき固く荒れた地に
 千年先、万年先には、大地も柔らかになっていよう。
 光がさしていようか、潤おす水が流れていようか。
 種はその時、芽を出すであろう。
 幾千、幾億の種をまいたなら、緑の野が現れようか。
 鳥歌い、花そよぐ園ができようか』

 よく覚えていませんが、そんな歌です。(かたく)なな人の心を嘆いているのか、悲しげな歌でした。
 大きな岩の上で、女性が歌っていました。長い銀の髪をして、美しい人でした。どういう理由で呼び出したのか、と聞かれ、シリンデだとわかりました。私たちは、カデリに戻る方法をたずねたのです。その方は『道はそなたらの胸の中にある。求めよ。さすれば、おのずと見出せよう』と、それだけ言って姿を消しました。
 イスファハンと私は、また歩き始めました。しかし、シリンデと会った後、私の中に不思議な感覚が生まれていました。行くべき方向がわかる、といいますか、背中を押されるような感じです。
 そうするうちに、ごうごうという水の音が聞こえてきて、気がつくと私たちは川岸に立っていました。幅の広い大河で、向こう岸は暗くて見えません。その岸に、小舟が一艘、つながれていたのです。(かい)()もついていませんでしたが、私たちに迷いはありませんでした。二人で小舟に乗り込み、河を下り始めたのです。
まるで大雨のあとのように、河は激しくうねり、小さな舟はそれに翻弄(ほんろう)されていました。
 最初は気づきませんでしたが、河の中には大岩がいくつも突き出ていました。小舟はそれをかすりしながら、なんとかやりすごしていましたが、何度目かに衝突して、ひっくりかえってしまったんです。舟から投げ出され、私は水面に浮かんで来た時に、近くを漂っていた小舟に手をかけることができました。
 イスファハンは……波の間に頭と手が片方、ちらりと見えて、それが最後でした。
気が付いたら、私はこちらに戻っていました。イスファハンも戻っていればいいと思ったんですが……」
 へゼナードは床にこすりつくほどに頭を下げた。
「申し訳ありません! 今回のことは私の責任です。どうか、お気のすむようになさって下さい」
 ユフェリのことは、神和師のような卓越したユフェレンでもわかっていないことが多い。怪異にあって精神に異常をきたしてしまう者がいることは昔から知られているが、そうなった人間を救う術は見つかっていなかった。同じ経験をしても、へゼナードのように無事に戻って来る者もいる。
「君のせいじゃない」トリスタンの声は落ち着いていた。「すべて物事は起きるべくして起こる。天の図ることに無駄などない。今回のことも、きっと何か意味があるのだと、私は信じている」
 だが、へゼナードは頭を上げようとしなかった。
 ルシャデールは立ち上がると、その前まで行って膝をつき、その腕を取って顔を上げさせた。彼は泣いていた。
「よく、来てくれたね。ユフェリで何があったか、イスファハンがどうなったか、知っているのはおまえだけだったから、どうしても話を聞きたかった。おまえには、ここよりも先に行くべきところがあるのに」
「御寮様……」
「パルシェム殿」ルシャデールは慇懃に言葉をあらためた。「ソワムを一刻も早く、病の父親のもとへ帰しておやりなさい。おそらく一週間、もつかどうかです」
「え、でも……」パルシェムは彼女がまとった威厳にたじろぐ。「父が……」
 どうやら、ケテルス・ヌスティに何か言い含められているらしい。
「私が口添えしてやろう」トリスタンが言った。「直接私が言うと嫌がるだろうが……そうだな、エディヴァリ様を通してなら、ケテルスもきいてくれるだろう。どうも、私は彼に嫌われているらしい」


 二人が帰った後でトリスタンはすぐにエディヴァリ・ミナセに書状をしたため、デナンがミナセ家に使いに立った。エディヴァリもすぐにヌスティ家に働きかけてくれたのだろう。
 翌日、へゼナードは父のいる故郷ペトラルに発った。彼はピスカージェンを出る前に、アビュー家に寄ってくれた。
 アニスの様子に変わりがないか、気にしているのだろう。トリスタンが不在で、応対したルシャデールに何度も頭を下げる。
「養父が言ったように、あなたのせいじゃない。責任をとろうとか、考えなくてもいいよ。ペトラルまで何日かかる?」
「普通は十日ぐらいです」
「そうか。急がないといけないね。道中気をつけてお行き」
 へゼナードは行こうとして、ふと、思い出したように振り返った。
「イスファハンが……言っていました。『御寮様に捨てられたような気がする』と」
「え?」
「彼は……御寮様が遠い存在になったように感じていたようです」
「ええっ!?」 
 ルシャデールは思わず声を上げた。
 遠ざかっていったのはアニスの方じゃないのか。
「私たち小侍従は……心を許せる者が多くはありません。同じ立場の人間が屋敷の中にいません。アビュー様ではわかりませんが、弱みを見せるな、他家の小侍従にも心を許すな、と、常に主人やその侍従から言われます。他の使用人からは、根拠のないやっかみや、中傷を受けて、孤立しています。それでも、自分の主人に必要とされることが、大きな支えになっています。もし、主人に背を向けられたら……」
 私の振る舞いが彼を苦しめていた?
 ルシャデールは困惑して、何も言えなかった。
「彼は、オリンジェとかいう娘より、御寮様の方が大事だったのだと思います」
 へゼナードはそれだけ言うと、頭を下げて歩いて行った


「カズック、頼みがある」その晩、ルシャデールは呼びかけた。
「何だ?」
「これをソワムの父親に届けてやってほしい」
 ルシャデールは小さな封筒を差し出した。カズックはふん、と匂いをかぐ。
「三蛇草にエテルマニ、それからポステデム、だな。肺を病んでいるのか」
「うん。労咳ではないと思う。ソワムが着くまで、延ばしてやりたい。行けるものなら私が行くけど、それじゃ時間がかかる。おまえならできるだろ」
 カズックはルシャデールの顔と封筒を見比べていたが、小さく息をついた。
「まあ、な。病気を治してやってくれ、なんて言われても断るが。『天女(アプセラ)様』の使い走りぐらいならやってやる」
「処方も教えてやってくれるね?」
「当たり前だ。俺を何だと思ってる?」
「神と呼ばれて迷惑している、気のいい使い走りのキツネちゃん」
「『ちゃん』づけはやめろ」
 そう言い置いて、カズックは封筒を口にくわえて消えた。
 どうしてソワムはユフェリから戻って来て、アニスは戻れなかったのか。わかるような気がした。ソワムは戻らねばならない理由があった。しかし、アニスには、なかったのだろう。
『オリンジェとかいう子よりも、御寮様の方がずっと大事だったのだと思います』 
 大事に思ってくれるなら、帰って来てくれればいいのに。それとも、他に帰りたくない理由があったんだろうか。
 穏やかで心根のやさしいアニス。ルシャデールが考える以上に侍従という職務が重荷だったのかもしれない。
 ルシャデールはガウンを羽織り、アニスのいる客間に行ってみる。彼はもう眠っていたが、その横で寝ていたインディリムが身を起こした。今夜の当番に当たっているらしい。
「御寮様」
「よく寝ているね」
「はい。起こさなければ朝までぐっすりです」
「すまないね、昼も仕事してるのに」
 眠っている顔は以前のアニス、そのままだった。狂っているとは思えない。どんな夢を見ているのだろう。うっすらと微笑んでいる。
 一人、部屋に戻ったルシャデールは、扉にもたれ、天井に向かってためいきをつく。
 戻ってくるのだろうか? まさか、ずっとこのまま……。
 背中に寒気が走る。そうなったら、他に誰が侍従をするのか。そう考えて気がついた。
 パルシェムと同じだ。私も結局、自分のことしか考えていないのかもしれない。シリンデの言うとおりだ。
 廊下で音がした。扉をそっとあけると、デナンがグラスと瓶を乗せた盆を持って、階段を降りようとしていた。ちらりとルシャデールの方を見たが、そのまま行ってしまった。
 トリスタンはめったに酒を飲まない。急な病人が来た時に備えてのことだ。気になって、部屋に行ってみると、彼はソファに座ってうなだれていた。
「酒ぐらい好きに飲ませてくれ」
 ルシャデールの足音をデナンだと思ったのか、うつむいたまま言った。
「トリスタン……」
 侍従とは違う声に、トリスタンは顔を上げたが、叱られた子供のようだった。一瞬目を伏せ、それからもう一度、彼女を見た時には、少しいつもの彼が戻っていた。
「ふふ。みっともないところを見られたな」苦笑いする。
「そうだね。でも、そういうあなたも悪くない」ルシャデールも笑う。
 養父は今度の事にひどく落ち込んでいるようだった。
「すまない……」
「何が?」
「私にはアニサードを治してやることはできない。名高い癒し手などと言われているが、この程度だ。大事な……君の大事なアニサードを、どうにもしてやれない」
「トリスタン……」
 ルシャデールは養父のそばにしゃがみこんだ。
「ソワムに言ってたじゃないか。君のせいじゃないって。今回のことは……あなたのせいでも何でもない」
 もし誰かの責任だとすれば、それは私だ。
「あなたのせいじゃない。どんなに腕のいい癒し手でも、治せない病気はあるんだから」
「わかっている。だけど、大切な人間を治すこともできなくて、なんのための癒し手なんだ? 役立たずの癒し手。ヌスティの言う通りだ。そう思わないか?」
 言いたいことは理解できる。だが、彼女は強く否定した。
「思わない! ヌスティのナマズじじいが言うことなんか、糞くらえだ! あなたは立派にやっている!」
 トリスタンは優しい分、繊細だ。きっと、ヌスティの言動にも傷ついていたに違いない。
「立派に……やっているかい、私は? 君からみて?」
 言いつけられたことを、ちゃんとできたか、親に確かめようとする子供のようだった。
「最上だよ。癒し手として。それに……」ルシャデールはちょっと言いよどんだ。「父親としても」
 重く沈んだ気がふうっと昇華していく。
「本当に?」トリスタンの問いは彼女の最後の言葉に向けられたものだ。
 ちょっと照れくさかったが、うん、とうなずいた。
「おやすみ」答えずに部屋を出ると、少し離れたところにデナンがいた。親子の話が終わるのを待っていたのだろう。
「ありがとうございます。これで御前様もよく眠れることと思います」
「ちょっとした……」お世辞と言うほど、トリスタンに情がないわけじゃない。彼女は肩をすくめた。「志だよ」
「十分です。男は賞賛を必要とする生き物ですから。」
「おまえも?」
「はい、私を含め、世の多くの男は、賞賛を求めています。特に女性からの」 
「しょうもない生き物だ。たまにユジュルクに連れて行ってやって」
 ユジュルク地区にはトリスタンの妻(表向きはデナンの妻ということになっている)がいる。彼女ならトリスタンをうまく慰めてくれるだろう。
「はい、そういたします。しかし、御寮様も御無理をなさいませんように」
「おまえもね」
 いつも冷静で、感情を現さないデナンだが、親友の息子であるアニスが正気を失ったことに、心痛を抱えていないはずがない。
 ありがとうございます、と、彼は再び主人の部屋へ入っていった。
 賞賛が必要な生き物か。
 ルシャデールは薄い絹の掛蒲団にくるまって考えていた。
 知らず知らずのうちに、自分の言動がアニスを傷つけていたのかもしれない。ユフェリに何度か行ってみたが、見つからなかった。まだ、シリンデの門の内にいるのだろうか。もう、戻ってこないのか。どうしたら、戻ってくるのか。
 問いに答えはない。 

第9章 アニサードの横顔

   

 実際のところ、アニスはひどい状態だった。正常な精神(こころ)の働きを失った人間が、ここまで手のかかるものなのか、と感心してしまうほどに。
 食事、着替え、排泄、顔や体を洗ったりすることも、すべて、一人ではできなかった。彼の世話は従僕が交代で行っていたが、若いルトイクスやインディリムが当たる(というよりも押し付けられると言った方がふさわしいかもしれない)ことが多かった。
 食事は(さじ)を持つこともしない。食べさせるにもまず口を開けるよう言わねばならない。食べ物を口に入れてやり、噛むように何度も言って、やっと二、三回、ゆっくりと口を動かす。ちょっと目を離すと、口から食物と唾液がこぼれている。
 下の世話はもっとやっかいだった。便意を訴えることがなく、気が付いたら、服も絨毯も汚れていた。服を脱がせ、尻を拭き、着替えさせる。
 部屋はそのまま本棟二階の客室を使っていた。
 危険に対する判断力も落ちており、階段を転げそうになったり、開いた窓からそのまま外に出ようとしたこともある。転落防止のために、ステンドグラスの入った美しい窓は、下から半分くらいまで、レンガで塞がれてしまった。
 人間らしい反応は何もない。「うー」とか「あー」とか呻き声のようなものは出すが、それも意味があってのことなのか、誰にもわからなかった。


 事件から二週間ほどして、オリンジェがアビュー家を訪れた。
「いかがなさいますか?」
 書庫で薬草の本を読んでいたルシャデールは、応対に出た執事に聞かれて、ソファから立ち上がった。このところ、舞の稽古は休んでいた。アニスの見舞い客の訪問が続いているからだ。相手によって、あるいは彼の状態によって、会わせることもあれば、会わせないこともあった。
 私的に付き合っていたオリンジェならば、会わせないわけにはいかないだろう。
「応接間?」
「はい」
 ルシャデールは本を棚に戻すよう執事に頼むと書庫を出た。アニスへの想いは胸の奥深くに封印してしまったが、彼女に会うのは、やはり心穏やかではいられない。もう一度、しっかり封印して、階段を降りて行った。
 ルシャデールが応接間に入って行くと、ソファに座っていたオリンジェは立ち上がって、頭を下げる。
「オリンジェ・ヤズハネイです」
 近くで見るのは初めてだった。黒い瞳が印象的な、きれいな()だ。
 つづれ織りのスカート、白いブラウス。紅いショール。耳には赤い珊瑚のウルファイをつけている。これは、娘が結婚できる年齢になったことを示すためにつける耳飾りだ。許嫁がいる娘は青い石の、結婚した女は紫水晶のついたウルファイをつけている。
 私が男だったら、こんな娘に好きだと言われれば、簡単になびくだろうな。
 そう思ってしまう。
「突然お伺いして申し訳ありません。あの……アニス、いえイスファハンさんが具合を悪くしていると聞いて、お見舞いに来ました」
 女としての敗北感を脇に押しやり、ルシャデールは少し無理して微笑む。お気遣いありがとうございます、と。
「イスファハンさんに会わせてもらえますか?」
 大きな屋敷に気後れしているのか、おずおずとたずねる。
「アニサードの状態について、何か聞いていますか?」
 何も知らないのに、いきなり会わせたら、衝撃は大きいだろう。オリンジェはうなずいた。
「はい、街の噂で、アビュー様の小侍従が気がふれてしまったと……。嘘ですよね?」
「その目でご覧になった方がいいでしょう」
 客間へ案内した。
 オリンジェがアニスに何度も呼びかける。腕をつかんでゆすったりもするが、アニスは死んだ魚のような目を向けただけだった。彼女はすすり泣く。
 ルシャデールはそれを眺めながら、残酷な安堵感を感じていた。
 これで、この娘もアニスをあきらめてくれる。そう思った。
「どうしてこんなことに?」
 そう聞かれて、ルシャデールは幽霊屋敷でのことを差しさわりない程度に話した。
「このようなことになってしまいましたが、アニサードはアニサードです。変わりありません。きっと、あなたが会いに来てくれて、喜んでいます」
 こんなアニスをあなたは好きでいられる?
「いつでもアニサードに会いに来てください。父や私がいなくても、あなたが来たらお通しするように、執事には言っておきます。」
戸惑いを隠せぬようすで、オリンジェはうなずき、帰っていった。
「ソニヤ! エクネでもいい! 水垢離をとるから手を貸して」
 ルシャデールの声に、ソニヤが慌てて出てきた。
「今からですか? どうなさいました」
 普通、水垢離をとるのは祭事の前に限られている。もちろん、それ以外の時に行ってもかまわない。
「心を浄める」
 そう答えた彼女の胸の内は、自己嫌悪でぐちゃぐちゃだ。
 オリンジェ。彼女はアニスがだめなら、きっと別の相手を見つけるだろう。あの器量なら、難しくはない。
 じゃあ、私は? 私にはこんな、狂ったアニスしか残されていない。
 水垢離用の行衣に着替えながら、シリンデの声が頭の奥でよみがえる。
『愛するに値せぬ者か?』
『己の欲を満たす役に立たねば、そなたらは愛することも、受け入れることも考えぬ。違うかえ?』
 夏なのに、頭からかぶる水は冷たかった。


 見舞いと称する人間はその後も続いた。中には狂人を見てみたいという興味本位で来る者もいたが、大方はアニスに対する素朴な情愛を抱いた人だった。カシルク地区の住人や、広場の果物売りのおばあさん、アニスが四年前に少しの間世話になった肉屋の主人。たいがいは、状態を簡単に話し、心遣いに感謝して帰ってもらった。
 エディヴァリばあさまも来た。彼女は舞の稽古に来ないルシャデールを案じたらしい。
『心痛むことであろうが、来客が落ち着いたら、また稽古においでなさい。そなたにはアビュー家の嫡子としての務めもある。小侍従殿のことは、今は空の上なる方々に委ねるしかありませぬ』
 それからカルジュイク公アルセラーム。若いが思慮深げな落ち着きと良家に育った品格を身につけている。会うのは初めてだが、深みのある声はどこかで聞いたように思えてならない。
 彼もまた、ルシャデールに関心を持ったようだった。
「カームニルの御出身と聞いたが」
「はい、カズクシャンの生まれです」
「ルシャデールというのは、フェルガナでは男名だが、カームニルでは娘にもつけるのか?」
「いえ、女性でしたら、普通はルシャンデになります。父の名が……ルシャデールでした。それで母が私をルシャデールと呼ぶようになったのです」
 なぜ、この男に名前の由来を説明しなければならない? 不審に思いながら彼女は応対する。
「実の御両親は健在であられるのか?」
「母は亡くなりました。父は……おそらく健在かと。会ったことはありません。それが何か?」
「いや、別に」
 腑に落ちないものを残して、アルセラームは帰って行った。

 
 アニスは当面、客間で生活することになった。起きている時は何をしでかすかわからず、人の目が届きやすいところに置いた方がいいと判断されたのだ。
 九月に入ってすぐ、アニスの荷物を移すので、立ち会って欲しいと、従僕頭のハランがルシャデールに言ってきた。普通の使用人ならそこまで厳格にしないものだが、そこは跡継ぎの侍従だからだろう。
 西廊棟の四階。前に一度だけ入ったことがある、天窓のついた部屋だった。小侍従の起居する部屋としては小さいし、質素だ。寝台が一つにテーブルが一つ、座る時に敷くクッションが一つ。
 使用人の生活はよく知らないが、彼は寝るために戻るだけだったのではないかと思えた。服や下着の他には、洗面器、水差し。小さな鏡はひげそりと髪をとかすためのものだろう。身だしなみとして、普段つけていた糸杉の香油の瓶。
 だが、生活を彩るものが、ほとんど見当たらない。
 あれがない。
 樹の皮の地図。ユフェリの地図で、四年前の誕生日にルシャデールが彼に贈った。それとなく、寝台の下や壁との隙間を探る。
「御寮様? どうなさいましたか?」ハランがルシャデールの動きに気づいた。
「いや、何でもない」
「私は一度、客間の方に運んできます」ハランは衣装箱を一つ、本棟へ運んで行った。
 後に残ったルシャデールは部屋を見回す。四年前から毎年、誕生日には贈り物をしている。その品々もだ。アニスに限って、売り払うとか、捨てるということはないだろう。
「あれ、御寮様。どうしました?」
 通りかかったのは庭師のシャムだった。
()探しですか?」
「アニスの荷物を本棟に移す。当分、客間で生活するから」
 いつも陽気そうなシャムの顔が陰る。
「容態は変わりないなんですか?」
「うん。彼の持ち物って、服以外にはほとんどないのかな?」
「金はみんなと同じように、執事さんに預かってもらってるんじゃないですか?」
「それ以外のものは? 人からもらったものとか、金目のものじゃなくても大切な思い出の品とか」
「よくわからない樹の皮とか?」
「そう!」思わず声が大きくなった。
「俺、一度だけ見せてもらったんですよ」
 シャムは部屋へ入ってくると、廊下側の部屋の角へ寄って行った。壁のタイルが少しはがれている。彩色されていない、薄いベージュのタイルだ。彼はそのうちの 一枚に爪を立て、はがした。中は空洞になっていた。
「へえ、便利だねえ」
「あいつが、一度、宝の隠し場所だと言って見せてくれたんですよ」
 中には蓋つきの方位磁石や、水晶の原石、銀メッキに白い石がついたナイフ。他に、丸めた紙や、わけのわからないがらくたのようなものが入っていた。シャムはナイフを手に取った。
「これは、御寮様の侍従に決まった時、俺が祝いにやったんです。あいつはろくな物持ってなかったから。侍従になるなら、少しはいい物を持てって」
「大事にしまいこんでいたんだね。アニスらしい」
「まだ、何かありますよ」
 隠し穴を覗き込んでいたシャムが中に手を突っ込み、取り出したのは小さく折りたたんだ紙きれだった。手渡された紙切れを、ルシャデールは開いてみる。

『父さん、母さん、僕はちゃんとやっていますか?』

 書いてあるのはそれだけだった。字の(つたな)さからすると、アビュー家に来た頃だろうか。知らない大人ばかりの中で、働くことになって、心細さに書いたのかもしれない。そして、そのまま忘れたのだろう。
 問いかけられた文章が切なさを誘う。シャムにも見せてやると、彼は息をついた。
「俺、あいつにもっと……親身になって話を聞いてやればよかったんです。御寮様の侍従に決まった時、あいつは負担に感じているようでした。だけど、なんとかこなしているようだったし、忙しそうだったから、あまり話すこともなくなって。従僕連中とはあまりうまくいっていないようだったし、悩んでいることもあったのかもしれません」
 でなければ、屋敷を出て行こうなんて考えない。シャムはそう思っているらしい。
「御寮様、たまにはあいつを、庭とか外に出してやってくれませんか? お屋敷から出すのは心配かもしれませんが、部屋にずっと閉じ込めておいたら、普通の人間だって気がおかしくなってしまいます」
「あ……あ、そうだね」
「あいつは草花が好きなんです。庭師になりたいって、言っていたこともあるくらいで」
 初耳だった。
「そうなの? 庭師に?」
「御寮様が来られる前ですが」
 頭を下げて、シャムは仕事に戻って行った。
客間に荷物すべて運んだ後で、ルシャデールはアニスの宝物を一つ一つ手に眺めていた。アニスは自分がみているからと、従僕は昼食に行かせた。
 ナイフや方位磁石の他にもいろいろあった。
 薄桃色の首巻は、ルシャデールと交換したものだ。アニスのしていた緑色の首巻が欲しくて、自分のをやるからと言って取り上げた。薄桃色の首巻など、男の子がするわけにもいかず、しまいこんだのだろう。
 紐で縛った巻紙の束もあった。見ちゃいけないかもしれないと思いつつ、誘惑に負けて、開いてみる。
 髪の長い女の絵だった。吹きだしそうになるくらい、下手くそだ。下の方には何か書いて、上からペンで消していた。目を細めて、消された文字を解読する。
 大好きな……ルシャ……デールへ。
「これ……私?」
 そういえば、と思い当たることがあった。二年前、ルシャデールの誕生日を前に、彼女の絵を描いてくれると言ったことがある。しかし、うまく描けなかったらしく、代わりに匂い袋をくれたのだ。
 小さな植木鉢もあった。素焼きの質素なものではなく、うわぐすりを塗って焼いた上等のものだ。噴水の絵が描かれている。細かい種が入った小さな布袋もある。植えるつもりだったのだろう。
 彼は庭師になりたがっていた。確かに、似あっているかもしれない。昔のお日様みたいなアニスには。
 もしかしたら、私は彼の運命をねじ曲げてしまったんだろうか。
 もし、庭師の道を進んでいたら、こんなことにはなっていなかったにちがいない。振り向くと、彼は焦点の定まらない目で天井を見ていた。

 
 見舞いの客は次第に遠ざかり、ルシャデールも舞の稽古に通うようになった。アニスは従僕たちがみている。彼らは文句も言わずに世話をしてくれていた。
 もちろん、それは「御寮様」の前だからだ。使用人しかいないところでは、愚痴も言っているのだろう。
 カプルジャのところから戻ると、アニスはまだ昼食を食べていた。
「食が進まないようだね」
 食べさせているルトイクスに言ったら、進む方が不思議です、という答えが返ってきた。
「毎日、こうやって動かずにじっとしているのですから。時々仕方なく食べているのか、とも思いますね」
「一度、ご飯を食べさせずに放っておいたら、要求してくるかな?」
 本気で言ったわけではない。ただ、言葉はもちろん、意志や感情もなくなってしまったことに、焦りのようなものがあった。
「仰せとあらば、そのようにいたしますが?」ルトイクスはにこりともしないで言った。
「いや、いい」
 従僕という人種はまるで人形のようだと思った。今のアニスとは、いい取り合わせのような、そうでないような。ルシャデールは、シャムが言っていたことを思い出した。
「アニサードはおまえたち従僕とあまり……なんというか、あまり親しくしていなかったと聞いたけど」
 ルトイクスは彼女の方を振り返った。女主人が何を聞きたいのか、推し量っているようだ。
「私たち従僕は、物事があるべきところに納まっているよう、務める人種です。ですから、……年長の者に対して礼節を欠いた態度を取ることには、受け入れがたいとはいいませんが、批判的に考えてしまいます」
「アニサードがそうだった、と?」ルシャデールには意外なことだった。
「はい。クランを覚えていらっしゃいますか?」
「うん、おぼろげに」
 三年前にアビュー家を辞めた従僕だ。ルシャデールはあまりよく知らなかった。
「クランは御寮様の侍従になることを希望していました」
「へええ」
 初耳だった。トリスタンとデナンの間では、侍従の候補に上っていたのかもしれないが、彼女には知らされていない。
「でも、そのうちアニサードが侍従になるという噂が流れました。クランは神和家で働くことに誇りを持っていましたし、次の当主になられる方を補佐したいと考えていたようです。ただ、その望みがあまりに強すぎて、よくないこともしたと、聞いています。その……アニサードに対して、ですが」
 それを聞いて、納得がいくことがあった。四年前、アニスをユフェリへ連れて行く計画を進めていた時、彼の態度がおかしかった時期がある。人目を避けたり、ルシャデールが話しかけようとしたら行ってしまったり。彼女はそんなアニスに腹を立て、屋敷から出て行ったこともあった。
「アニサードから、お聞き及びではありませんでしたか?」
「初めて聞いた。クランが辞めたのは、私の侍従になれなかったから?」
「そうだと思います。アニサードが御寮様のそばで、大きな顔をするようになると思ったら、我慢できなかったのではないでしょうか。見かけによらず、彼は生意気ですから」
 生意気。それも初耳だ。
「たとえば?」
「クランに言ったそうです。御寮様のことをあなたが理解できると思えない、と」
「それのどこが生意気なんだ? そのくらいの言い方、私は普通にしているよ」
「御寮様はアビュー家の次期当主になられるお方ですから。しかし、その当時、アニサードは僕童にすぎません。そのような物言いはいささか礼を失しております」
 確かに、アニスの話し方としてはかなり挑発的な方だ。しかし、そうさせるだけのことを、クランがしていたのではないか?
「御寮様のザムルーズのことでもそうです。聞けば、アニサードが御前様に、植えて差し上げて下さいと頼んだそうですね」
「うん」
 ザムルーズとは子供が生まれると植える記念樹だ。庭がある家では、たいてい植えるものらしい。
 四年前、トリスタンとルシャデールの親子関係はかなり不安定だった。それをはたから見ていたアニスが植えてやってくれと、頼んでくれたのだ。
「あの件も、本来は執事さんや家事頭さんを通じてお願いするのが筋です。御前様は気取らない方ですから、気になさいませんが、ビエンディクさんなどは不愉快だったのではないでしょうか」
 言われてみると、その通りかもしれない。
「彼が私の侍従に決まって、使用人はみんなそんな風に思っていたのかい?」
「みんなではありません。彼は周囲の大人にはおおかた気に入られていました。私たち従僕は」ルトイクスは自嘲的な笑みを浮かべた。「底意地が悪いので、クランが辞めてから一年ぐらいは色々陰で申しておりました」
 彼は悪びれもせず、話していたが、その間もアニスを世話する手は休めない。
「おまえ、変わっているね。普通は、主人やその家族の前で、そういうことは言わないものじゃないのかい?」
「私は変わり者ですから」
 アニスに食べさせ終えたルトイクスは食器を片づける。
「ただ、わかっていただきたいのです。クランは私には親切でした。アニサードを脅したり、暴力をふるったこともあるようです。でも、彼のすべてが悪かったなどと思って欲しくありません」
「うん、そうだね」
 食器を下げに行ったルトイクスを見送って、息をつき、アニスの方を見た。今まで自分のことを話題にされていたこともわからず、口をぽかんと開けていた。


「生意気? 誰がそんなことを言ったんです?」
 それから二、三日後、アニスを連れて庭を散歩していたルシャデールは、シャムにたずねたのだ。使用人の間で生意気と言われるようなこともあったのかと。
「いや、誰というわけじゃないけど。私が知らないアニサードの側面もあっただろうなと、思って」
 どうも庭師と従僕は仲があまりよくないようなので、彼女は言葉を濁す。
「ルトイあたりですか。御寮様の耳によけいなことを入れるのは」
 ルシャデールは笑ってごまかす。
「あいつらは根性曲がってますからね。おおかた、クランが辞めた時のことじゃないですか?」
「あ……あ、うん……」
「生意気ってのは、要するに御寮様のことを考えてですよ」
「うん、わかっている」
 シャムは肩に担いでいた梯子(はしご)を降ろした。
「俺は御寮様の身の上のこと、アニスから少し聞いています。だから、クランに言ったことが間違っているとは思いませんよ。ザムルーズのことだって、執事やビエンディクを通してたら、いつになるかわからないし、そもそも、ちゃんと御前様に伝わるかどうか、怪しいもんです」
 うなずいて、ルシャデールはアニスを見やった。しゃがみこんで草をいじっている。まるで幼児のようだ。シャムもしばし、彼を見ていた。
「こいつは御寮様のことを、大事に考えてましたよ。正直なところ、俺は心配でした。もし、御寮様に惚れてしまったら、まずいことになるんじゃないかって」
 え? 思わず声を上げてから、彼女は笑いだした。
「ありえないよ。アニサードは女の子に好かれるみたいだし、何を好き好んで私みたいな……ははは」
 自分で言った言葉が哀しい。そうですよね、とは言わないが、シャムもそう思っているのか、笑っていた。
「侍従に決まった頃は可哀そうだなと思いましたよ。同い年でも、御寮様の方が大人びていましたし、こいつは早く大人にならなきゃいけなかった」
 アニスは土の上に座り込んで、空を見上げ、雲が流れる様を眺めている。少しのびた黒い髪が風にそよぐ。紐でまとめていたのだが、いつの間にか解けてなくなっていた。
「もし、このままだったら、こいつはどうなるんです? 身寄りもないし」
「このままって……ここにいるよ」ルシャデールはシャムの問いの真意がわからず、そう答えた。
「アビュー家でみて下さるんですか?」
「もちろんだよ。おまえたち、他の使用人だってそうだ。病気やけがではたらけなくなったとしても、本人や家族が望まない限りはここで養生してもらう。たとえ、治る見込みがなくたって。アビュー家にはそのくらいの余裕はあるからね。トリスタンだって、おなじように考えていると思う」
「御寮様が跡を継がれて、そして、神和師の職を引かれた後も、ずっと、ですか?」
 ルシャデールが養子を取り、跡を継がせるのは三十年ぐらい先の話だ。それからもずっと……。年をとって、アニスが死ぬまで。
 そこまで考えていなかった。
「うん……たぶん」
「そうですか、よかった。もし、放り出されたらどうしようか、考えたもんで」 
 そこへ、御寮様! と呼ぶ声が聞こえた。エクネだ。手に何か持って、こっちへ来る。
「御寮様、風が出てきました。お風邪を引くといけませんから、外套をどうぞ」
「ああ、ありがとう」
 エクネに着せ掛けてもらう。ふと、気がつくと、その間シャムの視線がエクネに張りついていた。
 ふーん……そういうことか。
 エクネは、と見れば素知らぬ振りだ。
 外套を着たルシャデールはアニスの手をつかみ、立ち上がらせた。
「行こう、アニス。ここにいたら邪魔だ」
 シャムが困ったような顔をしてルシャデールを見た。
 金魚草や紅鹿の子草が咲く中を、アニスと手をつないで歩いていく。そして、さっき、シャムに聞かれたことを考え直してみた。
 年取って、死ぬまで。
 狂ったアニスをそばに置いておくのだろうか。そばにいなければならないのだろうか。
 身内に狂人を出した家では、物置小屋のようなところに、閉じ込めておくことも多いという。家の中に、そんなゆとりがなければ、「突然の病気」になってもらうこともある。シリンデも言っていたように、家族がこっそりと殺してしまうのだ。周囲の人間も、うすうす察しているが、何も言わない。
『いっそ、死んでくれた方がいい』
 そういうことだ。
 アニスが立ち止まった。
 つないでいない方の手をじっと見ている。小さな羽虫が手のひらに止まっていた。虫は動こうとしない。彼はうっすらと笑みのようなものを口元に浮かべて、見つめていた。

第10章 種

    
 

 夢を見ていた。
「お茶はいかがですか」
 アニスがティーポットを手に笑っている。答えようとして、言葉が出てこない。
 それに、ここはどこなのか。見たことがある部屋だが思い出せない。
 窓に近づくと、外は花がそよぐ野原だ。濃いピンクの花。覚えがあるような気がする。
 ここはどこ? そう聞こうとしたのに、口から出てきたのは違う言葉だった。
「今日は帰ってくる?」誰が? 私は何を言っているのだろう。
 悲しそうにアニスは首を振る。
「明日は?」誰のことを聞いている? 私は誰を待っているのだろう?
「明日も……来ないかもしれません」アニスはそれ以上の質問を避けるように、うつむいた。と、思ったら、顔を上げ、
「僕じゃだめですか?」とたずねる。
「……」
 何か言おうとして、目が覚めた。
 まだ夜は明けていない。
「アニス……」
 暗闇の中でつぶやく。やりきれなさが胸にあふれる。ほとんど衝動的に彼女の意識はユフェリを目指した。
 だが、いつも彼女が目にするユフェリの景色ではなかった。暗い中をさまようように飛んで、気がつくと、真っ暗な洞窟を歩いていた。ポタポタとしずくがしたたる音がする。冷気があたりを包む。さらに歩く。
 ほのかな明かりが見えた。少し広い空間に箱がいくつも転がっていた。小さいけれども頑丈そうな鉄の箱。彼女の背丈よりも大きな木箱。それには南京錠がいくつもかけられていた。
「よお」
 声に驚いて振り向くと、カズックだった。
「おまえが今、探さなきゃならないのは、あいつの魂じゃない。自分で封印してきたおまえ自身だ。おまえが今まで避けてきた自分自身の思いに、向き合わずして、道は見つからないぞ。いつまでも堂々巡りだ」
 何か言い返したいが、出てこないのは、カズックの指摘にうなずけるものがあるからか。ルシャデールは手近にあった小さな箱を取った。鍵はたやすく外れた。
 幼いルシャデールが現れ、叫ぶ。
『あんたみたいな女、母さんじゃない! あんたなんか、死んでしまえ!』
 ルシャデールは即座にふたを閉めた。かなり前に背を向けた想いだ。
 もう一つの箱を開ける。
『ばかやろう、因業(いんごう)じじい! ひとっかけらのお慈悲もねえのか! 首でもくくって、あほ面さらしやがれ!』
 ふたはすぐに閉められた。
「下品な子だねえ」
 ルシャデールは肩をすくめ、少しおどけて言ってみる。「誰、あの子?」
 ははは。カズックが笑う。
「おまえは最近、すっかりアビュー家の御寮様だからな。しかし、あの頃のおまえは、あれで懸命に生きていたんだ。よく頑張った、って言ってやれよ」
 昔の生活のことを忘れたわけではない。だが、落ち着いた暮らしの中にいて、惨めだったことは思い出したくなかった。とりわけ、母がからんだことは。
 次の箱から出てきたのは、
『父さんを探しに行く!』の一言だった。
 これは覚えがある。二年前、いや三年前か。実の父のところへ行こうと思った。父がどこの誰かはわからない。ただ、生きていることは感じている。それに、いる方角も。
 だから、歩いて行こうとしたのだ。どのくらい遠いかもわからないまま。
 侍従になったばかりのアニスが泣きそうな顔でついてきた。結局、一日、二日で行けるところではないらしいとわかり、諦めたのだ。どこへ行こうとしたか、誰にも言わなかった。アニスにすら。
 あの時、彼は文句ひとつ言わなかった。仕方のない御寮様だと、胸の内では嘆息していたのかもしれない。いや、きっと彼は気がついていた。どこへ行こうとしていたか。
 次に向かったのは、一番大きな箱だった。何が入っているのか、わかるような気がした。軽く蹴飛ばしただけで、箱は崩れ、中から出てきたのは、無数の萎れた花だった。一つ一つがアニスへの想いでできている。彼女はそのうちの一つを拾い上げた。手の中で、崩れていく。
「これを見せたかったの? 私がもうアニスを前みたいに好きでなくなっているって、わざわざ教えるために」
「それもあるがな。これを見せておきたかった」
 カズックは枯れた花の中を、前足でかき、匂いをかぐ。彼は掘り出したものをくわえると、ルシャデールに放る。受け取ったのはあんずぐらいの大きさの種だった。とても固い。
「汚泥の中、乾ききった荒れ地、いばらが生い茂る原野、そんな中にその実はできるのさ」
 ルシャデールは種を見つめた。
「芽吹かないことも多い。そのまま枯れ死してしまうこともあれば、他人の手に渡って、幾人かの手を経た後で、唐突に芽を出すこともある」
 太陽の光、慈しみの雨、野原を渡る風、せせらぎの音、空の青さ、歌う鳥、暖炉の火、麦の穂……。そういったものを作り出す力、アニスの両親がアニスに注ぎ、アニスがルシャデールにくれたもの。本当は母から欲しかったもの。
 すべてはこの力に連なる。
 昔だったら「なんだ、こんなもの!」と、放り投げただろうが、今のルシャデールはそれを握りしめる。 アニスの最後の贈り物のような気がした。
「ありがとう」素直に言葉が出た。「戻る」
 カデリへ。帰る途中、無性に悲しかった。


 へゼナードが帰って来ることを聞いたのは、その二、三日後だった。ミナセ家での稽古が終わり、屋敷からの迎えを待っていた時だ。
「ヘゼが近く帰ってくるんだ」パルシェムがぽつりと言った。
「それは……よかったね」
 ほんとうによかったのか、どうか、わからないが、とりあえずそう応えた。へゼナードの父親が亡くなったのは、九月の末だと聞いた。それからもう二ヶ月近くたつ。
 パルシェムは最近、むっつりとしゃべらなくなっていた。憎まれ口もたたかない。彼なりにいろいろ考えているのだろう。
「ヘゼがどういう考えで帰ってくるのか、まだわからない。これからも僕の侍従として勤めてくれるのか、それともこれを機に、ペトラルかどこかで他の仕事につくのか……。でも、僕はヘゼの好きなようにさせることにした」
「へえ!」
 小童(こわっぱ)が成長したものだ。
「僕がヘゼを追い込んだ。そして、イスファハンを巻き込んで、あんなことになってしまった。養父(ちち)はイスファハンが勝手にヘゼに付いて行ったから、謝罪など必要ないと言うんだ。でも、ヘゼが計画しなければ、イスファハンも行こうとはしなかったと思う」
 パルシェムはルシャデールの方を向く。
「僕ができるのは、来るべきものを、黙って受け入れることだけだ」
「それでいいと思う」彼女も少年を見る。「アニサードは自分の意志でソワムに賛同して逃亡を図った。あんなことになったのは彼自身の責任。そしてこれはアビュー家の問題だよ。おまえのところは関係ない」
「でも……僕は忘れない。イスファハンのことを。それと、イスファハンを失くして泣いている君を」
「泣いてないよ」
 ルシャデールは否定する。それは本当だ。アニスが狂ってから、一度も涙を見せていない。
「君は強がりだから……」パルシェムは微かに笑う。「でも僕が君の方に想いを凝らすと、浮かぶのは、いつだって泣き顔だ」
 僕だって、これでもユフェレンなんだ。彼はそうつけ加えた。
 小童に同情されるとはね、ルシャデールはそう言って肩をすくめた。
 屋敷への道を輿に揺られながら、鬱々とルシャデールは今朝のアニスのことを思い出す。
 朝食をとった後で、アニスの様子を見に行った。
 彼は食事の最中と言っていいのか、あたりに料理が散らばっていた。食べさせていたインディリムは、頭からスープをかぶったらしく、髪は濡れ、野菜の切れ端を顔や服につけて、へたりこんでいた。
 どうしたのかとたずねたら、『食べさせ方が早かったのでしょう。皿を手で払われました』そう答えた。
 当のアニスはえへらえへら笑いながら、口の周りを汚しながら、床に落ちたものを拾って食べていた。無精ひげが汚らしい。ひげはいつも、デナンが剃ってやっていたが、ゆうべから王宮の宿直(とのい)でトリスタンとともに不在だ。剃刀を使うひげそりは、危険がともなうから、従僕たちには無理だった。
 あまりに情けない姿に目をそむけた。
 前はずっと見ていたい顔だったのに。
 人の気持ちは変わるという。でも、あれはアニスじゃない。あれは……誰? それとも何? あんな……あんな……みっともない生き物! 
 その一方で、心のどこかから別の声がする。
(そんなことが言えるのか、おまえに。彼は親にも愛されなかった、惨めなおまえに友情と信頼を与えたんじゃないのか? だからこそ、今のおまえがいるだろうに、それを忘れたのか、この情け知らず! 結局おまえは、親が与えてくれなかったものを彼に求め、役に立たなくなったら、棄ててしまうんだ。本当はおまえだって、『急な病気』で彼を葬ってしまいたいんだろう?)
(違う!)
(従僕たちから文句が出る前に、どうにかしたいんじゃないのか? おあつらえ向きに、施療所には毒になる薬だってある。おまえには、狂ったあいつを受け入れる覚悟なんて、さらさらないんだ!)
「違う!」
 輿が止まった。
「御寮様? いかがなさいました?」
 ソーリスが不審な顔で見ていた。声を出してしまったことに少しうろたえたが、何でもない、と、平静を装う。
 いっそ、この世界、すべて壊れてしまえばいい。誰も彼も、魂からすべて、消滅してしまえばいいんだ。
 輿の上で袖のほつれを引っ張りながら、彼女は破滅の呪いを胸中に吐いていた。


 冬至には祖霊が帰ってくる。還迎夜(アヴァンテ)だ。
 各家庭ではごちそうを用意して、帰って来た祖霊たちを迎える。十二月七日に、玄関にレモンの枝で作った飾りを門の下に吊るし、そこに銀の太陽と月と、紅色に彩色した団子をつける。
 家の一室(または一角)に祭壇をしつらえ、揚げパンや干した果物、固くてしょっぱいチーズ、それに小麦粉に砂糖を混ぜ、練って色づけした花形の菓子テュルペを供えるのだ。アビュー家のような大きな屋敷では、祭壇用の仮小屋を玄関前に建てる。
 テュルペを作るのは、その家の嫡子と決まっていた。アビュー家では当然、ルシャデールの仕事だが、彼女は不器用だ。去年まではアニスが手伝ってくれた。彼は魔法のような手さばきで、練り小麦から花を創りだしていく。
『ハトゥラプルにいたころ、よく作りました。その頃はまだうまく作れませんでしたけど』
 彼はそう言って笑っていた。そういえば、彼もまた、農夫の息子としてではあるが、嫡子だった。
 今年はエクネが手伝ってくれる。
「難しいものですね」
「うん」
 エクネは彼女よりすこしましな程度だ。
「テュルペ作りかい」
 トリスタンが部屋を覗き込んだ。紺色の豪奢な外套を羽織っている。今夜は王宮の宿直だ。これから出仕するらしい。
「去年よりきれいに作れてるじゃないか」彼は一つつまんで手のひらにとる。
「それはエクネが作った」
「あー、そうか……。ちょっと話があるんだが」
 ルシャデールはできたテュルペを玄関前の祭壇小屋に持って行くよう、エクネに言いつけた。
「錫杖の儀なんだが、来年を予定していただろう」
「うん」
「アニサードがこんなことになって、延期はやむを得ないとしても、君の侍従を別に決めねばならない」
 そのことは常に頭の隅にあった。だが、別の誰か、ということになると、いつも考えは止まってしまう。
「それは、わかってくれるだろう?」
「うん……」
「アニサードを見限ったわけじゃないが、現実的な問題として考えないといけない時期に来ている」
「うん」
「もし君の希望があるなら聞いておきたいと思ったんだが」
「特にないよ」というよりも、アニス以外の侍従は考えられなかった。「あなたとデナンで相談して、適当によさそうな人を選んで」
 トリスタンはうなずき、何か言いたげな表情をしたが、それじゃ、行ってくるよ、とだけ言い残して部屋を出て行った。
 一人になったルシャデールは深く息をついて窓の外を眺める。初冬の空は曇りがちだ。
 血のつながりもない祖霊なんて帰ってこなくていい。帰ってきて欲しいのは元のおまえだ。


「夢うつつの時、懐かしい顔を見るんだよ」カプルジャが言った。
 え? ルシャデールは聞き返す。
「親父におふくろ、兄貴、女房、息子なんかがね、まわりでにこにこしながら、わしを見てるんだよ。みんな、とうの昔に逝ってしまった者ばかりだ」
 そうですか、とルシャデールは何気ない風を装って受け応える。死に近づいた者が、もうろうとした意識の中で、故人を見るのはよくあることだ。ユフェリが近くなっているのだ。
「怖くありませんか、死んだ人たちは?」
「いんや、なんたって家族だからね。懐かしいよ。心がぽかぽかしてくるような感じがする」
 しばしの間、沈黙が流れる。老人は死期が近いのを悟っているのだろう。ルシャデールは何と声をかけていいかわからなかった。
「御寮さん、わしは死ぬのかね?」
 落ち着いた口調だった。淡々として、生への執着も感じさせない。
「みんな……誰でも死ぬんです」
 もうちょっとマシなごまかし方はできないものかと思う。だが、彼はもはや死を恐れてはいないような気がした。
「近いのかね?」
「そこまでは……わかりません。……どうして、人は生きて、死んでいくんでしょう?」
 ルシャデールは聞くともなしに、つぶやいた。
「さあ、どうしてだろねえ。わしみたいな、学のない(もん)にはわからんよ。始源にして一なるお方の思し召しとしか」老人はわずかに微笑む。枯れた、(すが)しい笑みだった。
 この老人なら、知りたいことに答えてくれるような気がした。だが、言葉にならない。彼女は黙然として、膝に置いた自分の手を見つめていた。
「アイサが言っとった。御寮さんの侍従さんが気が触れてしまったとか」
 ルシャデールは顔を上げた。ええ、と小さくうなずく。
「生きながらにして、死んでいるようなものです。いえ、もっとひどいかもしれない」
 カプルジャは彼女をじっと見ていたが、皺だらけの手を伸ばし、彼女の手に添えた。
「涙を出し惜しみしちゃならんよ。悲しい時にするべき最善のことは泣くことだ。そう、昔のえらい人が言っているじゃないか。わしだって、息子が死んだ時は声を上げて泣いた。悲しいことや苦しいことは出さずにしまっておくと、他の喜びや楽しみまで食い尽くしてしまうよ」
「カプルジャさん……」
「あんたは優しい人だ。幸せになるよう、わしは祈っているよ」
 優しい人。そう言われたのは二度目だ。最初に言ってくれたのはアニスだった。彼女は首を振った。
「優しくなんてないです。……怖いんです。私はアニサードが好きなのに、いえ、好きだったというべきかもしれません。だんだん、……顔を見るのも嫌になってきて。そのうち、憎むようになるかもしれません」
「憎んだとしても、そういう自分を許してやらんといかんよ」
 許してやらんといかんよ。
 その言葉に、熱い水が目からこぼれ、手に落ちる。
「あんたは何も悪くない」
 唇をかみ、声をたてずに泣く彼女を、カプルジャが優しい眼差しで見つめていた。

 
 アニスが狂ったままでも、以前と変わらず日々は過ぎていく。
『いっそ、死んでしまったほうがよかったかもねえ』
 下働きの女たちが、そう話しているのをルシャデールは耳にはさんだ。その時は腹を立てて、叱りつけてしまったが、アニスの顔を見るのも最近はやるせなく、溜息しか出ない。
 オリンジェは当初は三日おきくらいに訪れていたが、それが一週間に一回になり、十日に一回になり最近では姿を見せない。
 シャムが聞きこんできた話では、絹織物問屋の息子と縁談が進んでいるという。
両親や周りからも意見されたんでしょうね、と彼は言った。嫁入り前の娘が狂った男のところへ通うのは外聞が悪い。オリンジェもそれに従ったのだろう。
 思ったとおりではあったが、それに対して怒ったり軽蔑することはできなかった。


 十二月も終わりに近い日だった。ミナセ家から戻ると、階上から怒鳴り声が聞こえた。
「ああ、もう! 何をやってるんだ、いいかげんにしてくれ!」
 ルトイクスだ。
 珍しく、苛立っている。何があったのだろう。
 階段を駆け上がり、アニスの客室に入ろうとして、彼女に気づいたルトイクスが慌てて入口をふさいだ。
「だめです! 御寮様はお入りになってはいけません!」
「どうして? 何があったの?」
「だめです!」
 ルトイクスは無理矢理、彼女を、入口から引き離す。
「失礼いたしました。しかし、今はだめです。御寮様がご覧になってはいけません」
「だから、どうして?」
「……脱いでしまったのです。私が、食器を下げている間に、粗相をして、気持ち悪かったのでしょう。戻ってきたら、服をみな脱いでいました」
「あー……」羞恥心すら失っていることに、言葉が出ない。
 だが、いつもアニスの世話をしているルトイクスの方は実際的だった。あれこれ考えるより先に、現状への対処に頭を働かす。
「下にソーリスかインディリムがいると思います。大変、申し訳ありませんが、呼んでいただけませんか?」
 わかった、とルシャデールは階下へ向かう。が、客間を通り過ぎる時、引き寄せられるように覗き見てしまい、ぎょっとする。
 青黒いあざが、二ヵ所。背中に、くっきりとついている。
 あわててルトイクスは、部屋に入っていく彼女を止めようとするが、
「離しなさい!」一喝した。
 上着を脱ぎ、腰回りを隠させてから、アニスの前にまわる。胸や腹、足、あちこちにあざが残っている。
 階段からでも転げ落ちた? 
 何か事故や異変があったら、告げるように従僕頭には言いつけてあるが、何も聞いていない。それに、転げ落ちたにしては多すぎる。
「何なの、このあざは!?」
ルトイクスに詰問する。
 従僕の顔がこわばる。視線はルシャデールにつながれ、どう対処するか迷っているかのように、瞳は暗く明滅した。ユフェレン相手にごまかしようがないと判断したのだろうか、ややあって、彼はぼそっと言った。
「申し訳ありません」
 世話をしている中で、言うことを聞かないことがたびたびあり、体罰を加えたのだという。最初は手をつねる程度だったが、それが叩くようになり、だんだんエスカレートしていったという。
「このばか者が!」
 かっとして、ルシャデールは手近に落ちていた小鉢を取り上げ、ルトイクスに叩きつけようとした。その時、アニスの手が彼女の袖を引っ張った。振り向いた彼女を、澄んだ瞳が射抜いた。
 そこにいたのは、頼りなげな、無垢の存在。善もなく、悪もない。夢もなく、絶望もない、あるがままの姿が、窓から差し込む淡い光に包まれている。
 一瞬、彼女はユフェリのどこか美しい場所にいるかのような錯覚に襲われた。
 それを破ったのは、膝に感じた冷たさだった。それとともに、尿の匂いが鼻につく。見ると、じゅうたんが濡れている。それが彼女の服に染みてきたのだ。
 そういえば、粗相をしたと言っていた。
「げっ」
 御寮様にあるまじき汚い呻き声とともに、あわてて立ち上がる。
「お召替えを……」
「うん。アニスの方を頼む。あざをつけたことについては、後で話をする」
 すっかり頭も冷えていた。


 ソニヤが用意してくれた服に着替えながら、ルシャデールは考えこむ。アニスに暴行を働いた従僕が、自分の姿に重なるような気がした。
 私が……悪いんだ。あんなになったアニスと向き合うのが嫌で、彼らに任せきりにしてしまった。
「従僕さんたちも苦労しているようですよ」
 さっき、ルシャデールが怒っている声を聞いていたのだろうか、ソニヤが言った。
「うん、そうみたいだね」
 長衣の下にはく下ばきズボン、サニエを取り換える。その上に木綿の下スカートをつけ、それから黄色がかった白の長衣をつける。
「赤ちゃんと変わりないですからね、今のイスファハンさんは」
 ソニヤは紅いサッシュを女主人に手渡す。
「赤ちゃん……」
「ええ、赤ちゃんに怒っても、仕方ないじゃありませんか。よく、知恵遅れの人のことを、お坊様は『神様に近い人』という呼び方しますでしょ、それと似たようなものかもしれません。でも、なかなかそう思えないでしょうね。まだ十五、六のお兄さんたちには」
 皮肉な呼び方だね、と言ったルシャデールに、ソニヤは、これは私の考えですが、と前置きして言った。
「きっと、周りの者に何か大きなものを与えてくれる、という意味じゃないでしょうか」
「大きなもの?」
「赤ちゃんを育てていく時、親も一緒に育てられているんです。赤ちゃんは何を言っても、わかってくれないですからね、こっちの思うようにならないことがいくつもあります。それを乗り越えていくうちに、いろいろなことを教えられるんですよ」
「……」
 そういえば、シリンデが言っていなかったか? 狂気の中にこそ神は宿る、と。
 ソニヤの言葉は、ぽん、と、シャデールの背中を押したようだった。
 事の次第を知ったトリスタンは、アニスに暴行を加えていた二人の従僕に暇を出すと言ったが、ルシャデールがそれを止めた。
 ソニヤの言ったことが本当なら、アニスと関わることは二人にも何かをもたらすのだろう。そして自分にも。

第11章 決別、もしくは道を定めること

     


 一月も末の朝だった。ミナセ家へ稽古に行くため、屋敷を出たルシャデールは、パルレ橋の前まで来てはっとした。
 橋のたもとにカプルジャがいた。にこにこと暖かな笑みを浮かべた老人は、ルシャデールに向かって深々と頭を下げた。
「止めて!」
「御寮様?」
 輿かつぎが立ち止り、お供のソーリスが彼女を振り仰ぐ。
「戻らなきゃ……」
「えっ?」
「降ろして! -カプルジャさんの家へ行く!」
 輿から飛び降り、外衣をひるがえして走り出す。ソーリスや輿担ぎたちの声が聞こえたが、放っておいた。
 何が起こったのか、わかっている。急いでも無意味だ。それでも、走らずにいられなかった。
 旅立ってしまった……。もっと、話したかったのに!
 走って通り過ぎていく彼女を、アビュー屋敷の門番が驚いて見ていた。
 カプルジャの家はいつもと変わりなさそうだった。しかし、石囲いの中に今日は羊がいる。普通ならすでに放牧に出しているはずだ。いつもは見かけないロバも、そのそばで草を食んでいた。
 一番下の女の子が戸の前で座り込んで、地面に棒で絵を描いている。ルシャデールに気が付くと、中に入って
「おかあちゃん、御寮さんが来たよ」と母を呼んだ。すぐにアイサが出てきた。
「まあ、御寮様」
 少し青ざめてはいるが、目の奥に小さくきらめくものがある。
「パルレ橋で、カプルジャさんを視ました。もしや、異変があったのではないかと思って駆けつけたのですが……。私の思い過ごしでしたか?」
 アイサはどうぞ、と中に招き入れた。いつもは羊の放牧に出ているアイサの息子たちもいた。
 カプルジャさんは、いつもの部屋に横たわっていた。
 香が焚かれている。ひびの入った素焼きの香炉から白い煙が立ち上る。
 穏やかな死に顔だった。ルシャデールは枕元で手を合わせる。
「いつ亡くなられたんですか?」アイサにたずねた。
「少し前です。けさ、お粥を少し食べて、その後眠っていましたが、さっき見たら亡くなっていました。夕べ、寝る前に御寮様にお礼を言っておいてくれ、と言ってました。わかっていたのかもしれません」
 ルシャデールは何と言っていいものかわからず、うなずいているだけだった。
 カプルジャが近くにいるのを感じる。もはや抜け殻となった肉体ではなく、魂の方だ。
〈ありがとう、御寮さん〉
〈うん〉
〈おかげで楽に逝けた〉
〈うん……〉
〈タンポポの綿毛にでもなった心もちだよ〉
〈そうか、気持ちいいかい?〉
〈ああ、上等、この上なしだ〉
 カプルジャは笑っているようだ。
〈よかったね〉
 涙が頬をつたっていった。
 葬儀の準備に忙しいカプルジャの家を早々に辞して、ルシャデールは帰途についた。
 北からの冷たい風が彼女の頬を打つ。枯草におおわれた丘陵は、まだ春の気配もなく寒々しい。
 稽古は休むことにした。ソーリスをそのままミナセ家へ使いにやる。
「理由はどのように申し上げたらよろしいですか?」
「何とでも。おまえにまかせる」
 庭へまわり、芝に座り込んで空を見上げる。雨が降るかもしれないと思ったが、動く気にならなかった。
 人はどのみち死ぬ。カプルジャの病は、治る見込みがなかった。痛みを軽くして逝かせたのだから、あれでよかったのだ。
ひょいっと体から脱けてユフェリを訪れれば、たぶんいつだってカプルジャさんには会える。悲しむにはあたらない。なのに、なぜ涙が出る?
 雨粒が落ちてきた。頭に、胸に、足に、水滴が当たる。
 ルシャデールは両腕を頭の後ろで組み、草の上に寝転がる。灰色の雲から線を描いて落ちる空の水は無限だ。いつだったアニスと聞いた歌を思い出した。

 大地は雨をうけとめる
 もろ手広げて、
 アイサイヤ
 お天道様がよこした水は
 流れ流れて、さらに流れて
 いつかは海へと還りつく
 海から空へまた昇るのさ
 俺たち流れ者とて
 いつかは帰り着くのさ
 お天道様のいるところ
 大地は雨をうけとめる
 アイサイヤ

 ああ、受け止めてやる。雨だろうと、(ひょう)だろうと、はたまた槍だろうと。 
「ルシャデール」
 体を反らすように頭を向けると、トリスタンだった。雨の中で芝に寝転ぶ娘に呆れているようだ。
「カプルジャさんが亡くなったんだ」
 トリスタンは彼女のそばに座り込んだ。
「聞いたよ。後で弔問に行ってくる」
「……幸せな一生だったんだろうか?」
「カプルジャさんかい? 君はどう思った?」
「わからない。でも最後の方は……なんだか光のようだった」
「癒し手をやっていれば、どうしても治癒に至らない病人にあたる。嫌な仕事といえば嫌な仕事だ」
 彼は、カプルジャを治癒させることができず死なせてしまったことに、ルシャデールが傷ついていると思っているようだ。
「違う、トリスタン。そうじゃない。あの人は……」
 私を救ってくれた。今のアニスを受け入れられずにいた、身勝手で自分本位な私を。
『あんたは何も悪くない』
 あの一言が、どれほど救いになったことか。だけど、私は、カプルジャさんに何もしてやれなかった。
〈それは違うよ、御寮さん〉
 どこからか声がする。
〈わしはたいしたことはしとらんよ。何も返せなかったなどと嘆くことはない。もし、それでも、あんたが恩と言ってくれるなら、誰か他の者に返してやればいい。幼い子や女たち、他にも、あんたの手を必要としている者は多い。いくらでも返せるとも〉
 声の主は遠ざかっていった。その代わりに耳に入ってきたのは、トリスタンの言葉だ。
「どうしても嫌なら、癒し手以外の道を進んでもいいんだよ」
「いいや」
 ルシャデールは、がばと、身を起こした。
「私はここでやっていく。四年前、あなたがアビュー家の跡継ぎに私を選んだ。天の啓示か偶然か知らないけど、あなたはそれに従うことを選んだ。今日まで、成り行きで過ごしてきたけど、今度は、私がアビュー家を選ぶ。私が五十二代目だ!」
 トリスタンは黙って彼女を見つめる。控えめな喜びといたわしげな憐憫が目の中に交差する。それでいいのかい? と、問いかけるように。
「そうしたいんだ」
 ルシャデールは重ねて言った。もう揺らぎはない。
「……ありがとう。そう言ってくれるなら、私の後は任せる。でも、まずは屋敷に入ろう。このままでは、二人とも風邪をひいてしまう」
 翌日、ルシャデールは養父(ちち)とともに、カプルジャの野辺送りに参列した。親類や縁者は、そのことに少し驚いたようだった。
 従僕二人を従え、屋敷へ戻る途中、トリスタンが念を押すように聞いてきた。
「昨日言ってくれたことは、本当にいいんだね?」
「いいよ。錫杖の儀は今年? でも、侍従が決まっていないか……」
「イェニソールが探している。しかし、今一つ、これといった者が見つからないらしい」
「そのうち、彼が私の侍従を務めるとか、言い出すんじゃない?」
 トリスタンは娘を見た。実はその通りだった。ある程度の教育を受けている下級貴族や役人の子弟を中心にデナンは探していたが、どうも満足できないでいた。
「主人の隠居とともに、侍従も辞職するのが神和家の慣例だがね。例外はある。アニサードをあきらめるのは、君にとっても辛いだろうが」
「侍従でなくてもアニスは……アニスだよ。それは変わらない」
 見上げた冬の空の濃い青色が目にしみた。
 その日の午後、彼女は種を植えた。アニスの部屋にあった種だ。キコールという花だとシャムが教えてくれた。
「『幸せを祈る花』って言われてます。子供が生まれた時や、結婚の時、それから誕生日なんかによく贈るんですよ」
 種を植えて、四ヶ月から半年ぐらいで花を咲かせるという。
「どんな花が咲くの?」
 庭の一角で、ルシャデールは鉢に土を入れる。種と一緒にあった、噴水の絵がついた植木鉢だ。
「麦粒ぐらいの、ちっちゃい白い花です。それがわーっと固まって、きれいです」
 小さな花は種もやはり小さい。彼女はそれをこぼさないよう、大事に鉢の土に植える。それを見ていたシャムが言った。
「去年の、三月か四月だったと思います。アニスが俺に、キコールの種が欲しいって言ってきたんです。春に咲かせるには、いつごろ植えたらいいか、聞いてきて……。俺、つきあってた彼女に贈るのかと思って、からかったりしたけど、今考えると、違いますね。あの娘は花よりも、首や腕に飾る光りモノの方がよさそうだ。たぶん……御寮様に贈ろうとしてたんです」
「私に?」
 私だって、花を喜ぶようには見えないだろうに。
 シャムは小さなじょうろで鉢に水をやる。ルシャデールは庭師の青年を見上げた
「はい。きっと、今年の、御寮様の誕生日に咲かそうと思ってたんじゃないでしょかね」
 彼は屈みこんで、植木鉢を取ると、ついていた泥土を腰に下げていた布巾できれいにぬぐった。
「はい、どうぞ。部屋で育てるなら、鉢の受け皿があった方がいいですよ。従僕の誰かに言えば、適当なものを用意すると思います」
 ありがとう、と、植木鉢を受け取った彼女は部屋に戻り、窓辺に置いた。

 
 カプルジャを訪問する必要がなくなり、午後からの時間に余裕ができた。ルシャデールはアニスの世話に極力関わるようにしていた。
「うっ!」
 ルシャデールは思いっきり顔をしかめる、どうやら食べさせ方が早かったらしい。のどをつまらせたかと思うと、口の中のものをぶわっと、ルシャデールの顔面に向かって吹きだした。
「ひどいよ、アニス」
 彼女は近くの濡れ布巾に手を伸ばす。
「あー」彼はルシャデールの顔を見て笑う。
 従僕たちのアニスに対する暴行があってから、昼食の世話は彼女が引き受けるようにしたが、思っていた以上に、忍耐力が必要な仕事だった。
 体を動かさない生活で、食が進まない彼は食べるのが遅い。言葉をはっきり理解できない状態では、促したからといって、すぐ噛んで呑み込むものではない。噛まずに呑み込んでしまうことも多かった。
 魚の揚げ物を食べさせていた時のことだ。小骨がのどに引っかかり、ひどくむせてしまい、食べたものを全部吐いてしまったこともある。
 順調に食べていたと思ったら、急に立ち上がってふらふらと歩きだしたり、寝転がったり。それを座らせて、また食べさせる。
 スープを飲ませようとして、何が気に入らなかったのか、スープ皿を手で払われたこともあった。
 世話をしていて一番苛立つのは、なぜそういうことをしたのか、見当がつかないことだった。
「御寮様」
 床に散らばったものを拾っていたら、インディリムが顔を出した。青白い、そばかす顔の、ルシャデールより一つ下の少年だ。
「施療所の方にケガ人が来ています。ここは私がやります」
「うん、頼む」
 ルシャデールは立ち上がった。
 ルトイクスと同様、アニスに暴行していたインディリムだが、二人とも今回に限りお咎めなし、との裁定で、引き続き彼の世話に当たっていた。狂ってしまったとはいえ、借りにも「御寮様の侍従」だ。乱暴を働いたとなれば、暇を出されるのを覚悟していたらしい。それからは神妙に働いている。
 暴行するまでに二人を追いつめたのは、私かもしれない。
 ルシャデールはそう思っていた。従僕たちの中でも若い彼らに、汚く嫌な仕事が押し付けられ、その労苦を理解する者もねぎらうものもいなかった。
 本当はアニスの主人である自分が、もっと彼らのことを考えてやらねばならなかったのだ。しかし、アニスの狂気を受け入れられなくて、世話をしているルトイクスとインディリムにも背を向けてしまった。大小便の始末までしている二人は、苛立つことの連続だったろう。暴行は、やり場のない不満の行き着く果てに違いない。


「えーっ! 今日は御前様いらっしゃらないんですかい?」
 ケガ人は護符売りのオズギュルだった。川岸近くの集合住宅(ヒサムール)に住む若者だ。
 大家に頼まれて補修のために屋根に上がったら、突風にあおられて下に落ちてしまったという。幸い腕の骨折ですんだが、かなり痛むようだ。
「トリスタンは斎宮院の用事で出かけた」ルシャデールは目の前の座布団を指差す。「さっさと座んな!」
「御寮さんの手当は、その、何ていうか、ひりひりするって話ですぜ」
 オズギュルはちょっと洒落た赤い上着を床に広げ、いかにも気が進まなそうに、その上に座った。顔を引き締めると、なかなかの男前だが、その実、てんで意気地がない。
「何だい、そのひりひりするってのは? 文句があるなら帰っていいよ!」
「手当にも人柄がでるもんだって、みんな言ってますがね」
「うるさいね。どうせ、私はひりひりする人柄だよ! さっさと腕を見せな!」
 手伝いの修道尼たちがクスクス笑っている。
 患者にはいま一つ不評だが、以前に比べたら手当はうまくいく。アニスを練習台にした止血の訓練は、失敗ばかりしていたものだが。
 今はカプルジャにしてやれなかったことを、他の患者にしていくだけだ。


 二月に入って、ルシャデールはアニスを外へ連れ出し始めた。
 それまでも庭ぐらいは歩かせていたのだが、パルレ橋の向こうまで連れて行きたいと言ったら、トリスタンを始め、執事やシャム、多くの者が難色を示した。アニスが興味本位の目にさらされるのは忍びないのだ。
『アニス本人は気にしないと思う。私が一緒なら石を投げて喜ぶような馬鹿者もいないだろうし。秘伝の巻物か何かじゃあるまいし、門外不出にすることはないんじゃない?』
 デナンはもっと実際的な心配をしていた。
『慣れない場所へ行くことで気がたかぶり、予想外の行動をとることはありませんか? その結果、他の者や彼自身を危険にさらすようなことはないと言えますか?』
 絶対に大丈夫、とはさすがにルシャデールも言い切れない。
 以前、施療所の薬研(やげん)挽きをしていたヨリョクは、人懐っこい知恵遅れの青年だったが、空を飛びたいとよく言っていた。二年前のある晴れた日、彼は橋の欄干から川に飛び込んで水死した。
 自殺ではなかったと、ルシャデールは思っている。ただ、橋から飛んだら本当に空が飛べるような気がしたのだろう。だが、周りの者も、まさか橋から飛ぶとは思っていなかった。
 アニスにそんなことは起こってほしくない。
 結局、少しずつ散歩する範囲を広げることにした。お供には従僕一人と、万が一に備えて力のある輿担ぎが一人つく。
 散歩は屋敷の周りから始まって、人気(ひとけ)のない丘陵地帯、カシルク地区の畑地帯、居住区へと徐々に広げていった。三月の下旬、アニスは狂ってから始めて、パルレ橋を渡った。
 この日、ルシャデールはオテルス広場までアニスを連れて行った。輿を使うようになる前は、稽古の帰りによくここでアニスとジュースを飲んだ。ほんの一年ぐらい前のことなのに、遠い昔のように感じる。
 広場の様子は変わりなかった。物売りの声や、荷馬車の車の音、牛やヤギの鳴く声。肉の串焼きの焦げる匂い、角の香辛料屋からはさまざまなスパイスの匂いがごっちゃになって流れてくる。
 アニスはまるで初めて来たような顔で、あたりをきょろきょろ見回す。
「あー」
 彼が声を上げ、前方を指差す。見れば、二人組の楽師だ。去年見た、あの二人だった。
 アニスはゆっくりとそっちへ歩き出す。突然どこかへ走り出さないよう、その手をルシャデールがしっかりと握っていた。
 二人の楽師は、アニスとルシャデールを覚えていた。
「やあ」年配の方が笑いかける。
「ずっとここで、やっているんだね」
「まあね。冬は暖かいところがいいさ。夏になったら、もう少し北の方をまわってくるがね」若い楽師はそう言って、アニスの方に視線を移し、軽く息をついた。「召し出されちまったんだってな、女神様に」
 シリンデの召喚。狂気の別名だ。
「うん。何か歌ってよ。アニスは歌が好きだから」
 ルシャデールはつとめて明るく振る舞う。
「何がいい? ラフィアムの歌かい?」
「うん」

 ヴィクラの甘くやさしい音色が流れ、ついで笛の澄んだ音が調和する。
 
「シヴァリエルス、シヴァリエルス
 僕の美しい小夜鳴鳥よ、君に会いたい
 君は飛び立ったまま、どこにいる?
 悠久の風の中で舞っているのか、
 それとも天空の庭の美しい糸杉の枝にやどっているのか
 君に会いたい、今一度。
 もしできるなら、この身を放り出しても
 君をたずねて行くものを
 シヴァリエルス、君は今、どこにいる」

 初老の楽師は以前と変わらず深みのある声をしていた。
 アニスはじっと聞いている。何を思っているのか、伺い知れない。それとも何も思っていないのか。
 楽師はもう一曲歌った。

「僕が愛しているのは
 君と君がいる世界
 たとえそこに僕を蔑み、憎むものがいようとも!
 この世界のすべてが僕に
 刃を向けてくるというなら
 僕は喜んで受けよう
 そこにそうしているだけで、
 君は僕の宝物
 僕が愛しているのは
 君と君が開いてくれたこの世界
 汚いものも、醜いものも、憎しみも、悲しみも、
 すべて僕は受け止めよう。
 大地が冷たい雨をうけとめるように。
 君がいるだけで、この世界は天上の庭だから」

 歌い終わった楽師に銭をいくぶん多めに投げてやる。
 その後は、ぶらぶらと、しかし辺りに気を配りながら街を歩いた。
ひそひそと声が聞こえる。
 頭のおかしくなった哀れな侍従。
 何をしでかすかわからないキチガイ。
 嫌悪、侮蔑、哀れみ。そんなものが人々の目に浮かぶ。ルシャデールは気にも留めないふりをする。だが、ときおり、彼女に向けて、悲しみをあふれさせる者もいた。
「このままでもいいんだ」
 壁道を屋敷に向かって歩きながら、ルシャデールは自分に言い聞かせるように言った。
 北丘陵も三月の末になると、古い草の下から若葉が伸びてきた。
 そのままでも。私にとって、おまえは大切な人間なんだ。
 世話をしていると、腹が立つことはよくあるし、叩きたくなることもある。が、それでもなお愛おしい。
「アビュー家はおまえ一人養うくらい、なんてことないからね。安心おし。追い出したり、屋敷のどこかに監禁するなんてことはしないから。他に誰か、代わりの侍従が来たとしても、ずっとうちの屋敷にいていいんだ」
 いずれ私はトリスタンの跡を継ぐだろう。彼がそうしたように、どこかの子を養子にとって、その子に跡を譲るんだろうな。いつか隠居したら、一緒に旅をしよう。春は花を追って北へ。秋には渡り鳥と南へ。そうだ、海を見にいこう。ユフェリのイルカの海みたいなところを探してさ、二人で暮らそう。大丈夫、私が面倒みてやるよ。もっとも私の世話の仕方は荒いけどね
 アニスはじいっと空を見ていた。
 ぴーひょろろろ。
 とんびが鳴きながら、円を描いて舞う。雲が流れる。
 アニスが……澄んで見えた。岩間の湧水や、山の空気を思わせるようだ。亡くなる前のカプルジャにも同じような風があった。
 狂気にこそ神は宿る。シリンデの言った通りかもしれない。
 春の匂いをさせて、風が髪をなでていった。もう少ししたら、また杏の花が咲くだろう。耳元で声がした。
「シワ……リエ……」小さな声でアニスが歌っていた。「シワーリエル 僕の……さよ…なきどり……どこに……いる」
 おまえは今、どこにいる? 胸の中で、アニスに問いかけてみる。答えは彼女の中から返ってくる。
 ここに! ここにいる。
 正気だった時以上のものを、今、彼はもたらしていた。それを感じ取れる限り、彼女にとって、アニスは生きていた。
 ルシャデールはアニスの手を強く握る。
「一緒に行こう」
 これからもずっと。

第12章 暗赤色の闇

   


 ユフェリの河で溺れるなんて……。そんなはずはない。体がないのに、死ぬはずはないんだ。思い出せ。イルカたちの海では溺れなかった。
 河の激しい流れに翻弄(ほんろう)されて、アニスは気が遠くなりそうだった。へゼナードはどうなったのかわからない。
 死なない、死ぬはずがない。
 色々な顔が脳裏に浮かぶ。死んだ人も生きている人も。好きな人嫌いな人。これまでにたどってきた、そう長くはない人生の色々な場面。嬉しかったこと、悲しかったこと。枯草色の髪をした少女の悲しげな顔がよぎる。
 ごめん、ルシャデール……。


 どれほどたったのか。湿ったざらざらとしたものが頬に当たる。河岸に打ち上げられたらしい。頭上から月の光が煌々と降り注ぐ。
 アニスは立ち上がり、あたりを見回す。河はさっきとうって変わって、ゆるやかに流れていた。
「ヘゼ……。へゼナード……!」
 答えはない。どこか遠いところまで河に流されてしまったのか……。それとも、カデリへ帰れたのか。
「誰か! 誰かいませんか?」
 河をはさんで向こうは岩ばかり。不毛の荒れ地が広がっていた。
 不安にかられながらも、やみくもにあちこちさ迷うような真似をするつもりはなかった。『どんな状況に陥っても、冷静さを失わなければ、脱出する可能性はある。役に立ちそうな事柄を上げていき、それに順序をつけろ』
 デナンは常に、不測の事態を考えていた。戦乱や政治的な反乱、アビュー家をおとしいれようとする策謀……。世の中は(なぎ)の海のように穏やかに見えても、水面下では動いている。波が荒れる前に察知し、備えなければならない。
 アビュー家を安泰に保つために、アニスがデナンから教わったことは多い。万一、屋敷から逃げなければならない時のために、国内に数カ所の隠れ処を用意しておくことや、逃亡の旅に必要なもののこと。そのための心得や対応……。
 今、できることは何だ? 
 ここがどこなのか、まずそれが知りたかった。もし、ここがまだシリンデの領域だとしたら、出会えるのは、石になってしまった、もしくはこれから石になりそうな者、あのせむし男、それにその女主人ぐらいか。さ迷っている連中はアニスと同じ状況だろう。せむし男の方は……あまり会いたくないし、役に立つ情報が得られるとは思えない。残るは一人しかいない。
「シリンデ様……ここにおられるのですか? シリンデ様! 教えてください!」
 すると、水を流すように、月の光は束になって地上に注ぎ、その光を()って月の女神の姿をとった。
「また、そなたか。わらわはそなたの使い魔ではない」
 いささかごきげんななめだ。
「申し訳ありません」
「まあよい。そなたはここに残ることを選んだのじゃな」
「選んだ?」そのつもりはなかったが。
「河はそなたの意志を汲んで流れを変える。そなたの連れは、カデリに戻ることを望んだ。今頃は無事帰りついたことであろう」
 へゼナードの身が安全なことに安堵しつつ、一人になってしまったことには落胆した。
「ここはどこですか」
「わらわの領域はこの河岸までじゃ。その向こうは『囚われの野』が広がっておる。河向こうへ渡るもよし、ここに留まるもよし。好きにいたせ」
「他のところへは行けないのですか?」
「時期がまいれば、『庭』へ赴くことが許されよう」
 『庭』へ赴く。つまり、肉体が死を迎えるということだ。
「他に道はありませんか?」
「ない」
 シリンデはきっぱりと言った。
「他に用がなければ、わらわは行く」
「あっ、待って下さい!」
 僕はどうすれば……。たずねる前に女神は姿を消した。
 アニスは息をつき、その場に座り込んだ。
 何だって僕はこんなところへ来てしまったんだ。
 最初に逃亡しようとした理由が何だったかも、よくわからなくなっていた。向こうの世界での生活が夢のようだ。今の彼には、ここユフェリで見聞きするものの方が、遥かに現実として感じられた。
 四年前に、ユフェリを訪れた時は、そう長くいなかったし、案内者もいた。今回は誰もいない。
 また、アニスは知らなかったが、シリンデの領域の空気、訪れた者の記憶をおぼろでぼんやりとしたものにしてしまう。へゼナードは父に会いに行くという強い望みを持っていたために、カデリのことを忘れずにいたし、帰ることができたのだ。
(河の向こうへ行ってみよう)
 河幅は広いが、その分浅瀬になっており、容易に渡れそうだ。
 シリンデの領域を出ると、昼の世界だった。太陽がぎらぎらと照りつけている。
赤茶けた岩山が連なる不毛の地、『囚われの野』……。
 死んでもなお、何らかの欲望や感情に囚われた者たちが、それぞれの想いに合った世界を創っている場所だ。岩山には無数の洞窟があり、入って行くと、その中には、さまざまな世界が広がっている。前に来た時は、戦争を続ける騎士や兵士たち。金の亡者などがいた。
 まだ彼らはおなじことをやっているのだろうか? 
 同じ穴に行けるのかどうか、わからなかったが、アニスは洞窟の一つに入ってみる。
 果たして、兵士たちは相変わらず戦っていた。矢で射られ、刀剣で斬られても、なお立ち上がり、敵と戦っている。敵の方も同様だ。
 守銭奴の国も相変わらず、テーブルに積まれた金貨を前に、人々の金数えが続いていた。
 他の洞窟も行ってみることにした。
 怨憎の世界はおぞましいものだった。憎む相手をまさかりや斧、短剣、包丁、棍棒、いろいろなもので殺し続けている。囚われているのは老若男女、いろいろな人間がいる。中には子供もいた。だが、刃物でめった刺しにされても、相手はまた再生する。その繰り返しだ。
 もう、許してあげなよ。アニスは思わずそう口に出したが、その言葉も届かない。憎しみの発端は何だったのか。たぶん、当人もそれを忘れてしまっているにちがいない。あるのはただ、憎い、殺してやりたいという思いだけだ。
 賭博や酒にのめりこむ者の世界、旅の途中で死んだ者だろうか、旅姿で歩き続ける者。死んでいるにも関わらず、病気やけがに苦しみ続ける者。石運びの苦役を延々と続ける者。
「いつか、この人たちは解放されるんだろうか? それとも永遠にこのまま?」
 といって、今の彼にはどうすることもできなかった。
 ふと、ルシャデールの母のことを思い出した。
 突然失踪した夫が帰って来るのを待ち続けていたが、待つことに疲れたのか、ある日みずから命を絶ってしまった。アニスがルシャデールに連れられて、「囚われの野」を訪れた時、彼女は天井の(はり)からぶら下がったままだった。アニスが縄を切ってやり、降ろしてやったのだが。
「やっぱりあのままかな……」
 アニスは別の洞窟に向かった。『囚われの野』にある無数の世界が、それぞれどの洞窟にあるのか、そもそも固定されているものなのか、彼にはわからない。ただ、ルシャデールは、以前に言っていたことがある。ユフェリでは会いたいと思えば会えるしくみになっている、と。肉体を持たない者の、想念(おもい)だけの世界だからではないかと、彼女は考えていた。
「ルシャデールのお母さんにもう一度、会わせて下さい」
 洞窟の入り口で、子供が神様にお願いするように、アニスはつぶやき、入って行った。
 ほとんど何も変わっていなかった。寝台のそばの脱ぎ散らかした服も、洗ってない食器も、割れた紅壺からこぼれる紅も。
 寝台に衣装箱、食卓替わりの木の台。家財といえる物は多くない。暖房と煮炊きの場を兼ねたかまどのそばには、水瓶が一つに、すっかり黒ずんだ鍋が一つ。茶碗が二つ。一つは木で、一つは陶器製だ。来客用かもしれないが、口が少し欠けていた。
 ルシャデールの母は部屋の真ん中に座り込んでいた。両足を前に投げ出し、うつむきがちに。頭上には首をくくった縄がぶらさがったままだ。乱れた長い髪は背中をおおい、床でとぐろを巻く。
「こんにちは」
 背中を向けているセレダに、声をかけてみる。
「……」
 振り返りもしなければ、返事もない。彼はおそるおそる、正面へまわってみる。
 虚ろな目は何も見ていない、半ば開きかけた口から微かにもれるのは、失踪した男の名だった。ルシャデール……と。
「セレダさん……」
 彼女の状況がまるで変化していないことに愕然としながら、アニスはしばし彼女を見つめていた。
「覚えていないかもしれませんが、僕、アニスです。四年前にル……ターシャと一緒にあなたに会いました」
 ルシャデールの本当の名はターシャだ。夫の面差しを娘に見出して、セレダは夫の名で彼女を呼んだ。
 セレダの表情は動かなかった。アニスを見ることもしない。虚脱したままだ。
「セレダさん」もう一度、呼んでみた。
 ゆっくりと、ゆっくりと、青白い顔がアニスの方へ向けられる
「ルシャデール?」小鳥のようなか細い声に切ない喜びがにじんだ。「帰ってきてくれたの?」細い指先が万力のような強さで彼の腕をつかむ。
「違います! 僕はアニスです。あなたの子のターシャの友達です」
 違うと聞いて、セレダは身を引き、うつむく。肩が上下に揺れ始め、嗚咽(おえつ)が漏れる。
 たいがいの男がそうであるように、アニスも女の涙には弱い。うろたえて、セレダのそばに寄る。
「泣かないで。きっと大丈夫です」
「あの人は帰ってくる?」
「きっと帰って……来ます。だから泣かないで」
 帰ってくるかどうか、もちろんアニスにはわからない。
 ルシャデールは実父のことについて、彼にもほとんど話していなかった。生まれる前に行方不明になっているのだから、知らなかったのだろう。ただ、フェルガナ人だったということだけだ。
 セレダは正気を失っているようだった。 
 いくらアニスでも、一緒にいて楽しい相手ではない。だが、『囚われの野』では、どこも似たようなものだ。金の亡者も戦場もごめんだ。幸い、と言うべきか、セレダは彼のことなど眼中にない。
「向こうのみんなはどうなっているんだろう……」
 床にひざを抱えて座り込み、アビュー家やへゼナードのことなどを思った。向こうにいる自分(の体)が、どういう状態になっているのかも気がかりだ。せむしのユホック・ナケルバンは、麻薬や酒、狂気で、おかしくなった人間がシリンデの御料地に来ると言っていた。ということは……。
「あまり、考えない方がいいのかもな。僕がいなくても、すべてうまくいっている。そうだ、そういうことにしよう!」
 深く息をついて、衣装箱に寄り掛かる。ふと、壁に描かれた絵が彼の目に留まった。白い石か何かで描かれた、落書きのような幼い絵だ。長い髪の女が笑っている。セレダに違いない。描いたのは、きっと|彼女の(ルシャデール)だ。
 カズックやルシャデールから聞いた話では、セレダは子供の世話をろくにしていなかったという。食事も満足に与えず、服が小さくなっても、そのまま着せていたとか、ささいなことで折檻もしたとか。
 しかし、アニスの前にいる彼女は、そんな風に見えない。ひどく傷ついて、生きることを諦めた女。
 ふと、尻が湿っているのに気がつき、彼は立ち上がった。床板が濡れている。さっきは乾いていたはずなのに。見れば、湿り気はセレダを中心に広がっていた。
 外気を入れようと、窓の鎧戸を開けたアニスは、思わず身を引いてしまった。外はどろりとした闇が広がっていた。じわりと脂汗がにじむ。
 何だ、これ!?
 部屋の中へ流れ込んでくるような気がして、とっさにアニスは鎧戸を占めた。
 胸が重く、ひりひりする。焼けた鉄の固まりでも呑み込んだようだ。深呼吸をして、乱れた心を落ち着ける。視線を感じて振り向けば、セレダが彼を凝視していた。充血した目から激しい妄執が噴き出す。呑み込まれ食い尽くされそうな恐怖が走った。
〈あの人を返して! 返してえええ!〉
 次の瞬間、彼女は目の前に迫っていた。
〈憎い! 憎い! 私からあの人を奪ったすべてが憎いぃ!〉
 赤黒いものがセレダの身から吹きだして、アニスの身を包む。
(うわ!)
 呑み込まれていく。焼け火箸のような鋭くとがったものが、彼の臓腑をえぐり、かき乱す。
(うえっ。苦しい……誰か……助けて。かあさん……)
 ユフェリではどれほどの苦痛に(さいな)まされようと、気を失うことはない。意識があるような、ないような。そんな境地をさまようだけだ。
 どれほど時間(そんなものがあるとすればだが)がたったのか。脂汗を手でぬぐい、起き上がった時、セレダの姿は消えていた。炭の入った水に血を流したような、暗赤色の重い霧がアニスを囲む。
 焼け付くような息苦しさ。ゆっくりと呼吸する。何がどうなっているのかわからないまま、彼はさっきまでいた女性(ひと)を探す。
「セレダさん……」
 霧が流れ、集い、二つの像をつくる。小さい女の子と母親のようだ。女の子は床にしがみつくように、倒れ半身をねじって母親を見上げる。
『ぶたないで!』
 子供はセレダだった。
『お腹が空いてたのよう! 昨日から水しか飲んでなかったから。かあちゃんは、男の人とどっか行っちゃっていなかったし!』
『言い訳はおやめ! ほんとうになんて、恥ずかしいことしてくれたんだい! 隣の家に忍び込んで、食べ物をあさるなんて!』
 母親は手にした細い鉄の棒でビシビシとセレダを打ちすえる。
『痛いよう! あたし、いい子にしているから。……母さんの手伝い、ちゃんとするから、お願い、ぶたないで! やめてよう!』
 やめて、とアニスが声に出しかけた時、母子の姿は消えた。
代わって現れたのは十二、三才のセレダだ。誰かから逃れようとしている。と、思ったら、がっちりとした体格の男が彼女を後ろから抱えるように捕まえていた。
『いやあっ! やめて、義父(とう)さん、いやっ! 誰か助けてっ!』
『へへっ、助けを呼んだって、この石蔵じゃあ誰にも聞こえねえよ。カナシャは当分帰って来ねえ。観念して大人しくしな』
 セレダの長い髪が乱れる。目の前に繰り広げられる、おぞましい光景。アニスは身動きできなかった。


『この淫売娘! ちょっと色気づいてきたと思ったら、父親をたぶらかすなんて!』
 再び、セレダとその母だ。
『違う! 母さん、信じて! あの人が私を石蔵に連れ込んで……』
 弁解しようとする娘の言葉を遮り、カナシャは
『おまえはいつだって、よその男をもの欲しそうに見ていた。おまえみたいなのは、もう娘でもなんでもないよ! とっとと、出てお行き!』


 幻視は途切れ途切れに続く。現れたのは癇の強そうなひっつめ髪の年増女だ。
『お客に触られたあ? 何をねんねなこと言ってんだよ。家出娘が働くのに、まっとうな仕事なんかあるはずないだろ! 嫌なら明日から来なくてもいいよ!』
 罵声を浴びて、セレダが小さくなってうつむいていた。唇につけた真っ赤な紅がけばけばしい。
 女は、今度は媚びた笑いを浮かべ、小さな声で耳打ちする
『スケベどもには触らせてやればいいんだよ。そのぶん、たっぷりはずんでくれるからね』


『ねえ……どうでもいいけど、あんたいつまでここに居座るつもり?』
 セレダが話しかけた相手にアニスははっとした。年は三十過ぎぐらいか。髪や目の色は違うが、ルシャデールをそのまま男にしたくらいそっくりだ。
『あたしも金がないからさ、いつまでも居候されると困るんだよ。仕事がないんなら角の周旋屋に行きゃ世話してくれるよ。あたしみたいな女がやれることなんて決まりきってるけど、あんたは見たところ健康そうだし、おつむもよさそうだ。その気になりゃ何だってできるよ。それとも、あんた……わけありかい? 人でも殺したとかさ』
 彼はうつむいたまま、首を振りつぶやいた。
『追われている。しかし、断じて恥ずべき行いはしていない。信じてくれ』
 彼はベッドを降りると、セレダの前に手をついた。
『お願いだ、もうしばらく置いてほしい。金はないが、これを売ればいい』
 そう言って金のメダルを差し出した。
 セレダは手に取ると、まじまじと見つめた。
『へえ……たいそうな物持ってるじゃないか。あんた、何者だい? いや、いい。聞かないよ。面倒に巻き込まれるのはごめんだ。ま、これを売っ払って、その金が続く間は置いてやるよ』


『変な人だね、あんた』窓から外を見ていたセレダが振り返って言った。その表情は前より穏やかだ。『あたしみたいな汚れた女のどこがいいのさ』
『汚れてなんかいないさ。君はきれいだと思うよ』
『口がうまくなったねえ。あたしのとこに転がり込んで来たときは、おどおどしてむっつりしてばかりだったのに』
『……仕事を探すよ。酒場で働くのは、嫌なんだろ?』
 それを聞いて、セレダは睨みながらはにかむ。
(あ……御寮様と同じ顔をするんだ)
 顔は違っているが、表情はそっくりだ。

 場面は移ろう。セレダと男が手を取り合って、何かを喜んでいた。
『赤ちゃん……私の子か? ……そうか! すばらしいよ、セレダ! 私たちに家族ができるんだ!』
 セレダは誇らしげで嬉しそうで、きれいだった。幼い頃から過ごしてきた中で、一番幸せな時期だったに違いない。
 だが、長くは続かなかった。

 市場の人混みの中、大きなお腹をした彼女が駆け回っている。
『ルシャデールを知らない!? ねえ、誰か見なかった? おとといから帰ってこないの!』あちこちで人にたずねているが、みな一様に首を振る。
『あの人、仕事に行くって家を出たっきり、戻らないの! ねえ、誰か見なかった!? ねえ誰か……!!』
 最後の方は悲鳴に近かった。


 セレダが、幼い子に馬乗りになって、殴っていた。
『おまえさえいなかったら、あの人は帰ってくる。きっと、あの人は……おまえが自分の子じゃないと思って、あたしに愛想つかして出ていったんだ! おまえさえいなければ!』
 小さなルシャデールが激しく泣き叫ぶ。セレダの手がその細い首を絞めようとした。
「やめて!!」
 アニスは叫び、駆け寄った。幻視のはずのセレダが彼の方を向く。振り乱した髪。血走った眼。こけた頬。もはや正気には見えなかった。
 静かに彼はセレダに語りかける。
「やめて下さい。……その子は、僕の大事な友達だから。殺さないで」
「どうして……止めるの? なくしてしまいたいのに。何もかも、なくしてしまいたいのに……」
 そのとき、彼は気がついた。セレダは自分自身を、そして、たどってきた人生そのものを、なかったことにしたいのだ。
「夢……みんな悪い夢……」
 虚空に視線をさまよわせ、つぶやいて、彼女は薄れていった。
 やりきれなさに力が抜け、アニスは座り込んだ。
 四年前、ルシャデールが実の母に愛されずに育ったということを、彼は半ば信じられない思いで聞いた。悪魔のような母親(と、彼には思えた)を、心の底で慕っているルシャデールを、けなげで優しい子だと思った。でも……。
 この女性(ひと)も「誰かに大切にされる」ということを知らずに育っていた。 他の誰かと比べて、ではない。自分が「絶対的にかけがえのない存在」だということを、知りもせず、感じることもないまま、大人になってしまった。
 物思いにふけっている間、周囲の景色は元に戻り始めていた。セレダの部屋に、彼女と二人。
 彼女はもう泣いてはいなかった。ぼんやりと、口を半開きにして、アニスを見上げていた。ぼさぼさになった髪が顔にかかっている。
(あ、御寮様と同じ髪質なんだ)
 侍従の仕事の一つに髪結がある。ドルメテ祭などの祭事では、神和師たちは髪を高く結い上げて奉納舞を舞う。その時の衣装の着付けや奉納舞の時に神和師の髪を高く結い上げるのだ。もちろん、アニスもデナンから教わっていた。ルシャデールの髪は、細くてこしがなく、そのくせ絡みやすい。
「髪、()いてあげます。櫛はありますか」
 セレダは寝台の横にあった、木の小箱を指差した。中には割れた鏡のかけらに、眉墨、櫛などの化粧道具が入っていた。櫛は歯が半分くらい欠けていた。
「……ま、いいか。髪油はないのかな。それに、ハサミも」
 さっき掃除した時は、それらしきものは見当たらなかった。アニスは何気なく、 寝台の下をのぞく。期待したわけではない。
 が……、ハサミと素焼きの小瓶が出てきた。ハサミは少し錆びているが、使えそうだ。手にとってみると、椿油だ。
「うん、上等」アニスは笑みを浮かべた。ユフェリは望みのままの世界だということを、彼はやっと思い出した。
「はさみも欲しいな」
 箱を一旦閉めて、再び開けてみる。小さなはさみが箱の底にあった。
 髪のもつれた部分を切り、椿油を髪に軽くつけ、彼はセレダの髪を梳く。 
 フェルガナの既婚婦人は、髪を結い上げるのが一般的だ。若い娘は結わずにおろしているが、結婚してからは夫以外の男に髪を解いた姿を見せることはない。大人の女で髪を結わないのは、神に仕える者(巫女と神和師と修道尼)、それから不特定多数の男を相手に商売する女だけだ。
 そのせいか、紐で結わくこともしないセレダの乱れ髪がひどく艶めいて見える。
カームニルではどうなっているのか。さっきの幻影に出て来たセレダの母は結っていたが、細部まではよく見えなかった。
「フェルガナ式に三つ編みにして結い上げますが、いいですか?」
 答えはない。彼はそれを承諾と受け止めた。
 もつれた部分を、パチン、パチン、と切っていく。椿油をつけたセレダの髪はすべらかになり、きれいにまとまった。それを編み、頭上に巻くように結い上げて、ピンで留めていく。
「どうですか? きれいになりましたよ」
 彼は鏡を手渡した。振り返ったセレダはほんのりと微笑んでいた。その笑みに少し安心した彼に問いかけられた言葉は
「あの人は帰ってくる?」だった。
 なんと言っていいかわからず、アニスはしばらくおいてから、
「……きっと」
 そう答えた。

第13章 れんげ草の家

    



 一緒にいる相手としては、彼女はなかなか厄介だった。
 夫への想いは、空しい希望と強固でしぶとい絶望の間を振り子のように行き来する。そして、待つことに耐えられなくなると、今度は取り乱し、首を吊ろうとする。もうすでに死んでいるのにもかかわらず。
 わかっていても、アニスは止めてしまう。
「やめて下さい! あなたはもう死んでいるんです! これ以上死ねません!」
「離して! もうだめ! あの人は来ない。きっと、私のことなんか忘れている。どこかで他の女と結婚してしまったんだわ! 私みたいな汚れた女、嫌になったのよ!」
 止めるアニスの腕の中でもがく。きゃしゃな体なのに、力がやけに強いのは、それだけ激しい想いを抱いているということなのか。彼女の肘鉄がアニスのみぞおちを直撃した。
「うっ」よろけながらも、彼は止める。「だめです……。もし、あなたの……ルシャデールさんが帰って来て、あなたが首を吊っているのなんか見たら、どんなに悲しむと思うんですか!? きっと、どうしても戻って来られない事情があるんです!」
「戻れない事情?」セレダは力を抜いた。
「出会った時、彼は追われていたのでしょう? きっと、そのことが関係しているに違いないです。子供が生まれることを喜んでいたのに、あなたを捨ててしまうなんて……ありえません」
 あの幻視の中で見た彼女の夫ルシャデール。アニスには、まっとうで情のある男に見えた。
「そう……そうね」
 セレダは力なく座りこむと、今度はすすり泣き始めるのだった。
そんなことを何度も何度も繰り返すうちに、アニスも好きにさせておくようになった。とはいえ、目の前で首を吊られ、うめき声を聞かされるのは落ち着かない。しばらくすると、縄を切っておろしてやるのが常だった。
(アビュー家はどうなっているんだろう……)
 向こうの世界でどれほどの時間が経っているのか、まるで見当がつかなかった。
(もし、向こうに戻れるとしても、何十年か何百年、たってるんじゃないんだろうか。アビュー家もとっくに代が替わって、知っている人が誰もいなくなり……。訪ねて行ったら『ああ、そういえば頭のおかしくなった小侍従さんがいましたっけねえ。かなり昔のことですよ』とか言われるんだ。いや、待てよ。何百年かたっていたら、僕の体が生きているはずがない。そしたら、完全に幽霊みたいなものか)
「きっと、みんな僕がいなくても、よろしくやってるんだ」
 アニスは手に触れたレンガのかけらを壁に投げた。それは、ルシャデールの描いた落書きにあたり、小さく跳ね返る。
 ふと、その落書きがルシャデールに見えた。
「御寮様……」
 絵が何かを語っているような気がした。『待っているよ』だったのか、それとも『おまえがいなくても大丈夫』、だったのか。
 自分がいなくても、彼女はきっとうまくやっているだろう。新しい侍従も決まったかもしれない。でも、できるなら忘れてほしくなかった。


 ユフェリでの生活は、カデリに比べてはるかに楽だ。肉体を持たないので飲食や睡眠の必要がない。食べるために働く必要もない。
 退屈しのぎに、アニスは掃除ばかりしていた。始終セレダに向き合っているのも、少々しんどかった。
 しかし、いくら掃除してもきれいにならない。ほこりがたまり、湿り気がじわりと壁や床を浸蝕し、朽ちて、部屋はあっという間にもとの荒んだ景色を呈する。それが、セレダの心象を反映していることに気づいたのは、ややあってからだった。
「せめて、部屋をきれいにすることができたらいいのに」アニスはひとりごちた。
 掃除は心を健やかにする第一歩だと、アニスの母はよく言っていた。確かにそうだろう。しかし、掃除しても掃除しても、汚れていくこの部屋をどうしたらいいものか。
 (ほうき)にもたれてぼんやりと考える。今までの経験や人から教わったこと、ささいな言葉、あらゆるものを思い出し、役に立ちそうなことはないか探る。
デナンの言いつけで、アビュー家の書庫にある本はすべて読破した。もちろん、その中に『ユフェリ・囚われの野における清掃の必要性とその方法』などという本があるはずもない。
(もし、そんな書物を書いている人がいたら、ちょっとイカレかけだろうな)
 そんなことを考えていたら、何か聞こえた。アニスはセレダの方を見た。落ち着いている時の彼女は、いつもぶつぶつと夫の名をつぶやいている。反応するほどのことじゃない。
 が、さっき聞こえたのは、彼女の声とは違うような気がした。耳を澄ませてみる。
 甘く優しい音色は竪琴だろう。それに澄んだ歌声。

「私のかわいい愛し子よ、
 何をそんなに泣いている?
 夜の闇が恐ろしいのか、
 それとも扉を叩く風の音におびえているのか。
 私の命の愛し子よ、
 私がそばにいるから、泣くでない
 おまえに約束されたのは
 花咲く野辺と青い空。
 緑薫るそよ風に暖かなお日様」

 『|母たちの(エデンバーレ)』と呼ばれる子守唄だ。俗に『ラフィアムの子守唄』と呼ばれている。
 アニスは誘われるように部屋から出た。
 暖かなお日様……の代わりに灼熱の太陽があたりを支配していた。ぎらぎらと白い熱が赤い岩山に照りつけ、その熱で溶けて蒸発しそうだ。陽炎のゆらめく遥か先に目指す人影があった。
「ラフィアム!」
 楽師は手を振ってくれた。 
 へゼナードと別れてから、人恋しくなっていたのだろう。アニスは走った。
「やあ、また会えたね!」
 彼はつい一週間前にも顔を合わせたかのように、親しげな顔で迎えてくれた。
「ラフィアム!」
「おお! えらい歓迎ぶりだねえ」
 勢いよく抱きつかれ、楽師は足を踏ん張った。
「ごめんなさい」後ろにひっくり返りそうな相手に気がつき、アニスはすぐ離れた。「ここの住人以外なら、誰でもいいから会いたかったんです」
 それを聞いてラフィアムは笑った。
「うん、それはわかる。僕もここにずっといると、呑み込まれそうな気がする時があるからね」
 彼とは四年前のユフェリ訪問で出会っていた。一千年前にグラドール帝国の女帝の息子に生まれた彼は、小国の王に据えられたが、それを捨てて楽師になってしまった人物だ。今は、『囚われの野』で、囚われた人たちが自らを解放できるよう、歌い歩いている。
「シリンデのお招きにあったんだね」
「お招き? シリンデはここに残ることを僕が自分で選んだと言っていた」
「それも事実。でも、君は帰りたいのかい、カデリに?」
「こんなとこ、もう居たくない」でも……。
 そう言ってから、アニスはさっきまでいた岩穴を振り返った。
(あの人をこのまま置いて行く?) 
「気にかかることがあるようだね」
 アニスはルシャデールの母のことを話した。
「あの人をあのままにしたくない」
「アニス」楽師は彼を見て言いづらそうに話す。「この地に囚われる人たちは、自分の意志で囚われている。さまざまな欲望や思い込みにね。だから、解放されるとしたら、本人の意志だ。僕らはそれに対して、ほとんどしてやれることはない。 ……解放されるには、目覚めを起こす動機が必要なんだ。だけど、ユフェリではそれがない。生きた肉体を持つ人間たちの世界、カデリにしかないんだ」
「でも、あなたはそれを願って、歌を歌っている」
「うん、無駄かもしれないけど。ただ、僕はカデリでの生は終わっている。君はまだ終わっていないんだよ」
 それはカデリに戻れ、ということなのか? 戻れるのか? 
 だが、アニスはそれについて、問わなかった。セレダをそのままにして戻りたくない。彼女が哀れだった。
「あの人をあのままにして? 放っておけないよ」
「優しいね」ラフィアムは微笑んだ。「でも、一緒に落ちるのが、優しさなのか?」
「……でも、あれじゃ可哀そうだ。あ……」
 そう言った自分の言葉で、アニスはようやく気づいた。
 ああ、確かに僕は選んでいる。ここに残ることを。これは自分の意志だ。
「君がそうしたいなら」
 ラフィアムの言葉に、アニスはうなずいた。
「せめて、もう少し、よくなったら、と思うんだ。窓の外は赤黒い闇が渦巻いているし、部屋の中は、いくら僕が掃除してもきれいにならない」
「うん、そうだろうね。彼女が支配している『場』だから」
 やっぱりそうか、アニスはうなだれる。
「でも、君の存在が『場』に影響を与えることはできる。君はまだカデリで生きている人間だから、遠い昔に死んだ僕よりもここの住人に近いんだ。彼女は君の言葉なら聞こえるし、君の姿は見えている。でも僕が何を言っても届かないし、彼女に僕は見えない」
「僕が変えられる?」アニスは半信半疑だった。
「うん、きっと」
「そうか……。ありがとう!」
 アニスはセレダのいる岩穴へと駆けて行った。その姿を見送りながら、楽師はつぶやく。
「最初の大歓迎ぶりに比べて、別れ際はえらく素っ気ないねえ。可哀そう、だけじゃないだろうな、あれは」
 囚われの野にいる者は心変わりなどしない。
「傷ついたあげく、彼自身が囚われなきゃいいけど」
 楽師は首を振り、再び竪琴をつま弾きながら、歩き始めた。


 部屋へ戻ったアニスはセレダにたずねた。何の花が好きか、と。
「はな?」彼女は首をかしげ、それから少し考えて「れんげそう」と、答えた。
「でも、見たことはないの。あの人が、れんげ草の咲く野原に囲まれたところにいたって、言っていたから」
 アニスも知らない。だが、彼は閉じた窓の方を向き、目を閉じて記憶の中からありったけの幸せをかき集める。
 妹が生まれた朝や、隣の家の子犬、春の雪解け水。北へ帰る鳥の群れ、冬至祭りのごちそう。羊の毛刈り、カルバ婆ちゃんの糸つむぎ。父さんが作ってくれた木のお守り。それから、それから……。
 頭の中が幸せな思い出で一杯になったら、今度は見たことのない、れんげ草の花を念じる。
 れんげ草、れんげ草、れんげ草の野原。
 意を決して、鎧戸を開けた。
 低い赤紫の小花が野原一面に咲き、風に(そよ)いでいた。赤黒い闇はどこにもない。風が部屋に吹き込み、(ほこり)を吹き払う。
 アニスは窓から外に出た。暖かな日差しに空は青い。さっき聞いた歌のようだ。
「セレダさん!」
 彼女は何が起きたのかわからないようだ。ぽかんと、中から外を見ている。
「外に出てきませんか?」
 手を差し伸べる。
 セレダはゆっくりと立ち上がり、窓のそばに寄ってきた。まるで、生まれて初めて空や野原を見たような顔だ。片手をアニスの手に預けると、スカートをたくし上げ、窓枠に足をかけ、ふわり、と飛んだ。
「これがれんげ草の花? あの人が住んでいたところに咲いていた……」
 彼女はかがみこみ、一輪手に取る。
 向かい風が彼女に吹き当たり、結った髪が解けた。三つ編みもすべてはらはらとほどけ、風にそよぐ。
 すっくりと立った姿は、十五、六の少女のようだった。
(きれいだな)
 アニスは見とれていた。
「あの人が帰ってきたら、三人で暮らすの」セレダが野原から目を離さずにつぶやいた。
「三人?」
 まさか自分も入っているのかと、アニスは聞き返した。
「あの人と、私と、ターシャと。きっと、幸せになれるわ」
 彼女が娘のことを口にしたのは初めてだった。
 セレダとアニスはれんげ草の野原を見ながら過ごすようになった。窓のあった壁を取り払い、テーブルとイスを据えて、お茶を飲む。
 セレダが話すのは夫のことばかりだ。
「あたし、字が書けるのよ。あの人が教えてくれたの」
 彼女ははにかみながら、テーブルに人差し指で自分の名を書く。カームニルでもフェルガナでも、庶民で字が書ける者は少なかった。
「あの人はいろいろなことを知っていたわ。いろいろな国の歴史や、りっぱな王様の話、国を守った英雄や、お姫様のこと……」
 セレダは何か思い出したようだった。
「ターシャが生まれる前に、まじない婆さんに占ってもらったことがあるの。男の子か女の子かって。そしたら、女の子だって言われて、あの人喜んでいた。うちのお姫様にはなんて名前をつけようって。あの人、一度もあの子に会っていないの。きっと喜ぶわ。あの子の名前はあの人がつけたの。アリタシア・メルデって。あの人にそっくりなのよ。私にはあまり似てない」
「顔はそうですね、あまり似ていないかもしれませんね」
 しかし、後姿や表情、しぐさなどは共通するものがある。
「名前は誰か身内の人からとったんですか?」
「アリタシアはあの人のお母さんの、メルデはばあやさんの名前だって言っていたわ」
 彼女の夫は高貴な家の生まれだったのだろう。
 ルシャデールという名も貴族特有の名だ。それがどうして逃亡するような羽目になったのかはわからない。ただ、アリタシアという名はどこかで聞いたような気がした。
「ルシャデールさんは、追われていたわけについて話してくれなかったんですか?」
 セレダは首を振った。
「誰にでも話したくないことや思い出したくないことがあるでしょう。だから聞けなかった。あたしも言えないことあるもの。ターシャが……もしかしたら、あの人の子供じゃないかもしれないとか」
「あ……」
 そういえば、取り乱した時にそんなことを口走っていた。
「あたしは……あの人に出会う前から、酒場で客をとっていたし。妊娠した時も、あの人が父親だっていう自信はなかった。だから……」
 セレダは手で顔をおおった。アニスはあわてて、彼女のそばに駆け寄った。
「そんな! だって、あなたの目から見てもターシャはルシャデールさんにそっくりだったんでしょう?」
「ええ、そうよ。そっくりだわ。でも、あの人はターシャを見ていない。自分の子だと思っていなかったかもしれない」
「違います、絶対にそんなことありません」
 すすり泣くセレダを、アニスは背中から抱きしめる。彼女の体の震えが、アニスの体に伝ってくる。
「もし、あの子が生まれてなかったら……あの人はずっと……あたしのもとにいたのかしら」
「ターシャを……憎んでいるのですか?」
 彼はたずねた。セレダは腕の中で首を振る。
「あたしの子供だもの。でも、あの子と向き合っていると、声が聞こえてくるの。そいつはあの男の子供じゃない。あの男はそれを知っておまえみたいな女に愛想つかしたんだ。そんな言葉が聞こえるの」
「ターシャが言ったわけではないんですね?」
「違う。でも、ターシャは、何もかも見透かしているような、怖いところがあったわ。きっと、生まれた時、お寺でお祓いをしてやらなかったから、悪いものが憑いてしまったのかもしれない。だけど、お祓いをするお金もなかったの」
 子供や妊婦は幸せを妬む悪い精霊がとりつきやすいと、よく言われていた。だから、女は妊娠がわかるとすぐにお祓いをしてもらうし、子供も七歳までは毎年、お祓いや魔除けのまじないをしてもらうのだ。アニスも子供のころ毎年やっていた。
だが、やらなかったからといって、とりつかれたりするものなのか、ユフェレンでもないアニスにはよくわからない。ただ、以前、出会った時のルシャデールは魔物じみていたと、カズックが言っていたことがあった。
「ターシャは、間違いなくあなたとルシャデールさんの子です。そうに決まっています」
 セレダはアニスの腕の中で小さくうなずいた。


 ターシャの父親のことが、一番彼女を(さいな)んでいたのかもしれない。話してしまったことで彼女は少しずつ、落ち着いてきていた。
 二人はれんげ草の野原をよく散歩した。どこまで続く野原に立って、地平線をただ見つめたり、お茶の道具を持ってきて、お茶を飲んだり、草の上で花環を作ったりした。
 セレダには変化が現れていた。生活に疲れた、品のない、こすいところは影をひそめ、野花のように可憐な少女に変わった。それが本来の姿だったに違いない。
「魔法使いね、あなた」セレダは作った花冠をアニスの頭に載せた。「こんな広い原っぱを出してしまうなんて」
 アニスは曖昧に笑った。次に何を言われるか、想像がついた。
「あの人を連れてくることはできないの?」
夫に対する想いだけはそのままだ。予想はしていても、言われると胸が痛んだ。
「まだ修業中なんです」
 きっと、彼女の夫のことはカデリに戻って調べれば、わかるに違いない。わかってどうするのか? ターシャ=ルシャデールなら、四年前にアニスをユフェリに連れて来たようにして、彼女の夫を連れて来ることができるだろう。生きているとすれば、だ。たとえ、死んでいても、彼女なら何か(すべ)があるかもしれない。
しかし……戻りたくなかった。このままずっと、セレダのそばにいたかった。


「お茶はいかがですか?」
 ぼんやりとセレダは今日も野原を見ている。踏み分けられた道は二人が散歩しているうちにできた。
「今日は帰ってくる?」
 アニスは首を振った。
「明日は?」
「明日も……来ないかもしれません」
 日の沈まないこの地で今日も明日もない。アニスはうつむき、再び顔を上げた。
「僕じゃだめですか?」
 セレダは意味がわからないかのように、ぼんやりとアニスを見る。その様子に彼は焦れて、そばに駆け寄り、彼女の足下にひざをつく。
「僕だったら、ずっとあなたのそばにいてあげられます」
「やさしいのね」寂しそうに彼女は微笑った。
 彼女は椅子から立ち上がり、小道の先を見やる。その道を彼女のルシャデールが帰って来ることはあるのだろうか。あっても、なくても、彼女は待つのだろう。
「ねえ」セレダは振り返った。「シヴァリエルスの唄を知っている? シヴァリエルス、君はどこにいるっていう唄」
「はい」
「歌ってちょうだい」
 聞くのは好きでも、歌うのはあまり自信がなかった。しかし、少しでもセレダ喜ばせたかった。あまり上手くありませんが、と、前置きしてアニスは歌い始めた。

「シヴァリエルス、シヴァリエルス
 僕の美しい小夜鳴鳥、おまえに会いたい
 おまえは飛び立ったままどこにいる?
 悠久の風の中で舞っているのだろうか
 それとも天空の庭に枝をのばす糸杉に宿っているのか
 おまえに会いたい、今一度
 そうしたら僕は肉の身など捨てて
 一緒に飛んで行こう
 ずっとずっと。
 空と海が一つになるところまで」

 歌い終えて、アニスはセレダを見た。彼女は黙って空を見上げている。彼女の心はここにない。どこにいるかわからない、夫ルシャデールのもとだ。
「ラフィアムはシヴァリエルスに逢えたのかしら」
「はい。これは、王とは名ばかりだったラフィアムが、幽閉されていた小さな城から、シヴァリエルスを想った歌です。毎年、春になると呪術師のシヴァリエルスは師のサラディンと共に、その城の近くを通ったそうです。年に一度、塔の窓から遠く見るだけの少女を、ラフィアムは忘れられなかった」
 そして、ラフィアムが十七の春、少女は彼のいる部屋の窓まで塔を登って来る。初めて言葉を交わしたその時、シヴァリエルスは彼の解放を約束し、三年後にそれは果たされる。
「逢えたならいいわね」
「そうですね」アニスは力なく同意する。だが、会えない時の絶望的な気分はいかばかりか。しかも、自由のきかない身とあっては。
 ここは囚われの野。彼女はその住人。心変わりなどしないのは、わかっている。それでも、彼は言わずにはいられなかった。
「僕……あなたが好きです」
 豊かにうねる枯草色の髪、抱きしめたくなる細い肩、小さな唇から見え隠れする八重歯も、すべて愛おしい。ここにずっといたい。この人と一緒にいたい。
 彼女は微かに笑みを浮かべた。
「ありがとう」
 それが拒絶を意味しているのはわかっていた。
「あなたには、私よりももっと大事な人がいる」
 空には少し雲がかかっていた。風にゆっくりと流れていく。セレダはその雲の果てに想いを向けているようだった。その姿を見つめているうちに、アニスの口から、いつか、どこかで聞いた歌があふれだす。
「こな……ゆき、あかい……ななかまど」

「粉雪、朱いナナカマド
 白鳥の歌、しんちゅうの鍋
 木の実、草の実、紅い鮭
 ぶちの牛、南の香りのする小麦
 暖炉の赤い火
 そして君の笑う声
 それだけあれば僕は幸せ」

「それだけあれば僕は幸せ」
 最後は自分に言い聞かせるようにつぶやき、アニスは空を見上げた。
 

第14章 曇り空の向こう

    
 
「僕、あなたのルシャデールさんを、探してきます」
 アニスはセレダに告げた。四年前のように、ルシャデールの力と薬草さえあれば、生きた人間でもユフェリに連れて来ることはできるだろう。
「本当?」彼女は駆け寄ってくる。「連れて来れるの?」
「はい、たぶん」
 彼女には幸せになってほしかった。
 れんげ草に囲まれた家は、アニスが来た時と比べて、きれいになった。窓にはレースのカーテンが揺れている。タイル張りの壁は青い花の模様が彩色されていた。テーブルには真鍮のサモワールがどんと置かれ、いつでも熱いお茶が飲める。
 くすんだセレダの服は、色鮮やかなスカートと真っ白なチュニックに変わった。解いたままの髪にはれんげ草を挿していた。
 だが、それでも、彼女は幸せではない。きっと、そんなものはいらないのだ。欲しいのはただ一つ。アニスでは彼の代わりにはならない。
「ありがとう!」
 セレダが飛びついてきた。腕の中のセレダをぎゅっと、抱きしめてしまいそうになる。だが、その前に彼女が顔を上げた。
「本当ね? 本当に連れてきてくれるのね?」
「やってみます」
 アニスは努力して微笑み、深く息をつく。
 きっと……もう会えない。
 セレダの家がある岩山を出て、川沿いに歩く。道がわかっているわけではないが、歩いて行けばカデリに戻れるという確信があった。
 橋が遠くに見えてきた。アニスは岩山の方を振り返った。
(さよなら、セレダさん。これが、あなたにしてあげられる最上のこと……)


 橋の周辺には人でごったがえしていた。カデリでの生を終えた人々が天空の庭へ向かうのだ。
「あ!」見知った顔があった。「カプルジャさん! どうしたんですか?」
 カプルジャは橋の欄干に腰かけて、ちょっと一息ついている様子だった。
「おお、御寮さんの侍従さんだね? こんなところで会うとは。あんたは気がふれてしまったという話じゃったが」
 やっぱりそういうことになっていたかと、思わず苦笑いする。
「ああ……まあそうです。その、体から魂が抜け出てしまって、こちらの世界をさまよっていました。それより、カプルジャさんは……その……どうしてここに?」
 死んだ人間にどう声をかけていいか、戸惑うアニスに、カプルジャは屈託なく笑う。
「頃合いじゃよ。向こうでは十分に生かさしてもらったからね。だが、あんたの方は……」
「今、帰るところです」
「それならいいが。御寮さんがすっかり参っていなさったよ」
「え……」
 ルシャデールなら自分がいなくても、大丈夫のように思っていた。
「アビュー様の跡継ぎに選ばれただけあって、気丈に見えるが、その辺の娘っ子と変わらないところもありなさる。狂ってしまっても、あんたのことは大事なんじゃろう。ずっと守っていこうとしていなさるようだ」
 狂人が世の中でどう扱われているか、アニスも知っている。彼女のもとから逃げ出そうとした自分を、そんな風に考えてくれるとは。彼の胸が痛む。
「あんたが帰ってきたら、喜ぶじゃろう。いささか複雑かもしれんが」
「え?」
「早く行きなされ。御寮さんによろしくな」
 追い払われるように促され、再び歩き出した。
(複雑って、どういうことだ?)
 

 橋から運河沿いに進み、やがて灯台野に出た。過去も未来も見られる『時の灯台』が前と変わらず建っていた。が。その周囲は風景が変わっている。紫色のアヤメが一面に咲く草原だ。その向こうは牧草地だろうか、牛の群れが草をはんでいる。その奥に光っているのは湖だろう。
 アヤメの花の中、一本の丸太に座ったラフィアムと雨竜クホーンがいた。テーブルを挟んで、お茶の時間のようだ。
「やあ、帰ってきたんだね」
「うん。シリンデにはあそこから出られないようなことを言われたけど」
「その時の君には出られなかったってことさ」楽師は肩をすくめる。「彼女は予見を人間に与えるけれど、予見っていうのは、その時の状況で何が一番起こりそうか、っていうことだ。だから、当人の選択や意志によって、刻々と変化する。」
 クホーンはそれに同意してうなずく。
「シリンデはおまえさんを試したんじゃろう」
「試す?」
「ああ。あの囚われた女性(ひと)をどうするのか。彼女を捨て置くか、助けようとするのか」
「なぜ試されなきゃならないんですか?」
 いささか憤然としてアニスはたずねた。ユフェリの連中ときたら、人をなんだと思っているのか。簡単に人の命を奪ったり、狂人にしたり。そのたびに、どんな思いを僕らがしているのか、わかっているのか。
 いや、違う。アニスは首を振る。今回は、僕が自分で選んだ結果だ。いろいろなことが鬱陶しくて、嫌になって、逃げだした。その結果だ。
「帰ります」
「ああ、それがいい」
 アニスは歩き始める。カデリへ、元の世界へ向かって。
「それじゃ、星空で送ってあげるよ。行き先は朝だ」
 ラフィアムが飛び上がって、頭の上で手をたたいた。
 空は一瞬にして暗くなった。
 天穹(てんきゅう)いっぱいに、輝く星が埋め込まれ、またたく。大きい星、小さい星、青いのや赤いの。
 アニスは息を飲む。王宮の広間だってこんなきらびやかではない。見上げているうちに、星の一つ一つが、命ある存在(もの)に思えてくる。明るい昼間は見えないけれど、常に見守ってくれている。
 その中で、丸い月が煌々と冷たい光を放つ。
「シリンデ……」
 しっかりお行き。厳しい顔で、そう言っているようだ。地上に視線を落として、彼ははっとした。父と母がいた。微笑っていた。母は陽気にたくましく。父は不敵に。いつもこのふがいない息子を見ていてくれる。
 アニスは胸がいっぱいになり、何も言わず二人に頭を下げ、それから背を向けて再び歩き出す。そのうち、まどろっこしくなって走り出した。
 朝へ。懐かしい元の世界へ。ルシャデールや御前様、デナンさん、シャム、待っていてくれるだろう。でも……あの女性はいない。
 満天の星が彼を見送る。


 目の前はぼんやりしていた。口に何か入れられている。焼いた鶏肉らしいが、やけに酸っぱい。ライム汁のかけすぎだ。
 やめてくれ、そんなに口に突っ込むな。
 次第に焦点が合ってくる。部屋の様子が変だと思った。やけに広いし、りっぱだ。壁のタイルの繊細なチューリップ模様……ここは客間? 目の前にいるのは……。
「ルトイクス……ここは客間? 僕は何を? 食事?」
 アニスはきょろきょろあたりを見回し、目をしばたく。目の前には小卓に料理を乗せた盆。野菜や肉の小さい切れ端がところどころに散らばっていた。あぐらをかいて座っている足の上にもだ。胸には汁がこぼれている。
「いったいこれは……」
 すぐわきで、従僕のルトイクスが食事用のナイフを持ったまま、固まったようにアニスを見ている。
「ルトイクス……どうしたんですか?」
「アニサード……正気に戻った……のか?」
「僕はいつも正気です」
 ルトイクスは顔をぽーっと上気させて動かない。なんだか女の子みたいだ、とアニスは思った。よく落し物を拾ってやった女の子がそんな顔をする。と、思ったら、ルトイクスはやにわに立ち上がった。
「おまえ、いいか、そこにいろ。今、御前様を呼んでくる。動くなよ!」
「え? なんで御前様を?」
 ルトイクスはそれに構わず、「御前様ぁ!」と、従僕としては下品なくらいの大声を出して飛び出して行った。
 アニスは困惑して、言われたまま座っていた。ついさっきまでの記憶がない。どうしたものか、ユフェリでのことも抜け落ちていた。
 廊下で声がして、バタバタと人が入ってきた。トリスタンとルシャデール、それにデナン。後ろには従僕頭もいる。
「御前様……いかがなされました?」
 トリスタン・アビューはアニスの前に膝をつき、彼をじっと見つめる。
「私がわかるのか?」
「もちろんです。アビュー家の当主にして神和師のトリスタン・アビュー様です」
「アニサード」後ろから出て来たのは、ルシャデールだ。
「御寮様」顔がやつれている、と思った。お顔の色がすぐれませんね。そう言おうとして、屈みこんだ彼女の背から枯草色の髪が前に流れてきた。心配そうな灰色の瞳。
「あ!」
 記憶があふれだす。
 もつれ髪、同じ色の、悲しそうな目。れんげ草。細い肩。
 セレダさん……セレダさん……もう会えないんだ。
「うっ……うっ……」
 うつむいたかと思うと、突然もれてきた嗚咽に、ルシャデールとトリスタンは顔を見合わせる。
「突然正気に戻ったと言っても、まだ不安定なんだろう」
 トリスタンが鎮静作用のある薬湯を用意するよう指示した。
 人の動く音や声を耳にしながら、アニスの想いは遠くユフェリの、セレダへと飛んでいた。
 あの人は泣いていないだろうか。また一人になってしまって。悲しそうな顔で野原の道を見つめているのだろうか。会いたい。
 ラフィアムの歌が頭の中に流れる。

「君に会いたい、今一度
 もしできるなら、この身を放り出しても
 君を探しに行くものを」

 誰かの手が彼の肩を抱き、濡れた布巾を顔に当ててくれた。ありがとうも言わず、思うのはただセレダのことだった。
 
 
 暗い中で目を覚ました。闇を何も考えずに見つめる。
 何もかも覚えている。デナンに薬湯を飲まされたこと。そのあと眠ったのだろう。その前の、ユフェリでのことも、さらにずっと前のことも。
「セレダさん……」
 あの女性(ひと)幸せにするには、ここへ戻ってこなければならなかった。もう二度と会えなくても。戻って来た以上は、探さなければならない。あの女性の『ルシャデール』を。
 アニスは起き上がり、窓辺に寄った。
「セレダさん……」
 もそっ、と、気配がして、振り返ると闇のかたまりが床のあたりから立ち上がる。
「うわあっ!」
 後じさりして、窓際に背中を張りつける。
「何驚いているんだ」ルトイクスだった。
「なぜここに!? もしかして、ずっといたんですか?」
 独り言を聞かれたのかと、アニスは焦った。
「今まで一人で寝せておける状態じゃなかったからな」
 彼はそう言って、床に腰をおろした。少し離れて、アニスも座る。
 一人で寝せておける状態じゃなかった?
 気を静めて、おずおずとたずねた。
「僕はどうなっていたんです?」
 ルトイクスは懇切丁寧に説明してくれた。食事から排泄まで、何もかも一人ではできなかったことや、そのために従僕たちがこうむった厄介な仕事のことも。すべて。
「服を脱いだ!? しかも、それを御寮様に見られたって言うんですか!?」
「ああ」
「うーん……」
 気が遠くなりそうだった。手のひらで顔をこする。
「わかってるのか、おまえ。御寮様はもちろん、御前様も、おまえのことで、どれほどお心を痛めていたか」
「それは……申し訳なく思います」
「狂ったことじゃない、逃げようとしたことだ」
「あ……」そうだった。
 そのことはきれいさっぱり忘れていた。
「特に御寮様だ。はたで見ていてお気の毒だった。それでも最近は、吹っ切れたのか、しっかりしてきたけどな。まあいい、夜中だ。もう少し寝てろ」
 これ以上話していると、次から次と恐ろしいことを聞く羽目になりそうだった。アニスは寝台に戻った。
「ルトイクス」
「何だ?」
「さっきの僕の独り言……」
「それがどうした?」
「聞こえた?」
「まだ耳は遠くない」
「御寮様には……」
「どこのどういう女かしらないが、言わないから安心しろ」
 ルトイクスがふとんをかぶり、寝返りを打つ気配がした。
「ありがとう」
 ルシャデールには絶対に知られたくなかった。知ったら何と思うだろう。これ以上よけいな心痛を与えたくなかった。
 それにしてもなんてことだろう。叫び声を上げて外を走ってきたい衝動にかられたが、また頭がおかしくなったと思われそうだから、それはやめた。


 翌朝、起きたら誰もいなかった。そのまま、客室で顔を洗っていたら、ルトイクスが食事を運んできた。
「ここで食べてもいいんですか?」
「御前様が一週間は客室に置いて様子を見た方がいいと、おおせだ」
 小卓を据え、料理の盆を置くと、彼は客人に対して侍するように、少し離れたところに立った。
(ひょっとすると、一週間ここで彼の監視付?)
 トルハナをちぎり、ちらりと従僕の方を見る。
「なんだ?」
「いえ、お手を煩わせて申し訳ないと……」
「当たり前だ」
 彼はお愛想なしで応える。
 下の世話までさせてしまったからには、これから先、彼には頭が上がらないだろう。気の重いことだった。
「御寮様は?」
「お食事中だ。終わったらいらっしゃるだろう」
 言っているそばからルシャデールが顔を出した。食べるのをやめ、丁寧に頭をさげる。
「食欲はあるようだね」
「はい」
 やつれたな、と、アニスは思った。もともと細面だったが、頬がこけたように見える。だが、眼差しの奥にあるものは、以前より力強く迷いがない。
「私はこれからミナセ様のところへ行くけど、おまえは休んでおいで。いきなり元の仕事に戻るのは無理だ」
「はい……」
 大丈夫です。そう言いたかったが、彼女の髪の色に心が揺れ、黙り込んでしまう。
「へゼナード・ソワムがきっと喜ぶよ。気にしていたからね」
 その後でトリスタンも彼の様子を見に来た。普通に食事をしている姿を見て安心したようだ。
 ご迷惑をおかけして申し訳ありませんと頭を下げるアニスに、
「この半年のことはあまり気にしない方がいい。あれこれ考えず、数日は庭を散歩したり、のんびり過ごすといい」


「え!」
 ルトイクスと交替でやってきたインディリムに、外に出る時は声をかけてくれと言われて、アニスは声を上げた。
「もちろんです。突然 、奇声を上げて、あさっての方角へ走りだされても困ります」
(そんなことをやっていたのか)
 ルトイクスから話は聞いたが、何と言っていいやらわからない。なにせ、その間こっちの世界での記憶がまったくないのだ。
「どうするんですか? 外へ行かれますか」
「うん」
 玄関から外へ。空を見上げて、思わず深く息を吸い込んだ。ユフェリの空とは違うが、ここが自分のいるべきところ、という実感が彼を満たした。一方で、その曇った空の向こうに感じる、切ない面影はまだ忘れがたい。
 西廊棟の方から庭へまわろうとしたら、洗濯場のおばちゃんたちがすぐに気がつき、洗濯物を放り出して、駆け寄ってくる。
「あんた正気に戻ったって!?」
「あたしが誰かわかるかい?」
「もうみんな諦めてたんだよ!」
 アニスの倍はあろうかという太い体で交互に抱きしめられる。彼女たちの声に、門番や施療所の尼さんたちも集まってきた。腰痛で治療に来ていた近所の雑貨屋のじいさんは
「こりゃ、みんなに知らせてやらんといけん!」そう叫んで、腰の痛みも忘れたように走って行った。
 アニスが正気を取り戻したことは、すでに使用人たちに広まっている。厩番も、料理人や下働きの者たちもみんな出てきて、彼の復活に歓喜した。
 家事頭が「いいかげんに仕事に戻りなさい!」と眉間にしわを寄せて叱責し、ようやくみんな散って行った。その家事頭も目を潤ませていたのだが。
 庭にまわれば、今度は庭師たちの手荒い歓迎が待っていた。
「ばかやろう! みんなに心配かけやがって!」
「うわ! やめてよ、シャム!」
 シャムに抱え込まれ、げんこつでぼこぼこに殴られる。バシル親方のぶっとい腕に抱きしめられた時は、体中の骨が折れるのではないかと、本気で危ぶんだ。
 狂騒が終わり庭師たちが去った後で、アニスはぐちゃぐちゃになった服をなおした。外衣は脱げるし、腰帯は解けた上に、ちぎれている。
「みんな、心配してくれてたんだ」
「心配なんてものじゃありません」インディリムは答えた。「逃げ出したくなるほどつらかったのかって。あんな風になる前に、どうして一言相談してくれなかったのかって、バシル親方もシャムも、みんな言っていました」
「……」
 たいそうな喜びようの使用人たちに比べて、ルシャデールやトリスタン、それにデナンは落ち着いたものだ。デナンは常日頃から冷静だったが、ルシャデールは気味が悪いくらい平静だ。
 アニスには、むしろその平静さが、深い苦悩と悲嘆の痕跡のように思えた。


 三日ばかりして、へゼナード・ソワムがアニスを訪れた。主人パルシェムをミナセ家に送り届け、剣の稽古を休んで来たのだ。
 庭の四阿(あずまや)で従僕が持ってきてくれた茶を飲みながら、へゼナードは父親が亡くなったことなどを話してくれた。
「そうか、間に合ったのか」アニスは従僕が持ってきてくれたお茶に口をつけた。
「ああ」
 本当はヌスティ家に戻ってから、当主との間に、ひと悶着あったのだ。しかし、それについては、何も言わなかった。
「水売りになるのは止めた」
「そうか」
「引退してからにする」
「……」
 四十過ぎて、あの水瓶を担いで歩くのはきついだろうと思ったが、アニスは黙っていた。
「おまえに借りができたからな。それを返すまでは、神和家から離れるのはやめた」
「借りじゃないよ。僕がついて行ったのは、僕が決めたことだ。だから、借りも、貸しもない」
「おれが嫌なんだ」
 ヘゼナードは一枚の封筒を差し出した。聖杯と双葉の紋章入りだ。アビュー家の当主と跡継ぎだけが使える封筒だった。
「親父のとこへ行ったら、この封筒に入った薬草があった。親父の話じゃ《アプセラ》さまの使いという狐が毎晩、夜中に来て煎じてくれていたというんだけどな……おれは御寮さんじゃないかと思う。着いて二日後に親父は死んだから、詳しいことはよくわからない」
 狐というのはカズックのことかと推測したが、天女さまとは何なのか。
 その辺のいきさつははかりかねたが、封筒からしてルシャデールがからんでいるのは間違いなさそうだ。薬草のおかげでヘゼナードの父は息子が帰ってくるまでもったのだろう。
 ヘゼナードが神和家に残る決心をしたのは、そのこともあるに違いなかった。
  

 杏が今年も花を咲かせた。
 舞楽堂の掃除を終えて、ルシャデールとアニスは、渡り廊下から見入っていた。ルシャデールはうす桃色の花にうっすらと微笑む。つい先日、彼女は十五歳になった。
(きれいになったな)
 アニスはその横顔を見ていた。他の女の子と同様、花開く頃になったのだろう。しかし、それだけではないような気がした。彼女の中で何かが変わった。力強くなった。
「背が伸びましたね」
 アニスは言った。去年の春頃は、彼の方が少し高かったはずだ。
案山子(かかし)みたいだって言いたいんだろ?」
 ちょっとひねくれた言い方は変わっていない。
 アニスは苦笑いする。女の子としては背が高いし、丸みのない少年のような体型だ。麦畑に突き出している案山子に似て……いなくもない。
「すぐに、おまえも追いつくよ」
「はい」
 ルシャデールは再びあんずの花に目を向ける。
「勝手な逃亡は二度と許さない」彼女は静かに言った。「私の侍従が嫌だと言うなら、それも仕方ない。庭師でも料理人でも、なればいい。だけど、ネズミのようにこそこそ逃げるようなマネをしたら、隣の塔のてっぺんに監禁してやる」
 振り返った彼女はニヤっと笑う。アニスの額にじわっと冷や汗がにじむ。
 カシルク寺院の尖塔には、ルシャデールと一緒に登ったことがある。内部にある螺旋階段は百二十段。登り切ったところはアビュー家本棟の四階より高い。ピスカージェンの街はもちろん、遠く雪を頂いたアルマト山まで見えたが……。
 アニスが苦手なのは血だけではない。下を見て、彼はしゃがみ込み震えていた。恥ずかしい記憶の一つだ。
 彼が何を思ったか、察したのだろう。
「ばーか」
 いつものセリフを言って、彼女は身をひるがえし、本棟に向かう。
 その後ろ姿。去来する面影。
 アニスは空を見上げ、それから主人の跡を追った。

第15章 紅貝

    

 アニスの仮仕えが近づいていた。ルシャデールは四階の書庫の窓から王宮を眺める。王の侍従として仕える半年間、会うことはできない。
 うつむき、意味もなく手を見る。若い娘とは思えない筋張った手だ。
 ユフェリから戻ったアニスは、以前と変わった。思い定めたような顔つきをしている。幼い優しさは影をひそめた。時々、哀しげな眼でルシャデールを見るのは何を意味しているのか? しかし、聞いてはいけない気がした。
 彼はユフェリで経験したことを誰にも話そうとしなかった。
『あまり、よく覚えていないのです。夢のようにおぼろげで』
 そう言っていたが、本当は話したくないのだろう。そのことを考えていると、なぜか母セレダの姿がちらつく。それも、惨めな姿ではなく、こざっぱりとした服を着て、少女のような母だ。野原みたいなところに立ち、赤い花を手に、誰か(たぶん父)を待っている。
 アニスはユフェリで母に会ったのか? だとしたら、何があった?
 考えても堂々巡りだ。
 元のアニスが帰ってきて、もっと喜んでいいはずなのに、心は(うつ)ろだった。ルシャデールは少し気抜けしていた。
 狂った彼を守っていこうと決めていた。年老いて死ぬまで、ずっと。
 思うようにいかず、腹が立つこともたびたびだったが、愛おしいと思う瞬間(とき)もあった。明らかに恋情とは違う愛の形だった。普通、母が子に寄せるのはこんな想いなのか。ルシャデールにはよくわからない。彼女は微かに苦い笑みを浮かべた。
 わかっているのは、大切にしていたものが、するりと腕の中から抜けだしていったこと。
「あ……」
 デナンとアニスが壁道を歩いて来るのが見えた。二人はアニスの仮仕えの件で、侍従長に会いに行ったのだ。
 錫杖の儀は十一月に決まった。彼はその時、王からの賜りものとして、ルシャデールに下される。
 どうなっていくのだろう。私も、アニスも。
 今でさえ四年前とは違う。五年、十年たった時、どう変わっているのか。さらに、二十年、三十年とたったら?
 三十年後のアニスを想像して、ルシャデールはくすりと笑った。皺っぽくなって、いかにも因業そうなばあさんになった自分が、『まったくおまえはばかだねえ』などと言っている。そのそばで、ひげを生やし、髪もいくぶん白くなったアニスが、困ったような顔をしているのではないか。
「ははは……」
 思わず声を上げて笑ってしまう。が、人の気配にはっとして、扉の方を見ると、アニスが立っていた。
 げっ、聞かれた。
「ただいま戻りました。……何か面白い読み物でもごらんになっていたのですか?」
「薬草の本だよ」ルシャデールは手にした本に目を落とす。「調べものをしてたけど、気が入らなくて、考え事をしていた」
「……何か気がかりなことでも?」
「いや、別に」
 本当に? と言いたげにアニスは軽く首をかしげる。
「気のせいかもしれませんが……」
「気のせいだ」
 都合の悪いことを言われる前に、ぴしゃりと否定する。
「以前のようなお元気がないように見受けられるのですが」
「以前? いつのことだ?」
「私が狂う前です。考えこんでおられることが多いのではないかと」
 そうだ、狂う前は考えてなぞいなかった。ただ想うだけで。
 ルシャデールは腰かけていた窓のふちから降り立った。
「……大人になるんだなあ、と思ってさ。おまえも、私も」そう言って、持っていた本をアニスに渡し、すれ違いざまに彼の縛った髪をつかんだ。「伸びてきたね」
「ひっぱらないで下さい」
 長髪は帯剣する男の特権だった。剣を持つ男子はみな、髪を伸ばして、後ろで一つに結んでいる。たいてい、成人の儀式前ごろから髪を伸ばし始める。
 錫杖の儀はアニスにとっても成人の儀式だった。
「どのくらい伸ばすの?」
「御寮様と同じくらい」
「暑苦しいからやめた方がいいよ。それよりひげは? 生やさないの?」
「似合いそうですか」
「うん」
 無精ひげがのびていた顔は見苦しかったが、手入れをすればそう悪くないだろう。
「いや、生えそろうまでがむさくるしいからやめておきます」
「施療所行ってくる。ケガ人が来そうだ。おまえは来なくていいよ。支度があるだろう」
「はい、ありがとうございます」
 ルシャデールは書庫を出て、施療所へ歩きだす。背中でアニスが叫ぶ。
「御寮様! 出した書物はご自分で片付けて下さい!」
「ばーか! 気づくのが遅い!」
 ルシャデールは振り向きもせず叫び返す。
 いいな。こうして憎まれ口たたきながら、一緒に過ごしていくのも。一瞬、一瞬が宝石のような時間だ。いつか、彼も好きな娘ができて、妻を迎えることになるだろう。その時、嫉妬で焼け焦げそうになるとしても、このひとときが幸せなことに変わりはない。
 そうだ、一人では何もできない彼を、独り占めしているのも悪くなかった。だけど、囚われず、束縛もしない自由さはもっと素敵じゃないか。……そう思っていよう、今は。


 アニスが王宮へ上がる二日前、カズックが旅立った。
「行ってしまったって……どういうこと?」
 舞楽堂で朝のお勤めを終えたルシャデールは侍従に詰め寄った。
「ここでの役目は終わったと言っていました」
 前日の夕暮れ、ルシャデールの夕食が終わってすぐ、アニスはカズックにちょっとつきあえと誘われたのだという。壁道を西へ歩き、パルレ橋への別れ道のところで、別れを告げられた。驚くアニスに彼は言った。
『おれは羊の番犬みたいなものだからな。迷える子羊はあっちこっちいるのさ。』
ルシャデールを呼んでくる、アニスは言ったがカズックが止めた。
『おれだって、後ろ髪引かれることはあるんだ。あいつは大丈夫さ。おまえがいるし、親父だっている。昔の、浮浪児だった頃とは違う。跡を継ぐ頃に、いや、それとも養子のガキを迎えた頃にでも、また戻って来るさ。』
『でも、今じゃなくても。せめて僕が仮仕えを終えてからにしてあげてよ』
『アニサード』彼がそう呼ぶのは初めてだった。『時には情を振り切って、前に進まなきゃならないこともある。おまえはもう知っているだろう?』
 話を聞いてルシャデールはうなずいたものの、寂しいという思いはぬぐえない。
 カズックは仲間であり、兄貴分みたいなものだった。小うるさい保護者であり、案内人だった。
「御寮様に伝えてくれと言われました。『おれはどこにでもいる。雨の中、陽の光の中、気や草花の中、ハエや毛虫の中、どぶに沈んでいる腐った魚の頭にも、古い遺跡の石の中にも、どこにでもいる』と」
 よく彼は言っていた。おれは神だから、万物にあまねく存在している、と。そういうものなのか、と軽く受け流していたが。
「そう言われても、寂しいものは寂しいですね」
 アニスは黙り込んだルシャデールの気持ちを代弁するように言った。
 いろいろな記憶がよみがえる。寒い夜、祠で、カズックを抱きしめて眠ったことや、辻占いをするにあたって、口うるさい指導を受けたこと。アビュー家に来て、ユフェリへアニスを連れて行く計画を庭のドルメンで練ったこと。
 そうだ、ここに来た翌朝、カズックの御神体を窓の外に投げられて、探している時にアニスと出会ったんだ。
「ドルメンに置いてあった御神体は?」
「持って行きました。布袋に入れて、首にそれを下げていました」
 想像するとちょっと笑える格好だが、笑う気にはなれない。そんな彼女に、アニスは
「また、会えますよ」と慰めた。
 うん。ルシャデールは床に座り込んだ。自分でも意外なほど、落胆していた。
「一人にして。朝食にはちゃんと行くから」
 アニスの足音が遠ざかるのを聞いて、彼女は膝を抱き、顔をうずめる。
 大切な者がいなくなるってのは、こういうことなんだ。そりゃ、土くれの中でもどこでもいるだろう。ユフェリに行けば会えるかもしれない。でも……違う。
 しばらくそうしていたら、鼻水も出てきた。ふく物を探す。服の袖で拭いてしまおうかと思っていたら、舞楽堂の入口に布が落ちている。真白い手拭き布だ。アニスがいつも持ち歩いている。
 それを拾い、鼻をかんだ。針葉樹の香油が香る。
「ふん、少しは気がきくようになったとみえる」
 彼はたまたま落としたようにして、さりげなくルシャデールに置いていったのだった。
 

 翌日の午後、アニスが王宮へ出立した。
 屋敷を出る前に、屋敷の当主トリスタンと、自らの主人であるルシャデールに挨拶をしていく。
 新しくあつらえた長衣に、帯も外衣も新品だった。
「それではこれより参内いたします」
「うん。儀式ばった宮中の勤めは、慣れないと苦労するだろうが、半年の我慢だ。それに、副侍従長は君の父君をよく知っている。悪いようにはなさらないだろう」
「はい」彼はうなずき、それからルシャデールの方へ、いつにもまして神妙な面差しを向ける。
「しばらく御不自由おかけいたしますが、御下賜となったあかつきには、誠心誠意勤めます」
 おまえなんかいなくても不自由はない。そんな憎まれ口を叩きたくなるが、さすがにルシャデールもこの場では控える。
「おまえなら大丈夫だろうが、くれぐれもご無礼のないように」
「はい」
「行っておいで」
 アニスはトリスタンとルシャデールにそれぞれ頭を下げると、立ち上がった。部屋から出て行こうとする直前、
「アニサード!」我慢できずに呼びかけた。
「はい?」
 言いたいことはいっぱいある。いないと寂しいとか、早く帰ってこいとか、手紙ぐらいよこせとか。しかし、それは呑み込んだ。
「侍従など誰でもいい。そんな風に考えたことはないからね。……わかっているね?」
 見交わす瞳と瞳。
「はい」
 扉がしまる。今、階段を降りて行くところだろう。玄関広間の明かりの下をくぐり、玄関から出て行く。
 彼女の心はアニサードを追って行く。さりげなく、立ち上がって、四階の東端にある書庫へ向かう。二階の書庫と違い、ここには滅多に読まれない本や修復が必要な本が収められていた。下の階では、カシルク寺院の建物に邪魔されて王宮も壁道も見えない。
 アニサードとデナンの姿が見える。どんどん小さくなり、やがて二人の姿は丘の向こうに消えた。
「ここだと思った」
 トリスタンの声がした。
「王宮の方を向いているのはここだけだからね」
 どうやら、トリスタンにはばれているらしい。彼女の気持ちは。
「これを君に預けておくよ」
 彼はルシャデールに折りたたんだ羊皮紙を渡した。
「何、これ?」
「広げてみるといい」
 言われた通りにすると、建物の見取り図のようだった。それもかなり大きな建物だ。
よく見ると、『後宮』とか『御前会議の間』とか、書き込まれている。
王宮の見取り図だ。黙って養父を見る。
「ふふん。いいだろう?」
 交替で王宮の宿直に入る神和師が持っていても不思議はない。
「この辺だよ」彼は見取り図の一カ所を指差す。
「え?」
「呑み込みが悪いな。侍従たちの部屋だよ」
「……」意味がわからない。が、はっと気づいた。
 まさか!? 私に忍び込めと?
「私は十年前、見取り図もなしに斎宮院の奥の院に忍び込んだよ」
 奥の院は斎姫に仕える巫女たちが暮らす、男子禁制の区域だ。もし見つかって、捕まったら、去勢された上に百叩きと国外追放の刑が待っている。
「……」
「ま、それをどう使うかは君しだいだ。賊に間違われて、衛兵に捕まらないよう気をつけるんだよ。できれば月夜の晩がいい。暗い中、歩いていって、肥溜めにでも落ちたら大変だよ」
 ルシャデールはぷっと吹きだす。
「あったの、そういうことが?」
「うーん、まあね。その後、イェニソールと殴り合いの大ゲンカだった」
 殴り合いではなく、殴られっぱなしだったのではないか。と思ったが、養父(ちち)の名誉のために、言わないでおいた。
「これもあげるよ」
 トリスタンは小さな小袋を出した。手の中にすっぽり入る大きさだ。
「開けてごらん」
 受け取って、袋を開くと、中に糸で巻いて封じた紅い二枚貝が入っていた。
「紅貝……」
 お守りというより、、まじないや願掛けに使われるものだ。願い事を書いた羊皮紙を入れ、糸で固く巻いて持ち歩く。恋の成就や結婚、子宝祈願や、立身出世、金儲け、商売繁盛、さまざまな現世的な願い事が貝の中に入れられる。
 そして、願いが叶ったら、他の誰かにあげるのが規則だ。もらった者はその貝に願い事を書いて入れる。だから、古い貝ほどありがたいとされる。多くの願い事を叶えてきたからだ。
「ユゼリィラからもらったんだ。願いが叶って、彼女は私にくれた。そして、私の願いはもう叶ったからね、君にあげるよ」
「子供だましだ」ルシャデールは鼻で笑う。「貝に願い事を叶える力があるはずがない」
「それはわからないよ。万物に神は宿るというからね」
 カズックみたいなことを言う。いや、一人一人の中に神がいるとしたら、トリスタンの中にもカズックがいるのだろう。そして自分にも。
「せっかくだから、もらっておくよ」
 ルシャデールは仕方なく、という顔で。紅貝を握った。養父はにっこりと笑ってうなずいた。

 
 アニスは屋敷の方を振り返った。ルシャデールがどこかで見ているような気がした。
「どうした?」
 彼の動きに、前を行くデナンが立ち止まった。
「いえ、何でもありません」
 彼は再び歩きだす。
 御寮様は変わった。神和家の跡継ぎらしく、威厳と落ち着きをそなえ、すぐに感情をあらわにすることもなくなった。
『大人になるんだなあ、と思ってさ』
 感慨深そうに彼女はそう言っていた。
 自分がいない間、彼女は何を考え、何を思っていたのか。知る由もない。
 カズックが旅立ったことを聞いた時も、取り乱したりはしなかった。それでも、置いてきた手拭き布は鼻水をかんだあとがあった。
 最後にカズックは言っていた。
『おまえもあいつも、ここで生きていくんだ、いいな。しっかりやれよ』
 馴染んだアビュー屋敷を半年とはいえ離れることは、アニスに緊張と不安をもたらしていた。
 侍従なんて誰でもいい、そんな風には思っていない。ルシャデールは言った。他にも、言葉にはされない多くの励ましが、シャムや他の使用人、トリスタン、デナン、ルトイクスからも感じられた。
 きっと、大丈夫。
 そう自分に言い聞かせて、王宮へ向かった。


 その晩、遅く、満月の明かりで、彼女は紅貝の糸をほどいた。中にトリスタンの願い事が入っていた。
『ルシャデールといい親子になれるように』
 願いはかなったと言った。
「ふん、甘ちゃんだねえ。目ぼしい物をかっさらって、明日にもトンズラするかもしれないのにさ」ルシャデールは心にもない悪たれをつぶやく。
 貝は古そうだ。糸がまかれていないところはつるつるして、月の光をはじいていた。何人の手を経てきたのか。
 何を書こう。何を願おう。
 急には思いつかない。明日また考えることにして、ルシャデールは寝台のそばの引出しに入れ、ふとんに入った。
 アニスはもう寝ただろうか。
 いろいろな人の顔が浮かぶ。アニス、トリスタン、デナン、ソニヤ、エクネ、屋敷で働く何十人もの使用人。それに近隣に住まう人々……カプルジャの家の者たちは元気に過ごしているだろうか。それとなく様子を見に行ってみよう。
 他の神和家の者たち。エディヴァリ婆様は相変わらず壮健だ。舞の稽古に通ってくる連中も変わりない。パルシェムは少し、甘ったれがなくなった。通りすがりの街も、少しずつ変わっているのだろう。二人組の楽師は今日も広場で歌っていた。
(みんな幸せであればいい)
 彼女はアニスの顔をもう一度想い浮かべた。
(それから、おまえも私も)
 ルシャデールはゆっくりと眠りに入っていった。

                           (おわり)

あとがき ――生きること、そのものが大冒険――

「大地は雨をうけとめる」をお読みいただき、ありがとうございます。
 作者が気づかないだけで、ツッコミどころは多いかもしれませんが、わずかなりとも心に訴
えかけるものがあればうれしく思います+。

 私事ですが、「天空の庭はいつも晴れている」「大地は雨をうけとめる」を最初に読んでく
れたのは六年前に他界した母でした。
 死にゆくカプルジャの姿は亡くなる前の母を強く思い出させます。人は必ず死ぬものだけど
魂は生きているのだと私は信じています。それでもなお、大切な人の死は切なく辛いものです。
 作中でカプルジャは言います。
『だがねえ、最近になって思うのだよ。もしかしたら、生きることそのものが大冒険なんじゃ
ないかってね』
 親の不仲、虐待、いじめ、多種多様なハラスメント、貧困、将来への絶望、病気、老齢……。
生きていく中で死よりも辛い(と思われる)ことは多いです。ドラゴン退治のような派手さ
はないし、ほとほと嫌になるような持久戦であったり、切り抜けても賞賛されることは稀です。
 しかし、そんな状況に立ち向かっているのなら、それだけで賞賛に値することです。
 
 さて、『天空の庭はいつも晴れている』から始まったシリーズは二年後の物語『風荒ぶ野の
塔』へと続きます。産婆修業に出て母セレダのことを思い出さずにはいられないルシャデール。
一方、アニスはのセレダのもとへ彼女の夫を連れてくるという約束(本作「第十四章 曇り
空の向こう」)を果たそうと動きます。
 現在執筆中ですが、公開にはもうしばらくかかるかと思います。それまでは別シリーズのお
話もアップしていく予定です。
 どうぞお楽しみに。

                            宮崎純嘉

大地は雨をうけとめる――続・天空の庭はいつも晴れている

大地は雨をうけとめる――続・天空の庭はいつも晴れている

『天空の庭はいつも晴れている』続編。全15章。完結済み。 アビュー家の養女になって四年。ルシャデールは養父の跡を継ぐため修行の日々だが、アニスに対する恋心も芽生えていた。しかし、神和師の跡継ぎという立場上、彼女はそれを口に出すことは許されない。おまけに、アニスにはつきあい始めた少女がいた。心揺れるルシャデール。 一方、アニスはアニスでつかみどころのない不満と不安の中にいた。このまま神和家の侍従になって、ちゃんと役目を果たせるのか。 アニスと同様に神和家嫡子の侍従であるヘゼナード・ソワム。彼が主家を逃亡を図ったことから事件は起きる。 幼い恋は去り、残ったのは揺るぎない愛。

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