ホログラム

1

 私ははぁ、と大きくため息をついた。地面についていた足を軽く蹴り上げてみるが、うっすらと透き通ったそれでは感覚はほぼなかった。だが腰かけていたブランコはわずかだが前後に動き始める。ちょうど公園の外から見ていたらしい学生二人が、血相を変えて走り去っていった。――きっと、彼らには誰も乗っていないはずのブランコが独りでに動き出したように見えたのだろう。
 だって私は死んでいるんだから。

  ☆

 幽霊。
 魂。
 そういう存在は、よく物体をすり抜けたり空を飛んだりしているが、実際なってみると一切できなかった。ただ生きている時よりも感覚がなくて、何もかもが希薄で、自分越しに向こう側が透けて見えるだけ。
 私が最初に見たのは自分の死体。交通事故だったが、思ったほどぐちゃぐちゃになっていなくてほっとした。その次に見たのは一番仲のいい友達の利佳だった。その場にぺたんと力なく座り込んでおり、絶望した顔でじっと現場を見つめていた。巻き込んでしまったのは本当に申し訳なかったと思う。目の前で友人が死ぬなんて、一生のトラウマになったっておかしくない。後悔や未練、心残りはあるかと今問われたら利佳のことだけだ。
 葬式にも参加したし、学校に行って教室の机に白い花が飾られているのも見た。担任が涙ながらにとつとつと話しているのも、クラスメイトや友人たちが私の死を悼んで泣くのも見た。その日――というかここ数日利佳は学校を休んでいた。
 私は空席のままの彼女の机を撫でた。あの日死ぬって分かっていたら、利佳と一緒になんていなかったのに。
「そういうことは言えない決まりですので」
 いつの間にか死神が私の目の前に立っていた。
 死神といっても見た目は中肉中背のどこにでもいそうなサラリーマンだ。骸骨でもなければ、黒いフードをかぶっているわけでも、まして大きな鎌を持っているわけでもない。お父さんが会社に持っていくようなビジネスバックの中から、一枚の紙を取り出す。
「野宮あやめさん。それでは黄泉路へご案内しますから、ついてきてください」
「……ご丁寧にどうも」
 その時だった。
 クラスメイトの一人が突然立ち上がった。あちらこちらで聞こえていたすすり泣きが、ピタリと止まる。先生がどうしたのか問うと、彼女は深呼吸をしてからこう言った。
「皆、聞いて。……私、その時反対の道路にいたの。だから見えたの。――羽純さんが、野宮さんのこと突き飛ばしたのを!」
 その瞬間、まるでその場所だけ時が止まったようだった。
 しかし気付いた時にはすでにクラス中がどよめいており、先生はそれを抑えるのに躍起になっていた。
 私は最初、彼女が何を言っているのかよく分からなかった。しかしだんだんと体内(と表現していいか分からないが)の中で感情が煮えたぎっていくのを感じた。気付けば私は彼女に歩み寄り、とうとう告発してやったみたいな顔を引っ叩いていた。――私の半透明な手は興奮したような頬を呆気なくすり抜けただけだったけど。
「馬鹿言わないでよ! そんなこと、利佳がそんなことするはずない! 利佳は私を庇おうとして――」
「私見たの。……車が突っ込んでくるときに、羽純さん、腕を伸ばしてた。あれは絶対野宮さんのこと突き飛ばしたのよ、野宮さんは羽純さんに殺されたの!」
「違う、でまかせ言わないで! あれは利佳が私を庇おうとしてただけ、変なこと言わないでよ!」
 彼女を遮り、いくら訂正しても、私の声は誰にも届かない。彼女の言ったセンセーショナルな発言は一気に広がり、「あんなに仲良かった友達殺すとか」「サイテー」「人殺しじゃん」とあちこちで聞こえ始めていて。先生だけが冷静に「口を慎みなさい」と注意していた。
 私は悟った。きっとこの話題は、あることないことを取り込みながら肥大し、広がっていく。
 もともと利佳は人と関わることを極端に拒んでいた。顔がキツイことも相まって、態度が悪いなど快く思っていない生徒が多かったのを知っていたし――利佳自身にも自覚はあったように思う。私を介して知人は何人かできたものの、それでも、利佳と彼女たちの間には溝があった。誤解やすれ違いといったそれを埋めていたのは、私。その私がいない今、利佳の味方がいなくなってしまう。
「あー……」
 一部始終を眺めていた死神が気まずそうな顔で後ろを頭をかいた。「ええと、その……黄泉路へは……」
 私は死神に正面から向かい合った。平々凡々な、どこにでもいそうで、それゆえ印象に残らない薄い顔が私を見る。
「言いましたよね。未練を残したまま死んで、成仏できない亡者を減らすために、安らかに死んでもらうために派遣されたって」
「えっ、え、えぇ……まあ……はい。そうです」
「私、このままじゃ死ねません」
 きっぱりとそう言うと、死神は大きくため息をついた。「そう言われても……。野宮あやめさん、あなたもうとっくに死んでるんですよ? 自分の遺体も、火葬場で焼かれるのも、納骨されるのも、ずっと見てたじゃないですか」
「私の友達が、変な誤解受けたまま、それを何もできないままなんてイヤ!」
「まあ、仰る理由は想像に難くないですけどねぇ」困り顔のまま死神はスーツの上着から懐中時計を取り出した。「あなたが現世に留まれる時間はそんなに長くない。それに……霊体は特殊なんです。聡明なあなたであればご理解いただけているはずでは?」
 淡々と、死神が言う。
 確かに私の声は誰にも届かないし、かといってメッセージを残すなんてしたらそれこそ祟りだ何だと騒がれて利佳が腫れもの扱いを受けるそれは困る。そう考えると私には何もできないのかもしれない。でも、だからと言って、この状況を放って逝くなんてできなかった。利佳は私の大切な友達なのだ。
 黙り込んだまま動かない私に、死神がため息をつく。
「……とりあえず、ぎりぎりまではお待ちしましょう。引き摺って無理矢理黄泉路へいかせることもできますが、悪霊になられても困りますから」
 では、と、いっそ仰々しく一礼をして死神は消えた。
 私たちが会話している間に教室は授業モードに入っていて、皆教科書とノートを机の上に広げている。だがその下で、ケータイの上を指が滑っているクラスメイトは何人もいた。失礼を承知でのぞき込むと、そこにはやはり、利佳が私を殺したという話題ばかり。
 私は力なく教室を出た。
 どうしたら誤解が解けるだろう。
 どうしたら、利佳が普通に学校生活を送れるだろう。
 そう考えていた時だ。瞬間的に感じたおぞましい気配に思わず立ち止まった。私は生前ホラーや怖い話が大好きだったが、登場人物たちが得体の知れない恐怖を感じた描写とそれは似ていた。恐る恐る振り返る。そこには平々凡々の、何の変哲もない校舎があるだけだと思いたかった。
 ナニカがそこにいた。
 形容するならそれはどす黒い靄。靄がにたりと嗤った気がした。それはゆっくりと蠢きつつ窓やドアの隙間から教室に入り込んでいく。
「聞いた? 羽純利佳が野宮さんを殺したって」
「聞いた聞いた。ヤバくない? 一応仲良かったよねあの二人」
「っていうか野宮さんもあんな奴ほっとけばよかったのにさー……かわいそう」
「ね、ヤな感じだったじゃん羽純利佳」
「アイツが轢かれればよかったのに」
 突然、四方八方からいろんな声が聞こえてきたのだ。私への憐み。利佳の悪口。聞いたことがあるような、ないような、男でもあり、女でもあり、同年代のようで、先生たちのようでもあった。堪らず耳をふさぐ。しかし声はだんだん大きくなっていくばかりだ。
 頭が割れるように痛い。私は逃げるようにその場を離れた。
 廊下を走って、階段を上って降りて。それでも声は追い掛けてくる。
 校舎なんて今さら迷うはずないのに、まるで迷路のように同じ景色がずっと続いていた。どれくらい走っただろう、ようやく昇降口が見えた。一つだけ開いていたそこから飛び出すと、声はやっと聞こえなくなった。陸上部ではなかったが、私の身体は長い全力疾走にもかかわらず息切れもなく疲労感もなかった。
 何だったの、あれ。今しがた体験した恐怖に怯えながら、何気なく校舎を見やった瞬間――私は目を疑った。
 学校全体が、黒い靄に覆われていたのだ。
 何かよくないことが起こっていることだけは、理解した。
 私を通り抜ける先生たちには何も見えていないらしく、特に気にする風もなく校舎に入っていく。校庭で体育の授業に励んでいる先生や生徒たちも騒ぎ立てる様子はない。ユーレイの私にしか、視えていないのだ。
 もう一つ気付いたことがある。利佳の背中にも、不気味な黒いナニカがへばりついていたのだ。そしてソレは、悪い噂を信じ切った生徒たちによる心無い言葉を受けて徐々に大きくなっていた。
 そういえば利佳がよく言っていた、「私は人を不幸にする」と。詳しいことは何も教えてくれなかったが、人には言えない、あるいは言いたくない何かを抱えていることは想像に難くなかった。私が校舎内で見た黒い靄と彼女が背負ったソレが同一のモノなのかは分からないが、関連あるのかもしれない。早く糸口を見つけないとと、私は教室で独り耐えるように椅子に座る利佳を見て思った。どんなに後ろ指を指されようと、事実を異なった噂による罵詈雑言を浴びせられようと、無視されようと、利佳は登校した。その様子はまるでそれらを受け止めることが罰だと思ってるようであった。
 そんな折だ、――学校の七不思議のひとつである夜な夜な勝手に鳴るピアノに話が付け加えられたのは。
 私が、死んだ野宮あやめが出るというのだ。
 しかし違うことは私が一番よく分かっている。事の真相を確かめようと、私は夜の学校に忍び込んだ。
 校舎には、おどろおどろしい空気が満ちていた。夜の学校というシチュエーションそのものがホラーの題材として扱われることも多いが、冗談では済まないホンモノだということはなんとなく理解させられた。まるで、自分が慣れ親しんだ学校じゃないみたいだった。
 その時、唐突にピアノの音色が聞こえた。それに合わせて歌う私の声も。
 はっきり言って気味が悪かった。ものまねだとか、声が似てるとか、そういう類ではなく――私の声そのものなのだ。発してもいないのに自分の声が聞こえるというのはそれだけで全身がぞわぞわした。
 共用棟二階の音楽室から聞こえてくる。私は震える足をゆっくりと前に進めた。階段を上り、廊下を歩く。足音がナニカに気付かれないかひやひやした。
 私は恐る恐る音楽室のドアから中を覗いてみる。
 室内に設置されたピアノは誰も座っていないのにメロディーを奏でている。その近くには私が立っていた。そして闇の中から気味の悪い虫の足のようなモノが二本伸びていたのだ。その光景に、思わず叫びだしそうになるのを寸でのところで手で押さえた。

  ☆

 私がソレを見た日だった、利佳もその話を知ったのは。
 そして彼女はどうやらソレを私だと思い、会いに行こうとしているみたいなのだ。ホラーも怖い話も苦手で、私がからかい目的で話し始めただけで半泣きになるような子なのに。

2

 ユーレイというヒトならざるモノになったらこそ分かる。得体の知れないナニカが学校に潜んでいること。そして利佳自身もナニカ持っているということ。でも、分かったところでどうすることもできない。これを説明しようにも私の声は聞こえないし、そもそも誰かに信じてもらえるかどうかすら怪しい。
 そう、途方に暮れていた時だった。
「どうしたんですか」
 その声が、私に対してだと理解するのに数秒かかった。私はぱちぱちと目を瞬かせて辺りを見回す。誰もいない公園。いるのはユーレイの私だけだ。
 その人は別の学校の制服を着ていた。長い髪を両耳の下あたりでそれぞれ結んでいる。警戒心をついつい緩めてしまうような穏やかな顔で、その人は私を見ていた。
「ええと……あの、私のこと、もしかして見えてます……?」
「もちろん、ちゃんと視えてます」その人はにっこりと笑って言った。「私、いわゆる霊感が強いタイプなんで。だからあなたのことも認識できるし、知覚できる」
「じゃあ、その……ヒトじゃないモノも見えたりしますか」
「大抵のモノは視えると思うけど、何か――」
「お願いします、私の友達を助けてください!」
 私は、藁にもすがるような気持ちでそう言いながら頭を下げた。
 初対面の人に何を言っているんだと思う。彼女はみえると言っただけだ。いきなり助けてくれなんて言われても困るだろうし、何より無関係な他人をあんなモノに巻き込むのは申し訳ない気がする。でも、それよりも、利佳を何とかしたい気持ちが勝った。
 ぽたぽたと、目から雫が落ちていた。涙だと分かった。それでも頬に流れている感触も、手の甲に落ちた感触も、何もなかった。
「大丈夫」
 その人がそう言って、私の手をとった。
 私の半透明な手はすり抜けなかった。

  ☆

 その人の名前は鷲見斎子というらしい。学年は上。でも鷲見先輩と呼ぶのはどうも慣れず、私は斎子さんと呼ばせてもらうことにした。
 一般常識がある人間からしたら、何を馬鹿なと一蹴されそうな私の話を、斎子さんは終始真面目に、親身になって聞いてくれた。
「あなたの学校にはナニカいる。そしてあなたのお友達もナニカに憑りつかれてる……と」
 私はこくりと頷いた。脳裏によぎるのは校舎で見た黒い靄、校舎全体を包んだソレ、それと同じかどうかは分からないものの利佳の背中にあったソレ。そして、夜の学校で見た二本の虫の足めいたナニカ。考えただけで鳥肌が立つくらい、不気味で、おどろおどろしくて、怖かった。
「もともと、学校には噂があったんです。学校の怪談っていうか、七不思議みたいな。そのうちの一つにひとりでに鳴るピアノの怪があって……見たんです、そのピアノと、その近くにいる私じゃないワタシと化け物を。最近になってピアノの話に私が化けて出るって追加されてて、友達が……私に会いたいからって近付こうとしてるみたいで……どうしたらいいのか、わからなくて……」
 言っているうちにまた涙が溢れてきた。哀しいのか、それとも話題を共有できる人がいる安心感からなのか、それは分からない。でも一度出てしまったものはなかなか落ち着かず、ただひらすら泣き続ける私を、斎子さんは幼子をあやす手つきで背中をさすってくれていた。
「大丈夫、大丈夫だからね。何とかしてみるから」
「ほんとう……ですか」
 私がゆっくりと顔をあげると、斎子さんは大きく頷いた。
「もちろん! 聞いてて分かったこともあるし。だからそんなに一人で苦しまなくても――」
「その何とかする、は一体どういう意味なんだ」
 突如割り込んできた声は、氷のように冷たくて、刃物の切っ先のように尖っていた。斎子さんとは反対に敵意剥き出しである。
 斎子さんが「あっくん」と小さな声で名前を呼ぶ。
「そんな怖い顔しないでよ」
 どうやら斎子さんの知り合いみたいで、実際に彼女と同じ学校の制服を着ていた。いかにも真面目一辺倒で冗談の通じないカタブツ、という風貌の彼は、眼鏡を指で押し上げながらため息をついた。
「この顔は生まれつきだ、悪かったな」そう言いながら、彼は私を睨みつけた。「……何度言わせる気だ。巫女の身体に穢れは障る。関わるな」
「穢れじゃないもん、野宮あやめちゃんだもん」
「……穢れだ」
「彼女はただの幽霊だよ。悪霊でも物ノ怪でもない。それはあっくんだって分かってるでしょ?」
「そういう問題じゃない。確かに今はただの幽霊かもしれない。そういう存在こそ不安定なんだ、いつ転じたっておかしくない」
 そう言って、彼は制服から一枚のお札を取り出した。文様のような崩し文字のようなものが書かれたそれに私は思わず息を呑んだ。殺されると思ったのだ。もう死んでいるというのに何故そんな恐怖感を抱いたのかは分からないが。
「やめて、あっくん。私そういうやり方好きじゃない」
 斎子さんが少しだけ震える声で言った。「……お願い。想いも何もかも、消えちゃうのは寂しいよ」
 あのな、となおも彼は言葉を続けようとして――しかし、開いた唇をゆっくりと閉じた。言いかけた言葉の続きの代わりに大きくため息をついた彼が近付いてくる。お札はいつの間にか仕舞われていた。ちょうど斎子さんの真正面に立ち、「で?」と言いながら腕を組む。
「どう何とかする気だったんだ」
「……あっくんも、手伝ってくれるの?」
「話を聞くだけだ」冷静な口調と態度で彼はそう言った。でも、言葉通りだけではなさそうなのは雰囲気で感じとれた。
 斎子さんがぱっと顔をほころばせて耳打ちしてくる。
「あっくんはね、意外と優しいんだよ」
「意外ってどういう意味だ」
 早くしろ、と急かす彼に斎子さんが私の話を手短に伝える。話の中に聞いたことがない単語が混じっていたから、それが彼女が言っていた「聞いてて分かったこと」なのだろう。話を聞き終えた彼は「それこそ巫女より陰陽師の仕事だろうが」と言葉を荒げていたけど、単に怒っているだけではなさそうだ。
 まったくの赤の他人が傍から見ても分かるくらい、二人の仲はしっかりとしたものだった。
 何とかなるかもしれないとほっと胸を撫で下ろす。それと同時に少しだけ寂しくなった。二人のように仲がいい相手は私にとって利佳だけであり、そして利佳にとって私だけだったから。私は暮れなずむ空を見上げた。もうすぐ夜だ。

3

 夜の学校は、私が見た時よりもさらに不気味さとおどろおどろしさを増していた。彼は険しい表情をして、斎子さんは顔色を悪くしながら学校を見ている。
「……気持ち悪い」
「巫女とは相性が悪すぎる、ここにいろ。それから」と眼鏡越しに切れ長の目が私を見た。私も待機ということなんだろう。「……悪霊や物ノ怪になられても困る」
「あの、今学校はどうなってるんですか」
 私が恐る恐る問うと、彼は少しだけ考えてから口を開く。
「暗鬼と、あと他にもナニカいる。暗鬼はそれ単体では実害はないはずだが……ここまで大きくなってるとそうも言ってられない。たぶん、暗鬼が大きくなったことによって惹かれて来た魑魅魍魎がいるんだろう。祓えばその……変な噂もなくなるはずだ。暗鬼は疑心暗鬼の暗鬼だから」
 彼はそう言って、ゆっくりと校舎に近付いていく。昇降口ではなく裏の方に回っていった。
 斎子さんは青白い顔をしていた。大丈夫ですかと声を掛けると、弱々しく笑いかけられる。
「心配してくれてありがとう。……ごめんね、結局あっくん任せになっちゃった」
「い、いえ! そんな、あの……斎子さんにも、いろいろ話聞いてもらって、嬉しかったし……。その、気分悪いなら帰った方が……」
「ううん、ここにいる」掠れた声だったけど、凛とした響きがあった。「あっくんなら綺麗に祓えると思うけど、一応禊もしておいた方がいいと思うし」
 その時だ。
 鈴の音がした。私が利佳の誕生日にあげた、お揃いのストラップについた鈴の音だ。あれは厄除けになっているらしく、利佳の言えない重荷が少しでも軽くなればと思ったのだが――。
 利佳に何かあったのかもしれない。私は駆け出した。後ろから斎子さんの声が聞こえたが、利佳のことが気になった。
 不思議なことに、閉ざされていた昇降口を私はすり抜けることが出来た。それについて深く考える前に、校舎内に響く不気味なピアノ演奏と私の声の方に意識が向いた。共用棟音楽室からだ。慌てて近くの階段を駆け上る。その途中、およそ校舎内には似つかわしくない壊れる音がして、私は急いだ。
 利佳が襲われていた。
 利佳を、私ではないワタシが見下ろしている。ワタシの後ろにある暗闇から虫の足が二本伸びていた。足の一本は利佳のすぐ脇に突き刺さっていて、もう一本は鋭く尖ったかぎ爪を振りかざしていた。振り下ろす瞬間割って入る。何かに弾かれるような音とともにかぎ爪がのけぞった。
 私はすっかり恐怖で動けなくなってしまった利佳を引っ張り上げる。感覚は相変わらずなかったけど。
「利佳、走って!」
 後ろでおぞましい悲鳴がする。
 でも振り返ったらだめだと思った。だから前を向いてとにかく走った。
 闇に呑まれたような教室や廊下を抜け、階段を駆け下りる。私たちがいたのは二階のはずなのに、階段はまだあった。どこをどう通っても同じ風景がずっと続いていて、まるで校舎が迷路になったようだ。それでも立ち止まることなく、ひらすら走る。
 どれくらい走っただろう。やっと昇降口が見えた。そこでようやく私は安堵し、立ち止まった。利佳は肩で呼吸を繰り返していて、額からは大粒の汗が浮かんでいた。しんどそうだ。
 そこで私ははたと気付いた。
「あっ、ご、ごめんね利佳。その……私ユーレイだからその……そういうのよく分からなくて。アレから逃げるので精一杯だったし……」
 しんどかったよね、ごめんね、と謝る。
 それまで俯きながら呼吸を整えていた利佳がゆっくりと顔をあげる。目が合う。その瞬間彼女の目に涙が溢れた。思わず伸びたのだろう両腕はしかし、私を通り抜けて壁に当たっただけだった。
「ごめんね」
 私がそう言うと、泣きながら利佳は首を横に振った。
「あやめは何も悪くないの、私がっ……悪いの。何も……出来なかった。……私は人を不幸にする……だから」
 涙と嗚咽でうまく言葉が聞き取れない。それでも彼女が言わんとしていることは何となく想像ついた。自分のせいで私が死んだと思っているのだろう。一緒にいるときに事故に遭って、しかも私を助けようとしていて出来なかった(正確に言うと私がそれを拒んだのだが利佳には分かるまい)から。
 だから私はできるだけ優しい口調で言った。
「事故のこと、自分のせいだと思ってる? ……そりゃ、そうだよね。あんな巻き込まれ方したら。ごめんね」
 利佳が首を横に振る。
 私は言葉を続けた。
「あのね、利佳。あの事故は何がどうなっても避けられなかったの。仮に利佳が私を庇ったって、私は死んでた。……そういう運命だったの」
「うん……めい?」
「そう、運命。……あと、利佳がその……悪いことが続く不幸体質って冗談半分に言ってたのも、クラスの皆が変な話を信じ切っちゃったのも理由があるんだ。その理由を話すと……なんていうか、信じてもらえないかもしれないけど」
「どういうこと?」
「だってさ、ほら、利佳って非科学的なことは信じないタイプじゃん。宇宙人とか、妖怪とか、ユーレイとか。まあ、ユーレイは利佳が怖がりだから信じないって感じかもしれないけど」
 後半はおどけたような口調でわざと言ってみせると、利佳が吹き出した。久しぶりに笑った顔を見た気がする。
「今、あやめユーレイじゃん」
「……あ」
 そうだ、私ユーレイだった。分かってたはずのことなのに、改めてそう言われて私は利佳を見た。
 数秒見つめ合った私たちは、同時に笑いあった。それは通学路の途中で、空き時間の教室で、一緒に過ごした時間の中で、何度もあった瞬間と同じだった。何が面白いのか分からない、でも同じ感情を共有しながらただただ笑いあうのは楽しかったし、何より心地よかった。まるで初めて一緒に歌を歌った時のように。
 笑いの波がゆっくりと引いていき、夜の空気に包まれる。
 それからしばらくお互いに何も喋らなかった。私は記憶を一つひとつ整理しながら、ゆっくりと言葉を発した。
「どこから話せばいいのかな。……えぇと、その、私生まれつき重たい病気があって入院してたの」
「そうだったんだ、知らなかった」
「誰にも話してないもん」私はあっけらかんとそう言った。やっぱり利佳は覚えていなかったという事実に悲しい気持ちはあったが、でも何となく分かっていたことだったから続ける。「それに、綺麗に病気が治って元気に退院なんてした時には、私の主治医の先生、奇跡だ奇跡だってずっと言ってたもん。……まあ、奇跡が起こったと言えばそうなんだけどね」小さく笑う。そう、あれは表現するなら奇跡だ。「入院中はさ、ずっと一人ぼっちだった。病院って、病気を治して退院させる場所でしょ? だからいろんな子と仲良くなったけど、皆退院しちゃって……真っ白い病室に取り残されて。それでも一人だけ友達みたいに仲良かった子がいたんだけどね。一緒に歌ったりして。……その子も、通院終わっちゃったみたいで会えなくなって」
 ちらりと利佳を見ると、利佳は首をかしげて私に問うてきた。
「どんな奇跡が起きたの?」
「――死神にね、会ったの」
「し、しにがみ?」
「そう。漫画に出てくるような感じじゃなかったけど」私はそこで一度言葉を切った。

  ☆

 その男の人は、死神だと名乗った。
 私は口をぽかんと半開きにしたまま、彼のことをジッと見ていた。黒いスーツ姿。大きな鎌も、黒いフードもかぶっていないし、何より骸骨じゃない。顔はこれといって特徴のないぼんやりとした顔だった。
「……あなたにね、選んでもらおうと思いまして」
「えらぶ? なにを?」
「死に方を、です」
 にっこりと笑って死神は言った。「昨今、現世に未練を残したまま死んでしまう人が多くてですね。心残りなく、成仏して死んでいただくために我々が派遣されているんです」
「こころのこりなく、じょうぶつ……」
「はい。……あー、言い方が少し難しかったですかね。すみません、何分、あなたみたいな小さな子どもを相手にした経験が少なくて。私、小児担当でもないですし」死神は後ろ頭をかいた。「ええと、あなたが後悔なく死ねるようにお手伝いをさせていただきにまいりました」
「おてつだいって?」
「あなたが選べる選択肢は三つです。一つ、このまま手術をせずに毎日を過ごすこと。二つ、手術を受けて長生きすること」
「まって」私の言葉に、死神は何でしょうと首をかしげて見せた。「おかねがないって、おとうさんとおかあさんいってたのに……」
「ええ、確かに今のご家族には高額な手術費用は払えない。……けれど、お金なんて工面のしようはいくらでもありますから。そのかわり、お父様やお母様の安らかな生活は保障しかねますけどね」
 付け加えられた言葉に何故かゾッとした。ふるふると頭を横に振る。
 ふたつめなんてぜったいにえらべない。えらびたくない。ばくだいなにゅういんひがかかってるってきいた、ならいちばんもえらべない。
「三つめ。……奇跡的にあなたの病気は回復するが、あと約十年しか生きられない。これは、一つ目と二つ目のいいとこどりですね」
 どれにしましょう、と問われて。
 私は選んだのだ。

  ☆

「こんばんは、野宮あやめさん」
 聞き覚えのある声がした。振り返ると、そこには昔一度だけ会った死神が立っていた。
「あなたが来たっていうことは……もうそろそろ、死ぬの?」
「はい。詳しい日時は機密事項ですのでお伝え出来ませんが。ここ数日の間、とだけ申し上げておきましょう」
 心残りはありませんか、と聞かれて、私は今までを振り返ってみる。
 気付いた時には小児病棟で過ごしていた。満足に外に出ることもできず、消毒液の匂いが充満した真っ白な空間で過ごすしかなかった。なのにこうして制服を着て、友達と学校へ行き、放課後に遊び、普通の生活を送っている。これこそが私が過ごしたかった人生だった。十分満足だ。
 ちりん、と夜風に触れて鈴が軽やかに鳴る。友達と揃いの物だ。もう少し生きていたい気持ちはあるが……これ以上はさすがに罰当たりな気がして軽く首を横に振る。私は笑って言った。
「ないわ」
「それではよい夜をお過ごしください」
 そう言って、死神の姿が消える。

  ☆

「死神は私に選択肢をくれた。私はそのうちの一つを選んだ。その結果、病気は治ったけど……あの日死ぬことになった。それが私の運命」だから後悔なんてしないと私は続けた。未練も何もない。死ぬことはあらかじめ分かっていたから、そういう生き方をしてきたつもり。「でも、利佳は違う」
 唐突に自分の名前が出てきたびっくりしたのか、利佳は目を大きくしていた。
「わ、私?」
「利佳が私を庇ったら、利佳がものすごい怪我するんじゃないかと思って……あの瞬間はああすることしか出来なかった。でも結果的に、利佳を苦しめちゃったよね。ごめんなさい」
「えっ、わ、私はその……――」
「ごめんね、時間だ」
 その瞬間私そのものが薄らいだように感じた。利佳の身体がまるで誰かに操られているようにくるりと反対を向いて歩きだす。利佳の背中には何もなかった。
 いつの間にか昇降口がひとつだけ開いている。あれを抜ければここから出られるのだろうと、私は思った。
「私の大好きな友達。ねぇ、利佳。私利佳の歌好きだよ。だから、私がいるところに届くくらい、いっぱい、いっぱい歌って」
 私は歌う。お母さんやお父さんと歌った歌を。
 そして利佳とよく一緒に歌った歌を。
 私のハモリパートに、涙に濡れた利佳の綺麗な主旋律が加わる。私の肌はもう透明に近くなっていて、唐突に聞こえた靴音に反応するとそこに死神が立っていた。
 ……利佳、と私は一歩一歩遠ざかっていく友達の背中に声を掛けた。私が病院で仲良くなったのは、両親以外でこの歌を歌ったのは利佳だけなんだよ。憶えてないよね。なんで通院してたのかは分からないけど、でも、私にとってあなたが初めて友達と呼べる存在だった。だから、どうか――その瞬間、鈴がちりんと鳴った音がして私の自我は溶けた。

ホログラム

ホログラム

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
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