やさしい悪夢

 薬指から、染まる。
 あの日のことは、いまも、鮮明に、思い出される。それは、部屋の、照明の色だったり、ベッドの、軋む音だったり、きみの着ていたワイシャツの、肌触りだったり、ミネラルウォーターの、ラベルの絵だったり、ぺりぺりと、めくれる音だったり、ばりばりと、突き破る音だったり、さまざまである。においは、花を燃やしたような、においだったか、わたしは、気分が悪くなり、ずっと吐いていた。胃のなかがからっぽになるまで、吐いていたので、そのときの、嘔吐感、というのは映像とともに、はっきりとよみがえってくるから、困ったものだ。
 ひさしぶりに、逢った。
 教え子に見せたのだと、言う。あの瞬間を。
(悪夢)
と呼ぶのは、まちがっているのか。あれを、悪夢というならば、彼の存在を、否定するに等しい。めくれた、透明な皮。光沢のある膜に濡れた、からだ。血なんか一滴も流れていないのに、あのとき視界をおおったフィルターの色はよどみなく赤だった。胃液と、唾液がまざりあった、くちのなかが不快で、吐き切ったあとは何度も水で洗浄した。あの瞬間以上の狂ったことなんて、きっと、これからもう二度と、起こらないと思っている。非現実。空想。異次元。そういった類の、事象、あれは。
 教え子は、然して驚かなかったという。
「きみのように、吐かなかったよ」
 そう言いながら、チーズバーガーをひとくち、ふたくちとかじる。ファストフード店のチーズバーガーが、あいかわらず好きな彼は、安っぽい照明を浴びて、どうしてだろう、いま、せかいでいちばんうつくしいいきものに、見える。
(どんどん、あたらしくなるから?)
 脱皮をくりかえして、蛇は、おおきくなるけれど、彼は、皮を脱ぐたびに、うつくしくなってゆく。この世のいきものでは、ないみたいに。
(つめたい)
のは、深夜の、バーガーショップの空気。
 わたしが、アップルパイを食べているあいだに、彼は、コーヒーを買いに行き、となりの、となりのテーブルの、カップルのようなふたりが、フライドポテトを食べさせあっていて、だから、余計寒いのかと、思わず漏れた、ためいき。
 けれど、ふつうの恋人とは、ああいうものではないか。
 わたしは思った。思いながら、頑なに羽化と言い張る彼に、脱皮にしか見えないと吐き捨てたときの、あのときのわたしは、ひたすらに、どうしようもない吐き気と、めまいにおそわれて、自分のことで、精一杯で、蒸気して薄っすらとピンクがかった肌の、まるで生まれたての彼を、直視できなかった。まっすぐ向き合えずに、逃げた。無言で傷つけて、そうして、わたしたちは、恋人をやめたのだっけ。あの日は、確か、何十年かに一度の流星群が観測できるという夜で、もう、なにも出ないというほどに吐き続ける、わたしの背中を、彼は一晩中、さすってくれていた。おなじにんげんとは思えない、ぶよぶよの、やわらかな手で。
 やさしかった。

やさしい悪夢

やさしい悪夢

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-27

CC BY-NC-ND
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