現実感と現実性

 電車の網棚に放置されてたマンガの雑誌をみつけたので、ほんとうに何年ぶりかわからぬマンガの雑誌をよむってことをした。
 絵は平均的にうまいなーと思った。でも、話にどうにもついていけなかった。はいりこめなかった。なんだか最近のマンガってのは、サバイバルゲームをそのまんま、マンガのうえでやってるみたいな、そんなのばかりだ、と思った。 
 せまい人間関係のなかで、むやみに生々しい感情が出てくるわりに、大枠は人工的で無機質っていう、つまり、バーチャルな話なのだと感じた。私にはそういうところが、なんだかいまいちわからなくて、困った。バーチャルな話自体は前からあったのは知ってる。カイジとか。あれは絵と台詞で、これはバーチャルな話ですよって、語ってるから、私でも余裕をもって楽しくよめる。
 でも、最近のマンガのバーチャルさは、何かが、やりすぎだ。全面的すぎると思う。
 しかし、この違和感をただの世代間ギャップみたいなのでは、片付けたくはない。私にとって、バーチャルってなんだろう、そこのところを、せっかくなら考えてみたい。
 まず、私はバーチャルなものには現実感がないから、嫌、というわけではない。
 リアリティーがない!とか、これのどこに現実感があるんだ!、とか作者の顔が見えてこない!というような批判は、よくある。バーチャルには現実感がない!だからダメだ!、最初、私も安易にそう言いたくなった。でも、よくよく考えると、これはおかしいことだった。なぜなら私は昔から、現実感のないものは、むしろ好きなのだ。わけのわからないSF とか、アフリカの小説とか、ダダイズムとか、そういうの、好きな人間なのだった。そういう人間にとって、現実感がないこと、は決して違和感のもとにも欠点にもならない。
 私は、現実感がないのはべつにいいのだった。
 なら、私は最近のバーチャルなものの、何がひっかかったのだろうか?
 そう考えはじめると、リアリティーというものが、自分のなかで整理しきれていないのではないのだろうか?と、気づいた。
 たぶん今まで私は、現実感と現実性をどこかでごっちゃにしていたのだ。
 現実感と現実性は、実は全然違う。
 現実感っていうのは、個々のものだ。個々の主体の主観的現実だ。自分の感情は自分にとっては疑う余地なく現実だけど、他人にとっては、あることはなんとなくわかったりわかんなかったりするもので、現実味がない。痛みなんかもそうだ。自分にとっては、現実感そのものだけど、それは他人にはわからない。現実感は、ひとりひとりのもので、無数に違ったものが、この世には人の数だけある。
 だから、他人の現実感は、自分には永遠にわからない。他人の現実感は、自分にとって、ないのがあたりまえで、あると思うためには、自分の側から想像する必要がある。
 こう考えてみると、現実感がない!と他人に文句つけるのが、なんだか常にムリヤリっぽい雰囲気をただよわせているわけもなんとなくわかる。 
 自分の現実感と他人の現実感は、それぞれ、違ってある。だから、現実感がない!は自分とは違う他人の現実感を、自分の現実感で測った結果の、当然の事実の確認でしかない。
 しかし、私たちがリアリティーと言っているものは、そんな世知辛いすれちがいに終わるものなのだろうか。現実感だけで生きて、それをリアルだと感じていればそうかもしれない。でも、もうひとつ、忘れちゃいけないのは、現実感とは別のところに現実性ってものもあるということだ。
 現実性は客観的でとりつくしまなく正しいものだ。
 太陽が東から昇って西に沈むことや、心臓が止まった人間は死に瀕すること、カジキマグロはマグロとはちがう種のいきものだということ、鉛は重く柔らかい金属、11は素数といったようなことが、現実性だ。たぶんこういったことは数字なんかで抽象的に再現もできて、はっきりと区分けもできて合理的な説明だっていくらでもできる。説明されたところで、だからなに?という感想しか生み出さないかわりに、どこまでも正しい。それが現実性で、こっちはもう、それぞれの現実感なんていう余計きわまる得体の知れぬものとは違って、常に正確でくっきりしっかりしている。決まっている。なんなら誰にでも理解できる。納得はないかもしれないけど。
 こういうことをならべて、私が思ったことはこのひとつしかない。
 現実感と現実性は、決して相容れないふたつだということだ。この別があるということを、私はもっとはっきりさせておくべきなのだと、思う。なぜなら、バーチャルというものを考える最大の重要なヒントはここだからだ。
 バーチャルには、リアリティーがないんじゃない。本来ふたつ別れてあってしかるべき現実感と現実性を、まぜこぜにして、いいとこどりしたうえで、最初からひとつだったようにしているのが、へんなんだ。バーチャルリアリティーという言葉のふたつの異質なものをつなげているくせに、その矛盾にひとつも悩んでない、そういうへんな感じもそれなんだ。
 バーチャルは現実性を否定しない。むしろ肯定して、その延長、拡張をしたがる。そしてその延長、拡張に使われるのは、本来現実性と相容れるわけのない現実感だ。だから、バーチャルは現実性の価値の正しさに寄りかかりつつも、個々の現実感がもつリアリティーへの抵抗の感覚を消してしまう。 
 現実性という価値の正しさに反抗しながら、現実感をもって自己を主張するのは、いいと思う。それはそれとして信じられる。一貫がある。パンクだ。
 でも、現実性をくっきりはっきりと温存させておいて、平気で自分以外にわかるはずもない主観的な欲を、快楽を、現実感をまるまる出してくるのは、ズルなんだ。客観的現実性と、主観的現実感を、バーチャルをいいわけにして、なんの工夫もなく混同しているようなのが、私は嫌だったのだ。
 そういうズルいことを、これはズルだって言わないまま続けたならば、自分の主観が、客観的現実と同じように確かということを当然とする人々の、とんでもない自己中心的世界観しか、この世には残らない。
 言い過ぎているのかもしれない。そうだといいなと、むしろ思う。でも、私にはバーチャルという私たちをすっぽり覆いつくしつつある世界観は、そういう危険性があるものにみえてしかたがない。
 現実ってものがわかりすぎることほど、こわいことはない。
 それは切れ目のない現実で、だから感情にも、痛みにも、逃げ場がない。すべてが理解され、すべてが体よくあしらわれる。釈然としない思いだけがつのり、内側からじわじわとこころが死んでいく現実だ。
 でも現実のありかたを他にも考えてみたっていいと感じる。現実は、一枚岩じゃない、現実性と現実感の葛藤で作られるものかもしれない。それならば、ゆるぎない現実というものはない。ゆるぎない現実性はある。ゆるぎない現実感も人によってはあるかもしれない。
 現実を知れ!とか現実がわかってない!とか言って、自分の主観を押しつけてくる、そういう人は、現実性と現実感の区別がついてないんだ。人それぞれ違ったものを感じてるなんて、考えたことないんだ。だから想像力ってものが平気で欠落してるんだ。
 想像力をもつっていうことは、現実性のない空想を思いつくことだと誤解されているけど、本当はもっと切実なものだ。他人にとっては現実感はないけど、自分にとっては現実感がある、欲とか情とか苦痛とか幸福とかを、現実性と擦り合わせて、どこが重なっていて、どこが離れているか、兼ね合いを考える。それが想像力ってものだと思う。表現の力ってものだと思う。現実さえ変えるものなんだ。
 網棚からとったマンガの雑誌はそのまま元あった場所に戻そうと思った。思ったけれど結局鞄に入れ家に持ちかえった。理由はなにもなかった。気まぐれを起こしたのだった。

現実感と現実性

現実感と現実性

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted