直視できないけれど、はっきりと分かる。

枝豆侍

正午過ぎから降り始めた雨は次第に強まり、水滴を時折ホームの中に打ち込んでいた。磯のようであり、ややくすぶったような匂いが雨音と共に体に染み込んでいく感覚は快とも不快とも言い切れない不思議な感覚を私に与える。
「お姉ちゃん、まだ電車来いひんの?」
「もうすぐ来るわよ、あとそれ五回目」
「・・・いけず」
他愛のない会話。かれこれ30分の待ち時間は小学生の妹には苦しい時間なのだろう。自分にもこんな経験があった、と苦笑する。妙に昔の事を思い出したくなるのはこの雨に思案する機会を与えられているせいかもしれない。
雨は降り続く。
上り側のホームとの間を雨が形作る白いカーテンが区切り、十数メートルの距離の先をとても手の届きそうにない彼方にあるものと錯覚させる。
「まだぁ?」
「まだ」
妹の方も諦めがついてきたのか、無闇に質問することなく会話の長さを短くしていく。代わりに指遊びを始めた妹は蛙を指で表したりしながら時を潰し始めた。
流石に自分も退屈に思えたので、妹を連れて自動販売機の所にでも行こうかとベンチから腰を上げたとき、向かいのホームに誰かが入ってくることに気が付いた。
「秋坂?」
クラスメートではあったが、名前と顔くらいしか覚えてなかった。いつも本しか読んでいなかったし、髪はいつもボサボサ。勉強ができるわけでも運動ができるわけでもなく、反応も薄く面白味のない人間にはあまり関心がなかった上、それ以上分かることもなかった。やはり外でも習慣は変わらないらしく、ベンチに座って傘を両足で挟むと、懐から本を取り出した。
どうもこちらには気づいていないらしい。
普通なら何も感じることなく飲み物を買いに行こうとしただろうが、何となく彼から目を離すのに躊躇した。何かを憶えたような気がし、それを思い出せないもどかしさのようなものを感じるのだ。
ベンチに座り直し、正面から秋坂を見つめてみる。いつも通りの無造作な髪型に文庫本。何かが変わったようには見えない。変わっているわけではないのかも知れない。
では、何がこんなに秋坂に対する興味を駆り立てているのだろう?
秋坂に何もないと考えるなら、上り側のホームか、ベンチか。
しかし何か変わった様子は見受けられない。ホームは相変わらず近所の大学のポスターが貼られたままだし、ベンチの塗装が剥げかかっているのはいつものことだ。
被観察者に異常がない、となると、異常があるのは観察者…私なのだろうか?
むぅ、と溜め息を混ぜて唸ると、妹が怪訝そうな目でこちらを覗いている。
「お姉ちゃん、何難しい顔しとんの?」
「ん、あそこのベンチに座っている人なんだけどさ…」
妹に事の顛末を話してみた。
「…そりゃお姉ちゃんしか分かんないでしょ」
「それもそうね、何なのかしら」
再び考える姿勢に入ろうとすると、妹が変なことを言い出した。
「でもお姉ちゃん、あの秋坂さんのことよう知っとんのね」
「え?」
「だって、普段から見なきゃ本読んどる事も髪がボサボサなんも分からんし、勉強も運動も普通は詳しく知らんでしょ?」
「…そう言われてみると」
「お姉ちゃん、もしかしてあの人のこと」
妹の口をとっさに塞いだので、言葉の代わりにモゴモゴといううめき声が出てくる。
ありえないはずなのだ。そんな感情抱いたこともなければ、考えたこともなかった。
第一、あの秋坂になんて、あるわけが無い。
誰に向けたものなのかもよく分かっていない反論を心の中で繰り返していると、いつの間にか上りの電車が近づき、秋坂が立つところだった。
本を懐にしまう秋坂。無気力な目は何を考えていればああなるのだろう、と考えた矢先だった。
秋坂が不意にこちらに視線を向けた。十数メートル、または遠い彼方を超えて目が合い、彼の姿をはっきりと捉える。
すぐさま進入してきた電車が私たちの前に立ちふさがり、その時間は失われてしまったけれども、私は彼に憶えたあの感覚の正体をはっきりと知覚した。

「なあ、お姉ちゃん」
「何?」
夕日の差す電車の中、隣に座る妹が顔を上げて私に問いかける。
「結局、あの人はなんだったん?」
あのぼんやりとした目を思い出し、苦笑してしまう。認めざるを得ないようだ。
「うん。お姉ちゃん、分かっちゃった」



「あの人、社会の窓開きっぱなしだった」

直視できないけれど、はっきりと分かる。

直視できないけれど、はっきりと分かる。

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