ロトン

草片文庫(くさびらぶんこ)

ロトン

ホラー系小説です。縦書きでお読みください。


 左手の小指に銀製の指輪がはまっている。二匹の蛇が互いに絡み合い、向き合って舌を絡ませている。なんとなく気味の悪い顔でもあるし、見方によってはかなりエロティックなものである。脇から見ると雄と雌の様でもあるが、片方の頭から見ると雌と雌の様でもあり、反対から見ると雄と雄の様にも見える。なぜだろう、深く考えたことはないが、小指にはめたその時、そんな風に思った。それ以来、あまり意識をすることなく、はめたままになっている。
 この指輪は京都の街中の暗がりで手に入れた。というか買わされた。仕事で京都に来て、一段落した後、飲み屋で飲んでホテルに帰る途中のことである。
小さな通りの暗がりから、黒っぽい服装の女がでてきた。女は黒っぽいというより、ちょっと汚れたねずみ色のシャツと茶色っぽいジーンズをはいていた。だから黒装束のように見えたのだろう。
 女は僕に気付くと近寄って来た。
「お願いがあります」
彫りの深い浅黒い顔、太い眉毛、大きな目、インド人だろうか。日本語はかなり流暢のようだ。旅行者のようでもある。
京都には外人観光客は多い。だから珍しいわけではないが、この夜更けにこんな出会いをするとちょっと戸惑う。
立ち止まると、女はいきなり、「これを買ってもらえませんか」とその指にはめられている指輪を見せた。当然のことこちらも身構えてしまう。
「すみません、お金がいるもので、大事な指輪ですが」
僕が黙っていると、「いくらでもかまいません、お願いします」と、俯いた。
「どうして、警察に相談しに行かないのです」
女の話す日本語は丁寧なものである。
「パスポートありません、携帯も持っていないし、一万円あれば知っている人のところまでタクシーでいけます」
不正入国者なのだろうか。
「パスポートはあったのですが、悪い仲間に取り上げられました。友人のところに行けば助けてもらえます」
どうしようか迷った。一万円なら貸してもいいが、なにか関わるとまずいような感じも受ける。
「でも、大事な指輪なのでしょう」
「もし、無事に友達のところに着いたら、友達からあなたに一万円返します、その時、指輪を返してもらえれば私は嬉しいのですが」
そこまで言うならいいかと思い、それじゃあと、一万円を渡すと、女は「リリスといいます、電話番号教えてください」と言う。
電話を教えてへんなことが起こるといやだとは思ったが、酔っていたこともあり、電話番号を教えた。女はいきなり僕の左手首をつかむと、指輪を僕の小指に直接通した。女の指はかなり細いが、なぜか指輪はすっと僕の小指の根元に入り、その時、二匹のへビが、雌と雄に見えたり、雌同士に見えたり、雄同士に見えたりしたのである。
「これは銀で出来た古いもので、我家に伝わるものです、確かなことは分かりませんが、千年も前につくられたものと祖父から聞いたことがあります。悪魔を寄せ付けないといわれています」
なんだか映画だとか小説に良く出てくるような話で、あまり信じられるものではない。
女は「ありがとうございました」とずい分丁寧にお辞儀をして、大通りのほうに歩いていってしまった。
ホテルに帰って、改めて指輪を見たが確かにその辺の安物とは違うような雰囲気はある。アンティークは嫌いではないので、損をした気にはならなかった。ただ、女の話は本当だかどうだかわからない。電話があれば返せばいいことだし、とりあえず預かっておこうといった程度の気持ちで小指の指輪はそのままにした。

京都から東京に戻り、部長に京都での商談について報告をすると、自分のデスクに戻った。左隣の僕より五年早く会社に入ったベテランの女性がいち早く僕の小指の指輪に気が付いた。
「あら、珍しい、指輪をする趣味があったの」
「いや、事情があって」
 「いい指輪ね、高かったでしょう」
 「僕にはどのくらいの価値か分からなかったんだけど、知り合いにお金を貸して、その質草のようなもので、お金を返してくれたらこれも返すのです」
 「いくら貸したの」
 「一万円」
 「へえ、十万はするわね、いやもっとかも」
 この女性はネックレス、指輪、イアリングなどの装飾にずいぶん凝っている。だから、本当なのだろう。

 リリスからは電話がなかった。無事に友人に会えたのならいいのだが、と思いながら、仕事がなかなか順調で、休む暇もなく国中を走り回って一年経ってしまった。その間、指輪のことを思い出すこともなく、風呂に入る時も外さなかったし、寝る時もそのままだった。指輪のことは全く忘れていた。
僕は係長に昇進した。誰もが祝福してくれた。大きな商談をまとめることができたのだ。そのおかげでうちのチームそのものが会社の中でも認められた形になり、同僚達も大いに喜んでくれたのである。
祝宴を終え、自分のアパートに帰り、相変わらずの独身用シングルベットに倒れこんだ。明日は日曜だから寝坊が出来る。一度起き上がりパジャマに着替えると、そのまま朝までぐっすりと寝てしまった。
九時である。夏の終わりの日曜日、この時間でも両隣から音が聞こえてこない。このアパートには似たり寄ったりの独身男が住んでいる。いつもだと七時ごろにはがたごとと、朝の支度の音が聞こえる。
僕はベットに入ったまま、左腕を伸ばして脇の窓を開けた。二階からの景色は家に囲まれた殺風景なものではあるが、青空が少しでも見ることができるのはありがたいことである。朝という味の付いた風が入ってくる。
左腕をドカンとベットにだらしなく伸ばし、煙草でも吸おうかと思ったときであった。ピリッと強い痛みが左手の小指に走った。前身がびくっと丸くなるほどであった。一本の神経が切れちまったのかねじくれたのか、飛び上がるほどの痛みだ。
寝たまま左手を目の前に持ち上げ小指を見た。その時には痛みは止まっていた。一瞬のことだったのである。
小指の先から、ケチャップの混じったような黄色いどろりとしたものが染み出していた。まだ出ている。垂れそうだ。あわてて枕もとのティッシュで拭き取った。紙を見ると膿のようだ。拭き取った後からどろっとした透明のものがでてきた。ふーっとカツオブシと溝泥の混じった匂いが鼻をついた。やな匂いだ。
もう一度ティッシュで拭いた。膿んでいる。
どうしたのだろうか。僕は起き上がってベットに腰掛けると小指を良く見た。もう膿みは止まっているようだ。全部出たのだろう。
洗面所から薬箱をもってきてオキシフルをつけてみた。だが泡は出ない。刺さっているようなものもない。棘ではなさそうである。消毒薬をつけた。小指を押してみたが、痛くも痒くもない。
その日はプールに泳ぎに行き一遊びして家に帰った。小指のことなど忘れていた。
その夜ベットにはいったとたんまた小指に痛みが走った。あわてて、起き上がると、小指を見た。やはり黄色い膿みのようなものが染み出ていて溝泥の匂いがした。ティシュで拭き取ってみるとティッシュ上に黄色い染みが広がった。小指を揉んだりしたが全く痛くもない。指先からまた透明のどろっとした液体が出てきた。それを拭き取ると朝と同じように消毒し今度はバンドエードをつけた。痛みはすぐ消えたのでベッドに入るといつの間にか寝てしまっていた。

 どうも灯りを点けたまま寝たらしい。いつもは夢などあまり見ないのに、その夜は夢を見た。
 いきなり、他人の手が僕の顔をなでた。ひゃっと、ぞくっとからだが振るえた。誰かが部屋に入ってきたと思ったのだ。その手をぱっと振り払って、目が覚めた。自分の左手がベットの脇に打ちつけられた。左手はしびれて感覚がなかった。
理由はわかった。寝るときにベッドの上で腕組みをして寝てしまったため手がしびれたのである。感覚のなくなった左手が何かの拍子に自分の顔にかぶさり、他人の手が顔をなでたような錯覚に落ちたのだ。
 目が覚めた僕は左手を揉み解した。ジーンと痺れが元に戻る感覚が左手に走りやがて自分の左手が戻ってきた。
 時計は三時五分過ぎを示していた。

 あくる日、むずがゆさを伴った血液の流れが左手に感じられるようになった。親指を折り曲げてみた。恥ずかしがっているようにぴょこっと親指がお辞儀をした。人差し指、中指、薬指はすべて指図どおり動いた。ところが小指は思うように動かない。どうしたのかと思っていると、小指は血液の流れが小指の中を突っついて笑わせているようにむずむずした。それがいきなり止まった。そうすると、昨夜と同じように、痛烈な痛みがぴーーーと走った。心臓のほうが爆発するかと思うような痛みである。それがあっという間に過ぎると、今度は痒くなった。痒くて痒くて小指の先っちょが笑い崩れそうだ。右手で小指を掻いた。ぽりぽりと掻いた。気持がいい。もっと掻いた。快感はさらに強まった。右手は強く強く左の小指に爪を立てた。痒いときに思いっきり掻く気持ちのよさ、あとのことなど考えない。快楽に没した状態だ。
 快感が頂点に達した時、右手にぬるっとしたものが感じられた。ふっと快感から恐怖に変わった。膿、赤黄色い膿み。僕は勢いよく右手で天井の電灯の紐を引っ張った。
 明かりがいきなり目をさした。目が落ち着くと小指が見えた。小指はどろりとした赤黒いもので覆われていた。黄色い汁も混じっていた。
 ティッシュで拭き取ると、小指を押した。まだ痒くて気持がいい。赤黒い汁の中に白いものが搾り出された。白いどろどろが赤い汁に混じり溝泥の匂いを発した。
 膿は掛け布団の上に滴り落ちて、染みになった。
 僕は布団を出ると、紙で小指の汁を拭き取り、消毒した。かゆみは終わったが、気持が落ち着かなくなった。医者に行かなければならないだろう。病名は全く想像がつかない。知っている病名は破傷風ぐらいである。だが、土いじりをしたわけでもなく、破傷風にかかかるようなことをしていない。
 朝になったら、医者によって仕事に行こう。そう思い、何とか落ち着いてもう一度眠ることが出来た。

 朝起きても小指の先には赤黒い汁に白いものが混じって染み出していた。布団にだいぶ汚れが付いた。これでは食欲も湧かない。医者に行くしかないだろう。
 一度インフルエンザで世話になった近くの医者に行った。久しぶりである。一時間も待たされたが、診察室に入ると、小太りな医者は僕を覚えていた。女医さんである。笑っている。
 「今度はどうしました。風邪ですか」
 全くこの医者ときたら、もう馬鹿にしている。前来たとき結局インフルエンザだったのだが、僕が注射を怖がったのを覚えているのだ。
 「注射しないようにしますよ」
 何の病気か分からないのに無責任な。
 「小指が痛くて、痒くて膿が染み出すのできたのですが」
 僕は椅子に座ると、医者に小指を突き出した。
 「面白い指輪しているのね」
 そういいながら、女医さんは眼鏡をかけなおすと、小指を見て、「なんも見当たりませんね」と、いいながら、指でつまんだ。
 「痛いの」
 「いや、今は痛くないのですが、寝るときなどに急にピリッと痛くて膿が出ます」
 「傷はないし、炎症を起しているようでもないし、仕事をさぼりたかったのかしら」
 全く余計なお世話だ。
 「いえ、本当に痛かったので」
 「小指誰に噛まれたの」
 何だこの医者はまじめじゃない。
 「いや、そんな僕はまじめです」
と言ったら、医者は指輪をつまんで「きつくなさそうだし」と丸っこい顔を、ひしゃげて笑った。
 「アルコール消毒をして、ビタミン剤を出しておきますね、疲れているみたい」
 と僕の目を見た。
 「目が充血しているから、目薬だしますね」
 もう拉致があかないので「はいありがとうございます」と自分から席を立った。
 医者はこちらも見ないで「次の人」と叫んだ。
 それで初診料と合わせて千五百円取られた。
 ともかく、それを持って仕事場に行った。
 となりの席の女性が「大丈夫」と聞いてきた。
 「薬もらったから」
 「どうしたの」
 「小指が膿んで」
 僕が小指を出すと、「なんにもなっていないじゃない」というから、「薬を塗ったんだ」と言うと、「噛まれたの」と医者と同じことを言った。みんな同じだ。
 ちょっとしゃくに障るので、小指を思い切りしごいてみた。すると小指の先から白い汁がでてきた。
 「あ、ほんと、乳絞りみたいね」
 と女性が目を丸くしたので、「なんか匂いがしない」ときいたのだが首を横に振った。
 まあそれで小指に何か起こっていることだけは納得してもらった。医者の前でもこうすればよかったとちょっとばかり反省した。

 会社にいる時は小指にさしたる変化は起きなかった。しかし家に帰ると、とたんに痛みが走る。それに膿がじくじくと出てきて、透明の液体やら乳白色の液体やらが染み出し悪臭が漂う。その匂いたるやまさに溝泥なのだが尋常のものではない。部屋中へ汚泥がたまったような気持になる。エアコンで空気清浄を行なうのだが、この匂いが外に洩れたら何事かと訴えられそうである。一度膿を出すと包帯を巻いた。少なくとも包帯が膿を吸収してくれる。寝る前に一度取り替え、朝になって拭き取って会社に行く。そんなパターンになった。
 痛む時間はほんの数秒である。だから我慢できないことはないが、匂いで体がおかしくなりそうだ。それに左手の小指だからといって馬鹿に出来ない。何かをしようとするとかなり不便さを感じる。PCで文章を書くときとても困る。
 ある日、一日痛みが起きないことがあった。ただ膿は赤黄色く染み出している。その都度拭くのだがすぐ出てきて、白い汁になるとすさまじい匂いが出る。その日から膿の色が赤黒っぽくなり、それに黄色の汁が混じるといった状態になった。会社では全く普通の小指だったので、文章を打つとき以外仕事には差しさわりがない。
 
 秋風が吹くようになった。目が覚め、ベットの上で両手を上げて伸びをすると、そのままの姿勢で窓を開けた。小指がちょっと窓に触れて包帯がずれた。小指の先でぶら下がっている。小指の先が白っぽく細くなっている。おやおやと思って右手で左手の小指を触るととても硬い。痛みはない。小指を目に近付けてみて、背筋に水を浴びたようにぞーっとした。それは骨だった。第一関節から先の指骨が露出していたのである。肉が溶けてしまった。腐ったといったほうがよいのかもしれない。
 骨を触っても何も感じない。骨を摘まんだところ、あっと声を出してしまった。すぽっと抜けたのである。第二間接から先の骨がすぽんと抜けてしまった。小指の先に穴があいた。
 その穴に赤黒い膿が溜まりだした。ティッシュを指先に押し付けると、今度は第二間接のところから肉が崩れてとれてしまった。僕の左手の小指は根元の指輪しか見えなくなった。なぜか指輪は抜け落ちない。
 こうして小指がなくなってしまったので、しかたがなく包帯を巻いて会社に行った。
 隣の席の彼女は「小指短くなったのね」と不思議そうな顔をした。
 「とれちゃったんだ」
 「医者には見せたの」
 「いいや、行きつけの医者は気に入らないんだ」
 「今日、医務室にお医者さん来ているよ、診てもらったら」
 そういえばその日は周に一度産業医が来る日である。課長に事情を言って医務室にいった。一度喉が痛くて見てもらったことがある。
 「どうしました」
 僕が入っていくと医者が角ばった顔を向けた。
 「顔色や動きは何も問題なさそうだけど」
 「小指がなくなりました」
 医者がえっと言う顔で「まあ、おかけなさい」と椅子を勧めた。
 腰掛けて包帯をとって見せると、何だという顔をした。
 「痛くありませんか」
 僕は首を振った。
 「いつごろから、どういう風にこんなになったんでしょうね」
 僕は小指が腐っていった状況を話した。
 「細菌性なのでしょうけど、大学病院にいって何の菌だか調べないと、ここじゃ何も分かりませんね、消毒薬と抗生物質を出しておきましょう、紹介状を書きますから調べてもらったほうがいい、それにしても指輪がよく落ちないねえ、指輪より下の組織は問題ないようだから、もう腐食は終ってるね」
 ということとで大学病院にいって調べたが、細菌は発見されず、病名は分からなかった。産業医と同じでもう大丈夫でしょうということだった。

 それから一年、左手の小指が無くなってしまったのにも慣れた。友人には指をつめたのかといわれたり、電気鋸でやったのだろうとか言われたが、適当に相槌をうっておいた。
 暑い夏が終わりまた秋風が吹くころになった。会社で仕事をしていた時に、携帯が鳴った。取引にも自分の携帯を使っている。着信を見てもどこからの電話か分からなかったが、電話に出ると男がたどたどしい日本語で、僕の名前を言って、本人かどうかきいてきた。そうだと答えると、
 「家内のリリスがお世話になりました。借りたお金をお返ししたいのですが、どこにお持ちしていいですか」
 と聞いて来た。京都でリリスという外国人の女性に一万円貸したことを思い出した。
 「あの、京都で貸したお金のことですか」と確かめると、そうだという返事である。
 「あれから、その女性と結婚して、いろいろ忙しく、返すのが遅くなりすみませんでした」と話した。
 「でも、僕は東京だから、機会があったときでかまいません」と返事をすると、
 「新婚旅行で東京に出てきています、数日東京にいて、国に帰ります」
 ということだった。それで、夕方、彼らの泊まっているホテルのロビーで会うことにした。
 一泊数万はする高級なホテルである。足を踏み入れるのが気後れするほどの立派ロービーではあの女性と背の高い紳士がソファーに腰掛けて待っていた。
 彼は立ち上がると、私に丁重に自己紹介をし、改めて女性を紹介してくれた。名刺を見ると彼は大きな会社を営む実業家であった。
 「私はルシュファと申します、リリスがお世話になりました」
 このような立派な人がいたのに、どうしてあんなところにいたのか想像ができない。それを察したように、彼が「この人は闇の組織で売られて東京で働かされていたのですが、たまたま、あるとき京都で働いていた私のことを知って、何とか京都までやってきたのです、この人は、私の妹の友達です」
 その後、今までのことを詳しく話してくれて僕も納得した。
 「どうもありがとうございました」
 リリスが封筒に入ったお金を私に渡した。
 「お役に立てて、良かったです、連絡がなかったので、どうなったのかちょっと心配でした」
 僕は小指にはまったままの指輪を外そうとした。ところがなかなか外れない。肉が盛り上がっているのかもしれない。
 「その小指どうしました」
 リリスが心配そうに僕の小指を見た。
 「もう治ったのですが、悪いばい菌に犯されたみたいです」
 僕は小指の指輪を思いっきり引っ張った。彼女はルシュファに僕の指を見るように促した。彼は僕の小指を困ったような目で見ていたが、彼女に向かって頷いた。それがどんな意味なのか僕は考えもしなかった。
 やっとの思いで小指から二匹の蛇の指輪を外すと、ハンカチで拭いて彼女に返した。
 「入れたままにしていたので、汚れてしまってすみません」
 「いえ、本当にありがとうございました」
 リリスは受け取ると、彼に何やらを促している。彼は自分の左手の腕にやっていた、茶色の石でできている腕輪を外して僕に差し出した。
 「この腕輪は指輪ほどではないのですが、魔よけのもので二百年ほど前のものです。どうぞこれを左手にしておいてください、指輪を返していただいて、本当に感謝しています」
 僕は腕輪などしたことはないが、気持なのでありがたく頂戴いした。
 その日は彼らの招待で、ホテルの中華レストランで上等な食事をして家に帰った。
 その二日後からである。
 夜中に左手の薬指、中指、人差し指、親指に痛みが走り、悪臭が漂ってきた。またかと思ってベットの上で左手を見ると、すべての指の先から膿が染み出している。冗談じゃない、左の指すべてが亡くなったら大変なことになる。ティッシュで膿を拭いて包帯を巻いたのだが恐ろしいことが起きた。朝おきると無性に痒くなり右手でごしごし掻いていると包帯ごとすべての指の肉が落ちてしまい、骨だけになった。さらに、骨は見ている先からポロリと落ち、左手の指のすべてがなくなってしまった。
 僕は起き上がると骨を拾ってタクシーで大学病院に行った。受付はまだ開いていなかったが事情を話すと、当直の救急医者が見てくれた。
 「こりゃあ大変ですね」と言うことで、レントゲンを撮ったり前のカルテを持って来て調べたりしてくれたのだが埒が明かず、医者の見ている間に左手の手首より先が赤黒くどろどろと腐っていき、すごい匂いを放って溶け落ちてしまった。骨も一緒にである。
 初めて他人の前で手が溶けた。医者もあまりにもびっくりして、膿を採取し調べたのだが細菌類はみつからず、細胞が自分で死んでしまう病気の一種だろうという結論に達しただけである。細胞が自分で死ぬというメカニズムを説明してもらった。アポトーシスとかいうようだが、それが異常な状態で生じたのだろうということである。ただ、なぜそうなったかは分からない。
 左手を失った僕は腕の先の腕輪が落ちずに付いているのを見て、不思議な気持になった。指輪の時と同じようだ。
 身体障害者の手帳をもうことになり、会社に行ったら課長に、できることをやるように言われた。左手がなくても文章は打てる。営業周りも大丈夫だが、車の運転は特別な訓練を必要とする。
 しかし左手の欠損には意外と早く慣れることが出来た。
 ある日、京都にまた出張に行き、出張先で商談に行った女社長が僕の左手に目を留めた。
 「左手はどうなすったの」
 僕の左腕をしげしげと見ている。
 「ちょっと怪我をして」
 僕は病気といわず、怪我と嘘を言った。しかし彼女が見ていたものは別のものだった。
 「素敵な腕輪をしているわね」
 僕の腕輪をちらちらと見ている。
 「ずいぶん古そう、高価なものね、私腕輪好きなのよ」
 と、僕を見つめた。
 商談をまとめるには、腕輪が役に立ちそうである。そこで気に入っていただいたのなら差し上げないこともないようなことを言ってから話をまとめた。かなり大きな契約なので会社は喜ぶだろう。左手がなくなっても雇ってくれている会社にちょっと恩義も感じている。
 「これは記念に差し上げます。僕もいただいたもので、古いものだとは聞いています。癖でずーっとやっていましたが、手先がない手首に腕輪をしておくのもなんですのでどうぞ」
 「え、大事にしていたものをただでは悪いわ、本当は食事にでもお誘いすればいいのでしょうけど、今日は先約があるからこれで食事してください」
と、封筒をわたされた。
 僕は恐縮して、ともかく腕輪を渡しその封筒をいただいた。そして意気揚々と会社に戻り成果を報告したのである。課長をはじめみな僕を賞賛したのは言うまでもない。それに女社長さんがくれた封筒には十万円も入っていたのである。
 気分をよくして家に帰った。次の日は土曜日で休みの日であるし、友達に電話して、遊びに行く約束をした。本物のビールと上等な缶つまを買い込み、その夕は一人だが、豪華な食事をテレビを見ながら楽しんだ。
 全く配慮が足りなかったといまさら悔やんでもしょうがない。
 その夜中、全身にぴりーっと痛みが走った。また、と思い目を覚まし、灯りをつけると、遅かったが、理解した。体から、白い膿が染み出してきていた。
 へそが痒い。パジャマの中に右手を入れて、へそを掻くとポロリと取れて、指の先もうぐにゃりと溶けた。男のものがそそり立ってきて残りの精子が膿となって噴出してパジャマを汚し、男のものそのも崩れおちた。その後が痒いのだが掻くことが出来ない。腹中の臓物もみな膿となり染み出して来た。溝泥の匂いが部屋に漂ってきた。
やっと分かった。小指の指輪を外したために指先が腐ってしまったのだ。あの指輪は強い魔よけだといっていた。指輪はそこまでで食い止めてくれたのだ。僕の無くなった小指を見たリリスの夫ルシュファーはどうなるか分かったので、腕輪をくれて、手先だけで食い止めてくれたのだ。それをあの社長にやってしまった。僕は腐っていくしかなかった。
 声を上げようとしたが、舌がもうぐずぐずと崩れ落ちていた。脳は元気なようで、これから腐っていく自分を見届けなければならないようだ。
 パジャマの袖やズボンの先から溶けた自分に体がベッドの上に流れていく。
 明日の朝、遊ぶ約束をした友人たちが、連絡の付かなくなった僕のアパートに来るだろう、そしてベッドの上の膿の水溜りを見ることになる。
 もう足の骨も手の骨も溶けている。
 ベッドの脇に二人の人影が見える。だが眼も溶けてきた。
 「ルシュファ、面白いわねえ」
 「ああ、リリス、人間が生きながら腐るのを見るのはいつ見てもいいものだな」
 そんな会話が聞こえてきた。彼らが来ている。僕を眺めている。
 脳ももう膿に変わりつつあるようだ。僕はこの人生を食い止めることが出来たのであろうか。いや彼らはどこにでもいる。つかまったらもう彼らには逆らうことは無理なのだろう。これが僕の人生なのである。

ロトン

ロトン

小指にはめていた蛇の指輪。請われて譲ってしまった。そのあと、小指が腐り始めた。

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