夏を待っていました。
ずっと昔、姉と一緒に祖母に、不思議な話を聞いた。夏の暑い日、どこかに毎日、必ず、陽炎が現れて、ゆらゆら揺れている。
その中に、世にも珍しい言葉を話す陽炎がいて、それは成仏できなかった悲しい人間なのだと。そして、その陽炎のその先は死後の世界に繋がっていて、陽炎は時々、おなかを見る要領であの世を覗いて、泣いて寂しがっているんだって。
陽炎が天国に行くためには、誰かがその陽炎を、人間としてもう一度愛されなければいけないのです。
祖母は、怖がる私と姉を抱きしめて、笑っていた。
* * *
その人は、陽炎であるらしい。夏の暑い日にしか出会えない、あの陽炎。比喩とかじゃなくて、そのまま陽炎。
実際私は、その人の姿かたちを見たことがなかった。決まって、墓地の脇の小道にぼんやりゆらゆら、透明の体を揺らす、夏にだけ会える私の友達だった。
その日、彼に車で送ってもらってそこに行くと、記憶通りに、彼がそこに佇んでいた。
「…あぁ、今年は少し涼しいんだね」
彼が言った。私は、小脇の木の陰のベンチに腰掛けた。
「…そうみたい。去年はもっと涼しかったよ。何度ここにきても、あなたに会えなかったもん」
「そうなのかぁ。悪いことしたなあ」
「あなたは悪くないでしょ。謝らないでよ」
「うん。君は優しいね」
今日は、朝、窓から蒼天を見て、きっと居ると思ったのだ。今日こそ会える。そんな想像をしていたからなのか、彼を草の隙間から見つけた時、おかしいけど、緊張で高鳴っていた心臓が一気に静まったのだ。分かっていたから。
去年は、彼がいないと分かる度に体中が熱くなって、涙すら出てきたのに。
一人で来るこの場所は、変にクリアに見えたのだった。草花の一つ一つや、木の皮の剥がれなんかが、くっきりと撮れた写真みたいだった。
だから、よく覚えている。
彼はいつも通り、なんでもない話をした。さっき見た蛙の話。鴨の話。草木や、時々花束を置きに来る人間のことも。
私は、できるだけいつも通りにしようと努めた。けれどやはり、違和感を感じてしまう。
会話が途切れると、陽炎がこちらを優しく、なにもかも分かっているという風にうかがっているのだった。
彼は、何かを分かっていて、何かを待っていた。何かが、私から齎されるのを。
ああ。
私は下を向いた。膝に、木漏れ日が揺れている。
今年の夏は、やけに静かで、厳かだった。
「…なんであなたは陽炎なの? 夏にしか会えないのは、寂しい」
そうつぶやく。いままでは、聞けなかった事だった。聞いちゃいけない気がしていた。
何故墓地の隅から動けないのか。何故陽炎みたいにそこに立っているのか。何故…
陽炎は青空を揺らめかせて、黙ってしまった。
そうするうちに、太陽が雲に、ヴェールのように隠された。彼が消えた。
私は、その間、木漏れ日の数を数えていた。
よくあることだった。何年も前から、その間はそうして過ごしていたのだった。
でもその時は、一人ではなかった。二人で、木漏れ日の形が、クジラや花びらに似ているなどと言い合っていたのだ。
彼がまた現れるまで、ずっと。結局会えたのは、次の日だったこともあった。そんなこともあった。
彼が、悲しげに姿を揺らしながら現れた。太陽とともに。
「僕も寂しい」
陽炎は言った。「僕が陽炎じゃなくて、例えば…木漏れ日だったらって。いつでも会いに来れるのになあって、ずっと考えているよ。夏以外の季節、ずっと」
夏の柔らかい、優しい大きな手が頬をなでるような、そんな風が吹いて、わたしたちを揺らした。
「ぼくのことを教えるよ」
私は彼を見た。彼も、私を見ている気がした。彼は小鳥が木から飛び立つまで黙って、懺悔するように、秘密を囁くように、どこか濡れた声で言った。
「あんまりはっきりとは覚えていないんだ。何せ、本当に、ずっとずっと前のことだから。僕はずっと昔、骨になって墓地に来たんだ。父と母と、まだ小さかった妹と、親友が、泣きながら僕にお別れを告げた。もうお墓は無いよ。本当に昔のことだから。そして、丁度その時から、僕はここに立ってるんだ」
私はしばらく黙り込んだ。彼も、私を優しく見つめながら口を閉じていた。
私は言った。「それから?」
話しながら、声がほんの少し上ずって、彼が微笑んだ気がした。
「それから…一瞬のような、とても長かったような時間が、目の前を通り過ぎるのを見ていたんだ。夕方、田舎の列車に乗ったことがある? ぼーっと、その遠くの景色を、一人で眺めているような、そんな気分だった。とても眠たかった。ずっと。
そして………そのうち、君たちに会った。君たちふたりは手をつないで、僕を茂みから恐る恐る見ていたんだ。今日みたいな日に、僕は君たちに見つけられた。長いかくれんぼが終わったような気分だった。…嬉しかったんだよ。
それからは、毎年毎年、君たちがまた訪ねて来るのを、心待ちにしてた。夏をずっと待っていた。」
気が付いたら、泣いていた。
膝の上に握ったこぶしが震えたのが、ぼやけて見える。
私は、立ち上がって、彼に背を向けて、少し小道を歩いた。こんな姿を彼に見られたくなかったのだ。
すると彼は、私の背にこう言った。
「ねえ。明日も会えるかな」
「…明日は、会えない。」
「ならいつかな」
もうずっと、とは、どうしても口に出せなかった。こんなのは本心ではないと、私はきっと、分かっていたのだ。
振り返ると、彼はまだゆらゆら揺れていた。ぼやけながら、滲みながら、消えそうになりながら、仄かな存在がそこに危うげに立っていた。
私は、堪らない気持ちになった。もう涙が抑えきれなかった。
言ってやるかと思っていた言葉が、彼を開放してしまう言葉が、溢れだした。せき止めることは出来なかった。
「おねえちゃんは」私は言った。さけんだ。
「おねえちゃんは、あなたを待ってた! ずっと待ってた!」
陽炎は、泣きじゃくる私を、もうずっとどこか分かっていたように、静かに見つめていた。
それに無性に腹が立って、悲しくて、やりきれなくて、どうしようもなかった。
もうどうしようもなかった。もう。
「そうだ。もう、どうしようもなかった。先生ももうだめって。でも最後にあなたに、会えなくたって、最期の言葉を交わせたら、それで、それだけでいいって。私に、伝言したんだ」
「………」
私は、陽炎をまっすぐ見た。彼も、ずっとわたしを見ていた。 まっすぐ過ぎて、でもそれでも、傷つくことを恐れないその心が、私は好きだった。ずっと昔から。何年も前から。
あの日おねえちゃんは言った。窓辺の木々を眺めながら、白いシーツの上で。柔らかな表情で。何もかもをを慈しむように、優しい声で。私も大好きだった、いつもの彼女のままで。
『あなたにあえてよかった。 あなたに会いたい。 それって、私だけかな』
…陽炎が、ふと、はげしく揺らめいた。青と草の緑が大きく歪んで、地平線が空と交わる。
照れながら微笑むおねえちゃんの姿が、その先に見えた気がした。
陽炎が言った。
「君が一人になってしまうよ」
悲痛な声だった。
この期に及んで、彼はとてもやさしかった。
私はつぶやいた。「馬鹿な奴」
そして私は、ワンピースをはたいて、膝を立てて立ち上がり、陽炎に向かって、今度は大声で、おねえちゃんにもきっと聞こえるように、叫んだ。
「わたしはもうかっこいい彼氏、いるから! 幸せにならなきゃもう墓参り来てやんないからな! ばーか! ばいばい!!!」
夏を待っていました。