殺儀礼

『殺儀礼』



 なんだかなぁと、僕は思う。
 三階建ての低い鉄筋コンクリートが寒空の下に建ち忍んでいた。仰ぎ見、寒さの入り込んできた首元のチャックを一番上まで閉める。それからようやくのように新たな地を踏みしめた。
 肩から提げている黒い鞄を持つ手に我知らず力がこもる。同色の量産型ジャージがわずかに立てる衣擦れの音をわずらわしく思いながら、冷たく汚れた階段を一段ずつ昇り詰めていく。賃貸の安い腐食アパートというのは通例として、どこも似たり寄ったりの雰囲気をまとっているらしい。自らの住処もちょうどこんなようなものだなと、僕は天井に張られた厚いクモの巣を流し見た。
 段差を上がり終えると、そこは二階である。上着のポケットから薄いメモ用紙を取り出し、四つに折りたたまれたそれを開いて目を落とす。書かれていた丸文字が伝える三桁の番号を確認すると、手近な扉から順に各部屋のナンバープレートを眺め始めた。やがて、最後の角部屋に同じ数字の並ぶ扉を発見する。怜悧(れいり)な鉄の前で立ちどまった僕は今一度左手の紙とプレートを交互に見やり、ひとりでに頷くとポケットへその手を突っ込んだ。再び冷気にさらした左手に今度は陳腐な銅鍵を持って、静かに穴へ挿入する。不必要なくらい落ち着きを保った指がつまんだそれを右へ回し、軽快な音が鳴った。開いてしまった。そう小さな戦慄(せんりつ)を覚えてから、恥知らずな恐れ心を振り払うようにかぶりを振る。違う。開いたのだ。ここまではまったく、想定どおり。
 一瞬だけ小刻みに定まらなくなった手を叱咤して、ドアの突起を掴む。と、その前に忘れてはいけない。この時のために買っていた皮のグローブを不器用にはめる。意識は至って平静だった。説明のつけられない震えを誤魔化すように勢いよくノブを捻って引いた。高い金属音。鳴いた扉が大口を開け、暖気が僕を包んだ。暖かいというよりも湿り気を帯びたそれは生ぬるく、不快である。口を結んで眉をしかめながらも卑屈な上目づかいで、そのなんともいえず複雑な表情で──玄関の正面に立てかけてあった姿見に映る自分があまりに奇矯(ききょう)で嫌になったところで、狭苦しい靴置きへ足を踏み出す。ただでさえ窮屈なスペースに転がされたブーツやサンダル。同じようなものがいくつも乱雑に。黒い運動靴でそれらを踏みつけながら、僕は土足のままに室内へ上がった。フローリングに砂利がつくが、そんなことに拘泥するつもりはない。鉄扉が自らの力で閉じきった音を背中で聞きながら、部屋の奥へ。
 息を詰めて、足の末端まで全神経を張り巡らせて、開け放されているダイニングを覗き込んだ。深緑色を基調とした、雑多な室内。黄緑のカーテンは閉められ、薄暗いその中央には白い丸机。その先に、イヤホンをして壁に体を預けている胡座をかいた女がいて。
 視線が交錯する。
 寝巻き姿の女が呆けて口を開いた。銅像ようなそれの茶色がかった両目だけが徐々に大きさを変えていく。やがて目尻から裂けるのでないかというほどに見開かれた中に小さな僕が映っているのを見つけた時。彼女はまるで大砲で撃たれたみたく跳ね上がった。耳から垂らしていたイヤホンを引きちぎるように外し、勢いづいて立とうとしたようだった。足から力が抜けた女は元のとおりしゃがみ込んでしまう。黒鞄から僕がおもむろに取り出した鉄パイプを見たからかどうか。ただ開いているだけだった口から、間違っても言語にはなりえない声が吐出する。『あ』でも『う』でもない鳴き声。滑稽(こっけい)なその様に、僕の意識はどこか空の彼方に飛んでいた。曖昧な夢でも見ているような気分だった。床を覆う薄い絨毯を一歩進む。黒い革手袋の手のひらに収まっている棒を構えた僕に、ようやく女はまともな言葉を発した。危うい足運びであるこちらに向けられたのはちょうど、なんなのあんたとかなにする気とかいうどもりにどもった文字の羅列。けれども今さらわめき立てるその喧騒はなんの意味ももたない。とうとう眼前まで迫った僕を見上げて、女はなお制止の声を上げる。
「ちょっと待って、待ってって待って待ッて!」
 なにごとか。そのすべてを正しく把握することはできない。
「ちょとちょっとちょっと──」
 僕はそれを振り上げた。
「ちょっと待てっつってんだろッ!」
「あ……はい、すみません」
 我に返って一応手をとめた僕が目を落とす女は肩を激しく上下させ、冷や汗だか脂汗だかの浮かぶ高揚した怒りの形相だった。 動揺しきった揺れる目の玉が、理解の及ばない現状を尋ねている。怒号を出したことで体の緊迫が解かれたのだろう。後方の壁を支えにして腰を上げた女がもつれながらもこちらを睨みつける。僕はなぜか目礼していた。先方としてもやはりそのあいさつは意味不明だったようで、は、と細い反問で切り捨てられた。
 退路のない八畳を僕と対峙するように、彼女は角まで壁を伝う。距離を縮めようとした僕に手近なファッション雑誌を投げつけて、あんた本当になんなのと叫んだ。そして、どうやって入ったんだというような意味合いの罵声も。
「僕は──」
 手に馴染まない鉄パイプを所作なくひと振りして、目線を床へ逃がした。
「この辺りで一番地味な県立大学で常に平均の成績をキープしてるただの大学生です」
 次に、もう使うことのないだろう安っぽい鍵を見せつけるように指にかけた。
「ルームシェアをしているんですね」
 その一言ですべてを悟ったのだろう。ふっくらとした丸顔に愕然とした色を浮かばせた女がうなだれる。そんな、嘘、とどこか焦点の合わない目を下へやって、すぐに上げた。そこにあったのは、如実な殺意。
「得は」
 怨嗟(えんさ)を押し殺した声音だった。凶器を握る僕などよりいくらも恐ろしいと認めないわけにいかない。
「なんで引き受けたの」
 やはり彼女は自らの置かれた立場を理解していた。僕の目的が強盗でもなく強姦でもなく、殺人の一点であること。人を使って殺させるほどに自分が他者から恨まれていること。分かっているからこそ彼女はこの異常な状況を腑に落とすことができているのだろう。そして、それに見合うだけの行いをしてきたことを自覚しているのだ。けれども理解に伴わない納得の不完全燃焼を解消するために、僕へ──もしくは自身のルームメイトへ怒りを表している。
 鬼のようなその険しい眼光に、僕は黙していた。黙したまま応えなかった。なにも懇切丁寧に経緯を説明してやる義理はないのだし。こちらに喋り出す気配がないと察したのだろう。白い肌の女は肉づきのよい体からふと力を抜いて、一つ荒い息を吐いた。張り詰めていた緊張の糸が緩んだようで、おかしなことに僕も安堵を覚えていた。本当に、おかしなことだった。これ以上停滞しているわけにはいかない。と、鉄の棒を握る手に無理矢理力を入れる。それを見抜いたように、女も体を突っ張らせた。だが先と違うのは、その丸顔に恐怖の引きつりが薄れていることだろうか。運命を受け入れたというには静謐(せいひつ)に欠けるが、そんなことは無問題。改めて右の足から彼女へ踏み込み、鉄パイプを掲げた。
「ていうか──」
 黒いセミロングの頭頂に狙いを定める。
「鉄パイプってどうなの」
 動きをとめた。正しくはとまった。まばたきをしたのだと思う。僕は。もしくはそれしかできなかったのだ。腕を不自然な形で固定したまま間の抜けた息を洩らした僕に、あのさぁと女。
「計画的に人殺そうっていうのに、しかも室内なのに、わざわざ鉄パイプ持参って。なにそれ」
 今さらなんだけどね、と鼻から息を抜いた。明らかな軽笑だった。僕は戦慄した。しょうがないだろう。しょうがないのだ。だってさほど準備もなかったから。いきなりだったから。だって上の空だったから。寝ぼけていたから。だってだって決めていなかったから。うまくできるか分からなかったから。だってだってだって。
「さっき、拾って……」
 最初から計画もなにもなくて。それなのに確かな殺意だけは弱々しく持続的に深く深くに凝り固まって。ふわふわと外に出てここまで歩いてくる道中。目についたものがこれだった。それだけ。
「さっき? 拾った?」
 鼻につくオウム返しをした女が半眼(はんがん)でこちらを睨めつつ、言いかけの続きを待っている。だが僕はこれ以上なにを返すという予定もない。結局、彼女が先に動いた。
「とにかく、それ下ろして。こんなところに持ち込むのおかしいしさ。下ろしてよ」
 激しく両手を上から下へと移すジェスチャーを繰り返すので、言われたままに腕を下げる。鉛のようだったそれがふと軽くなり、驚いた。こちらを純粋に見下げて軽蔑する彼女の目が痛む。
 なんだか嫌になってしまった。
 目前の彼女よりずいぶんと背の高い女と、その精悍面(せいかんづら)を思い出す。喫茶店のテーブルに滑らされた茶封筒を受け取って、その中に札の感触と鍵を見つけたので僕は。黙ってその場を立ち去った。地の底から響いたような女の頼み声はまだ鼓膜にへばりついているような気がした。
「で、聞いたの?」
 回顧が途切れる。大きな目でこちらを見る女に無言で尋ね返すと、先方は苛立って指を小刻みに動かした。
「あんたにこんなこと頼む理由、聞いたのかって」
 憮然(ぶぜん)としたこちらの立ち姿を否定だと捉えた女が肩をすくめる。
「頭、おかしいね」
 あんたもあの女も。と、立場をわきまえないことを言った。僕は自分が今、どんな顔をしているのかまったく知れなかった。ただ口の中はどうしようもなく苦かった。腰が抜けるくらい挑発的な態度に、戸惑う。なぜ非力な彼女にこの僕が縛られているのか。それを不思議に思ったのは、ストーブが灯油切れの高音を上げてすぐだった。働いていた箱型がくさい煙を出してとまる。壊れたように見えるが、平気だろうか。
 と、漫然(まんぜん)としていた頭が覚醒した。
 弾かれたようにしゃがんだ女が足元の携帯を拾い上げ、操作しだしたからである。一瞬ののち、僕は彼女に肉薄(にくはく)していた。鉄パイプをまたいで、そこで初めて凶器を手放していたことを知る。白い人差し指が画面に触れるか否かというところで服越しにその腕を引っ掴んだ。抜けそうな床が揺れ、女が顔を歪める。それでも容赦せず柔らかな手首を押さえた僕はその中の長方形を奪い取り、闇雲に床へ叩きつけた。落としたそれは絨毯に跳ね、音なくして倒れた。画面にはなんの変化も起きていない。通報のたぐいはされていないとみて、深く胸をなで下ろす。
「お前は死ぬべきだ」
 背面の壁に女を押しつけ、手に力を込める。そこで、もがく女の首筋が目に飛び込んできた。とっさにそこへ手をかけようとした僕の呼吸は停止した。出し抜けに、手中の女が無動になったのだ。逃れようと振るっていた全身、その視線さえこちらへ正対させて。息の詰まった僕を射た。
「窒息はないなぁ……」
 一言、苦い顔で吐く。どことなく余裕のある口調が畳みかけた。
「ないない。だって絶対苦しいじゃん」
 次いで、完全に鼻白んだ僕の手から自らの腕をひったくった女は自由になったそれでもってこちらを牽制した。
 強く突き飛ばされた体がわずかに彼女から離れる。
「そんなこと言ったらなんだってそうだろうけどね。人間、楽になんて死ねないよね」
 まるで他人事のようだった。なんだか現実離れした女の調子に、どこか遠くでそれを聞いているようだった。多くの場合、人が人を殺す時。その苦痛を考慮することはしない。あるとすれば、よほど憎い相手をどう苦しめようかと知恵を絞るくらいか。でさ、とひと呼吸置いた彼女が目つきを変える。
「──あんたは人を殺せるくらいご立派なわけ?」
 まるで別人のように錯覚する。まとっていた怠惰な雰囲気が消え去って、あったのは酷薄(こくはく)ともいうべき嫌な表情だった。こちらへの明確な糾弾(きゅうだん)
 そんなことは間違っても思っていない。人を殺してもいい人間などいない。死んだって殺されたって当然だというべき人間ならばいるだろう。あまりに業深く、罰されるべき人間というのはいるだろう。殺されるべき人間はいるのに殺すことを許される人間がいないというこの矛盾は片腹が痛いと思う。
 僕はきっと死ぬべき人間だ。持論に則って考察すると、おそらく僕は生きてるんだか死んでるんだかよく分からない存在で。人を救った記憶はないから人に害をなすことしかしてこなかったのだろう。なによりもその自己評価を繰り返すことから逃れられないという目を背けがたい事実が悲しくて。それだけできっと死ぬべき人間の条件は満たしていて。でもだからこそ、こうしたっていいではないか。もがいてみたって、求めてみたって、いいではないか。変わることを、行き着くことを望んだっていいではないか。だからつまり僕は自分が今どれだけのことをやろうとしているのか、その認識はあるのだ。たとえそれが非常に薄いものだとしても──もっとも自らははっきりと承知しているつもりだが。この行いについて。
「汚い」
 問答を勝手に完結させた女が薄く笑っていた。
「そんなにお金がほしかったんだ」
 たまらず、僕は首を振る。拳を握る。それだけは違う。違う。違うのだ。
「……人を、殺したくて」
 そのためにはお金も感謝もいらなくて。ただ口実がほしかっただけなのだ。殺してほしいと依頼された形をとったと自分に言い聞かせることで、後ろ盾を手に入れたつもりになりたかっただけなのだ。
 初めて頑とした否定を示した僕に、女は嫌らしい笑みを消した。正気じゃないと言われた。呟いた女に身の上を非難される筋合いはない。この女こそ、正気ではないのだ。この女は長らく寝食をともにしてきた友人を裏切ったのだ。こちらを一刀両断するかのような、あの小さな黒目が脳裏に映った。
 あいつは悪魔だと言っていた。
 人間ではない汚物だと。女の独白を聞けば僕もなまじ同じ意見を持った。正気じゃない。ああして僕の殺人を誘発した女だって正気じゃない。僕も正気じゃないのできっと、みんなそうなのだ。その程度に齟齬(そご)はあれど、一律にみんな正気じゃない。正気な人など人じゃない。
「いいよ」
 短く。女がふと爽やかな面影を見せた。すぐに自嘲じみた笑みに変わったそれを、僕は不気味だとしか思わなかった。
「なにが」
 感情のない質問に、女はなに言ってるんだと眉をひそめる。反射的に聞いてしまったけれども、頭では心得ていた。
「その代わり──」
 彼女が一体"なに"を受け入れたのか。
「ちゃんと殺してよね」
 ぞっとした。こちらの表情を注視しながらの一言に腕をさすると、鳥肌が立っていた。至極安易に、呆気なく、異常を飲み込んだ彼女に。僕はまばたきさえ忘れた。
 暴れたせいで乱れた首元から肩にかけて寝巻きが下がり、肉の食い込んでいる(ひも)が露出している。僕は踵を返すと、ダイニングルームから見渡せるキッチンへ向かった。無造作に収納してあった包丁を抜き取り、つま先から再び転回。なんの変哲もない出刃包丁を固く握って舞い戻り、それを女の喉元へ突きつけた。真正面から、一つ突けば赤いものが飛び散るくらいの位置。黒い柄を両手で持ち直した僕へ、彼女が口を尖らせる。
「どう思ってるの?」
 小さく反問した。どこか拗ねたように、女。
「殺すっていうのは、そんな簡単にしちゃいけないでしょう? 相手に対して紳士な態度で臨まなきゃ」
 そんなものか。なにを言い出したのかこの女はと思うよりも先に、僕は包丁の持つ手をどけた。確かに、生物を殺生することはそう軽々しい行為ではなく。ましてや人の命を奪うにあたり、罪深くないわけがないのだ。
「駄目だよ?」
 子どもでも叱るみたいに、女がこちらの刃物を奪い取った。
「今のままじゃ、あんたに殺されることができないね。だって、駄目すぎる。自分本位すぎる。もっと礼儀をもってよ」
 つい相づちを打ってから、いやいやと苦笑した。なんだか雲行きが怪しくなったではないか。それも突然に。あとこれねと、女が凶器をもてあそぶ。
「刺されるのは嫌だから、これなし」
 まるでボツ案でも扱うように包丁を机上へ滑らせる。どうやら『なし』になったらしい。なぜ僕は主導権を握られているのだろうと無表情のままに思案してみたりするのだが、女は自分の主張など当然だと言わんばかりの真顔を貫いていた。
「あんたは殺す人で、私が殺される人でしょ。殺す人が殺される人に合わせてくれるのって、普通のことだと思うけど」
 文句の一つもふっかけていないのに、言いわけじみた意味の分からない主張を持ち出される。その上彼女はどうやら、一般論としてそれを押しつけているようなのだ。がめつい女は困りものであるが。
「これから死ぬ人になんの権利があるっていうんです」
「そんなの考えれば分かるでしょう」
 女の切り返しは早かった。
「このご時世、死人にだって人権があるんだから。死に方くらい選ばせてよ」
 なるほどそうか。
「じゃあ風呂に水はって沈めましょうか」
 次の提案に、苦い顔をした女が首を振る。
「苦しいから無理。ほかは?」
 中々に強情な奴である。
 痛い苦しいから嫌だと言われても。先ほど楽に死ぬことの難しさを説いておきながら、自分だけはなんの苦痛も寂寥(せきりょう)もなく死にたいと望むか。なんて女だ。この膠着(こうちゃく)を打破する術を探して視線を泳がせていた僕はやはり、机の上でそれをとめた。
「やっぱり、これを使いましょう。刺すのではなく、切ればいいんですよ。頸動脈なら楽に死ねると聞いたことがあります」
 グローブのサイズが合わないためか締めつけられて動かしにくい手でもって、包丁を拾った。だが女は、最早お決まりのようなしかめ面。
「血は流れないほうが好みなんだけど」
「それはまた、ずいぶんと限られてきますね」
 反発のつもりで返し、顎に手を当てる。それでも彼女は僕の苦労心になど無頓着だった。ひとまず先方の要望を総括してみると、こういうことになる。痛苦なく誠意をもって紳士的に一滴の血も流さずに殺せ。
 ならば石造りの階段から突き落としてみようか。当たりどころ次第では血を見ることなく死に至れるだろう。だがしかし人を突き飛ばす行いが紳士的かと言われれば閉口するしかないし、場合によっては全身の複雑骨折で全治数ヶ月という厄介な結果を引き起こしかねない。発言したとしても、どうやら転落は駄案になりそうだ。
「じゃあ……」
 口内で言葉をまとめ、僕は腕を組む。
「睡眠薬の多量摂取なんてどうでしょう。これなら血も苦しみもないはずです」
「それ自殺じゃん」
 ぶった切られた。ただの自殺でしょうがと二度繰り返され、どうしても彼女の居丈高(いたけだか)は鼻持ちならない。腹の内だけで溶岩を精製して、結局表立ってはなんの反応を起こすこともしない僕だが。そうですかと一言置いて、再び黙考する。いやはや、どうしてこんなことになったのだろう。
 残量の少ない知恵を絞って絞って、またしても別案を提示する。
「氷山にでも行きましょうか。眠るように死ねると言いますし、死後もきっときれいなままでいられますよ」
 氷づけになればねと初めて小さく微笑してみせた僕に、女は否定的だった。
「もっと現実的な話をしよう」
 しかもそれ自然に死ぬんだから殺人じゃないしねとトドメを刺された。僕は辛抱しきれぬ人間だった。
「なんなんですかわがまま言うのもいい加減にしてくださいよ。痛いのは嫌だのきれいに死にたいだの、どうせ死にたくないんでしょう。死ぬのが怖いから、ああだこうだいちゃもんつけて最期を先延ばしにしてんでしょう」
 核心を突いたつもりだった。おそらくはきっと絶対に、彼女はそういう見苦しい人間であると決めつけていた。それにしては見上げた鷹揚(おうよう)傲慢(ごうまん)だが、それがこの女の本質なのだろうと判断した。あくまで抑えた調子の僕へ、ふと女は吹き出した。そこまで面白くもないジョークにくだらなさの点でこみ上げた笑いのようだった。
「こっちの台詞だよ」
 決して嫌味な響きなく、失礼ながら笑ってしまったというような風情の女が、口元を指でかばう。なにがおかしいのか、なにを言われたのかが分からず当惑した僕に、女。
「本当に怖がってるのはあんたのほうだって言ってんの」
 それはこちらへのあてつけでも報復でもなかった。単なる彼女の正直だと知った僕の頭は混濁していた。女が死ぬのを恐れてこちらへ無理難題を押しつけているのは分かる。けれどもこの僕がどうして、そんなまさか。なにを恐れることがあるというのか。
「本当に人を殺す勇気もないくせに」
 聞き、硬直する。確かに血の巡っていた腕が、脚が、顔が、まったく生気をなくした。きっと能面のような表情ともいえないものを僕は、彼女の前にさらしているに違いなかった。僕が、と疑問を乗せた呟きを吐く。かろうじて体裁を整えようとする焦りだけはあった。それが功を奏してようやく口が回るようになる。
「それはない。だって僕は人を殺したくて。どこかに落ち着きたくて。本当に、そうなんだ」
 自分でも要領を得ない、薄っぺらいことをほざいていると思う。だが自身でさえどうしても説明のつけようがないこの感情は、たとえ一糸まとわずなんの迂遠もなく伝えられたとしても人からの理解を拒むだろうと思われて。自らさえ把握に及ばない自体を、初対面の女がどう掬い上げてくれるだろうか。見つめた先の女が、呆れて身をすくめた。
「殺すのに相手の許可とか指示とか。いるわけないじゃん」
 いきり立つ。お前が言い出したんじゃないかと食いかかる。が、女は飄然(ひょうぜん)としていた。
「うやむやにしようって魂胆だったんだろう。そうやってどうせ命乞いをするつもりなんだろう。そんなに死ぬのが怖いのか」
 荒くなった口調は戻さなかった。
「親しい人を裏切っておいて、一度死ぬと言っておいて、なんて面の皮の厚い奴だ。吐き気がするね。だって本当にあんたは──」
「死にたくないよ」
 敢然(かんぜん)として冷えた声。さえぎられた僕は口をつぐんだ。正義のヒーローのような悪しき魔王のような大男のような乙女のような目が、茶色の玉が僕を映していた。
「私は、死にたくないよ」
 ここへ来て初めて聞いた言葉だった。
 それがあまりに純粋で儚い色をもっていることが僕の意識を打破して、まさしく僕は目を白黒させた。人をああも狂わせておいて。実際命を狙われておいて。それでもまだ、生きたいと断言した。彼女はまくし立てる。死にたいはずないでしょう。生きたくないわけないでしょう。私はまだなにもしてない。人生になにも残してない。こんな状態で死ねるもんですか。死んでたまるもんですか。人を殺したいなら一人で死んでろ。
 僕は己というものを失いかけた。
 僕は置いてきぼりを食らった子どものように佇んだ。
 怖い顔をしている女が僕へ近づき、包丁の握られている腕をとった。人を刺したいんでしょう。切りたいんでしょう。そう叫んだ女が腕を操り、僕の喉へ刃先を押し当てる。意想外な行動に対応の遅れた僕は慌てて腕に力を入れ、彼女の体ごとそれを退けた。その素っ頓狂な声を上げてしまったことが空恥(そらは)ずかしく、怒りに替わったそれが女へ向く。なにをするんだと激怒した僕にも、彼女は奇妙に平静だった。
「人に迷惑をかけるんじゃないよ」
 残酷な響きを投げつけられた。
 そのとおりだった。思えば僕はずっとずっと、きっと人に迷惑をかけて生きてきた人間だった。女の叱責が鋭くって。心が経験したこともないくらいに痛くって。
 気がついたら僕は謝っていた。
 その行動に出るという以外に、僕には一つの選択肢もなかったのだ。少なくとも僕は一種の恐怖に突き動かされて、強制的に低頭させられたのだ。女は笑声を吐いた。今や自身に対する少しの畏怖もなくなったことに気がついた僕は嫌になってしまった。なにもかも、一笑に付すべきものごとのように思えてならなかった。それがたまらなく痛切だった。
「帰りなよ」
 そしてもう一つ、いたく重大なことを悟る。
 おそらく僕はこの女を殺せない。
 ならばここにいることになんの意味があるのか。
 前方など目に入らないように顔を伏せて、僕は部屋から立ち去った。
 このあと待ち合わせている女にどう謝ればよいだろうかと。加えてそのあと自らにどう収拾をつけようかと。
 偏狭な玄関から凍てつく外へ出て、僕はその二つを考えないわけにいかなかったのだ。

殺儀礼

殺儀礼

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted