真夜中の深海ルーム

 駅に向かう途中、最終電車とすれちがった、先輩の、顔が、なんだか嬉しそうで、ぼくは、もしかしたらこのあと、先輩と、あの場所に行くのかもしれない、と思っていた。
 真珠貝のベッドがある。
 くらげのランプも。
 あの場所は、そういう場所であることを、ぼくは知っているけれど、でも、先輩は、あの場所に相応しい行為を、望んでいるわけではないようで、ふたり、ただ朝まで静かに、眠っている。あそこの、冷蔵庫のなかに常備してある、ミネラルウォーターはいつも、つめたい。ネットカフェも、カラオケも、ファミレスもない、駅の近くに、あやしい占い屋さんと、さびれた喫茶店と、お城のような外観の、あの場所だけがあって、この町のひとびとの幾人かも、おそらく、あの、真珠貝のベッドで眠ったことが、あるのかもしれない、いや、あるだろう、と想像しているあいだにも、ぼくは、先輩に手をひかれ、歩いている。
 アルコールのせいか、先輩の手は、真夏の炎天下にさらされた、ペットボトルのように、あついし、ぼくの世界は次第に、ぐわんぐわんと揺れて、不安定になってゆく。ハイボールを二杯、飲んだだけなのだけれど。先輩にいたっては、ビールから始まり、焼酎、ワイン、カクテルと、多種をまんべんなく飲んだ上、しかし、足取りは、しっかりしているようにも見える。街灯のあかりは頼りなく、昼間もシャッターのおりている店がほとんどの小さな商店街を、ふたり、無言で歩き進んでゆく。商店街を抜けると、例のあやしい占い屋さんがあり、そのとなりに、お城のような外観のあの建物が、ひっそりとたたずんでいる。真珠貝のベッドと、くらげのランプがある部屋は、深海、と呼ばれており、三階フロアのすべてが、その部屋となっている。海のなかにいるみたいだからと、酷く安直な、けれど、先輩らしい理由で、迷わず三階を選ぶ。三階は、いつ来ても、だいたい、ほとんど、空いているのだった。きっと、人気がないのだ。真珠貝のベッドのシーツは、どぎついピンク色であるし、くらげのランプのランプシェードも、すりガラスの不透明な感じが、ぼく的にはいまいちであった。壁に描かれた、なまえもわからない魚が、ちょっと気味悪い。

「しないのですか」

 そういうことを、するための場所であるのは明確なのだから、先輩が遠慮しているのかと思って一度、たずねたことがある。
 先輩と、ぼくが、そういう関係であるかと他人に問われれば、否定は、いくらでもできる。実際に、そういうことをする間柄ではないが、でも、もしそういうことになったときに、できないかを想像すれば、それは安易に、意外とすんなりと、しっくり、できる、という方向に思考は傾いてゆく。ふしぎだ。自分のはかりしれないところで、先輩に対する何らかの情が、作用しているのか。
 恋とか、愛とか、二十一年生きていても、まだよくわかっていないし、これからも、もしかしたら、わからないような気がしている。
 先輩から、ぼくに向けられる、それだとか。
 ぼくが、先輩に抱いている、あれだとか。
「しないよ」
と言って、微笑んだ先輩は、嘘をついているように見えたし、本心であるようにも思えた。たばこの煙を吐いた、先輩の顔が、白く霞んだ一瞬、歪んでいたはずの口が、真一文字になったようにも見えたが、そのときお酒を飲んでいたせいか、記憶としては曖昧である。
 突き詰めても、先輩は、きっと、するりとかわして、逃げるのだろう。
 これからも、ぼくが、先輩の本音を、ほんとうの先輩を、素顔を知ることは、ないのかもしれない。何にしても、ぼくよりも先輩の方が、うわてで、おとなで、ややこしい。それが、ぼくには少しだけ、さびしい。
 いまは、少しだけ。

真夜中の深海ルーム

真夜中の深海ルーム

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-21

CC BY-NC-ND
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