八月某日、木曜日。
 真夏の太陽は無慈悲だ。朝からなにも容赦無く、すべてのものを照り、焼き焦がす。汗でずぶ濡れのシャツが躰にへばりつく。最早こんなものは服ではない。不快で汚らしいだけの唯の異物だ。生命の滴がボタボタと、磨き上げられた鏡面のように光る地面に吸い込まれていく。一滴、また一滴。ボタ、ボタ、と落ちていく。生命が躰から墜ちていく。墨汁に浸したかのような真っ黒な影は鏡に閉じ込められたおのれ自身だ。確かにそこにいる。どうもがいても、どうあがいても決して抜け出すことは出来ない。無様な踊りを晒す哀れな道化だ。道化は槍を繰り出し、私はシャベルを地面に突き立てる。無力を象徴する金属音が響き、シャベルは拉げた泣き面を私に向けた。生命を削り繰り出す、渾身の一突きをはじく何物かの正体は、白くて丸い大きな石だ。ゴロゴロと無数に埋まっている。人間の頭骨を思わせるそれらは私を見上げ嘲笑う。だが、抱く殺意に行き場は無い。ここには今日、辿り着いた。だが知っている。ここは強い者がのし歩く弱肉強食の世界だ。力の無い者は強い者に従うしか生き永らえる術は無い。強い者は巨大な機械を操り、縦横無尽に駆けめぐる。さらに強い者は自分の腰に手をあて、無慈悲に弱い者へ指図する。 
 周囲を見渡すたびに、おのれの無力さを知り絶望する。

 八月某日、金曜日。
 灰色の空が不気味にうごめく。道化はいっこうに姿を見せず、ひとりぼっちの私は喪失感に打ちひしがれる。その私に空は水の銃弾を降り注いだ。いい加減にしてくれ。私が何をしたというのだ? 恨みつらみを空に向かって訴えると、怒れる空は電光の鉄槌を私に下した。私はひれ伏し、モゴモゴと、口の中で呪いの言葉を吐く。降り止まぬ雨は、決して鉄面皮を崩さなかった地面を降伏へと追い込み、その脆弱な本性を暴いた。もうやめてくれ。ついに地面は、だらしなく涙を流し始めた。そこへ私はシャベルを突き立てる。歯が立たなかった私の一突き一突きは、まるで嘘のように土中へと吸い込まれる。どうだ、ざまあみろ。どうだ、どうだ! すぐに例の石どもが現れるが、それも容易に克服した。石の脇に、シャベルを捻じ込み抉る。抉られ、引き摺り出されると、頭骨どもは多様なる憤怒の表情をみせる。が、変わらず強く降る雨に洗われ、次第に元の石へと還っていく。それを見る私は拭えぬ嫉妬の念に駆られた。そして、空に向かい訴えかける。私の邪念も洗い流してくれ。ほら、どうした。すべて洗い流してくれ! 
 心中でいくら叫んでも、何かが変わることは無かった。

 八月某日、土曜日。
 地獄の責め苦を逃れ夜の街を彷徨う。その店は開いていた。煉獄の扉を開けると救済の鐘の音が鳴り響く。あら、いらっしゃい。よく来れたじゃない。今日は払えるの? 払えないなら、もう飲ませないわよ。増女の面を貌に貼り付け、微動だにしない視線が私を刺す。紫煙をくゆらせ、氷の笑みを口許に浮かべながら。この女は私の転落を知っている。私の堕落を知っている。しかし、だからこそここへと来るのだ。お前はそうとは知らないだろう。いや、知っているのか? 知っているのだな。嘲笑うために許すのだな。ならば飲ませてくれ。早く飲ませてほしい。今宵はすべてを忘れたい。すべてを融かして、琥珀色に染めたい。琥珀色の海に溺れ、おのれを消し去りたい。震える手でグラスを掴み、一気に中の液体を煽る。煽る。さあ、来た。来たぞ。痺れる。全身が痺れていく。もうすぐだ。もうすぐ琥珀の液体に反応した内なる残り火が、煉獄の炎と同化し、惨めなおのれを消し去ってくれる。煽る。手の震えは止んだ。煽る。なにやら可笑しくなって来た。煽る。おかしい。煽る。おかしい……。ドンドンと頭がさえてくる。煽り続ける。煽る、煽る、煽る……。
 いい加減にして! カウンターの向こうにいる増女が、般若となり、私の手からグラスを引っ手繰った。本当に駄目になったねえ……もう帰りな。

 八月某日、日曜日。
 私は女を欲した。私の相手をしてくれる女は、もう、ひとりしかいない。鼓動を昂ぶらせ、女の棲み処へと向かう。ポツンとした灯りを認めると、掻き立てられる欲情が奔りだす。気づくと、もうドアの前に立っていた。貌を覗かせた女の眼を直視することが出来ない。呆けたようにして立ち尽くす。激情を押し殺して女の機嫌をうかがった。上がれば? すべてを見透かす女は、意味深な視線を投げかけ、無防備な背を私に晒した。女の腰から眼を離すことが出来ない。躰のうちから狂気が、私そのものが怒張となり、奔流となり、眼の前の女へと向かった。もどかしくも女をベッドへ寝かし、躰中をまさぐる。乳房を揉みしだき、舌を吸う。下着を剝ぎ、股を押し広げる。女そのものに舌の根を押し付け、なぞりあげる。私は生きている。そのことを実感しながら抱いた。人生とは何なのか。人間とは? 男とは? 女とは? 女については、解することが唯ひとつだけある。それは躰を探れば解る。女とはいわば海だ。生命そのものだ。男など、女という海を泳ぐ魚に過ぎない。海から海へと、生命を伝える伝達者に過ぎない。
 シャベルを土中へ突き立てるように強く腰を打ちつけながら、私はそんなことを考えていた。

 八月某日、月曜日。
 今日も太陽は無慈悲に私を焼き焦がす。無慈悲な太陽の下に男は現れ、無慈悲に指図をする。私はあの男を知っている。あれは、いつ頃だったろう。あまりに遠く、あまりに儚い。男は私の部下だった。学生あがりで初々しく、礼儀の正しい、若者特有の根拠の薄い自信を持った、どこにでもいるひとりの男だった。仕事を教え、ときに叱り、飯を食い、酒を酌み交わした。男は私に気づいているのだろうか? いや、気づかないのだろう。私を見る眼は余りに冷たく、蔑みを隠さなかった。それはそうだろう。私自身、鏡におのれを映すたびに思う。おまえはいったい誰だ? それでも男からは眼をそむけ、いつものようにシャベルを振るっていると、男が私に近づいてきた。
 ──さん、ひさしぶり。生きてたんだ?
 嘲り嗤いながら男は言った。それはいったい、何という仕打ちだろうか。汚辱の日々に恥辱が折り重なったのだ。全身から血の気が引き、私は急激なめまいに襲われた。昨晩、せっかくひとりの女のおかげで少しだけおのれを取り戻せたというのに。また、よこしまな悪夢がはじまってしまう。いつまで、こんなことが続くのだろう。今日は月曜だ。一週間、一か月、二か月、三か月、半年、一年、二年、三年。すでに十年という年月が過ぎてしまった。いつまでも、どこまでもつづく負の連鎖。そう、鎖だ。私は断ち切れない鎖に囚われているのだ──。
 ノロノロと、私はゆっくりと立ち上がった。空を見上げると、遠くの方に真っ黒な雲が近づいてくるのが見えた。

 八月某日、月曜日。同日。

 午後、雨が強く降りはじめていたが、この工事現場の責任者である現場監督は基礎工事の掘削を、来週からおこなう予定の鉄筋組立工事を遅らせない為に進ませていた。そして、ちょうど下見に来ていた鉄筋工事業者と現場事務所で打ち合わせをしていた。
「監督、来てくれ! すぐに!」
 そこへ、土工事を請け負う業者の若い衆が息を切らせて飛び込んできた。
「どうした?」
「ウチに派遣で来てる人足がショベルカーの前に飛び込んだんだよ! あれは、もう駄目だ!」
「なにっ?」
 現場監督は、事務所から慌てて飛び出し、二百メートルほど向こうにいるショベルカーや十トンダンプ、作業員達を見やった。作業員達は誰かが倒れこんでいる一点を囲んでいる。そこへ向けて、彼は走り出した。
(派遣の人足? 何人いる? どいつだ? まさか……あのひとか?)
 途中、ぬかるみに足をとられて転び、作業着が泥まみれになったが、そんなことを気にしている場合ではない。ふと、ヘルメットを被っていないことに気づいた。
(なにをしてくれるんだよ? 工事がストップしちまうじゃねえか。くそっ!)
 実際のところ、工事は継続出来ないだろう。それにも増して、これから対処しなければならない出来事や問題を考えると、彼は周囲の景色が段々と、ほの暗く変化していくのを感じた。 
 そして同時に、心の内には、闇という名の鎖が、獲物を狙う猛禽の用心深さでジワリとあたまをもたげたのだが、それに気づくことはなかった。

(了)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2019-07-19

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